僕の撤退論

 内田先生が編集された「撤退論」を読む。内田先生を筆頭に豪華な執筆陣で、各執筆者がご自身にとっての「撤退」について言及されていて、とても興味深く読ませていただいた。なかでも、同じビジネスマンとして、平川克美さんの「極私的撤退論」と、想田和弘さんの「文明の時間から撤退し、自然の時間を生きる」に、特に興味をそそられた。そこで、僕にとっての「撤退」について考えてみることにした。  僕の生まれ育った町は大阪空港の近くで、飛行機が飛ぶたびに、小学校の校庭にその大きな影が映るほどの高さで飛行する、騒音の町として有名なところだった。住民の大半は、肉体労働者で、お世辞にも上品という言葉からは程遠く、その当時、地元の中学校には、ヤンキーがうようよといた。そんな状況を危惧して、両親は、僕を小学校5年生から進学塾に通わせ、当時としては、まだ珍しい中学受験という方向へ僕を導いた。その結果、僕は、「進学校」に入学することになる。その学校は、毎朝8時30分から8時50分まで、「20分テスト」という試験を実施し、毎週、クラスでの席次が、親に発表されるというシステムを採用していた。「日本で一番試験の多い学校」と、教師も自嘲気味に言う、そんな学校に、僕は6年間通った。つまり、僕は、小学校5年から高校3年までの8年間、試験漬けだったわけである。そんな厳しい環境のなかでも、高校一年生までは、何とかいい成績を維持できたのだが、その後は、ボブ・ディランの名曲Like a rolling sone のごとく、転がるように成績が落ちていった。  なにより学力が追い付かなくなったというのが一番の原因ではあるが、高校生一年生の僕は、競争から「降りる」ことにした。僕は、子どものころから、人と競争するのが苦手だった。意外と負けず嫌いのところもあり、人に負けるのは気分の悪いものだが、だからといって、勝ったところで、それほど気分のいいものでもなかった。勝ったあとの居心地の悪さが、僕はいやだった。そんな性格の僕が、競争という弱肉強食の世界に、小学校5年生から足を踏み入れてしまったのである。いったん、競争の世界に放りこまれた僕は、勉強のコツのようなものを会得し、面白いように成績がよくなった。入塾した時点では、Bクラスだったのだが、すぐにAクラスに上がると同時にに上位グループに入りこむようになった。そんな僕は、結果にこだわり始めた。別に常に一番でいたいなどという強い気持ちはなかったが、自分で設けたポジションを下回ることは絶対に許せなかった。しかし、高校生一年生の夏休み、僕は思った。「採点された答案用紙を教師から受け取るときにはドキドキし、成績の結果に一喜一憂する。このことに一体どれほどの意味があるのか?むしろ、浴びるように聞いている音楽に本質のようなものがあるのではないか?」と。   そんな思いは、日に日に増していった。一旦そのように思いだすと、生来の競争嫌いの側面がむくむくと顔をもたげ始めた。その後、好きなミュージシャンがインタビューで話していた「ヌーベルバーグ」を中心にヨーロッパの映画を見始める。そのころ聞いていた音楽は、イギリスの「New Wave」と呼ばれるもので、今聞き返すと陳腐な感じがしなくもないが、なんでもありで、とにかくその自由なところに僕は魅了された。映画も同様だった。入口は、フランスの「ヌーベルバーグ」(言うまでもないが、「New Wave」のフランス語訳。)だったが、こちらも音楽の「New Wave」と同じような自由さがあった。こんな自由な世界があることに、僕は驚くと同時に強いあこがれをいだいた。僕は、競争で充ち溢れた世界に、ほとほと嫌気がさしていた。いったん、そのような世界を知ってしまった僕は、完全に、「そちらの住人」となり、現在にまで至る。そんな僕は、会社で少し浮いている。ゴルフをせず、上司へのおべんちゃらも言わず、オリンピックや大阪万博に否定的で、れいわ新選組の街頭演説を聞きに行ったりと、まわりからは少し奇異な目で見られている。どれもこれも、僕が、「そちらの住人」であるためである。  村上龍が、あるインタビューで、小説を書く理由を尋ねられ、「システムに対する憎悪のようなものが自分にはあって、そのシステムを破壊するために小説を書いている。」というようなことを言っていた。また、冒険家の角幡唯介も「システムから逃避するために、冒険を続けている。」と言っている。僕が、嫌悪しているのも、システムが象徴するような何かなんだろうと思う。  さて、今年の8月で僕は57才になる。あと3年で定年を迎える。偉そうに、競争の世界から降りただの、システムを嫌悪しているだのと言ってきたが、結局、文句を言いながらも、サラリーマン生活をずっと続けてきた。なんとも情けない話である。  60才になれば、自分が嫌悪しているシステムの外に出たいと思っている。それが、僕にとっての「撤退」となるわけだが、それが一体どんな世界なのか、今から楽しみだ。    

兄のような人

 僕には、兄がいた。「いた」という風に過去形で書いているのは、今はもういないからである。もう少し正確に言えば、僕はその兄に会ったことさえない。兄は、僕が生まれる前に、交通事故で亡くなっている。僕は、兄のことを生前の写真や母が語る「物語」の中でしか知らない。  僕は、時折、周りの人に長男に特有な性格を指摘される。それは、変な責任感のようなものを自分で勝手に背負い込み、その結果、周りの人に対して横柄に見えることがよくあるらしい。本人には、まったくその自覚がない。困ったものである。もし、兄が生きていたなら、この長男的な性格から解放され、どんな風な人間になっていたのだろうと、兄という存在が僕に与えただろう影響について、僕はしばしば夢想する。今と同じような人間になっていたのか、あるいは、全然違う人格になっていたのか。しかし、それはどんな風に夢想してみたところで、全く現実感を伴わなかった。僕は、兄の存在を体現してみたかった。  Tさんとの出会いは、今から約30年ほど前の1988年にまで遡る。僕の嫁さんと、Tさんの嫁さんが友だちで、僕たちは彼女たちを介して出会った。よくある「彼氏」を互いに紹介するというものだ。嫁さんたちは仲がいいのに、その彼氏、旦那とは、馬が合わないというのは、世間にはよくある話だが、僕たちは違った。なぜか、Tさんは僕のことを気に入ってくれたようで、Tさんが結婚したころぐらいから、僕たちは、嫁さんたち抜きで、「差し」で会ったりするようになった。男兄弟のいないTさんは、3才年下の僕のことを可愛がってくれた。それは、ともだちでもなく、後輩でもなく、まるで「弟」のようにだった。僕は僕で、兄のことを妄想しながら、「兄」のようにTさんに接した。僕たちはよく酒を飲みながら延々とくだらない話をし、笑い転げた。Tさんはサーファーで、好きな音楽といえば、アメリカの西海岸のロック。一方、僕はといえば、高橋幸宏と村上春樹が好きで、映画「レオン」を見ては何度も涙を流す。そんな二人に共通点と呼べるようなものは、殆どいっていいぐらいなかった。それでも、僕たちは馬が合った。特に、僕は、Tさんが話すサーフィンの話が好きだった。彼が高校生の頃、雑誌「POPYE」でサーフィンのことを知り、ジェリー・ロペスの真似をして、毎朝グレープフルーツを食べたいと母親にねだったところ、あまりに高価なため、即効で断られたこと。当時、波乗りに行くときには、マーキー谷口がDJを務めるラジオ番組から、波の情報を入手していたこと。どの話も、僕にとっては、新鮮なものだった。Tさんは、新しいものが大好きなミーハーだった。そして、そのミーハーぶりは、どこかかわいらしかった。  本当なら、年下の僕の方が、連絡をして食事を誘ったりするのが普通なのだろうが、人に甘える術を知らない僕が連絡しないことをよく知っているTさんは、いつも絶妙なタイミングで、僕を食事や旅行に誘ってくれた。また、機会があるたびに、Tさんの仲間に僕を紹介してくれた。いつも受け身でいられる、そんな状態は、僕にとっては大変心地よいもので、そんな彼とのやり取りを通して、僕は、初めてリアルな「兄」のような存在を感じることができた。兄は、死んでもうこの世には存在しないが、「兄」は生きていたのである。僕は、Tさんといる間だけ、「弟」になることができた。  そんなTさんが、この世から突然いなくなった。2022年4月18日未明、3年8ケ月の長い闘病生活は終わった。二度にわたる骨髄移植は、成功しなかった。その闘病がいかに過酷なものだったのかは、今年のお正月に2年ぶりに再会したときの彼の顔をみれば、一目瞭然だった。結果的に、そのお正月でのいつもの会食が、最後にTさんと会った日になってしまった。  僕は、お通夜へと向かう電車の中で、Tさんと過ごしたたくさんの時間のことを振り返った。初めて会った大阪ミューズホールでのスカパラのライブ。神戸ユニバーシアードで観た、日韓ワールドカップ、「ナイジェリア対スウェーデン」の試合。ある時期、毎年GWになると出かけた中村市と四万十川。そして、毎年恒例となったお正月の会食。どれもこれも僕にとってはかけがえのない大切な時間たちだ。そして、これから先、お互いが年を取ってからの、いつもの宴会がどのようなものになるのかと、起こりえない未来に思いを巡らせた。  葬儀の会場に到着し、Tさんの奥さんと少しだけ話すことができた。奥さんから、今年のお正月の時点で、Tさんの病気が再発していたことを、そのとき僕は初めて聞かされる。奥さんが、「お正月どうする?井上君たちにきてもらう?」と聞いたところ、Tさんは、「うん、来てもらう。お正月やし、僕の病気が再発していることは、伏せておこう。」と言ったらしい。一体、どんな気持ちで、Tさんは、僕たちとのあの時間をすごしたのだろう。そのことを考えると、僕は、涙が止まらなかった。    

 1989年1月昭和天皇が崩御、6月天安門事件、11月にベルリンの壁が崩壊した。そして、11月松田優作が死去、12月には、今でも一番好きなバンド「ミュート・ビート」が解散した。僕の中で、何かが確実に終わった感じがした。「ミュート・ビート」のリーダー・小玉和文は、音楽の世界から突然消えてしまった。以前、インタビューで、「ミュート・ビート」を結成するまで、一度、音楽を諦めたことがあると聞いていた僕は、このまま小玉和文が、音楽を止めてしまうような気がしていた。 そして、1991年、ついに小玉和文が、重い腰を上げる。小玉和文は、「フィッシュマンズ」のデビューアルバム「Chappie,Don't Cry」のプロデュースを手掛けたのだ。僕はすぐにCDを買い、聞いた。しかし、「ミュート・ビート」の幻影を追い続けていた僕にとっては、少し物足りない作品だった。リーダーの佐藤伸治が描く世界観には、多少興味を示したが、次の作品を聞きたいとまでは思わなかった。
 それから時が経ち、僕は、仕事中にラジオから流れるある曲に出会う。まるで、往年の「コクトーツインズ」を思わせるようなイントロで始まるその曲「ナイトクルージング」は、歌が始まった瞬間に、すぐに佐藤伸治の声だと分かった。「フィッシュマンズ」だった。4年の間に、このバンドは進化し、デビュー時には欠けていたパンチのようなものが身についていた。僕は、久しぶりに音楽を聴いて興奮した。
 さらにそれから、2年後、1997年、神戸チキンジョージに「Rock Around Kobe」というイベントを観に行く。もちろん、「フィッシュマンズ」を観るためだ。すごいライブだった。間違いなく、僕が今まで観たライブの中で、5本の指に入る内容だった。原型を留めず、ズタズタに解体した「Go Go Round This World!」、40分近くに及ぶ「Long Season」、そして「ナイトクルージング」。どの曲の演奏も、いかれていた。ライブが終わり、僕の後ろで、エンジニアのZAKとその友人と思われる男との会話が聞こえた。
「やりすぎやで」
「そうかな~(笑)。」
 この会話は、この日のライブ中のZAKのダブ処理についてのものである。ほとんど原曲を無視したと思われるほどの、暴力的ともいえるダブミックスだった。 
「ミュート・ビート」を筆頭に、「フィッシュマンズ」等は、「ダブ」と呼ばれているジャンルの音楽に入る。「ダブ」というのは、ある一部のパート(ドラムやギターなど)に極端なディレイ処理を行うものである。Culture Clubの名曲「君は完璧さ」の編曲部分のエフェクト処理されたドラムを想像してもらったら分かりやすいと思う。この当時の音楽雑誌で、あるライターが、「フィッシュマンズ」についての記事を書いていた。「今、日本の音楽は、世界的に見ても、大変レベルの高いものである。テクノロジーとRockの融合に見事に成功した」。確か、このような内容だったと思う。僕もこの意見に同意する。
 しかし、1999年3月、リーダーの佐藤伸治が33才という若さで急死する。そのときのことはいまでもよく覚えている。その日、車を運転していて、無性にコーヒーが飲みたくなり、僕は、目についた喫茶店に入った。コーヒーを注文し終え、喫茶店に置かれていたスポーツ新聞の片隅に、「フィッシュマンズ佐藤伸治が死亡」と載っていた。僕は、その記事を読んでも特に驚かなかった。何となくこの結果が予想できたからだ。
 今振り返ってみると、僕が、「フィッシュマンズ」のライブを見ていたのは、1997年、1998年のわずか二年間に過ぎなかった。短い期間の割にどのライブも印象が強く、見るたびにそのクオリティがどんどん向上し、結果的に最後に観たライブでは、佐藤の存在が神々しくさえ映った。彼は、もうすでに、この世界から離脱しているように思えた。遺作となってしまった「ゆらめきIn The Air」は、そんな佐藤の心象風景を表現した、貴重な一曲だ。
 昨年、映画「フィッシュマンズ」が公開された。デビューから佐藤の死去までを、関係者の証言により構成したもので、そこに描かれているのは、佐藤の天才としての苦悩である。僕のような凡人には、天才の苦悩など想像すらできないが、天才には天才なりの苦悩が存在することがよく分かる。そんな苦悩が頂点に達した時期が、ちょうど僕が熱心にライブを見ていた時期と重なる。自分の才能を出し切った佐藤は、もう一度一からやり直すといっていた。彼の死去は、本当に残念でならない。
 佐藤が亡くなり、「フィッシュマンズ」は伝説となった。その後も、「フィッシュマンズ」は、このバンドを慕うミュージシャンを中心に、今も活動を継続している。何度か、現在の「フィッシュマンズ」を観に行ったが、僕よりもはるか年下の子たちが、演奏に合わせ、踊りながら歌詞を口ずさんでいる光景を目にすると、何だか不思議な感じがする。さらに、ウィキペディアによると、『アメリカの音楽レビューサイト「Rate Your Music」では「98.12.28 男達の別れ」が「top albums of all-time」において日本のアルバムとして最高位である18位に、また「Live」部門では1位にランクインしている。(2021年8月時点)』とのことで、当時、「心斎橋クラブクアトロ」で300人くらいの観客を相手に演奏していたことを思うと、とても感慨深い。
 そして、今回、「フィッシュマンズ」について、いろいろと調べているなかで、なにより驚いたのは、僕と佐藤が同い年だったことである。

 


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歌謡曲的風景

 地下鉄「本町」駅の構内で雑誌「BRUTUS」の広告が目に止まった。「歌謡曲特集」とある。実は、「BRUTUS」は、1996年に「歌謡曲´96」という特集を組んでいる。当時の日本の音楽シーンが、歌謡曲という言葉に代わり「J POP」となっていたので、その時代背景を考えれば、1996年に歌謡曲特集を組んだのはよく分かるが、なぜ、今さら、歌謡曲の特集かと思いながら、とりあえず、「BRUTUS」を買ってみた。パラパラと目を通してみると、最近、若い人たちの間で昭和歌謡が流行っているそうだ。蛇足だが、「BRUTUS 「歌謡曲´96」」は、沢田研二のインタビューを筆頭に、寄稿している一人にリリー・フランキーがいたり、「はっぴいえんど」コーナーがあったりと、とても充実した内容で、当時の雑誌が、まだ面白かったことを窺わせる。僕はこの「BRUTUS 「歌謡曲´96」」を即買いし、今でも僕の本棚に大切に保管されている。
 12才でFMラジオから流れてきたSEX PISTOLSの「ANARCHY IN THE UK」を聞くまでは、僕は、歌謡曲少年だった。テレビをつければ、ほぼ毎日、歌番組や歌謡バラエティーが放送されていて、僕は飽きることなくこれらの番組を見ていた。そんな歌謡曲少年だった僕が初めて覚えた「大人の歌」が「フランシーヌの場合」である。調べてみると、1969年6月に新谷のり子と言う人が歌い、ヒットした曲らしい。つまり僕は、この曲に3才10ケ月で出会ったことになるが、まさかその年齢で覚えたはずはなく、もちろん、新谷のり子という名前も顔も記憶はないので、きっと、その後に覚えたのだろうとは思うが、とにかく、自分の音楽遍歴を遡っていくと最終的にはこの曲に辿り着く。
 この曲は、パリで政治的抗議により自殺した一人の学生のことを題材にしたもので、当時の政治的に不安定な時代背景を反映した、極めて政治色の強いものである。そんな社会的な曲が、僕の音楽生活のスタートとは、自分でも意外な感じがする。
僕はこの曲を聞くと、今でも幼いころの心象風景が鮮やかに甦る。それは、一言で言えば、「貧しさ」である。
 当時、僕たち家族は、3Kの長屋に家族3人で住んでいた。家の前をドブ川が流れているため、時折悪臭が立ち込め、風通しも日当たりも悪い暗い家だった。トイレは汲み取り式で、辛うじてお風呂はあったものの、洗面所などあるはずもなく、台所で歯を磨き、顔を洗った。もちろん、エアコンなどあるはずもなく、夏の暑さ、冬の寒さが本当に身にしみた。また、当時子供の着ていたものなど、素材も悪かったため、夏の暑さ、冬の寒さに、更に拍車をかけた。時々、母の作る晩ご飯のメニューの少なさに、僕が不満げな態度を取ると、烈火の如く怒られた。それは、明らかに「叱って」いるのではなく、「怒って」いたのである。そんなことは、子供に言われるまでもなく、母親自身が、一番身に沁みて感じていたはずで、誰よりも母親が悔しかったに違いない。
 このように、僕の家は決して裕福ではなかった。しかし、僕のまわりを見渡せば、殆どどの家も同じようなものだった。皆が貧しかったのである。1969年といえば、歴史的には、高度経済成長期ということになるのだが、今から振り返ってみても、そんな実感は、全くと言っていいほどない。母は、近所のおばさんと、醤油やみその貸し借りをし、作りすぎたおかずを交換したりしていた。そんな時代だった。その貧しさは、言うまでもなく、日本が戦争に負けたことによるもので、僕が子供の時には、その傷跡が、まだ周辺には残っていた。
 子供のころ、僕は片足のないおじさんを町でよく見かけた。スラックスの右足部分の真中あたりから半分に折り曲げ、松葉杖をつきながら歩いているのを、何度も何度も見かけたものである。母に聞くと、戦争によるものだと教えてくれた。また、時々、母の買い物に連れられ繁華街へ出かけると、軍服を着たおじさんが、足元に金タライを置き、頭を下げながらお金を乞う光景を時々見かけた。戦争の残りかすは、あちらこちらに存在した。まだ、戦後は終わっていなかった。
 今、この曲を聞き直しても、夏の西日で充満されたあの長屋の二階の部屋のことや、歯をがくがく震わせながら、母と停留所でバスを待った真冬の寒い夜のことなど、あのときのあの体感をありありと感じ取ることができる。BRUTUSの中で、近田春夫は、「歌謡曲の基底を成す価値観は、「不幸せ」に対する被虐的な興奮。」といっている。「被虐的な興奮」という箇所には、多少の違和感を覚えるが、「赤いハイヒール」(@太田裕美)、「真夜中のギター」(@千賀かほる)など、僕の好きな歌謡曲の楽曲たちに共通している心象風景は、どれもこれも「不幸せ」とまでは言わないまでも、寂しさ、不安などネガティブなものが多いような気がする。
 僕は、この曲と出会ったことで、初めて「社会」と出会ったのかも知れない。だとすれば、この曲が社会的なものだったことは、ただの偶然ではないだろう。

 2015年3月、「村上ですが」というタイトルのメールが送られてきた。村上春樹本人からのものだった。
 2015年1月15日~5月13日、期間限定の質問・相談サイト「村上さんのところ」というサイトが設けられた。それは、読者からの質問に村上春樹が直接回答するという企画だった。その結果は、質問・相談メール総数 37,465通、村上春樹からの回答数 3,716通というもので、僕への返信は、その3,716通の内の一通だったということになる。僕の唯一といっていい自慢である。
 僕は、村上春樹に以下のような質問をした。
「 村上さんの作品、毎回楽しく拝見しています。僕にとって、村上さんは、発売日当日に本を購入する数少ない作家の一人です。村上さんにお聞きしたいことは、本当に山のようにあります。そんな中から、一番聞いてみたいことを、送らせていただきます。それは、これまでの村上作品において、最も多く使われている名詞は、「友だち」ではないでしょうか?僕は、別に研究者でもない、単なるファンの一人に過ぎず、正確に数を数えた訳ではありません。ただ、直感でそう思いました。この言葉に込められた意味を探ることで、村上作品の本質に少しでも近づけるような気がしてなりません。いかがでしょうか?」
 その答えについては、「ブログやTwitter、FacebookなどのSNS等へ転載することはご遠慮ください」と注意が促されてあったので、残念ながら公開することはできない。
 前置きが長くなったが、「ドライブ・マイ・カー」の話である。映画「ドライブ・マイ・カー」がアメリカの「ゴールデン・グローブ賞」を受賞した。「ゴールデン・グローブ賞」は、世界最高の権威とされるアカデミー賞の前哨戦といわれていて、日本の作品が受賞するのは、市川崑監督の「鍵」以来62年ぶりの快挙だそうだ。
 映画を観に行く前に、原作を読み返してみる。村上春樹らしい作品だった。「ドライブ・マイ・カー」では、「いなくなった妻」と「ともだち」と「主人公に関わっていく謎の女」といういつもの設定で話が進行する。村上春樹は、この人物設定を好んで使う。代表的なのは、僕が一番好きな初期の名作で「羊をめぐる冒険」である。「妻」と別れた「僕」は、「ガール・フレンド」と共に、「ともだち」の鼠を探しに北海道へ向かう。その他の作品についても、この基本構造をアレンジしたものが多いように思う。
 村上春樹は、読者からの質問にこう答えている。「48才で既婚で、友だちがいない。普通だと思いますよ。いなくてもとくに不自由ありませんよね?だったらそれで何の問題もありません。ちっとも気にすることありません。」(「村上さんのところ」P140)
 この発言からみると、村上春樹にとって「ともだち」というのが、それほど重要ではないことが分かる。では、なぜ、村上春樹は、「ともだち」、「妻」をよく採用するのだろう。
考えてみると、「ともだち」、「妻」は不思議な存在だ。どうしても必要かといえばそうでもないような気もするし、いないとなれば少し不安な気もする。
僕にも「ともだち」、「妻」は存在する。「ともだち」は、12才からのつきあいで、かれこれ45年も経つ。結婚したのが、1993年なので、その前の交際期間を加えると「妻」とも
30年以上のつきあいとなる。
 僕は「ともだち」の影響で、イギリスのロックに目覚めた。毎日学校に行けば、ロックとバカ話に明け暮れていた。僕は、音楽を足掛かりに、映画、文学への扉を次々に開いていった。彼がいなければ、今のこの自分は存在しないわけで、とても感謝している。すこし変てこな人間になってはしまったが...。12才~18才という精神的にも大変危うい時期に、そばに彼がいてくれたおかげで、とんでもなく愉快な毎日が送ることができ、同時に、今まで見聞きしたことのない「世界」を知ることができた。しかし、その「世界」は、「世界全体」からみれば、ごく一部でしかないことは、年を重ねるにつれ分かってくる。
 一方、そんな「狭い世界」から「大きな世界」へと目を向けさせてくれたのは、「妻」の存在が大きい。妻を通して、僕は初めて、焼いたお餅をお醤油とマヨネーズで食べることを知り、予備の歯磨き粉を何本もストックする習慣のある人がこの世に存在することを知った。いろんな人がいるものである。
 僕は、「ともだち」とは、「小さな世界」そのものであり、「妻」とは「大きな世界」とのブリッジだと考える。
「ドライブ・マイ・カー」の主人公、家福は、妻を失い、家福にとっての「大きな世界」は存在しなくなる。残されたのは「小さな世界」(=高槻)だけであるが、家福は、その「小さな世界」さえも失ってしまう。そんな家福は、浮遊(ドライブ)し始めるが、さらに、家福は緑内障の兆候が見つかり、車を運転することさえできなくなる。そんな折に、運転手として、みさきを雇うことになる。みさきへの要望は、ただひとつ。「運転の腕が確かなこと」。「世界」を失った家福を「世界」へと導くためには、正確な運転が必要とされたわけである。
 僕は、過去の村上春樹原作の映画では、「トニー滝谷」が一番好きだが、果たして「ドライブ・マイ・カー」は、どうだろうか。ワクワクしている。

落語のこと

 落語とは、最初の出会いがよくなかった。2005年1月、僕は、「高津宮」へ行った。毎年、この時期になると「高津宮」では、「とんど祭り」が開催されるのだが、僕の目的は、憂歌団の木村充揮のフリーライブを観ることだった。木村のライブは、予想をはるかに上回る素晴らしいもので、これがただでいいのだろうかと聞いている方が恐縮するような内容だった。ライブが終わり神社の中を、うろうろしていると、一枚のポスターが目に止まった。そこには桂文枝がいた。僕は、暇に任せ、文枝の「高津の冨」を聞くことにした。僕にとっては、初めての落語だった。高座にいたのは、若い頃テレビ番組「素人名人会」で観た小文枝ではなく、すっかり年を取った文枝だった。文枝の声には張りがなく、時々聞きづらい部分もあったりした。あとから知ったのだが、実は、この口演が文枝の最後のものだった。その約二か月後、文枝は肺がんで亡くなっていた。つまり、僕が初めて聞いた落語は、文枝の最後の口演だったのである。文枝の落語は、当時の大阪の夜の街の雰囲気がリアルに体現できるようなもので、なんとも艶があり、一体この色気は、どこから出てくるものなのかと落語というものに非常に興味を持った。それから、何度か寄席に足を運び、いくつかの落語を聞いたが、どれもこれも、僕には、ピンとこないものばかりだった。文枝のような、色気はどの落語にも感じられなかった。僕は、そのとき、落語というのは、「老人芸」なんだと思った。思えば、若い頃から、浴びるように聞いてきたイギリスのロックは、いわば「若者芸」と言えるわけで、落語はその対極に位置していて、僕がその魅力に惹かれたのも、分かりやすい話ではある。しかし、文枝で「落語デビュー」した僕は、その後、落語から遠ざかってしまった。最初に食べたのが、極上のフレンチのようなもので、その後何を食べても美味しくないというのは、なんとも不幸なことである。
 それから17年の時を経て、ある落語家の落語を体験する。「桂二葉」だった。二葉は、女性として初めてNHK新人落語大賞を受賞し、何より内田先生の一押しの落語家だった。先日、凱風館寄席で、二葉の口演を拝聴し、最初は彼女の甲高い声に少し違和感を覚えたが、聞いているうちに気にならなくなり、むしろ、その声で演じる「こども」が愛しく思えてきた。文枝のような色気はなかったが、二葉の落語には、文枝にはない疾走感があり、それもある瞬間からハイスピードになっていくのが、新鮮に思えた。新しかった。普段着の二葉は、大変おしゃれな方で、コムデギャルソン(おそらく)の服を着、ドクターマーチンの靴を履くセンスに僕は共感を覚え、彼女の落語の持っている疾走感は、ロックが通底しているように勝手に妄想している。
 二葉は、「アホ」に激しくこだわり、そのまなざしは、どこまでもやさしい。その「アホ」の象徴は、「男の子」として、しばしば二葉の落語に登場する。元「男の子」として思うのだが、「男の子」ほど「アホ」な存在は、この世に存在しないのではないだろうか。アホの順番でいくと、男の子>男>女といったところだろう。
 自分の子供時代のことを振り返ってみても、「アホ」のオンパレードである。実家に初めて電話が設置され、唯一知っている電話番号「110」に電話をかけ、びっくりしてすぐに電話を切ると、警察からすぐに電話がかかってきて、母親に激怒されたこと。森進一の代表曲「襟裳岬」の歌詞の中で「遠慮はいらないから~♪」という箇所を「燃料はいらないから~♪」とずっと信じていて、何とも世知辛い歌だなと思っていたことなど、あげればきりがない。
 二葉は、こんな「アホな男」が大好きである。凱風館寄席で、二葉の落語を拝聴し、その後、繁昌亭で「桂二葉NHK新人落語大賞受賞記念ウィーク」を観に行った。共演する落語家は、さすが二葉セレクトによるもので、どの落語も大変面白かったのが、とりわけ二葉が愛してやまない「笑福亭仁福」は、抱腹絶倒という言葉しか思いつかない、そんな存在だ。仁福は、仁鶴の二番弟子で、御年72才である。仁福の落語は、虚実をないまぜにしたもので、ネタとその場の思いつきがぐちゃぐちゃに混じり合い、ときには客席をいじるという飛び道具も使うなど、およそ落語とは呼べないものかもしれないが、とにかく仁福の「アホ」ぶりがいい。二葉も「仁福師匠の落語はスカスカ」と言い放っているが、二葉はそんな仁福を「桂二葉NHK新人落語大賞受賞記念ウィーク」の全公演に唯一出演させている。
 繁昌亭に行き始めて気付いたことがある。それは、寄席というのは、大変気軽に行けるものだということ、そして、客の大半が、老人だらけだということである。しかも殆どは、おじいさん。そんな観客に混じって僕は、「若手」なのかもしれないが、こんな年寄りの世界も悪くないなと思い始めている。そんなことを思いながら、僕は、「仁福の会」をスマホで予約した。

北の国から

 事の発端は、会社で仲良くしている先輩との他愛もないいつものバカ話からだった。その先輩とは、よく映画の話をし、一緒に山登りをする間柄で、僕の数少ない「ともだち」のひとりだ。
先輩は、タランティーノとかデビッド・リンチが好きな僕の偏った映画の趣味を指摘し、
「もうちょっと、何ていうかなぁ~、グっとくる作品見たことないの?」
「例えば、どんなものですか?」
「「北の国から」とか。」
「見てないですね。面白いんですか?」
「・・・・・・・・」
「そやろうな~そんな気がしたわ。やっぱり自分(僕のこと。関西の一部では、あなた=自分と言う。)は、血も涙もない人間やもんなぁ。」
「北の国から」は、原作・脚本、倉本聰。主演は田中邦衛。 1981年に放送されたテレビドラマのことである。その後のシリーズものの最高視聴率が、38.4%というもので、どれだけこのドラマが多くの人から愛されているのかがよく分かる。
 僕も、そこまで言われたなら一度は観ておこうと一念発起し、数年前にDVDを借りて嫁さんと二人で一気に観た。
 結果は、先輩の言った通りだった。横でワーワー泣いてる嫁さんを尻目に、僕は一粒の涙も流すことができなかった。
 僕が「北の国から」に共感を覚えない理由は、明白だ。それは、田中邦衛扮する黒板五郎が、見慣れた人物像だからだ。その人とは、父親のことである。だから、テレビでまで、見飽きたといってもいい父親のような黒板五郎をあえて観る気にはなれなかった。これは、その当時そう思っていたというよりは、今になって思えばということだが。
 むしろ、五郎のあまりの身勝手さ、幼稚さに腹が立った。自分の都合で、東京を離れ、富良野という地の果てのようなところに連れて行かれた子供たちのことを思うと、僕は不憫で仕方なかった。更に、こんな僕の考えを更新させたのが、田中邦衛追悼記念で放送された「北の国から`87初恋」だった。純の東京行きの計画を一番最後に知った五郎が、酒を飲み、酔っ払いながら純を叱るシーンがある。僕は、深いため息をついた。
 そんなことがあり、昨年、とある宴席で、内田先生に「北の国から」のおもしろさについて尋ねてみた。そして、数日後に内田先生は、このようなツイッートを投稿された。『「男にはやるべきことがある。お前らは黙ってろ」とことあるごとに家族に対する支配権を誇示する男が家族を解体させ、家族に同意も理解も求めず、黙ってやるべきことをやる男が家族を結束させる。『ゴッドファーザー』はそういう話なんです。なかなか深いです。』(2021年11月25日)。内田先生は、「北の国から」の五郎と、「ゴッドファーザー」のマイケルを対比させ、このように分析された。僕の「北の国から」に対するわだかまりのようなものが、少しずつ溶解していった。
 1981年、イギリスのロックばかり聞いていた16才の少年にとって、オープニングのさだまさしのテーマ曲は、なんともゆるく、それだけでアレルギーを起こしていたのだが、それでも少しぐらいはこのドラマを観たことがあり、観ていて一番不思議だったのが、五郎と蛍との会話が普通なのに、純との会話は「ですます調」だったことだ。高校生の僕には、それがどういうことなのかよく分からなかった。しかし、今となれば何となく想像がつく。それは、五郎は、純を一人の男として尊重したいというスタイルを通して「父親」になろうと懸命に努力し、なにより「父親」として息子との距離感に戸惑っていたのではないかということだ。
 僕の父は、「父親」、「夫」というスタイルに随分こだわっていたようにみえた。しかも、それは、どこかで見たことのあるような定型化されたものだった。
 父親は喧嘩するたびに母親に、「誰のおかげで、メシが食えていると思っている!」とよく怒鳴っていた。僕は横で聞いていて、子供ながら、それは、「言ったらダメなのになぁ。」とよく思ったものだ。一方、僕に対しては、「それが、親に向かって言うことか!」と、よく怒られた。
 そんなスタイルに父が固執するあまり、父と僕との距離は、どんどん離れていったように思う。しかし、父親になったことはないが、自分がこの年になると、父もいかにして「父親」になろうかと、必死にもがいていたのではないかとそんな気がする。父のその焦燥のようなものが、結果として、家族を解体させていった。
 是枝監督の作品に「そして、父になる」というのがある。題名のとおり、男は、いろんな苦労を経ながら紆余曲折を経て、ようやく「父」になるのかもしれない。
 3年前に母が亡くなった。葬儀が終わり、親戚たちと会食をしながら、僕は、叔父たちに、生前の父の叔父たちに対する非礼を詫びた。そうすると、叔父たちから意外な言葉が返ってきた。
「謝らないかんのは、こっちの方や。姉さんと英ちゃんには、本当にすまなかったと思ってる。兄貴の替わりに謝る。堪忍してやってくれ。」
 僕は、この言葉を聞いた瞬間に、それこそ体中の力がするすると抜けていくのが手に取るように分かった。僕は、そのとき、父を許そうと思った。

いつものお正月

 あけましておめでとうございます。
井上英作と申します。2002年に雑誌「ミーツ」で内田先生のエッセイを拝読してから、すっかりその魅力に魅せられてしまい、嫁さんは合気道を始めるは、僕は「寺小屋ゼミ」生になるはと、夫婦ともども日頃より内田先生には大変お世話になっています。文章を書くのは、それほど嫌いではないので、今回、内田先生に許可をいただき、「長屋」の店子に加えていただくことになりました。どうぞよろしくお願いいたします。
今回は、毎年必ずお正月に会うともだちについて書きました。
我が家の「お正月」のメインは、なんといっても「須磨のサーファー」(以下Tさんとします。)のお家にお邪魔することである。これがないと、「お正月」が実感できないといっても過言ではない。毎年、12時頃にお邪魔し、南向きの明るいリビングで、Tさんの奥さん手作りのおせちを食しながら、日本酒を飲み、くだらない話に花を咲かせるこの時間は、僕にとっては、何ものにも代え難い愛しい時間である。
Tさんとの出会いは、今から約30年ほど前の1989年にまで遡る。僕の嫁さんと、Tさんの嫁さんが友だちで、僕たちは彼女たちを介して出会った。よくある「彼氏」を互いに紹介するというものだ。嫁さんたちは仲がいいのに、その彼氏、旦那とは、馬が合わないというのは、世間にはよくある話だが、僕たちは違った。なぜか、Tさんは僕のことを気に入ってくれたようで、Tさんが結婚したころぐらいから、僕たちは嫁さんたち抜きで「差し」で会ったりするようになった。男兄弟のいないTさんは、3才年下の僕のことを可愛がってくれた。それは、ともだちでもなく、後輩でもなく、まるで「弟」のようにだった。僕も兄がいないので、兄のことを妄想しながら、「兄」のようにTさんに接した。僕は、Tさんが話すサーフィンの話が好きだった。そして、僕たち夫婦は、Tさん一家と、所謂家族ぐるみのつきあいになった。僕たちは、いろんなところに遊びに行った。
2000年になったころから、お正月をTさん家で一日過ごすというのが、いつのまにか我が家の習慣となった。いくら仲がいいとはいいえ、正月早々他人の家に行くことに多少は抵抗もなくはなかったが、いつのまにか定例行事と化すようになった。ある年などは、どうしてもお互いの都合が合わず、元旦に伺うことになった。当然ながら元旦なので、Tさんの親戚一同もいるわけである。その親戚に混じって、我々夫婦が一緒に食事をするということもあった。また、数年前に別府に旅行に行った際には、宿がどうしても取れずに、一部屋にTさん家族4人と僕という取り合わせで宿泊し、5人で川の字になって寝たこともある。その時の旅行の写真をTさんは、別のともだちに見せ、そのともだちが、Tさん家族に混じって写っている僕を指差し、「これ誰?」と聞いたところ、「え?井上くん。知らん?」と答えになっていない返事をして、そのともだちを困惑させたそうだ。それぐらい、僕たち夫婦はTさん家族に溶け込んでしまった。
2018年9月、僕は生まれて初めて入院、手術を経験した。胆石の手術である。それから数ヶ月後、僕はTさんと食事に行った。お互いの近況を報告しながら、僕は、入院したことをTさんに報告した。するとTさんの口から、健康診断の結果、血液検査の結果が思わしくないことを聞かされた。「大したことないよ~」といつものように笑いながら話すTさんの笑顔を見ていると、僕も妙に納得し、安心した。
2019年お正月、Tさんから思いもかけない告白をされた。血液検査の結果がよくなかったのは、白血病によるものだったのだ。今すぐに状況が悪化することはないらしいが、骨髄移植をすすめられているとのこと。Tさんは、いわゆるボンボンで、苦労や病気などというものとは、最も縁遠い人だと思っていたので、この告白は僕にとってとてもショッキングなもので、と同時に、僕は、1996年に悪性リンパ腫で失ったともだちをだぶらせてしまった。嫌な思いが頭を離れないまま、その日のことは、殆ど記憶に残っていない。
2022年お正月。僕たち夫婦は、二年ぶりにTさん家を訪れた。「よかったら今年はどうぞ」というTさんの奥さんからの誘いを受け、僕たち夫婦はPCR検査を受け、フェイスガードも持参し、Tさん家を訪れた。玄関先にTさんと奥さんがニコニコと微笑みながら僕たちを迎え入れてくれた。Tさんは、この二年間、二度に渡り骨髄移植を受け、闘病生活を続けていた。それが、どれほど大変だったのかは、二年ぶりに見るTさんの顔を見るだけで容易に想像できた。
いつものお正月が始まった。僕は、毎年座るテーブルのいつものところに座り、南側に面した大きな窓からの陽光を感じながら、いつものようにくだらない話をし、四人でゲラゲラ笑いころげた。宴会も終盤に差し掛かったころ、話題がスキーに及んだ。Tさんは、いつものようにいかに自分は、スキーが上手かったかを滔々と話し始めた。「蔵王に行ってみたいなぁ。樹氷がきれいらしいで。」そう話すTさんの顔を見ながら、僕は、笑顔で、うんうんと頷いた。