12月28日(日)

今年も早いものでもう年の瀬。毎年恒例の10大ニュースで、2014年を振り返ってみたい。

1.旅行
なんと言っても、今年の旅行のメインイベントは、11月にイタリア合気会50周年で、家内とローマへと旅したことである。
フィンランド航空を利用して、ヘルシンキ経由でローマへ。ローマのフィウミチーノ空港からは電車でテルミニ駅へ。投宿先のホテルは駅のすぐ近くだったので、迷うことなくホテルへ。到着したのは夜の8時過ぎ。食事がまだだったので、ホテル近くのリストランテへ。ローマでの初めての食事だった。
11月1日は、イタリア合気会50周年の会場であるローマ見本市へ。山田師範を始め、北総合気会の面々とバスで移動。多田師範の講習や演武会を含め、稽古がすべて終了したのは夜の9時。何と11時間にも及ぶ合気道三昧の初日であった。
翌日は、さすがに同行した家内も合気道を見ているだけでは過ごせないということもあり、講習会はお休みして二人でローマ市内観光へ。スリには十分注意と日本を発つ前から言われていたので、あれこれ対策を講じて、まずはローマ・パス(3日間有効のバス・地下鉄乗り放題、遺跡または美術館2箇所無料のパス)を手に入れ、地下鉄に乗り込んでまずはサン・ピエトロ大聖堂へ。
ちょうど日曜日ということもあって、入口には既に大勢の人が並んでいた。セキュリティゲートを通って、クーポラを目指す。途中まではエレベーターがあるのだが、最後は急な斜めの階段をひたすら登る。途中、ミサの歌声が聞こえてきた。荘厳な気持ちになった。ようやく辿り着いたクーポラからの眺めは、それまで疲れを吹き飛ばしてくれた。
サン・ピエトロ大聖堂からナヴォーナ広場へ。、途中昼食を挟んで、パンテオンからトッレ・アルジェンティーナ広場へ、さらにはヴェネツィア広場からカンピドーリオへ。ここの高台からは、フォロ・ロマーノが一望の下に見渡せる。さらには、有名なコロッセオへ。残念ながらコロッセオは見学時間が過ぎていて、入場することは叶わなかった。
この日の夜は、イタリア合気会主催の晩餐会。会場は、「ローマの休日」でアン王女の宿舎として撮影されたブランカッチョ宮殿。夜12時を回っても宴会は延々と続いたのであった。
11月3日は、内田先生たち甲南合気会の面々に同行させていただき、アッシジ巡礼へ。バスで2時間ほどの旅であったが、途中で昼食を食べた城塞都市のスペッロといい、アッシジの聖フランチェスコ大聖堂といい、そのあまりの美しさに何度も声を失った。
11月4日は、ローマ市内観光の2日目。地下鉄でポポロ広場へと出向き、そこからピンチョの丘へ登り、スペイン広場へと降りて、工事中のトレビの泉を通って、再びフォロ・ロマーノへ。ローマ・パスでフォロ・ロマーノを散策して、コロッセオへ。とにかく興奮して疲れを忘れるほどであった。
11月5日は日本へ帰る日である。支度を整えてフィウミチーノ空港へ。あっという間のイタリア滞在であった。ぜひまた来たいと思った。生涯忘れ得ぬ旅行となった。日本に帰ってから、ジェット・ラグの影響か、じっとしてるとすぐに眠くなって困った。

2.新任地への転勤
定年まであと3年ということで、できるだけ心静かに過ごせる学校へ転勤したいと願っての転勤先は、前任校とは湖を隔てた反対側の学校であった。予想に違わず、よい子たちばかりの学校であった。
部活動は、男女の副顧問ということで、10年ぶりに女子ソフトテニス部も教えたが、元気のよい、やる気のある生徒たちに刺激されて、つい夏の大会までせっせとテニスコートへ足を運ぶことになった。
夏の大会では、男子は団体で東海大会まで、女子も1ペアが個人戦で第3シードを破る健闘を見せてくれた。いつまでも記憶に残るすばらしい試合であった。

3.インバル、都響のマーラー
足掛け3年に渡ったインバル・都響のマーラー・ツィクルスもついに7月の10番で完結した。
3月の8番と9番もよかったが、最後の10番は、特に指揮者・楽団員の思いがこもった名演であった。
これからしばらくは、サントリー・ホールへも、横浜のみなとみらいホールへも行くことはないのかと思うと、なんだかひどく寂しい気がする。

4.読書
今年の読んだ本は67冊。そのうちのベスト3は以下の3冊。
①『ひと皿の記憶』(四方田犬彦、ちくま文庫)世界には知らない食べ物がいっぱいあるということを知った。
②『新・幸福論』(内山節、新潮選書)私たちはどういう時代に生きているのか、これからどう生きていけばいいのかという示唆を与えられた。
③『海のふた』(よしもとばなな、中公文庫)この小説を読んで、どうしても西伊豆土肥へ行きたくなった。

5.映画
今年見た映画のベストワンは、「世界の果ての通学路」。学ぶとはどういうことなのか、大人よりも、いま学校で学んでいるすべての子どもたちに見てほしい映画であった。

6.合気道
今年は、北総合気会が創立30周年であった。千葉へと出向き、講習会と演武会に来られる方々のお世話をした。外国からの参加者がたいへんに多くてびっくりした。
帰る前に成田山新勝寺にお参り。たいへんに大きなお寺さんであった。

7.Macの新しいシステムとiPhone6
10月、Macが新しいOSであるYosemiteにアップデートされた。ちょっと重たい感じだ。
iPhone6は、何とかローマ行きに間に合わせることができた。少し大きくなったが、その分薄くなって何よりサクサク動いていい感じである。

8.同窓会
11月、今年は大学卒業後25年・35年・50年の卒業生が招待ということで、久しぶりに大学の門をくぐった。35年ぶりに会うクラブ同級生もいて、思い出話に花が咲いた。これから毎年やろうということで話がまとまった。

9.訃報
9月、同級生の突然の訃報に接した。忌憚なく話ができる数少ない友人の一人であった。悲しみに打ちひしがれた。

10.K.G.ファイターズ
今年も母校のアメリカンフットボール部の応援に駆けつけた。
11月は関西学生リーグ最終戦の立命戦へ。昨年のスコアレスドローを払拭するかのような、スピーディーなノーハドル・オフェンスがすばらしかった。
12月は甲子園ボウルへ。4連覇のかかった試合だったが、パワーで日大を圧倒して見事4連覇を果たした。それにしても、今年のK.G.ファイターズは「強い」という印象であった。年明けのライスボウルが楽しみである。


それでは、みなさまよいお年をお迎えください。
来年もどうぞよろしくお願いいたします。

8月3日(日)

エピソード3「初めての夏休みと定期演奏会」

7月に入ると同時に、大学は夏休みに入った。
仄聞するに、今は7月の終わりに前期試験を行う大学がほとんどらしい。自分たちの時代は、前期試験は9月終わりに実施していた。9月の中旬から後期が始まるので、それまでが夏休みだったのである。
「大学って、何ていいところなのだろう!」高校時代までの夏休みのことを思うと、大学はまるで天国のように感じられた。

しかし、そんなのんびりとした雰囲気に浸っている暇はなかった。定期演奏会が迫っていたのである。
第14回定期演奏会は、昭和50年7月11日(金)18:30より、大阪フェスティバルホールにて開催の予定であった。
大阪フェスティバルホールのことは、大学に入る前からその名称くらいは知っていた。かの大阪万博に合わせて、手勢のクリーブランド管弦楽団を率いて来日したジョージ・セルが、空前絶後の名演を残したと聞いていたのが、この大阪フェスティバルホールだった。
そのフェスティバルホールの舞台に立てるのである!いきおい、練習に熱が入るのは至極当然な成り行きなのであった。

当時でも、大阪フェスティバルホールを借りるのにはひどくお金がかかった。そのお金を工面するために、部員全員でバイト演奏などを行っていた。どこかの商店街のオープニングセールとか、会社の運動会のパレードなどに借り出されて、部員個人には無報酬で演奏を行ったりしたのである。これが結構しんどかった。
また、部員にはチケット販売のノルマがあり、これが地元に知人が少ない下宿生には、なかなかの負担であった。ほとんどは、売り切ることができないままに、残った分を自分で支払っていたのである。
夏休みに入る前には、下級生が当番制で学生会館前にチケット販売用の「出店」を出したりもしたが、はかばかしい売れ行きではなかったと記憶している。
そんな思いをしての大阪フェスティバルホールでの定期演奏会だったのである。

既に、6月の20日過ぎからは、練習は毎日夜の9時までに延長されていた。夕方までパート練習や金管・木管に分かれてのセクション別練習などを行い、夕食を食べてから9時まで合奏を行うのである。
当時の吹奏楽部の練習場は、学生会館屋上に設えられた509号室にて行われていた。たぶん、毎回利用申請等を出していたのだろうが、この部屋は吹奏楽部専用の練習場となっていた。残響のほとんどない部屋で、ある意味では自分の下手さ加減がはっきりと音に現れてしまうような場所であった。今になって思えば、この残響のない練習場で合奏していたことが、関学吹奏楽部を名門たらしめた大きな要因だったのかもしれない。

定期演奏会前直前には、合宿が組まれた。普段は、体育会に所属する部しか利用できない「スポーツセンター」なる合宿施設を、応援団の吹奏楽部だからということで特別に利用を許可してもらって、3泊4日の合宿を行ったのである。
合宿中の日程は、ほぼ以下のとおり。
7:00起床、7:20集合、8:30までパート別基礎練習、朝食後パート別曲練習、昼食後セクション別練習、15:00〜合奏、夕食を挟んで21:00まで、22:00スポーツセンター集合という、かなり日程的にはハードな4日間であった。
合宿3日目には、後に大阪市音楽団の団長を務められることになる永野慶作氏を招いて、曲の仕上がり具合を確認していただいくことになっていた。
最終日は、15:00くらいからリハーサルを行い、19:00には合宿を打ち上げた。

合宿が終わると、その2日後が定期演奏会であった。
この年のプログラムは以下のとおり。
第1部
1、「ファンファーレとソリロキー」(T.Lシャープ)英国コールドストリーム連隊軍楽隊指揮者であったシャープ大尉作曲の吹奏楽用オリジナル曲。
2、「ブラジリアン・フェスティバル」(H.ケイブル)ラテンの名曲をメドレー風にアレンジした曲。
3、「シンフォニエッタ」(R.E.ジェイガー)1939年ニューヨーク生まれの作曲家による吹奏楽用オリジナル曲。
4、「クラウン・インペリアル」(W.ウォルトン)1937年、英国ジョージ6世戴冠式のためにBBCから委嘱されて作曲されたグランドマーチ。
(休憩)
第2部
交響曲第6番「悲愴」(P.チャイコフスキー)

もちろん、メインは「悲愴」である。編曲してくださったのは、当時関学マンドリンクラブの指揮者を務められていた大栗裕先生であった。
オーケストラ曲を吹奏楽用に編曲するというのは、特に弦楽器群のパートをどう扱うかというところがたいへんに難しいところなのであるが、大栗先生の編曲は、そんな難しさを感じさせないばかりか、「悲愴」の持つ曲の雰囲気を損なわない見事な編曲であったと思う。

それにしても、指揮者も含め、学生だけでチャイコフスキーの「悲愴」を吹奏楽で全曲演奏しようというのは、今から考えればひどく無謀な試みであったろう。
特に、合奏時における曲作りなどは、もちろん指揮者の考えが反映されていくのであろうが、その指揮者とて、専門的な音楽教育はほとんど受けていないのであるから、それこそ4年生が中心になってあれこれ議論しながら曲作りをしていったのである。
そうやって、何でも学生だけでやっていこうという気運が当たり前のような時代だったのだ。

いよいよ当日を迎えた。
午前中に学校で基本練習を済ませ、昼食後にフェスティバルホールに集合、午後2時からステージにてリハーサルを行い、午後6時からの本番に備えた。
オープニングは、「A Song for KWANSEI」。英語の歌詞による校歌の一つである。この曲の途中で緞帳が上がる。ほぼ満員の客席が見える。緊張と誇らしさが入り混じった、なんとも言えない気分である。
指揮者のウエマツ先輩が登場して、まずは第1曲の「ファンファーレとソリロキー」。金管のファンファーレが、いかにも最初の曲に相応しい華やかさを印象づける。

個人的には、第1部最後の「クラウン・インペリアル」がしんどい曲であった。休符がほとんどなく、同じパッセージを何度も何度も繰り返さなければならないので、とても疲れる曲なのである。でも、こういう曲ほどオーディエンスには受けが良いようで、演奏会後のアンケートにもその好評ぶりがうかがえた。

あっという間に第1部が終わり、休憩を挟んで、いよいよ「悲愴」である。
暗く重苦しい出だしの第1楽章も、展開部に入るとぐいぐいドライブを始める。圧巻は第3楽章。当時の実況録音盤(LP)を聴いても、この第3楽章は名演であった。特に、マーチの要所で入るシンバルは、たぶんタニ先輩が鳴らしているのであろうが、すばらしい切れ味のシンバルなのであった。
大編成での演奏というのは、あるパートの演奏が他のパートの演奏に好影響をもたらして、全体として名演奏を生み出すということがある。第3楽章は、まさにタニ先輩の切れのいいシンバルがその役割を果たしたのであった。

この第3楽章を聴きながら、どうして当時の4回生が「悲愴」全曲に挑戦したのかが、何となくわかったような気がした。
関学の吹奏楽部は、「シンフォニー・バンド」の追求をモットーとしていた。日本語に訳すならば、「交響吹奏楽」とでも言えようか。まるで、オーケストラのような演奏のできる吹奏楽団を目指していたのである。だから、マーチングなどはほとんど練習すらしなかった。
その一つの答えが、この第3楽章の演奏から聴こえてくる。ユーフォニアムを筆頭とする中低音楽器群のレベルの高さに支えられて、華やかなトランペットやトロンボーンの咆哮に、柔らかな木管楽器群が加わって得も言われぬ交響的な響きを醸し出す。まるで、これが「シンフォニー・バンド」の音なのだよということを誇っているかのように聴こえるのである。

静かに第4楽章が終わった。大きな拍手。どの部員も、やり終えた充実感で満たされていた。
アンコールは、K.キングのサーカスマーチ「バーナムとベイリーのお気に入り」。それまでの緊張感から解放された喜びからか、このアンコールもゴキゲンの名演であった。練習では1回しか合奏しなかったというのに!自分で演奏しながら、「このバンドはなんてすごいバンドなんだ!」とあらためて実感していた。

クロージングは、賛美歌405番「神ともにいまして」。静かに緞帳が下がってくる。当時のツジオカ部長が号泣していたのが印象的だった。自分も、4回生になって最後の定演のときには泣けるのだろうかと思った。

こうして、初めての定期演奏会は終わった。
でも、これで晴れて夏休み!というわけにはいかなかった。
全国大会へと繋がるコンクールが控えていたのだ。
(つづく)

3月31日(月)

エピソード2(「ホルンパートの人たちと、近づく定期演奏会」)

毎日のクラブは、練習の開始が2時45分からであった。
何だか中途半端な時間と思われるかもしれないが、4限の講義の開始時刻が2時45分で、大切な必修の講義はほとんど2限か3限に行われるので、さほど勉学には影響なかろうということから決められたのであろう。

4、5限の講義に出る部員は、団室にある黒板に名前を記入することになっていた。それ以外の部員は、2時45分になると、団室のすぐ外にあるベランダに集合し、幹部(わがクラブでは、4回生のことをこう呼び習わしていた)と、それ以外の部員とが向かい合わせになって挨拶をするところから練習が始まる。
まず、3回生の出席係が出欠の確認をする。一人一人名前を呼ばれ、講義に出ている部員はその旨が報告される。
出欠確認が済むと、部長または指揮者がその日の練習のあらましを述べ、「では、がんばっていきましょう!」という掛け声で、それぞれのパート別の練習に入っていくのである。

入部してからしばらく、自分はトランペットのパートに所属していたのだが、途中からホルンのパートへと移ることになった。
熱心にホルンパートへの勧誘してくださったのは、ホルンパート3回生のフジワラ先輩であった。フジワラさんは、サブ・コンダクター(副指揮者)も兼ねていて、サブコンは1年生の面倒を見る役目(教育係)でもあったので、自然とお話をする機会も多かったのである。細面で、いつもニコニコ楽しそうにしている先輩であった。
「ホルンもトランペットも、マウスピースの大きさはほぼおんなじやし、すぐ吹けるようになるわ。何より、ウチのパートは練習よりもお茶(休憩)が優先やし。」
パート移籍の決め手になったのは、そのひと言であった。実際ホルンパートで練習をするようになると、他のパートがまだ練習をしていても、ホルンパートだけは学生会館1階のロビーでコーヒーを飲みながら休憩することがよくあった。

ホルンのパートリーダーは、4回生のコーイチ先輩であった。体格がよく、大学生というよりは、どこかの会社の営業マンのような印象であった。細かいところにこだわらず、常に「練習は短かめに、休憩は長めに」と、早めに練習を切り上げて「お茶行こ」と言ってくださるすばらしいパートリーダーであった。

もう一人の4回生は、学生服姿で500ccのバイクに跨ってさっそうと学生会館にやってくるキンジョー先輩であった。強面で、ちょっと見どこかの組の人に見えなくもない雰囲気を持っておられた。
今でこそ、大学生の喫煙率は相当に下がっているのであろうが、当時は「大学生になったら煙草を吸うのが当たり前」というような時代であった。それまで煙草を吸ったことはなかったのだが、パートの休憩時間に「まあ吸ってみいや」と勧められたのが、このキンジョー先輩であった。
「い、いえ、ぼ、ボクはタバコは…」などとはとても断れない雰囲気の先輩であったから、言われるままに煙草を吸ってみた。口先でちょっと蒸すだけだと、「ちゃうちゃう、ちゃんと胸の中まで吸い込むんや」と何度も「練習」させられた。
おかげで、以来30年近くの長きに亘って、煙草を吸い続けるようになったのである。

3回生は、フジワラ先輩の他に、クロミヤ先輩がおられた。ローンで舶来の新品のホルンを購入されたとかで、練習熱心な先輩であった。この方は、その後部長となり、練習態度も一変してとても厳しい先輩になるのだが、このときはまだそんな片鱗も見られない、とても楽しい先輩であった。

2回生の先輩は、ヨコイ先輩であった。このヨコイ先輩とフジワラ先輩が寮生であった。フジワラ先輩は清修寮、ヨコイ先輩は啓明寮に入寮しておられた。
ヨコイ先輩は、身体も大きく、一見豪快なおアニイさんという感じであったが、実際はとても心根の優しい頼りがいのある先輩であった。すぐ上の先輩ということもあって、いろんなことを教えていただいた。

同級生には、三重県からやってきたワダくんがいた。明るく愉快な人物で、高校時代には吹奏楽部でホルンを吹いていたとのことで、実際の楽器演奏のこともあれこれ教えてもらった。ただ、残念なことに、彼は夏の定期演奏会が終わってしまうと退部してしまった。
かように、ホルンパートは楽しい人たちばかりだった。いつも練習には笑いが絶えなかった。みんなそれぞれ仲が良く、このパートに移籍してほんとうによかったと実感していた。

それにしても、最近の吹奏楽事情に詳しい方ならば、「どうして女子部員がいないの?」と不思議に思われることであろう。そう、かつて(1950年〜1970年代)は、吹奏楽部は「男子部」だったのである。中高の吹奏楽部が女子ばかりの部員になったのは、たぶん1980年代に入ってからである。
ご多分に漏れず、われらが吹奏楽部も、自分が入部した当時は部員50人中、女子部員は5名だけであった。たった1割だったのである(まあ、これは「応援団の吹奏楽部」という事情も手伝ってのことと思われる)。

閑話休題。パート練習は、ロングトーンから始まる。その名の通り、一つ一つの音をできるだけ長く吹き伸ばすスケール練習である。
次は、リズムを刻みながらのスケール練習。だんだんとリズムを細かくしていきながら、何度もスケール練習を繰り返す。
このスケール練習が終わったところで休憩(お茶)となる。

それぞれのパートが練習する場所は、基本的に木管楽器は学生会館内、金管楽器は外で練習をすることになっていた(ただし、楽器の大きいチューバと、外にはなかなか持ち出せないパーカッションは練習場)。
どのパートも、ロングトーンを含むスケール練習が終わると、学生会館1階のロビーへ集まってきて、コーヒーや紅茶を飲みながら休憩するのである。
演奏会やコンクールが近くなければ、そのままパート別に曲の練習などをして、5時半には終了ということが多かった。

練習の最後には、全員が団室に集まってミーティングが行われる。出席の確認と連絡事項の伝達、最後に部長が訓示をして終了となる。
だいたい、平日の練習はこんな感じで行われていた。

こうして練習が早く終わる日はいいのだけれど、練習の終わりが遅くなってくると、宝塚の下宿まで帰るのはしんどかった。何しろ、下宿は山の中の住宅地の中だったので、駅からの登りがきつかった。
ある夜などは、さて寝ようと思ってふとカーテンのところを見ると、何やらUの字の黒いモノがついていたので、「ん?なんだなんだ」と思って近くに寄って見ると、何と大きなムカデがお出まししていたこともあった。

そんなこともあったから、できれば大学近くの下宿に替わりたいと思い続けてきたのであったが、幸いなことに、新入生歓迎コンパでお世話になった2回生のニシカワ先輩の下宿に空き部屋ができて、夏休みからはそこへ移れそうだということを教えていただいた。
下宿は、高等部のテニスコートのすぐ裏、水上競技部の合宿所も兼ねていた、通称「田中マンション」という下宿であった。
その下宿には、ニシカワ先輩の他に、京都嵯峨野出身でユーホニウム(最近では、「ユーフォニアム」などと宣わるらしい)担当の3回生モリ先輩も入っておられた。

夏休みが近づいていた。
当時の関学は、7月1日から夏休みに入った。夏休みに入って2週間後には、定期演奏会が控えていた。コンクールと並んで、クラブの重要イベントの一つである。
既に、演奏する曲目については、5月中旬くらいからパート練習が始まっていた。

その年の定期演奏会のメインとなる曲目は、何とチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」全曲であった。
吹奏楽で「悲愴」の全曲演奏に挑もうというのである(今から思えば、この無謀とも言える挑戦に、当時の4回生たちの並々ならぬ自負があったのだと思う)。
はたして、ほんとうに吹奏楽で「悲愴」が演奏できるのであろうか。交響曲の弦楽セクションの部分を、どうやって管楽器だけで演奏するのであろうか。ましてや、「悲愴」の終楽章は弦楽器によるアダージョである。
管楽器だけでも、弦楽器同様の雰囲気を醸し出すことが、はたしてできるのであろうか。
夏休みを目前に控えて、練習も熱気を帯びてきつつあった。

(つづく)

3月6日(木)

(エピソード1「吹奏楽部への入部と新歓コンパ、応援団への入団式」)
オカッパ頭の先輩は、3回生のタニ先輩(パーカッション担当)であった。学生会館1階の食堂へ誘われ、食事を奢っていただき、あれこれクラブの話を聞いた(このタニ先輩という方、実はとてつもなくオモロイ先輩であるということが、その後しばらくしてからわかった。このときは、話しながら体を左右に揺らして、オカッパ頭の頭髪を手で掬い上げる仕草が印象的だった)。
具体的に、どんなお話だったのかは覚えていない。やりがいのあるクラブだということを強調されたような気がする。

実は、関学の吹奏楽部については、入学する前からその名を知っていた。
中学時代、吹奏楽部の顧問の先生から、「日本の吹奏楽’70」という全日本吹奏楽コンクール実況録音盤を紹介され、その中に大学の部の演奏として、関学吹奏楽部の演奏が収められていた(自由曲「プレリュードとダンス」)のだ。
中学校の演奏を聴きたくて購入したレコードだったので、特別に関学の演奏が印象に残っていたわけではないのだが、その団体名が長かったので(関西学院大学応援団総部吹奏楽部)覚えていたのである。

名門の吹奏楽部であるというイメージだったので、まさか自分がその部に入るなどということは全く想像していなかったのであるが、大学生活が始まってみると、キャンパスではほとんど人と話をすることもない生活が続き、吹奏楽部に行けば自分を歓迎してもらえそうだということもあって、だんだんと「まあ入ってみるか」という気持ちになり、自然と「応援團」の木札が掲げられた学生会館の部屋へと足が向いていったのであった。

体験入部のような期間が過ぎ、いよいよ正式入部ということになった。パートは、中学時代に吹いていたトランペットということになった。
トランペットセクションには、2回生にちょっと変わった先輩がいらっしゃった。クワハラ先輩である。楽器演奏はピカイチなのであるが、行動がどうも大学生には思えないような、そのしゃべり方も含めてまるで小学生のようなところがある先輩なのであった。いろんな先輩がいるのは、とても楽しいと感じた。

入部してしばらくして、神戸三宮にて、「新歓コンパ」(新入生歓迎宴会)があった。
余談になるが、今や「コンパ」などという言葉は、ほとんど死語となっているのではないか。うっかり「コンパ」などという言葉を使おうものなら、「なになに?コンパニオンを呼んでの宴会か?」などと誤解されてしまうような気がする。

閑話休題。吹奏楽部の新歓コンパは、「エグい」ということで評判であるらしかった(そのように先輩方から聞かされた)。
宴会が始まった。そのうちに、いわゆる「イッキ飲み」が始まった。普通のコップよりも少し大きめのビールグラスに、日本酒をなみなみと注がれ、それを一気に飲むのである。それまでお酒などというものは全く口にしたことはなかった(せいぜいビールの泡をちょっと舐める程度)ので、このイッキ飲みは恐怖であった。自分の順番になるまでに、一気飲みしてゲロを吐きまくる同級生も何人かいた。
これはうまくごまかすしかないと思い、自分の場合は飲んでるふりをしながら、口から少しずつこぼして、日本酒の摂取量をできるだけ減らそうと試みた。
このため、一気飲みで気持ち悪くなるようなことはなかったのであるが、困ったのは先輩たちが注ぎに来ることだった。「オマエ、何回生や?」「い、一回生です」「オレ、何回生や?」「ハイ、3回生です」「なら、オレの3倍は飲むわな」と、無茶苦茶な論理でひたすら日本酒を飲まされたのであった。そのうちに目が回ってきた。

気が付くと、生田神社の境内に寝かされていた。「おお、目が覚めたか。こんなとこで寝るわけにはいかんので、今日はウチに泊まれや」と、下宿生の先輩たちが大学まで連れて行ってくれた。時計台の前の中央芝生でしばらく酔いを覚ますということであったが、相変わらず気分は悪いままだった。そのまま2回生のニシカワ先輩(チューバ担当、この先輩とはその後同じ下宿で生活するようになる。兵庫県は日本海に面した香住の出身で、後輩の面倒見がよく、イナセなおアニイさんという感じの先輩であった)の下宿へと連れて行かれた。
翌朝目が覚めると、ニシカワ先輩の部屋であった。身体が痒かったので、学生服を脱いでよく見てみると、全身に蕁麻疹が出ていた。「まあ、寝ていたら治るやろ」と言われ、そのまま静かにニシカワ先輩の部屋で過ごした。
以来、長きに亘って、日本酒は身体が受け付けないようになったのであった。

新歓コンパが済むと、今度は応援団への「入団式」が待っていた。
関学の吹奏楽部は、応援団総部という学生団体の一部である。他に、実際の応援のときにリーダーとなる「指導部」と、「チアリーディング部」という3部が一体となって、所謂「応援団」を形成していたのである。
だから、吹奏楽部に入部するということは、必然的に「応援団」の一員になるということを意味していた。

この式のために、「自己紹介の練習」というのが行われた。入団式では、団長から一人一人の新入生に団の腕章とバッヂが手渡されるのであるが、その際に団長の前で自分の出身高校と学部と名前を大声で叫ばなければならないのである(さらには、腕章とバッヂを受け取る際には「オッス、ごっつぁんです!」と言わなければならないという「オマケ」まで付いていた)。
どれだけ大声でやれるかということで、事前にその練習が行わたのであった。学生会館のベランダから、遠く離れたところにいる先輩に向かって、大声で自己紹介を叫ぶのである。先輩が頭上に両手でマルのサインを出せば合格、バツの場合は何度でもやり直しをさせられるのであった。

その入団式、人によっては緊張のあまり途中で言葉が出てこない部員もいたりしたが、ともあれ全員無事に「ごっつぁんです!」(女子部員の場合は「ありがとうございます」でよかった)を済ませ、晴れて「応援團」と刺繍の入った腕章と、銀色のバッヂを手にし、「応援団総部」の一員として学生生活がスタートしたのであった。
(つづく)

2月9日(日)

私立大学入試たけなわである。
それに触発されたというわけではないが、たまたま大学時代に所属していたクラブがFacebookのページを立ち上げたということを知り、暫し学生時代のクラブのことを思い出すうちに、この得難い学生時代のクラブの経験を書き残しておきたいと思うようになった。
記憶はあやふやなところもあるのだが、4年間の大学でのクラブの思い出を、今でも印象に残っていることを中心に書いてみたい。

エピソード0(大学に入学するまで)

高校時代は、自分の将来について深く考えることもなく、帰りのHRが終わればすぐにテニスコートへと向かい、ひたすらボールを追いかけるテニスボーイの日々であったのだが、3年生になってインターハイの予選も終わってしまうと、さすがに自分の進路について多少なりとも考えるようになってきた。
特にこれといって就きたい職業もなかったので、中学校を卒業するときに漠然と考えていた希望(教員になること)を第一に考え、先生になるのなら高校の先生がいいなあと思い、教育学部で高校教員養成過程のある大学を探してみた。すると、当時の日本の大学で高校教員養成過程を開設していたのは、東京教育大学(現在の筑波大学)と広島大学の教育学部しかないことがわかった。共に、当時の国立大学の入試制度区分によれば、難関と言われる国立一期校に編制されている大学であった。

何となく、東京の大学は自分には合わないだろうと根拠もなく信じていたところがあったので、自然と第一希望は広島大学ということに定められた。一期校の入試は科目数が多い。数学は数Ⅲまであるし、社会と理科は2科目選択であった。
勉強するのは大変であったが、目標ができるとそれに向かって頑張れるものである。模試の結果は五分五分というところであったが、自分では何としても合格するぞとの意気込みで受験勉強に励んだのであった。

秋が過ぎ冬になると、周囲ではどこの大学を受験するのかということが話題になってくる。あそこはキャンパスがきれいだとか、ここは学費が安いなどという情報が交換されるようになってくるのである。
友人のシバタから、「私立は受けないのか?」と聞かれた。「決めてないんだけど、どこがいい?」と尋ねると、シバタは兵庫県にある関学というところを受けると言った。「カンガク?」「かんさいがくいん、って言うんだ。パンフとか見ると、きれいでいいところだぜ」と教えてくれた(今になって思えば、「かんさいがくいん」と言うほどに、彼の情報もテキトーなところがあったのである)。初めて聞く名前の大学だった。「ふーん。そんなにいいところなら、オレも受けてみるわ」と、深く考えもせずに受験することにした。
他には、社会科の教科書に執筆者として多く名前が乗せられていた東京の私立大学と、当時は最も学費が安いとされていた関西の私立大学も受けることにした。

入試の日が近づいてきた。
最初に受けるのが、関学だった。父親が旅行社に行って列車と旅館の手配をしてきてくれた。泊まる旅館は宝塚温泉。電車は、大阪(か新大阪)から福知山線に乗り換えて行く切符だった。
今から思えば、わざわざ福知山線で行くことないでしょと思うところだが、当時は自分も自分の父親も知らなかったのだ、「阪急」という私鉄のあることを。
とにかく、福知山線を乗り継いで宝塚駅に着いた。その日に下見に行ったのかどうかは覚えていない。着いた旅館は、ひどく古めかしい旅館であった。他の受験生たちといっしょに、大部屋に案内された。最初は誰とも話をしなかったが、そのうちに秋田から来たという受験生と仲良くなった。夕食後、一緒にお風呂に入りに行こうということになった。
そんなに大きな風呂ではなかった。湯はひどく熱かった。蒸気が濛々とするお風呂場であれこれ話をしながら、つい長湯をしてしまった。そのうちに、頭がボーッとして耳が聞こえなくなってきた。意識がだんだんと薄れてきた。一緒に入浴していた秋田の受験生が部屋まで運んでくれて、旅館の人に通報してくれた。どうなったのかはよく覚えていない。ただ、あまりに暑かったので、ほぼ半裸の状態で大部屋に転がっていいたような気がする。もちろん、前日に勉強するなどということは一切できないままに、試験当日の朝を迎えたのであった。

若いときは、回復も早いものである。翌朝は、昨晩のことなどけろりと忘れて、朝ごはんをしっかり食べ、件の秋田の受験生と一緒に試験会場へと向かったのであった。
そのとき、たぶん初めて阪急電車に乗った。降りた駅は甲東園。そこから、多くの受験生たちと一緒に坂道を上った。坂を上り切ったところに高校があった。そのずっと奥に、関学の正門が見えた。いいところだなあと思った。
試験のことはほとんど記憶にない。とにかく、無事に試験を終え、再び宝塚まで戻って、福知山線にて帰途に就いたはずである。

後日、合格通知が来た。もう一つの関西の私大は不合格であったが、東京の私立は合格した。あとは、目標の広島大学に挑むだけとなった。
広島行きは勝負なので、父親に「いいところへ泊まりたい」と要望した。宝塚の旅館は言うに及ばず、東京の宿も、まるで普通の家のような旅館だったのである。
宝塚も東京も、それぞれJ社に頼んだようだったが、父親は今度はK社に頼んでくれた。「ヒロデン」とかいうホテルだった。名前からして、どうも期待できそうにない感じがした。

当時、新幹線は岡山までしか開通していなかった。岡山からは山陽本線の特急に乗り換えて広島まで。途中の窓から見える中国路の景色が、なんとものどかでいい感じであった。
広島駅に着き、さっそくホテルへと向かった。ホテルは駅のすぐ近くだった。行ってびっくりした。大きくてすばらしくきれいなホテルだったのである。
ホテルの夕食はフルコースのディナーだった。それまでフルコースディナーなどというものなど一度も食べたことがなかったため、ナイフとフォークをどう使ったものやら、さっぱりわからなかった。周囲を見ながら見よう見まねで食べたが、何を食べたのか全く記憶には残らなかった。
試験を終えてホテルに戻ると、テレビで試験の解答を放送していた。数学があまりできていないという印象であった。合格は難しいかもと思った。

案の定、広島大学は不合格であった。
当時の学級担任であったウチヤマ先生からは、地元の国立二期校を受験するよう勧められたので、友人と一緒に受けることにしたが、既に心は関学に行くことを決めていた。
そんな気持ちで受験した二期校は、もちろん合格しなかった。

3月の下旬になって、関学の下宿を探しに行くことになった。父親が同行してくれた。まずは大学の学生課へ行き、下宿の物件を探したのであったが、そんな時期にはもう手頃な下宿など残ってはいなかった。
数少ない下宿の中から、宝塚の山中にある普通の家庭の離れを下宿に提供しているところへ行ってみることにした。宝塚の駅から温泉街を通り、山を中腹くらいまで上ったところにある家だった。
離れには下宿生4人が寝泊まりできる部屋と、簡単なダイニングがあった。便は悪いが、もう選択の余地はなかった。

4月、家を離れ、宝塚での下宿生活が始まった。
すぐに講義が始まるわけではなかったが、あれこれ手続きを済ませるために大学へは毎日通った。
キャンパス内は、あらゆるところに新入生勧誘のためのクラブの「出店」が出ていた。どこのクラブも、けっこう積極的な勧誘ぶりだった。

クラブは、テニス部に入ろうと思っていた。
しかし、どこをどう探しても、テニス部の「出店」はなかった。仕方がないので、社会学部の裏にあったテニスコートへも行ってみた。部員たちが一生懸命練習していた。誰か声を掛けてくれるのかと期待していたが、誰にも声を掛けられることはなかった。
高等部のファームがあるから新入部員は勧誘しないのかと、やや失意のうちに正門を出ようとしたとき、図体の大きなお兄さんに声を掛けられた(あとからわかったことだが、この声を掛けてくれた先輩は、部内でも評判の怪力の持ち主である4回生カメイ先輩であった)。
「キミ、高校時代は何部に入っていたの?」
「テ、テニス部ですけど」
「あ、そう。んじゃ、中学んときは?」
「す、吹奏楽でした」
「吹奏楽??」
とたんにそのお兄さんの目の色が変わった。
手をがっしりと組まれ、「ちょ、ちょっと、ウチの部室まで来ない?」と言われて、学生会館の「応援團」と書かれた木札が掲げられている部屋まで連れて行かれた。

中に入ると、学生服を着たオカッパ頭のお兄さんが応対してくれた。
「まあ、メシでも食べて話しようや」と、階下にある学生食堂まで誘われた。
これが、疾風怒濤の大学クラブ生活のプロローグだった。

(つづく)

12月28日(土)

今年も残すところ3日あまり。というわけで、恒例の10大ニュースを。

1)旅行
2月、けいぞうさんのお誘いで、内田先生たちと信州は白馬村のスキー場でのスパルタン・スキーに参加。スキーをしたのは、たぶん15年ぶりくらいで、転んでばかりだった。「スパルタン」の名に恥じぬハードな3日間で、一生分のスキーをしたような気持ちになった。
伊豆は、3月の河津桜、9月の伊東温泉、10月の雲見温泉海賊料理祭りへ。宿は、伊東温泉以外が西伊豆のまつざき荘。ほぼ定宿となりつつある、たいへんによい宿である。
京都は、4月は修学旅行の引率と、8月の五山送り火と川床料理、11月の紅葉見物へ。貴船の川床料理は、まるで別世界のような涼しさを堪能した。紅葉見物も、毎年違うところを見に行く楽しみがある。京都は懐が深い。
東京へは、8月の終わりにお台場のサンダーバード博へ。娘と合流して、新宿にて家内の誕生日祝いの小宴。
12月は、大阪にて開催された「数学の演奏会」へ。独立研究者である森田さんの貴重なお話や、釈先生との対談を拝聴することができた。翌日は甲子園ボウルへ。その日の夜は、神戸ルミナリエを初めて見た。帰りは、近江八幡市へ。甲南合気会の福井さんのご紹介で、琵琶湖が一望できるフレンチレストランを訪ねてみた。今まで味わったことのないような美味しい料理をいただくことができた。
そして、甲南麻雀連盟の今年最後の例会。本部の例会は、ほとんど日曜日に開催されるので、長期休業中くらいしか参加することが叶わなくなったが、内田先生をはじめ、久しぶりに本部のいろいろな人たちと再会でき、たいへんに楽しいひとときを過ごすとともに、たくさんの元気をいただいた。
これらの旅行は、家内も同行してプリウスで行くことがほとんどであった。しかし、そのプリウスも購入してから早8年。車はどこも悪くはないのだが、いかんせんナビの地図が古くなってあまり使い物にならなくなっていたので、この年末に新しくポータブルナビを購入して取り付けた。これで、来年以降も迷うことなくどこへでも行けるようになったのである。

2)武道
5月、大阪にて、初めて光岡導師の韓氏意拳講習会を受講。光岡先生は、物腰は穏やかなのだが、その全身から発するオーラがひしひしと感じられ、講習そのものよりも、そのオーラに圧倒された。
同月、初めて全日本合気道演武大会に参加するために、東京の日本武道館へ。全国の合気道愛好者たちの演武を見るだけでなく、自分もその演武の一部に参加して、あらためて合気道のすばらしさを実感した。
6月、毎月一回、指導に来てくださっている北総合気会山田師範より、合気道の技の上達のために剣の理合を知るという目的で、香取神道流の剣術を教えていただけるようになった。こんな剣の使い方もあるのだと驚くことばかりであった。

3)インバル、都響のマーラー
1月の5番、11月の6番と7番、都合3回の演奏会を聴きに、横浜はみなとみらいホールへ。
特に、6番と7番は、ほとんど実演の機会がないので、貴重な演奏会であった。もちろん、3曲ともすばらしい演奏で、特に5番のアダージェットの冒頭部分は、今でも脳裏にしっかりと焼き付けられている。

4)読書
今年の読んだ本のベスト3は、以下の3冊。
①『聴衆の誕生』(渡辺裕、中公文庫)音楽を言葉でどう表現するかということについて、蒙を啓かれた。
②『京都の平熱』(鷲田清一、講談社)京都という街のことを語っていながら、人間論へと展開されていく自然さが、いかにも京都の町並みとぴったり符合しているすばらしい著作である。
③『今を生きるための現代詩』(渡邊十絲子、講談社現代詩書)日本語が持つ言語的特性を正確にとらえつつ、「人が生きるということ」はどういうことなのかということを、現代詩を手掛かりにして考えている。その姿勢がいかにも真摯である。こんなすばらしい書き手のいることを今まで知らずにいた不明を恥じたい。
こうして挙げてみると、著者はみんな「わ行」の人たちであった。

5)電子書籍
昨年末に購入したスキャナー(ScanSnap S1500M)を有効活用しようと思い、本の「自炊」をしてみた。初めは、古くなって、紙の質も劣化しつつあった本から始めたが、やっていくうちにコツも覚えて、あまり時間をかけずにできるようになった。スキャンした本は、iPadの「i文庫HD」というアプリで読んでいるのだが、このアプリはまさに「神アプリ」である。このアプリを使えば、どんな「自炊本」も快適に読むことができる。
電子書籍リーダーも購入した。KindlePaperWhiteである。このリーダーのよいところは、読みたい本がたちどころにAmazonのKindle本ストアからダウンロードできてしまうところである。無料本のラインナップも、同様の電子書籍ストアの中では最も充実しているのではなかろうか。ただし、このKindlePaperWhiteにも弱点はある。日本のほとんどの書籍は左開きなのだが、自炊本については左開きができないのである。
その左開きができるリーダーが、SONYのReaderであった。購入しようかどうか迷っていたところ、大阪の仲野先生から譲渡していただけることになった。さっそく、自炊した『海辺のカフカ』を読んだ。これが、自炊本初の読了本となった。
かように、自分にとっては「電子書籍元年」とも言うべき年であった。

6)MacとiPhoneの新しいシステム
9月、iPhoneのOSが新しくなった。フラットデザインと呼ばれる、たいへんすっきりした画面で、操作性も向上した。何より、一つのフォルダに、たくさんのアプリをまとめることができるようになったのがありがたい。
10月、Macも新しいOSであるMarvericksにアップデートされた。まだ、どこがどう新しくなったのか使いこなせていないけれども。

7)K.G.ファイターズ
正月3日のライスボウルから始まって、今年も母校のアメリカンフットボール部の応援に駆けつけた。
ライスボウルは、試合終了間際までリードしていたにもかかわらず、最後の土壇場で逆転負けを喫してしまった。でも、KGらしいすばらしいフットボールを見せてくれた。
11月は関西学生リーグ最終戦の立命戦へ。0-0スコアレスドローという試合を初めて見た。
12月は甲子園ボウルへ。KGの3連覇のかかった試合だったが、攻守で日大を圧倒して、見事3連覇を果たしてくれた。見応えのある試合だった。

8)表彰
2月、日本ソフトテニス連盟から、ジュニア指導者の表彰状をいただいた。畏れ多いことである。
11月、市中体連からは、「優秀指導者功労賞」をいただいた。表彰式には出られなかったが、後日中体連ソフトテニス部の先生たちが集まって、お祝いの会を開いてくださった。ありがたかった。

9)訃報
8月、家内の母が亡くなった。昨年11月に足を骨折して以来、ずっと病院での生活が続いていたが、暑い日が続いた夏に帰らぬ人となった。京都五山の送り火を見に行ったのは、その母を送る意味もあった。
4月には、イギリスの名指揮者、コリン・デイヴィスが亡くなった。彼の振ったシベリウスはすばらしかった。
12月、同じくイギリスの著述家、コリン・ウィルソンが亡くなった。彼の音楽についての著作を読んだばかりだった。

10)ウォーキング
夏休みから、ウォーキングを始めた。平日は帰宅してから、休日は早朝、雨で外に出られない日以外は、ほとんど毎日続けている。しかし、その効果はうかがい知れず、たまに会う人からは決まって「太ったでしょう」と言われる始末。精進せねばならない。

こんな一年であった。

それでは、みなさまよいお年をお迎えください。
来年もどうぞよろしくお願いいたします。

12月21日(土)

コリン・ウィルソンが亡くなった。
“コリン・ウィルソン氏82歳(英国の著述家)。5日、英南西部コーンウォール州の病院で死去。
英中部レスターで労働者階級の家庭に生まれた。16歳で学業を放棄。哲学書などを読みあさり、昼はロンドンの大英博物館図書室で執筆し、夜は野宿した。1956年に発表した小説「アウトサイダー」がベストセラーとなった。犯罪・心理小説、戯曲も手がける多作の著述家として知られた。”(@読売新聞、12月10日)

コリン・ウィルソンのことは、内田先生が『アウトサイダー』を読まれていたということから、その名を知ることとなった。その『アウトサイダー』は、古本で購入したものの未読のままであった。
今年の夏、東京の娘の勤める店舗で、『コリン・ウィルソン音楽を語る』(河野徹訳、冨山房)という本を見つけた。かの『アウトサイダー』の筆者であるということはすぐにわかった。さっそく購入して読んでみた。

最初の「まったく個人的な前置き」にこうある。
「音楽に関する私の知識は、おそらくイギリス中のどんな批評家に比べても劣るだろう。私はただ、二十年間夢中で音楽を聴いてきた結果の一部を伝えたかっただけである。」と断り、この著作の基本的なスタンスを、「実存的批評」すなわち、「私にとっては、いかなる芸術作品も、芸術家のパーソナリティや彼の生活からはっきり切り離して考えることなどできない」として、「批評家の仕事は、芸術家がどの程度偉大な人間であるかを決定すること」であって、「芸術作品の本質は、それが芸術家の個人的真実を表現しているかということにあり、作品に関する唯一の重要な問題は、芸術家の真実にどれほどの価値と強烈さが伴っているか、ということ」を追究することであると述べている。

興味深いスタンスである。
作品そのものを批評するのではなく、その作品を生み出した作者の「個人的真実」の価値を測るというのである。

そんな視点で作品を聴いてみると、例えば「バルトークの作品は、人間バルトークに関してはほとんど語らない」ということになる。それは、バルトークの作品が、そのパーソナリティから生じる基本的な目的を、曲の背後に感じ取れないからだと言う。
音楽は、散文同様に物事を述べることできないが、それでも音楽は、作曲家が目下展開させている世界観と、彼自身のパーソナリティのなかで生成しつつある化学的変化を表現できるものであるから、「大作曲家というものは、なにかその語法を用いて述べるべき内容をもたなければならない」ということになる。
つまりは、バルトークは大作曲家ではない、ということになるのである。

このようにして、モーツァルト、ベートーヴェンから始まって、ロマン派、スクリャービンとブロッホ、果てはジャズ、そうして自国イギリスの音楽事情、オペラからアメリカの音楽までが幅広く論じられている。
中でも、蒙を啓かれたのは、自国イギリスの作曲家たちのことであった。

イギリスを代表する作曲家であるエルガーについては、ブラームスと同様に「微細画家」(ミニアチュリスト)で、「偉大なイギリスの作曲家が現れるまでは」との条件付きで、「ほぼ最上のおすすめ品」と評しているが、ヴォーン=ウィリアムズについては、はっきりと「厳粛でエリザベス朝風な表現法が気に入らない」として、その代表的な9つの交響曲についても「音楽的語法が局限されている」として、高くは評価していない。
ブリテンについては、管弦楽は「最上のできばえ」としているが、声楽は「射程の短さが判明してくる」として、「何かしら排他的で偏狭なところがあるように感じられる」と辛辣である。

ところが、今まで聞いたこともない作曲家については、かなりの高評価で紹介されている。
「お気に入り」として、まず紹介されていたのは、ジョージ・バターワス。特に、連作歌曲「シュロップシャーの若者」は、「英語で歌われるものとしては最も美しい」と評されている。

さらには、アーノルド・バックス。中でも、その7つの交響曲は「シベリウスのそれと同じくらいに非凡」と評され、特に第3番の交響曲は「最もりっぱな作品」として取り上げられている。ヴォーン=ウィリアムズなどと比べると、その取り上げられ方の違いが際立つのである。

そうして、ジョン・アイアランド。「彼の作品は、すべて繊細で、淡く、柔らかい色彩をもつ」と評され、「彼をイギリスのフォーレと呼べば、単純化しすぎることになろう」と言いつつ、しかしそう呼べば、「彼の音楽の微妙さ、繊細さがわかってもらえよう」と書いている。

有名な組曲「惑星」の作曲家ホルストについては、その「惑星」を「あまりに即時的な感銘を与えるため、深遠な作曲家が書いたものとは思われない」とこき下ろしてはいるものの、管弦楽曲「エグドン・ヒース」や、オーケストラ伴奏付き合唱曲「イエス賛歌」などを聴けば、「彼が、強烈かつ独特な個性を持つ作曲家で、レコード目録に、もっと彼の作品が掲載されて当然、と感じられる」と褒め称えている。

こんな風に褒められれば、どうしてもその作曲家の曲が聴きたくなってしまう。
さっそくネットで検索をかけてみると、どうやらこれらの作曲家の作品は、そのほとんどがNAXOSのレーベルでCD化されていることがわかった。ありがたいことである。

すぐに、バックスの交響曲第3番と、アイアランドのピアノ曲のCDを買い求めて聴いてみた。
バックスの交響曲はあまり印象的ではなかったが、アイアランドのピアノ曲は、とくに「サルニア」がよかった。フランス印象派風の抒情的で美しい旋律の組曲である。

コリン・ウィルソンの音楽批評は、「実存的批評」にこだわるのあまり、あまり一般的ではないと言われるのかもしれない。訳者のあとがきにも、「結局素人は素人にすぎない」と酷評されている。
でも、個人的にはこういう音楽批評もあっていいのではないかと思う。

どんな音楽がいいと感じるかは、人によって千差万別である。
だから、その作品から作曲者の実存を何とか聴き取ろうとする聴き方があってもよいと思う。
そんな聴き方の中から、新しいクラシック音楽が生まれ出てくるような気がするからだ。

「現代芸術の大部分は、いまだに文化的ニヒリズムの荒地のなかでもがいている。しかしそれが抱えている諸問題は、表現手段の枯渇ではなく、内容(あるいはむしろ、内容の欠如)に関する問題である。もしわれわれが、音楽の新しい黄金時代に入るとすれば、それは、シェーンベルクやジョン・ケージやエドガー・ヴァレーズの理論が、われわれに、問題解決の鍵を与えてくれたからではなく、われわれの文化が再び、新しいモーツァルト的、ベートーヴェン的な音楽家を育成し始めるだけの健康をとりもどせたから、ということになろう。」

コリン・ウィルソンの遺言として心に銘じておきたい。

11月12日(火)

先週の金曜日は、午後からお休みをもらって再び横浜へ。
その前の週に引き続いて、エリアフ・インバル指揮、東京都交響楽団によるマーラーの交響曲第7番を聴くためである。

昨今のマーラー人気の高まりの中でも、この「夜の歌」と題されている7番のシンフォニーは、ほとんど実際の演奏機会に恵まれない曲として扱われてきた。
なぜか?
たぶん、「目玉」となる楽章がないからだ。
いや、そんなことはない、第1楽章のテナー・ホルンのソロも印象的だし、第4楽章のアンダンテ・アモローソ(愛情に満ちて)も魅力的な音楽だし、何より第5楽章のはじける明るさがあるではないか、と思われる向きもあろう。
確かに、どの楽章にも随所にマーラーらしい美しい旋律や印象的なパッセージは聴けるのだが、それが処々に散りばめられているだけなので、どうしても楽章全体としての印象が乏しくなってしまうのだ。

マーラーのそれまでの交響曲には、それぞれ目玉となるような楽章があった。
1、4、6番は第3楽章、2、3、9番は終楽章、5番は第4楽章、8番は第2部、大地の歌はほとんど全ての楽章が、何度も何度も繰り返し聴きたくなるような楽章であるのに対して、この7番にはそのような印象的な楽章がないのである。
どうしてなのだろう?

今回の演奏会のパンフレットで解説を書かれている岡田暁生氏は、それを「<物語>が見えてこない」からだと書かれていた。
“マーラーの作品というのは、一見難解そうに見えて、実は極めてベタなキャッチフレーズに回収することが可能なように、その進行が作られていることが多い。彼の作品の人気は、こうした「分かりやすい物語性」と決して無関係ではあるまい。(…)しかし、第7交響曲だけは例外だ。”
どうして第7交響曲だけが「例外」となってしまったのだろう?

岡田氏は、そんな「物語」の欠如を、「自然への揺り戻し」であると説明されている。
“この場合の「自然」とは一体何なのか?もちろん、野山や湖や小川や小鳥や動物たちといった、田園的な意味ではあるまい。(…)それは、人間の中の自然、つまり無意識や眠りや食欲や性欲などまでを含めた自然、意識によって加工されていないもののシンボルなのだ。”
つまり、人間の意識下にある「自然」の発露であえるから、それは「物語」にはならない、「物語」を必要としない、ということである。
だから、まるで自分の意識下のイメージをコラージュしたような音楽になってしまうということなのだろうか。

この第7交響曲の大きな特徴は、ポリフォニーだ。
ポリフォニーとは、複数の独立した声部(パート)からなる音楽=多声音楽のことである(これに対して、主声部の旋律に伴奏を付ける和声的な様式の音楽は、ホモフォニーと呼ぶ)。
マーラー自身は、友人に宛てて以下のような手紙を書き送っている。
“リズムもメロディーも完全に違ったものでなければならないのです(他のものはすべて多声になっているだけで、偽装されたホモフォニーにすぎません)。ただ、これらを芸術家が、一つの調和し協和する全体へと整理し統一することが必要なのです。”(1900年、ナターリエ・バウアー=レヒナー宛)
そういう意味では、コラージュに最もマッチするのはポリフォニーであったと言えよう。

そんなマーラーの思いの結実したのが、この第7交響曲だった。
マーラーは、この第7交響曲で、今まで誰も書いたことのなかったポリフォニーの交響曲を作曲したかったのだ。まるで、20世紀の交響曲はポリフォニーで書かれるのだ、と言わんばかりに。

第7交響曲は、1905年に完成された。
その頃のマーラーは、自身の経歴の絶頂にあった。ウィーン宮廷歌劇場の芸術監督に就任して8年、斬新な演出でモーツァルトのオペラを連続公演したり、新しい作曲家のオペラを次々と取り上げては初演したりしていた。
新しい世紀、20世紀を迎えて5年、マーラーはウィーンに設立された「創造的音楽家協会」の名誉会長も務めていたことから、「20世紀の音楽はかくあるべし」という方向性を模索していたのではなかろうか。
そんなマーラーの頭の中にあったのは、究極のポリフォニーだった。
こうして生み出されたのが、交響曲第7番だったのである。
そうして、そんなマーラーの思いは、この第7交響曲を聴いて感激したシェーンベルクらへと確実に受け継がれた。
第7交響曲こそが、20世紀のクラシック音楽への扉を開いたのである。

インバルと都響の演奏は、まさにそんなポリフォニーを細部まで精密に再現した演奏であった。
ここはこんな響きだったのか!という新しい発見に満ちていたのである。それは、特に楽章の出来として評価の別れる第5楽章ロンド・フィナーレにおいて顕著であった。
とかく、「乱痴気騒ぎ」などと評される底抜けに明るいこの楽章の音楽を、インバルはブラスセクションと弦楽器群の掛け合いを見事にコントロールし、時に際立たせ、時に混ぜ合わせ、絢爛たる音楽絵巻を創出していた。
日本におけるマーラー第7交響曲の演奏史の残る、まさに歴史的な名演であったと思う。
そんな、すばらしい演奏に立ち会えることができた僥倖を、演奏会から数日が過ぎた今でも、しみじみと噛みしめている。

11月5日(火)

先週の土曜日(2日)は、エリアフ・インバル指揮、東京都交響楽団によるマーラーの交響曲第6番を聴くために、横浜のみなとみらいホールへ。
開演は午後3時だったので、午前中に浜松を出発、お昼すぎに到着して娘と合流、家族揃ってランドマーク・プラザにて昼食を食べ、食後のコーヒーを飲んで、ゆっくりとホールへ向かった。

会場はほぼ満席。このコンビによるマーラーの人気の高さがうかがえる。
私たちのチケットは、今年の1月に苦労して手に入れた「セット券」。6番から9番まで4回の演奏会がセットになったチケットである(このセット券の購入に関しては、1月22日付の日記に書きました。入手するのがなかなかタイヘンでした)。

第6交響曲の実際の演奏を聴くのは、今回が初めてである。
この交響曲に関しては、合唱も入らない純粋の器楽曲なのであるが、特に管楽器を中心に演奏が難しいためか、マーラーの交響曲の中ではあまり実演の機会に接することの少ない曲である。
そんな事情もあって、とりわけ今回はチケットを入手した今年の初めから、楽しみにしていた演奏会であった。

マーラーの第6交響曲は、「悲劇的」と題されている。これは、マーラー自身が命名したとのことである。
何が「悲劇的」なのか。
人がこの世を生きていくということが、である。
それは「悲劇的」なことなのである、とマーラー自身がそう考えているように聴こえる曲である。

第1楽章は、低弦が力強く刻むリズムに乗って開始される。まるで人生という荒波に敢然と立ち向かっていく英雄の姿を彷彿とさせるような勇ましい行進曲である。
その英雄を支えてくれる人がいる。よき伴侶である(副次部の主題)。第1楽章を完成させたマーラーが、作曲小屋から下りてきて、妻のアルマに「ある主題の中で、きみを表現しようとした」と語った主題である。
英雄も時に休息することもある。癒してくれるのは山や湖などといった美しい自然のたたずまいである。
エネルギーを得た英雄は、再び人生という戦いに挑んでいく。そうして、高らかに勝利を宣言するのである。

第2楽章はスケルツォである。ティンパニの連打が、第1楽章の雰囲気を思い出させる。スケルツォ(諧謔曲)という名が相応しくないと思われるほどに、重々しい始まりである。人生の闘争はひたすら続いていくのだ。
しかし、家に帰れば子どもたちの無邪気な姿がある。変拍子のトリオでは、マーラー自身が「砂場をよちよち歩いている子どもたちのたどたどしい遊びを描いた」と彼の妻に語っている。
そんな家族とのふれあいもつかの間、英雄は再び闘争の場へと戻ってゆく。

第3楽章は、マーラーが作曲した全ての緩徐楽章の中でも、とりわけ美しく、そして哀しい曲である。
人生の闘争に疲れ果てた英雄は、ときにそんな闘争から身を引こうと考える。こんな人生に意味があるのかと自らに問う。過去を振り返り、思わず悔恨の情に苛まれる。
家族や友人たちと過ごす時間はかけがえのないものだ。これからは、そんな時間を大切にして生きていこうと思う。しかし、あらゆる人に等しく待っているのは死だ。死は、自分のかけがえのないものを容赦なく奪っていってしまう。そのいかんともしがたい不条理!
曲が高調したところで鳴らされるカウベルが何とも印象的である。

第4楽章は、不気味なチューバのつぶやくようなソロで始まる。打楽器群による「運命の打撃」を経て、闘争の行進曲は開始される。その頂点で「運命の打撃」が打ち下ろされる。そこから、さらに人生は混迷を深めてゆく。
闘争も終わりを迎え、最後の「運命の打撃」が人生の幕を下ろす。所詮人は死からは逃れられないのであるとでも諭されるかのように。

それにしても、この第4楽章は異様な力を持った音楽である。この音楽を駆動しているものは何であろうか。
この曲を作曲したとき、マーラーは自身の経歴の最高潮にあったと言ってよい。
作曲の前年には、生涯の伴侶となるアルマ・シントラーと結婚、長女が誕生している。第6交響曲を作曲した年には次女が生まれ、家庭生活が最も充実していた時期であった。
また、シェーンベルクやツェムリンスキーらと創造的音楽家協会を設立、その名誉会長に就いて若き芸術家たちのリーダーとして自他ともに認められていた。仕事の面でも、充実した毎日を過ごしていたのである。
そんな充実した生活ぶりが、この第4楽章の「表」の推進力となっているのではなかろうか。
そして、その背後にある「裏」の推進力とでも呼ぶべきものは、誰にでも確実にやってくる死というのものへの恐れの感情である。
やがて、その死への恐れは、「大地の歌」や第9交響曲となって結実してゆく。

インバルは、耽美的とも言えるほどにテンポを自由に動かして、情感溢れる指揮ぶりであった。
都響の面々も、特に高度の演奏技術を要求される打楽器と金管セクションを中心に、すばらしい熱演であった。
このコンビによるマーラーは、聴けば確実に感動することができるという、言わば「ブランド」としての演奏会として広く認知されるようになっていると思われる。
都響は、伝統的にマーラーの作品を重要なレパートリーとしてきた楽団である。1986年から10年以上音楽監督を務めた若杉弘や、98年から8年間音楽監督を務めたガリー・ベルティーニなどが、積極的にマーラーの交響曲の全曲演奏を行ってきた。
インバルも、フランクフルト放送交響楽団の音楽監督時代からマーラーの交響曲全集を録音するなど、マーラーの交響曲を得意としてきた。
指揮者、交響楽団ともに、マーラー演奏のブランドを確立してきていたのである。そんな両者がコンビを組んでのマーラーである。「ブランド」として認知されるのも当然の成り行きであったと言えよう。

その6番、CDで個人的に好きな演奏は、サイモン・ラトルが古巣のバーミンガム市響と入れた2枚組。最初の低弦の刻むリズムから、この曲の持つエネルギーを感じさせてくれる演奏である。
サイモン・ラトルのマーラーは、この6番と、続く7番、そして2番「復活」がマイ・ベストである。

さて、今週末(8日)には7番が待っている。この曲も、実際の演奏を聴くのは初めてである。
2週続けてマーラーの演奏会!何という贅沢な週末であろう。

10月29日(火)

今年の全日本吹奏楽コンクールが終わった。
今月の19日には、福岡サンパレスホールにて大学の部が行われ、われらが大学の吹奏楽部が11年ぶりに出場、銀賞を得たとの報告に接した。
現役諸君の健闘と、指導にあたられた方々のご労苦をあらためて労いたいと思う。

もちろん、コンクールであるのだから、最上級の賞を得るに若くはない。
しかし、そのことばかりが目的になってしまうと、勝つためには手段を選ばないという勝利至上主義に囚われてしまい、大切なことが抜け落ちていくような気もする。
そのことについて、少し考えてみたい。

例えば、指揮者のことである。
全日本吹奏楽連盟の規定によれば、指揮者は職業演奏家でも問題はないとのことだ。
ということは、極端な話、小澤征爾氏が指揮をしてもよいということである(しないだろうけど)。一昨年、ベルリン・フィルを指揮した佐渡裕氏が指揮をしてもよい(たぶんしないだろうけど)ということである(実際、佐渡氏は学生時代に京都の高校のブラスバンド部を指揮していたこともある)。
もし、小澤征爾や佐渡裕が大学の吹奏楽部を指揮してコンクールに出場した際、最上級の賞をつけない審査員がはたして何人いるだろう。

全国大会での最上の結果を至上命令としている大学については、さすがに小澤征爾や佐渡裕というわけにはいかないが、それなりに知名度のある職業演奏家なり音楽大学の先生なりを指揮者に迎えて、実際のコンクールもその指揮者に指揮してもらえば全国大会で最上級の賞を得るための近道になる、と考えるのは自然な成り行きであろう。
実際、自分たちの学生時代(1970年代)には、某オーケストラの管楽器奏者が指揮してコンクールに出場している大学は存在した。もちろん、毎年のように連続して最上級の賞である金賞を受賞していた。

でも、それってどうなのだろう。
自分たちが学生の頃は、学生のクラブ活動の世界に大人が介入してきているようで、あまり気持ちがいいものではないと思っていたのだが、その気持は今でも変わっていない。

学生のクラブは、学生が自主的に活動するべきものである。
それでは、演奏も含めて、よりレベルの高い音楽活動ができないという向きもあるだろう。
でも、学生の活動というのはそういうものなのではなかろうか。
要は、何を「学生にとって大切なもの」と考えるかということだ。

学生の自主的な活動で、コンクールに関してならば、
①まず出場するかどうかの話し合いから始めて、出場するのなら何を目標とするかということや、具体的にどのように取り組むかということを話し合う。
②課題曲と自由曲の具体的な選曲はそれからだ。
③曲が決まったら、どう解釈するかを話し合う。曲づくりに関しては、この過程が最も重要と思われる。
④曲の解釈についてのコンセプトが決まったら、コンクールの地区予選に合わせて、具体的な練習計画を練る。
⑤あとは、ひたすら猛練習を積み重ねる。それも時間にゆとりのある学生の特権だからである。
⑥ひとしきり曲が仕上がってきたら、そこでようやく大人の出番だ。「この人なら」という人物に交渉し、実際に自分たちの演奏を聴きに来てもらって、具体的なアドバイスを受ける。
⑦そのアドバイスを受けて、さらに話し合いと練習を積み重ね、曲を仕上げていく。
⑧そうしてコンクールに臨む。もちろん、コンクール当日に指揮をするのは学生である。

結果はどうであれ、こんな取り組みが学生を成長させるのではなかろうか。
あれこれ話しあったり、練習を進めていく過程で、互いにぶつかり合うこともあるだろうし、その取り組みから袂を分かつ者が出てくることもあるだろう。
でも、その過程で、互いのコミュニケーション能力やマネジメント能力を磨いたり、自らの音楽性を高めたりというようなことが修得されていくであろう。
トップダウンで、指導者である大人の言われるがままにハイハイと言うことを聞いているだけでは得られない多くことを、コンクールへの取り組みの中で学んでいくのである。
大人が関わるのであれば、「大切なことは、結果よりも過程である」という、「大人の目」で学生たちの成長を見守ってほしいのである。

吹奏楽コンクール大学の部に限って言うなら、「その大学に在籍する学生が指揮するものとする」という規定を新たに設けてはどうだろうか。
「それなりの大人が指揮すれば、もっといい演奏ができるのに」というような思いを持つ人も多かろうと思われるので、連盟が中心になって、学生指揮者向けに指揮法クリニックを実施するようにしてはどうだろう。大学3年生の時から、連盟が推薦する指導者たちの中から、この人に教えてもらおうという指導者を学生が選び、個人的にレッスンを受けさせるのである。個人負担を減らすために、学生連盟から供託金を拠出して補助するようにしてもよいであろう。
そうやって、学生が自信を持って指揮できるようにするのである。

そんなことを考えながら、久しぶりに吹奏楽のCDを聴いてみた。
「LegendaryⅡ(吹奏楽の伝説)」と題されて、1998年にブレーン社から発売されたシリーズCDの中の一枚、「関西学院大学応援団総部吹奏楽部」の演奏である。
学生指揮でも、これだけすばらしい演奏ができるという好個の例である(もちろん身贔屓である)。