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2004年09月 アーカイブ

2004年09月02日

F-1にも負けない!だんじりの足回りは「コマ替え」の精度で決まる

8月29日(日)その午前の部

コマ替えが午前9時からある。

ツツミ巻きとコマ替えはだんじり祭準備の最重要項目だ。

家でぐずぐずコーヒーを飲んだり、新聞を読んだりしていたら、これはいけない15
分過ぎていた。こんなことは、責任者をやっていた去年なら考えられない。だんじり
小屋の鍵もずっと預かっていたし。やっぱり今年は責任者ではなく顧問だ、という気
楽感というかのんびり感がある。

だいぶ遅れてだんじり小屋に着くと、すでに後コマを入れているとこだ。このセット
は5日の試験曳き用だが、13の試験曳きと14日15日の本祭の間あと2回、コマ
の減り具合やバランスにより、場合によっては3回4回と交換する。

松材のコマの直径は2尺あまり、約60センチである。幅はそのほぼ半分。計ったこ
とがないから重さは分からないが、大人一人では動かせないほど重い。60キロはある
だろうか。

直進しかできない構造のだんじりの遣り回しは、コマを路面にドリフトさせて曲がる
。実際には路面でコマを削りながら曲がる感じだ。当然のこと、雨天の際は滑りすぎ
るから注意とちょっとした技術が必要である。

だから曲がり角にはどこでも削れたコマの後がつく。削られて残った木片は、さきイ
カのみたいで「するめ」などと言われていて笑えるが、コマのグリップが強すぎると
曲がらず、逆に弱すぎると曲がりすぎたり不安定になる。だからコマ替えの当日まで
水を打ったムシロをかぶせておいたり、乾きすぎないように細心の注意を払う。

そのコマに、ドビといわれるホイールつまり軸受けをかち込んで両方からボルトで締
める。その軸受けとシャフトつまり芯金とのなめらかさが命で、うちの町は芯金に摩
擦を極力抑えるようにメッキ加工がしてありビカビカに光っている。

そして軸受けの内側に各町独自の「企業秘密」つまり工夫がある。うちが採用してい
るのは「オイルレス」加工のドビだ。紙屋町などは「モスター」と呼ばれるJRの貨
車の軸受けで使用されているハイテクばりばりの素材を内蔵してある。一時流行った
ベアリングは、摩擦こそ極小だが、回転の仕方が安定しないので今は使用する町はあ
まり聞かない。

あらかじめ芯金とドビの内側は洗浄スプレーで洗い、両方に潤滑グリスを塗る。グリ
スは「うちはモリブデン入りでマクラーレンと同じや」とか「米軍の戦車で使われて
いるヤツ」とかほとんど冗談のようだが本当である。

遣り回しのための足回りが命、なのである。

交換の手際もF-1顔負けだ。

ドビ装着こそ力自慢のものがカキヤ(土木作業で杭を打ち込む際のデカイ槌)でかち
込むが、そのあとはボルトは唸りを上げる大型電動レンチで締め、大型トラックに使
うコンプレッサーのジャッキを駆使して3トンあまりのだんじりを上げ下げし、前後
それぞれの芯金とコマのセットを取り外しする。

ミリ単位で調整する前後のアザ(台とコマの遊び)まで説明すると、あまりにもエキ
スパート仕様になりすぎるのでこのへんでやめるが、「今年は1時間25分、新記録
や」などと言いながら数十人の男が「現場作業」顔負けの手の込んだ重作業をこなす
わけだ。

それを遠巻きに熱心に見学している人も多い。今年はわざわざ富田林からのギャラリ
ーもいる。

紀州街道に本町のだんじりを見る

8月29日(日)その午後の部

本町の映画の撮影があるので、気になって見に行く。

というのも、去年の暮れに大阪商工会議所を通じて「ビートキッズ」という小説が映
画化され、その中でだんじりのシーンがあり、なんとか撮影が実現できないかとのオ
ッファーがあった。

その後、プロデューサーの方がミーツ編集部に来られて、できれば紀州街道あたりで
撮りたいとの由、それならということで、たまたま親友のH出が平成16年度は本町
若頭筆頭なので、紹介することになった。

律儀な彼は東京からの監督やスタッフを寄り合いに呼んだりして、町会・世話人始め
町内の調整にあたり、無事この日の撮影になった。本当に、雨が降らなくて良かった

うちと同じくコマ替えをしている堺町のだんじり小屋を過ぎ、市の水道局前に行くと
、だんじり囃子の太鼓の音が聞こえ、町旗と幟旗で化粧した本町のだんじりが見えて
きた。

普段、祭当日はこちらもだんじりを曳いているので、こういう格好で本町のだんじり
を紀州街道で見るのは初めてだ。だんじりの高さといい幅といい、さすがに江戸時代
の情緒残る旧い町並みにしっくり来ている。

ガードマンの制止お構いなく、顔見知りの地元のギャラリーがだんじり近くで集まっ
て見ている。だんじりが動くとのことでロープが張られ、夏空の下、大汗を浮かべな
がら「下がって、下がって」と若頭が観客をどける。その中に後輩のS水くんがいて
、「江くん、見にきたんけ」といわれてちょっと恥ずかしかったが、キャストのこと
を訊くと、トヨエツが屋根に乗るそうだ。

ゆっくり並足で動くだんじりの大屋根には、豊川悦司が大工方の半纏で乗っている。
小屋根から落下防止のロープがうまいこと撮影アングルから見えないように付けられ
ていたが、これはやはり見ている方がハラハラする。というのも、やっぱり本物と違
ってどう見てもおかしな動きの踊り方だからだ。

こういう撮影は、うちの町でも経験があるが、一旦受けてしまったら、町を上げて最
後まできちっと協力するのが岸和田のいいところだ。

1時半からは町内会議。 下から青年団、後梃子拾五人組、若頭、前梃子、大工方、
世話人の祭礼三団体の幹部、そして町会長ほか町会の方々も出席する。

会議に先がけて、筋海町の町会長と曳行責任者が来られていて挨拶。毎年恒例のこれ
は、今年も五軒屋町より先に出発して当町に入ることを諒承してほしい、とのお願い
の趣旨だ。

町内会議は本年度曳行責任者の議長進行の元、5日試験曳きの出庫時間と出発定位置
までの段取りを若頭筆頭より、曳行コースが青年団より発表され、その際の注意点を
昨年の反省を交えて意見交換。ほんの1時間足らずの会議。

その後は、鳴物係が稽古中のだんじり小屋に戻り、鳴物OBの面々があれこれと意見を
言う。

このところだんじり囃子のリズムが変わってきている。時代の流れといってしまえば
その通りだが、やっぱり違う。

「鉦は、とん・とん・とん、と違うやろ。ちん・き・ちん、や。2拍目を遅らせんと
、田舎の祭や、岸和田違う」
「どん・どん・どん、はあかん。で・でーんや、裏叩かなあかん」
「こんな早い、曳き出しあるかい。大っきい、このだんじりに似合えへん」

などと、だんじりの回りで大声でやいやい言うが、なかなか説明しにくてもどかしい
。若頭のみならず拾五人組のうるさい連中も加わって、鳴物責任者に寄ってたかって
言って聞かせようとしていると「ビール、飲んでください。ドライでいいですか」と
缶ビールの差し入れがあった。

「おお。ほたら、蔭で休憩するか」。びりっと破っただけのするめや乾き物の袋に手
を差し込んで、そのアテで缶ビールを飲みながら世代がバラバラの鳴物OBの談義が盛
り上がる。

昼下がりのビールに少し酔ったか「合わして叩いてるだけや、曲になってへん」「あ
かん、センスない。五軒屋の鳴物も終わりや」とOBたちは悲観的になってくる。

ほんまに頼むで、今年の鳴物係の諸君。

2004年09月07日

嵐は過ぎたが祭りは近い 俺の心は暴風圏

9月1日(水)

三郷の寄り合い。

江戸時代から続く祭礼運営の最高会議である。

太閤検地によりわれわれの岸和田旧市あたりは「岸和田村」として初めてその姿が明
らかになるが、その岸和田村も時代が下がり元和年間に行われた城郭整備により、城
内と村、町、浜に分けられた。

このだんじり祭が始まった江戸封建時代には、祭礼も藩の承認が必要で、また古文書
にある通り祭礼によるトラブルも多かった。

したがって、あらかじめ祭礼に先立ち、その村・町・浜の三郷(ちなみに天下の台所
、大坂三郷は北・南・天満である)の代表が寄り合い、その年の祭礼について話し合
ったという。

そのようなルーツを持つ現在の三郷は、中央・浜・天神であり、この会合は江戸時代
から引き継がれ、毎年9月1日に年番主催で行われている。

そこで決められるのは宮入とパレードの順番で、受付順位に「予備くじ取り」が行わ
れ、その順番でパレード、宮入の「本くじ取り」が行われる。

今年は若頭責任者ではなく顧問なので、三郷の寄り合いには呼ばれていないが、今こ
うしてこの日記を書くにあたって、去年のことがこと細かく蘇ってくる。

さて、寄り合いは6時半集合。寄り合いというより、台風が直撃する可能性があると
のことで土曜日に提灯を外した献灯台に、また提灯を設置する作業だ。正直いったん
付けた約百五十の提灯を取り外し、また取り付けるという作業は面倒極まりないが、
横着をして提灯が風で飛ばされでもしたら、大変である。

平日だし仕事も手が離せないので、ちょっと遅れて午後8時前に着く。「すまんなあ
、遅なって」と三郷の寄り合いに出席している責任者を代行しているM人始め、下の
者に謝りながら、終わりかけの作業を見守る。

会館に戻ると、今日から始まる毎夜の寄り合いのためにビールとチューハイのサーバ
ーが設置されている。

下の者に「おお、ビール入れてくれ」と、スタジアム野球観戦仕様のプラスチックカ
ップに注いでもらい、おのおのが飲む。もちろんスルメや豆、おかきなどのアテも用
意されている。

携帯電話か何かですでに宮入とパレードの順番が入っている。五軒屋町は宮入が宮本
三番の特権がある。すなわちくじなしで順番が決まっている。だから気になるのは「
ケツがどこか」、つまり後ろの町がどこの町かだけである。 パレードの順番はそれ
に「前はどこや」も加わる。

どこの町でもそうだが、この順番は結構微妙で、例えば歴史的に仲が悪い町や前年に
揉めたりした町同士が前後になるとちょっとまずい。とくにあらかじめ試験曳きや宵
宮で揉めていたりすると、再び紛争が起こったりする可能性が高い。

喧嘩になるのはたいてい後ろの町が「早よ、いかんかい」と「ケツをかぐ」、つまり
前のだんじりに、暴走族でいうところの「ケツべた」、つまりテール・トゥー・ノー
ズすることがきっかけになる。

うちの町の後、すなわち番外後の宮入一番は堺町だ。正直のところ安堵である。

パレードは十番。時間的にいい感じだ。一番とか二番だと「せわしなく」、二十番と
かだと「待たされる」。ちなみに去年は確か四番を引いた。前が中町、後が春木南。
こちらはノーコメント。

また「速い町」つまり遣り回しが上手い町の後ろは、ちょっとやりにくいのは当然だ

皆から一斉にかけられた「ご苦労さん」という声で、責任者のM雄が三郷の寄り合い
から帰ってきたことを知る。早速会計にくじで決まった順番を書いた2枚のメモが渡
されて、字のうまいお寺の住職のO野ちゃんが、用意されている大きな模造紙に順番
を書く。

まず宮入。宮一番宮本町 、宮二番上町 、宮三番五軒屋町。うちだけ赤字で書く。そ
の下に一番堺町 、二番本町、三番大工町 、四番中町 …最後の十一番は紙屋町だ。

くじ引き最後の方の町は、午前中の順番待ちと城内での昼食をはさんでしまい、宮入
が2時前になるから、昼からは「祭にならない」。これは仕方がないとはいえちょっ
と不条理で、毎年議論の対象になっている。それが本年度、年番の寄り合いで決まっ
て、宮入開始は去年より15分早くなると年番より知らされている。

またうちの町は宮入が毎年同じなので段取りは変わらないが、一番とベッタ(最後)
ではそれこそ祭礼そのものの段取りが全然違う。

続いてパレード。一番北町、二番中北町、三番紙屋町、四番南町…。早速書き終えた
順位表を張り出す。

すでに、毎年9月第1日曜の試験曳きの準備も万端で、花寄せつまり寄付集めも始ま
っているその頃。

だんじり野郎にとっては、この毎年九月一日の、この町会館でシーンも「祭がそこま
でやってきた」と実感する瞬間だ。

2004年09月08日

仕事辞めても祭に生きる だんじり男の心意気

9月4日(土) 

いよいよ明日5日は試験曳きだ。気になるのは天気。「どうも雨っぽいのお」と昨日
の寄り合いでももっぱらその話だ。一発目つまり今年初めてだんじりを曳くという場
合の雨は、ちょっと恐いというかいやな感じがする。

仕事のほうはレギュラーの月刊誌・ミーツはもとより、ほかのたくさんの瑣事があり
、モットーである前倒しの精神を発揮して、休日出勤も誰よりも早く出てこなそうと
するのだが、身体と精神ともふわっと浮いた感じで手に着いていない。

岸和田のだんじり男は、毎年この時期になるとそういう状態だから、つい「ええい、
今日は休んでまえ」となってしまうことは多いし、その最上級として「今年の祭、終
わってからゆっくり考える」と祭前の夏や直前の8月に会社やそれまでの仕事を辞め
るケースにもしばしば遭遇する。

去年の大手町の若頭筆頭のTもそうだったし、うちの町でも来年のカシラになるM人
が、盆明けに長く勤めていた生命保険会社を退社したばかりだ。

彼が生まれて育ったテーラーTがあった昭和大通りは、 わたしの実家のある中央商
店街の一筋違いにある。うちの商店街はほとんどシャッター商店街になってしまった
感があるが、そこはまだクルマが通れる分マシで、また近年カンカン場にショッピン
グモールが出来て、南海岸和田駅とそれを結ぶストリートとして「生きている」。

そしてM人は今年の祭開けを機会に、お父さんが亡くなって誰も住まなくなったその
実家に戻って商売をするらしい。下町の1階が店で2階が住居になっている、文字通
りの仕舞た屋をこのところ片づけている。

だんじりの待機場所の真ん前にあるテーラーTは、たぶん明日の試験曳きには、以前
と同じように五軒屋町若頭ほか幹部の集合の場として復活するだろう。

そんなところに午後3時頃、デスクでパソコンに向かっていると、上町の昨年の若頭
責任者のK原くんから携帯が入る。上町だんじりのアルバムが出来たそうだ。

今日7時頃には岸和田に帰るから取りにいく、と言ったのだが、その頃には近くにい
るから届ける、とのこと。その言葉に甘えることにする。

昨夜は寄り合いから帰り、家に着いたのが1時過ぎ。仕事を6時で切り上げて、難波
から岸和田に向かう急行では爆睡した。

岸和田駅を和歌山側出口から降りて、宮本町の低い大太鼓が特徴のだんじり囃子右に
聞きながら、まっすぐに五軒屋町会館に向かうが、旧26号線に当たったところでう
ちの町の太鼓が聞こえてきたので、だんじり小屋へ寄る。

青年団の鳴物係もいよいよ明日が一発目ということで、最後の調整に入っている。小
太鼓のテンポと大太鼓の入り方が、明らかにそれまでとは違っている。

たぶん台と前コマのアザが大きすぎるので、セッパを替えたのだろう。 若頭の梃子
持ちの連中が作業を終えた面持ちで鳴物を聴いている。

いつも鳴物にうるさいTが顔を見るなり「なあ、ひろきくん。こいつらちょっと、ゆ
うこと聞いてるんちゃう。マシになってるで」と言う。

フルボリュームのだんじり囃子の中、「おまえら、明日、頼んどくど」と鳴物責任者
に大声で言って、会館へ寄り合いに向かう。

2004年09月09日

気さくな浜気質 大北町でガッチョを食べる

9月4日(土)その大北町訪問の部

今年の若頭筆頭のM雄、来年筆頭で副責任者のM人、それから平成14年度筆頭で顧
問のYさん、相談役のTさんとわたしと、5人揃って大北町を訪問する。

この訪問は毎年恒例である。本宮の潮かけの際に、曳行コースに含まれていない大北
町の細い道路を五軒屋町だんじりが通ることのお願いである。

昔から五軒屋町は宮入の前に、大手町の浜で塩を汲んで潮かけをするのだが、その際
に通るのが大北町、中北町、大手町の浜の三町である。

その潮はすでに浜つまり海岸がなくなり、埋め立て地になった今でも、埠頭から降り
ていって手桶をたらして汲んでいる。

同様に潮かけの際のコースも変わっていない。昔の浜の町のムードが色濃く残る、だ
んじり1台がやっと通れる幅の道を一番北側から、大北〜中北〜大手と進んでいく。
だからクルマが1台でも路上駐車していると支障が出て、まつりごとが出来ない。

それゆえ、今年もなんとか支障のないように通らせてくださいとのお願いで、ビール
の差し入れを持参しての礼である。

わたしは筆頭だった去年、一昨年とその前の年もこの訪問に参加しているが、どの年
も第1土曜の夜、つまり試験曳きの前日だったと記憶する。

大北町の若頭詰め所は港湾荷役の事務所である。昭和のマドロス映画のロケ地そのま
まの渋い男の匂いにあふれている。

氷水を張ったスチロール製のでかいケースには、缶ビールやらチューハイがまんたこ
に放り込まれている。煙突のついたストーブの上には、テーブル代わりの板が置かれ
、乾きもののアテが盛られている。

筆頭以下ベンチに横並びに座り、「さあー、飲んでや。ドライでええか」と手渡され
た缶を「遠慮せんともらいますわ、すんません」とプシューと開けて飲む感覚は、こ
の大北町という浜の町気質そのものだ。

「浜の顔」が揃うこの町の若頭とは、とくに1年上とわたしの同年の若頭同士仲が良
く、いつも「おまえとこのTは、しゃあないのお」「昔から、こいつは難儀なヤツや
」などと、冗談や話が盛り上がる。

だからかも知れないが、去年からは隣の居酒屋の座敷を特別にとってくれていて、そ
こで試験曳き前の両町小宴会となり、今年の筆頭のM雄は行く前から恐縮してるのだ
が、それでも今年もとびきり美味いガッチョの唐揚げなどの地の魚や焼鳥をアテに、
生ビール、焼酎とガンガンごちそうになる。

けれども明日は一発目の試験曳きだ。明日の段取りが忙しいので長居は避け、「えら
いすんませんでした」「ごっつぉさんでした」「あした、気いつけてな」と一人ずつ
丁重に礼を言い、町に帰る。

毎年のようにこの日の五軒屋町会館は、青年団が寄っている1階の部屋から2階の世
話人さんの部屋まで、ほぼ満員状態だ。祭期間で一番人数が寄っている日でもある。
どの部屋も、ゴオォー、ワハハハ、と大人数の男のがなり声、笑い声が充満している

筆頭のM雄による、明日の午前10時の出庫の際の確認点、雨天の時の変更…と「ほ
な、あした9時集合。解散」との声で、いよいよだんじりが出ることが実感する。

こういうことも、人は毎年替われどほとんど毎年同じであり、そうでないと祭が来た
気がしない。

2004年09月10日

幾つでも 祭りの前夜は眠れない

9月5日(日) 試験曳き出庫編

昨夜は寄り合いの後、喜平で筆頭以下の幹部と前梃子、大工方の面々と飲んで帰って
、時計を見ると1時だった。

家に帰って風呂に入り、法被、胸当て、バッチ、鉢巻、地下足袋とお守り等々、祭衣
装を確認して寝ようとしたが、なかなか寝付けない。

ええ年こいて、まるで小学生の祭前やなあ、まあ明日は朝9時やしええか、などとウ
トウトしていたら雨音がしてきた。これは雨か、ええことないなあ、と思いながらも
やっとこさ寝て起きたら、これはあかん、9時きっかりだった。寝過ごしてしまった
。いつの間に目覚ましを止めたのだろう。

雨は止んでいる。 あわてて五軒屋町若頭オリジナルのTシャツを着て、だんじり小
屋駆けつけると、だんじりには幕、金綱、飾り旗…と化粧が完了している。梃子祭も
終わりかけで、M人から「遅いわい!もう終わりじゃ」と半分怒ってるような苦笑顔
で言われて、あわてて御神酒をもらい一気に飲み、その後スルメをかじる。

梃子祭というのは、だんじりが出庫する前に、正面に清酒と剣先スルメを供え、二拝
二拍一拝の後、酒でだんじりの足回りと前梃子を清める。

その酒とスルメは、会計が紙コップを配り、めいめいに1センチほど酒を注いでまわ
り、スルメを割いてみんなで頂く。

だんじり出庫は、旧26号線を100メートルほど大阪方面に行って、駅前商店街入
口と泉州名物で有名な村雨の竹利商店前を浜へ遣り回し、大場宅前へ付け、またUタ
ーンをしてだんじり小屋に戻り…と2回繰り返すが、正真正銘の今年一発目なので結
構緊張する。

去年は筆頭だったので、腰回りについていたが、遣り回しのあと青年団の綱元の前あ
たりがこけてブレーキと梃子が入って、こいつら本番大丈夫か、とハラハラしたこと
を思い出す。

一町だけの特別曳行(?)なので、旧26号線のクルマを止めたり人払いをしたりの
警備も自前だ。

時間までに駅前商店街の入口で人払いをする。だんじり出庫までのこの数分は、いつ
もそわそわして胸が高まる。血が騒ぐ、というのはこのことなのだろう。

青年団が綱を張る。そしてオレは大阪方面のクルマを止める。出庫の際の曳行のそれ
ら一切は若頭の責任仕事だ。しかし世話人のMさんほかが自発的に手伝ってくれる。

来た。大太鼓の重低音が三井住友銀行のビルに反響し、いい感じだ。鳥肌が立つ。

アメリカ衣料前で毎年のようにブレーキテスト。前を曳く青年団は50人ほどで、少
ない。その後、遣り回しの体制に入る。

筆頭のM雄がイン側の松良にたかる。太鼓が変わる、走る。ああ、ちょっと取るのが
遅い、おい、と思った瞬間に曲がる。安堵。

戻ってきて、2回目は完璧。大場宅前にだんじりが据えられたのを確認して、クルマ
を通し、みんなで交差点についたコマの後を確認するように見る。

1回目はだいぶアウトで回っている。そのことを拾五人組の幹部にどなりつけて、梃
子持ちの面々がいるテーラーT前へ行く。全員汗をかきながら4本の前梃子を「はつ
って」いる。

昼飯はM雄、M人のコンビとその他3名でお好み焼き屋で焼きそばでもツマミながら
ビールを飲もうと、「一休」と「双月」を覗くが、どちらも見物客で満員。

仕方がないとラーメン屋に行くと、世話人の参与さんたちが2組20人ほど占領して
いて満員気味だったが「よっしゃ、開けちゃろ」と1グループが替わってくれた。

参与というのは、いわば祭礼運営においての長老格であり、世話人の曳行責任者や年
番を経験したまだ上の世代のおおよそ50台半ば以上の人たちで、まつりごとに関し
て、ここぞという時の意見は絶対である。

みんなすでに酒が入っていて、でかい声で「今年はどこで抜けよか」「駅曲がったら
、もうよう走らんやろ」とか、若い頃の祭の際に遣り回しで飛ばされた危機一髪な話
とか、 さらに花寄せ行ったスナックかどこかの女の話とか、 ほかのお客さんお構い
なしにデカイ声&笑い声で、まだ試験曳き前というのに、これぞお気楽お祭気分だ。

Tさんは升酒に塩を載せて飲んでるし、うちの兄もその中にいて「ひろきもM人もM
雄も、オマエらの体つき見てたら、この年になったらよう走らんど。オレらみたいに
運動してダイエットせい」とからんできて、笑いを取った。「ほんまに、元気やのお
、うちの世話人だけは」と全員であきれる。

ラーメンとおにぎりを食べ終わり、ジョッキ1杯ずつ奢ってもらった生ビールの礼を
言って先に店を出る。
われわれ若頭が青年団の頃、前梃子を長い間持っていたOさんが「オレらは今年はこ
んなんや。オマエら、ええ祭せいよ」と実に五軒屋町の先輩らしい言葉をかけてくれ
た。

2004年09月11日

高鳴る鼓動 動き出すだんじり

9月5日(日)その試験曳き出発編

午後12時40分。

家に帰ってシャワーを浴び、祭衣装に着替える。地下足袋の7枚のコハゼを止め、家
を出る。

寺町筋を抜け昭和大通りに出ると、すでにだんじりの回りは後梃子拾五人組の法被姿
の男たちで一杯だ。

だんじりの横の人混みをすり抜け、テーラーT前に行くと、「中へ入って、お茶でも
飲めや」と麦茶を出してくれた。
M人の叔父さんであるKさんが世話人の法被姿でいて、「あ、Kちゃん、久しぶりで
す。今年も頼んどきます」というと「お前の顔見たらね、今年も祭来たと思うんや」
と言った。

オレも逆に本当にそうだと思う。テーラーTはKさんの生家である。けれども、子ど
もの頃から祭以外は、テーラーTで顔を見た記憶がない。

今でこそ初老の風貌だが、自動車教習所の先生だった彼は、ハーレーダビッドソンに
乗っていた粋なおやじである。

前梃子責任者のTに、前梃子、大工方の順番で塩をかけてもらう。この塩は比叡山延
暦寺のから取り寄せたものだ。

まだかまだか「今何分や?」と腕時計をしているものを見つけては時刻を聞き、タバ
コをせわしなく吸い、足の筋肉をのばしたりして、ようやく前板に曳行責任者、会長
が乗る。

青年団が綱を張る。「ちょっと前へ出せ」と中央へそろりと出す。

「後ろ、ええんか」「いくぞー」。その合図でオレは、腰回りから小屋根下、見送り
の竹の節を掴んで、後ろのホゾに乗る。松良にはM雄、その後ろに前梃子が一人がた
かっている。だんじりが並足で走る。

道が右へゆるくカーブしているので左に寄った。なかなか取れない。

おい後梃子、いけるんか、これは危ない、腰回りで走ってる拾五人組の副責任者のS
村に「あかん!はよ逃げれ、どかんかえ!どけ!」と怒鳴って、自分もだんじりから
飛び降りて挟まれないように、腰回りの3〜4人と軒先の窪みを見つけて飛び込む。

ブレーキが入ってだんじりが止まる。「おい、しっかり取らんかえ!」「オマエら、
何やってんな!」。若頭、世話人から後梃子にこれ以上のものはない岸和田弁の怒号
が飛び交い、言われた拾五人組組長はさらにどんす(綱)を持つみんなに怒鳴りつけ
気合いを入れる。

だんじりはとても言語学的である。「だめだよ」「あぶないぞ」「止まれ」といった
テレビドラマの標準語的な言語運用では、皆目だんじり祭にならない。

その語法や言葉遣いつまりエクリチュールが、だんじり全体の何百人という男とだん
じり動きそのものを統御しているのだ。

「せーのぉ、チョイ!」とチョイ取りが一発で決まり、町旗と御祭禮幟を大きくゆら
せる派手な動きで体勢を立て直して、ゆっくり目の曳き出し太鼓でで駅前へ向かう。

さあ、これからだ。

About 2004年09月

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