僕がクラシック音楽を聴くようになったきっかけは、クラシック音楽が好きな父親の影響であった。父がどういう経緯でクラシック音楽に親しむようになったのかは知らないが、父はベートーヴェンが何よりもお気に入りであった。たぶん、父自身が難聴の持病を持っていたので、ベートーヴェンが後年難聴に苛まれたことを自身のそれに重ね合わせて、自然と親近感を持つようになったのではなかろうか。
大晦日、居間では家族が「紅白歌合戦」を見ているのに、父親は一人別の部屋のテレビでNHK交響楽団による「第九」を見ていて、途中「いいところだから見にこい」とその部屋に僕を呼んで、一緒に「第九」を見るというようなこともあった。

そんな父親の影響もあって、僕は小学生の頃から自然とクラシック音楽を聴くようになっていった。
小学6年生のときには、音楽好きの担任の先生が聴かせてくれたショパンの「英雄ポロネーズ」が聴きたくて、初めて自分の小遣いで安川加寿子が弾いたショパンのピアノ曲集のEP盤(外径17㎝の小型レコード盤)を買った。ターンテーブルとスピーカーが一体になった再生機器で、何度も何度も繰り返し聴いた覚えがある。

初めてLPレコードを買ったのは中学生のときで、アンドレ・クリュイタンスがベルリン・フィルを指揮したベートーヴェンの交響曲第5番「運命」とエグモント序曲、シューベルトの「未完成」交響曲がカップリングされたレコードであった。もちろん、有名な「運命」を聴きたかったからだが、どうしてその演奏家のレコードを選んだのかはよく覚えていない。
アンドレ・クリュイタンスなどという指揮者のことなど、中学生の自分がもちろん知るはずはなかったので、どこかで耳にしたベルリン・フィルというオーケストラ名で購入を決めたのではないかと思われる。
このレコードも、それこそ「擦り切れる」ほど聴いた。たまたま父の購入した「運命」のポケット・スコア(オーケストラ・スコア)が家にあったので、そのページをめくりながら聴いたことを思い出す。

1970年代当時は、大盤のLPレコードは1枚2,000円もしたので、中学生や高校生の小遣いでは手軽に買える代物ではなかった。いきおい、LPレコードを買おうというときには、選びに選んで「極めつきの名盤」を買おうとするようになったのは自然な成り行きであった。
そんなときにレコード選びの参考になったのは、CBS・ソニーから出ていた「ベスト・クラシック100選」というカタログであった。交響曲から室内楽曲、器楽曲や歌曲まで、クラシック音楽の幅広いジャンルから、定評のある名盤が演奏者のカラー写真と楽曲解説付きで紹介されていたので、それを見ながら少しずつアルバムを買っていった。レナード・バースタインや、ブルーノ・ワルターという指揮者のことも、その「ベスト・クラシック100選」で知った。
バーンスタインが指揮するチャイコフスキーやシベリウスの交響曲、ワルターが指揮するブラームスの交響曲のアルバムなどを購入して聴きながら、次なる関心はグスタフ・マーラーの交響曲のアルバムへと向けられていった。

最初に買ったマーラーの交響曲のレコードは、バーンスタインがニューヨーク・フィルを指揮した交響曲第1番であった。初めて聴いたときは、変わった曲だなあという印象であった。そもそも、第1楽章の出だしから変わっていた。弦楽器が、まるで霧が立ち込める森の朝のような雰囲気を弱音で醸し出す中、遠くから起床ラッパのような音や鳥の鳴き声が聞こえ、そんな中で目覚めた主人公がゆっくりと歩き始めるかのように主題が始まるのである。
しかし、この交響曲で最も印象的だったのは、第3楽章であった。静かな足音のようなティンパニの伴奏に乗って、ソロのコントラバスがすすり泣くようなメロディーを奏でる。まるで葬送行進曲のようだ。
作曲家の廣瀬量平は「音楽現代」1975年3月号のマーラーの特集で、この交響曲第1番の第3楽章について、トーマス・マンの『トニオ・クレエゲル』の一部を引き、「悔恨と郷愁としての陳腐な甘い調べというものがありうるのであり、それがたくみな配置と誘導によってこの自伝的青春小説のような長大な曲の一つのエピソードになっていて、少しの不自然もない」とし、「トーマス・マンの描く主人公の小説家は何とマーラー自身に似ているのだろう」と書いている。

廣瀬量平が引用した『トニオ・クレエゲル』の一部とは、以下の箇所である。
「彼はあの頃から今日までの歳月を顧みた。己の経て来た官能と神経と思想との、すさみ果てた冒険を思い起こした。風刺と精神とにむしばまれ、認識に荒らされ、しびらされ、創造の熱と悪寒とに半ば摩滅され、頼るところもなく、良心をさいなまれつつ、森厳と情欲という烈しい両極端の間をあっちこっちへ投げ飛ばされ、冷ややかな、わざとえりぬいた高揚のために、過敏にされ貧しくされ疲らされた揚句、乱れてすさみ切って責めぬかれて、病み衰えてしまった自分の姿を眺めた。そして、悔恨と郷愁にむせび泣いた。」(実吉捷郎訳、岩波文庫)

このマーラーの交響曲第1番の第3楽章によって、僕はすっかりマーラーの音楽の虜になってしまった。最も惹かれたのは、その音楽が濃厚な文学性を保持しているということを発見したことであった。1曲の交響曲が、まるで一編の小説を読むかのごとくに聴くことができると感じたのである。
それからは、件の「音楽現代」のマーラー特集号で紹介されていた他の交響曲も、ぜひ聴いてみたいと思うようになった。

ところが、70年代当時はマーラーの交響曲のレコードはほとんど手に入れることができなかった。比較的入手しやすかったレコードは、バーンスタインが指揮した1番・2番・4番・「大地の歌」、ワルターが指揮した1番と2番くらいで、他の交響曲はなかなか地方のレコード店の店頭では見かけることがなかった。
しかも、マーラーの交響曲は演奏時間が長時間にわたる曲が多いので、そのほとんどがLP2枚組だった。さすがに2枚組4,000円もするレコードを次から次へと購入することなど高校生の小遣いでは不可能であった。
それでも、どうしても聴きたいという思いは抑え難く、高校3年生の夏にはバーンスタインがニューヨーク・フィルを指揮した3番を、秋には同じくバーンスタインがイスラエル・フィルを指揮した「大地の歌」を入手して、大学受験の勉強の合間に何度も何度も聴いていた。

交響曲第3番は、全体が夏休みの雰囲気にぴったり(第1楽章には「牧神が目覚め、夏が行進してくる」という表題が付けられていたことがある)だったこともあり、特に第3楽章は夏の朝に聴くと、舞台裏で吹かれるポストホルン(トランペットのような音色の小型楽器)のソロと舞台上のホルンの掛け合いがいかにも清々しく、この長大なシンフォニーの中でもとりわけ好きな楽章になった。
「大地の歌」は、特に最終楽章が忘れられないものとなった。冬枯れの景色から少しずつ春に近づいていくという時節に、終楽章の最後の詩句(マーラー自身が特に付け加えたもの、「愛しい大地に春が来れば、至るところに花は咲き、緑は新たに萌え出でて、遥か彼方には輝く青い光。永遠に、永遠に...」)とその音楽は、これから地元を離れて大学生活を送るようになるという当時の自分の心情を代弁してくれているように響き、ひどく胸が締め付けられるように感じられた。こうして、マーラーの交響曲は僕にとってなくてはならないものとなっていった。

今回のザルツブルク音楽祭では、マーラーの交響曲第2番「復活」を聴く。オーケストラは、マーラーが指揮者を務めたこともあるウィーン・フィル。終楽章での「復活」の合唱も聴きどころだが、いちばん楽しみにしているのは第2楽章だ。ウィーン・フィルのいかにも艶やかなワルツの響きが聴けるのではないかと、今から期待に胸を膨らませているのである。

(その2)移動の手段とホテル

ザルツブルク音楽祭のチケット確定通知から2ヶ月後の4月、音楽祭のチケットセンターから国際郵便でチケットが郵送されてきた。
チケットを申し込む際には、チケットを郵送してもらうか、現地で受け取るかを選ぶことができるようになっている。現地で受け取ってもよかったのであるが、もしも当日何かトラブルがあったりする(ないと思うけど)と嫌なので、送料はかかる(12ユーロ、約1,500円)のだが、郵送してもらうことにしたのである。
チケットには、「私たちはあなた方の訪問を楽しみにしています」というメッセージが添えられていた!

まずは航空券だ。
航空券は、地元浜松で個人営業をしているジェットウェイ・トラベルのナカガワさんにお願いすることにした。できるだけ安価に海外旅行ができるプランをあれこれアドバイスしてくれるので、過去二度のイタリア行きでも航空券や現地でのガイドさんの紹介などをお願いした経緯がある。
ナカガワさんが勧めるヨーロッパへの航空会社はフィンエアー。お勧めの理由は、最短時間(10時間)でヨーロッパ(ヘルシンキ)まで行けるからだそうだ。ヘルシンキ空港は、ヨーロッパでも有数のハブ空港である。ヘルシンキからは、ヨーロッパのほとんどの都市へ2時間ほどで行ける。
初めは、ウィーン空港からザルツブルクまで行こうと思っていたのであるが、地図を見るとウィーンよりは、お隣のドイツ・ミュンヘンからの方がザルツブルクに近いということがわかった。さっそく、ナカガワさんに連絡をして、行きはミュンヘンまでと、帰りはウィーンからの航空券をお願いすることにした。

ミュンヘン空港に到着してから、宿泊先のホテルがあるミュンヘン中央駅までは、安価だし所用時間も電車とほとんど変わらないとのことだったので、「ルフトハンザ・エアポートバス」というシャトルバスを利用することにした。チケットもオンラインで買うことができる(片道1人10.5ユーロ、約1,350円)。
チケットの有効期限がよくわからなかったので、日本のルフトハンザのお問い合わせ窓口に電話してみた。「すみません、ルフトハンザのエアポートバスのチケットについてお聞きしたいんですけど」
「フランクフルト空港からストラスブール駅までですね?日本語対応のホームページがありますよ」
「いえ、違います、ミュンヘン空港からミュンヘン中央駅までのエアポートバスのことですけど」
「ああ、それはウチではないです」
「え?でも、ルフトハンザのバスですよ?」
「すみません、ここではわかりません」(以下略)
やんぬるかな。
諦めて、もう一度ルフトハンザ・エアポートバスのホームページをドイツ語版から英語版にして、隅から隅まで見てみることにした。すると、FAQのところにチケットの有効期限についてもちゃんと書かれていた。それはいいのだが、どうもルフトハンザのお問い合わせ窓口の対応には、いささか憮然としたものを感じた(後日メールで同様のことを問い合わせたところ、「ご搭乗に関しましてのお問い合わせにつきましては、最寄の予約センターまでご連絡くださいますようお願い申し上げます」という、まことにトンチンカンな返信があったことを申し添えておく)。

問題は、マーラーの作曲小屋のあるザルツカンマーグートのシュタインバッハ・アム・アッターゼへの移動の手段であった。
シュタインバッハ・アム・アッターゼへは、ミュンヘンからザルツブルクへと移動した日の午後に行く予定であった。グーグルマップで経路を調べてみると、電車とバスを利用する場合は約2時間、車なら1時間弱で行けることがわかった。車なら電車&バスの約半分の時間で行けるのだ。
移動は午後からなので、移動時間の短縮を考えるのなら車の方が無駄がない。車で行くのなら、タクシーをチャーターするか、国際免許を取得してレンタカーを借りる必要がある。
国際免許は、国内の運転免許証があれば、パスポートと渡航を証明するもの(旅行計画書)等を提出して、案外簡単に手に入れることができる。しかし、通行区分の違う国で知らない道を走るというのは、事故などのリスクが大きいのではないかと心配されるし、レンタカーを借りたり返却したりする手続きの煩わしさもある。
タクシーをチャーターする場合でも、シュタインバッハ・アム・アッターゼまで、いったいどれほどの料金がかかるのかがわからなかった。
どうしようかと迷った。Facebookにその旨を呟くと、旧知である奈良のオーヤマ先生からは「ヘリコプターはないんですか?」というコメントが入った。困った人である。

でも、そのオーヤマ先生からのコメントから、ネットで質問してみれば返信してくれる人がいるかもしれないと思いついた。そこで、「地球の歩き方」サイトのFAQコーナーで、ザルツブルクからシュタインバッハ・アム・アッターゼまでの移動手段について質問してみることにした。
驚いたことに、投稿するとすぐにお二人の方から返信があった。タクシーでの移動は片道15,000円〜20,000円ほどかかること、オーストリア連邦鉄道のHPからなら詳しい行き方や移動時間まで調べられてチケットの予約もできること、だから電車とバスを利用して移動するのがよいこと、などをご教示していただいた(残念ながら、ヘリコプターでの移動については提案がなかった)。
これで、シュタインバッハ・アム・アッターゼへは、ご教示のとおり電車&バスで行くことが決定された。
さっそく、オーストリア連邦鉄道のHPにアクセスして、乗車可能の列車や料金などを検索してみた。その過程で、マーラーの作曲小屋のある場所は、シュタインバッハ・アム・アッターゼの中でもゼーフェルトのフェッティンガーというところにあって、近くのホテルがその小屋を管理しているということもわかった。ザルツブルクを出発するおおよその時間、そして出発地のザルツブルクと到着地ゼーフェルトを入力すると、利用できる電車・バス、指定席の予約可否までが全て検索できた。
行きは、レイルジェットという特急で、ザルツブルクから東のウィーンに向かって40分ほどのフェックラブルックという駅(アッターゼ湖の北東約15キロ)で乗り換え、そこからはちょうどよい乗り換えの電車がないので、バスでアッターゼ湖北端のカンマー・シェルフリンク駅まで。さらに今度は湖畔を南に向かって走るバスに乗り換えてゼーフェルトに到着する。所要時間は1時間40分ほどだ。
帰りはバスでカンマー・シェルフリンク駅まで戻り、そこからはローカル電車でフェックラブルックまで25分ほど。フェックラブルックからは、行きと同じくレイルジェットでザルツブルクまで40分。行きと同様に1時間40分ほどでザルツブルクまで戻ってこられる。
レイルジェットという特急列車は、ビジネスクラス・1等車・2等車で構成されていたが、2等車でも座席指定(座席指定券は一人3ユーロ、約390円)ができて十分快適らしいということがわかったので、行きも帰りも2等車の座席を指定した。往復の交通費は、指定席券も含めて二人で約84ユーロ(約10,800円)。タクシーよりもかなり安価であった(たぶんヘリコプターよりも)。
ついでに、ミュンヘン〜ザルツブルクと、コンサートが終わった翌朝にはウィーンへと移動するので、ザルツブルク〜ウィーン間の列車も予約した。ミュンヘン〜ザルツブルク間は二人で82ユーロ(約10,600円)、ザルツブルク〜ウィーン間は約54ユーロ(約7,000円)であった(共に、2等の座席指定)。
これで、旅行期間中の主な移動手段は確保することができた。

それにしても、マーラーの作曲小屋があるというだけで、たとえ日程がハードになっても、どうしてそれほどまでにシュタインバッハ・アム・アッターゼへ行きたいのか理解に苦しむ方もあろう。
それは、マーラーのファンにとっては、シュタインバッハ・アム・アッターゼが「聖地」の一つだからだ。つまり、今回の旅はマーラーの「聖地巡礼」の旅なのだ。巡礼の旅には、多少の苦労は付き物なのである。静岡県沼津市は、昨今とあるアニメの舞台となった「聖地」として、週末には多くのファンが訪れるようになっている。実際に、アニメに出てくる場所を訪れることで、アニメに描かれた世界を実感できるからであろう。
シュタインバッハ・アム・アッターゼもそれと同様である。そこを訪れ、周囲の自然の美しさを愛でたブルーノ・ワルターに、マーラーは「そのすべてを(第3交響曲に)作曲してしまったから」と語った。実際にその地へ行き、自分でシュタインバッハ・アム・アッターゼの風景を目にしたとき、第3交響曲のどんなパッセージが響いてくるのか、ただひたすらそれに耳を澄ませ、聴き取ってみたいのである。

旅支度で最も大切なことは想像力だ。
移動、宿泊、観光など、あらゆる場面で、実際に自分たちがそれを経験している場面をどれだけ想像できるかということである。
いろんな場面で、その場にいる自分たちをうまく想像することができなければ、その選択はしてはならない。レンタカーをチョイスしなかったのは、実際にレンタカーを借りて自分たちが現地を走るところをうまく想像できなかったからだ。うまく想像できないことをあえて選択すると、きっとその選択はよからぬ結果をもたらすような気がするのである。

ホテルは、全てジェットウェイ・トラベルにお願いした。荷物のこともあるので、できるだけ駅近くで、バスタブのあるホテルを探してもらうことにした。前回のイタリア旅行では、宿泊した全てのホテルがバスタブのないホテルばかりで、終日歩き回って疲れた体を癒すには、やはりゆっくりとお湯に浸かるのがいちばんだと実感させられたからである。
ジェットウェイ・トラベルのナカガワさんからは、ご自身がウィーンに滞在したこともあるとのことで、「ウィーンだけは国立歌劇場近くのちょっといいホテルになさってはいかがですか?」と提案されたので、駅からは少し離れてはいるが、そのホテルでお願いすることにした。
これでホテルも全て決まった。

あとは、それぞれの場所で食事をするところと、ウィーンの市内観光をどうするかを考えるくらいである。旅の計画で、いちばん楽しいところだ。ミュンヘンのビールとブルスト、ウィーンのザッハトルテが目に浮かんできた。

(その1)チケットを手に入れるまで

昨年秋、東京都交響楽団からのDMにて、大野和士指揮・東京都交響楽団によるグスタフ・マーラーの交響曲第3番の演奏会が、今年の4月に東京文化会館にて開催されることを知った。チケットが発売されたのは昨年の12月。発売日当日、さっそくネットにてチケットを買い求め、演奏会を楽しみに待っていた。

グスタフ・マーラーは、19世紀末から20世紀のはじめに活躍した指揮者・作曲家である。存命中は指揮者として高く評価され、ヨーロッパ各地の歌劇場指揮者を経て、ウィーン宮廷歌劇場(当時)の終身芸術監督にも任命されたほどであった。
18歳でウィーン学友協会音楽院を卒業したマーラーは、生活のために各地の歌劇場で指揮活動をするかたわら作曲にも着手、20歳を過ぎてからはいくつかの歌曲集(「若き日の歌」、「さすらう若人の歌」)や、管弦楽を伴う大規模な合唱曲(カンタータ「嘆きの歌」)などを次々と完成させていった。
マーラーは生涯に11曲の交響曲(未完成作品を含む)を遺したが、交響曲第1番の作曲を始めたのは24歳のときで、5年後の29歳のときにマーラー自身の手で初演された。以降、マーラーの作曲活動は交響曲が中心となった。

交響曲第3番の作曲が始められたのはマーラーが33歳、ハンブルク市立劇場の指揮者をしていたころである。当時は、コレラの流行もあってハンブルクでも多数の死者が出たためか、マーラーは劇場の休暇を利用してハンブルクを離れ、2千メートル級の山々と70以上の湖が点在する風光明媚なザルツカンマーグート(オーストリア)のシュタインバッハ・アム・アッターゼ(アッターゼ湖畔のシュタインバッハ)に滞在、湖畔に小さな作曲小屋を建てて、作曲に明け暮れていた。
ちょうど交響曲第3番を作曲していた折、マーラーの弟子であるブルーノ・ワルターがシュタインバッハ・アム・アッターゼにマーラーを訪れた。周囲の風光に感嘆するワルターに向かって、マーラーは「君はもう何も見なくてもいい。僕がその全てを作曲してしまったから」と言ったそうだ(これは、マーラー・ファンであれば周知のエピソードである)。
休暇中は毎年のようにシュタインバッハ・アム・アッターゼを訪れたマーラーは、ここで34歳のときに交響曲第2番を、36歳のときに第3番を完成させた。

大野和士指揮・東京都交響楽団による交響曲第3番の演奏会を待つあいだ、そんなシュタインバッハ・アム・アッターゼを、機会があればぜひ一度訪れてみたいという思いはいっそう強くなった。
地図で見ると、シュタインバッハ・アム・アッターゼは、オーストリア国内では、ウィーンよりはザルツブルクからの方が近い。ザルツブルクと言えば、そのモーツァルト生誕の地で開催される音楽祭が有名である。もし、シュタインバッハ・アム・アッターゼを訪れるのならば、せっかくなのでザルツブルク音楽祭も鑑賞できないものだろうかと考え始めていた。

クラシック音楽を聴くのが趣味とは言え、実際にザルツブルク音楽祭については、その開催時期からプログラムまで、詳しいことはほとんど知らなかった。学生時代、FM放送のクラシック音楽番組のエアチェックをしている際、「今年のザルツブルク音楽祭から...」というアナウンスで、その音楽祭がクラシック音楽界では由緒ある音楽祭であることを知っていたくらいだ。
そこで、今年の音楽祭はどんなプログラムで開催されるのだろうとネットを検索してみた。すると、7月28日〜29日の両日にわたって、祝祭大劇場にてウィーン・フィルによるマーラーの交響曲第2番「復活」が演奏されることを知った!
驚いた。
シュタインバッハ・アム・アッターゼへ行くことを考えていたところに、その場所で作曲された交響曲第2番の演奏会がザルツブルクで開催されるのだ!
3番ではなかったが、「これはきっとマーラーからのお導きである」と思った。
まるで、ふと手に取ったジグソーパズルのピースが空白の部分にぴったりとはまったときのように事態が生起するときには、躊躇することなくその流れに乗らなくてはならない。
7月の終わりならば、今の職場は夏休みに入っている。
行くしかない!と思った。

さっそく、ザルツブルク音楽祭のツアーをネットで検索してみた。例えばJ社の場合は、オペラとコンサートの2種類のチケット付きで1人70〜80万円であった。家内と二人で行けば140〜150万円!とても手を出せる代物ではなかった。
さらにあれこれ調べてみると、ツアーではなく自分でチケットを手配する方法もあるということがわかった。音楽祭の公式ホームページから直接チケットを購入するのである。これならJ社ほどのツアー料金はかからない。往復の航空券と電車等による移動の交通費、ホテル等の滞在費、さらにはチケット代を加えても、J社のツアーの約半額で済みそうであった。もっとも参考になったのは、以下のサイトである。
http://ヨーロッパ音楽の旅.com/salzburgerfestspiele-ticket/

2月、件のザルツブルク祝祭大劇場でのウィーン・フィルによるマーラーの交響曲第2番の演奏会のサイトにアクセスしてみた。
7月28日は午前11時から、29日は午後8時からのコンサートであることがわかった。夜のコンサートよりは、初日の午前中からのコンサートの方がチケットは取りやすいかもしれないと思った。
28日のコンサートをチョイスして、座席を選ぶところまで進んだ。いちばん高い席は220ユーロ(約2万8千円)。もちろん、日本でウィーン・フィルを聴くことを考えれば安いのかもしれないが、二人で5万円以上もするチケットはあまりに贅沢であった。二階席ならば80ユーロ(約1万円)の席があったので、そちらを選ぶことにした。サイトでは、その座席からは舞台がどう見えるのかも確認することができた。鑑賞には特に支障のない座席であった。
二人分の席を選び、支払いのページに移った。クレジットカードの番号を入力し、エイヤッと気合いを入れて申し込み確定ボタンをクリックした。すると、公式ホームページのチケットセンターからは、以下のような返信が送られてきた。曰く、「汝の予約を受け付けた。しかし、確実にチケットが手配できたわけではない。チケットが確約できるかどうかは3月末日までには連絡するので、それまで待たれよ」とのことであった。
3月末まで猶予がある理由はよくわからなかったが、世界的に人気のある音楽祭だから応募者の中から抽選するのかもしれないなどと思っていた。もちろん、チケットが入手できなければ、ザルツブルク行きは諦めるつもりでいたのである。

すると、そのメールが来てからわずか2週間後、Salzburger Festspieleというところからメールが入っていた。
ザルツブルク音楽祭のチケットセンターからだ!
ドキドキしながらメールを開いてみた。
「汝の申し込んだチケットは確定した」とのメールであった。
ミューズ神は舞い降りたのである。
天にも上る気分であった。
こうして、ザルツブルク音楽祭への旅支度が始まった。

12月28日(木)

今年も年の瀬が押し迫ってきたということで、この一年を振り返って恒例の10大(重大)ニュースを。

1.定年退職
3月、産休補助教員時代を含めると、都合37年と6ヶ月間務めた中学校教員を定年退職した。
退職後は特に何もせず、のんびり過ごそうと思っていたのだが、とあるところからのご紹介もあって、4月からは自宅からそう遠くないところにあるキリスト教系の中・高一貫校に、非常勤講師として週4日午前中のみ10時間だけ勤務させてもらうことになった。高校生を教えるのは初めての経験で、最初は戸惑うところもあったのだが、半年間ほど過ぎるといろいろ様子もわかってきて、なかなか楽しく勤めることができた。学校からは来年も続けてほしいと言われているし、まだ基礎年金も支給されないので、とりあえずはもう一年お世話になろうと思っている。
また、地元のテニスクラブでソフトテニスのスクールを開催することになり、5月から週2回、小学生の部と中学生の部の2本立てで2時間半、そのコーチを務めることにもなった。こちらもまだ来年は続ける予定である。

2.眼窩骨折
2月、合気道浜名湖道場で稽古中、自分の不注意で前受け身から立ち上がろうとして、反対方向から前受け身をしていた道場生の顔面に右眼が激突、すぐに帰宅途中にある眼科医を受診したのだが、「軽い打撲」との診断で目薬だけ処方してもらって帰宅した。
その2週間後、友人の結婚式のため帰省した娘と娘の友人たちを乗せて二次会の会場へと向かう車中、ミキちゃんという総合病院で看護師をしている娘の友人が、右目の状態を見て「それ、ウチの科に来て診てもらった方がいいですよ、たぶん手術になると思いますけど」と言った。なんでも、「眼形成眼窩外科」という科らしい。すぐに最初に受信した眼科医から紹介状を書いてもらって、眼形成眼窩外科を受診。担当の先生からは「右目の周囲の骨が2箇所折れているので、明日にでも入院してすぐに手術した方がいいです」と言われた。自分の職業と、これから公立高校入試と卒業式を控えているのでとても仕事は休めない旨を話し、入院と手術は3月の春休みにしてほしいと依頼した。その春休み、個人的には50年ぶりとなる入院・手術。ちょうど1週間入院して無事退院した。
3ヶ月後の6月、プレートを取り除くために再入院・再手術。今度は2泊3日の入院で済んだ。先生からは「今度同じようなことがあったら、眼球破裂するかもしれません」と言われた。
今年は厄年だったことを思い出し、さっそく井伊直虎ゆかりの井伊谷宮にて厄払いのご祈祷をしていただいた。

3.旅あちこち
4月、退職したらどうしても見たいと思っていた京都・妙心寺退蔵院の枝垂れ桜。妙心寺に着いたときには降っていた雨も、お昼ご飯を食べている間に上がって、青空の下、満開の枝垂れ桜を堪能することができた。
5月、ソフトテニスの顧問仲間と一緒に、京都のミヤタ先生のご実家である京丹後市へ。成相寺から見た天橋立の絶景は忘れられない。伊根の舟屋も風情があってよかった。
8月、昨年末に亡くなった義父の追悼も兼ねて京都五山の送り火へ。マスヤマ先生のご厚意で、特別な場所にて送り火を見ることができた。京都のホテル近くにあった「鳳泉」で食べた「エビかしわそば」が絶品だった。
恒例の城崎温泉麻雀は、本部のカンキくんが不参加であったが、今年も内田先生からいろんなお話をうかがうことができ、濃密な時間を過ごすことができた。
月末の家内の誕生日小旅行は三度目の北海道へ。今年は道東(釧路湿原、阿寒湖、オンネトー、摩周湖、知床)を中心に廻った。特に知床の自然はとても一日で堪能できるものではない。ぜひまた行きたい。
10月、今年の大学時代のクラブの同期会は、ヒロセくんの住む札幌にて開催。以前、京都の百練先斗町店で仲良くなった札幌在住のオノデラさんにメールをすると、「一緒にラーメンでも食べに行きましょう」と駅までお迎えに来てくださった。持つべきものは友である。
同期会が終わった後、もう1泊して定山渓の紅葉見物に。地元の観光協会が運営する「かっぱバス」に乗って紅葉の名所巡りをしたあと、レンタカーにて豊平峡へ。そのあまりのスケールの大きさと紅葉に心から感動した。
12月、大阪でのウェスタンジャパンボウルの帰りに、滋賀県の永源寺と湖東三山を巡った。どこのお寺もたいへんに立派なお寺さんばかりで感心させられた。今度は紅葉の時期に訪れてみたい。
4.プリウスからトゥインゴへ
7月、プリウスのCDプレーヤーが故障して動かなくなったのをきっかけに、プリウスの次の車を考えるようになった。はじめはイタリア車を考えていたのだが、フィアットなどけっこう乗ってる人が多いのと、アルファロメオは値段が高いこともあったりして、どうしようかと考えていたとき、とあるネットの記事で見たルノーのトゥインゴが目に止まった。さっそく実車を見に行ってみた。家内もひどく気に入ったようだったので、迷わず8月に注文。ディーラーからは「納車までに3ヶ月ほどかかります」と言われていた。
11月、その3ヶ月が過ぎたが、ディーラーからは何の音沙汰もない。こちらから聞いてみると、「車を積んだ船はフランスを出たとのことです」と何とも不確かな返事。
明日がクリスマス・イブという12月、ようやくトゥインゴが納車された。実際に乗ってみると、直列3気筒DOHCターボエンジンを積んだRRのドライブは快適。とても0.9Lの車とは思えない走りである。
プリウスに乗ったのは12年と3か月。走行距離は159,131キロ。地球を約4周ほどした距離になる。よく走ってくれた。いい車だった。プリウスもいい跡継ぎができたと思ってくれていることと思う。

5.展覧会と演奏会
7月、久しぶりにインバル・都響がマーラー「大地の歌」を演奏するとのことで、東京の芸術劇場へ。せっかく東京へ行くのならばと、以前NHKEテレの日曜美術館で見て以来気になっていた吉田博展も見られると思い、演奏会の前に新宿の東郷青児記念美術館へ。期待に違わず、木版画の風景画はどれもため息が出るほどにすばらしい作品ばかりだった。
11月、久しぶりに大学のクラブの定期演奏会を聴くため兵庫県立芸術文化センターへ。せっかく関西に行くのならばと、京都で途中下車して国宝展も見ていくことにした。しかし、国宝展は平日だというのにものすごい人であった。とても一つ一つをじっくり見ている余裕などなかった。感動したのは平家納経。祈るというのはこういうことかと感動させられた。
定演については、あれこれ思うところがあった。まるで招聘した常任指揮者のための演奏会のような感じがして、もっと学生が学生らしくやればいいのにと思った演奏会であった。OBとしてはいささか淋しい感じがした。

6.光回線
自宅で後付けナビ用の地図更新をしようとしたのだが、あまりにダウンロードに時間がかかったことに業を煮やし、それまでのADSL回線を光回線に替えようと思い立った。あれこれ検討した結果、同じプロバイダーならばケータイの料金が安くなると聞き、SBの光回線を導入することにした。しかし、これがあれこれトラブル続きで、そのために夏休みの前半はほとんどその対応に追われた感じだった。
トラブルとは、光回線導入の前に、光回線と同様のスピードで接続できるとの触れ込みのSBAirとを試用したことで、実際はSBAirがとても使用に耐えるシロモノではなく、そのキャンセルに手間取ったことや、光回線導入に伴い固定電話もひかり電話に替えたため、NTTとの契約解除がうまくいかなかったり、わが家には光回線用の回線工事が行われていないのに、光回線に接続するためのキットだけが送られてきて、それを送り返したりというようなことであった。
それでも、ともかく8月の中旬以降にはめでたく光回線が開通した。とりあえず、今は快適なIT環境である。

7.K.G.ファイターズ
8月の終わりの秋のリーグ戦の開始とともに、毎年その経過をモニターしている関西学生アメリカンフットボールリーグ。最近は、rtvというサイトがインターネットで試合のライブ中継を配信してくれるので、自宅に居ながらにして試合観戦ができるのでたいへんにありがたい。
11月、全勝同士で対戦したファイターズとパンサーズ。残念ながらファイターズは負けてしまった。しかし、昨年から西日本代表校決定戦(ウエスタンジャパンボウル)には関西2位校も出場できることになって、パンサーズとは12月に再戦が決まった。ファイターズの執念が見たくて、大阪万博記念競技場まで足を運んだ。試合は、開始直後からファイターズがリード。モメンタムを掴んだファイターズはその後も着々と得点を重ねて、見事甲子園ボウル(全日本大学アメリカンフットボール選手権決勝)出場を獲得した。
その甲子園ボウル、相手は因縁のフェニックス。ここ10年はずっと関西が勝っていたので今年も大丈夫だろうと思いきや、フェニックスの1年生QBに翻弄されての敗戦。でも、ファイターズは3年生が中心のチームだったので、来年はきっと今年よりも強くなった姿を見せてくれるだろうと期待したい。

8.役満
1月、支部例会にて緑一色を和了。普通に染めようとしていたら、いつの間にか赤の入っていない索子ばかりになっていた。振り込んだ人は、この年末年始をパリで過ごしている。
8月、本部例会にて大三元と小四喜を和了。大三元は、嶺上牌で白を引いて自摸。観戦していたマエダくん曰く「まるで劇画みたいだ!」と。小四喜は、立直をかけていた某氏がラス東を「あっ!」と言いながら場に落として栄。しかしその後、某氏は四暗刻を自摸。半荘で役満が3回も出たのには驚いた。

9.読んだ本
今年読んだ本の中でベストワンは、立花隆「武満徹・音楽創造への旅』(文藝春秋)。武満徹が何を考え感じながら作曲していたかという核心に迫ろうとしているだけでなく、何より筆者の武満徹への愛情がひしひしと感じられる。武満徹について書かれた本の中ではベストのものであろう。
次点は、ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』(岩波書店)。太平洋戦争後の日本の状況を、これだけ克明に描いた著作はなかったのではないか。日本人の自分ですら知らなかった事実が多々あった。
もう一点、アレックス・ロス『これを聴け」(みすず書房)。とにかく、こういう音楽評論を読んだことがなかった。日本にもこんな書き手が現れてほしい。

10.映画
もちろんベストワンは、「スター・ウォーズ 最後のジェダイ」。今までのスター・ウォーズの物語へのオマージュを忘れることなく、新たな物語の始まりを予感させるものとなっていたと思う。今からエピソード9が楽しみである。

今年は、共謀罪の成立をはじめとして、国会を軽視する現政権の横暴ぶりが目立った一年だった。しかし、衆院選挙では現与党が再び政権党となった。日本の政治は劣化しているのだろうか。自分にできることは多くないであろうが、少なくとも権力の横暴にはでき得る限り対峙していく姿勢を持ち続けたい。

それではみなさま、どうぞよいお年お迎えください。
来年もどうぞよろしくお願いいたします。

2016年も残すところ数日ということで、恒例の10大ニュースで今年一年を振り返ってみたい。

1.イタリア再訪と北海道小旅行
10月、甲南麻雀連盟の山本浩二画伯のミラノでの個展開催に合わせ、2年ぶりにイタリアを再訪。ローマから入り、フィレンツェ、ヴェネチアを回ってミラノへ。
特に印象深かったのはヴェネチア。まだまだ行ってみたいところがたくさんあるので、いつの日かまた再訪を果たしたい。
8月、家内の誕生日小旅行は今年も北海道へ。ニセコの神仙沼、羊蹄山と大沼公園・駒ケ岳の絶景、函館の夜景と朝市、どれも忘れられない思い出である。

2.娘の結婚と義父の葬儀
7月、娘が入籍した。お相手は、川崎市出身でN社に勤務するエンジニア。披露宴は来年の1月、東京にて開催予定である。よき伴侶を得て、これから幸せな家庭を築いていってほしい。
12月、家内の父親が亡くなった。7回にも及ぶ手術を乗り越えての強靭な生命力は、眠りながら安らかに最後の時を迎えたとのことであった。できうれば、あと1ヶ月待って娘の晴れ姿を見てほしかった。

3.部活動最後のベンチ
9月の新人大会をもって、34年間に及んだ部活動監督も現役最後のベンチとなった。昨今は、小学校からのジュニア選手の活躍ばかりが目立つ中体連大会である。中学校から競技を始めた選手を育てる楽しみも魅力も、なくなりつつあるように感じる。そういう意味では、ひとつの時代が終わる時期のタイムリーな引退ということなのであろう。

4.甲南麻雀連盟川床宴会
8月、京都先斗町の歌舞練場近くにオープンした「百練先斗町店」に、甲南麻雀連盟の面々が集合して川床宴会を開催。直前に内田総長が令兄を亡くされたとのことで、一時は開催を見合わせることになったのだが、内田総長から「兄の供養のために愉快な席にしたいと思います」とのご連絡をいただき、当日は鷲田先生もご参加くださって、何とも盛り上がった会になった。今年の忘れられない大切な思い出の一日であった。

5.寿荘閉店
6月、われらが甲南麻雀連盟浜松支部のホームグラウンドであった寿荘が閉店した。格安、禁煙、飲み物・食べ物持ち込み自由という、まことに快適な雀荘であった。通い始めて四半世紀。街の雀荘がなくなっていくのは、まことに寂しいかぎりである。

6.アップルウォッチとiPhone7
4月、SoftBankの「3月中なら20Kオフ」という惹句に誘われてアップルウォッチを購入。最初はどんな使い方ができるか半信半疑であったが、毎日のウォーキングの計測や、バス・電車の時間確認、メールの確認等で、今ではなくてはならない必需品である。何より、いちいちiPhoneを持ち出さなくてもあれこれ確認できるところが便利なのである。
11月、それまで絶好調だったiPhone6の電源が、残り30%くらいからいきなりダウンするようになってしまった。原因は不明。ちょうどそんなときに、SoftBankから「11月中なら15Kオフ」のDMが来たので、思い切ってiPhone7に機種変。どうやら僕は、「今月中なら◯◯オフ」という文句に弱いらしい。
12月、甲子園ボウルに行った際、iPhone7にSuicaを入れて阪神電車の改札を通ってみた。すんなり通れた(当然です!)ので感動した。

7.KGUSB同期会
5月、学生時代のクラブの同期会を今年は福岡にて開催。九州でのKGの集いに合わせての開催だったので、同期ばかりでなく、先輩や後輩など懐かしい顔ぶれに会うことができた。みんなで大宰府を回ったり、夜は博多のとんこつラーメンを食べたりして、まことに楽しいひとときを過ごすことができた。来年は北海道で開催とか。楽しみである。

8.K.G.ファイターズの応援
11月、関西学生アメリカンフットボールリーグ最終戦、対パンサーズ戦の応援で大阪万博記念競技場へ。万博公園の駐車場は当日のイベントの関係でかなり混み合うとのことだったのだが、阪大ナカノ先生のご厚意で阪大構内に駐車させてもらうことができた。早めに着いたので、万博公園内を散策。国立民族学博物館も見学することができた。
試合はファイターズが気迫のこもった試合運びでパンサーズを圧倒。西日本代表決定戦では、パンサーズを再び破って、甲子園ボウルへと駒を進めた。
12月の甲子園ボウルでは、東日本代表の早稲田大学ビッグ・ベアーズを撃破して、2年ぶりに王座奪還を果たした。来年1月のライスボウルが楽しみである。

9.ひもトレ・バランスボード講習会
4月、小関先生による浜松で初の「ひもトレ講習会」が開かれた。小関先生は、物静かで淡々とヒモの効果をあれこれ実践して見せてくださった。驚きだった。
11月には、バランスボードを中心とした講習会も開いてくださった。人の身体の持つ不思議さをあらためて実感させられた。

10.本と映画
今年読んだ本のベストワンは、小坂井敏晶『社会心理学講義』(筑摩選書)。久しぶりに知的興奮を掻き立てられた。
次点は、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチ『チェルノブイリの祈り』(岩波現代文庫)。原発稼働を支持する人には、ぜひ読んでほしい著作である。
見た映画のベストワンは、マリー・カスティーユ・マンシオン・シャール監督『軌跡の教室』。教育に携わるすべての人に見てほしい映画である。
次点は、エディ・ホニグマン監督『ロイヤル・コンセルトヘボウ オーケストラがやって来る』。ベルリン・フィルと並ぶ世界最高のオーケストラの演奏旅行を中心としたドキュメンタリー映画である。ロシアの老人がマーラーの『復活』を聴いて涙するラストシーンが印象的だった。

定年退職まで、残すところあと3ヶ月となった。最後まできちんと勤めて、37年間の教職生活を締めくくりたい。

では、どちらさまもよいお年をお迎えください。
来年もどうぞよろしくお願いいたします。

12月28日(月)

うなとろ日記も、最近は一年間を振り返っての日記のみになってしまった。
退職したら書く時間もできると思うが、さてどうなることやら。
というわけで、毎年恒例の10大ニュースを。今年もいろいろありました。

1.旅行
①北海道
今年の旅行でいちばんの思い出は、夏の終わりの家内の誕生日小旅行で北海道へ行ったことである。
きっかけは、家内が北海道へ行ったことがないということで、職場へよく顔を出してくれる「赤い風船」旅行社のオオダケさんに頼んで、航空券とホテルとレンタカー、さらにはおみやげクーポンと小樽運河クルーズ券までセットになったプランをお願いし、事前には北海道に詳しい浜松支部のオノちゃんやヨッシーにあれこれ情報提供してもらって、だいたいのプランを立ててセントレアへと向かったのであった。
新千歳空港到着後、レンタカーをかっ飛ばして向かったのは神威岬。大学時代に行こうと思って果たせなかった場所である。かなり遠かったが、何とか辿り着くことができ、すばらしい夕日を見ることができた。
夜は札幌の街へと繰り出して、ジンギスカンを食べ、時計台を見て、大通り公園を歩いた。
翌日は、桂沢湖を経由して富良野へ。ラベンダーは終わっていたが、きれいなお花畑を見ることができた。さらに足を伸ばして美瑛へ。有名な「青い池」は神秘的な美しさであった。美瑛から札幌へと取って返し、夕方からは小樽の運河クルーズ。
夜は、ナカノ先生おススメの金寿司へ。ここのウニには絶句。札幌に行ったら、ぜひまた訪れたい。
レンタカーで二日間に走った距離は700キロ超。持参したレーダー探知機のありがたさも実感させられた。
②京都
今年は、京都へ都合5回赴いた。3月に観桜、6月は紫陽花を愛で、7月は「京都賞」のシンポジウム、8月は五山の送り火、そして年末の修学旅行の下見で。
6月は、大阪で山本浩二画伯の個展を見たあと、京都の先生たち主催の「ハモの会」に参加。その翌日、宇治の三室戸寺や海住山寺、浄瑠璃寺を巡った。
7月のシンポジウムでは、京大の構内に初めて入った。レストランでビールが飲めるのには驚いた。夜はナガミツくんの生存確認の小宴。ナガミツくんとの会話はほんとうに楽しい。
8月の五山の送り火は、京都へ着く前に彦根城へ寄り、さらには琵琶湖を回ってびわスポ大へ。ユニフォーム姿の凛々しいけいぞうさんとお会いした。京都到着後は、マスヤマ先生のご厚意で勤務先の校舎の屋上で送り火を見た。間近に舟形や妙法が見ることができた。感動した。
それにしても、行く度に京都の魅力はいや増すばかりである。そこが京都の懐の深さなのであろう。
翌日は、近江八幡へ移動して、いつものフレンチをいただいたあと、クラブハリエへ。ウトさんのおかげで、ヴォーリズの特別室にておいしいケーキとコーヒーをいただいた。至福のひとときであった。
秋には、例年アメフトの応援とセットで京都の紅葉を愛でに行っていたが、今年は奈良へ。長谷寺と室生寺を回ったが、紅葉よりも古寺のたたずまいに心打たれた。
③伊豆
伊豆には、3月に学年の親睦旅行で、10月には家内と湯ヶ島のペンションへと二度訪れた。やはり、伊豆は少なくとも年に一度は訪れないと何となく落ち着かない気がする。

2.購入したもの
①プリメインアンプ
オーディオ機器の中心であるプリメインアンプのスイッチが入らなくなってしまったので、浜松に唯一あるオーディオ機器の専門店にて、今まで使用していたものと同じメーカーのアンプに買い換え。このアンプは、光ケーブルでテレビと直接接続できたり、オプション機器を付けてiPhoneの音楽をBluetoothで聴くことができたりして、なかなかなのである。
②リビングのエアコン
今までのよりも強力なパワーのものに買い換えた。スイッチを入れると同時に部屋が涼しくなる。すべからく、エアコンはこうでなくてはならない。
③携帯ウォッシュレット
水(温水)を入れて乾電池で動作する優れモノである。これさえあれば、どんなトイレでもどんと来いなのである。
④hontoの電子書籍
hontoのクーポン攻撃の前に、つい「おお、これは安い!」とポチってしまうのであった。よく利用しているのは50%オフのクーポン。何冊ダウンロードしても、トータルで半額になるのは大きい。専用のアプリもあるので、タブレットにどんどんDLしてしまった。
⑤「NO WAR」の「九条タグ」
安倍政権の安保法案に反対する意味も込めて購入。多くの反対者の声も無視して、法案は強行採決された。次の選挙でその「おとしまえ」をつけてもらおうと思う。
⑥中近眼鏡
ふだん掛けている眼鏡は、もちろん遠近両用なのだが、どうも近くの字が見づらくなってきたため、「遠近」ならぬ「中近」眼鏡を購入した。今までの「遠近」眼鏡は戸外用、「中近」眼鏡は室内用と使い分けている。不便は不便なのだが、これも年相応に致し方のないことなのであろう。
⑦VANのスウィングトップ
学年職員の旅行のための積み立て金から返金があったので、「ええい!」と思い切って購入。着るのがもったいなくて、なかなか着る機会がない。
⑧マルちゃん生麺冷やし中華
インスタントと侮ることなかれ。これでインスタント?と思えるほどのできばえである。まだの方はぜひ来夏ご賞味を。

3.読書
今年読んだ本は58冊であった。ベスト3は以下の三冊。
①『137億年の物語』(クリストファー・ロイド、野中香方子訳、文藝春秋)
こんな歴史書を読んだのは初めてである。時間という大きな流れの中で自分たちの立ち位置を確認することができる稀有の書。文句なしのベストワンである。
②『イェルサレムのアイヒマン』(ハンナ・アーレント、大久保和郎訳、みすず書房)
ナチスによるショアーという組織的犯罪の素因として、アーレントは「無思想性」を挙げている。わかりやすいプロパガンダに流されず、自らの思想を鍛え上げることが大切だと教えられた。
③『わたしを離さないで』(カズオ・イシグロ、土屋政雄訳、ハヤカワepi文庫)
なんとも切ない物語だった。小説の持つ力をあらためて実感させられた。

4.映画
今年見た映画のベストワンは、つい最近見た「スター・ウォーズ フォースの覚醒」。
冒頭の「エピソードⅦ」というオープニングを見ただけでうるうるしてしまった。新しい主人公レイの今後の活躍がめっちゃ楽しみである。早く続きが見たい。

5.合気道と韓氏意拳
5月、合気道浜名湖道場初めての合宿が行われた。場所は愛知県の明治村内の武道場。北総合気会からも多くの人たちが来てくださり、たいへんに盛り上がった合宿となった。
韓氏意拳は、静岡分館で中級の講習が始まった。初級とはまた違って、動きがいろいろと新鮮である。特に、最後の講習での「ひもトレ」にはびっくりさせられた。みんな100均に手芸用のひもを買いに走った。

6.ホリノさん来浜
暑い盛りの7月の終わり、本部のホリノ社長が来浜された。ももクロのコンサートのチケットが手に入ったが泊まるところがないので、どこかへ泊めてほしいとのことであった。ちょうど、家内の実家が空いていたので、そこへ泊まってもらうことにした。
コンサート帰りのホリノさんと駅前の居酒屋で合流したが、ビールを水のように立て続けに何杯も飲んだのにはみんなびっくり。二日目の夜には、浜松支部ホームの雀荘にて囲卓。いやはや、パワフルなホリノ社長であった。

7.フライデーでびう
江さんからの「スーさん、FRIDAYされてまっせ」というツイートで、フライデーに自分の写真が載っていることを知る。「ま、まさか。何もスクープされるようなことしてないし!」と半ば狼狽しつつ、すぐに書店へ。
件のフライデーを確認すると、内田先生の紹介記事で、夏に本部にて麻雀しているところの写真であった。何を隠そう、江さん本人が撮られた写真である。ああ、びっくりした。

8.同期会
昨年、大学時代のクラブ同級生と35年ぶりに再会、これから毎年同期会をやろうということになって、今年はオカモトくんが主催する香川へ。みんなでうどんの昼食を食べ、同級生のお墓参りをして、夜は小宴。
今回は家内も一緒だったのだが、かつての女子部員たちから、「なんで結婚したん?」とか「家ではどんな感じなの?」とか質問されていた。ほっといてほしい。
翌日は金比羅さんへ。がんばって階段を登り、記念のお守りを購入。象頭山も見れたし、いい思い出になった。来年は福岡にて開催ということが決まった。

9.訃報
昨年に引き続いて、また同級生が現職で亡くなった。熱い指導をするいい先生だった。人間、寿命というものがあるのは仕方がないにしても、現職で亡くなるのは悲しすぎる。
12月には、内田先生のご母堂の葬儀へ、家内・浜松支部オノちゃん・KC教え子のエビちゃんとともに参列。
そういう年回りになったということもあろうが、今年は例年になく喪中はがきが多かったように思う。

10.K.G.ファイターズ
今年も母校アメリカンフットボール部の応援に駆けつけた。11月の関西学生リーグ最終戦では、立命大パンサーズに惜敗。なかなか進まないオフェンスと、大事なところでゲインを許してしまうディフェンスという印象だった。
来季は、西日本代表校決定戦に関西から2校出場するようになるそうだ。さて、どうなることやら。いずれにしても、ファイターズの奮起に期待したい。

それでは、みなさまよいお年をお迎えください。
僕は、退職まであと一年となりました。
来年もどうぞよろしくお願いいたします。

12月28日(日)

今年も早いものでもう年の瀬。毎年恒例の10大ニュースで、2014年を振り返ってみたい。

1.旅行
なんと言っても、今年の旅行のメインイベントは、11月にイタリア合気会50周年で、家内とローマへと旅したことである。
フィンランド航空を利用して、ヘルシンキ経由でローマへ。ローマのフィウミチーノ空港からは電車でテルミニ駅へ。投宿先のホテルは駅のすぐ近くだったので、迷うことなくホテルへ。到着したのは夜の8時過ぎ。食事がまだだったので、ホテル近くのリストランテへ。ローマでの初めての食事だった。
11月1日は、イタリア合気会50周年の会場であるローマ見本市へ。山田師範を始め、北総合気会の面々とバスで移動。多田師範の講習や演武会を含め、稽古がすべて終了したのは夜の9時。何と11時間にも及ぶ合気道三昧の初日であった。
翌日は、さすがに同行した家内も合気道を見ているだけでは過ごせないということもあり、講習会はお休みして二人でローマ市内観光へ。スリには十分注意と日本を発つ前から言われていたので、あれこれ対策を講じて、まずはローマ・パス(3日間有効のバス・地下鉄乗り放題、遺跡または美術館2箇所無料のパス)を手に入れ、地下鉄に乗り込んでまずはサン・ピエトロ大聖堂へ。
ちょうど日曜日ということもあって、入口には既に大勢の人が並んでいた。セキュリティゲートを通って、クーポラを目指す。途中まではエレベーターがあるのだが、最後は急な斜めの階段をひたすら登る。途中、ミサの歌声が聞こえてきた。荘厳な気持ちになった。ようやく辿り着いたクーポラからの眺めは、それまで疲れを吹き飛ばしてくれた。
サン・ピエトロ大聖堂からナヴォーナ広場へ。、途中昼食を挟んで、パンテオンからトッレ・アルジェンティーナ広場へ、さらにはヴェネツィア広場からカンピドーリオへ。ここの高台からは、フォロ・ロマーノが一望の下に見渡せる。さらには、有名なコロッセオへ。残念ながらコロッセオは見学時間が過ぎていて、入場することは叶わなかった。
この日の夜は、イタリア合気会主催の晩餐会。会場は、「ローマの休日」でアン王女の宿舎として撮影されたブランカッチョ宮殿。夜12時を回っても宴会は延々と続いたのであった。
11月3日は、内田先生たち甲南合気会の面々に同行させていただき、アッシジ巡礼へ。バスで2時間ほどの旅であったが、途中で昼食を食べた城塞都市のスペッロといい、アッシジの聖フランチェスコ大聖堂といい、そのあまりの美しさに何度も声を失った。
11月4日は、ローマ市内観光の2日目。地下鉄でポポロ広場へと出向き、そこからピンチョの丘へ登り、スペイン広場へと降りて、工事中のトレビの泉を通って、再びフォロ・ロマーノへ。ローマ・パスでフォロ・ロマーノを散策して、コロッセオへ。とにかく興奮して疲れを忘れるほどであった。
11月5日は日本へ帰る日である。支度を整えてフィウミチーノ空港へ。あっという間のイタリア滞在であった。ぜひまた来たいと思った。生涯忘れ得ぬ旅行となった。日本に帰ってから、ジェット・ラグの影響か、じっとしてるとすぐに眠くなって困った。

2.新任地への転勤
定年まであと3年ということで、できるだけ心静かに過ごせる学校へ転勤したいと願っての転勤先は、前任校とは湖を隔てた反対側の学校であった。予想に違わず、よい子たちばかりの学校であった。
部活動は、男女の副顧問ということで、10年ぶりに女子ソフトテニス部も教えたが、元気のよい、やる気のある生徒たちに刺激されて、つい夏の大会までせっせとテニスコートへ足を運ぶことになった。
夏の大会では、男子は団体で東海大会まで、女子も1ペアが個人戦で第3シードを破る健闘を見せてくれた。いつまでも記憶に残るすばらしい試合であった。

3.インバル、都響のマーラー
足掛け3年に渡ったインバル・都響のマーラー・ツィクルスもついに7月の10番で完結した。
3月の8番と9番もよかったが、最後の10番は、特に指揮者・楽団員の思いがこもった名演であった。
これからしばらくは、サントリー・ホールへも、横浜のみなとみらいホールへも行くことはないのかと思うと、なんだかひどく寂しい気がする。

4.読書
今年の読んだ本は67冊。そのうちのベスト3は以下の3冊。
①『ひと皿の記憶』(四方田犬彦、ちくま文庫)世界には知らない食べ物がいっぱいあるということを知った。
②『新・幸福論』(内山節、新潮選書)私たちはどういう時代に生きているのか、これからどう生きていけばいいのかという示唆を与えられた。
③『海のふた』(よしもとばなな、中公文庫)この小説を読んで、どうしても西伊豆土肥へ行きたくなった。

5.映画
今年見た映画のベストワンは、「世界の果ての通学路」。学ぶとはどういうことなのか、大人よりも、いま学校で学んでいるすべての子どもたちに見てほしい映画であった。

6.合気道
今年は、北総合気会が創立30周年であった。千葉へと出向き、講習会と演武会に来られる方々のお世話をした。外国からの参加者がたいへんに多くてびっくりした。
帰る前に成田山新勝寺にお参り。たいへんに大きなお寺さんであった。

7.Macの新しいシステムとiPhone6
10月、Macが新しいOSであるYosemiteにアップデートされた。ちょっと重たい感じだ。
iPhone6は、何とかローマ行きに間に合わせることができた。少し大きくなったが、その分薄くなって何よりサクサク動いていい感じである。

8.同窓会
11月、今年は大学卒業後25年・35年・50年の卒業生が招待ということで、久しぶりに大学の門をくぐった。35年ぶりに会うクラブ同級生もいて、思い出話に花が咲いた。これから毎年やろうということで話がまとまった。

9.訃報
9月、同級生の突然の訃報に接した。忌憚なく話ができる数少ない友人の一人であった。悲しみに打ちひしがれた。

10.K.G.ファイターズ
今年も母校のアメリカンフットボール部の応援に駆けつけた。
11月は関西学生リーグ最終戦の立命戦へ。昨年のスコアレスドローを払拭するかのような、スピーディーなノーハドル・オフェンスがすばらしかった。
12月は甲子園ボウルへ。4連覇のかかった試合だったが、パワーで日大を圧倒して見事4連覇を果たした。それにしても、今年のK.G.ファイターズは「強い」という印象であった。年明けのライスボウルが楽しみである。


それでは、みなさまよいお年をお迎えください。
来年もどうぞよろしくお願いいたします。

8月3日(日)

エピソード3「初めての夏休みと定期演奏会」

7月に入ると同時に、大学は夏休みに入った。
仄聞するに、今は7月の終わりに前期試験を行う大学がほとんどらしい。自分たちの時代は、前期試験は9月終わりに実施していた。9月の中旬から後期が始まるので、それまでが夏休みだったのである。
「大学って、何ていいところなのだろう!」高校時代までの夏休みのことを思うと、大学はまるで天国のように感じられた。

しかし、そんなのんびりとした雰囲気に浸っている暇はなかった。定期演奏会が迫っていたのである。
第14回定期演奏会は、昭和50年7月11日(金)18:30より、大阪フェスティバルホールにて開催の予定であった。
大阪フェスティバルホールのことは、大学に入る前からその名称くらいは知っていた。かの大阪万博に合わせて、手勢のクリーブランド管弦楽団を率いて来日したジョージ・セルが、空前絶後の名演を残したと聞いていたのが、この大阪フェスティバルホールだった。
そのフェスティバルホールの舞台に立てるのである!いきおい、練習に熱が入るのは至極当然な成り行きなのであった。

当時でも、大阪フェスティバルホールを借りるのにはひどくお金がかかった。そのお金を工面するために、部員全員でバイト演奏などを行っていた。どこかの商店街のオープニングセールとか、会社の運動会のパレードなどに借り出されて、部員個人には無報酬で演奏を行ったりしたのである。これが結構しんどかった。
また、部員にはチケット販売のノルマがあり、これが地元に知人が少ない下宿生には、なかなかの負担であった。ほとんどは、売り切ることができないままに、残った分を自分で支払っていたのである。
夏休みに入る前には、下級生が当番制で学生会館前にチケット販売用の「出店」を出したりもしたが、はかばかしい売れ行きではなかったと記憶している。
そんな思いをしての大阪フェスティバルホールでの定期演奏会だったのである。

既に、6月の20日過ぎからは、練習は毎日夜の9時までに延長されていた。夕方までパート練習や金管・木管に分かれてのセクション別練習などを行い、夕食を食べてから9時まで合奏を行うのである。
当時の吹奏楽部の練習場は、学生会館屋上に設えられた509号室にて行われていた。たぶん、毎回利用申請等を出していたのだろうが、この部屋は吹奏楽部専用の練習場となっていた。残響のほとんどない部屋で、ある意味では自分の下手さ加減がはっきりと音に現れてしまうような場所であった。今になって思えば、この残響のない練習場で合奏していたことが、関学吹奏楽部を名門たらしめた大きな要因だったのかもしれない。

定期演奏会前直前には、合宿が組まれた。普段は、体育会に所属する部しか利用できない「スポーツセンター」なる合宿施設を、応援団の吹奏楽部だからということで特別に利用を許可してもらって、3泊4日の合宿を行ったのである。
合宿中の日程は、ほぼ以下のとおり。
7:00起床、7:20集合、8:30までパート別基礎練習、朝食後パート別曲練習、昼食後セクション別練習、15:00〜合奏、夕食を挟んで21:00まで、22:00スポーツセンター集合という、かなり日程的にはハードな4日間であった。
合宿3日目には、後に大阪市音楽団の団長を務められることになる永野慶作氏を招いて、曲の仕上がり具合を確認していただいくことになっていた。
最終日は、15:00くらいからリハーサルを行い、19:00には合宿を打ち上げた。

合宿が終わると、その2日後が定期演奏会であった。
この年のプログラムは以下のとおり。
第1部
1、「ファンファーレとソリロキー」(T.Lシャープ)英国コールドストリーム連隊軍楽隊指揮者であったシャープ大尉作曲の吹奏楽用オリジナル曲。
2、「ブラジリアン・フェスティバル」(H.ケイブル)ラテンの名曲をメドレー風にアレンジした曲。
3、「シンフォニエッタ」(R.E.ジェイガー)1939年ニューヨーク生まれの作曲家による吹奏楽用オリジナル曲。
4、「クラウン・インペリアル」(W.ウォルトン)1937年、英国ジョージ6世戴冠式のためにBBCから委嘱されて作曲されたグランドマーチ。
(休憩)
第2部
交響曲第6番「悲愴」(P.チャイコフスキー)

もちろん、メインは「悲愴」である。編曲してくださったのは、当時関学マンドリンクラブの指揮者を務められていた大栗裕先生であった。
オーケストラ曲を吹奏楽用に編曲するというのは、特に弦楽器群のパートをどう扱うかというところがたいへんに難しいところなのであるが、大栗先生の編曲は、そんな難しさを感じさせないばかりか、「悲愴」の持つ曲の雰囲気を損なわない見事な編曲であったと思う。

それにしても、指揮者も含め、学生だけでチャイコフスキーの「悲愴」を吹奏楽で全曲演奏しようというのは、今から考えればひどく無謀な試みであったろう。
特に、合奏時における曲作りなどは、もちろん指揮者の考えが反映されていくのであろうが、その指揮者とて、専門的な音楽教育はほとんど受けていないのであるから、それこそ4年生が中心になってあれこれ議論しながら曲作りをしていったのである。
そうやって、何でも学生だけでやっていこうという気運が当たり前のような時代だったのだ。

いよいよ当日を迎えた。
午前中に学校で基本練習を済ませ、昼食後にフェスティバルホールに集合、午後2時からステージにてリハーサルを行い、午後6時からの本番に備えた。
オープニングは、「A Song for KWANSEI」。英語の歌詞による校歌の一つである。この曲の途中で緞帳が上がる。ほぼ満員の客席が見える。緊張と誇らしさが入り混じった、なんとも言えない気分である。
指揮者のウエマツ先輩が登場して、まずは第1曲の「ファンファーレとソリロキー」。金管のファンファーレが、いかにも最初の曲に相応しい華やかさを印象づける。

個人的には、第1部最後の「クラウン・インペリアル」がしんどい曲であった。休符がほとんどなく、同じパッセージを何度も何度も繰り返さなければならないので、とても疲れる曲なのである。でも、こういう曲ほどオーディエンスには受けが良いようで、演奏会後のアンケートにもその好評ぶりがうかがえた。

あっという間に第1部が終わり、休憩を挟んで、いよいよ「悲愴」である。
暗く重苦しい出だしの第1楽章も、展開部に入るとぐいぐいドライブを始める。圧巻は第3楽章。当時の実況録音盤(LP)を聴いても、この第3楽章は名演であった。特に、マーチの要所で入るシンバルは、たぶんタニ先輩が鳴らしているのであろうが、すばらしい切れ味のシンバルなのであった。
大編成での演奏というのは、あるパートの演奏が他のパートの演奏に好影響をもたらして、全体として名演奏を生み出すということがある。第3楽章は、まさにタニ先輩の切れのいいシンバルがその役割を果たしたのであった。

この第3楽章を聴きながら、どうして当時の4回生が「悲愴」全曲に挑戦したのかが、何となくわかったような気がした。
関学の吹奏楽部は、「シンフォニー・バンド」の追求をモットーとしていた。日本語に訳すならば、「交響吹奏楽」とでも言えようか。まるで、オーケストラのような演奏のできる吹奏楽団を目指していたのである。だから、マーチングなどはほとんど練習すらしなかった。
その一つの答えが、この第3楽章の演奏から聴こえてくる。ユーフォニアムを筆頭とする中低音楽器群のレベルの高さに支えられて、華やかなトランペットやトロンボーンの咆哮に、柔らかな木管楽器群が加わって得も言われぬ交響的な響きを醸し出す。まるで、これが「シンフォニー・バンド」の音なのだよということを誇っているかのように聴こえるのである。

静かに第4楽章が終わった。大きな拍手。どの部員も、やり終えた充実感で満たされていた。
アンコールは、K.キングのサーカスマーチ「バーナムとベイリーのお気に入り」。それまでの緊張感から解放された喜びからか、このアンコールもゴキゲンの名演であった。練習では1回しか合奏しなかったというのに!自分で演奏しながら、「このバンドはなんてすごいバンドなんだ!」とあらためて実感していた。

クロージングは、賛美歌405番「神ともにいまして」。静かに緞帳が下がってくる。当時のツジオカ部長が号泣していたのが印象的だった。自分も、4回生になって最後の定演のときには泣けるのだろうかと思った。

こうして、初めての定期演奏会は終わった。
でも、これで晴れて夏休み!というわけにはいかなかった。
全国大会へと繋がるコンクールが控えていたのだ。
(つづく)

3月31日(月)

エピソード2(「ホルンパートの人たちと、近づく定期演奏会」)

毎日のクラブは、練習の開始が2時45分からであった。
何だか中途半端な時間と思われるかもしれないが、4限の講義の開始時刻が2時45分で、大切な必修の講義はほとんど2限か3限に行われるので、さほど勉学には影響なかろうということから決められたのであろう。

4、5限の講義に出る部員は、団室にある黒板に名前を記入することになっていた。それ以外の部員は、2時45分になると、団室のすぐ外にあるベランダに集合し、幹部(わがクラブでは、4回生のことをこう呼び習わしていた)と、それ以外の部員とが向かい合わせになって挨拶をするところから練習が始まる。
まず、3回生の出席係が出欠の確認をする。一人一人名前を呼ばれ、講義に出ている部員はその旨が報告される。
出欠確認が済むと、部長または指揮者がその日の練習のあらましを述べ、「では、がんばっていきましょう!」という掛け声で、それぞれのパート別の練習に入っていくのである。

入部してからしばらく、自分はトランペットのパートに所属していたのだが、途中からホルンのパートへと移ることになった。
熱心にホルンパートへの勧誘してくださったのは、ホルンパート3回生のフジワラ先輩であった。フジワラさんは、サブ・コンダクター(副指揮者)も兼ねていて、サブコンは1年生の面倒を見る役目(教育係)でもあったので、自然とお話をする機会も多かったのである。細面で、いつもニコニコ楽しそうにしている先輩であった。
「ホルンもトランペットも、マウスピースの大きさはほぼおんなじやし、すぐ吹けるようになるわ。何より、ウチのパートは練習よりもお茶(休憩)が優先やし。」
パート移籍の決め手になったのは、そのひと言であった。実際ホルンパートで練習をするようになると、他のパートがまだ練習をしていても、ホルンパートだけは学生会館1階のロビーでコーヒーを飲みながら休憩することがよくあった。

ホルンのパートリーダーは、4回生のコーイチ先輩であった。体格がよく、大学生というよりは、どこかの会社の営業マンのような印象であった。細かいところにこだわらず、常に「練習は短かめに、休憩は長めに」と、早めに練習を切り上げて「お茶行こ」と言ってくださるすばらしいパートリーダーであった。

もう一人の4回生は、学生服姿で500ccのバイクに跨ってさっそうと学生会館にやってくるキンジョー先輩であった。強面で、ちょっと見どこかの組の人に見えなくもない雰囲気を持っておられた。
今でこそ、大学生の喫煙率は相当に下がっているのであろうが、当時は「大学生になったら煙草を吸うのが当たり前」というような時代であった。それまで煙草を吸ったことはなかったのだが、パートの休憩時間に「まあ吸ってみいや」と勧められたのが、このキンジョー先輩であった。
「い、いえ、ぼ、ボクはタバコは…」などとはとても断れない雰囲気の先輩であったから、言われるままに煙草を吸ってみた。口先でちょっと蒸すだけだと、「ちゃうちゃう、ちゃんと胸の中まで吸い込むんや」と何度も「練習」させられた。
おかげで、以来30年近くの長きに亘って、煙草を吸い続けるようになったのである。

3回生は、フジワラ先輩の他に、クロミヤ先輩がおられた。ローンで舶来の新品のホルンを購入されたとかで、練習熱心な先輩であった。この方は、その後部長となり、練習態度も一変してとても厳しい先輩になるのだが、このときはまだそんな片鱗も見られない、とても楽しい先輩であった。

2回生の先輩は、ヨコイ先輩であった。このヨコイ先輩とフジワラ先輩が寮生であった。フジワラ先輩は清修寮、ヨコイ先輩は啓明寮に入寮しておられた。
ヨコイ先輩は、身体も大きく、一見豪快なおアニイさんという感じであったが、実際はとても心根の優しい頼りがいのある先輩であった。すぐ上の先輩ということもあって、いろんなことを教えていただいた。

同級生には、三重県からやってきたワダくんがいた。明るく愉快な人物で、高校時代には吹奏楽部でホルンを吹いていたとのことで、実際の楽器演奏のこともあれこれ教えてもらった。ただ、残念なことに、彼は夏の定期演奏会が終わってしまうと退部してしまった。
かように、ホルンパートは楽しい人たちばかりだった。いつも練習には笑いが絶えなかった。みんなそれぞれ仲が良く、このパートに移籍してほんとうによかったと実感していた。

それにしても、最近の吹奏楽事情に詳しい方ならば、「どうして女子部員がいないの?」と不思議に思われることであろう。そう、かつて(1950年〜1970年代)は、吹奏楽部は「男子部」だったのである。中高の吹奏楽部が女子ばかりの部員になったのは、たぶん1980年代に入ってからである。
ご多分に漏れず、われらが吹奏楽部も、自分が入部した当時は部員50人中、女子部員は5名だけであった。たった1割だったのである(まあ、これは「応援団の吹奏楽部」という事情も手伝ってのことと思われる)。

閑話休題。パート練習は、ロングトーンから始まる。その名の通り、一つ一つの音をできるだけ長く吹き伸ばすスケール練習である。
次は、リズムを刻みながらのスケール練習。だんだんとリズムを細かくしていきながら、何度もスケール練習を繰り返す。
このスケール練習が終わったところで休憩(お茶)となる。

それぞれのパートが練習する場所は、基本的に木管楽器は学生会館内、金管楽器は外で練習をすることになっていた(ただし、楽器の大きいチューバと、外にはなかなか持ち出せないパーカッションは練習場)。
どのパートも、ロングトーンを含むスケール練習が終わると、学生会館1階のロビーへ集まってきて、コーヒーや紅茶を飲みながら休憩するのである。
演奏会やコンクールが近くなければ、そのままパート別に曲の練習などをして、5時半には終了ということが多かった。

練習の最後には、全員が団室に集まってミーティングが行われる。出席の確認と連絡事項の伝達、最後に部長が訓示をして終了となる。
だいたい、平日の練習はこんな感じで行われていた。

こうして練習が早く終わる日はいいのだけれど、練習の終わりが遅くなってくると、宝塚の下宿まで帰るのはしんどかった。何しろ、下宿は山の中の住宅地の中だったので、駅からの登りがきつかった。
ある夜などは、さて寝ようと思ってふとカーテンのところを見ると、何やらUの字の黒いモノがついていたので、「ん?なんだなんだ」と思って近くに寄って見ると、何と大きなムカデがお出まししていたこともあった。

そんなこともあったから、できれば大学近くの下宿に替わりたいと思い続けてきたのであったが、幸いなことに、新入生歓迎コンパでお世話になった2回生のニシカワ先輩の下宿に空き部屋ができて、夏休みからはそこへ移れそうだということを教えていただいた。
下宿は、高等部のテニスコートのすぐ裏、水上競技部の合宿所も兼ねていた、通称「田中マンション」という下宿であった。
その下宿には、ニシカワ先輩の他に、京都嵯峨野出身でユーホニウム(最近では、「ユーフォニアム」などと宣わるらしい)担当の3回生モリ先輩も入っておられた。

夏休みが近づいていた。
当時の関学は、7月1日から夏休みに入った。夏休みに入って2週間後には、定期演奏会が控えていた。コンクールと並んで、クラブの重要イベントの一つである。
既に、演奏する曲目については、5月中旬くらいからパート練習が始まっていた。

その年の定期演奏会のメインとなる曲目は、何とチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」全曲であった。
吹奏楽で「悲愴」の全曲演奏に挑もうというのである(今から思えば、この無謀とも言える挑戦に、当時の4回生たちの並々ならぬ自負があったのだと思う)。
はたして、ほんとうに吹奏楽で「悲愴」が演奏できるのであろうか。交響曲の弦楽セクションの部分を、どうやって管楽器だけで演奏するのであろうか。ましてや、「悲愴」の終楽章は弦楽器によるアダージョである。
管楽器だけでも、弦楽器同様の雰囲気を醸し出すことが、はたしてできるのであろうか。
夏休みを目前に控えて、練習も熱気を帯びてきつつあった。

(つづく)

3月6日(木)

(エピソード1「吹奏楽部への入部と新歓コンパ、応援団への入団式」)
オカッパ頭の先輩は、3回生のタニ先輩(パーカッション担当)であった。学生会館1階の食堂へ誘われ、食事を奢っていただき、あれこれクラブの話を聞いた(このタニ先輩という方、実はとてつもなくオモロイ先輩であるということが、その後しばらくしてからわかった。このときは、話しながら体を左右に揺らして、オカッパ頭の頭髪を手で掬い上げる仕草が印象的だった)。
具体的に、どんなお話だったのかは覚えていない。やりがいのあるクラブだということを強調されたような気がする。

実は、関学の吹奏楽部については、入学する前からその名を知っていた。
中学時代、吹奏楽部の顧問の先生から、「日本の吹奏楽’70」という全日本吹奏楽コンクール実況録音盤を紹介され、その中に大学の部の演奏として、関学吹奏楽部の演奏が収められていた(自由曲「プレリュードとダンス」)のだ。
中学校の演奏を聴きたくて購入したレコードだったので、特別に関学の演奏が印象に残っていたわけではないのだが、その団体名が長かったので(関西学院大学応援団総部吹奏楽部)覚えていたのである。

名門の吹奏楽部であるというイメージだったので、まさか自分がその部に入るなどということは全く想像していなかったのであるが、大学生活が始まってみると、キャンパスではほとんど人と話をすることもない生活が続き、吹奏楽部に行けば自分を歓迎してもらえそうだということもあって、だんだんと「まあ入ってみるか」という気持ちになり、自然と「応援團」の木札が掲げられた学生会館の部屋へと足が向いていったのであった。

体験入部のような期間が過ぎ、いよいよ正式入部ということになった。パートは、中学時代に吹いていたトランペットということになった。
トランペットセクションには、2回生にちょっと変わった先輩がいらっしゃった。クワハラ先輩である。楽器演奏はピカイチなのであるが、行動がどうも大学生には思えないような、そのしゃべり方も含めてまるで小学生のようなところがある先輩なのであった。いろんな先輩がいるのは、とても楽しいと感じた。

入部してしばらくして、神戸三宮にて、「新歓コンパ」(新入生歓迎宴会)があった。
余談になるが、今や「コンパ」などという言葉は、ほとんど死語となっているのではないか。うっかり「コンパ」などという言葉を使おうものなら、「なになに?コンパニオンを呼んでの宴会か?」などと誤解されてしまうような気がする。

閑話休題。吹奏楽部の新歓コンパは、「エグい」ということで評判であるらしかった(そのように先輩方から聞かされた)。
宴会が始まった。そのうちに、いわゆる「イッキ飲み」が始まった。普通のコップよりも少し大きめのビールグラスに、日本酒をなみなみと注がれ、それを一気に飲むのである。それまでお酒などというものは全く口にしたことはなかった(せいぜいビールの泡をちょっと舐める程度)ので、このイッキ飲みは恐怖であった。自分の順番になるまでに、一気飲みしてゲロを吐きまくる同級生も何人かいた。
これはうまくごまかすしかないと思い、自分の場合は飲んでるふりをしながら、口から少しずつこぼして、日本酒の摂取量をできるだけ減らそうと試みた。
このため、一気飲みで気持ち悪くなるようなことはなかったのであるが、困ったのは先輩たちが注ぎに来ることだった。「オマエ、何回生や?」「い、一回生です」「オレ、何回生や?」「ハイ、3回生です」「なら、オレの3倍は飲むわな」と、無茶苦茶な論理でひたすら日本酒を飲まされたのであった。そのうちに目が回ってきた。

気が付くと、生田神社の境内に寝かされていた。「おお、目が覚めたか。こんなとこで寝るわけにはいかんので、今日はウチに泊まれや」と、下宿生の先輩たちが大学まで連れて行ってくれた。時計台の前の中央芝生でしばらく酔いを覚ますということであったが、相変わらず気分は悪いままだった。そのまま2回生のニシカワ先輩(チューバ担当、この先輩とはその後同じ下宿で生活するようになる。兵庫県は日本海に面した香住の出身で、後輩の面倒見がよく、イナセなおアニイさんという感じの先輩であった)の下宿へと連れて行かれた。
翌朝目が覚めると、ニシカワ先輩の部屋であった。身体が痒かったので、学生服を脱いでよく見てみると、全身に蕁麻疹が出ていた。「まあ、寝ていたら治るやろ」と言われ、そのまま静かにニシカワ先輩の部屋で過ごした。
以来、長きに亘って、日本酒は身体が受け付けないようになったのであった。

新歓コンパが済むと、今度は応援団への「入団式」が待っていた。
関学の吹奏楽部は、応援団総部という学生団体の一部である。他に、実際の応援のときにリーダーとなる「指導部」と、「チアリーディング部」という3部が一体となって、所謂「応援団」を形成していたのである。
だから、吹奏楽部に入部するということは、必然的に「応援団」の一員になるということを意味していた。

この式のために、「自己紹介の練習」というのが行われた。入団式では、団長から一人一人の新入生に団の腕章とバッヂが手渡されるのであるが、その際に団長の前で自分の出身高校と学部と名前を大声で叫ばなければならないのである(さらには、腕章とバッヂを受け取る際には「オッス、ごっつぁんです!」と言わなければならないという「オマケ」まで付いていた)。
どれだけ大声でやれるかということで、事前にその練習が行わたのであった。学生会館のベランダから、遠く離れたところにいる先輩に向かって、大声で自己紹介を叫ぶのである。先輩が頭上に両手でマルのサインを出せば合格、バツの場合は何度でもやり直しをさせられるのであった。

その入団式、人によっては緊張のあまり途中で言葉が出てこない部員もいたりしたが、ともあれ全員無事に「ごっつぁんです!」(女子部員の場合は「ありがとうございます」でよかった)を済ませ、晴れて「応援團」と刺繍の入った腕章と、銀色のバッヂを手にし、「応援団総部」の一員として学生生活がスタートしたのであった。
(つづく)