2023年のお正月

あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。  お正月を迎え、ふと思ったことについて書いてみる。  2022年大晦日、寝る前にトイレで用を足している最中にふとこのように思った。 「これからは、できるだけ美しいものとだけとともに生きていこう。」  ソファに戻り、早速本棚から「陰翳礼讃」(@谷崎潤一郎)を読み出す自分の浅薄なところが、少し気になるところではあるが。 「また大層な話を~」、「どうせ酔っぱらってただけじゃないの~」というような声がたくさん聞こえてきそうだが、僕は、12月28日にコロナに罹り、それからアルコールは一口も口にしていない。 「いやいや、コロナで体調が悪かっただけじゃないの~」という声も聞こえてきそうであるが、幸いにも発熱で辛かったのは、28日一日ぐらいで、大晦日には、完全に平熱に戻っていた。つまり、極めて素面の頭に思い浮かんだ「思い」なのである。  2021年初夏、映画「アメリカン・ユートピア」を映画館で観た。本作は、デビッド・バーンによるブロードウェーでのライブを、スパイク・リーが監督したもの。前評判もすこぶるよく、僕の周りでの評価も高かった。出不精な僕は、大阪での上映が終了するその週に、重い腰を上げ、仕事帰りに、なんばの映画館で本作を観た。デビッド・バーンと言えば、僕らの世代では、「トーキングヘッズ」のリーダーとして認知されているが、やはり、観客は、僕ら世代が中心なのかなと思い、開演前の劇場を見渡してみたが、客層はバラバラだった。隣のおばさんを除いては...。このライブの大きな特徴は、舞台上には、ドラムセットもギターアンプもマイクスタンドも何もないので、総勢11人のミュージシャンたちが舞台の上を自由自在に動きまわりながら演奏することである。舞台の前から後ろへ、右から左へ、あるいは、全員が一列となって時計の針のようにぐるぐる回ったりとする。そう、彼らは、常に動きながら楽器を奏で、歌を歌うのである。そして見事なまでに、全員の呼吸がぴたっと一体となっているのがよく分かる。 「自由」を煎じ詰めたその先にあったのは、なんと「完全な調和」だったのである。僕は、そのあまりの完全な調和に言葉を失った。横のおばさんが、同じことを感じ取っていたのかは知る由もないが、今にも立ち上がって踊り出しそうな勢いでイスに座りながら体を揺らせていた。  映画が終わり、生暖かい空気のなか、映画館からなんば駅に向かいながら、僕は、大変気分がよかった。まるで、体中が音楽という何かとてつもない大きな力に包み込まれているような気がした。これまでに、音楽のライブはたくさん観てきたが、「こんな気持ち」は、初めてだった。僕は、この時間がこのまま永遠に続いてほしいと心底思ったのである。  そして、この日以来、僕のなかでおこった「こんな気持ち」は、いったい何だろうとずっと考えていた。  その答えが、1年半を経て、冒頭の「これからは、できるだけ美しいものだけとともに生きていこう。」である。答えが見つかった。  僕は、この答えについてもっと深く知りたくなり、元旦に本棚から一冊の本を取り出した。「人はなぜ「美しい」がわかるのか」(@橋本治)である。自分でいうのもなんだが、こういうときの自分の直感を僕は信用している。  橋本治によると、この世には、「美しいがわかる人」と「美しいがわからない人」がいる。人は、「美しい」に出あうと、思考停止、判断停止に陥る。それが嫌な人は、「美しい」がどういうことかを分からなくすればいい。しかし、このことは、「わかることはわかる」の理解能力はあって、「わからないことをわかる」の類推能力は育たない。  また、「美しいがわかる人」は敗者で、勝者になりたかったら「美しいが分からない」を選択しなければならない、どういうわけか、世の中はそうなっている。  僕なんぞにいわれる筋合いは、まったくないのだろうけれど、橋本治という人は、本当に賢い。この世にすでにいないことが残念でしかたがない。 「アメリカン・ユートピア」を観たあの夜、僕は間違いなく幸せだった。あのような瞬間は、これから数えるほどしかないのかもしれないが、それに近いような、ちょっとした時間というのはあるもので、僕は、そういう時間をこれからもずっと大切にしていきたい。  正月早々、こんなことを思ったのには、もうひとつ理由がある。  僕たち夫婦は、昨年12月28日、二人そろってコロナに罹ってしまった。幸いにも高熱に悩まされたのは、僕の場合は、28日当日ぐらいのものだったのだが、嫁さんの合気道仲間が、次々と差し入れを届けてくれた。年末の忙しいときに、寒空のなか、そのためだけに、わざわざ我が家まで足を運んでくれたのである。僕は、彼らがもって来てくれた、「たまごがゆ」(レトルト)、「カレーヌードル」、「カキ」をたべながら、「なんかいいなぁ~」と思ったのである。

僕は怖がりたい

 物心ついた頃から、怖い話が大好きだった。僕は、中高一貫教育の学校に通っていたので、高校受験がなく、その代わりに自由課題でレポートの提出がその学校では義務付けられていた。僕は、「KWAIDAN」(@小泉八雲)の翻訳をその課題として選んだ。まわりの同級生が、四苦八苦しているのを尻目に、僕は「Mujina」、「Rokuro-kubi」などを嬉々として訳し、提出締切日のはるか前に教師に提出した。変な子供である。  僕がこのように怖いもの好きになったのには、おそらく、幼いころに母親が体験した怪談話を聞かされたことの影響が大きいと思う。母親の実家は、バス通りから車一台がやっと通れるような狭い道を10分ほど歩いた突き当りにあり、その途中にはちょっとした墓地がある。母は、子どものころ、その墓地で男の幽霊を見たらしい。僕が子供のころ、母親に連れられ、盆踊りの帰り道、その墓地が近づいてくると、急におとなしくなった僕の顔を覗き込みながら、「お母さん、あそこで見たんよ。ほら、あの墓石のあたり。」と僕をからかうのだった。目をつぶりながら、足早に墓地を通り過ぎようとする僕の姿を、母親は、ケラケラと笑いながら見ていた。  そんな原体験からか、僕は、怪談にまつわるものなら何でも飛びついた。中でも、最も僕を怖がらせたのは、映画だった。初めてみた怖い映画は、天地茂主演の「四谷怪談」(@中川信夫)だった。子供のころ、お盆になると、決まって夜中に「怪談累ケ淵」「牡丹灯籠」などの怪談映画が放送されていた。  父親の実家は、兵庫県の北西部に位置し、鳥取県との県境に近い「湯村温泉」で有名なところで、その頃は毎年、家族で帰省していた。今でこそ、高速道路が整備され随分と便利になったが、昭和40年代の頃は、昼間に国道9号線が混むため、叔父たちは、夜に車を走らせ夜中に実家に到着するのが、いつのまにか通例となった。車のない僕の家族は、宝塚から特急「まつかぜ」に乗り、夕方には到着し、叔父たちが到着するのを夜中までずっと待っていた。当時は、お盆の頃になると、昼間とうって変わって、夜はすこしひんやりとしていた。そんな、ひんやりとしたなかで、僕は、「四谷怪談」を食い入るように観た。怖かった。  僕は、その後も次々とホラー映画を観た。作品名を挙げるとキリがないが、この年齢になって改めて観ても、いまだに怖い作品がいくつかある。「サスペリアⅡ」(@ダリオ・アルジェント)、「エイリアン」(@リドリー・スコット)、「女優霊」(@中田秀夫)などなど。しかし、あまりにたくさんのホラー映画を観てきたせいで、ちょっとやそっとでは、何を観ても怖くなくなってきた。悲しいことである。  昨年、寺小屋ゼミの発表のために「ホワイト・トラッシュ」について調べた。「ホワイト・トラッシュ」とは、アメリカにおける白人の低所得者層に対する蔑称のことで、なにか参考になるような映画がないか探していたところ、映画評論家の町山智浩の推薦する「脱出」という作品を観た。いわゆるホラー映画ではないが、久しぶりに怖い映画を観た。ストーリーは、男4人組が、カヌーで渓流下りを楽しむために、山深い町で出会うハプニングといったところだろうか。では、このストーリーのどこに僕は、恐怖をおぼえたのだろうか。それは、この作品が、山にひっそりと暮らしている「ヒルビリー」に出会ったことから始まる悲劇を描いているところにある。 「ホワイト・トラッシュ」というのは、先にも書いたとおり、ある白人たちへの蔑称のことである。調べてみると、「レッドネック」、「ヒルビリー」、「オキー」など特定の白人に対する多くの蔑称が存在する。彼らは、遅れてアメリカにやってきた移民である。遅れた分、彼らは、住環境としては劣悪な、自然環境のとても厳しいところに居ついた。なかでも「ヒルビリー」と呼ばれる人たちは、アパラチア山脈の中に住みつく。彼らに関する情報があまりに少ないせいで、ネガティブな情報だけが独り歩きした。暴力的で大酒呑み。あるいは、閉じられたコミュニティの中でしか生きていけず、近親相姦を繰り返しているなど。  この映画では、自分たちの住む世界のすぐ向こう側には、自分たちの知らない世界が、現実に存在しているという事実を僕に知らしめた。  その次に観た作品が、名作「悪魔のいけにえ」(@トビー・フーパー)である。改めて観てみると、この作品も「脱出」同様、「ホワイト・トラッシュ」映画と呼べるものであろう。後味の悪さということにかけては、この作品の右に出るものはない。  そして、「クライモリ」である。題名は、何となく知っていたのだが、先日WOWWOWで放送されていているのを観た。なんとも怖い映画だった。見終わったあと調べてみると、ウィキペディアには、「ヒルビリーホラー復活のきっかけを作った作品」で、「シリーズ化され、6作目まで制作された。」そうである。しかし、よく考えてみると奇妙なことである。「ヒルビリー」というアメリカに存在する特定の人たちを題材にした作品が、日本人の僕を怖がらせたわけで、いわば世界性を獲得したわけである。  ハリウッド映画は、これまでいろいろな題材を扱い「恐怖」を制作してきた。それは、動物(「ジョーズ」)、子供(「エクソシスト」)、死者(一連のゾンビシリーズ)だったりと種種雑多である。そんなハリウッドが、「ヒルビリー」を通して描きたかった恐怖とは、いったい何なのか?  僕には、よくわからない。
 内田先生は、よく喋る。とにかく、よく喋る。  2019年10月、僕は、鳥取県智頭町にある「タルマーリ」での内田先生のトークイベントを聞きに行くため、神戸から内田先生に同行した。いや、くっついて行ったという方が正しい。当日、13時に凱風館に行き、そこから内田先生の運転するベンツの助手席にちょこんと座り、僕たちは「タルマーリ」を目指した。それまでに何度も内田先生とお話しする機会はあったが、初めての「差し」の場面に、僕はいささか緊張していた。車中で、無言の時間が続いたらどうしょうと、少し不安な思いのまま、車は出発した。  しかし、僕のそんな心配は杞憂に終わった。「タルマーリ」に到着するまでの間、約3時間のドライブ中、話が途切れることはなかった。三島由紀夫のこと、アル・パチーノのこと、その日の内田先生の対談相手の平川さんのことなど、トピックはあちこちに展開したが、僕のつまらない質問にも、内田先生は、丁寧に応えてくれた。  夕方、「タルマーリ」に到着し、主催者の渡邉さんを囲んで、談笑していると、平川さんが現れた。内田先生と平川さんは、トークイベント直前にも関わらず、お二人でおしゃべりを楽しんでいた。中でも、僕が印象に残っているのが、「小田嶋が、さぁ~」と、ニコニコしながら先日お亡くなりになった小田嶋隆さんとのエピソードを語る平川さんの話だった。特に、お二人で誰も知らないような温泉宿を訪ね、訪ねてはその宿の「イマイチ」なところを小田嶋さんが感想を述べるという話が僕の興味を引いた。そんな平川さんを見ていると、人というのは、自分の話をするときよりも、「ともだち」の話をしているときの方が、気分がいいんだなということがよく分かる。  その後、内田先生と平川さんのトークイベントが開催され、終了後に、打ち上げ。この間も、内田先生は、ひたすら喋り続けた。そして、その日の出来事がすべて終わり、宿泊先のホテル前で解散するときは、さすがに、内田先生は疲れた様子で、それは、まるで、マラソンランナーがフルマラソンを完走したあとのような面持ちだった。考えてみれば、13時~22時までの約9時間、喋りつづけたのだから、無理もない話である。  内田先生は、共著の本をたくさん出している。対談したものを文字起こししたものが大半だ。これほどまでにたくさんの対談本を出している作家を、僕は、あまり知らない。しかも、対談相手は、さまざまなジャンルの方で、トピックも政治から文学までと縦横無尽である。中には、シリーズ化されたものさえある。僕は、あるときから、凱風館関係の宴席では、必ず内田先生の横か正面に座り、お酒を飲みながら内田先生とおしゃべりを楽しんでいる。まわりからは、随分図々しい奴だと思われているかもしれないが、僕としてはこんな貴重なタイミングを逃す訳にはいかない。それぐらい、内田先生の話は、面白い。僕にとっては、至福の時間である。おそらく、内田先生と対談された方も、僕と同じ感想を持ったに違いない。そのことは容易に想像がつく。さらに、内田先生は、ただよく喋るだけでなく、相手の話を実によく聞く。相手のどんな話にも耳を傾け、適当な返事ですますということは絶対にしない。  以前、宴席で、いつものように僕は、内田先生の横に座り、おしゃべりを楽しんでいた。どういう展開で、そうなったのかは、よく覚えていないが、僕は、ドラマ「北の国から」の話をした。僕が、どうしてもこのドラマに共感が持てず、そのことを先輩に言ったところ、「おまえは血も涙もない人間だ」と言われたという、どうでもいい話である。内田先生は、僕のそのどうでもいい話をゲラゲラ笑いながら聞き入っていたが、そのときの話が、後日、「「ゴッドファーザー」と「北の国から」」というタイトルで、映画「ゴッドファーザー」公開50年を記念した雑誌「KOTOBA」のゴッドファーザー特集の回に掲載されていた。その雑誌には、なんとアル・パチーノのインタビューものっていて、僕は何だか不思議な感じがした。  新作「下り坂のニッポンの幸福論」を読んだ。内田先生と映画監督想田和弘との対談本である。本作では、聞き手としての内田先生の魅力が発揮されている。想田監督という方が、どんな方なのかは、僕はよく知らないが、内田先生との話を通して、想田監督が、高揚している様子が、ひしひしと伝わってくる。それにインスパイアを受け、いつものように内田先生の話にドライブがかかる。あたかもそこに居合わせたように、対談の楽しさが伝わってくる。  内田先生の書くもの・ことについては、一度試してみたくなるという大きな特徴がある。それは、村上春樹の小説を読むと食欲が沸くのとよく似ている。「下り坂のニッポンの幸福論」の「はじめに」に「しだいに日が傾いてきて、西の海に日が沈み、部屋も外の景色も真っ赤に染まり、やがて群青の夜空が広がり、気が付くと満点の星が輝いていた」という一節がある。 僕は、この一節を読んで、無性に牛窓に行きたくなった。
 その日のことは、まるで昨日のことのように今でもはっきりと覚えている。1989年11月6日深夜、僕はいつものようにテレビ番組「11PM」を観ていた。すると、番組の中で、司会の高田純次が「訃報です。俳優の松田優作さんが亡くなりました。」と、告げた。あまりの突然の出来事に、僕は、言葉を失った。なぜなら、ちょうどそのころ、松田優作主演(といっても過言ではない)のハリウッド映画「ブラック・レイン」が日本でも公開されていた最中だったからだ。  松田優作は、1983年、映画「家族ゲーム」で、それまでのハードボイルド路線から一転、長い髪をバッサリと切り、新境地に挑んだ。それはそれで、よかったのだが、個人的には、「遊戯シリーズ」や「蘇る金狼」などで観客を魅了した、アクションスターとしての松田優作をもう一度みたかった。そのころ、阪急電車の車内に貼られていた「ブラック・レイン」のポスターに映る、松田優作は、完全にいかれていた。そこには、あの松田優作がいたのだ。僕は、ワクワクしながら、早く見に行かないといけないと思っていた。そんな矢先の出来事だった。僕は、あまりのショックに、その週に3回も映画館に足を運び、「ブラック・レイン」を見た。それぐらい、松田優作の演じる日本のヤクザ・佐藤は、ぶっ飛んでいてカッコよかった。 「ブラック・レイン」は、アメリカから見た日本というのが一つのテーマだったわけだが、リドリー・スコット監督の描く日本(大阪ロケ)は、まるで、リドリー・スコット監督が、以前に「ブレードランナー」で強烈に描いて見せた近未来の都市空間と相似形を成し、異世界そのものだった。 「ブラック・レイン」が日本で公開されたのが、1989年。まさに日本は、バブル全盛の最中にいた。その年の12月29日、日経平均株価は38,915円を記録し、世界時価総額ランキングTOP50の内32社を日本の企業が占めた。ソニーは、コロンビア映画を買収し、三菱地所は、ロックフェラー・センターを買収した。いずれもアメリカの象徴そのものだ。当時の日本の企業は、あたかも先の戦争の復讐をしているとしか思えないような行動を取っていた。「ブラック・レイン」では、日本のヤクザが、アメリカの偽札を作るが、そのことは、当時の日本人の深層心理だったのかもしれない。そんな日本をアメリカは、当時相当脅威に思っただろうし、それは異世界そのものだったに違いない。  映画の中で、若山富三郎扮する佐藤の親分・菅井は、ドスの効いた低い声で、佐藤のことを、「極道の仁義も忠義心も尊敬もあれへんがな」と言い放ち、「お前らは黒い雨を降らせ、お前らの価値観を押しつけた。我々は自分を見失い、佐藤のような奴らが大勢生まれた。その仕返しをしている。」とマイケル・ダグラス扮する刑事に英語で詰め寄る。日本の戦後のエッセンスを見事に表現したセリフだ。  今、WOWOWでドラマ「TOKYO VICE」が放送されている。製作費88億円、製作総指揮は、マイケル・マン。アメリカからは、「ウエスト・サイド・ストーリー」で一躍有名になったアンセル・エルゴート、日本からは渡辺謙と豪華なキャストで話題になっている。「TOKYO VICE」は、1993年に読売新聞社に入社し日本で初めての外国人新聞記者となったジェイク・エーデルスタインが、13年間に渡ってヤクザの裏社会を取材したときの小説『トウキョウ・バイス: アメリカ人記者の警察回り体験記』が基になっている。  このドラマは、「ブラック・レイン」の続編、あるいはオマージュであることは、一話を見てすぐに分かった。異界(日本企業)にやってきたアメリカ人、英語を話すことができるヤクザの親分、夜の東京の街。そして、何より、笠松将演じる若いヤクザの名前が、佐藤であった。そう、「ブラック・レイン」で松田優作が演じたヤクザと同じ名前である。  最初は、ワクワクしながら「TOKYO VICE」を見始めたのだが、途中から、観ていて悲しくなってきた。「TOKYO VICE」は、90年代の東京のアンダーグラウンドの世界を描きたかったそうだが、それは、バブル崩壊後の日本と同義である。そこには、「ブラック・レイン」で描かれていた、狂ったような都市風景も、いかれた佐藤のような日本人も存在せず、ただただ凡庸な風景や人物たちが存在していた。  先日、【白井聡ニッポンの正体】~追悼 宮崎学~差別を撃ち続けた「突破者」 を聞いた。この【白井聡ニッポンの正体】は、月に一度程度、YouTubeで配信されていて、毎回楽しみにしている。今回は、宮崎学追悼番組だった。そのなかで、特に、「中間団体」の話が興味深かった。「中間団体」というのは、個人・家族と国家の間に存在する集団のことで、個人化が進むなかで注目されている社会学の概念とのこと。この「中間団体」が、資本主義が高度化するにしたがって、その役割・存在が危うくなっているとの指摘があった。  失われた〇年と言われて久しい日本であるが、「ブラック・レイン」と「TOKYO VICE」というフィクションを見比べてみても、日本の凋落ぶりは、火を見るよりも明らかで、そしてこの凋落が、まだまだ現在進行中であることが、なんとも辛い。

僕の撤退論

 内田先生が編集された「撤退論」を読む。内田先生を筆頭に豪華な執筆陣で、各執筆者がご自身にとっての「撤退」について言及されていて、とても興味深く読ませていただいた。なかでも、同じビジネスマンとして、平川克美さんの「極私的撤退論」と、想田和弘さんの「文明の時間から撤退し、自然の時間を生きる」に、特に興味をそそられた。そこで、僕にとっての「撤退」について考えてみることにした。  僕の生まれ育った町は大阪空港の近くで、飛行機が飛ぶたびに、小学校の校庭にその大きな影が映るほどの高さで飛行する、騒音の町として有名なところだった。住民の大半は、肉体労働者で、お世辞にも上品という言葉からは程遠く、その当時、地元の中学校には、ヤンキーがうようよといた。そんな状況を危惧して、両親は、僕を小学校5年生から進学塾に通わせ、当時としては、まだ珍しい中学受験という方向へ僕を導いた。その結果、僕は、「進学校」に入学することになる。その学校は、毎朝8時30分から8時50分まで、「20分テスト」という試験を実施し、毎週、クラスでの席次が、親に発表されるというシステムを採用していた。「日本で一番試験の多い学校」と、教師も自嘲気味に言う、そんな学校に、僕は6年間通った。つまり、僕は、小学校5年から高校3年までの8年間、試験漬けだったわけである。そんな厳しい環境のなかでも、高校一年生までは、何とかいい成績を維持できたのだが、その後は、ボブ・ディランの名曲Like a rolling sone のごとく、転がるように成績が落ちていった。  なにより学力が追い付かなくなったというのが一番の原因ではあるが、高校生一年生の僕は、競争から「降りる」ことにした。僕は、子どものころから、人と競争するのが苦手だった。意外と負けず嫌いのところもあり、人に負けるのは気分の悪いものだが、だからといって、勝ったところで、それほど気分のいいものでもなかった。勝ったあとの居心地の悪さが、僕はいやだった。そんな性格の僕が、競争という弱肉強食の世界に、小学校5年生から足を踏み入れてしまったのである。いったん、競争の世界に放りこまれた僕は、勉強のコツのようなものを会得し、面白いように成績がよくなった。入塾した時点では、Bクラスだったのだが、すぐにAクラスに上がると同時にに上位グループに入りこむようになった。そんな僕は、結果にこだわり始めた。別に常に一番でいたいなどという強い気持ちはなかったが、自分で設けたポジションを下回ることは絶対に許せなかった。しかし、高校生一年生の夏休み、僕は思った。「採点された答案用紙を教師から受け取るときにはドキドキし、成績の結果に一喜一憂する。このことに一体どれほどの意味があるのか?むしろ、浴びるように聞いている音楽に本質のようなものがあるのではないか?」と。   そんな思いは、日に日に増していった。一旦そのように思いだすと、生来の競争嫌いの側面がむくむくと顔をもたげ始めた。その後、好きなミュージシャンがインタビューで話していた「ヌーベルバーグ」を中心にヨーロッパの映画を見始める。そのころ聞いていた音楽は、イギリスの「New Wave」と呼ばれるもので、今聞き返すと陳腐な感じがしなくもないが、なんでもありで、とにかくその自由なところに僕は魅了された。映画も同様だった。入口は、フランスの「ヌーベルバーグ」(言うまでもないが、「New Wave」のフランス語訳。)だったが、こちらも音楽の「New Wave」と同じような自由さがあった。こんな自由な世界があることに、僕は驚くと同時に強いあこがれをいだいた。僕は、競争で充ち溢れた世界に、ほとほと嫌気がさしていた。いったん、そのような世界を知ってしまった僕は、完全に、「そちらの住人」となり、現在にまで至る。そんな僕は、会社で少し浮いている。ゴルフをせず、上司へのおべんちゃらも言わず、オリンピックや大阪万博に否定的で、れいわ新選組の街頭演説を聞きに行ったりと、まわりからは少し奇異な目で見られている。どれもこれも、僕が、「そちらの住人」であるためである。  村上龍が、あるインタビューで、小説を書く理由を尋ねられ、「システムに対する憎悪のようなものが自分にはあって、そのシステムを破壊するために小説を書いている。」というようなことを言っていた。また、冒険家の角幡唯介も「システムから逃避するために、冒険を続けている。」と言っている。僕が、嫌悪しているのも、システムが象徴するような何かなんだろうと思う。  さて、今年の8月で僕は57才になる。あと3年で定年を迎える。偉そうに、競争の世界から降りただの、システムを嫌悪しているだのと言ってきたが、結局、文句を言いながらも、サラリーマン生活をずっと続けてきた。なんとも情けない話である。  60才になれば、自分が嫌悪しているシステムの外に出たいと思っている。それが、僕にとっての「撤退」となるわけだが、それが一体どんな世界なのか、今から楽しみだ。    

兄のような人

 僕には、兄がいた。「いた」という風に過去形で書いているのは、今はもういないからである。もう少し正確に言えば、僕はその兄に会ったことさえない。兄は、僕が生まれる前に、交通事故で亡くなっている。僕は、兄のことを生前の写真や母が語る「物語」の中でしか知らない。  僕は、時折、周りの人に長男に特有な性格を指摘される。それは、変な責任感のようなものを自分で勝手に背負い込み、その結果、周りの人に対して横柄に見えることがよくあるらしい。本人には、まったくその自覚がない。困ったものである。もし、兄が生きていたなら、この長男的な性格から解放され、どんな風な人間になっていたのだろうと、兄という存在が僕に与えただろう影響について、僕はしばしば夢想する。今と同じような人間になっていたのか、あるいは、全然違う人格になっていたのか。しかし、それはどんな風に夢想してみたところで、全く現実感を伴わなかった。僕は、兄の存在を体現してみたかった。  Tさんとの出会いは、今から約30年ほど前の1988年にまで遡る。僕の嫁さんと、Tさんの嫁さんが友だちで、僕たちは彼女たちを介して出会った。よくある「彼氏」を互いに紹介するというものだ。嫁さんたちは仲がいいのに、その彼氏、旦那とは、馬が合わないというのは、世間にはよくある話だが、僕たちは違った。なぜか、Tさんは僕のことを気に入ってくれたようで、Tさんが結婚したころぐらいから、僕たちは、嫁さんたち抜きで、「差し」で会ったりするようになった。男兄弟のいないTさんは、3才年下の僕のことを可愛がってくれた。それは、ともだちでもなく、後輩でもなく、まるで「弟」のようにだった。僕は僕で、兄のことを妄想しながら、「兄」のようにTさんに接した。僕たちはよく酒を飲みながら延々とくだらない話をし、笑い転げた。Tさんはサーファーで、好きな音楽といえば、アメリカの西海岸のロック。一方、僕はといえば、高橋幸宏と村上春樹が好きで、映画「レオン」を見ては何度も涙を流す。そんな二人に共通点と呼べるようなものは、殆どいっていいぐらいなかった。それでも、僕たちは馬が合った。特に、僕は、Tさんが話すサーフィンの話が好きだった。彼が高校生の頃、雑誌「POPYE」でサーフィンのことを知り、ジェリー・ロペスの真似をして、毎朝グレープフルーツを食べたいと母親にねだったところ、あまりに高価なため、即効で断られたこと。当時、波乗りに行くときには、マーキー谷口がDJを務めるラジオ番組から、波の情報を入手していたこと。どの話も、僕にとっては、新鮮なものだった。Tさんは、新しいものが大好きなミーハーだった。そして、そのミーハーぶりは、どこかかわいらしかった。  本当なら、年下の僕の方が、連絡をして食事を誘ったりするのが普通なのだろうが、人に甘える術を知らない僕が連絡しないことをよく知っているTさんは、いつも絶妙なタイミングで、僕を食事や旅行に誘ってくれた。また、機会があるたびに、Tさんの仲間に僕を紹介してくれた。いつも受け身でいられる、そんな状態は、僕にとっては大変心地よいもので、そんな彼とのやり取りを通して、僕は、初めてリアルな「兄」のような存在を感じることができた。兄は、死んでもうこの世には存在しないが、「兄」は生きていたのである。僕は、Tさんといる間だけ、「弟」になることができた。  そんなTさんが、この世から突然いなくなった。2022年4月18日未明、3年8ケ月の長い闘病生活は終わった。二度にわたる骨髄移植は、成功しなかった。その闘病がいかに過酷なものだったのかは、今年のお正月に2年ぶりに再会したときの彼の顔をみれば、一目瞭然だった。結果的に、そのお正月でのいつもの会食が、最後にTさんと会った日になってしまった。  僕は、お通夜へと向かう電車の中で、Tさんと過ごしたたくさんの時間のことを振り返った。初めて会った大阪ミューズホールでのスカパラのライブ。神戸ユニバーシアードで観た、日韓ワールドカップ、「ナイジェリア対スウェーデン」の試合。ある時期、毎年GWになると出かけた中村市と四万十川。そして、毎年恒例となったお正月の会食。どれもこれも僕にとってはかけがえのない大切な時間たちだ。そして、これから先、お互いが年を取ってからの、いつもの宴会がどのようなものになるのかと、起こりえない未来に思いを巡らせた。  葬儀の会場に到着し、Tさんの奥さんと少しだけ話すことができた。奥さんから、今年のお正月の時点で、Tさんの病気が再発していたことを、そのとき僕は初めて聞かされる。奥さんが、「お正月どうする?井上君たちにきてもらう?」と聞いたところ、Tさんは、「うん、来てもらう。お正月やし、僕の病気が再発していることは、伏せておこう。」と言ったらしい。一体、どんな気持ちで、Tさんは、僕たちとのあの時間をすごしたのだろう。そのことを考えると、僕は、涙が止まらなかった。    

 1989年1月昭和天皇が崩御、6月天安門事件、11月にベルリンの壁が崩壊した。そして、11月松田優作が死去、12月には、今でも一番好きなバンド「ミュート・ビート」が解散した。僕の中で、何かが確実に終わった感じがした。「ミュート・ビート」のリーダー・小玉和文は、音楽の世界から突然消えてしまった。以前、インタビューで、「ミュート・ビート」を結成するまで、一度、音楽を諦めたことがあると聞いていた僕は、このまま小玉和文が、音楽を止めてしまうような気がしていた。 そして、1991年、ついに小玉和文が、重い腰を上げる。小玉和文は、「フィッシュマンズ」のデビューアルバム「Chappie,Don't Cry」のプロデュースを手掛けたのだ。僕はすぐにCDを買い、聞いた。しかし、「ミュート・ビート」の幻影を追い続けていた僕にとっては、少し物足りない作品だった。リーダーの佐藤伸治が描く世界観には、多少興味を示したが、次の作品を聞きたいとまでは思わなかった。
 それから時が経ち、僕は、仕事中にラジオから流れるある曲に出会う。まるで、往年の「コクトーツインズ」を思わせるようなイントロで始まるその曲「ナイトクルージング」は、歌が始まった瞬間に、すぐに佐藤伸治の声だと分かった。「フィッシュマンズ」だった。4年の間に、このバンドは進化し、デビュー時には欠けていたパンチのようなものが身についていた。僕は、久しぶりに音楽を聴いて興奮した。
 さらにそれから、2年後、1997年、神戸チキンジョージに「Rock Around Kobe」というイベントを観に行く。もちろん、「フィッシュマンズ」を観るためだ。すごいライブだった。間違いなく、僕が今まで観たライブの中で、5本の指に入る内容だった。原型を留めず、ズタズタに解体した「Go Go Round This World!」、40分近くに及ぶ「Long Season」、そして「ナイトクルージング」。どの曲の演奏も、いかれていた。ライブが終わり、僕の後ろで、エンジニアのZAKとその友人と思われる男との会話が聞こえた。
「やりすぎやで」
「そうかな~(笑)。」
 この会話は、この日のライブ中のZAKのダブ処理についてのものである。ほとんど原曲を無視したと思われるほどの、暴力的ともいえるダブミックスだった。 
「ミュート・ビート」を筆頭に、「フィッシュマンズ」等は、「ダブ」と呼ばれているジャンルの音楽に入る。「ダブ」というのは、ある一部のパート(ドラムやギターなど)に極端なディレイ処理を行うものである。Culture Clubの名曲「君は完璧さ」の編曲部分のエフェクト処理されたドラムを想像してもらったら分かりやすいと思う。この当時の音楽雑誌で、あるライターが、「フィッシュマンズ」についての記事を書いていた。「今、日本の音楽は、世界的に見ても、大変レベルの高いものである。テクノロジーとRockの融合に見事に成功した」。確か、このような内容だったと思う。僕もこの意見に同意する。
 しかし、1999年3月、リーダーの佐藤伸治が33才という若さで急死する。そのときのことはいまでもよく覚えている。その日、車を運転していて、無性にコーヒーが飲みたくなり、僕は、目についた喫茶店に入った。コーヒーを注文し終え、喫茶店に置かれていたスポーツ新聞の片隅に、「フィッシュマンズ佐藤伸治が死亡」と載っていた。僕は、その記事を読んでも特に驚かなかった。何となくこの結果が予想できたからだ。
 今振り返ってみると、僕が、「フィッシュマンズ」のライブを見ていたのは、1997年、1998年のわずか二年間に過ぎなかった。短い期間の割にどのライブも印象が強く、見るたびにそのクオリティがどんどん向上し、結果的に最後に観たライブでは、佐藤の存在が神々しくさえ映った。彼は、もうすでに、この世界から離脱しているように思えた。遺作となってしまった「ゆらめきIn The Air」は、そんな佐藤の心象風景を表現した、貴重な一曲だ。
 昨年、映画「フィッシュマンズ」が公開された。デビューから佐藤の死去までを、関係者の証言により構成したもので、そこに描かれているのは、佐藤の天才としての苦悩である。僕のような凡人には、天才の苦悩など想像すらできないが、天才には天才なりの苦悩が存在することがよく分かる。そんな苦悩が頂点に達した時期が、ちょうど僕が熱心にライブを見ていた時期と重なる。自分の才能を出し切った佐藤は、もう一度一からやり直すといっていた。彼の死去は、本当に残念でならない。
 佐藤が亡くなり、「フィッシュマンズ」は伝説となった。その後も、「フィッシュマンズ」は、このバンドを慕うミュージシャンを中心に、今も活動を継続している。何度か、現在の「フィッシュマンズ」を観に行ったが、僕よりもはるか年下の子たちが、演奏に合わせ、踊りながら歌詞を口ずさんでいる光景を目にすると、何だか不思議な感じがする。さらに、ウィキペディアによると、『アメリカの音楽レビューサイト「Rate Your Music」では「98.12.28 男達の別れ」が「top albums of all-time」において日本のアルバムとして最高位である18位に、また「Live」部門では1位にランクインしている。(2021年8月時点)』とのことで、当時、「心斎橋クラブクアトロ」で300人くらいの観客を相手に演奏していたことを思うと、とても感慨深い。
 そして、今回、「フィッシュマンズ」について、いろいろと調べているなかで、なにより驚いたのは、僕と佐藤が同い年だったことである。

 


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歌謡曲的風景

 地下鉄「本町」駅の構内で雑誌「BRUTUS」の広告が目に止まった。「歌謡曲特集」とある。実は、「BRUTUS」は、1996年に「歌謡曲´96」という特集を組んでいる。当時の日本の音楽シーンが、歌謡曲という言葉に代わり「J POP」となっていたので、その時代背景を考えれば、1996年に歌謡曲特集を組んだのはよく分かるが、なぜ、今さら、歌謡曲の特集かと思いながら、とりあえず、「BRUTUS」を買ってみた。パラパラと目を通してみると、最近、若い人たちの間で昭和歌謡が流行っているそうだ。蛇足だが、「BRUTUS 「歌謡曲´96」」は、沢田研二のインタビューを筆頭に、寄稿している一人にリリー・フランキーがいたり、「はっぴいえんど」コーナーがあったりと、とても充実した内容で、当時の雑誌が、まだ面白かったことを窺わせる。僕はこの「BRUTUS 「歌謡曲´96」」を即買いし、今でも僕の本棚に大切に保管されている。
 12才でFMラジオから流れてきたSEX PISTOLSの「ANARCHY IN THE UK」を聞くまでは、僕は、歌謡曲少年だった。テレビをつければ、ほぼ毎日、歌番組や歌謡バラエティーが放送されていて、僕は飽きることなくこれらの番組を見ていた。そんな歌謡曲少年だった僕が初めて覚えた「大人の歌」が「フランシーヌの場合」である。調べてみると、1969年6月に新谷のり子と言う人が歌い、ヒットした曲らしい。つまり僕は、この曲に3才10ケ月で出会ったことになるが、まさかその年齢で覚えたはずはなく、もちろん、新谷のり子という名前も顔も記憶はないので、きっと、その後に覚えたのだろうとは思うが、とにかく、自分の音楽遍歴を遡っていくと最終的にはこの曲に辿り着く。
 この曲は、パリで政治的抗議により自殺した一人の学生のことを題材にしたもので、当時の政治的に不安定な時代背景を反映した、極めて政治色の強いものである。そんな社会的な曲が、僕の音楽生活のスタートとは、自分でも意外な感じがする。
僕はこの曲を聞くと、今でも幼いころの心象風景が鮮やかに甦る。それは、一言で言えば、「貧しさ」である。
 当時、僕たち家族は、3Kの長屋に家族3人で住んでいた。家の前をドブ川が流れているため、時折悪臭が立ち込め、風通しも日当たりも悪い暗い家だった。トイレは汲み取り式で、辛うじてお風呂はあったものの、洗面所などあるはずもなく、台所で歯を磨き、顔を洗った。もちろん、エアコンなどあるはずもなく、夏の暑さ、冬の寒さが本当に身にしみた。また、当時子供の着ていたものなど、素材も悪かったため、夏の暑さ、冬の寒さに、更に拍車をかけた。時々、母の作る晩ご飯のメニューの少なさに、僕が不満げな態度を取ると、烈火の如く怒られた。それは、明らかに「叱って」いるのではなく、「怒って」いたのである。そんなことは、子供に言われるまでもなく、母親自身が、一番身に沁みて感じていたはずで、誰よりも母親が悔しかったに違いない。
 このように、僕の家は決して裕福ではなかった。しかし、僕のまわりを見渡せば、殆どどの家も同じようなものだった。皆が貧しかったのである。1969年といえば、歴史的には、高度経済成長期ということになるのだが、今から振り返ってみても、そんな実感は、全くと言っていいほどない。母は、近所のおばさんと、醤油やみその貸し借りをし、作りすぎたおかずを交換したりしていた。そんな時代だった。その貧しさは、言うまでもなく、日本が戦争に負けたことによるもので、僕が子供の時には、その傷跡が、まだ周辺には残っていた。
 子供のころ、僕は片足のないおじさんを町でよく見かけた。スラックスの右足部分の真中あたりから半分に折り曲げ、松葉杖をつきながら歩いているのを、何度も何度も見かけたものである。母に聞くと、戦争によるものだと教えてくれた。また、時々、母の買い物に連れられ繁華街へ出かけると、軍服を着たおじさんが、足元に金タライを置き、頭を下げながらお金を乞う光景を時々見かけた。戦争の残りかすは、あちらこちらに存在した。まだ、戦後は終わっていなかった。
 今、この曲を聞き直しても、夏の西日で充満されたあの長屋の二階の部屋のことや、歯をがくがく震わせながら、母と停留所でバスを待った真冬の寒い夜のことなど、あのときのあの体感をありありと感じ取ることができる。BRUTUSの中で、近田春夫は、「歌謡曲の基底を成す価値観は、「不幸せ」に対する被虐的な興奮。」といっている。「被虐的な興奮」という箇所には、多少の違和感を覚えるが、「赤いハイヒール」(@太田裕美)、「真夜中のギター」(@千賀かほる)など、僕の好きな歌謡曲の楽曲たちに共通している心象風景は、どれもこれも「不幸せ」とまでは言わないまでも、寂しさ、不安などネガティブなものが多いような気がする。
 僕は、この曲と出会ったことで、初めて「社会」と出会ったのかも知れない。だとすれば、この曲が社会的なものだったことは、ただの偶然ではないだろう。

 2015年3月、「村上ですが」というタイトルのメールが送られてきた。村上春樹本人からのものだった。
 2015年1月15日~5月13日、期間限定の質問・相談サイト「村上さんのところ」というサイトが設けられた。それは、読者からの質問に村上春樹が直接回答するという企画だった。その結果は、質問・相談メール総数 37,465通、村上春樹からの回答数 3,716通というもので、僕への返信は、その3,716通の内の一通だったということになる。僕の唯一といっていい自慢である。
 僕は、村上春樹に以下のような質問をした。
「 村上さんの作品、毎回楽しく拝見しています。僕にとって、村上さんは、発売日当日に本を購入する数少ない作家の一人です。村上さんにお聞きしたいことは、本当に山のようにあります。そんな中から、一番聞いてみたいことを、送らせていただきます。それは、これまでの村上作品において、最も多く使われている名詞は、「友だち」ではないでしょうか?僕は、別に研究者でもない、単なるファンの一人に過ぎず、正確に数を数えた訳ではありません。ただ、直感でそう思いました。この言葉に込められた意味を探ることで、村上作品の本質に少しでも近づけるような気がしてなりません。いかがでしょうか?」
 その答えについては、「ブログやTwitter、FacebookなどのSNS等へ転載することはご遠慮ください」と注意が促されてあったので、残念ながら公開することはできない。
 前置きが長くなったが、「ドライブ・マイ・カー」の話である。映画「ドライブ・マイ・カー」がアメリカの「ゴールデン・グローブ賞」を受賞した。「ゴールデン・グローブ賞」は、世界最高の権威とされるアカデミー賞の前哨戦といわれていて、日本の作品が受賞するのは、市川崑監督の「鍵」以来62年ぶりの快挙だそうだ。
 映画を観に行く前に、原作を読み返してみる。村上春樹らしい作品だった。「ドライブ・マイ・カー」では、「いなくなった妻」と「ともだち」と「主人公に関わっていく謎の女」といういつもの設定で話が進行する。村上春樹は、この人物設定を好んで使う。代表的なのは、僕が一番好きな初期の名作で「羊をめぐる冒険」である。「妻」と別れた「僕」は、「ガール・フレンド」と共に、「ともだち」の鼠を探しに北海道へ向かう。その他の作品についても、この基本構造をアレンジしたものが多いように思う。
 村上春樹は、読者からの質問にこう答えている。「48才で既婚で、友だちがいない。普通だと思いますよ。いなくてもとくに不自由ありませんよね?だったらそれで何の問題もありません。ちっとも気にすることありません。」(「村上さんのところ」P140)
 この発言からみると、村上春樹にとって「ともだち」というのが、それほど重要ではないことが分かる。では、なぜ、村上春樹は、「ともだち」、「妻」をよく採用するのだろう。
考えてみると、「ともだち」、「妻」は不思議な存在だ。どうしても必要かといえばそうでもないような気もするし、いないとなれば少し不安な気もする。
僕にも「ともだち」、「妻」は存在する。「ともだち」は、12才からのつきあいで、かれこれ45年も経つ。結婚したのが、1993年なので、その前の交際期間を加えると「妻」とも
30年以上のつきあいとなる。
 僕は「ともだち」の影響で、イギリスのロックに目覚めた。毎日学校に行けば、ロックとバカ話に明け暮れていた。僕は、音楽を足掛かりに、映画、文学への扉を次々に開いていった。彼がいなければ、今のこの自分は存在しないわけで、とても感謝している。すこし変てこな人間になってはしまったが...。12才~18才という精神的にも大変危うい時期に、そばに彼がいてくれたおかげで、とんでもなく愉快な毎日が送ることができ、同時に、今まで見聞きしたことのない「世界」を知ることができた。しかし、その「世界」は、「世界全体」からみれば、ごく一部でしかないことは、年を重ねるにつれ分かってくる。
 一方、そんな「狭い世界」から「大きな世界」へと目を向けさせてくれたのは、「妻」の存在が大きい。妻を通して、僕は初めて、焼いたお餅をお醤油とマヨネーズで食べることを知り、予備の歯磨き粉を何本もストックする習慣のある人がこの世に存在することを知った。いろんな人がいるものである。
 僕は、「ともだち」とは、「小さな世界」そのものであり、「妻」とは「大きな世界」とのブリッジだと考える。
「ドライブ・マイ・カー」の主人公、家福は、妻を失い、家福にとっての「大きな世界」は存在しなくなる。残されたのは「小さな世界」(=高槻)だけであるが、家福は、その「小さな世界」さえも失ってしまう。そんな家福は、浮遊(ドライブ)し始めるが、さらに、家福は緑内障の兆候が見つかり、車を運転することさえできなくなる。そんな折に、運転手として、みさきを雇うことになる。みさきへの要望は、ただひとつ。「運転の腕が確かなこと」。「世界」を失った家福を「世界」へと導くためには、正確な運転が必要とされたわけである。
 僕は、過去の村上春樹原作の映画では、「トニー滝谷」が一番好きだが、果たして「ドライブ・マイ・カー」は、どうだろうか。ワクワクしている。

落語のこと

 落語とは、最初の出会いがよくなかった。2005年1月、僕は、「高津宮」へ行った。毎年、この時期になると「高津宮」では、「とんど祭り」が開催されるのだが、僕の目的は、憂歌団の木村充揮のフリーライブを観ることだった。木村のライブは、予想をはるかに上回る素晴らしいもので、これがただでいいのだろうかと聞いている方が恐縮するような内容だった。ライブが終わり神社の中を、うろうろしていると、一枚のポスターが目に止まった。そこには桂文枝がいた。僕は、暇に任せ、文枝の「高津の冨」を聞くことにした。僕にとっては、初めての落語だった。高座にいたのは、若い頃テレビ番組「素人名人会」で観た小文枝ではなく、すっかり年を取った文枝だった。文枝の声には張りがなく、時々聞きづらい部分もあったりした。あとから知ったのだが、実は、この口演が文枝の最後のものだった。その約二か月後、文枝は肺がんで亡くなっていた。つまり、僕が初めて聞いた落語は、文枝の最後の口演だったのである。文枝の落語は、当時の大阪の夜の街の雰囲気がリアルに体現できるようなもので、なんとも艶があり、一体この色気は、どこから出てくるものなのかと落語というものに非常に興味を持った。それから、何度か寄席に足を運び、いくつかの落語を聞いたが、どれもこれも、僕には、ピンとこないものばかりだった。文枝のような、色気はどの落語にも感じられなかった。僕は、そのとき、落語というのは、「老人芸」なんだと思った。思えば、若い頃から、浴びるように聞いてきたイギリスのロックは、いわば「若者芸」と言えるわけで、落語はその対極に位置していて、僕がその魅力に惹かれたのも、分かりやすい話ではある。しかし、文枝で「落語デビュー」した僕は、その後、落語から遠ざかってしまった。最初に食べたのが、極上のフレンチのようなもので、その後何を食べても美味しくないというのは、なんとも不幸なことである。
 それから17年の時を経て、ある落語家の落語を体験する。「桂二葉」だった。二葉は、女性として初めてNHK新人落語大賞を受賞し、何より内田先生の一押しの落語家だった。先日、凱風館寄席で、二葉の口演を拝聴し、最初は彼女の甲高い声に少し違和感を覚えたが、聞いているうちに気にならなくなり、むしろ、その声で演じる「こども」が愛しく思えてきた。文枝のような色気はなかったが、二葉の落語には、文枝にはない疾走感があり、それもある瞬間からハイスピードになっていくのが、新鮮に思えた。新しかった。普段着の二葉は、大変おしゃれな方で、コムデギャルソン(おそらく)の服を着、ドクターマーチンの靴を履くセンスに僕は共感を覚え、彼女の落語の持っている疾走感は、ロックが通底しているように勝手に妄想している。
 二葉は、「アホ」に激しくこだわり、そのまなざしは、どこまでもやさしい。その「アホ」の象徴は、「男の子」として、しばしば二葉の落語に登場する。元「男の子」として思うのだが、「男の子」ほど「アホ」な存在は、この世に存在しないのではないだろうか。アホの順番でいくと、男の子>男>女といったところだろう。
 自分の子供時代のことを振り返ってみても、「アホ」のオンパレードである。実家に初めて電話が設置され、唯一知っている電話番号「110」に電話をかけ、びっくりしてすぐに電話を切ると、警察からすぐに電話がかかってきて、母親に激怒されたこと。森進一の代表曲「襟裳岬」の歌詞の中で「遠慮はいらないから~♪」という箇所を「燃料はいらないから~♪」とずっと信じていて、何とも世知辛い歌だなと思っていたことなど、あげればきりがない。
 二葉は、こんな「アホな男」が大好きである。凱風館寄席で、二葉の落語を拝聴し、その後、繁昌亭で「桂二葉NHK新人落語大賞受賞記念ウィーク」を観に行った。共演する落語家は、さすが二葉セレクトによるもので、どの落語も大変面白かったのが、とりわけ二葉が愛してやまない「笑福亭仁福」は、抱腹絶倒という言葉しか思いつかない、そんな存在だ。仁福は、仁鶴の二番弟子で、御年72才である。仁福の落語は、虚実をないまぜにしたもので、ネタとその場の思いつきがぐちゃぐちゃに混じり合い、ときには客席をいじるという飛び道具も使うなど、およそ落語とは呼べないものかもしれないが、とにかく仁福の「アホ」ぶりがいい。二葉も「仁福師匠の落語はスカスカ」と言い放っているが、二葉はそんな仁福を「桂二葉NHK新人落語大賞受賞記念ウィーク」の全公演に唯一出演させている。
 繁昌亭に行き始めて気付いたことがある。それは、寄席というのは、大変気軽に行けるものだということ、そして、客の大半が、老人だらけだということである。しかも殆どは、おじいさん。そんな観客に混じって僕は、「若手」なのかもしれないが、こんな年寄りの世界も悪くないなと思い始めている。そんなことを思いながら、僕は、「仁福の会」をスマホで予約した。