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2005年01月 アーカイブ

2005年01月05日

New year's day of danzirious guys

1月1日(祝)

午前10時、だんじり小屋にての新年祝賀会。
5分前に行くと、だんじり小屋が開けられていて、もうすでに集まっている。
クルマや人通りの少ない元旦の朝、そこだけ街である。

同じ年のものも世代が違う人にも、顔を合わす人ごとに短い新年の挨拶をする。
白い布を敷かれた長机には、おでんと豚汁の大鍋と酒澗用のコンロ、スチロール製の
容器、一升瓶などなどがセットされている。

コマ止めを抜き、まわりにいる者でそろりとだんじりを2メートルほど前に出して止
める。
踏み板に鏡餅と酒、スルメを置き、両サイドに盛り塩をする。若頭の仕事である。

本年度の曳行責任者のKさんが正面に行き「ええか」の声で、100人あまりの五軒
屋町の祭礼関係者が二礼二拍一礼。
そしてコップに御神酒を2センチほど注いで回り、スルメを裂く。

Kさんの短い新年の挨拶のあと「乾杯」。

今年は例年に比べて寒い。だから、おでんや豚汁や酒が旨い。
大工方のAが上下冬仕様のスポーツウエア大工方のBに「おまえ、ほんまにうまそうに
食うてるのお。その 格好見てたら、西成のアンコの炊き出しか、震災の救援や」と
言って、みんなは爆笑する。

1時間ほど飲んで話して、後かたづけを若頭でして、だんじり小屋を閉める。

拾五人組の幹部たちと、若頭は幹部、前梃子、大工方の数人で岸城神社に初詣に行く。
屋台の並ぶ鳥居の前、ちょうど岸和田高校のグラウンド前で、昨年度本町若頭筆頭の
Hと会う。

「おおHか、おめでどうさん」とオレと同じ昨年度若頭筆頭M雄は言う。
Hは「M雄、16日やぞ」と言う。平成16年度若頭責任者協議会の新年会の確認か。

そういえば去年の元旦も参拝に並んでいて、同じようにHと会った。
「五軒屋町は、みなで初詣か」と彼は、そういう町なのだとちょっと感心して言って
いた。
元旦からのこういうのは実にだんじりそのものだなあ、と思う。

鳥居をくぐり、めいめい口と手を清め、今年の若頭筆頭のM人を先頭に、参拝の列に
並ぶ。

New year's day of danzirious guys

1月1日(祝)

午前10時、だんじり小屋にての新年祝賀会。
5分前に行くと、だんじり小屋が開けられていて、もうすでに集まっている。
クルマや人通りの少ない元旦の朝、そこだけ街である。

同じ年のものも世代が違う人にも、顔を合わす人ごとに短い新年の挨拶をする。
白い布を敷かれた長机には、おでんと豚汁の大鍋と酒澗用のコンロ、スチロール製の
容器、一升瓶などなどがセットされている。

コマ止めを抜き、まわりにいる者でそろりとだんじりを2メートルほど前に出して止
める。
踏み板に鏡餅と酒、スルメを置き、両サイドに盛り塩をする。若頭の仕事である。

本年度の曳行責任者のKさんが正面に行き「ええか」の声で、100人あまりの五軒
屋町の祭礼関係者が二礼二拍一礼。
そしてコップに御神酒を2センチほど注いで回り、スルメを裂く。

Kさんの短い新年の挨拶のあと「乾杯」。

今年は例年に比べて寒い。だから、おでんや豚汁や酒が旨い。
大工方のAが上下冬仕様のスポーツウエア大工方のBに「おまえ、ほんまにうまそうに
食うてるのお。その 格好見てたら、西成のアンコの炊き出しか、震災の救援や」と
言って、みんなは爆笑する。

1時間ほど飲んで話して、後かたづけを若頭でして、だんじり小屋を閉める。

拾五人組の幹部たちと、若頭は幹部、前梃子、大工方の数人で岸城神社に初詣に行く。
屋台の並ぶ鳥居の前、ちょうど岸和田高校のグラウンド前で、昨年度本町若頭筆頭の
Hと会う。

「おおHか、おめでどうさん」とオレと同じ昨年度若頭筆頭M雄は言う。
Hは「M雄、16日やぞ」と言う。平成16年度若頭責任者協議会の新年会の確認か。

そういえば去年の元旦も参拝に並んでいて、同じようにHと会った。
「五軒屋町は、みなで初詣か」と彼は、そういう町なのだとちょっと感心して言って
いた。
元旦からのこういうのは実にだんじりそのものだなあ、と思う。

鳥居をくぐり、めいめい口と手を清め、今年の若頭筆頭のM人を先頭に、参拝の列に
並ぶ。

2005年01月07日

神戸で逢えたら/男はあとからついてくる

1月6日(木)

3年半ぶりのミーツの神戸特集「神戸で逢えたら。」の売れ行きが好調だ。

初日のPOSではどこも消化率10%を超えたらしい。取次からのセブンイレブンの予
想では、最終80%ということだ。

副編集長のS岡が、販売部長のN島くんに「出来は、どうですか?」と訊いたら、N
島は「いいんじゃない。濃くて華やか、まるでA山さんみたい」とオッサン丸出しに
、この号の学級委員で同じく副編集長のA山に引っ掛けて言った。

横にいたA山は「熱、出そうですわ」と言い、S岡は「早退して、いいですか」と言
って笑った。

六甲山系が港のある海まで一気に開け、おまけにそれが南斜面の神戸は、とても美し
い街だ。
そして街の性格を決定づけた開港以来の歴史と、そこからくる外来のものや人に開か
れたハイカラ気風。
これらは不変の魅力で、どこの街にもないの神戸のエートスだ。

けれども情報にのっかる街のイメージは、80年代そして震災前と今とでは違う。

神戸=お洒落、というイメージが、流行やハイファッションをキャッチアップしてい
ることとイコールだった頃、北野町にファッションビルが立ち、そこにアパレルのパ
イロットショップが入り、ポートアイランドやハーバーランドといった再開発や整備
事業の嵐が吹き荒れていた。

観光地としても、異人館や中華街、安藤忠雄のファッションビル、神戸ブランド、デ
ートコース…と、とてもメディア的に取り上げられやすいネタが多くて、市の観光課
あたりも「ターゲットは若い流行に敏感な女性。男は後からついてきますから」とい
うことを平気で言って、オレは腰を抜かしそうになったと記憶する。

西武セゾン型マーケティングによって 、「街は情報の発信基地だ」とかの物言いが
広告コピー的にポジショニングされたり、週末にイベント会場にタレントが来て、ナ
レーターモデルが「はあい、こんにちは」とマイクでがなり立てているようなところ
を「祝祭都市」だ、などと言ったりした時代であった。

けれどもその情報の正体とは何だったかというと「どこそこのフロアでこれこれこう
いうブランドのこんなデザインの服がいくら」というシロモノで、それは「消費にア
クセス」するためだけの情報にすぎなかった。

今、人々が神戸に求めているのは、場所で言えばトアウエスト、栄町、磯上公園で、
手づくりダイニングやノンブランド雑貨店のようなタッチに変わっている。
今回の特集では、ここに長田のお好み焼きも加わる。

この今的神戸流「好感度」は、多分そんな通りを歩いたり、坂道のカフェでお茶する
こと自体で、その人がその街を構成するような感覚なのだろう。

自分の好きな店や商品は自分で作る、あるいは見つけてきて自分の店で流行らせる。
売れそうなものを置くのではなくて、店の商品に必ず主人やオーナーの顔が見える。
一杯のコーヒーにしろ一皿の料理にしてもそうだ。

魅力のある街には、必ずそんな、やりたいひとがやりたいときに何をやってきたか、
の足跡が残っている。

それらは茶髪から黒髪に変わった、白が流行る、ジーンズの丈が短くなった…とかと
同質で、「どこか違う、あさってや来シーズン」に対しての分節点であり、それが今
とは違うもの(差異)において定着すると、(その街だけの)新しい街のスタイルに
なる。

だから街の情報は「大きな今と未来の変遷の分節点」が常に感じられるかが重要なこ
とだと思う。

2005年01月16日

風邪引き男のウナセラディ神戸

1月9日(日)~15日(土)

風邪をひいてしまって、今週は編集部にいる以外はほとんど家で寝ているので、音楽
ばっかりデカイ音で聴いている。

ヘビーローテーションはヴィニシウス・ジ・モライスとバーデン・パウエルの「サン
バ・ダ・ベンサォン(祝福のサンバ)」で、これは本人のバージョンと、ベベウ・ジ
ルベルト(ジョアンとミウシャの娘)、エリス・レジーナのものといろいろ聴き比べ
てみる。

ボサノヴァのゴッドファーザー、ヴィニシウス・ジ・モラエスは、この唄の中で「詩
人で外交官 ブラジルで最もブラックな白人 シャンゴの直系だ」と非常にかっこい
いことを言っているが、彼は確かパリで外交官してたはずで、やっぱりかっこいい。

フランス人のピエール・バルーはこの曲をぱくって「サンバ・サラヴァ」という仏バ
ージョンの歌詞を付けて唄っている(アヌーク・エイメがシビレる「男と女」でも出
てきます)。

皆、幸せになりたいと思っている。
私は歌うのが好きだし、人が
楽しくしているのを邪魔しようとは
思わない。けれども、
悲しみのないサンバなんて
酔わせてくれない酒みたいだ。
そんなサンバなんかいらない。

うーん、サウダージそのものである。
「サウダージ」というのは、バイーヤ地方出身の黒人が、リオで家族や故郷のこと思
う気持ちを歌詞やメロディで表現した独特の感覚とのことだが、これがわからないと
サンバやボサノヴァは歌えない、という感じで思っている。

その「サウダージ」というポルトガル語は、友人の柿木央久によると、
葡和辞典では、懐かしさ、やるせない思い出、郷愁。
葡英辞典では、あこがれ、熱烈な欲望、思慕、ホームシック、ノスタルジア。
葡仏辞典では、名残惜しさ、ノスタルジー、思い出、人の不在による哀しみ。
だそうで、そんな風にお国柄に引きつけて訳されているのが面白い。

もう一つは、つじあやののアルバムで、このアルバムはよしだたくろうの「結婚しよ
うよ」とかサザンオールスターズの「シャ・ラ・ラ」とかのカバー集なのだが、ロス
・インディオス&シルビアの「別れても好きな人」がとりわけいい。

ちょっぴり寂しい乃木坂 いつもの一ツ木通り
ここでさよならするわ 雨の夜だから

という抜群に街的な歌詞が、ウクレレの弾き語りに合いすぎるくらい合っている。

あと一つが西田佐知子の全集で、このところ江利チエミとかと同じく20代のDJた
ちの再注目を集めている。

なかでもザ・ピーナッツ版で有名な「ウナセラディ東京」がいい感じだ。

街はいつでも 後ろ姿の 
しあわせばかり ウナセラディ東京

「後ろ姿のしあわせ」ってところがグッとくる。

ボッサ/ラテン系の唄は、かなしいと楽しいは分けることはできない、みたいなこと
をいつも言っている。

かなしいことと楽しいこととか、陶酔と絶望みたいなものは、実はアナログ的に連続
しているものであって、ここからが楽しいの領域です、こちらからはかなしい方です
、とデジタルに線引きできない。

いちいちどこからどこまでがかなしいことで、どこからどこまでが楽しいことだ、と
かいってるから人生は味気ないのだと思う。

陽気に行こう。

2005年01月18日

かっこいいって、はずかしい

1月17日(月)


カフェでなく純喫茶の特集をしている。

「どこの街にあっても同じようにカッコよかったカフェよさらば」というのが、今回
の特集についての副編集長のA山のコピーである。

「カフェとかネオ居酒屋とかのインテリア特集、こないだまでバンバンやっていて、
それがもう『さらば』だなんて、ミーツはちょっとひどいじゃないですか」という声
が聞こえてきそうだ。

その通りである。けれどもちょっと待ってほしい。それを今から考えます。

だいたい普通の飲食店の場合「メシが旨い、酒がイケる」というというのが店を選ぶ
際の絶対条件で、そんな店とそうでない店とに2分できる。
オレたちは、もちろん前者を取材対象として捉えている。
けれどもカフェなどの流行インテリア系飲食の場合は、変な話だが「自分にとって恥
ずかしいかそうでないか」に分かれてしまう。

例えば、ビカビカのハービスエントに入っている橘くんの天ぷら屋さんは、とてもう
まいらしい。
そやけどオレとしては、あそこはちょっと(今の時期は)なあ…みたいに思ってしま
う。
思うけども「話の種に」とか「市場調査に」といった言い訳じみた歯切れの悪い物言
いで、それでもやっぱり行ったりするような店。
「そんなところに行って、誰かに見られたらどうしょう」となってしまう、ある種の
感覚が微妙なのである。

メシや酒やコーヒーにそういう流行の時間軸を取り込み、インテリアとか音とかで演
出している店が、そっちの文脈のみで大受けしているから話はややこしいのである。

このところ、取材される側、つまりお店さん側がメディアの上手い露出の仕方、平た
く言うと使い方を熟知されていて、店名ロゴはじめオープン告知やレセプション案内
DMまで、アート作品じみたアートディレクション効きまくりのものすごいものが送
られてきて、そこにばちんとお店のコンセプトが明記されてあって、シェフやインテ
リアデザイナーや時にはフードコーディネータまでの名前が載っている(クレジット
というのです)のを見ると、何とも言えない気分になる。

かっこいい店に行くのは、何で恥ずかしいのか。

それはお前がひねくれているだけとちゃうの、と言われれば、そうかもしれんと答え
るしかないが、「この街ではまだデザインやインテリアで勝てる」と今の業界用語で
言う「飲食」の人が思えてしまえるところに、この国の所謂カフェ的店の文化レベル
の低さがあるのだと思う。

それはどうも独創性とか美意識とか時代感覚とかの問題ではなく、店を造る側と客と
のこなれた関係性だと思う。

当然編集者であるオレは客側で、その客のオレが本物のシャンゼリーゼのカフェのテ
ラスで座ったり、いち早く春物のアルマーニを着て街に出ることは、やっぱり恥ずか
しいと思うのはどうしてなんだろう。

これは、インテリアデザイナーとだんじり大工の両友人に訊いてみたい問題である。

2005年01月21日

コミュニケーションの手練れ

1月18日(火)

高い酒にさらにおもいきり付加価値をつけて売る北新地のクラブ(音楽で踊るところ
のそれではないです、念のため)のママさんやホステスさんは、コミュニケーション
の天才だ。

ミーツでも日記風連載の「ダメよ、だめだめ北新地」がこのところ人気コーナーとなっ
ていて、
●12月20日(月)  北新地に於ける、客のトリビア。自ら、自分の禿げ具合を
話のネタにする客(「わしの頭はハーゲンダッツ」など、おっしゃるお客様)ほど、
ホステスが頭の事をネタにすると嫌がる。

こんな感じなのだが、彼女たちが客を引っ張る販促ために携帯メールを駆使している。

夕方6時過ぎになれば、その女性たちが会社では普段「社長」とか「専務」(部長も
当然あり)とか呼ばれているひとにメールをがんがん送るそうだ。

客商売の彼女たちは、その宛先の人がどういう人か当然分かっている。
なぜなら、「○△常務、お願いします」と電話をかけると、必ず本人が出ないで「失
礼ですけど、お名前を」と聞かれて、「北新地のクラブ○×の知香ですぅ」と言うの
をためらって「山田知香と申します」と源氏名にその時に思いついた苗字をかぶせて、
しばらくして「今、会議中です」とか「外出していますが、ご伝言は」と返されるこ
とをしばしば経験しているからだ。
もちろん会社に行って直接会って「今日、遊びに来てください、ねっ、ね」とはいか
ないのが世の中だ、というのは熟知している。

コミュニケーションというのは、まずそれを立ち上げるためのコミュニケーションが
成立してから、その後で有意なメッセージが乗っかってくる。
コミュニケーションにおいては、起源的にはコンテンツよりもコンタクトの方が1次
的な出来事である(マクルーハン)、という例のやつだ。

携帯電話は距離的なそれをすっとばかす。
彼女たちには、受信されたらダイレクトに「もしもし」といって、「あー、いまちょっ
と」とならずに「もしもし」と返ってくれば、あとは「こっちのものだ」からだ。

もっとヤバイのは携帯メールである。

メールの文字は、テレポートする。
メールはわたしとあなたが接するのは送信ボタンをクリックした、その一瞬だけだ。
会って話をするのはもとより、電話はまだ人の時間を裂くから電話よりメールのほう
がしやすい、相手の都合を気にしなくてすむ。
メールには実は相手なんていないというか、会って話をしたり電話をしたり、したと
きにそこにいたような人はいない。

そしてメールを開くというのは、すでにその言葉を受け取る準備がある、メッセージ
をわたしは読んでやろう、という回路がすでに開いている状態だ。
それは距離も状況的な時間もすっとばかして、1次的なコンタクトをたやすく乗り越
える。

いきなり「こないだのお話の続き、ぜひ今日聞きたいです(*^o^*)」とか、
「いつもネクタイがおしゃれですね。今日はどんなのしめてるか知香は見たいのです
?」などと送ると、おっさんは「うーん、かわいいヤツめ、よっしゃよっしゃ」とな
る。

おっさんはそれがわからないからおっさんたるゆえんで、ひとりでどんどん行ってし
まう。
口を半開きにしてぶっとい指でメールを返信したりもする。
そうなると、おっさんはさらにひとりで盛り上がってしまって、正真正銘のおっさん
になるしかない。

その北新地ホステスコラムの隣に「露呈した、行きがかりじょう」を連載しているバッ
キーイノウエも、これまたコミュニケーションの手練れで、メールをよく送ってくる。

こないだの日曜日はまだ風邪が治ってなかった。
だから大丸へ、夕ご飯の総菜とワインを買いに行った。
お歳暮にいただいた、商品券が残っていたからだ。
休日の街それも冬の夕方前に、雑踏の中をそういうせこい趣旨で風邪で身も心も弱っ
てる中年の独りもんのおっさんが歩くのは、なんぼオレでも泣きたくなる。

けれども居酒屋や知り合いのバーに行くには時間が早すぎるし、きょうはしんどいし
月曜の明日は朝イチ会議だからやめとこ、と当然なる。
けれどもオレは街的人間だ。
10人くらいの列を作ってる餃子の「赤萬」をのぞくとちょうど1席開いている。
おっ、これはラッキィー。「ひとりやけど、いけますぅ」といってその席をすばやく
埋め「ビールと2人前」と注文する。

すぐ出てきたビールを飲みながら、3~4人のおばちゃんと若い男子が、餃子をひと
つずつ丁寧にかつ素早く包んではそれをどんどん焼いていくこの店ならではのプロの
仕事を見ながら、無意識に携帯を確かめる。

イノウエからの2通のメールが入っている。

>江、今日も5時から近所のバーでスタンドアローンや。しかし俺には似あわねえ。
肌色のチャームでもオーダーしてみるか。山本さんとこいかなあかんな。

「山本さんとこ」というのは、5時前からやってる神戸の名バー「ローハイド」のこ
とだ。半分エレメントないし意味不明、けれどもこいつも寒い日曜の夕方ひとりで飲
んでるんだ、と分かる。

続いてその30分後に着信していた2通目のメール。
>日曜の夕方の明○屋は一緒に暮らしたくない奴ばかり。俺もメイビイそうなんやろ。

ちょうど餃子が焼き上がって、家族連れの4人とアベックの2組に出され、オレのは
まだだ次の番だとわかったので返信する。
>大丸にワイン買いに行ったら赤萬1席だけ空いていてラッキー、今から食うとこ。
独りもんは得する

即返信があって
>死ぬなよ 、江
ときた。さすがにオレもうっとなってしまって、
>泣かすなや
とだけ正直に書いて返信した。

その後は
>おれらはラテンちゃうしのー。(イノウエ)

>せや。どっかに帰りたいのお。(オレ)

>表現者も誰もかれもが泣いていて、死で犬の小便をしたがってるように見える。俺
もそうやけど。(イノウエ)

>上手に自分とつきあえよ。イノウエ、またな
と書いた。

携帯メールはそういう意味ではとても街的で、ひとつ間違うととてつもないコミュニ
ケーションのツールだとしみじみわかる。

2005年01月22日

レッドクラウド物語

1月21日(金)

雪混じりの寒風吹きすさぶ中、店の取材撮影だ。
神戸トアウエストの「レッドクラウド」である。
この店は、普段あまり取材に出なくなったオレが取材しなくてはならない。
スタッフに「江さん行くんですか、どうして」と訊かれてもしょうがない。

この店のご主人「とっさん」は、同い年で旧くからの友人だ。
オレが神戸に住むようになった頃、仕事関係以外で一番早く知り合った街の友人だ。

彼は1983年三宮の高架下にわずか2坪のアノニームというブティックをオープン、そ
の頃西海岸の風が吹きまくりの高架下にあって、そのずば抜けたセンスでヨーロッパ
物のカジュアル系ウエアを厳選して置いていた。
オレたちは、全然知らない仏伊ブランドのアイテムを見て、同じTシャツでもこんな
に違うのか、と驚嘆した。

92年には、今度はアリゾナ・ナバホ族のジュエリーアーティストで友人のリキという
作家のインデアンニックネーム「ウィングロック」のアクセサリーを店の片隅に置き
、街のファッション人間を驚かせた。
そして人気のシルバー・リングやバングルは、発注してから1年待ちという具合だっ
た。
その頃、街の趨勢はイタリアン高級ブランド全盛だったし、ミーツは創刊してやっと
1年、「ダンスウイズウルブス」が映画館で話題になり、バッキーイノウエが調子に
乗って、俺の称号は今日から「街と寝る男」だ、キマッタね、とか弊誌の連載コラム
でぶっ飛んだことを書いていたからよく覚えている。

95年の大震災で、アノニームはむちゃくちゃになってしまう。
その頃のミーツのバックナンバーを読み返してみると、とっさんの妹の田所雪子さん
が「大切な実家、仕事のスタッフ、勤めているルーツ(店名)、アノニームがたった
数秒で全滅」と寄せている。
阪急の高架自体が倒壊したぐらいだから、高架下商店街の自体の再開のメドもたたな
い。
そんな時、リキ氏のアメリカからの「ぼくの持っている物を、全て渡すから、それを
置けばいい」というありがたい申し出があり、トアウエストのちょっと入ったところ
にその全てのアイテムを置く店をオープンした。
店名はそのまま「ウイングロック」をもらうことで承諾してもらった。

さらにその後すぐ、近くの不動産屋から「近所に大きな物件が空くから借りてくれな
いか」と言われる。
「とんでもない。そんなん、できません」と一応断るが、歩いて30秒の潰れた和菓
子工場の物件を見に行く。
毎日近所の道を掃除していていた顔見知りのおじいさんがそのお菓子屋の親方で、も
はや製造できなくなった工場の3階建ての物件を貸してそのお金を職人たちの退職金
に充てたい、とのことだった。

建物1棟まるごとは借りる余裕はなかったので、1階だけ借りて震災の年の暮れにオ
ープンしたのが、大箱のカフェ「レッドクラウド」だ。
「お互いほんまに困っていたけど、みんな地震後イライラしていた時に、公園のベン
チみたいな店を造ったれ」と思ったという。

この店は頑なにメディアに登場するのを拒んできた店だ。
後にも先にもミーツの2000年1月の創刊10周年記念号に、副編の塩飽が10周年だから
と頼み込んで「栗色の巻き髪神戸ガールも、近所の土建屋さんも、界わいのショップ
スタッフも、実にいろんな人が座る」と書いただけだ。

今回その「ウイングロック」を閉め「レッドクラウド」と統合、全面改装してまった
く新しい店として再オープンした。
主は多くを語らないが、「ウイングロック」の店長が急死してどうにもならなかった
からだという。
その服飾部門の「アノニーム」「ウイングロック」を引き継ぐ店は「オール・マイ・
リレーションズ」という名前である。

この仕事は面白い。

2005年01月27日

北新地メジャードラフト情報

1月27日(木)

忙しい時に病院に行くのはおっくう極まりない。
けれども今朝は行かなくてはならない。1か月分の胃薬をもらいに行く日だからだ。

普段から食生活が不規則極まりないから食後に胸焼けがしていて、いつもキャベジン
のお世話になっていたのだが、昨年末に岸和田の忘年会でてっさとてっちりを食いま
くり、ヒレ酒のヒレになったみたいに酒を飲み、その後スナックでの唄&刺激の取り
すぎで、夜中にあまりの胃痛で起きてトイレで吐いて大出血した。

それは大ではなく中ないし小出血だったも知れないが、血を見たオレはどんどん小心
者になる。
「これは胃潰瘍か、最悪胃ガンかなあ。ああオレも入院や」と一晩中のたうち回り、
その翌朝一に関電病院に駆け込んだ。

即胃カメラの結果、逆流性食道炎であった。
胃カメラを突っ込まれてベッドで横臥姿勢のままうえーっと涙を流しながら吐いて、
それがまた出血するという具合だったが、医者は大したことない荒れているだけだ、
とオレに伝え、薬を処方するから毎日飲むように、1カ月分しか渡せないからなくな
る頃また取りに来なさい、それで2カ月後にまた診察しましょう、とクールな診断が
下った。

その時に処方された薬がむちゃくちゃ効いている。
それ以来、朝から何も食わずに午後6時に天ぷら定食を食っても、空きっ腹にドライ
マティーニーを飲んでも胃が痛くならない。
歯痛がなくなる時みたいに、まったく痛かったことが別世界のことのようだ。

中之島にあるこの関電病院は最高だと思う。
何より看護婦さんがべっぴんである。はたちそこそこ〜40代の人まで、全員もれな
くそうだ。
べっぴんさんというのは、顔が美しいとか脚がきれいとか胸がデカイとかそういうこ
とのことをいってるのではない。
やっぱりそれももちろんあるけれど(最低やなあ)、それ以上のものである。

今日は10時半にがんばって行く。3台ある自動カード受付から並んでいる。
内科に行くと、まるで満員電車だ。待合いコーナーに座りきれずに立ってる人もいる

そうか、風邪が大流行しているのだ。

ここの病院では患者は看護婦さんの知り合いばかりなのか、と思うぐらい至る所で話
をする。
はじめはオレも分からなかったが、この1年で10回くらい行って分かるようになっ
た。
患者がなんだか「街場の店での馴染み客のように、すぐなれる」のである。

ベンチの端っこで座っていて、忙しそうに小走りで通りかかった看護婦さんと目が合
う。

涼しい切れ長の目で「お待たせしてます、江さん」とにっこり。
あれえこの人、誰だったかなあと思うより前に、そう言われてすぐに「どれくらいか
かります」と訊く。
すっぴん顔に少しだけブルー系のアイシャドウを引いているのが気になったからだ。
「カルテ今、回ったとこですから、30分くらいですか」と約10秒だけの会話。

ちぇっ、それならタバコでも吸うか、と喫煙所に行く時に、地域医療連絡室というコ
ーナーの前を通ると事務の人と一人の看護婦さんがいる。
彼女は携帯電話をかけている。 かけながらちらっとこちらを見る。

その辺の事情に詳しいドクター佐藤によると、
「イケてないおばはん系看護婦は、帽子を立てて頭に着ける。普通のナースたちは、
帽子をちょっとだけ寝かせている。しかし、なかには帽子を完全に水平に付けてる系
もいる。それは正面の平たい部分が頭頂部の接線上にあり、すっかり天を仰いでいる
。前から見ると、ほとんど帽子を着けているのが分からないくらいだ。ちょっと、暴
走族の車のウイングのよう。まさにギリギリのバランス。AV女優のナース姿が本職の
看護婦と違ってどこかしっくりこないのは、けっして制服の色がいやらしいピンク色
をしているからではない。帽子がミッキーの耳のように突っ立っていて野暮ったいの
だ」
とのことで、この人は完全に帽子が水平で、ドクター佐藤の例通りのイケてる系のひ
とである。
おまけにもの凄く美人である。年の頃は30歳くらいだろうか、はっきりいってオレ
好みである。

プレートに目をやって地域医療連絡室というのは何だろう、みたいな顔をして、ちら
っとそれでもしっかり美人の看護婦を見る。
これは仕事の話なのか、誰に何の話をしているのか、みたいな感じでもっとしっかり
見る。
ほんの3秒、耳ダンボ、目が顕微鏡状態である。

彼女は半袖の白衣から締まった細い腕が伸びてケータイをしているのだが、なんと手
首にはブルガリの時計をしている。それもブルガリブルガリという高級バージョンで
、おまけにベゼルが金張りだ。

この時計は北新地のクラブのママさんに、今NYのテレビキャスターとかに人気絶大
な時計で、シンプルに見えるけど100万円ぐらいする、ドレスの時はショパールと
かピアジェだけど、わたしはスーツの時はよくしている、着物にもよく合うのよほほ
ほほ、と直接聞いたことがある。

看護婦が白衣でブルガリしててエエんか、一体どないなってるねん!
と一瞬思ったが、おお、ええやんイケてるやんけ、と思い直した。
ポジティブシンキング・だんじりエディターの本領発揮である。

建物の外にある寒い喫煙所でタバコを2本立て続けに吸って、また地域医療連絡室の
前を通る。

その看護婦さんがこちらを見る。目が合う。
すると天使の微笑みに加えて、「こんにちは」。
オレたちはもう知り合いなのである。
約1.25秒の出来事である。

この病院の看護婦さんは、ロイヤルホテルのレセプション(フロントとちゃうぞ)や
シンガポール航空のフライトアテンダント(スチュワーデスちゃいます)、神戸大丸
のコンシェルジュ(案内係ちゃう)とかではない、ちょっと別のその上手を行くサー
ビスだ。

うまくは言えないが、 多分、 地域医療連絡室にいた彼女だったら、北新地水商売大
リーグにドラフト1位で指名される、そんな感じだ。

さっそくドクター佐藤に報告しよう。

2005年01月28日

めっちゃ「濃い味体質」

1月28日(金)

2月1日売りの「オフィス街の冒険」が刷り上がった。
用紙を替えた1発目の号だから、みんなでワイワイと見る。
上出来である。

次の3月1日売りの特集は「純喫茶」で、いよいよ始まる「内田×平川 東京ファイティングキッズ・リターン 悪い兄たちが帰ってきた」も5p特別バージョンで無事入稿した。

その次、4月1日売り号の特集の企画会議(といってもいつも通りの雑談だけど)が盛り上がっている。

特集タイトルは「ほんとは濃い味、好きなんです」である。

関西は「薄味文化」だといわれているが、果たしてそうか。
料理研究書などによく書かれているのだが、うどんのだしの塩分は実は関東よりも関西の方が濃いとのことだが、東京のうどんは「鬼ほどからい」と感じるのはどうしてか。
遅い昼ご飯に大阪・江戸堀の「喜作」に行くと、腕利きの親父さんが客席に出ていたのでその話になるが、やはり「魚の煮付けもそうやし、間違いないっ」とのことだ。

豚骨ラーメンのそれでは決してない、まったりした味。仏伊料理のように濃厚ではなく、エスニック料理のようにとんがっていない。けれども、だしが、ベースが、風味が、素材そのものが「しっかり濃い」味。

これは街場の関西人しか分からないし、関西人だからこそ分かるといえば、またカレーうどん評論家でもある平川克美さんに「何いってやんでい」と江戸っ子弁で叱られそうだが、そのところにオレたちの日常の「あー、食べた」という何ものでもない満足感がある。

それが実際の関西人の「濃い味体質」というものだ。

やっぱりトンカツは、トンカツ屋のおてしょう(手皿)でソースをつけるんと違ごて、洋食屋の初めから上からデミグラスがかかっていてさらにウスターソースをかける、というのやないとあかん。
あのイタリアンのパスタじゃない、ケチャップ味の「イタ・スパ」。せやけどイタリアン・スパゲッティって言い方、日本風味噌汁みたいな言い方やなあ、とかで盛り上がってる。

けれどもやっぱりお好み焼きだとオレは思う。

街場のお好み焼きを「下町B級グルメ」だとかで分類し、「和製ファーストフード」とかの言い方でそれを指すようになってから、なんだかそれまでのお好み焼屋との距離が遠くなってしまった。とても迷惑なことだ。

オレら街場の人間にとってお好み焼きを食べるということは、グルメもへったくれもないし、おいしいお好み焼きベスト100をインターネットで検索して、あの町この街と片っぱしから食べ歩くなんていうのとはちょっと違う。

ラーメンはその意味で、時代が、メディアが、小さなエンタテインメント系のテーマパークにしてしまった。
だからテレビでタレントのリポーターが「うわあ、おいしい」とびっくりして見せ、情報誌が特集し、それを見た人が列を作り、また新しいご当地ラーメンやラーメン名人が「作られる」。

同様にマクドナルドやピザの宅配、コンビニ弁当といった、おいしいのかまずいのか分からない(というよりそれは問わない)世界は、ますますケータイeメール的な情報伝達系食べ物になってくるだろう。

そんな中で、お好み焼きという世界は、どんな文脈でとらえられようとも、いつまでもそれを食べる人にとって「絶対」おいしい、というのでなければ、街場のお好み焼屋さんの存在価値はなくなってくる。

けれども実際それが、シンプル極まりないけど「濃い味」の豚玉や全部入り卵のせモダンや大貝・かすの焼きそばのおいしさで、客の目の前でジューと焼き、ぱんと裏返し、ちゃちゃちゃっとソースを塗り、青のりカツオを振りかけるお好み焼屋さんのリアリティである限り、その濃い味はわれわれの街的な実生活そのものだし、生のコミュニケーションで語られるはずだ。

そこが「どこにもあってよそにはない」京阪神の街とお好み焼きの切っても切れないところである。

それと、たこ焼きにはちょっと悪いけど、街には街の、店には店のお好み焼きがあり、それに加えて飲み屋系の店や市場の店、休日の昼メシ型…その他性格、客層、バリエーションや具や焼き方が「粉モノ」なんて一つのカテゴリーにひっくるめられるのを、街場のお好み焼きはそのプロセスそのものの濃い味においてきっぱりと拒絶している。

起・承・転・転・・爆発!みたいな、むちゃくちゃな文章になってしまって、いつものように内田先生に「話は整理して話すように」と怒られそうだが、味が濃くても薄くても、味覚を語るというものは難儀なことだ。

だから根性のない非力な奴はいつもグルメレベルでそれを語る。

2005年01月29日

De la galette a votre gre "kishiwadienne"

1月29日(土)

街は、すでに「あらかじめ失われてそこにある」
(http://tb.plaza.rakuten.co.jp/hirakawadesu/diary/200501280000/

)というところから、お好み焼き屋のことを書こうとする。

オレの生まれ育った「だんじりの岸和田」もそうだが、関西のいいお好み焼き屋があ
る街というのは、通知簿1と5の親友がいて、毎日一緒にわいわいとやかましく遊べ
る街の奥行きがある。
それは、大阪の生野や神戸の長田や岸和田がどうの、という話では決してない。

このところ街の雑誌をやっていて、街が何だかつまらないと思える決定的な風景のひ
とつが、年末だけによく売れる「関西1週間」のラブホテル情報付きのクリスマス特
集や「HANAKOウエスト」のおいしい店選手権を見ながら、5千円ぐらいの仏ディナー
を出すカフェみたいな内装の店で、メニューを一生懸命読み、シャンパンの銘柄を楽
しそうに選んでるアベックとかグループが、どいつもこいつも通知簿3ばかりにしか
見えないヤツらであることだ。

お好み焼きとその街のことを考えてるわけであるが、お好み焼きの旨さを人に語った
り、また書いたりすることは、オレの仕事の中でも「おいしいもの特集」的に記事を
書いたり編集したりするのとは、全く違う行為だということを分かっている。

なぜなら、グルメ評論家とか美食ライターと言われる人のお好み焼きの記事は、仕事
を依頼するに値しないほど退屈でシロウトっぽい、つまり街的にひとつもおもろない、
ということを知っているからである。

オレの仕事は、街の雑誌「ミーツ」で、そこにご紹介するための店やその店の品書き
つまり料理や酒といったネタを選び、それを写真や記事で表現することである。

けれどもその一見同じな一連の思考のプロセスが、ことお好み焼きに限っては感覚的
に違ってくる。
それは「どこでどんなお好み焼きに親しんできたか」という街的な個人史に直接リン
クしてくるからだ。
もちろんそこでは「いじめた泣かされた」「シバいたドツかれた」などとと同じレベ
ルの、極めて具体性を持った肉体論が幅を利かせる。

したがって「粉ものB級グルメ」といったカタログ情報誌的で陳腐な物差しは通用し
ないし、いくら「旨いぞ凄いぞ」と、トッピングされる具の上等さとか、そのお好み
焼きは厚さ何ミリとか、的外れなややこしい要素でいわれても、その街的中学(大学
でもいいが)の通知簿が3だった人間には無理矢理読ませられても、1のヤツには
「さっぱりわからん」、まして5には「おまえはアホか」である。

昔は賑わっていた街が、その賑わいが無くなり、街から街らしさがなくなってしまう
のをじっくり、自分が年を取るのと共に見ていくことは、哀しいものだが何だか懐か
しい。

小さなアーケードのある商店街が、まだ自転車で通ったら怒られたほどの賑わいがあっ
た昭和40年代の頃、軒数百数十軒のオレの五軒屋町(だからだんじりの綱もよその町
と比べて短い)に、お好み焼き屋が4軒あった。

ちなみにその町内にあったアーケードの商店街は、買い物中心の商店街で、そこの中
のオレのうちは生地屋で、タンス屋、化粧品屋、小間物屋、瀬戸物屋、荒物屋、傘屋、
ゲタ屋、メリヤス屋、人形屋、学生服屋、文房具屋、お菓子屋、オモチャ屋、ふとん
屋、紳士服、婦人服、洋品店、毛糸屋、呉服屋…が並んでいて、飲食店は喫茶店しか
なかった。正式名称は「岸和田中央商店街」だ。

そのうち「ミーツ」でもご紹介したことのあるお好み焼き屋の2軒である、大正時代
創業の[双月]とその斜め向かいの[一休]は、「昭和大通り」という、実家がある
中央商店街の一筋違いのクルマも通れる大通りの商店街にあった。
その界隈は、狭い同じ五軒屋町のなかでも違う通り、すなわち違う街である。

その頃を思い出してみると、その昭和大通りには、100人は入れる寿司から麺類、洋
食までの[みなと食堂]、うどんのだしが岸和田一と言われた[たこ治]はじめの飲
食店が多かった。
また2軒のパチンコ屋があり、一昨年50周年を迎えた老舗[いすゞホール]は今なお
健在である。

その2軒のお好み焼き屋は、テイストこそ違えども、店内に間仕切りをしてあるだけ
の個室がいくつもある店で、看板表記に「風流、趣味の~」といった冠詞がつくタイ
プのお好み焼き屋だ。

さらに昭和大通りをまっすぐ浜手の200mほど下がった北町には、[電気館][スカ
ラ座][大劇]といった映画館があり、その五軒屋町2軒のお好み焼き屋には、映画
を見終わった帰り客、つまり家族連れやアベックなどがぞろぞろとお店に入って、自
分たちで好きなように注文して自分で焼いて食べるという、文字通りの「お好み」な
娯楽的要素が共通していた。

その昭和大通りからオレの商店街をつなぐ寺町の細い道に入ったところにあった[な
かむら]は、前の2軒と違っていた。
町内でただ1軒の、客が大きくてぶ厚そうな一枚鉄板を囲むスタイルのお好み焼き屋
で、その形態のお好み焼き屋にしてはかなり大きなキャパだった、と記憶する。

白い三角巾を頭にしていたおばちゃんと角刈りのご主人が共に白い割烹着で、どこで
売ってるのか見たこともないデカいテコを操っていて、客はその向かいに7~8人、両
サイドにそれぞれ4人は座れた、と思う。

地元の両商店街の住民やそこで働く人が一人で昼飯に行ったり、うちなどは店が忙し
い日曜の昼に、小学生高学年だったオレや姉が、ひとつずつ緑の紙に輪ゴムをされた
包装の上に「豚モダン」「イカ焼きそば」と赤のマジックで書かれた10人分くらいの
お好み焼きや焼きそばを取りに行かされていた。

けれどもいつの間にか、その[なかむら]だけがなくなっていた。

そして誰に聞いても、[なかむら]がなくなった確かな年月がわからない。
そういう現実こそが、とても街的なのだと思う。

思えば、毎年あの「~年に一度の大祭り(岸和田だんじり小唄)」の秋祭が来ては終
わるように「知らん間」に年月が経ち、隣の隣の町である大阪や神戸にオレにとって
のお好み焼きの街は少し増えたけれど、一方岸和田の[双月]も[一休]も40代の若
頭になった今なお、祭の寄り合いの帰りなどには大人数でよく行って、普通に旨いと
実感している。

こんな仕事のプロとしてオレを育てたくれた時代と共に、だんじり祭時以外に賑わい
のない町内、とりわけ商店街では住む人がほとんどいなくなり(オレもその一人であ
る)、商店街そのものがだんだん廃れてきて、だからではないと思いたいのだが、
「知らん間」の年月の間になくなった地元仕様の[なかむら]が、なんだか懐かしい。

最後に雪印バターと味の素とケチャップで仕上げ、さらに溶き卵をまぶす、きっとそ
の手の下手くそでイモなライターだったら「コテコテの岸和田の~」と書くしかない
焼きそばを一度、自分が書きたかった。

そう思いながら今、この長屋の日記でもさんざん登場する、だんじりの前梃子係を2
0年近くやり、今年若頭筆頭をしている正味の同級生・M人の父親である「ミノくん」
が、[いすゞホール]の真向かいのテーラーの粋な店主で、町内でバリバリの一番う
るさい人だった頃、お好み焼きも焼きそばも何も注文せんと、目玉焼きだけをおばちゃ
んに焼かして、昼間っからキリンの瓶ビールを飲んでいた[なかむら]の風景をメイ
ンに書こうと決めたところだ。

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