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打倒、東京弁帝国主義!

以前、内田ゼミでも発表したことがあるが、関西人は読み書き思考を関西弁でおこなっ
ている。

そう思っていたが、こないだの内田先生とミヤタケさん、ナガミツくんというメンバー
のうな正会で、これはいろいろありだと思い直した。

ちょっと形而上的な話になると、彼らは標準語(的イントネーションだけかもしれな
いが)で話すのである。

「きみら、そういう話になると、なんで東京弁話すねん」と言うと「関西弁では哲学
書とか読めないですから」 と、これは関西弁で答えた。

横にいた内田先生は、鰻重の竹をうまそうに食べ、ビールをごくりと飲ってから、
「そりゃそうでしょ、そんなのは大阪弁ではダメでしょ」と歯切れのいい江戸っ子弁
で言った。

だいたいこの先生は関西弁や広島弁で何かを書いたり言ったりする場合は、いつも恫
喝とかおちょくりとかの場面しかない、東京弁帝国主義者の言語学者(現代思想・哲
学者か、まあどっちでもええやんけ)。

大阪弁でしかそれができないオレは、そんなことないです、現にミーツ「哲学・上方
場所」をやっていただいている鷲田清一先生もそうだし、富岡多恵子さんもそうだと
言いきっておられたし、故・司馬遼太郎も大阪弁だと先輩の新聞記者に聞いたことが
ある、と反論をはじめようとしたが、やめておいた。

けれども、そしたらオレは哲学書とか読んだらあかんのか、とけっこう傷ついた。
そしてわれわれの関西弁での読み書き思考について、結構ひっかかっていた。

私を含め、うちの雑誌は関西弁で書いているスタッフが多い。というか、関西弁でし
か書けない。それは地元出身者が多いからだ。

もちろん読むのも(イントネーション的に)関西弁であり、われわれがいる大阪や京
都の旧い町の高校の現国の授業でもこちらのイントネーションで朗読していた。

だから今も新聞記事や雑誌でも、哲学思想書も宮沢賢治の「永訣の朝」でも関西弁で
読むのだが、そういうことを小説新潮の高知ご出身のK副編集長に話したら、それは
ユニークだと、なぜか感心していた。

現に私が今、読み書きしているのもそうであるが、とはいっても「そんなややこしい
こと言うてもうても知りまへんがな」というような文章は、このように表記してしま
うとわれわれにも読みにくいので、会話の引用文とかだけにすることが多い。

その意味で言文一致、というのは関西ではちょっと意味が違うというかズレているの
だと思う。

逆に「〜だよね」とか「〜しちゃう」といった若者雑誌的な標準語の口語文は、大阪
発音で読んでいると違和感がある(気色悪い)。だからライターにしても、関西人は
あまり書かないようだ。

文を書くと言うことは、自分で書いた言葉を耳で聞く、ということだ。

けれども「である」とか「なのだ」とかは口語文であるが、実際の話し言葉ではほと
んど使わないのと正反対の意味で、話される関西弁と書かれるそれは違う。

だから清原の番長日記風に書かれた文章は、ある種のバイアスがかかった大阪的ニュ
アンスをわざと付加しようとしているのが見えて、うっとうしい。

関西人にとっては、冷めたお好み焼きをまた温めて出されて食べさされているようで、
不味いのである。

「私を含め」以下の文章は、神戸新聞の夕刊連載「随想」で「関西弁の書き言葉と話
し言葉。弊誌の場合。」というタイトルで書いたばかりのコラムだが(7日の夕刊に
載ります)、昨日ゲラがあがってきて、珍しく文化生活部長のHさんからファックス
が入った。

それには、文中あとの方の「口語文」は、火曜の夕刊「ことばのとびら」を執筆いた
だいてます方言研究家の都染甲南大教授の指摘で「口語的表現」の方がいいのでは、
とのアドバイスをいただいたとのこと。

加えて、この原稿に大変興味を持たれ「ことばのとびら」で引用したい、とおっしゃ
てるとのことだった。

以前、ミーツで永江朗さんが書評欄で取り上げた、大塚英志の「サブカルチャー文学
論」(朝日新聞社)を読んでいると、「村上春樹にとっての「日本」と「日本語」」
というところで、短編集「パン屋再襲撃」のアメリカ版について、興味深いことが書
かれていた。

春樹の小説は、日本語訳されたアメリカ文学のようにとらえられがちだが、実は逆で
ある。

村上の装ったはずの「アメリカ」とは裏腹に、英訳された時どこかゲイシャ・ガール
のうなじ的な「日本」が見え隠れする。

彼の翻訳小説風の文体については、ずっと違和感があり、それは70年代半ばの関西
のミニコミ誌で流行った文体と類似であり、その居心地の悪さは、関西の人間が標準
語を話す際に感じるそれと共通である。

「村上朝日堂の逆襲」のなかで、「関西人の自分が、1週間で完全に東京弁に変わっ
た」、と書いているが、これは関西出身者としてはとても奇異な感じがする。

また、「関西にいるとどうしても関西弁でものをを考えてしまい、その関西弁独自の
思考システムからの自分の小説スタイルはない」というのは、関西弁を捨てて標準語
を選択した作家にほかならない。

そういう意味で、かつて「地方語」という「異語」を互いに話す者たちが「言文一致
体」という人工的な「共通語」を構築することで可能になった「近代文学」といった
標準語によって構成された「制度」においては、春樹は最初から保守主義者である。

うーん。そうか、関西弁で雑誌をつくってるオレらは、はじめからアウトローやった
んか。かっこええやんけ。

コメント (3)

ヒラカワ:

関西弁のダンナ、ちょっとまったぁ。

俺は、実はずっと、関西弁にあこがれているのである。
むしろ、東京言葉には、コンプレックスさえ感じているのであるからして、そういきり立ってもらっても困るではないか。
じぶんのこと、「わし」って言ってみたいしさ。

ミヤタケ:

江さん、江さん、「言おうとして止めた」とか「傷ついた」とか、ウソやん!
全部言うてはったし、「関西人のくせに東京弁、喋んな! ほやからお前の書くもんはオモロないんや!」って逆ギレしてはったし! 傷ついたんは、こっちやわ。
まぁ、いつものことやし、えぇけど。

・・・という関西弁そのまま表記は、読みにくいですね。
書くときは、なるべく特徴のない標準語を使うのが、日本語ユーザー全体への「配慮」だと思います。
哲学書を大阪弁で読むのは、抵抗なくできるけど、「永訣の朝」や『じゃりんこチエ』音読は、よその者には難しいです。
ラジオやテレビのおかげで、日本語ユーザーは皆、標準語は「分かる」。
だから、なるべく皆が分かる言葉を書こう(読み方は読者のご勝手に)、というディーセンシーなんですよね。

話し言葉のレベルで言えば、「大阪弁でまくしたてるオッチャン」や「京都弁を流暢に話す髪の長い女」は「強い」ですよね。「便利」だし。
ヒラカワさんが心配するように、江さんは関西弁に劣等感なんて感じてないでしょ。むしろ、優越感を感じてるとお見受けします。それも、「関西弁」じゃなく、「泉州大阪弁」に。
私も、自分が京都弁を使えることには、密かに優越感を持ってます。
でも、私が京都弁を話すことは、他府県の人々に、余計な劣等感や警戒心を抱かせる場合があることも分かっています。
(大学では、他府県の人も多いですし、京都に来て日の浅い人もいます。そして、京都に進学するヨソの人は、京都の女に非常にコンプレックスを持っていたりします。さらに、何より、京都弁を話す女って、狡そうに見えることがある。)
そんなわけで、私は、特に親しい間柄以外、とりわけオフィシャル場面では標準語を話す習慣になっています。
・・・やらしぃやろ? けど、思いやりのつもりでもあるんえ。「あぁ、ほうか」言うて、許してぇな。(←「媚」記号としての京都弁)

ヤマナカ:

初めてコメント致します。ヤマナカと申します。

ミヤタケさん、江氏の逆ギレ状態は、泉州大阪人が言葉を発する時のノリ的特質の一つである、とご理解下さい。

私も堺出身、そうラテン大阪人の一員であります。

知人の江氏と私の会話を、もし他者(とりわけ関西圏以外のご出身者)が耳にすると、「ヤカラのケンカか?」と認識されるのではないかと推測致します。

加えて江氏、ご自身で「口数では、人に負けへんど。口で取締役になったて言われてる」(江氏はご存知のとおり京阪神エルマガジン社の取締役)…と、公言してはばからない。
ぐわーーーーーっと自分の思ったことをひとしきり話し、レスポンスを返す間もなく、次の話題へ、なんてことも、日常茶飯事。

泉州大阪弁に「優越感」を持っておられるかどうかは別として、人一倍の愛着・愛情はお持ちでしょうね。

ちなみに、バリバリ大阪弁の自分としては、はんなり京(都弁)女でいらっしゃるミヤタケさんは、うらやましおすえ。

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2004年12月04日 22:13に投稿されたエントリーのページです。

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