「日本一だんじりなエディター」江弘毅の甘く危険な日々
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2008-04-09T01:57:25Z
Dangerous days of the most "Danziri-ous" editor of the town
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「かしみん」のこと
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2008-04-08T00:56:16Z
2008-04-09T01:57:25Z
『料理通信』誌の連載取材で「かしみん」を取材に行く。 行き先は岸和田の「浜地区」...
uchida
『料理通信』誌の連載取材で「かしみん」を取材に行く。
行き先は岸和田の「浜地区」ではない。大阪でもミナミは「吉本」のおひざ元の難波千日前である。
この店は「元祖・岸和田かしみん焼き」と称する。店名は『紙の屋』である。
店名を見て、岸和田それもだんじり祭関連の人なら「ははぁん」とわかる。
「かしみん」は「岸和田浜七町」のちょうどど真ん中の町「紙屋町」のお好み焼き屋『大和』が発祥であるからだ。
わたしはこの浜のお好み焼き屋を『ミーツ』時代に取材させていただきご紹介したことがある。
特集『関西お好み焼き世界。』の時であり、この特集が「かしみん」のメディア登場の嚆矢となったと記憶する。
ちょうどこの長屋の大家さん・内田樹せんせいの新連載『街場の現代思想』が始まった号であるから、記憶しているマニアの方も多いと思う。
「かしみん」というのは、大阪府南部のディープサウスと異名をとる岸和田の、それも浜地区のお好み焼きである。
岸和田といえば「だんじり祭」だが、そのなかでも浜七町は「祭こそ我が人生」のもっとも熱いエリアであり、この「かしみん」は大変リージョナルな存在である。
岸和田の「浜七町」、このだんじりのメッカに生まれた男たちは他の土地に住むことを嫌う。
町内は三世帯住宅が多い。三世帯住宅を建ててでも自町および「浜七町」に固執する。
やむなく他所に移っても、空き家が見つかるとすぐ戻ってくる。
冬〜夏の月一回の祭の寄り合いや、盆明けの毎日のようにある寄り合いと祭当日と落策の一カ月だけでは飽き足らない。
またこの街で生まれた女性は、配偶者には「浜七町」の男性、それがかなわぬならだんじり祭礼旧市の男性を優先する。
だんじりのDNAが濃縮され煮詰まったような町である。
わたしは若頭筆頭をする前年、このお好み焼き『大和』に、食べ物ライター曽束政昭とカメラマン川隅知明両氏と取材に行った。
案内役兼説明役は紙屋町の隣町、中之濱町の若頭・山本弘之氏と音揃政啓氏である。
山本氏は建設業「泉商」の親方で元近大相撲部。立浪部屋から入門の声もかかったという男である。彼とわたしは平成12年に若頭連絡協議会の副幹事長を中央地区からわたし、浜地区からは山本氏と同じく務めたが、平成15年の盆前、惜しくも42歳でこの世を去った。
音揃氏は「音萬水産」の若親方、つまり網元であり大阪府漁協の青年部長を務めていた。また昨年度の中之濱町の若頭筆頭である。
そして中之濱という町は、こういう町である。
昨年上梓した『岸和田だんじり讀本』から引用する。
「天下泰平中之濱 黒欄干には誉の力士 日掛けで造りしだんじりに 今も息づく濱気質」。
天下泰平の軍配はその昔、城内で行われた御前相撲で優勝し授与されたものに由来する。中之濱町のトレードマークである。
先代は「水滸伝」と呼ばれた名地車であったが、昭和二十年(1945)七月九日、浜の町に忘れえぬ悲劇が訪れる。
空爆で地車を焼かれてはいかんと、少しでも安全な場所へと移動させたところ、皮肉にもその地に米軍の焼夷弾が降った。
哀れ地車は戦争の犠牲となったのである。
この光景を目前に見て、地車移動を実行した長老たちは「戦地で戦う若者に申し訳ない」と嘆き「腹を切る」と座り込んだ人もいたという。
そして戦後、地車のない悔しい思いに耐えること数年、苦しい時代にもかかわらず全世帯公平に十円の日掛けをして資金を調達し、今の地車を造ったのである。
大工棟梁は、浜の名門大工「大安」の流れを汲む町内の天野藤一師が「町内のために」と初めての地車作事を引き受けた。
他の大工から心ない誹謗中傷があったというも、助として弟の天野喜三郎師の応援も受け、一心不乱に製作に取り掛かった。
彫物は熱い町民の心意気に応えて、名匠・木下舜次郎師が刻んだ。
助人彫物師には金光南陽師を先頭に前田正三師、上田勇次・勇造・祐次郎の各師、松田正幸師らである。
町は地車新造にまとまり一丸となった。
そして昭和二十五年(1950)九月、出来かけの地車を曳行するかどうか物議を醸す中、投票により急きょ曳くこととなり未完成のまま曳行した。
明くる昭和二十六年(1951)念願の地車が完成する。
そういった苦難連続の経緯ゆえか、中之濱町には地車をこよなく愛し大切にする気質が受け継がれている。
この地車は先代と同じく黒欄干であり正面には誉の横綱の番付標が付いている。
また曳き綱の鐶は空襲で焼け残った先代のものを流用している。
彫物は正面土呂幕に戦後を象徴するかのように朝廷に反乱した平将門が彫られており、土呂幕左の「本能寺の変」とともに木下舜次郎師の代表する逸品である。
欄干(高欄)や脇障子柱、兜枡などに黒檀が使用されることによりメリハリがつき、締まりのある姿となっている。
木鼻も細工が素晴らしく見応えがあり、懸魚のバネで飛ぶ千鳥も初めて考案された。
先代地車は明治三十年(1897)頃の新調で、大工棟梁は「大弥三」こと田端辰次郎師と伝えられている。
安政三年(1856)に新調されたといわれる地車もあり、土呂幕の一部が貝塚市某氏により保存されている。
「なかんば」の通称はかつての地名「中ノ場」による。
昔は町内に魚市場があり、セリ声とともに活気のある時代があった。
またわたしは『岸和田だんじり若頭日記』で「中之濱町地車五十年誌」の内容について書いている。
中之濱町の若頭のKが「中之濱町地車五十年誌」を届けてくれた。
Kは以前にも書いたが、三代続く度胸千両系男稼業の家に生まれた典型的な「浜」のだんじり男だ。
昨年の秋に中之濱町内で編集が進んでいることを聞き、新年の若頭責任者協議会の寄り合いの時に「一冊、頼む」と代金一万二千円也をことづけていたのだが、刷り上がるやいなや、「おい、江。できたから今日、持っていっちゃる」と電話があった。このあたりの直截的な気質が胸に小気味いい。
前文にあるリードには
「脈々と流れ続く岸和田の地車の歴史の中で、50有余年もの伝統ある地車を戦災で消失したのは、唯一中之濱町だけである。地車を持たぬ町の悲哀を身にしみて感じた町民はやがて、衣食住もままならぬ中での日掛け十円を二年間に渡って続け、ついには地車の新調を成し得たのである。」
とある。
タイトル「天下泰平」はこの町の纏や法被はじめ至る所に意匠化されている軍配団扇のことで、その昔、城内で開かれた御前相撲でこの町の志形屋権七が優勝、殿様より下賜された軍配がその由来になっている。
「日掛け十円」の話は以下の通り。
「…この有名な十円貯金を可能にしたのは、中之濱が漁師町であったからだとされている。つまり、漁師は漁に出さえすれば日銭が入ったからだ。前日に十円出し、例えすっからかんになったとしても、翌朝の漁に出て捕った魚を魚市場に持っていけばお金になり、またその日の十円が払えたというのである。」
この中之濱町、通称「なかんば(中ノ場)」とはどういう場所か。
「戦後まもなくまで、現在の幼稚園の位置に岸和田唯一の魚市場があり、町は早朝より近郊の町や村から、魚屋、仲買人が集まり、威勢のいい競り声や、大八車、リヤカーの音で目が覚めるという活気に満ちあふれた漁師町だった。皆が貧乏であったが、素朴で人が良く、よくけんかもするが人情味のあふれる住みよい町であった。」
圧巻は「若い衆への五つの提言」である。
「●二つ、内輪もめをしないようにすること
中之濱町は浜気質で気が荒く、けんかの多い町だ。内輪もめもよくした。魚市場の跡地での大げんかや、青年団が駅前に地車を放ったまま帰り、それを世話人が夜に曳いて帰ったという話もある。町内で力を合わせて地車を曳き、みんなで祭を楽しもう。内輪もめをしてはいけない。」
●四つ、責任ある祭をすること
祭の雰囲気が好きなだけの人は、地車はどうでもいい人。本当に地車が好きな人は地車を大切にし、祭に責任を持つだろう。若くても、年がいっていても、祭に責任を持たなければならない。無責任な祭になってはいけない」
カバンに入れてずしりと重いこの一冊を岸和田の実家から持ち帰ったその日一日、わたしは確かに「浜のだんじり」の中にいた。
さて「かしみん」の話だった。
岸和田だんじりの話になると、ナンボでも話があるのだが、時間がナンボあっても足らんので今回はこれくらいにしておく。
「江クン。ミーツでお好みの特集するんやったら、大和のかしみん、オレらが案内するで。おばちゃんにゆうといちゃる」と両氏言われたのだが、わたしはすでに中学校の時に初めて同級生になった浜小学校の友人に連れて行ってもらったことがある。
本格的にかしみんを食べるようになったのは、高三のころ。サーフィンを始めたころだ。
サーフィンはものすごい運動量である。だから、かしみんの脂とかしわが身体に染みる。
この店は酒やビールを置かない(牛乳はある)夜7時までしかやっていないお好み焼き屋で、身体を使う仕事である漁師や沖仲仕などの港湾関係者、建築関係者や運動クラブ帰りの高校生で賑わっていたのだが、波があればいつも海に行くカネがないサーファーたちにも人気絶大だった。
わたしは当時、『ミーツ』でバリバリの編集長で、そういうことをお好み焼き特集に書いてもらいたくて、ライター曽束に彼ら二人を紹介したが、山本くんのケンチク事務所に行って待ち合わせたところ、彼らは「にいちゃん、江クンの編集長の本やから上手に書いたってや。恥かかしたらアカン」と言った。
彼らの体躯と顔を見、そしてその言葉を聞いて曽束はビビった。
そしてわたしは実はかしみんに詳しいことを彼らには言わなかったし、曽束に書いてもらおうと決めた。
曽束は取材して帰って「岸和田かしみん浜七軒」というタイトルで書いた。
岸和田市街の紀州街道より海側は、大北町、中北町、大手町、紙屋町、中之浜町、中町、大工町の7つを総称し「浜七町」=「浜」と呼ばれ、70年代まではさらに海側に砂浜があったという漁師町だ。
そこに「かしみん」と呼ばれる浜ならではの洋食焼きがあると聞き、だんじり同様にかしみんを愛する中之浜町若頭の方達に案内してもらった。
その昔、一銭洋食の店があり、安くて栄養ある「“ひね”のかしわ」が使われていた。
最初に案内してもらった店「大和」のご主人も、その店から洋食焼きを教わったという。「大和」では一枚テーブルの鉄板で焼いている。
熱したそれに生地を丸く薄く延ばし、キャベツ、かしわ、そしてミンチの牛脂をかける。
だから「かしみん」。
返して焼くと脂は溶けて、揚げたようにカリッとなる。ソースを塗った上にも、さらに脂のミンチをパラパラ。これがソースに溶け込む。
食べると薄い生地なのにぐっと歯ごたえが。かしわはグリッとスジに似た食感、脂の旨みも「濃いなあ」だ。とどめはふちのかりかり感。
まるでピッツア、いやこれより旨い。
こりゃ、やられた。
浜界隈でかしみんをやている店は、堺町にある鶏肉店「鳥美」よりかしわを仕入れている。
店主の和泉屋さんは「80歳になったとき店をたたもうと思ってお好みの店に電話したら、みなに『やめんといて』と言われて…」と、娘さんたちに鶏の身、皮、脂の調合を伝授、店は継がれることとなった。
そして一昨年には店の奥をお好み焼き店に改装。
お好み焼きのレシピについては今度は逆に「大和」のご主人が教えてくえたそうだ。国道沿いにある「吞喜」の店主もまた、「大和」から伝授された。
「かしみん」は、だんじりと同じく浜の町の宝。
それはまるで、泉州の魚が、多くの漁師達が世代を超えて共有する大切な財産であるかのように。
そんな意味や気質さえもが、この洋食焼き一枚に含まれているのだ。
さすがに良い取材をしているので良い記事である。
この「かしみん」は、同じ岸和田でも浜地区以外ではあまり知られていなかった。
しかし昨年末、岸和田を飛び出したこのミナミ店の登場でテレビを賑わすようになり、一気にその存在が知られるようになった。
『紙の屋』の店主・塩崎さんは昨年の夏頃、地元の人に連れられ食し、そのうまさに「やられてしまった」。
「こんなうまいものが、今までどうして地域外に出なかったのだろう」とのことで大和さん一家に教えを請う。
紙屋町内では「他所の人が住み込みで習いに来てる」と話題になったそうだ。
毎朝通い続けること3カ月、コツを聞いては試行錯誤の末、大阪ミナミに出店する。
「やっぱり梅田とはちがうでしょ」と、なんばグランド花月、ワッハ上方など、お笑いや演芸の施設が集中するエリアで、たこ焼き、お好み焼き、ラーメン、食堂…と浪花ファーストフードのメッカに出店する。
わたしは「粉もん」とかいう言い方をされるようなテーマパーク的な食い物がいやで、あんな場所で「ホンマに旨いんかいな」と思ったが、これは正真正銘の「かしみん」だった。
380円也。値段も岸和田価格であり、紙屋町の40代連中も食べに来るという。
店主に「うるさいこと言うでしょ」と訊くと「話、早いから楽ですわ」と笑う。
カオルちゃん死す
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2007-11-11T02:45:34Z
2007-11-11T02:48:26Z
昼過ぎに飯を炊いてレトルトのカレーを食べていたら、チュンバこと中場利一さんからケ...
uchida
「おとぼけ映画批評」http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/3949/の『岸和田少年愚連隊-カオルちゃん最強伝説』で、次のように見事に書いておられた。
****************************************
カオルちゃんは、たしかナインティナイン版の『愚連隊』(見てないけど)では小林稔侍がやっていたと思うけど、中場利一の原作のイメージとはだいぶ違う。
というか原作をいくら読んでも、カオルちゃんについてだけはその姿が私にもイメージできなかった。原作ではカオルちゃんというのはこんなふうに記述されている。
「それほど怖い人である。たしか私より一回りほど年上ではあるが、オッサンなんて言おうもんなら『この口が言うたんかい』と上と下の唇を重ねて五寸釘をブスリと通したあと、唇が引き裂けるまで引きずり回されるであろう。
何十人が待ち受けるヤクザの事務所に、たった一人ダンプで突っ込み、全身ナマスのように切りきざまれても、毎日勝つまで通い詰めた人である。今ではこの人が商店街を歩いていると、裏通りがヤクザで溢れると言われている。」
誤解を招く引用だが、以上はカオルちゃんではなく、イサミちゃんについての記述である。カオルちゃんはそのあとに登場。
「このイサミちゃんともう一人『カオルちゃん』と呼ばれる悪魔のような人がいて、カオルちゃんの場合はイサミちゃんが切りきざまれた事務所ぐらいなら、鼻歌を唄いながら素手で壊滅させるほど別格なのだ。一にカオル、二にイサミ、三、四がなくて、五にヤクザと言われるほどこのイサミちゃんも怖い人であることには間違いない。ただこの人の場合は、鬼のカオルに仏のイサミと言われる通り、普段から切れっぱなしのカオルちゃんとはかなり違い、話せば分かるタイプである。」(『岸和田少年愚連隊-血煙り純情篇』)
その長年の疑問が昨夜氷解した。
竹内力だったのである。
「切れっぱなし」の男というのは、なかなか造型がむずかしい役どころである。
ずっとガオガオほたえているだけでは、その「うるささ」にすぐ感覚が麻痺してしまう。
だから、ときどき「すっ」と鎮静して、その不安な静けさがつねにこちらの予測に先んじて「切れる」という絶妙の緩急が必要になるのである。
私の知る限り、これまで「切れっぱなしの男」の造型に成功した例は少ない。
思いだしつつ挙げるならば、『まむしの兄弟』の菅原文太、『仁義の墓場』の渡哲也、『仁義なき戦い・第二部』の千葉真一、『狂い咲きサンダーロード』の山田辰夫、『漂流街』の吉川晃司、など。この栄誉のリストにぜひ竹内力も付け加えなければならない。
竹内力のカオルちゃんは、中場利一の世界にみごとなリアリティを与えた。
異常に暴力的でありながら、熱い人間の血が流れている竹内力のカオルちゃんのおかげで、あとの個性がすべて際立ち、とてもよい映画に仕上がっている。
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さっそく、その未確認情報の確認のため、○×○ちゃんゆかりの△町でわたしと平成15年度に若頭筆頭を務めたWにケータイする。
△町は岸和田の中でもとりわけ度胸千両系男稼業関係者が多い町である。
この町に「マッドマックス」だったかタトゥー専門誌が取材に来て、その現物の背中を1ダースほどを撮影し、本物を堪能して帰ったという話は、雑誌業界のみならずよく知られた話である。
「早いのお、何で知ってるンや」とWは言う。死因はガンらしい。
○×○ちゃんは、幸いというか不幸というか直接わたしは面識がないが、駅前のパチンコ屋でドル箱一杯の玉を投げつけまき散らしたり、警察官3人を引きずり回したりしているシーンは、中学生の頃からそれこそ何回も目撃している。
「かぁー、ぺっ」とタンを吐きまくりながら、例の調子で駅前通商店街を歩いてくると、岸和田の少年~大人たちは、一斉に裏道へ逃げたものである。
その歩き方は、ここ最近で言うと亀田親とよく似たスタイルだが、中坊と大人の違いは軽くある。
町から若頭連絡協議会に出された年に、わたしはカンカン場の警備を担当していたが、その時に立ち入り禁止場所で撮影しているテレビのカメラに「そこは、あかん」と注意していたが、なかなか立ち去らない。
たまたま同じエリアにいた○×○ちゃんは、それを見て歩いてきて「ごらぁ、若連のゆうこと聞がんがい」と一喝すると、クルーたちは脚立や機材を放って蜘蛛の子を散らすように逃げた。
わたしはその時、半纏に「若連副幹事長」と襷をかけその任に当たっていたが、わたしももちろん逃げた。
ともあれ岸和田では20世紀~今世紀最大の知名度を誇る男が亡くなったのである。
それからだんじりの遣り回しのように素早くチュンバくんにリターン連絡する。
彼にいち早くそのニュース知らせたのは、岸和田春木の度胸千両系男稼業関係者で賑わう散髪屋のおっちゃんだった。
なんでも今日お客さんにバリカンを当てている時、その客がたまたま関係者でありそこから聞いたとのこと。
そしておっちゃんは「ちょっと待っておくれやっしゃ」と手を止めて、即座に原作者のチュンバにケータイした。
これも誠に岸和田の街場らしい話である。
「駅前で号外、配らなアカン」とチュンバは言い、わたしとチュンバは「一つの時代が終わった」「ほんまやのお」と噛みしめる。
それからさっそく拙著「だんじり若頭日記」でおなじみの親友のM人、M雄に電話。
M人は「殺されても死ねへんような男も死ぬんやのお」と一言。
M雄はすでにチュンバからケータイ連絡されてたらしく、言葉をつまらせた。
わたくし岸和田だんじりエディターは、この場をお借りして、謹んで深く哀悼の意を表する次第です。
岸和田の街は、喫茶店、居酒屋、鮨屋、スナックそして散髪屋と、どこでも今日明日とこの大物の訃報で持ちきりであることだろう。
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岸和田侠客伝(第二話)
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2007-08-25T01:58:36Z
2007-08-25T01:59:09Z
こと岸和田のだんじり関連の話については、ほとんど口伝である。 大工や彫物師といっ...
uchida
こと岸和田のだんじり関連の話については、ほとんど口伝である。
大工や彫物師といった職人筋の話、町会の長老筋の話、そして「その筋」の話…といろいろあるが、筋によっては話のスケールが倍になったり、100年前の逸話をさも自分が目撃したかのように語られるのが常である。
だからその話は講釈師の講談を聴いているようであって、思わず体が乗り出すほどホンマにおもろいのであるが、誇張はもちろん単純な勘違いや思いこみもある。
だからそれらを「聞き書き」としてそのまま書き物にすることは、後でいろんなヤヤこしいことになるから「岸和田だんじり讀本」については、そこのところがデリケートになった。
さて糸ヶ濱の話であるが、内田幸彦さんという方が「ふるさと岸和田」というコラム集を大阪府阪南市の中井書店から出している。
丁度「土呂幕十本勝負」の並松町地車の校正時に、その糸ヶ濱のことをどこまでどのように書くかでそのページの著者・泉田祐志氏と岸和田でやっていた。
泉田氏の祐風堂で校正の帰りに、わたしの著書「だんじり若頭日記」(晶文社)でも最多出場のM人にそのことを話すと、「おお並松の博徒の親分やな。その話やったら、この本あるで」と内田さんの著書を出してくれた。
1930年生まれの内田さんのかつて住んでいた並松町の借家の裏が、糸ヶ濱の賭場だったとのことだ。
深夜に屋根から「どすん」と家鳴りがすることがあり目を覚ますと、警察の手入れでその家の屋根伝いに博徒たちが逃げた。そういうことが数回あった。翌朝庭に出てみると「朝日」「敷島」の煙草が散乱していたとのことだ。
慌てて逃げ、落としていったのだろう。
などと文章にあるが、煙草の銘柄の記憶はとてもリアルである。
その糸ヶ濱は、地車にかけてはその精神的支柱である、岸和田浜七町の大工町の生まれである。明治十年(1877)頃、まだ東京になって間がない江戸に出て関取になったが、角界は十両であがり、明治二十年に岸和田へ帰ってくる。
ちなみに十両の正式名称は「十枚目」であって、これは幕末から明治はじめにかけて幕下上位十枚目までの力士の給金が十両だったことに由来している。そしてこの糸ヶ濱が十両だった明治時代中期には、番付表にも四股名が太く書かれるようになった。
その頃は、大坂相撲がまだ健在だったが、東京相撲との差が顕然で「江戸の土俵をつとめてこそ力士である」とのことで東京に出たのであろう。
ちなみに大坂相撲は、元禄時代(1700年初頭)に堀江新地に発祥し一時最勢を誇った。贔屓筋、後援者を指すタニマチは大坂の谷町のことであり、初代横綱谷風梶之助や雷電為右エ門と名勝負をした二代横綱小野川喜三郎は、大坂相撲の本場所力士だった。
文久三年(1863)の大坂相撲力士と新撰組(壬生浪士組)との北新地においての大喧嘩は、浪曲や上方講談で講釈口伝されるよく知られた事件である。この手打ちで京都での角力興行に大坂相撲が協力し、新撰組が関わることとなる。
さて糸ヶ濱であるが、彼は喧嘩では一対一で必ず相手を伸ばしたという。喧嘩も強かったがとりわけ喧嘩の仲裁が得意だったらしい。
どういう縁があったかは知らないが、岸和田で侠客として一家を構えた糸ヶ濱は、同じ力士出身の「砂小川」こと西村伊三郎氏と五分の盃を交わせている。
この砂小川は、京都博徒の大親分砂小川一家の初代であり、幕末京都の大侠客会津小鉄こと上坂仙吉親分とも関係が深かったという。
さらに内田さんの著書によると、大正十二年(1923)関東大震災が東京を襲った時、東京相撲が焼け出され糸ヶ濱を頼ってきたことがある。早速、糸ヶ濱が興行主になり高野山で奉納相撲を催して危機を救った。
その後、恩返しにと東京相撲が大阪新世界の国技館で糸ヶ濱主催の大相撲を開いた、との美談がある。
ちなみに平成六年に百四歳で亡くなった二十二代木村庄之助も大坂相撲出身で、その自著連載である読売新聞社「大相撲」78年名古屋場所総決算号『二十二代庄之助一代記』によると、「さしも威容を誇っていた東洋一の両国国技館も焼け、鉄桟だけの無残な姿を横たえていた」とあり、そのあと巡業で、飯田、松代、上田などを回ったあと、大阪、高野山、広島から四国に渡った、と記録されている。
糸ヶ濱が尽力した並松町の地車は、大正十年の新調である。
そういう時代に、大工町生まれで侠客として全盛だった糸ヶ濱が、「我が町の地車を」とこれまた工匠として全盛だった櫻井義國師に、史上初めて誕生する並松町の新調を任せたのであった。
さらに義國師はその新調にかかる直前の大正五年頃、隣町の大町である下野町地車の新調中に彫物責任者を途中で投げ出している。
その地車は大工棟梁「大勝」あるいは「別所勝」こと別所勝之助師たっての頼みで彫刻を引き受けたのであるが、ある事情によって手を引き、ここぞとばかりに精魂込めて作事・彫刻したのがこの地車である。
義國師が大工作事・彫物も一手に引き受けたというので、当時の他の名匠たちも手弁当で地車製作に加わり手伝ったという。
その時代はまだまだ大工仕事も彫物も、いわば父子相伝であり一家秘伝であった。
名だたる工匠たちも、義國師の技をこの目で見てみたい、その仕事の何か一つでも習いたいという一心からであったという。
岸和田侠客伝(はじまりはじまり)
tag:nagaya.tatsuru.com,2007:/kou//6.1471
2007-08-24T03:29:25Z
2007-08-24T03:32:41Z
岸和田にも侠客がいた。 暴力団の構成員ばかりではないのである。 明治から大正にか...
uchida
岸和田にも侠客がいた。
暴力団の構成員ばかりではないのである。
明治から大正にかけて、その侠客の一人がだんじり新調に絡んでいる。並松町の「糸ヶ濱」こと伊東由松氏である。
糸ヶ濱が居住しその賭場があった岸和田城下のちょうど北にある並松町は、江戸時代は沼領新屋敷と呼ばれ、多くの字が残っている。
並松町のその町名は、ちょうど真ん中を貫く紀州街道筋両側にあった松並木に由来する。
糸ヶ濱の太い木格子の家屋もあったその紀州街道筋の一筋浜側は「忍町」であり、ここには甲賀者の組屋敷が並んでいた。甲賀者はお庭番ともいわれ、城内側近の間者であった。さらにその浜側には、北町にかけて御船溜があり(北町だんじりの纏は、その風向きを見る吹き流しが由来との説あり)、武士たちの訓練所である藩の射撃場と馬場(同様に殿様調練日報知のための印の説もあり)があった。
「鉄砲町」と呼ばれる筋は、その名の通り鉄砲組はじめ足軽たちが多数住んでいたという。
わたしは大学時代に並松町のそんな武家屋敷然とした建物をそのまま利用している学習塾で、中学生に数学を教えていたことがある。
その家は入ると中庭を囲んで4畳半~12畳くらいの部屋が4つあり、そこを利用しておのおの習字、ピアノ、数学や英語の小さな教室をやっていた。一番狭い部屋などは、それこそ下級侍が傘張りをやってそうな板張りの和室で、一宿一飯の義理の客を泊めていたような雰囲気があった。
江戸時代の並松町つまり新屋敷に居留していた武士たちは、五十石以下の士、卒であり、同心や与力は十石程度の禄だったそうだ。
人ひとりの米の消費量が年一石というから、今の米の価格から考えると、丸ごと両替商で現金化したとしても、下級武士たちの暮らしぶりは貧しいものだったろうと推測できる。
このように並松町は武士階級の町だったので、町民漁民の祭礼であるだんじり祭は参加しなかった。
地車を曳くようになったのは明治維新のずっと後、明治三十五年(1920)であり、その際に御輿も所有していたという魚屋町の地車を借りて曳行したのが始まりである。
有史以来この地車を所有しなかった町が、初めて新調地車を曳行したのが大正十年(1921)であるが、その地車新調中の大正九年には、貝塚の沢にあった北町の先代地車を借りて曳いている。
その際、当てたのか転かせたのかはわからないが、地車をひどく傷めてしまい、借り賃五百円の上に修理代千円が嵩み「高くついた」と古老もぼやかずにはいられなかったそうだ。
そのようなことがあったものの、満を持して大正十年に登場した並松町の地車は、高さ幅とも岸和田最大で、目方が千二百貫(≒4・5トン)という地車であった。
現在も大屋根両端の大きな紅白の房がゆっくり揺らしながら疾走するその勇姿は、実際に岸和田のだんじり祭で見られるが、特有の大太鼓の重低音ともあいまって、まことに大きい。
余談であるがその並松町の地車がカンカン場で横転するのを若頭連絡協議会に出ていた時に、わたしは目の前で見たことがある。
昭和・平成になってこれより大きな地車が出現しているが、貫禄が違う。この地車にはそれらを威圧する圧倒的な存在感があるのだ。
それは姿見が実に美しいからで、とくに屋根廻りの巨大な組物は、どっしりしていてかつバランスが絶妙である。
それもそのはず並松町地車は、「明治の甚五郎」と名を馳せた「左ヱ門」櫻井義國師が大工棟梁と彫物責任者の両方をこなした地車である。
大工・彫物ともに同じ工匠の作事というのは岸和田で唯一であり、大阪湾数ある地車の中でも数台だけであり、そのすべてが義國師作である。
またこの地車の大屋根は初めて「隅をかけた」、いわゆる入母屋型の地車である。大屋根を支えそれを形づくる垂木は、義國師自慢の菱型扇垂木であり、これ以降岸和田の地車は扇垂木構造の入母屋型が多くなる。
安政二年、泉州忠岡の老舗大工棟梁家に生まれた櫻井義國師は、堂宮建築の巨匠であった。
和泉國一宮の大鳥大社、大津神社、四天王寺の鐘撞堂などが義國師の作品である。
加えて義國師のその彫刻は天才的で、十五歳の金比羅詣りの後、その境内を再現した作品を一夜にして刻んで周りを驚かしたり、大工見習いの合間に彫ったネズミが「米を食う」と評判になったりした。「義國の彫った虎に目を入れるな、目を入れると虎が動き暴れだす」といった伝説もある。
四天王寺再建を設計監督した、京都・奈良の当代ーの古社寺修理技師であり『日本建築史要』を著した天沼俊一京大教授もその腕に魅了されており、天沼博士の知遇で当時神奈川県横浜で活躍していた関東宮彫師の「一元」の名跡である一元林峰師を義國師の「助」として岸和田に呼び寄せている。
林峰師はその後、岸和田に永住し、繊維、海運と景気よろしく地車新調黄金時代だった大正期に堺町、大北町、大工町、そしてわたしの町の五軒屋町先代地車と、はぼ五分の一の岸和田地車の新調に「関東彫」の腕を振るっている。
そして、その一元林峰師を頼って京都の彫師・吉岡義峰も岸和田に来ている。義峰は京彫師の父・吉岡米次郎よりも一元林峰の下で修業し、一人前になったといわれており「峰」の一字は一元林峰師からとっている。
大正期~昭和初期に活躍した開正藤師そしていまなお地車関係者は「舜さん」と親しみを込めて呼んでいる木下舜次郎師以降、岸和田地車彫刻は淡路彫一門の系譜をひく工匠たちの全盛だが、それも櫻井義國師の元に行けば「仕事がある」と淡路対岸の岸和田へ渡ってきたことが要因だ。
義國師は「泉州忠岡に左エ門あり」そして「明治の甚五郎」と、摂河泉及び京・大和・紀州はおろか四国まで名を馳せたばかりではなく、岸和田だんじり中興の祖と呼ぶに相応しい足跡を残し内外に影響をおよぼした。
しかし、その生活は「職人は金を貯めるとろくなことはない」とばかりに、飲む打つ買うの大道楽により、最後は実の娘からも勘当される。また先祖代々の土地や屋敷を失ったと語られている。
浪曲・講談等で語られる「左甚五郎」を実際に地で行った生涯を送ったのであった。
その櫻井義國に「一世一代の大仕事」として、大工作事も彫物も天才ひとりでこなすべしと、武士ゆかりの町、並松町の初めての新調地車に駆り出したのが誰あろう、当時町筆頭評議員に名を連ねていた角界出身の侠客「糸ヶ濱」であった。
だんじり讀本売れ行き好調
tag:nagaya.tatsuru.com,2007:/kou//6.1463
2007-08-17T00:05:53Z
2007-08-17T00:09:30Z
こういうことを言うと、非常にナニなのであるが、この本は岸和田の地元の人、それもだ...
uchida
こういうことを言うと、非常にナニなのであるが、この本は岸和田の地元の人、それもだんじりに関わっている方々に読んでもらうのが、なによりもうれしいのである。
発売2日目の11日土曜日、岸和田の割烹「喜平」にて打ち上げがあった。
それは昼間からのハモ鍋である。さっと火を通したハモ・冷えたビール・ダシのしみた豆腐・焼酎・ハモ・三つ葉と白菜・ビール・ハモだしの効いたそうめん・焼酎のごきげん極まりない寄り合いだったのだが、
http://www.140b.jp/blog/2007/08/post_47.html
自宅に帰って「ああ、明日は久しぶりの休みか」と晩飯を食って、昼の酒と寝る前の酒がつながろうとしていた頃、メインの著者である泉田祐志氏から電話があった。
発売早々なので、ドキッとする。
読者からの内容についての間違い指摘、あるいは「いらんことを書きやがって」とか「誰がこんなこと言うたんや」とかのクレームだと思ったからだが、岸和田の書店であり、だんじり関連書籍や冊子、ビデオ、だんじりグッズ…で有名な「WIN」さんで100冊入れたのだが、もう無くなったとのこと。盆休みの事もあって至急追加注文したいのだが、とのことである。
これは困った。明日は12日で日曜日である。13日からは盆休みで…などと酔っぱらって話していると、「ちょっと、江くん替わるわ」と泉田くんは言って、いきなり「もしもし、本屋のWINの○×です、まいど。うちも100冊しか入れへんかったんが悪かったんですけど…」とのことであり、何とかしてくれとのことである。わざわざ、こんな夜に著者の泉田くんの家まで行き、著者献本用の数冊もかっさらっていった模様である。
こういうところが、「ターゲット層」やら「読者ニーズ」とかでは決してない、「もうないわ」「よっしゃ、なんとかする」の直裁的な岸和田気質の気持ちよいところである。
さてこの「だんじり讀本」では、岸和田二十二町のだんじりを現在曳いているものから先代、先々代に至るまでを詳細に調査した。
地元の居酒屋やお好み焼き屋などに行けば分かるのだが、岸和田の世代を越えただんじり男たちが、そこで口角泡を飛ばして年中している話は二種類ある。
一つは「あの時、あそこの角の遣り回しが…」とか「あの年の宮入は大雨で、子どもがこけて…」といった地車曳行についての話で、それはその町独自の磨き上げられた腕と度胸の遣り回しの技術であり、またいかに横転や激突の危機一髪を切り抜けたかのことであり、あるいは度胸千両系男稼業の参加者の活躍ぶりである。
もう一つは「うちのだんじりの破風の形は…」「うちの見送りの大阪夏乃陣の後藤又兵衛の顔は…」といった、それは「我が町の誇り」にほかならぬ、趣向を凝らした唯一無二の自慢の地車本体のことである。
この二つの魅力が、われわれ祭好きの心を惹きつけてやまないのである。
今回は後者に重点を置いた。
それは300年という歴史が積み上げてきた、大工や彫物師といった工匠たちの仕事の足跡をたどることでもある。
そして各町の気質や町風といった代替不可能なエートスは、その地車本体に顕著に表れている。
それは、あの時の宮入のコナカラ坂にどういう遣り回しをしたか、とか、昭和○×年の曳き出しの一発目のカンカン場で…といった、ビデオを見ながら語り得る映像的なもの、つまりその瞬間の空間的な表象ではない。
地車本体は破損して修理された箇所を除き、全く変わっていない。その町の地車がそこで新調されてこうなっているというだけである。
けれどもそこにはその町がその地車を曳いてきた時間というものがとても感じられるのである。
旧い明治や大正時代の地車の話をその流れを引く老大工やその町の長老たちに聞く話が面白くて仕方なかったのは、それが過去にそうだったから今見ているこの町の地車がこうであるということではなく、実は時間というものとその町のだんじり祭の間に何があるかに触れたような気がしたからである。
そういえばこの長屋の大家さんがちょっと暇になったら、ハモ鍋セットでも持ち込んでご一緒させていただき「時間を空間的な表象形式で語ること以外にどんな方法があるのか」をぜひ聞いてみたいものだ。
彼ら工匠たちの作品集でもある地車自体は、祭当日しか公には姿をあらわさないし、祭当日だといっても休憩時以外は走っているから近づけない。
つまり走っている地車としては撮影は出来ても、だんじり本体についての取材・撮影は現実問題として不可能なのである(もっとも私を含め今回の著者たちは祭の当日はだんじりを曳いている)。
それは取材ではなく体験していることである。
祭のその時ではなく、西に新調があればその間じゅう大工・彫物師の仕事場に通い続け、東に20年ぶりの大修理があると聞けば駆けつけ、話す方も聞く方も祭の当事者同士、だんじり談義に華が咲く。
それがすなわち取材であった。
そして気がつけば20余年、わたしは今、祭礼団体では最後の所属団体・世話人であり、子供のころから爺と呼ばれていただんじり博士の幼なじみの泉田くんは、今年か来年に若頭を上がるはずだ。
「岸和田だんじり讀本」校了
tag:nagaya.tatsuru.com,2007:/kou//6.1442
2007-07-27T05:00:06Z
2007-07-27T05:07:51Z
「岸和田だんじり讀本」をやっとこさ校了した。 http://www.140b....
uchida
http://www.140b.jp/blog/2007/07/post_26.html
昨日夕刻、校了紙を印刷所から引き上げて、さらに
朱書きを入れた。
なぜなら、泉田祐志氏から夜半のメールで、1ヶ月
前に草稿をお送りしていた彫刻師の西本五葉師のお
孫さんから連絡があり、「母(五葉師の娘さんにあ
たる)によると、父(五葉師)は高村光雲の弟子で
あり、山本瑞雲の弟子ではないと記憶する」との知
らせがあったからである。
これは、直さなくてはならないのである。
時あたかも天神祭の本宮で、大阪北新地周辺は混雑
しているので、それを避けてわざわざ一つ手前の新
福島駅で降りる。
そうすると、どこからか紛れもなくだんじり囃子が
聞こえてくるではないか。
鉦や太鼓の音に惹かれるように歩いていくと、そこ
は福島天満宮で、浴衣姿の男女でにぎわう境内では
御輿数基と子供だんじりが置かれていて、舞台の上
では中学生くらい少年たちが、梅鉢紋が入った法被
姿でだんじり囃子を奏していた。
こんなところにも天神祭があるのであった。
オレは数分、彼らの演奏を聴いて境内を出て、神社
数軒隣のたこ焼き屋でたこ焼きを買って編集集団1
40Bの事務所に校了作業に向かった。
岸和田方面から「だんじり本は、どないなっとんね
ん。ブログで何も書いてへんわし。本、買うちゃれ
へんど」という声が多数あり、ついさっき直接、電
話でもあったので、これから書いていくことにする。
というより、5月半ば以降、土曜日曜は、書き手で
ある岸和田の泉田祐志氏の祐風堂http://www.140b.jp/blog/
2007/07/post_9.htmlか、だんじり大工の吉為工務店隣の
萬屋誠司邸、あるいは表紙〜カット〜本文レイアウ
トをやってもらっている籔内画伯の針金工場跡の蚊
が入りまくりのアトリエで、編集作業にいそしんで
いた。
ほんまにこうしてパソコンのキーボードをたたいて
いる暇がなかったのである。
そして、ことだんじり関連については、なんでもそ
うだが岸和田でやらないと仕事にならない。
「おお、この写真ええわし〜。迫力あるのぉー」
「よっしゃ、ほたらこのページに入れといちゃろ」
というように、岸和田弁でないと編集が進まないの
であった。
それら一連の仕事は、基盤となるコミュニケーショ
ンの上に乗っかるものでしかない。
だから、この2ヶ月はほかの仕事はレギュラーの連
載以外、一切していない。
放送関係も6月は休んだ。
「取材12年、執筆6年」と表紙帯に大書している
ように、この本は並大抵の本ではない。
この「取材12年」も正確には17年なのであった
が、泉田氏が「ちょっと割り引いとこか」というこ
とで12年にしたほどである。
そして思い出すのは、このブログが元になった「だ
んじり若頭日記」(05年8月発行 晶文社)で、すで
に「何としても、泉田祐志氏のだんじり本を上梓し
たい」と書いたことである。
http://nagaya.tatsuru.com/kou/kou.html 7月19日(土)
まことに言葉というのは行為遂行的で、若頭筆頭を
03年にさせてもらい、この長屋でブログを書き、
05年に「だんじり若頭日記」を本にしていただ
き、06年にエルマガジン社を辞め、編集集団140B
を設立した。
それからすぐにこの「だんじり讀本」にかかろうと
していて、台割りまで出来ていたのだが、写真の件
や「街的ということ」の執筆や諸事情があり、去年
は出せなかった。
今年になって満を持して台割をやり変え再編集し、
とうとうここまでこぎ着けたのである。
版元のブレーンセンターのI田社長には、2年間
待っていただき、また当初「300頁には収めま
す」と言っていたのだが、それが320頁になり最後は
344頁にもなった。
カラー頁も「48頁くらい」で、写真も「だいたい100
点です」と言っていたのだが、それぞれ大幅に増
え、カラー頁が200頁を超え、写真点数も200点は
軽く超えてしまった。
その都度「I田社長、ご相談なんですが…」と言う
と、I田社長は毎回「やりやすいようにしてくださ
い」と意気に感じるご返事だった。
ふつう、カラーページが3倍以上になったり、総
ページ数も50頁増えると、「それでは値段も」と
なるものだが、「それはそれ、当初通りで行きま
しょう」と税込みで2000円のままである。
「これを見たら今後だんじり本を作りたくなくなる
ような、納得いく本を」とおっしゃるI田社長は、
まことに太っ腹であり、岸和田だんじり精神を知る
人である。
残るは参考文献と協力リスト、表紙回りや帯、つま
り奥付と付き物である。
「協力」や「写真提供」はほんとうにいろんな方か
ら助けていただいた。
ここに叩頭して御礼を申し上げます。
みなさんどうもありがとうございました。
取材や写真撮影については、祭当日以外、各町のだ
んじりは人目に触れることはない。
それ以外にだんじりが非公式に出るのは修理や段取
り時だが、われわれ書き手全員が祭の当事者なので
各人は自町でそれをやっている。
なので他町のだんじりについては、取材はおろか写
真撮影なんて出来ない。
だから写真はいろいろな方に探していただきお借り
して揃えたし、各町地車についてあえてお話を聞い
たり写真に撮ることは、わざわざ地車を出していた
だき、普段取り付けられている地車の金網を外して
いただいたりと、祭礼関係者のお手を煩わせること
となった。
なのでスペシャル・サンクス欄には非常に気を遣う
のである。
そして只でさえ「度胸千両系男稼業」の方々が多い
土地柄、「あの人の名前が載っていてなぜ自分が載
らないのか」「順番がちがうのでは」ということが
予想される。
そういうことのないように沢山の方の名前をクレ
ジットしよう、というのは素人考えと言うもので、
こういう場合は極力人数を絞ろうということになる。
そのあたりの微妙な意思統一が、全員が岸和田それ
も旧市出身で祭の当事者の書き手、デザイナーだか
らこそ可能なのであった。
だからこそ、今回は各町個別のことがらに関しての
記述は最後の最後まで気を遣った。
要するに何を書いて、何を書かないか、というとこ
ろである。
この本の発売日は8月半ば、盆休み絡みなのでまだ
はっきり出ていないが、これからこの長屋において
今回の「だんじり讀本」編集執筆のこぼれ話を9月
だんじり祭の本番まで、わたしは書いていくことに
する。
われわれは1年中なにを置いても「だんじり」であ
り、それをこうしたメンバーで1冊の本に出来たの
はほんとうに奇跡のようなことであると思う。
なのでとりあえず今日のところは、著者紹介をして
おく。
著者
泉田祐志(いづた・ゆうじ)
岸和田市筋海町に生まれる。
幼少の頃から古い大工の家系を有する岸和田祭好き
の祖母、親戚や近所に大工・職人が多く住むという
環境の中で育った。小学生の時に自町の地車を調べ
始めたのをきっかけに、その他の町の地車にも興味
を持ち調べ始める。
その後、地車大工・彫物師からの聞き書きを重ね
る。21歳の時、地車研究の若松均氏に出会い多く
の教示を受ける。筋海町では昭和60年青年団団
長、平成9年拾五人組組長、平成17年若頭筆頭を
務める。
また平成13年から岸和田だんじり祭振興会のホー
ムページ内で「祭狂爺爺」のペンネームでだんじり
コラムを執筆している。
著者
萬屋誠司(よろずや・せいじ)
岸和田市大工町に生まれ、幼少時よりだんじり祭に
親しむ。
平成11年〜16年岸和田だんじり会館に勤務。見
學稔氏、泉田祐志氏の師事のもと、だんじりの調
査・研究に打ち込む。
岸和田だんじり会館十周年記念誌『岸和田のだんじ
り』を編集(平成15年9月発行)。
現在、大工町新調委員、私立飛翔館高校「だんじり
コース」非常勤講師(平成17年〜)。
著者・編者
江 弘毅(こう・ひろき)
編集者。岸和田市五軒屋町生まれ。だんじり祭で育
つ。
京阪神エルマガジン社で「ミーツ・リージョナル」
「西の旅」誌編集長ほか取締役編集本部長を歴任。
06年退社、大阪・中之島に編集集団(株)140
B設立。
著書に『岸和田だんじり祭だんじり若頭日記』(晶
文社)、『「街的」ということ〜お好み焼き屋は街
の学校だ』(講談社現代新書)など。
平成15年五軒屋町若頭筆頭。京都精華大人文学部
非常勤講師。
絵・書籍デザイン
籔内 博(やぶうち・ひろし)
画家。岸和田市中町生まれ。
80年代は、演劇活動(劇団「天使の誘惑館」を主
宰)に没頭、
90年代、グラフィック・DTP活動を経た後、画家生
活へ。
演劇仕立ての絵画作品と平行して、地元では毎年だ
んじりの絵を制作、発表している。
かたわら幼児・こども対象の絵画教室「アトリエズ
ガ」を設立し、本人曰く明日の日本のため、こども
たちと絵や工作で格闘中である。
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だんじりブランニュー
tag:nagaya.tatsuru.com,2007:/kou//6.1375
2007-05-30T06:03:06Z
2007-05-30T06:03:58Z
5月27日(日) 5月27日(日)午前6時、岸和田は晴れ。 南上町のお披露目曳行...
uchida
5月27日(日)
5月27日(日)午前6時、岸和田は晴れ。
南上町のお披露目曳行。
この日、初めて岸和田旧市地区へだんじりを曳き入れる南上町が、宮入
はじめ岸和田城下のフルコースを曳行する
五軒屋町ももちろん曳行コースになっているので、そのだんじりを正装
にて迎える。
襟に「世話人」と染め抜かれている新しい法被、新しい白バッチ、白足
袋で昭和大通り花儀布団店前へ集合。
それにしても、早朝にもかかわらず、本番祭礼さながらのこの見物客の
数は何だ。
われわれが出迎える五軒屋町の昭和大通りからカンカン場まで人・人・
人である。
南上町は大正11年の岸和田市制が始まったときからの町であるが
だんじりがなかった。
もともと大きな面積の町であるが、昭和40年頃までは住居がまばらな
農村的町だった。
けれども昭和60年頃からマンションや住宅が増え、今や2000軒の
世帯数という。
この町の若者はこれまで岸和田旧市のそれぞれのだんじりを曳いていた
者が多い。
わたしの五軒屋町にも南上町に住む者が長い間曳きにきていて、今回の
ことで五軒屋町の祭礼団体をやめ自分の町に帰っていた者がいる。
よそからの参加は、何かとその町に遠慮することが多いものだ。
それが自町にだんじりを所有し、やっと念願かなってこの日を迎えた。
83年に有志が祭礼団体を結成、93年に小型だがだんじりを買った。
その後は、祭礼に自町内の範囲でだんじりを曳く「町内曳き」にとど
まっていた。
また祭礼町会連合会はじめとした祭礼団体に参入を願い出、また若頭連
絡協議会などにも参加する。
そして去年、中北町の新調にあわせてその現役のだんじりを譲り受けた。
すでに20年の月日が流れている。
その頃、青年団だった者は、後ろに回り、若頭をやって、もう祭礼最後
の世話人になっている勘定だ。
来た、来た、来た。
カンカン場方面から、南上町の纏が見えてくる。
初めて見る纏で、どこか藤井町似ている。
先頭によく知った同級生の顔が見える。法被を着た上町の世話人であ
る。上町は隣の町なので多分、初曳行を滞りなく行えるようにと手伝っ
ているのだろう。
「ご苦労さん」「おはようさん」という言葉をかわす。
以前、五軒屋町で一緒にだんじりを曳いていた先輩のSさんが、
交渉責任者のタスキをかけて走っている。
まっさらの祭装束。まっさらの飾り物や幟。
初めての昭和大通りの勾配はどうですか。旧国道26号線を渡るとアー
ケードです。
大音響は気分がいいでしょう。
鳴物がきざみに変わる。
大工方が飛び、その半纏が風にはためいている。
地車や、ちゅうねん
tag:nagaya.tatsuru.com,2007:/kou//6.1370
2007-05-25T09:40:10Z
2007-05-25T09:42:05Z
5月20日(日) 南上町の入魂式が来週27日にある。 わが五軒屋町はその入魂式に...
uchida
5月20日(日)
南上町の入魂式が来週27日にある。
わが五軒屋町はその入魂式に正装にて出迎えるのであるが、オレは今年から世話人である。
だから祭衣装が新たに替わる。
こういうことに関してはM人はうるさい。
今年世話人に上がったメンバーすべては、テーラータカクラのM人の見立てにより薄手の最高の生地で新しい法被を発注した。
祭衣装は法被つまり半纏と腹掛け(大工や人力車の車夫が着ている、ランニングのような下着で、後ろで襷紐がクロスしているアレ)、バッチ(股引)、地下足袋と鉢巻きだ。
腹掛けは浅草中屋のもので、紗綾柄を別注した。
あちらの「江戸腹」つまり江戸製の腹掛けは、首廻りと襷紐の部分のデザインがどこか洒落ている。
しかし岸和田地車の半纏は胸紐で締める軽快なもので、三社祭や深川祭の御輿祭に着られる帯締め半纏と比べて丈が幾分短い。
なので腹掛けの丈も短くないとバランスが悪い。
その微妙なところをM人は知っていて、中屋にあれこれと注文をつけてくれる。
ついでに同じ紗綾柄の生地をあらかじめ浅草中屋から入手して、新調する半纏の裏袖と裏生地に使うように、岸和田随一の法被製造「紺善」に指示してくれている。
半纏Vゾーンから覗く腹掛けの柄、および袖口からちらっと見える裏生地、そして半纏の背中の「五」マークの縁くくり部分と枠額縁と肩にある白染め抜きのわずかな部分が汗で濡れるとその紗綾柄がかすかに透けて見えるようにと凝りまくりである。
また去年までの若頭の頃と違って、世話人の祭衣装は白バッチ(若頭は前梃子、大工方を以外は黒バッチ)なので、白のバッチつまり股引と白の地下足袋を新たに購入する。
その度にこうして岸和田に帰ってテーラータカクラで、試着したりでわいわいと喧しくやっているわけだ。
南上町は岸和田旧市地区であるが、だんじりは史上初参加だ。
これで岸和田旧市のだんじり祭は22台になった。
只今わたしは320ページもの「岸和田だんじり讀本」を執筆編集中なので、その南上町についての草稿を記念すべきお披露目式に際し特別に披露させていただくことにする。
22、南上町地車
南上町は岸和田市上町の南に位置する元岸和田村の一部である。町の成立は岸和田町時代の大正二年(1913)一月一日に遡る。当時は一面が田畑で数戸を有するほどの町であった。
だんじりの所有は町成立以来一度もなく、子供たちが車輪をつけた木箱を引っ張ったりしてきただけであった。
その当町が昭和五十八年(1983)十一月一日、子供たちに自分たちの町の本物のだんじりを曳かせてあげたいと若者数人が中心となって青年団を結成したのである。そして廃品回収や草刈りなどで資金を集めた。さらに平成五年(1993)七月には子供たちのためにも是非とも南上町の地車曳行を実現したいとの思いから、旧市祭礼参入を目標に若頭が発足し、祭礼組織の基盤が出来上がる。そして同年、町内の植山工務店の好意により子供地車を曳行出来る運びとなる。
平成七年七月には廃品回収などで集めた資金をもとに、有志にて高石市より地車を購入し二代目地車となる。その際、初代地車は地車祭り発祥の三の丸神社へ奉納されている。
悲願である旧市参加の大きなステップとなるべく、そして21世紀への飛躍としたい思いから、三代目となる地車を有志にて岸和田市尾生町から購入する。この地車は平成十二年七月十六日に入魂式を行い、平成十三年七月には正式に町の所有となった。さらに平成十四年十二月、旧市祭礼町会連合会に対して、旧市参入願出書を提出し、正式に旧市参入を表明する。平成十六年四月、旧市祭礼年番において南上町の平成十九年からの旧市参入の協議がなされ、条件付にて了承される。そして、明くる平成十七年からは旧市祭礼組織に加盟し研修と警備にあたる。
こうしたステップを経て南上町は平成十八年八月六日、岸和田市中北町の地車新調に伴い旧地車を譲り受け入魂式を行う。そして平成十九年五月二十七日、その地車を化粧直しして旧市各町に参入の挨拶と地車のお披露目曳行を行い、二十数年来の悲願であった岸和田旧市地区参入の夢が叶ったのである。
この地車の特徴を見ると、番付標には韋駄天が取り付けられている。これには当町が岸和田城の南に広がる土地から南方を守護する増長天の八大将軍神の一つであることと、「韋駄天走り」の言葉の如く地車が疾走できるようにとの願いが込められている。纏は屋久杉材に町紋が彫られ下に馬簾をつけたものである。(泉田祐志)
テーラータカクラで白バッチのサイズを合わせて、今度はスポーツショップ・ロブにて白足袋を購入。
この店の地下足袋はエアソール内蔵のもので、このハイテク採用によって、長年苦しめられた膝にくる「だんじり腱鞘炎」は激減した。
そこからこの「だんじり讀本」のデザインをしてくれている「あなたの籔内」宅へ、書き手の泉田、萬屋両氏と打ち合わせに行く。
籔内氏の弟は奇しくも今年初参加、南上町の若頭筆頭をしている
この本はすべて岸和田旧市のだんじり関係者でつくっている。こういう仕事はやりやすい。やりやすいけど内容に玄人好みに過ぎる嫌いがあり、岸和田の一般読者には何のことかわからない専門用語や固有名詞が頻出している。岸和田の一般読者がそうであるなら、それ以外のその他大勢大多数はどうであろうか。
けれどもわたしを含めて書き手の三人は、旧市の祭礼関係者が出すのだから「出して恥なものは出せない」という意識の方が強い。
その匙加減が非常に難儀なのである。
ぶっ通しの打ち合わせ5時間あまり。南海岸和田駅まで泉田氏にクルマで送ってもらい、気がつくと昼飯も立ち食いうどんのみで腹が減ったので「喜平」に寄る。
がらりと扉を開けると、平成15年度に一緒に若頭筆頭をやった中町のOさんグループと、大手町の今年の若頭筆頭の山本紀博くんがいた。
大手町若頭は今年は若頭責任者協議会の副会長に当たっていて、浜七町のまとめ役であるから山本くんは去年の引継から今年の祭礼が終わるまでのこの1年間は、想像を絶する多忙な日常であることだろう。
山本くんとは平成11年12年と2年間、若頭連絡協議会で一緒になった、いわば他町同士で同じ釜のメシを食った仲だ。
そういう昵懇の関係だからオレのことを「ひろきちゃん」と呼ぶ。
上がってきている校正が、喜平のご主人・Nさん始めみんなに回る。
山本くんは「今、うちのだんじり、彫りもん洗いにかけてる最中やし。金網も梯子もはずしてるよってビカビカやで。写真撮ってるよって、せっかくやし、それ載せてよ」と言ってくれる。
このオープンソース極まりない親切さが岸和田だんじり野郎の真骨頂である。
こちらもせっかくだから「だんじり讀本」での大手町のくだりをここにご紹介することにする。
大手町地車
岸和田城大手門の浜手にあることから名づけられたのが大手町である。
かつての町の風景には、江戸末期の外敵の来襲や、風向、潮の干満などを調べていたという潮見櫓があった。
大手町地車は、太平洋戦争が始まる一年前の暗い世相の時代に新調されている。昭和十五年(1940)の新調で、大工棟梁「大宗」こと植山宗一郎師により作事され、彫物責任者は美木彫家・木下舜次郎師である。舜次郎師が岸和田旧市地区で初めて請け負ったもので、その名が知れ渡って行く足がかりとなった地車でもある。助は弟弟子・松田正幸師、そして不運の名匠・川島暁星師である。
土呂幕三方は「太閤記」の図柄で構成されており、特に正面土呂幕の「秀吉本陣佐久間の乱入」は見る者を唸らせる迫力と魅力がある。正面に馬乗り武者二体を彫り込んで合戦する姿には躍動感があり、特に佐久間玄蕃の秀吉目がけてまっしぐらに突っ込んで来る顔の迫力には圧倒される。また奥行きも大変深く、一層重厚感を引き立たせている。木下舜次郎師の腕の冴えを感じる作品である。
昭和五十八年大修理に取り替えられるまでの松良は、構図よく繊細に彫られており、素晴らしい作品であった。これを見本として彫られている松良も多い。現地車の松良は舜次郎師の実子で次男の木下頼定師の作品である。
この地車は並松町の大型地車を見本として作事されたもので、新調された時には今少し大きかったといわれている。何とも美しい格好に絶賛を浴びたという。また、金綱の吊り下げの玉は珍しく、当町だけのものである。
現在の纏は「大」図案に「手」の字を配した町紋の三方正面に白毛と馬簾をつけたものである。かつては千成瓢箪に五色の馬簾付きのものであった。面白く洒落っ気のある纏としては、大きくくり抜いた手形に大の字を書いて町名の「大手」に掛けたものがあったことを思い出す。
先代地車は大正十一、二年(1922、23)ごろ新調の櫻井義國門下で甥であった藤川宗太郎師が作事したものである。彫物責任者は三代目黒田正勝師であり、その下絵は義國師の図柄であった。義國師は見送りの馬乗りと墨引きを引き受けたという。現在の貝塚市馬場地車である。先々代地車は、現和泉市尾井町地車で明治二、三十年代に「大駒」こと大崎吉造師により作事され、彫物責任者は宮地弥津計師である。
5月21日(月)
終日だんじりな日曜を終え月曜日になると、テレビで「三社祭 乗った男を逮捕」というニュースをやっていた。
その話題は、神が乗る御輿の上に人が乗るのはあってはならないことであるのにかかわらず、去年御輿に乗った者がいて、それが原因で御輿を破損して宮側は困惑した。
今年は乗るようなことがあれば「宮出」を中止するかも知れないと通達していた。しかし無視して乗った者がいて、警察は迷惑防止条例で3人を逮捕した。そういう趣旨だった。
アナウンサーは冒頭、「山車と御輿の違いをご存じですか」と言って、「祭に出る山車(地車や!)は乗ってもかまわないもので、代表的なものに岸和田のだんじり祭があります。一方御輿は神さまが乗るから乗ってはいけないもの。あくまでも担ぐもので人が乗ることは神への冒涜になります」と説明していた。
映像では「岸和田の山車」(地車や、ちゅうねん)と「浅草の御輿」を同画面に並べて再生していた。
岸和田だんじりの映像では、大工方や前板に乗る町会長や曳行責任者、そして腰廻りにたかる若頭が映されていたが、やっぱり下野町がカンカン場の遣り回しで電柱をへし折る危機一髪のシーンと、紀州街道の難所「内町門の枡形」通称S字で大北町が取りすぎて、民家に派手に激突するシーンがまた登場していた。
後者の映像は激突はともかく、前梃子の熟練の技のキレが完璧に捉えられている。
このシーンは今から15年くらい前の「スーパーテレビ」で放送されたもので、何年前の映像やねん、と言いたくなるものだ。
その後のメインである今年の三社祭の映像では、御輿に乗る者に対し警察が「これ以上、日本の伝統を汚すのはすぐにやめなさい。速やかに御輿から下りなさい」と拡声器で警告しているシーン、担い棒の上に人が乗っているところ、そこから落ちて怪我をしたのか救急車で運ばれるシーンとつながれていく。
御輿に乗った者は入れ墨者で、墨を誇示するように褌一丁の裸体で乗っていた。
近代に出来た警察から「日本の伝統うんぬん」といわれるのも恥ずかしいが、御輿の担い棒の上に脚を開いてへっぴり腰で乗る姿は、同じ祭を愛する者としては見る方が恥ずかしい、見ていて情けなかったのである。
古来、地車を先導する御輿に乗るのはもってのほかだ。
だから御輿は人が乗るような場所はどこにもない。
またよしんばそれが中学生の運動会の騎馬戦でもいいが、あの身のこなしからわかる運動神経と精神状態では、大工方として疾走するだんじりの屋根の上で立つことすらできない。だから遣り回しができないから祭にならない。
なんだか田舎の子どもだんじりを見ているようで、おまえらは祭衣装だけかと浅草にがっかりした。
岸和田では江戸中期からその伝統を引き継ぐ「祭礼年番」制度が、この荒っぽい祭を仕切っている。
江戸時代からの古文書には、祭礼に関しての幕府つまり藩からの再三のお触れが残っている。
享和二年(1802)の祭礼中の風紀が乱れ、口論等があったことに対してのお触れはじめ、天保三年(1832)には、大北ノ浜が祭の前日にだんじりを曳いたため祭当日は出すことすら差し止められた。
だからこそ町民や漁師たちは「自主規制、自主警備」をうち立て、現代では各町選出の年番さんの元、警察がその手伝いを行ってくれている。
今、手元にわたしが若頭筆頭時の平成十五年度祭礼年番から渡された冊子「岸和田地車祭礼実施要領」がある。
それには40級くらいのどでかい教科書体でかかれた「主要行事」「地車曳行上の遵守事項」や「地車のすれ違い・追越し」「纏の位置」という項目に並行して「総括責任者並びに地車曳行責任者および各部署担当者の遵守事項」というところがある。
そこにある「一、乗車人員の制限」の後には、「一、地車曳行に参加させてはならない者」とあり「(ア)各町で定められた装束を着用していない者。(イ)酒に酔った者。(ウ)裸体者。(半裸体者も含む)。(エ)暴力団名等を表示する者。(オ)暴走等事故につながる行為をあおり、そそのかす者。」という五つの項目が明記されている。
「以上の各事項に該当する時は、期間中又は一時地車の曳行を禁止する。」
これが岸和田祭礼の「自主規制」のほんの一部である。
規制事項があるということは、昔からそういうことがあり祭が紛糾し、それが原困で祭礼が出来なかったほかならない。
(ウ)は、祭だからと全裸になる者に対しては「やめんかい!見てて恥ずかしいわい」であり、それは墨の入った肌を誇示する「半裸体」も同様だ。
祭に際して、特攻服や暴走族やタケノコ族の衣装を着てくるようなヤツ(ア)には「お前ら、なんちゅう格好してるんや! 早よ帰れ」だし、(エ)組の紋が入った法被は大売り出しの法被と一緒で「祭用の法被着てこい!」である。
しかし「(イ)酒に酔った者。」は、「酒を飲んだ者。」さらに「今、酒を飲んでいる者。」ではないので「一、地車曳行に参加させてはならない者」に該当しない。
そこが道路交通法とは違う。酔っぱらい運転はアカンけど、酒気帯び運転はかまわない、ということになる。
いずれにしろ祭礼で死人や怪我人が出るとそれは終わる。
最後にある「一,曳行停止規定」には、はっきりそれが明記してある。
「(ア)町相互間における暴力行為。(イ)人身事故。(ウ)警備に携わっている者に対する暴力行為。(エ)自主規制に故意又は重大な違反行為。(オ)重大な物損事故。」
オリジナル・あたり前田のクラッカー
tag:nagaya.tatsuru.com,2007:/kou//6.1363
2007-05-19T08:31:02Z
2007-05-22T12:25:51Z
5月19日(土) 抱えていた締め切りの連載原稿四本をキーボード叩きまくって終了し...
uchida
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だんじり彫物論
tag:nagaya.tatsuru.com,2007:/kou//6.1356
2007-05-16T04:17:56Z
2007-05-16T13:42:16Z
5月12日(土) 8月刊行予定で編集が進んでいる「岸和田だんじり讀本」の打ち合わ...
uchida
http://
www.radiodays.jp/ja/program/でお世話になりました)入れ違いにクル
マに乗せてもらって、筋海町の会館へ行く。
「第4回筋海町を愛そう会」という会合が開かれていて、その第1部に
南海さんが「大坂夏の陣・後藤又兵衛の勇戦」の講談、第2部は岸和田
天神宮宮司・川原一紀さんによる「岸和田天神宮の神々について」とい
うお話で、到着すると丁度それが終わったばかりで、第3部は「筋海地
車四方山話 各種祭礼団体にてご自由に」とのこと。
20代前半の若い衆から世話人さんまで、おおよそ百人はいるだろうか、
その席に大工町の萬屋さんともどもお邪魔する。この町のだんじり大工
棟梁・田中隆治さんのお顔も見える。
「おお、江くん。ようけ集まってるとこに、今日は本売りに来たんか」
と棟梁は冗談を言う。
この町はすでに「姉川合戦」「加藤清正」「長門守木村重成」と3回、
旭堂南海師を招いての講談の会を持っている。
今回の「大坂夏の陣・後藤又兵衛の勇戦」も含め、講談はすべて昭和八
年新調のこの町の地車に彫られている作品についての演題である。
この筋海町は、それまで大正十、十一年とたて続けに地車を新調してい
る特異な町だ。特に大正10年に新調した地車は、「気に入らぬ」と一
度も曳行されずに売却されている。
だから、地車に対しては相当目が肥えているので、この昭和の新調に当
たっては極めて念入りに製作され、誠に優れた地車が出来たとの事であ
る。
その昭和八年新調の現地車は、作事には名匠「久吾」こと久納久吉・幸
三郎兄弟があたり、扇垂木入母屋の大屋根の軒唐破風(通称・二重破
風)を苦心の末に組み上げ、また彫刻師としては西本五葉、野村正が手
掛けた芸術的な彫物で、泉州屈指の名だんじりに数えられる。
とくに、彫物は作品として抜群である。
泉田さんが前に出て、第一部の講談演目であった見送りの「大坂の陣後
藤又兵衛勇戦」の彫刻は、西本五葉師が刻んだものであること。五葉師
は高村光雲の弟子・山本瑞雲の流れを汲んでいて、この作品は昨今の地
車人物彫刻にある三頭身の錦絵調と趣を異にしたリアルな八頭身の近代
彫刻で類を見ないこと。
左土呂幕に彫られている野村正の「新納武蔵野守薩州川内河に加藤清正
と戦ひて敗れたるも引き分けとなる」は、合戦の時空および「間」を風
によって表現したたぐいまれな芸術作品であることを説明する。
他の町のだんじり関係者はもちろん見物人、観光客に、「自町の彫物の
ことを訊かれて、よう説明できないのではあかん」とばかりに町の誇り
でもある彫物について、そのテーマや物語を十分知らしめておこうとい
うことである。
それには書物や印刷物で読んで知りおいてもらうよりも、聞いて面白い
講談による口伝が一番だということである。
城下町・岸和田の街場の町人は旧来、文字や絵より寺子屋や会館での話
し言葉を優先してきた。
筋海町地車 扇垂木入母屋の大屋根と「浪兎」の纏
西本五葉刻 後藤又兵衛
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とってもシュールな住吉のだんじり
tag:nagaya.tatsuru.com,2007:/kou//6.1351
2007-05-11T14:36:13Z
2007-05-12T13:25:32Z
5月5日(祝)、神戸東灘は薄曇り。 JR住吉駅近くの本(もと)住吉神社例大祭、だ...
uchida
JR 住吉北
神社と高層ビル
5月のゴールデンウイークに、神戸・東灘のだんじり祭がある。
神戸・東灘のだんじりは、おなじみの岸和田のだんじりのような型とは違って、神戸型といわれているものである。
記録によると天保年間、住吉には1830年頃にだんじりを新調した記録があり、そのころすでに現在のような神戸型のだんじりが出ていたことが伺える。
特徴は屋根廻りと飾り幕、そして外コマである。
まず屋根廻り。正面大屋根の真ん中には、鬼板と呼ばれる屋根をかむ大きな獅子の彫刻(獅噛)がつけられている。
また山形といって、唐破風の屋根のカーブに沿って、地区名の一字を書いた提灯が10数個とりつけられているのが特徴だ。江戸文字っぽいその墨文字は、なかなか鯔背な雰囲気がある。
飾り幕は金糸銀糸の絢爛豪華なもので、屋根の下の四方を取り囲んで飾られている。
その刺繍は金龍や源平合戦や秀吉などの合戦もの、天の岩戸などの神話ものなどがテーマに選ばれていて、これが競い合うように各地区ご自慢の作品になっているのだそうだ。
岸和田のだんじりのように構造上、走って辻を回す「遣り回し」は行わないが、四方を「担い棒」や「ちょうさい棒」といった丸太棒で囲んで、大勢がその棒の操作に関わり、それによってだんじりをシーソーのように上げ下げして練る様は、また違った面白さがある。
その祭りをやっているエリアは、御影、住吉そして本山といった、住宅情報誌やマンションの広告によくその名前が出てくる地域で、阪神間の閑静でハイライフな住宅地的なイメージからは、なかなか岸和田のような下町チックなだんじりは想像できない。
住吉地区の本住吉神社のだんじりは7台だ。
御影地区に比べて大きいといわれているのは、御影の弓弦羽(ゆずるは)神社の鳥居より、こちらの元住吉神社の鳥居の方が背が高いからだそうだ。
まただんじりは、「地車」であり「御輿」でないから岸和田でもどこでも普段は、各地域にある蔵(=だんじり小屋)に入れられていて、祭礼にだけ宮入をするのだが、住吉地区では7台のだんじりすべてが、本住吉神社の境内にある蔵で収納されているとのことだ。
多分、だんじり小屋がマンション敷地になったのだろう。
JR住吉駅のすぐ南、国道2号線沿いにある本住吉神社の宮入を訪ねると、何ものでもない祭りの熱気と音と匂いがある。
境内には、いろんな屋台が並んでいる。
たこ焼きや固焼き、今風のバナナチョコやカップ1杯入れ放題のフライドチキン。
射的の屋台もあるところが祭の屋台で、テーマパークのそれではない。
プラモデル屋はなぜだか知らないが、コルト38口径やベレッタM92などのピストルばかりが並び、これも岸和田だんじり祭の屋台と共通だ。
けれども射的は誰もやってないし、モデルガンを売ってるのテキ屋のにいちゃんに「おい、本物はないんか。あったら買うど」と言うような、岸和田だんじりのような者はいない。
だんじりはそんな屋台が並ぶ、人また人でいっぱいの本住吉神社に入ると、だんじりを大勢でよいしょとウイリーのように傾けてくるくると練り回す。
観客の拍手の後に神社を出ると、いきなり阪神間きっての執事付きの高級マンション群も近くにある住宅街に出る。
鉦と太鼓のだんじり囃子は、祭の列をだれも見下ろすものがいない高層マンションに喧しくこだまする。
揃いの法被を着たヤンキーチックな曳き手や屋根乗りと、獅噛の屋根に古い地区名の一字を書いた提灯と、絢爛豪華な金糸銀糸で刺繍された赤幕と、勇ましい武者物の彫刻が施された地車の行列はとてもいかついし、参加している若者の家族や知人たち、そして近所のお年寄りたちの見物人も多い。
けれどもそのだんじりの横をこのあたりらしい、ガンメタBMWや赤ボルボなどの欧州車が行き交い、JRの駅からは神戸大丸の紙袋を持った祝日のよそ行き姿の女性や行楽帰りの家族連れがはき出され、すぐ横のタクシー乗り場からタクシーに乗ったり、あるいはだんじりを遠巻きに足早に通り過ぎる。
それはとてもシュールな光景である。
年に一回の本住吉神社例大祭のだんじり祭礼と、快速停車駅の住宅街ゴールデンウイークの一日。
まるでNHKのローカルニュースで旧い都市の伝統行事からいきなり海外旅行に出る人の空港シーンへとトピックスが切り替わるように、両方の祝祭日がこの街に見える。
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「街的」が売れてます
tag:nagaya.tatsuru.com,2006:/kou//6.244
2006-08-31T12:00:19Z
2006-11-05T10:30:40Z
8月30日(水) ミステリー作家の黒川博行さんと、只今売り出し中の西加奈子さんと...
iwamoto
講談社現代新書『「街的」ということ お好み焼き屋は街の学校だ』が売れている。
月曜日にジュンク堂大阪本店で、新書「今週のベストセラー」で5位にランクイン!
http://d.hatena.ne.jp/team140b/20060825
1位は安倍晋三の「美しい国へ」、2位はそちらの「まんがパレスチナ問題」、3位「御社の営業がダメな理由」、4位「憲法九条を世界遺産に」。
と、うれしがっていたら、な、な、なんと、昨日、「美しい国へ」と並んで1位になっていた。
http://d.hatena.ne.jp/team140b/20060829
そして午後8時、先週お電話を頂いていた、週刊文春の文春図書館のコーナー「著者は語る」のインタビュー取材で、週刊文春編集部次長の今泉さんがわざわざ東京から140Bにいらっしゃる。
この書き下ろし新書の内容は、なかなか一言で説明できないが、代表の中島も交えて、「街の情報とメディア」についてや、東京でしか誕生しない「いなかもの」とは誰のことか、とかをお聞きいただく。
取材は午後10時に終わり、黒川さんたちがいらっしゃる北新地のバー「パパヘミングウエイ」に3人が合流。産経新聞の総合編集部部長の鳥居さん(八尾出身)も交えて、ヤクザ&バクチな話で盛り上がる。
インタビューの掲載は来週号である。
いやはや週刊誌の進行はすさまじい。
そういえばこの『「街的」ということ』について、毎日新聞からの取材のオファー、北海道新聞から寄稿依頼も入っている。]]>
祭が近づいてきた
tag:nagaya.tatsuru.com,2006:/kou//6.243
2006-08-06T15:21:49Z
2006-11-05T10:30:38Z
8月6日(日) 平日はいろんな雑誌の取材と締め切りなどなどに追われ、週末は9日中...
uchida
8月6日(日)
平日はいろんな雑誌の取材と締め切りなどなどに追われ、週末は9日中之濱町大修理、16日中北町新調と、岸和田だんじりの立て続けの入魂式と、23日は五軒屋町祭礼の先輩である世話人のKさんのサッドカフェ送別会、29日の若頭寄り合いで8月に入ってしまった。
その間、講談社現代新書の『「街的」ということ~お好み焼き屋は街の学校だ~」の
校正があり、先週やっとこさ稿了した。
この新書については、この長屋の大家さんである内田先生に解説をお願いすることになって、すでにブログでもそのさわりをお書きになっている。その解説の内容は、これ以上の解説はないというもので、オレが冗談ではなくのたうち回って2カ月以上もかけて書こうとしたことを、いともたやすく「そうなんですぅ。オレが書きたかった
ことはまさにコレ、そういうことなんです」とお書きいただいているもので、ものす
ごく恐縮しているのである。
ほんまに有り難うございました。
そして、気がつけば真夏になり、だんじり祭が近づいてきた。
去年1年は、ミーツを辞めたり、会社を立ち上げたり、新書を書き下ろしたりで、く
るくると目がまわりそうだったが、また1年が終わる。
祇園割烹作法
tag:nagaya.tatsuru.com,2006:/kou//6.242
2006-06-13T11:33:42Z
2006-11-05T10:30:38Z
6月10日(土) 「料理通信」のエッセイ執筆の取材ために京都に行ってきた。 大阪...
uchida
6月10日(土)
「料理通信」のエッセイ執筆の取材ために京都に行ってきた。
大阪、京都の「お値打ち感」とは? というコーナーでのコラムである。
電話とメールで打ち合わせをして、書こうとしている内容は、大阪のお値打ちはうどんやお好み焼きや串カツとかの日常のファーストフード的なものにあり、京都はやっぱり祇園や木屋町や先斗町といった旧い花街にある割烹にある、ということだ。
そのために明治26年創業の 南船場の「うさみ亭マツバヤ」の元祖きつねうどんと京都祇園の割烹「橙」を取材する。
マツバヤのきつねうどんは550円で、それはリーズナブルやコストパフォーマンスといった物言いや物差しでは到底書くことが出来ない。
このところよく使われる「リーズナブル」という言葉は「これぐらいの素材で、こういう手間がかかっているからこの価格である」だったり「高いけれど、それ以上においしいから納得」という、価格とクオリティや量のマッチメークのさまを指すが、そういう七面倒くさい理屈上の物差しは、街場の大阪では通用しないからだ。
こちらでの「お値打ち感」は、店側の額面通りのそのものズバリ「これでどや」、そしてそれを受けた客側の「はい、よっしゃ」という感覚であり、ここに小気味がいいコミニュカティブな浪速気質が現れている。
祇園の割烹は、基本的に一見お断りである。
一見お断りというのは、裏を返せばその店の馴染みになってこそその真価が分かる、という側面があり、長い時間をかけてしっかりその店とつきあえるかどうかが「値打ち」を左右する。
だから店側がその客の好み、その日のシチュエーションなどなどのいろんな要素を察知するからこその「自分だけに依怙贔屓をしてくれる」カスタマイズがあり、それを目の前で、割烹すなわち包丁と火によって実際にパフォーマンスとして演じてくれるところに京料理としての真髄がある。
「橙」は祇園花見小路と四条通の門にある「一力亭」の斜め向かいにある。
比較的「地方の客」に開かれた店で、東京からのお客も多い。
佐野眞一著の『阿片王 満州の夜と霧』はA級戦犯・里見甫の満州利権と阿片にからむ怪奇な生涯を描いた会心の長編だが、京都時代の里見が入り浸った、と第八章に書かれたお茶屋「万イト」の1階部分はこの店だ。
そして万イトは一力亭(万亭だったがいつのまにか一と力が切り離されて一力となった)の暖簾分けである。
もう70歳になる大将の山村文夫さんから、その大正時代の麻製の「暖簾分けの暖簾」を見せて頂く。
だからどうだ、というわけでもないが、人と歴史が磨いてきた京都ならではの、何ものでもない「店の気」のようなものは、そこの最上の料理や酒を所望しただそれを消費しようと欲望するだけでは理解できない。
そしてそういう「お値打ち」は計量不可能だから、情報誌にはデータとして載っていない。
取材撮影を終え、バッキー井上と久しぶりに祇園で飲む。
錦市場の漬物屋であるかれは、自転車に乗って、祇園に現れた。
まだ6時という早い時間なので、井上がオレを連れて行こうとする「祇園サンボア」ほかのお目当ては、残念ながらまだ開いていない。
2~3軒さまよった後、「いそむら」で水割り2杯を飲み、「安参」で軽く肉をつまみコップ酒を飲み、お茶屋改造の「大仲」でケーキとミュスカデを飲み、ハワイアンバー「ケルト」で7日に亡くなられた大橋節夫のファイナルコンサートのビデオを観る。
明くる10日になって、飲んでるだけはダメで書かねばならぬ。なので「草稿になれば」とメモ代わりにそんなことをパソコンに書き散らかし、デスクトップに残したまま、午後7時過ぎに内田センセのお宅に行く。
ドクター快気お祝いを兼ねた甲南麻雀連盟の例会があるからだ。
結果はすでにアップされた内田先生のブログ通り。
最後の半荘で何年ぶりかの四暗刻を自摸ったのだが、トップは取れなかった。
うー、悔しい。
物書き稼業で西東
tag:nagaya.tatsuru.com,2006:/kou//6.241
2006-06-07T03:52:47Z
2006-11-05T10:30:37Z
6月4日(日) 岸和田のプロ仕様のだんじり関連用品店(旗、幟、法被、襷、飾物一式...
uchida
6月4日(日)
岸和田のプロ仕様のだんじり関連用品店(旗、幟、法被、襷、飾物一式と名刺には書いてある)、「祐風堂」で「岸和田だんじり讀本」の打ち合わせ。
この書籍は、平成17年度筋海町若頭でだんじり研究家の泉田祐志氏、大工町の元だんじり会館職員の萬屋誠司氏がメインの書き手で、宮本町若頭で歯黒猛夫氏とわたしが編集する前代未聞のエキスパート向けだんじり解説書である。
見物客相手のガイドブックなどでは決してない。
このところ、この長屋日記がベースとなった「だんじり若頭日記」(晶文社)の出版もあってか、書き物の受注が多い。
連載は『ミーツ』の「街語り」、『あまから手帖』では京都で最も予約が取りにくい割烹・祇園 さ々木の移店ルポルタージュ「祇園さ々木流」を6回、そして朝日新聞系の週刊PR紙では画家の奈路道程さんとのコラボ「街を恋う」が7月早々から始まる。
「執筆に少し軸足を…」ということをチョロっと話にはしたことはしたのだが、おかげさまで、である。
月に締め切り6回はちょっとしんどいとも思うが、なんとかやってみようではないか。
昨日は昨日で、グルメ雑誌『dancyu』の焼肉特集の取材があった。取材には違いないが「元ミーツ編集長・だんじりエディターがおすすめする」みたいな依頼で、ライターのM本くんを神戸花隈の「満月」へ案内する。
オレは決して焼肉体質ではないが、ミーツ、岸和田だんじり、といった絵札カードが「焼肉」に直結するんだろうか、ちょっと複雑な気持ちである。
久しぶりの満月はやっぱり凄くうまくて、M本くんは大感激していたが、オレは店がエラいだけなのに、その旨さをまるで自分のことのように勝ち誇ったように自慢していた。
この店ももう予約が入らないほどの盛況で、開店が午後5時なのに撮影が終わるその10分前にはすでに予約客が2~3組、店の外のベンチで待っていた。
撮影を終え、大阪・中之島のオフィスに戻ると、『料理通信』から「大阪、京都、名古屋のお値打ち感とお値打ち店」という特集企画のコラム執筆依頼が着いていた。
締め切りは12日(月)。ちょっとキッツイ、か。
さて岸和田では、筋海町の祐風堂に着くやいなや、狙い澄ましたかようにM雄からケータイ電話が入る。
まだ4時前なのにM雄は酔っ払った口調で「M人とこで飲んでるし、はよこんかい。仕事? 日曜日に何やってんなぁ」と調子がいい。
「岸和田だんじり讀本」は320Pの大作である。 いろいろ話は、紛糾しそうになったが版元のブレーンセンターさんの「世に残るものを」「岸和田の皆さんで納得いくものを」「祭前の出版予定が、仮に遅れたとしてもそれはそれでいい」という太っ腹を意気に感じ、「これは、やならあかん」と遣り回し前みたいな気合いが入るのである。
萬屋さんが地元の写真家や写真館を回って集めてきてくれている。
いくら書籍とはいえ、やはり図解や彫物紹介頁はしっかりデザインしなくてはならない。
そのあたりを詰める。
午後6時を回って編集会議、いや編集の寄り合いは終了。
旧い街並みをとぼとぼ歩いて、テーラータカクラへ行くと、M人M雄とM人の弟のS吾、それから今年若頭に上がったばかりのKタカが仕舞た屋の店で焼酎の水割りをしこたま飲んでいる。
M雄はろれつがあまり回っていない、と思っていたらカウンターに突っ伏して寝だした。
S吾とKタカが「口の利き方」で言い合いをしている。
昨年度若頭筆頭のM人が「お前ら二人とも情けないわ」と説教をかます。
S吾は突然、『若頭日記』に出てくる「なかむら」のお好み焼きの焼きそばと、その娘さんと同級生だったという話をして涙ぐむ http://nagaya.tatsuru.com/kou/archives/2005_12.html(12月20日)。
「ヒロキくん。あの話聞いた時、寄り合いの最中やったから、へぇー、ほんまですかぁ、て答えただけやったけど、住所わかるんやったら年賀状でも出さなあかん」
すまんS吾、住所聞くの忘れたわ。西方寺の住職のハジメさんに聞いたら多分知ってると思う。
Kタカもその娘さんをよく知っているとのことで、小学校の頃の昔の想い出話を語る。
「なかむらの焼きそばもそうやけど、お前とこのトルコライス、もいっぺん食べたいのぉ」
とみんなでKタカに言う。テーラータカクラの3軒隣にある彼の実家は「じゅあん」という洋食屋で、ドライカレーにトンカツと目玉焼きがのっているトルコライスが名物だったし、その頃サーフィンをしていて大食いだったオレには、胸焼けなんて言葉はなかった。
そしていつの間にか、トルコライスのじゅあんも店を閉めていた。
岸和田五軒屋町のこういう話は甘くて少しほろ苦い。