2023年のお正月
あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
お正月を迎え、ふと思ったことについて書いてみる。
2022年大晦日、寝る前にトイレで用を足している最中にふとこのように思った。
「これからは、できるだけ美しいものとだけとともに生きていこう。」
ソファに戻り、早速本棚から「陰翳礼讃」(@谷崎潤一郎)を読み出す自分の浅薄なところが、少し気になるところではあるが。
「また大層な話を~」、「どうせ酔っぱらってただけじゃないの~」というような声がたくさん聞こえてきそうだが、僕は、12月28日にコロナに罹り、それからアルコールは一口も口にしていない。
「いやいや、コロナで体調が悪かっただけじゃないの~」という声も聞こえてきそうであるが、幸いにも発熱で辛かったのは、28日一日ぐらいで、大晦日には、完全に平熱に戻っていた。つまり、極めて素面の頭に思い浮かんだ「思い」なのである。
2021年初夏、映画「アメリカン・ユートピア」を映画館で観た。本作は、デビッド・バーンによるブロードウェーでのライブを、スパイク・リーが監督したもの。前評判もすこぶるよく、僕の周りでの評価も高かった。出不精な僕は、大阪での上映が終了するその週に、重い腰を上げ、仕事帰りに、なんばの映画館で本作を観た。デビッド・バーンと言えば、僕らの世代では、「トーキングヘッズ」のリーダーとして認知されているが、やはり、観客は、僕ら世代が中心なのかなと思い、開演前の劇場を見渡してみたが、客層はバラバラだった。隣のおばさんを除いては...。このライブの大きな特徴は、舞台上には、ドラムセットもギターアンプもマイクスタンドも何もないので、総勢11人のミュージシャンたちが舞台の上を自由自在に動きまわりながら演奏することである。舞台の前から後ろへ、右から左へ、あるいは、全員が一列となって時計の針のようにぐるぐる回ったりとする。そう、彼らは、常に動きながら楽器を奏で、歌を歌うのである。そして見事なまでに、全員の呼吸がぴたっと一体となっているのがよく分かる。
「自由」を煎じ詰めたその先にあったのは、なんと「完全な調和」だったのである。僕は、そのあまりの完全な調和に言葉を失った。横のおばさんが、同じことを感じ取っていたのかは知る由もないが、今にも立ち上がって踊り出しそうな勢いでイスに座りながら体を揺らせていた。
映画が終わり、生暖かい空気のなか、映画館からなんば駅に向かいながら、僕は、大変気分がよかった。まるで、体中が音楽という何かとてつもない大きな力に包み込まれているような気がした。これまでに、音楽のライブはたくさん観てきたが、「こんな気持ち」は、初めてだった。僕は、この時間がこのまま永遠に続いてほしいと心底思ったのである。
そして、この日以来、僕のなかでおこった「こんな気持ち」は、いったい何だろうとずっと考えていた。
その答えが、1年半を経て、冒頭の「これからは、できるだけ美しいものだけとともに生きていこう。」である。答えが見つかった。
僕は、この答えについてもっと深く知りたくなり、元旦に本棚から一冊の本を取り出した。「人はなぜ「美しい」がわかるのか」(@橋本治)である。自分でいうのもなんだが、こういうときの自分の直感を僕は信用している。
橋本治によると、この世には、「美しいがわかる人」と「美しいがわからない人」がいる。人は、「美しい」に出あうと、思考停止、判断停止に陥る。それが嫌な人は、「美しい」がどういうことかを分からなくすればいい。しかし、このことは、「わかることはわかる」の理解能力はあって、「わからないことをわかる」の類推能力は育たない。
また、「美しいがわかる人」は敗者で、勝者になりたかったら「美しいが分からない」を選択しなければならない、どういうわけか、世の中はそうなっている。
僕なんぞにいわれる筋合いは、まったくないのだろうけれど、橋本治という人は、本当に賢い。この世にすでにいないことが残念でしかたがない。
「アメリカン・ユートピア」を観たあの夜、僕は間違いなく幸せだった。あのような瞬間は、これから数えるほどしかないのかもしれないが、それに近いような、ちょっとした時間というのはあるもので、僕は、そういう時間をこれからもずっと大切にしていきたい。
正月早々、こんなことを思ったのには、もうひとつ理由がある。
僕たち夫婦は、昨年12月28日、二人そろってコロナに罹ってしまった。幸いにも高熱に悩まされたのは、僕の場合は、28日当日ぐらいのものだったのだが、嫁さんの合気道仲間が、次々と差し入れを届けてくれた。年末の忙しいときに、寒空のなか、そのためだけに、わざわざ我が家まで足を運んでくれたのである。僕は、彼らがもって来てくれた、「たまごがゆ」(レトルト)、「カレーヌードル」、「カキ」をたべながら、「なんかいいなぁ~」と思ったのである。