« めっちゃ「濃い味体質」 | メイン | 『ビートキッズ』賛江 »

De la galette a votre gre "kishiwadienne"

1月29日(土)

街は、すでに「あらかじめ失われてそこにある」
(http://tb.plaza.rakuten.co.jp/hirakawadesu/diary/200501280000/

)というところから、お好み焼き屋のことを書こうとする。

オレの生まれ育った「だんじりの岸和田」もそうだが、関西のいいお好み焼き屋があ
る街というのは、通知簿1と5の親友がいて、毎日一緒にわいわいとやかましく遊べ
る街の奥行きがある。
それは、大阪の生野や神戸の長田や岸和田がどうの、という話では決してない。

このところ街の雑誌をやっていて、街が何だかつまらないと思える決定的な風景のひ
とつが、年末だけによく売れる「関西1週間」のラブホテル情報付きのクリスマス特
集や「HANAKOウエスト」のおいしい店選手権を見ながら、5千円ぐらいの仏ディナー
を出すカフェみたいな内装の店で、メニューを一生懸命読み、シャンパンの銘柄を楽
しそうに選んでるアベックとかグループが、どいつもこいつも通知簿3ばかりにしか
見えないヤツらであることだ。

お好み焼きとその街のことを考えてるわけであるが、お好み焼きの旨さを人に語った
り、また書いたりすることは、オレの仕事の中でも「おいしいもの特集」的に記事を
書いたり編集したりするのとは、全く違う行為だということを分かっている。

なぜなら、グルメ評論家とか美食ライターと言われる人のお好み焼きの記事は、仕事
を依頼するに値しないほど退屈でシロウトっぽい、つまり街的にひとつもおもろない、
ということを知っているからである。

オレの仕事は、街の雑誌「ミーツ」で、そこにご紹介するための店やその店の品書き
つまり料理や酒といったネタを選び、それを写真や記事で表現することである。

けれどもその一見同じな一連の思考のプロセスが、ことお好み焼きに限っては感覚的
に違ってくる。
それは「どこでどんなお好み焼きに親しんできたか」という街的な個人史に直接リン
クしてくるからだ。
もちろんそこでは「いじめた泣かされた」「シバいたドツかれた」などとと同じレベ
ルの、極めて具体性を持った肉体論が幅を利かせる。

したがって「粉ものB級グルメ」といったカタログ情報誌的で陳腐な物差しは通用し
ないし、いくら「旨いぞ凄いぞ」と、トッピングされる具の上等さとか、そのお好み
焼きは厚さ何ミリとか、的外れなややこしい要素でいわれても、その街的中学(大学
でもいいが)の通知簿が3だった人間には無理矢理読ませられても、1のヤツには
「さっぱりわからん」、まして5には「おまえはアホか」である。

昔は賑わっていた街が、その賑わいが無くなり、街から街らしさがなくなってしまう
のをじっくり、自分が年を取るのと共に見ていくことは、哀しいものだが何だか懐か
しい。

小さなアーケードのある商店街が、まだ自転車で通ったら怒られたほどの賑わいがあっ
た昭和40年代の頃、軒数百数十軒のオレの五軒屋町(だからだんじりの綱もよその町
と比べて短い)に、お好み焼き屋が4軒あった。

ちなみにその町内にあったアーケードの商店街は、買い物中心の商店街で、そこの中
のオレのうちは生地屋で、タンス屋、化粧品屋、小間物屋、瀬戸物屋、荒物屋、傘屋、
ゲタ屋、メリヤス屋、人形屋、学生服屋、文房具屋、お菓子屋、オモチャ屋、ふとん
屋、紳士服、婦人服、洋品店、毛糸屋、呉服屋…が並んでいて、飲食店は喫茶店しか
なかった。正式名称は「岸和田中央商店街」だ。

そのうち「ミーツ」でもご紹介したことのあるお好み焼き屋の2軒である、大正時代
創業の[双月]とその斜め向かいの[一休]は、「昭和大通り」という、実家がある
中央商店街の一筋違いのクルマも通れる大通りの商店街にあった。
その界隈は、狭い同じ五軒屋町のなかでも違う通り、すなわち違う街である。

その頃を思い出してみると、その昭和大通りには、100人は入れる寿司から麺類、洋
食までの[みなと食堂]、うどんのだしが岸和田一と言われた[たこ治]はじめの飲
食店が多かった。
また2軒のパチンコ屋があり、一昨年50周年を迎えた老舗[いすゞホール]は今なお
健在である。

その2軒のお好み焼き屋は、テイストこそ違えども、店内に間仕切りをしてあるだけ
の個室がいくつもある店で、看板表記に「風流、趣味の~」といった冠詞がつくタイ
プのお好み焼き屋だ。

さらに昭和大通りをまっすぐ浜手の200mほど下がった北町には、[電気館][スカ
ラ座][大劇]といった映画館があり、その五軒屋町2軒のお好み焼き屋には、映画
を見終わった帰り客、つまり家族連れやアベックなどがぞろぞろとお店に入って、自
分たちで好きなように注文して自分で焼いて食べるという、文字通りの「お好み」な
娯楽的要素が共通していた。

その昭和大通りからオレの商店街をつなぐ寺町の細い道に入ったところにあった[な
かむら]は、前の2軒と違っていた。
町内でただ1軒の、客が大きくてぶ厚そうな一枚鉄板を囲むスタイルのお好み焼き屋
で、その形態のお好み焼き屋にしてはかなり大きなキャパだった、と記憶する。

白い三角巾を頭にしていたおばちゃんと角刈りのご主人が共に白い割烹着で、どこで
売ってるのか見たこともないデカいテコを操っていて、客はその向かいに7~8人、両
サイドにそれぞれ4人は座れた、と思う。

地元の両商店街の住民やそこで働く人が一人で昼飯に行ったり、うちなどは店が忙し
い日曜の昼に、小学生高学年だったオレや姉が、ひとつずつ緑の紙に輪ゴムをされた
包装の上に「豚モダン」「イカ焼きそば」と赤のマジックで書かれた10人分くらいの
お好み焼きや焼きそばを取りに行かされていた。

けれどもいつの間にか、その[なかむら]だけがなくなっていた。

そして誰に聞いても、[なかむら]がなくなった確かな年月がわからない。
そういう現実こそが、とても街的なのだと思う。

思えば、毎年あの「~年に一度の大祭り(岸和田だんじり小唄)」の秋祭が来ては終
わるように「知らん間」に年月が経ち、隣の隣の町である大阪や神戸にオレにとって
のお好み焼きの街は少し増えたけれど、一方岸和田の[双月]も[一休]も40代の若
頭になった今なお、祭の寄り合いの帰りなどには大人数でよく行って、普通に旨いと
実感している。

こんな仕事のプロとしてオレを育てたくれた時代と共に、だんじり祭時以外に賑わい
のない町内、とりわけ商店街では住む人がほとんどいなくなり(オレもその一人であ
る)、商店街そのものがだんだん廃れてきて、だからではないと思いたいのだが、
「知らん間」の年月の間になくなった地元仕様の[なかむら]が、なんだか懐かしい。

最後に雪印バターと味の素とケチャップで仕上げ、さらに溶き卵をまぶす、きっとそ
の手の下手くそでイモなライターだったら「コテコテの岸和田の~」と書くしかない
焼きそばを一度、自分が書きたかった。

そう思いながら今、この長屋の日記でもさんざん登場する、だんじりの前梃子係を2
0年近くやり、今年若頭筆頭をしている正味の同級生・M人の父親である「ミノくん」
が、[いすゞホール]の真向かいのテーラーの粋な店主で、町内でバリバリの一番う
るさい人だった頃、お好み焼きも焼きそばも何も注文せんと、目玉焼きだけをおばちゃ
んに焼かして、昼間っからキリンの瓶ビールを飲んでいた[なかむら]の風景をメイ
ンに書こうと決めたところだ。

コメント (1)

大工町寺町米町仏町老母買ふ町あらずやつばめよ

江さんの文章を読んでいて
思わず寺山修司を思い出しました。
 「オレのうちは生地屋で、タンス屋、化粧品屋、小間物屋、瀬戸物屋、荒物屋、傘屋、
ゲタ屋、メリヤス屋、人形屋、学生服屋、文房具屋、お菓子屋、オモチャ屋、ふとん
屋、紳士服、婦人服、洋品店、毛糸屋、呉服屋…が並んでいて、飲食店は喫茶店しか
なかった。正式名称は「岸和田中央商店街」だ。」

いいですね。
まさに、幻影の岸和田中央商店街。
あらかじめ失われた街が目に見えるようです。
幻影の街、大阪。特集一度見てみたい気がします。
返礼をありがとうございました。

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)

About

2005年01月29日 08:34に投稿されたエントリーのページです。

ひとつ前の投稿は「めっちゃ「濃い味体質」」です。

次の投稿は「『ビートキッズ』賛江」です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

Powered by
Movable Type 3.35