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2004年12月 アーカイブ

2004年12月03日

Danjiri-ous editor is back!

長い間、勝手に留守にしていたこの長屋に戻らせていただくことにします。

というか、えらいことになってしまった。

もともとこの家は、だんじり祭若頭筆頭をした年に、祭礼用に便利だからと家主のう
ちだの親父さんに無理を言ってお借りした町中の別荘である。

この長屋にたびたび晶文社の安藤さんが訪ねてくれて、それで、ここで書いた日記を
単行本にという非常にうれしいことになったが、いかんせん祭当日の3日間は家にい
ない。

だからあと百枚ほど書かないといけない。

一昨日の夜は、同じこの長屋の住人であるドクター佐藤とミナミで会う約束をしてい
た。

ちょうど午後5時から9時まで、南海なんば駅構内の「宮田書店」で、ミーツ1月号
の大阪特集の販売キャンペーンがあったので、それが終わってから、ということでわ
ざわざミナミまで来てもらった。

販売編集両部員が大声をはりあげた甲斐もあって、キャンペーンは300冊!の大売
れ。

ターボがかかった状態で、速攻佐藤くんと待ち合わせていた心斎橋に向かう。

「大阪大学で雑誌を出せないか」との話をするためで、バー・ヘミングウエイに行く
ことになったのだが、輸入再開されたハモン・イベリコ・ディ・ベジョータ(発売し
たばかりのミーツ巻頭「今月のニュース」読んでください)とスペイン産カラスミが
旨すぎて、スペインの赤ワインをバカスカいってしまう結果となった。

二人ともターボ全開状態で、「そういや内田先生カフェヒラカワでお茶を飲んでいた
の見かけたね」とTFKの話になり、酔った勢いで「帰ったらカフェに乱入しよう」
と盛り上がってしまったのだ。

その結果、ミーツでTFK「東京の悪兄が帰る」が再開されることに。
http://plaza.rakuten.co.jp/hirakawadesu/(トラックバックお願いします)

うーん、これでどうだろう。まずブログでネット読者に喜んでもらう。それからちょっ
と紙用に読みやすくしてミーツ連載にしてミーツをお買いいただきさらに喜んでいた
だく。最後は柏書房さんに1冊にまとめていただき、またまたファンに喜んでいただ
く。

みなさん、こんな感じでいかがですか?

内田先生、おっと家主のうちだの親父さん。
毎晩、佐藤くんとどんちゃん騒ぎやらかすと、同じ長屋のほかの方にご迷惑がかかる
と思います。
今、佐藤くんち、隣の隣ですが、すぐ隣に引っ越せれば(といっても長屋内ですが)、
と思うのですが、どうでしょう。

それとTFKの新しいお家、どこになるのですか? この同じ長屋なら、すぐご両人
の顔が覗けて便利なんですけど。カフェヒラカワにも行きやすいですし。

2004年12月04日

打倒、東京弁帝国主義!

以前、内田ゼミでも発表したことがあるが、関西人は読み書き思考を関西弁でおこなっ
ている。

そう思っていたが、こないだの内田先生とミヤタケさん、ナガミツくんというメンバー
のうな正会で、これはいろいろありだと思い直した。

ちょっと形而上的な話になると、彼らは標準語(的イントネーションだけかもしれな
いが)で話すのである。

「きみら、そういう話になると、なんで東京弁話すねん」と言うと「関西弁では哲学
書とか読めないですから」 と、これは関西弁で答えた。

横にいた内田先生は、鰻重の竹をうまそうに食べ、ビールをごくりと飲ってから、
「そりゃそうでしょ、そんなのは大阪弁ではダメでしょ」と歯切れのいい江戸っ子弁
で言った。

だいたいこの先生は関西弁や広島弁で何かを書いたり言ったりする場合は、いつも恫
喝とかおちょくりとかの場面しかない、東京弁帝国主義者の言語学者(現代思想・哲
学者か、まあどっちでもええやんけ)。

大阪弁でしかそれができないオレは、そんなことないです、現にミーツ「哲学・上方
場所」をやっていただいている鷲田清一先生もそうだし、富岡多恵子さんもそうだと
言いきっておられたし、故・司馬遼太郎も大阪弁だと先輩の新聞記者に聞いたことが
ある、と反論をはじめようとしたが、やめておいた。

けれども、そしたらオレは哲学書とか読んだらあかんのか、とけっこう傷ついた。
そしてわれわれの関西弁での読み書き思考について、結構ひっかかっていた。

私を含め、うちの雑誌は関西弁で書いているスタッフが多い。というか、関西弁でし
か書けない。それは地元出身者が多いからだ。

もちろん読むのも(イントネーション的に)関西弁であり、われわれがいる大阪や京
都の旧い町の高校の現国の授業でもこちらのイントネーションで朗読していた。

だから今も新聞記事や雑誌でも、哲学思想書も宮沢賢治の「永訣の朝」でも関西弁で
読むのだが、そういうことを小説新潮の高知ご出身のK副編集長に話したら、それは
ユニークだと、なぜか感心していた。

現に私が今、読み書きしているのもそうであるが、とはいっても「そんなややこしい
こと言うてもうても知りまへんがな」というような文章は、このように表記してしま
うとわれわれにも読みにくいので、会話の引用文とかだけにすることが多い。

その意味で言文一致、というのは関西ではちょっと意味が違うというかズレているの
だと思う。

逆に「〜だよね」とか「〜しちゃう」といった若者雑誌的な標準語の口語文は、大阪
発音で読んでいると違和感がある(気色悪い)。だからライターにしても、関西人は
あまり書かないようだ。

文を書くと言うことは、自分で書いた言葉を耳で聞く、ということだ。

けれども「である」とか「なのだ」とかは口語文であるが、実際の話し言葉ではほと
んど使わないのと正反対の意味で、話される関西弁と書かれるそれは違う。

だから清原の番長日記風に書かれた文章は、ある種のバイアスがかかった大阪的ニュ
アンスをわざと付加しようとしているのが見えて、うっとうしい。

関西人にとっては、冷めたお好み焼きをまた温めて出されて食べさされているようで、
不味いのである。

「私を含め」以下の文章は、神戸新聞の夕刊連載「随想」で「関西弁の書き言葉と話
し言葉。弊誌の場合。」というタイトルで書いたばかりのコラムだが(7日の夕刊に
載ります)、昨日ゲラがあがってきて、珍しく文化生活部長のHさんからファックス
が入った。

それには、文中あとの方の「口語文」は、火曜の夕刊「ことばのとびら」を執筆いた
だいてます方言研究家の都染甲南大教授の指摘で「口語的表現」の方がいいのでは、
とのアドバイスをいただいたとのこと。

加えて、この原稿に大変興味を持たれ「ことばのとびら」で引用したい、とおっしゃ
てるとのことだった。

以前、ミーツで永江朗さんが書評欄で取り上げた、大塚英志の「サブカルチャー文学
論」(朝日新聞社)を読んでいると、「村上春樹にとっての「日本」と「日本語」」
というところで、短編集「パン屋再襲撃」のアメリカ版について、興味深いことが書
かれていた。

春樹の小説は、日本語訳されたアメリカ文学のようにとらえられがちだが、実は逆で
ある。

村上の装ったはずの「アメリカ」とは裏腹に、英訳された時どこかゲイシャ・ガール
のうなじ的な「日本」が見え隠れする。

彼の翻訳小説風の文体については、ずっと違和感があり、それは70年代半ばの関西
のミニコミ誌で流行った文体と類似であり、その居心地の悪さは、関西の人間が標準
語を話す際に感じるそれと共通である。

「村上朝日堂の逆襲」のなかで、「関西人の自分が、1週間で完全に東京弁に変わっ
た」、と書いているが、これは関西出身者としてはとても奇異な感じがする。

また、「関西にいるとどうしても関西弁でものをを考えてしまい、その関西弁独自の
思考システムからの自分の小説スタイルはない」というのは、関西弁を捨てて標準語
を選択した作家にほかならない。

そういう意味で、かつて「地方語」という「異語」を互いに話す者たちが「言文一致
体」という人工的な「共通語」を構築することで可能になった「近代文学」といった
標準語によって構成された「制度」においては、春樹は最初から保守主義者である。

うーん。そうか、関西弁で雑誌をつくってるオレらは、はじめからアウトローやった
んか。かっこええやんけ。

2004年12月10日

こんな男でよかったら

12月7日(火)

「すまんけど、今日は岸和田の若頭の忘年会やねん。先に帰らしてもらうわ」と仕事
を早退して、平成15年度若頭責任者協議会の忘年会に参加する。

来年の祭には、若頭を上がり世話人になるメンバーもいるとのことで、若頭責任者の
祭がどんどん過去のものになってくる。
加えて、本当に長い間、祭というものをやってきたと実感する。それに比べると会社
や仕事なんてのは屁みたいなもんだ。

しかし、どうしてみんなこんなにいい顔をしているのだろう。気っ風がよい。声がデ
カイ、話もおもろい。
それに比べると、街では「そこのあなた、顔がないですよ」という人たちばかりだ。
キャラクターというのが不明な顔は冴えない顔であって、祭の最中でもとくに若い衆
のそういうヤツを見ているのは、なんだか怖い。

二次会を「明日、朝早いから」「神戸に帰るんか」「せやねん」とワープし、大阪へ
向かうがらがらの特急ラピートから、なんば駅で師走に入って間がない地下鉄の満員
電車に乗り換え、さらに超満員の新快速姫路行きの11時40分の最終に乗り、そん
なことを考えながら、ひょっとしてオレの祭人生も第4コーナーにさしかかってきた
んではないかと、しみじみ思う。

オレは離婚というものをしていて、 家に帰っても誰もいないし何もない。岸和田弁
で言うところの「独りもん」だからだ。

ガキの頃から勉強もあんまりしなくて、サーフィンとか好きなことだけやってお洒落
ばかり考えていて、夜になると音楽をデカイ音で聴いて、大人になってからは毎晩外
に出て酒を飲み、今日みたいに酔っぱらって帰って風呂も入らずに寝て、休みの日な
どはまた朝から酒を飲んでいるような男だ。

それらのもろもろは、自分本位の我がままなしょぼい快楽だけやったかもしれんけど
、一年一年祭と共に歩いてきた人生は、こんなにいい仲間がもてた。
そこでは、バッキー井上じゃないがそれなりにごきげんを与えてもらったんやし、他
人がもってるものと自分がもってないものを比較しても今さらしゃあないわ、と開き
なおっている。

2004年12月14日

街の逆説

12月10日(金)

午前10時過ぎ、大阪行きの新快速に乗ってたら、いきなり携帯にメールが入った。

あれえこの人、何でオレのアドレス知ってるんかな? という滅多にメールなんか来
ない「妙齢のご婦人」(@内田樹の研究室11/30)からで、その文面は「そんな男が
好きです。」の1行だった。

ご無沙汰だったので、心うきうきして「何の話です?」とメールを車内で返信したが、
これへの再返信はない。

編集部に着き、ドトールで買ってきたサンドイッチとカフェラテを広げ、このブログ
を見ると、長屋家主ウチダの親父さん作の「こんな男でよかったら」という昨日のタ
イトルがあった。

「ははん」と思うと同時に、顔から火が吹いた。
たぶんその夜、岸和田で一緒に忘年会をやっていた若頭のメンバーがそれを見たら
「江、おまえは気が狂たんか」と嘆くだろうし、実家の年老いた母親なら「ひろき、
いつの間に安なって…」と泣くだろう。

最高と最低はいつも同じにやって来るから、人生は楽しい。はっはっはっ、ははh。
爆笑のち、やっぱり苦笑。

「大阪力事典」という大層なタイトルが付いた400ページもある本が届いた。

そうか、去年の年末に、大阪ガ×のエネルギー・文化研究所主任研究員K本さんから
「アメリカ村・南船場」「エルマガジンとミーツ・リージョナル」についての原稿依
頼があって、そういや昨年末に10枚ほど書いたそれかなあ、ということをようやく
思い出した。

同じくそういえば、諸事情で(どんな事情やねん)「出版が遅れる」というメールに
ての伝達があったことも、やっとこさ思い出した。

月刊誌で締め切りに追われている編集者からすると、こういう出版のテンポというの
は、実にほのぼのとしていいもんだ。

表紙を見てみると、おお、ミーツでおなじみのイラストだ。表紙も何十号か描いても
らったし、前回の内田先生の「街場の現代思想」のカットもお願いしていた「奈路く
ん、さすががんばってるな」である。

編集は「大阪ミュージアム文化都市研究会」。
「活動するミュージアム、(大阪の)都市の活気を手に入れよう」とのことで、芸
能文化・街・御堂筋・近代建築・祭・たこ焼き…といった大阪の文物がA to zで並ん
でいる。

いろんな人がいろんなことを書いていて、大阪のあんなことこんなことのおもろいこ
とを書いてる人は、本当に多いと思う。

けれどもこのところ、街そのものについては、オフィスにいる行政や経済・産業界の
人々が 「街作り」「都市環境」さらには「長屋」とか、なんだかこのリセッション
以降、急にあれこれと言うようになってきたのはなぜだろう。なにが関係するのか。

長年の祭と街雑誌の編集を通じて、そしてやっと40代を過ぎてやっと、こなれた下町
の愉しさやそこにいる喜びがようやくわかり始めたオレにとっては、そんな同世代の
3学期の学級委員が、試験の前の一夜漬けのようなことをやってることにつき合って
いるヒマはない。

オレらがお世話になり、毎日泣いたりわめいたり手足をばたつかしている、この街と
いうものに思いをはせる時に、明治や大正、さらに昭和というわけのわからない時代
を街とともに生きてきた諸先輩方が、駅前ビルやファーストフード店やコンビニと入
れ替わるように、もはやこの世から引っ込みつつある現状をこそ直視したい。

それには、今のうちに街に出て、なんとか差し向かいでリアルな街の話を聴かせてい
ただくしか、街的方法論はないのである。

ほんとうに、街は決して誰かが何かを「仕掛ける」ためにプランニングして出来るも
のではなく、その街に生活しあるいは蝟集するその人自体が、その通りをうろついた
り、知り合いの店でメシを食ったり、横丁の酒場で飲んだり、坂道のカフェでお茶す
ることで街というものが街になるようだ。

まさに「街は誰かに何かの目的によってつくられることを拒むように構造化されてい
る」(リナックスカフェ平川克美)のである。

相変わらず、このブログはおもろい!
http://tb.plaza.rakuten.co.jp/hirakawadesu/diary/200412100000/

上方漫才師による青年の主張でんよかたい

12月11日(土)

雲ひとつない小春日和。 本日は晴天なり。 博多に着いたぞ。

オレは岸和田や大阪や神戸でしか生きていけないけど、次に好きな街が博多だ。
男はみんな鮎川誠で、快活で洒落てる。女は高橋真梨子系のべっぴんで、酒呑み深情
け(ごめんね…)。好きだったの それなのに あなたを傷つけた ごめんねの言葉
 涙で言えないけど 少しここにいて。

祭・山笠の街。フグが旨い街。よかよか、ですたい、やけん、〜っちゃんね、の、ち
かっぱぃすいとう街。
新幹線の筑紫口のエスカレーターを降りると、いきなりそんな博多顔および博多弁の
嵐で(アタリマエか)、胸がうきうきする。
ひかりレールスターで2時間ちょい、オレにとって隣の隣の街は、今日もいうことな
し。この街は東京の千倍好きな街である。

JR博多駅すぐ前のセントラーザ・ホテルの1階にあるスタバで、地元の編集者T中
さんと待ち合わせている。

レジにいた天地が短いチュンという感じの九州顔の女の子(ミーツで副編集長をして
いた北九州出身の塩飽にそっくりだ)に、アイスのカフェラテを注文しようとすると
「いらっしゃいませ、こんにちは」と「ませ」が極端に上がるイントネーションで言
い、さらに「〜でよろしかったですか」という、このところ全国共通のファーストフ
ード店やコンビニやブックオフのあの口調で、大阪もそうだが博多もそうなったか塩
飽靖子よおまえもか、とちょっとがっかりする。

「西の旅」(ミーツではない)という雑誌の打ち合わせである。
はるばる九州まで来て何が言いたかったというと、企画をどうとかターゲットをどう
見直して、情報をどうさばくかとかじゃなく、雑誌を編集するときは、もうちょっと
根性を入れてやるのでよろしく、それには差出人と宛先の脈絡づけをしっかりしまし
ょう、といったような内容であったが、T中さんはナマ大阪人に会い話をするのが初
めてということで、真剣に話すオレのことを「たいへん失礼ですけど、言うとんしゃ
ぁこと、なんだかおもしろくて笑っちゃいますね」とまるで上方漫才師が青年の主張
をするような感じのようにとらえられていた。
よかよか、それもよかですたい。

地下鉄に乗って赤坂へ着く。
知らない街で、一人で昼飯を食べることほどスリル満点のことはない。
ビルの地下街の飲食店街をちょっとのぞく。鮨屋がある。福岡の鮨はうまかったはず
、と思って、店先にあった品書きを見ると一番安いお昼のセットが1050円で、ち
ょっと高いけどまあええか、と思うが、仕事を終えてから帰りに食べよう、その時に
酒も、と思い直してやめた。

地下鉄の出口から地上を歩く。「更科」と書いてあるそば屋がある。大阪にも更科の
名前が着いたそば屋がたしか三系統あって、それぞれ特徴があってどの店もうまいし
安い。

福岡ではどうだろう、と早速入ることにする。
これはいい店だ、とすぐわかる。
一人客のサラリーマンのおじさんが数人と大きな紙袋を椅子に置いたメガネの初老の
ご婦人のグループがいる。
だいたいざるそばを食っているようだ。思い返してみると博多でそば屋にはいるのは
初めてだ。

分厚いメニューを開いて「かもせいろ」にする。
出来るのを待つ間、耳をダンボにしておばちゃんたちの博多弁会話を聞く。
しかしまあ、大阪でもどこでもおばちゃんというのはよく喋る人種である。

きたきた、かもせいろ九〇〇円。直径15センチくらいのお碗に入った熱いだし。鴨
肉がたくさん入っている。そばはざるに載せらていて冷たい。
小皿には薬味のネギとわさび、粉山椒は別に出てきた。わさびと粉山椒の組み合わせ
はどうなのだろう、それともお好みでどちらかなのだろうか。

まず鴨を一口。脂がのっていてこれは美味い。だしはざるそばのつゆのようで色が濃
く、それにそばをじゃぶっとくぐらせて食べる。冷たいそばを熱いだしにつけて食べ
るのは初めてだ。だけどうまいなあ。

そばを食べ終わって、タバコを1本吸って、さあ福岡地元編集者の雄・Y削B平さん
の事務所へ。

2004年12月17日

日本一引きこもりなだんじりエディター

12月16日(木)

このところパソコンと長時間にらめっこしているせいか、夕方を過ぎると首が痛くな
る。

この秋、シグマリオンをやめて、家にもiMacを導入した。このマックは「有限会社の
ぞみ」の若きアントレプレナー藤田青年がオークションで落としてくれたものである

最上位機種のグラファイト、大容量・高速HDが搭載されているスグレもので、快適極
まりない。

編集部員は「インターネットは、家でやったらあきませんよ」と忠告してくれるが、
「あほやのお、知らんかったんか。オレは『日本一引きこもりなだんじりエディター
』や」とこの長屋のタイトルをもじってうそぶいている。
「だんじり祭の若頭と引きこもりはどう考えてもつながりませんね、それ、寄り合い
とか祭当日にも引きこもるんですか。むちゃくちゃですね、わけわからん」とみなは
笑う。

そんなもんで、首や肩が痛くなったので仕事を早く切り上げて、はよ帰って神戸・三
宮の「源平」で寿司でも食うか、とビル地下直結の肥後橋駅から地下鉄に乗ろうとす
ると、西梅田行きは出たばかりだ。
かわりに反対側ホームに住之江公園行きが入ってきたのでそれに乗る。
とっさに「白雪温酒場」の錫のチロリの熱燗とナマコとカニを思いだしたからだ。

本町で中央線に乗り換え、九条まで10分。寒いし1分でも早く行きたいから、1メ
ータだが駅前で流しのタクシーを拾って乗る。

ガラリと扉を引くと、満員だ。うわー、アンラッキー。
広いつけ場のいつものところに兄ちゃんの顔が見える。L字型のカウンターをざっと
見渡してからこっちを向いて「すまんなあ」と顔を曇らせたるのと同時に、こちらは
「一人だ」と人差し指を立てる。
この無言の1秒ほどで「ごめん、そこひとつ、空けたってくれる」と初めて声が出て
、こちらは詰めてもらった客に「えらいすんません」といって勝手に補助椅子をひと
つ入れる。

温酒場はいつもと何か様子が違う。
おばちゃんがいなくて、いつもは10時半きっかりに皿洗いをしに来る兄ちゃんの嫁
が替わりにいる。
嫁さんは毎日同じ時間に来て、いつも兄ちゃんは時計を見て「おっ。今日も終わりか
」と時刻を確かめる。
彼はわたしより2つ上の昭和31年生まれで、昔は伝統ある明星高校で応援団をして
いた。はじめはなんか怖い感じがして、10年ぐらい(1年ちゃうぞ)話はしなかっ
たが、このところよく話をするようになった。

「居酒屋大全」の太田和彦さんが『居酒屋かもめ唄』(小学館)で見事に書ききって
おられたこの名店は、メニューも灰皿もない店だ。だから客は誰かに連れて行っても
らうか、隣の客が何を頼んだかを見て真似するしかない。
オレはこのオールドスタイル極まりない店に、日限萬里子さんに連れていってもらっ
てから、ここ20年ほどよく行ってるが、たまたまおばちゃんが、高校の時によく遊
びに行った同級生の家の2軒隣から、その昔、この九条に嫁に来たという奇遇で、よ
くしてもらってるし、おそらくメディアとして初めてミーツに書かせてもらった。

酒は「酒」、大ぶりの大豆と昆布を煮たものは「豆」、カニは季節によって毛ガニ、
松葉、ワタリと違うが「カニ」とだけ言って注文する。おばちゃんに「大根おろし」
と注文すると「辛いとこ?甘いとこ?」と訊いてくれてから下ろしてくれる。 (タ
バコの灰は床に落とし、吸い殻は床に捨て足で消す)

一口飲んでから「ちょっとぬるい?」と思う酒は、分厚い「錫半」(もう倒産した大
阪の錫器会社)製造のチロリで一個ずつ丁寧に燗されて出てくるので、ガラスの小猪
口の二杯目三杯目が必ずちょうどいい温度に上がる。
そして酒を一升瓶からチロリに入れて、7個口が開いた鍋の燗器につけ出してくれる
のは、やっぱり「おばちゃんやないと美味しない」。

兄ちゃんはめちゃ忙しそうだし、ここ10年ぐらい、仕込みが終わり夕方店を開けて
からは満席になる時以外、奥の部屋で寝ころんでいる親父さんもレギュラー出演だ。

店に入ってからずっと気になっていたことだが、息子の兄ちゃんに訊くのもナンだと
思って親父さんに「おばちゃんはどうしたん?」と訊いたら、オレの顔も見ずに下を
向いて、ひとこと「入院してる」。
それ以上は、もう訊けない。

一時間ぐらいでナマコやおでんやほうれん草やオムレツやらを食い倒して、小ジョッ
キとチロリも四つカウンターに積んでおあいそ。2千7百円だった。

その後、どうしても道頓堀のバー・ウイスキーに行きたくなった。
この店にしても創業名バーテンダーの小野寺さんは、ここ2〜3年は忙しい時しかこ
られないし、カクテルもあまりつくらない。ちょっとだけ炭酸を入れるテキーラサワ
ーを飲みながら、世代交代なのだ、とつくづく思った。

白雪温酒場もバー・ウイスキーも、20代の頃、諸先輩方によく連れて行ってもらっ
た。
こいうところでは仮に一人で初めて入っても、何をどう注文するかわからない。
その店で何を注文したらいいのか、それは言葉と同じで、「誰かにその瞬間に教えて
もらう」しか分からないことだ。そしてその繰り返しが経験となって先験的に「自分
がその店で何が分からないのかが分かる」という、単なる消費だけではない、実は街
的に最重要な「分かって楽しむ」ことへのパスワードを獲得することになる。

そういう意味で人は街では誰しも先輩にならなあかんし、それがアタリマエである。

少なくとも誰かの先生はなおのこと、親にすら「ならない、なれない、なりたくない
」の三重苦を背負った人間はたくさんいる時代ではあるが、自分よりも若い誰かの矢
面に立ったり道しるべにならないと、つまり「ええカッコ」ができないと生きていて
おもしろくも何ともない。

だから若い人は、履歴書には、これから何が出来るかを鼻をふくらませて書くもので
はないし、ボランティアで「これこれこういうことをしてきました」というものでは
さらになく、どういう先輩がいて何を教えてもらったかが書けることで、この街で過
ごしてきた値打ちが証明できる。

2004年12月21日

せやから、からだに悪い

12月18日(土)

今年最後のNHKラジオ第一放送の「かんさい土曜ほっとタイム」の生放送。

このラジオ放送は、全国ネットで、北は北海道稚内から南は沖永良部島まで、その昔、
関西弁で初めて放送をして今なおで活躍されている佐藤誠エクゼクティブアナウンサー
とテニスの沢松奈生子さんがキャスターのラジオ放送である。
オレは月1か場合によっては月2の割合で、「おすすめ関西ガイド」というコーナー
を大阪弁(岸和田弁か)でやらせていただいている。だからプレッシャーがかかる。

いつも通り、12時半にNHK大阪放送局の11階に着くと、すでに沢松さんはスタジ
オにひとり入って、原稿を読んでいる。
PA機器やモニターのスピーカーなどがあって、ディレクターとか技術の方とかがいる
部屋には、いつもテレビのニュースでおなじみの周山さんがいて、あいかわらずあか
抜けしたジャケット&タイで「今日もよろしくお願いします」とこれ以上にない標準
な標準語で挨拶してくれる。この人の毎日見れる大阪放送局のNHKニュースはとても
いい。服がお洒落だからだ。それもあるが、東京弁的標準語が気持ちいい。

佐藤さんがまだなので、他番組のNHK放送を聴いていると「いけない大人が…」と放
送してるのが聞こえて「ははは」と笑う。
「いけない大人が、はないでしょ」「そうですね、関西弁で言うたら、してはあかん
ことをする大人、ですかね、ははは」とこちらも笑う。ほんとうにおかしい。

佐藤さんが来てしばし2人でリハーサル。というより練習か。

生放送でこちらは2〜3日前に原稿を用意するのだが、不破智子アナウンサーの神戸
のクリスマス前・現地ガイドのあと、音楽が入ってそのときにスタジオに入ったのだ
が、今日も沢松さんは元世界のテニスプレーヤーらしくラコステのニットがよく似合っ
ていて、佐藤さんは相変わらずもの分かりがいいけれど、一言多い大阪のおじさん丸
出しの顔である。

佐藤さん沢松さんは、曲の間、年末ジャンボの宝くじの話をしている。そのまま放送
に入る。いきなり「今、曲の間、なにを話をしていてたかというとですね、宝くじの
話なんです」と佐藤さん。
オレは「うわー、なんちゅうことになるんやろ」と思いながら、自分が宝くじに当たっ
た(といっても1億円とかじゃない)ことなどを話す。あらかじめ用意していたのは、
泉南の漁港の青空市場の話でそれはないでしょ、と思っていたが、知らん間にその話
題に導入される。

ラジオの生中継というのはわれわれ素人にとってはしんどい。
しんどかったけど何とか切り抜けて京都に向かう。関西どっとコム主催の就職セミナー
である。
京都商工会議所の地下一階。旧いタッチのいいビルだ。

出版ほかマスコミ志望者の学生さんのためのセミナーらしいが、「雑誌のタイトルを
考える」みたいなテーマで、実際に企画を考える真似事のようなことをして、グルー
プ別に模造紙にその企画案を発表して、それにオレほかが講評するというもの。

オレは泣きそうになりながら例によって、「特集企画の立て方うんぬん、売れる雑誌
の特集とは、とかじゃなくてコミュニケーションの前のコミュニケーションとはどん
なものか、から入らないと、誰も読んでくれない」とか「オープンエンドの問いの立
て方が企画というものです。編集の仕事というのは、問いと答えがセットになってる
ものではないです」ともう演説調になる。血圧も上がるわなあ。

終わるやいなや京都駅まで地下鉄、そこからJRに乗り、大阪駅で地下鉄に乗り換え
南海なんばへ。
今年最後の五軒屋町若頭の寄り合いがあるからだ。

関空急行発車まで10分あるので、駅構内のケンタッキーのスタンドで「1ピース」
といい、キオスクで「生中」(サーバーで入れてくれる)といって、ジューススタン
ド(いつも数種あるミキサーの生ジュースおいしいです)に野球観戦で出されるコッ
プを持っていって飲む。こういうとこが、南海電車はわかってるなあ、である。

岸和田に着いて寄り合いまでまだ30分あるので「喜平」に寄る。
扉を開けると中町の世話人・M屋さんが奥さんと来られている。もう50歳になる彼
には、昔まだ高校生の免許がない時代に和歌山や御坊に波乗りによく連れて行っても
らった。

その話ひとしきり、そして南海電車の売店のビールは、サーバーで生、入れてくれる、
とのたわいもない話。
彼は痛風とか血糖値がどうとかを気にしていて「やっぱりあれはうまい、せやからう
ちは家に酒屋に言うて、サーバー置いたんや。せやけど樽開けたら、何ぼでも飲んで
まう。せやから酒屋に持って帰ってもうた」とのこと。「せやから」だらけである。

家にサーバーを置いてる人なんて聞いたことないわ、と大笑いしていると、喜平の大
将・Nさんも「うちも一時、置いたんや。あれは長時間通せへんかったら、衛生上悪
いしなあ。何ぼでも飲んでまう、体に悪い」。

このような街である。さあ寄り合いが始まる、会館へ行こう。

2004年12月25日

重層的な共同性の中で生きている

12月18日(土)その五軒屋町若頭寄り合い編

「おまえらなあ、オレはひろきくん(わたしの名前)の年(平成15年)、電話一本
やったんや。おまえ行ってくれるか、ハイわかりました、それで終わりや。こないし
てカシラに言うてもらえるだけでも、ええんちゃうんか」と今年、若頭連絡協議会の
本部詰めの任期を終えて町に帰ってくるAが言う。

こいつもいい男になった。本当にそう思う。

この夜の寄り合いは、年末の「火の用心」つまり青年団担当の夜警の慰労について、
元旦のだんじり小屋を開けての新年祝賀会の段取りの確認だったが、平成17年度若
頭筆頭(責任者)のM人は「すまんけど、昭和40年生まれの2年目と幹部、後、残
ってくれるか」と言った。

この年の若頭約5名は頼もしいし、実に粒揃いだ。
平成10年に80年ぶりにだんじりを新調してこの6年、全くたいした激突もなく数
々の遣り回しをしてきた今の拾五人組の技と気合いと安定感は彼らが築いたものにほ
かならない。

M人の考え方は、来年の若連協本部詰めに、五軒屋町若頭としては若い彼らの年から
出し、その人間が来たるべきその年の筆頭をする、という不文律を作ろうというもの
だ。これはなかなかいい思想だ。

「おまえらの年だけで話しして、誰出すか、今年中に決めてくれ。これはオレからの
お願いや」とM人は熱がこもる。

毎年各町から2名選出され、祭礼本部詰めになる若連に出るというのはつらい。
その年の祭は、自町のだんじりを離れ、警備にあたるというのがその使命だからだ。
だんじり祭の公的運営・警備は祭礼本部つまり年番、若連、梃子連、千亀利連合青年
団と警察で行う。それは祭を知らない者では成り立たないのだ、つまり神戸ルミナリ
エのガードマンでは決してできない。なかでも若連は、町の若頭と同様、祭礼運営の
中枢的存在だ。もちろん任期のその2年、一年中若連や年番さんほかの寄り合いも多
い。

オレは平成11年12年度と若連に出た。その年、若頭筆頭をする従兄に「すまんけ
ど、おまえ行ってくれ」と頼まれたからだ。

各町、誰が、どんな人間が出るかは微妙だ。だいたいうちのように2~3年目の若頭
を出す町が多いが、人のいやがる本部詰めに「筆頭をさしてもらったから」とわざわ
ざカシラをした翌年に出る町もある。

昭和40年生まれの若頭とわれわれ幹部数名だけ残った話し合いは、21町持ち回り
の来年の若頭責任者協議会と若連の執行部にあたる町についての情報、そして他町と
自町のそれらの考え方の違い、さらに将来のだんじり祭の運営そのものや警備のにつ
いての話、とまったくだんじりエキスパートな内容だ。

筆頭経験者で彼らより先輩のオレとM雄は顧問として、来年の筆頭のM人のこの考え
方を違う筋目から丁寧にまたきびしく説く。

彼らはこの後、この忙しい年末に何回も話し合うことだろう。
それは、子供の頃からのこと、青年団のあの年はおまえはこうでオレはこれこれこう
だった、拾五人組時はあいつはこうでオレはどうでとか、祭を軸としての過去の相互
間の人生の縁みたいなものに、今つまり来年の会社での仕事や家族の事情、言いかえ
ると町とか祭礼とかとは別の共同体でのことがらを重ね合わすことでもある。

だんじり祭においても、人は複数の共同体を重層的に生きている。それはコミュニテ
ィとか地域ボランティアとかいった耳ざわりのよい昨今のワーディングのものとは違
うし、意気や恩義とか貸し借りでも決してない。

2004年12月28日

だからなんなんだよ

12月20日(月)頃

とある行政施設の「インキュベーション施設」から、DVDも入っている豪華版パン
フレットが送られてきている。
アートディレクション効きまくりの、それらが入っているパッケージケースの裏面に
は、宣伝物なのに制作○×とか、撮影△■とか、デザイン×◎とか、いちいちクレジ
ットされているところが、とてもこの道の素人っぽい。

もう1年以上前になるのだろうか、この施設にはオープニングの際のイベントに、後
のパーティー代金込み一人3000円也を払って、若き起業家・藤田青年と一緒にお
話を聴きに行ったことがある。
シンポジウムにリナックスカフェ平川克美さんがいらっしゃったからだ。

今、それを思い出しているのであるが、その際、いきなり冒頭で「どうやってこれか
ら儲けてやろうと企図するIT関連の方には、全く反対のお話しをしますので、がっか
りしないで下さい」とおっしゃられ、「わたしはパワーポイントとか使いません」と
言って、白板にマーカーでグラフや年表を書きながら、ビジネスのシーンで儲かる/
儲からない、勝ち組/負け組の2分法で分けるのは知性のないことだし、ビジネスモ
デルとかいう言い方はもうこの時代にそぐう言葉遣いではない。
平川さんはそういう趣旨の講演をされて参加者を驚かせ、オレと藤田くんを笑わせて
いた。

だからこの「創業支援施設」の名前はよく覚えている。

ページをめくると、ファッション誌風インタビューページで構成されている。
○×市の経済局長、○×市立大の教授、著名な工業デザイナーに「フリーペーパーの
クリエーティブディレクター」…ほかの方々と一緒に、この施設の「コラボレーショ
ンマネージャー」や所長が紹介されている。
そして、その所長のプロフィールには93年に情報系NPOのDTP協会を設立し、国や府県
や市の事業企画に参画されていることが紹介されている。
見出しには「クリエーターのためのコンテンツ発信の一大拠点。それが○×(施設名
)である」というのが踊っているが、この若造りのおっさんは一体、何を言ってるの
だろうと思った。

NPOやTMOなどと同じように(そもそもこれもようわからんが)、ベンチャーとかイン
キュベーション、さらにSOHOといった新種のビジネス単語が時代用語化しているよう
で、さらにようわからん。
あんまりムカつくので、SOHOをうちの若い編集部員に聞くと「NYのあの辺りのこと?
」「ロンドンでしょ」「いや、ロフトで絵を書くとか」ということばかりで、肝心の
中身が出てこない。

若い編集者やライターの間では、こういう用語はうさんくさいIT用語で、現場で頻繁
に使うのは行政のおじさん系ですね、ははは、ということに帰着した。

こないだの平川さんのHPでも書きこまれていたが、スモールオフィスホームオフィ
スなんて、うちの記者さんカメラマンもみんなそうだし、昔からあった。
実家のある岸和田の下町では、おばさんたちが内職で家でだんじり祭の衣装を縫った
り、割り箸を袋に入れたりしている。

ちなみに弊編集部も経費削減のため十年以上も前からDTPだが、それ以上の何がある
んだろう。
ちょうど93年頃、フリーのデザイナーさんや佐川印刷の担当者と一緒に、イラストレ
ーターやクオークエキスプレスの試行錯誤で思いっきり苦労したことを記憶する。
NPOのDTP協会よ、行政になんか仕事=システム(油か?)を売りに行かないで、フリ
ーランスの彼らを助けてほしかった。

だから今さら、目次をインデックス、そこにぶら下がる内容や街ネタをコンテンツな
んて言い換えても、本質が余計ぼけてしまい、仕事をしなくて仕事をしているような
気分になるだけなことを、わたしたちは学んだ。

いちいちオレもしつこいが(平川さんも)、「ビジネスモデル」は「商売のツボ」、
「レバレッジモデル」は「ぼろ儲けのコツ」ぐらいにしておかないと、この末怖ろし
いことになる。

SOHO? So what? である。

2004年12月29日

家族の匂いのする年の瀬に

12月29日(水)

JR三ノ宮から昼下がりの各駅停車に乗って編集部に行く。
車内はすっかり年末の休みに入った様相で、デパートの紙袋をもった普段着の中年夫
婦や、中から蜜柑が透けて見えているスーパーの白い袋をさげた主婦がゆったりと座
っている。

摂津本山に着きドアが開くと、寒空の空気と一緒に「気を付けて帰ってね」「また来
なさい」という老人夫妻の声が聞こえてくる。
見ると近くの人なのだろう、コートなしのおじいさんはマフラーを巻き付けただけの
軽装だ。

「ありがとうね」「おばあちゃん、バイバイ」と40歳くらいの夫婦と小学校6年生
と2年生くらいの二人が、各駅停車に乗って手を振る。
最後尾の車輌なのでそれを車掌も見ているのか、普通より長い間あってドアを閉める

「バイバイ、バイバイ」と繰り返す6年生の少女。
あれあれ、泣き出した。
「また来るから、ね、ね」と関東弁のお母さんは子どもに言う。言いながらハンカチ
を取り出して自分も目をぬぐう。
ちょっと困ったような複雑な表情をする父親。

がら空きの電車の中、初老の女性客がうんうんと頷くように見ている。
まぎれもない年末の風景だ。

日本人が年末年始に海外旅行に出たり、大晦日に街をうろついたり、カウントダウン
のイベントに行ったりするようになったのはいつ頃からだろうか。
帰省や大掃除や年賀状書きや、すぐ来てしまう正月の準備やらで、家族の匂いがする
家で過ごすということをしないのは、世の中をちょっと舐めているような気がする。

オレはこのところ締切が年明け早々なので、30日や大晦日まで編集部に出ることが
多いが、元旦は朝10時からだんじり小屋を開けての新年祝賀会なので、ディープサウ
ス大阪の岸和田に帰る(といっても電車で1時間少しである)。

パリにいる友人の学生から、年末と新年のメールが届いて、
>17日から3日までノエル休暇の為、日々図書館へ行ったり、あちこちぶらぶら…

>クラスメートのアメリカ人や、イタリア人、アフリカ、ガーナの子なんかはすでに
ノエルを家族と過ごす為に帰国、フランス人と暮らしているメキシカン、キューバの
子はこちらの家族とノエルを過ごすという中、私たち日本人、韓国人、中国人の学生
は帰ることも出来ず、ノエルで浮き足立っている街並みを寂しい眼差しで見つめるだ
けです。
とある。

そういえば去年は夕方遅く帰りしなに、いつもはうどんか丼を食っている南船場の松
葉屋本舗で天ざるを食べた後、心斎橋筋を歩いたがすごい人出で、けれどもよく見て
みると10代20代のキッズと中国人やタイなどのアジア系や黒人がいつもより断然
多かった。

編集部周辺では、印刷所やデザイン事務所、ライターさん…と本日までのところが多
く「よいお年を」という挨拶でいっぱいだ。

みなさん今年一年、ご苦労さんでした。

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