街を歩いていると、知らない人によく道を聞かれる。これだけスマホが普及しているにも関わらずにである。そんなものは、この世に存在しないが、「知らない人によく道を聞かれる人選手権」が、もし開催されれば、僕は、間違いなく入賞するだろう。決して大げさなことではなく、僕は本当に知らない人によく道を聞かれるのである。
しかも、僕に、道を尋ねてくるのは、老若男女、さらに国境も問わない。黒人の男性、白人のおばあさん、中国人の夫婦、‥etc。万国共通なのだろうか。
僕は、第一印象では、およそフレンドリーな人間には見えない(長く同じ時間を過ごすと、そうでもないようだが...)。どちらかと言えば、僕は、不愛想で、表情も乏しい。では、なぜ、道が分からない時に、僕を選ぶのか。答えは、二種類しかない。「この人に道を聞けば、嫌がらずに、きちんと教えてくれそう」、「ニコニコしていて、話かけやすい。」
となると、僕の場合は、前者しか当てはまらないことになる。確かに、僕は、道を聞かれれば、できるだけ丁寧に正確に道順を教える。上手く説明できないときは、そこまで一緒についていくことさえある。あるとき、JR三宮駅で白人女性のバックパッカーから、センター街にある家電量販店の場所を聞かれ、「僕も今からそちらの方に向かうので、一緒に行きましょう」とたどたどしい英語で答え、彼女を案内したことがある。
そんな僕は、果たして親切な人間なのだろうか?そう、自分に問いかけて、僕は、困惑してしまった。小学生でも知っている「親切」という言葉の具体的なイメージが湧かなかったからである。そこで、僕は、身近な「親切そうな人」を探してみた。何人か、該当する人が浮かんだが、実は、彼らに共通していたのは、「親切」ではなく、「気が利く」、「気がまわる」であって、決して「親切」ではなかったことだ。さらに、彼らが、「よく気がついたり」、「気がまわる」のは、すべて打算の上に成り立っているもので、その見返りを期待した上での行為であることを残念なことに発見してしまった。彼らのことを、今一つ好きになれなかったのは、このような理由によるものだろう。
では、「親切」っていったいどういうことなのだろうか。僕は、早速、「親切」をググってみることにした。すると、「相手の身になって、その人のために何かをすること。また、そのさま。2.心の底からすること。また、そのさま。」と書いてあった。また、語源について調べてみると、「「親を切る」という意味ではない。親は「親しい」、「身近に接する」という意味で、切は刃物を直に当てるように「身近である」「行き届く」という意味がある。」とある。「親切」の反対語、「不親切」は、これらに当てはめてみると、「相手の身にならず」、「心の底からではない」ということになり、これは、つまり「体裁だけを整えた」、「やってるふり」ともいえるかもしれない。
僕は、人から何かしてもらうよりは、人に対して、何かするほうが好きである。完璧に「尽くす」タイプである。いい恰好言っているようだが、本当にそうで、性分としかいいようがなく、逆に人から尽くされたりすると、お尻がむずむずして、とても居心地が悪い。30代のころ、僕はまわりの殆どの飲み会を仕切った。店の手配から、会計まで、全てを僕が段取り、あまったお金は、僕がプールし、次の宴会の足しにした。みんなが楽しそうにお酒を飲んでいるのを見ているだけで、僕は十分だった。「ここ、美味しいね。」などと言われると、また、次も幹事をやろうと思う単純な男である。
今年の夏、釣り仲間の一人からお中元が届いた。お礼の電話をかけたあと、彼からラインが届いた。「いつも、釣りのときは、重い荷物を代わりに持ってくれたり、本当にありがとう。なかなか面と向かって言えないので、日頃の感謝の気持ちを込めて送りました。」とあった。そんなラインをもらった方が、むしろ気恥ずかしい気がするが、僕は、病み上がりの彼に代わって荷物を持ったりすることなど、当たり前だと思っていたので、むしろ面食らってしまった。
どうしてこのようなことをつらつらと書いているのか、それは内田先生の「街場の成熟論」を読んだからである。もっとも印象に残ったのが、「親切について」(P150)である。「親切」というトピックが、まさか、太宰治の文学論に飛び火するとは、予想だにしなかったが、内田先生らしい話の広がりに毎回驚かされるばかりで、「あるいは創造とは親切の効果かもしれぬ。」(p151)のなら、ぜひ親切でありたいと切に思う。
いろいろと自分のことについて、自己分析を試みてきたが、一旦、自分のことを「親切」だということにしておこうと思う。さらに、このことのダメ押しとして、「ただ、親切な人の話は必ずわかりにくいものになるのが難点だが」(p151)という点でも、僕は「親切」かもしれない。
僕には、三つ年の離れた兄がいた。「いた」というふうに過去形で書いたのは、兄は、もうすでにこの世にいないからである。いや、厳密にいうなら、僕は、その兄に会ったことさえない。僕の生まれる前に、彼は、交通事故で亡くなっていたからだ。僕は、しばしば、その不在の兄の存在を夢想する。もし、兄がいれば、僕はどんな人間になっていたのだろう。今と同じようになっていたのか、あるいは、もう少しまともな人間になっていたのか、弟というのはどんな感じなのだろう...etc。それほど、僕にとっては、兄の存在が今でも大きく横たわっている。
また、僕は、31才のときに友人を失った。僕の左腕には、彼の形見のロレックスの腕時計がはめられている。葬儀が終わり、彼の母から、「井上君、これ、形見にもらってあげて。井上君が身につけてくれるなら、きっと息子も喜ぶと思うわ。」とその腕時計を渡された。あまりに高価なものなので、丁重にお断りしたのだが、彼の親族一同からの、強い思いに負けてしまい、いただくことにした。その日以降、僕は、毎日そのロレックスの腕時計を身につけている。
こんなふうに、僕は、いつも死者を身近に感じながら生きている。
このような「存在しないもの」を身近に感じる感覚が養われたのは、おそらく、子どものころ母を通じて聞かされた「怪談話」の影響が大きい。最初に聞かされたのは、母が子供のころに遭遇した幽霊の話である。母の実家は、バス道から幅2mほどの狭い道を10分ほど歩いた突き当りに建っている。その途中に、緩く道が折れ曲がった箇所の右手に小さな墓地がある。その墓地で、母は子供のころ、男の幽霊を見たそうだ。お盆に、盆踊りの会場から母の実家に帰る途中、その墓地が、前方に見えてくると、母は僕の手を引きながら、急に歩く速度を緩め、「見てみぃ。あのあたりで、お母さん、男の幽霊見たんよ。」と僕の顔を覗き込みながら、話かけるのである。母は、なぜか怖がる僕の様子を楽しんでいるようかのようだった。この原体験のせいで、僕は、すっかりホラー映画好きとなる。
一方、僕は、運命論者でもある。僕は、原理主義的な思考をあまり好まないが、僕は、かなり原理主義的運命論者である。自分に必要なものは、人も含めて必ず出会えると、無根拠に信じている。だから僕は、自ら積極的に、面白そうなことを探したりは決してしない。そのようなものや人は、必ず、僕の前に、忽然と現れることを経験的に知っているからだ。縁といえば、それまでのことだが、僕は、もっともっとなにか大きな力に動かされているように固く信じている。
あるとき「お墓見」に参加した。この企画は、本書の著者である内田先生と釈先生による、凱風館のお墓「道縁廟」と如来寺のお墓「法縁廟」を眺めながらお酒をいただくというもので、秋空の下、楽しそうだなという軽い気持ちで参加した。現地に行って僕は、驚いた。正面には、五月山がどんと構えていて、そこには、嫁さんの両親が眠っている。さらに、ほぼ同じぐらい北の方向には、僕の両親が眠っている。さらに、三か所間の距離がほぼ同じで、つまり、三か所を繋ぐと正三角形となる。子供のいない、僕たち夫婦は、道縁廟でお世話になることをすぐに決めた。あちらに行っても、いつものように宴席を楽しみたいものである。更に、付け加えると、釈先生のいらっしゃる如来寺と僕の実家は、隣町という関係にあり、互いに同じ駅を利用していただろう。年齢も比較的に近いことから、どこかで会っていたかもしれない。
どうでもいいような私的なことを、なにをダラダラと書いてきたかというと、「日本宗教のクセ」を読みながら、僕のなかでの点と点が、一気に繋がり始めたからである。
どうやら、僕という人間のベースになっているのは、「宗教的センス」(本書、P219 )なのだということに気づいた。いや、気づかせてくれたのが、本書である。音楽を聞いたり、山に登ったりするのもすべてそうかもしれない。
最後に、本書のなかで、僕が一番気に入った箇所について書いてみる。それは、第二章「夕日の習合論」である。大阪市内というのは、京都と同じように、東西南北に道が整備されている。僕は、大阪市西区に住んでいるので、仕事の帰り道は、東西の道を西に向かいながら、毎日家に帰る。つまり、ほぼ毎日、夕日を見ながら家に帰るのである。なんとも気分がいいものである。さらに、僕が一番好きな時間帯は、「マジックアワー」の一瞬である。特に、日没の「マジックアワー」が大好きで、わずか一瞬、時間にすると数分間だが、夜に入る手前の一瞬、あたりが真っ青になる。それは、夕方でも夜でもなく、あたかも世界が、一瞬だけ、透明になるような気がする。あまりにもロマンチックなことなので、人に話をするのも気恥ずかしかったのだが、「夕日の習合論」を読んでいると、「マジックアワー」もまた、宗教性に大きく関係しているのがよく分かった。
そんなことを考えながら、今年もいつものお盆のように、友人、両親、そして道縁廟
へお墓参りに行った。
「街とその不確かな壁」
まわりの子供たちが、「巨人の星」に熱中し、野球に夢中になっていたのを尻目に、僕は、「もーれつア太郎」の世界観に強く惹かれた。熱血に野球を指導し、酒を飲んでは暴れる頑固な父親。そんな父親に「大リーガー養成ギブス」を装着され毎日厳しい野球の練習に耐える星飛雄馬。そんな「巨人の星」に描かれている世界より、子分が全員子豚という「ブタ松親分」や、タヌキにしか見えないのにいつもスーツを着こなし尻尾がはみ出ている「ココロのボス」など意味不明なキャラクターがたくさん登場する「もーれつア太郎」の世界観の方に、僕は「リアル」を感じていた。変なこどもだった。しかし、困ったことに、この「感じ」は、この年になっても消えなかったことだ。
上手く言えないが、僕には、眼前に厳と存在する(かのような)「現実」に、なにか違和感を感じていて、むしろ、それとは別の「現実」が存在するような感覚が強くある。小説「1Q84」は、首都高速道路三号線の緊急避難用階段を、青豆が降りていくことから物語が起動していく。この描写が、僕はとても好きで、僕の感覚にぴたりとフィットするのである。日常の隙間に、もうひとつの現実が存在している、そんな感覚だ。
随分と前置きが長くなった。今春、村上春樹が6年振りに新作「街とその不確かな壁」を発表した。ハルキニストの僕は、即効で書店に行った。
冒頭の5行を読んだ瞬間から、僕は、すでにワクワクしながら、ページをめくっていった。初期の村上ワールドが展開していくような気がしたからだ。しかし、読み進めていくうちに、僕の期待は裏切られていくことになる。村上春樹フアンなら、この小説と、「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」と近似性に気づくのに、それほど時間は要さない。しかし、本作と、「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」は、似て非なるものである。
本作は1200枚という長編小説である。この長大な物語に登場する主な人物は、ぼく、きみ、私、君、影、子易辰也、子易観理、子易森、イエロー・サブマリンの少年、彼女、
ぐらいである。そして、本作を読み進めて行くなかで気づいたのだが、子易さん一家、つまり、死者にのみ、名前が付与されている(厳密にいえば、イエロー・サブマリンの少年もM**だが)。しかも、この三人のフルネームが、発覚するのは、墓石においてである。一体このことは何を意味するのであろう。
本作で描かれている「街」には、一切の概念が存在しない。「時間」もなければ、「名前」も「地図」もない。おまけに、眼球に傷をつけられ、「影」まで剥がされてしまう。そこにあるのは、膨大な「古い夢」だけで、「ぼく」は、ひたすら「夢読み」を続ける。
そして、獣たちが次々と死んでいく。お世辞にも言ってみたいとは思わない。
「ぼく」は、こちらの世界にいたかと思えば、「街」に行ったり、「街」を出るかと思いきや、踏みとどまったり、またこちらの世界に戻ってきたりする。そして、こちらの世界で、子易さんに招かれるように、地方の図書館で働き始め、時々、子易さんと会ったりするのだが、その子易さんは、もうこの世に存在しない。幽霊なのである。
最初、僕は、「街」は、死の象徴なのだろうと思って本作を読んでいたのだが、だとすれば、子易さん一家、つまり、死者にのみ、名前が付与されていることとは矛盾することに気が付いた。では、「街」は、どこに?
ぼくは、このように考える。概念化された世界が、フラットに横並びに配置されていて、そのフラットな世界に別の世界が垂直に交差する。その交差している箇所が、目に見えている「現実」なのではないだろうか。つまり、「現実」というのは、「点」でしかないのではと思うのである。
もう一つの本作における大きな疑問がある。それは、「ぼく」の存在そのものである。
「ぼく」は、「別の現実」にそれこそ縦横無尽に、時空も平気で飛び越える。最初は、少し違和感を覚えたのだが、「ぼく」は、実体ではないのではないかと思っている。逆に、そう思うことで、本作での「ぼく」の存在(のようなもの)が、僕のなかではっきりとする。「ぼく」というのは、実体としての存在ではなく、ひとつの「思念」ではないかと思っている。「思念」である以上、「ぼく」は「私」になれれば、死者との会話も可能になるし、「街」との行き来も自由なわけである。そういってしまえば、身も蓋もないように聞こえなくもないが、決してそうではない。一つの思念の「軌跡」を追うことで、「大きな」現実を描いたところに村上春樹の偉大さを感じる。
作中、「ぼく」は「彼女」の店に行く度に「ブルーベリーマフィン」を食べながらコーヒーを飲む。僕自身「マフィン」は、過去に数えるほどしか食べたことがなく、明日、この世から「マフィン」が無くなったとしても、別に困らないが、本作を読み終えた後、無性に「ブルーベリーマフィン」を食べたくなり、近所のスーパーに買いに行った。残念ながら、陳列台に置いてあったのは、「ブルーベリーマフィン」ではなく、「バナナマフィン」だったのだが、村上春樹の本を読むと、作中にでてくる食べ物を無性に食べたくなるのである。
「このこと」を知ったのは、いつもの寺小屋ゼミの打ち上げの宴席でだった。そう、凱風館は宴会が多いのである。内田先生より、「山崎さんが竹田恒泰から訴えられました。山崎さんは、とても困っています。僕としても何らかの形で山崎さんを支援したいと思っていて、その内容は、後日発表します。山崎さん、事件の概要についてお話しください。」それを、受けて、山崎さんより今回の事件の概要について説明がなされた。
僕は、こう見えて(どう見えているか分からないが...)感情的な人間で、山崎さんの話を聞きながら、激しい憤りを感じていた。経済的、社会的に優位な立場の人間が、逆の立場の人間を訴えるって、法の精神に反しているのではないだろうか?法というのは、最後の最後の手段であって、裁判するほどのことなのか?そんなことを考えながら、話の途中で、すでに「何とか役に立ちたい」と心は決まっていた。
後日、内田先生より、「裁判費用支援のお知らせ」を知り、僕は、即効でお金を送金した。送金したあと、僕は、何かとてもいいことをしたような気になったが、一方で、一体どれだけのお金が集まるのか一抹の不安を覚えた。(その時点で、僕は100万円ぐらいだろうと予想しており、まさかこれほどの金額になろうとは、思いもしなかった。)と同時に、もしかしたら自分も訴えられるかもしれないという危険を孕んでいたが、そうなってからそのときに考えようという、いつもの楽観主義でやり過ごした。
結果については、この本に詳細が書かれているが、まさか、最高裁まで行くとは思いもよらず、「もしかしたら...」という思いから、判決のその日は、何度もスマホで結果をチェックしたのを思い出す。本当によかった。
この本のなかでも「自国優越思想」について触れているので、僕の思うところにういて書いてみる。
50代の右傾化というのは、巷でよく言われていることだが、実感として、本当にそのとおりで、まわりの同世代の連中は、「日本維新の会」を応援し、百田尚樹の著書を愛読している。村上春樹をこよなく愛し、山本太郎の演説を聞きにいく僕のような人間は、まわりに一人もいない。彼らと話をしながら、僕は、ある傾向に気づいた。例えば、このような会話だ。「日本の報道の自由度ランキングが下がり続けていることについては、どう思う?」「...。」「報道が規制されたことが、先の戦争の一因とも考えられるよね」「...。そもそもその統計が正しいかどうか分からない。戦争に結び付けるのは、極端だ。」こんな具合である。彼らは、そのことを知らないのだ。彼らは、外国人が、日本の百均が自国のそれより安い理由で、大量に購入しているのを、日本の製品が優れているからだと信じて疑わない。村上春樹ではないが、「やれやれ」な気分である。彼らに共通しているのは、それらの情報は、テレビでは放送されないから圧倒的に情報量が不足していることである。あるいは、その情報を見ないようにしているといった方が正しいかもしれない。
また、あるときの飲み会の席で、同世代の人が、司馬遼太郎の話を始め、「日本というのは、あの大国の中国、ロシアに勝ったんですよ。そういう国なんです。」と目に涙を浮かべながら熱く語り始めた。僕は、一気に酔いが醒め、まるで珍奇な動物でも見るように彼を見つめた。
彼らは、現在の凋落している日本は、かりそめの姿でしかなく、いつか必ずや、復活するものだと信じ込んでいる。だから、他国を非難したり、「過去」にこだわることでしか、現在のこの状況を是認できないのである。
最近の新入社員は、入社すると同時に転職サイトに登録するそうである。最初、この話を聞いたときには、驚いたが、同じ理屈ではないだろうか?「今の自分は、かりそめの姿で、自分はもっとすごい。こんな会社には、ずっといる気はない。」
韓国映画をよく観る。どの作品も本当によくできていて、2時間退屈することなく、いつも観ている。その展開力もさることながら、韓国映画には、「歴史もの」というジャンルが存在する。その「歴史もの」では、過去の負の歴史ともきっちりと向き合っている。では、邦画はどうだろう?ないとはいわないが、圧倒的に少ないように思える。
「イトマン事件」、「薬害エイズ」、「オウム事件」...etc題材には困らないはずだが。
先日、いつも利用する地下鉄「心斎橋」駅が、若い人でごった返していた。手には、
「BLACKPINK」と書かれたうちわを持って嬉しそうに歩いている。大阪ドームでコンサートがあったことは容易に推測できたが、「BLACKPINK」という名前を知らなかったので、すぐにググってみると、韓国のアイドルグループで、ワールドツァーの一環で日本に来ているらしい。しかもあの「BTS」をすでに凌駕するような人気だそうだ。
今、日本のミュージシャンで、ワールドツァーを敢行できるバンドはあるだろうか?
残念ながら、見当たらない。完敗と言えば言い過ぎだろうか。
昨年サッカーワールドカップが開催された。日本代表が、強豪国ドイツ、スペインに勝ち、大いに盛り上がった大会となった。そんなさなか、知人と会食をしているときに、話題がワールドカップに及んだ。その知人が、いきなり「私、サッカーを見たことがないんです。サッカーの何がそれほど面白いんですか?」という、極めて根源的な問いを突き付けられた。僕は、腕を組み天井を見つめながら、しばらくして、このように答えた。
サッカーの解説では、よくシステム(フォーメーション)のことが取沙汰される。
例えばブラジル代表は典型的な「4-4-2」(ディフェンス、中盤、フォワードの順番)、日本代表は「4-2―3-1」といった具合である。つまり、サッカーというスポーツの根幹にあるのは、この「システム」である。世界的な監督、モウリーニョが、サッカー未経験というのは、あまりに有名な話で、それほど、サッカーにおける「システム」の重要性は高い。が、しかしである。「システム」が秀逸なチームが強いかと言えば、必ずしもそうではない。むしろ、逆である。その「システム」から逸脱して、自分の判断で、そのときの閃きでプレーする選手がいるチームにのみ、勝利の女神は微笑んでくれる。それは、「システム」を打ち破る「勇気」あるいは「想像力」といっていいかもしれない。昨年の大会でいうと、フランス代表のエムバペがその象徴といえるだろう。
ここしばらく世界のサッカーを牽引してきたスペインのサッカーは、まるでコンピューターでシュミレートしたかのように10人のプレーヤーが同時に動き、細かいパスをつないでいくというものだった。それはそれで見ていて面白かったのだが、そのスペインが日本に負けてしまった。スポーツの勝敗には様々な要素が複雑に絡んでいるので、スペインの敗因を分析するほどの知識を僕は持ち合わせていないが、システムサッカーが終焉を迎えた象徴だろうと思っている。
村上龍は、あるインタビューで、「自分が作家になったのは、システムに対する憎悪にも似たような強い感情があって、そのことが、物語を創作していくうえでの大きな原動力となっている。」と言っていた。村上龍と自分を並列に語るのは、あまりにもおこがましいが、僕もそうである。「システム」や「管理」が、どうも性に合わない。
僕は、1988年に会社員となり、今年で35年目となる。この性格でよくサラリーマンが続いたものだと、我ながら改めて感心する。この35年の間には、平成バブル(1989年~1991年)、金融不安(1994年~1997年)、リーマンショック(2008年)と大きな社会的変動があったが、僕の印象としては、そんな影響からか2000年代に入ったころぐらいから、会社は、大きく様変わりし始めた。個人的には、ちょうど2000年に以前勤めていた会社が今の会社に吸収されたときで、新しい会社になったことが、大きな要因だと、最初のころは思っていたが、そうではなかった。このころくらいから、会社は、管理に心血を注ぐようになったのである。その病的といってもいいほどの性向が、現在までもずっと続いている。喜んでいるのは、所謂「本部機能」であったり、「管理職」だけである。僕も一度管理職を経験したことがあるが、経験してみて分かったのは、「退屈でつまらない」ということだけである。この「退屈でつまらない」ことに日本の企業は、腐心している。それも嬉々としながら。もはや病気としかいいようがない。よくもまぁ、次々といろいろなことを思いつくものだと感心するほどである。「管理信教」といっても過言ではない。
例えば、僕の勤めている会社には、「安否確認システム」が存在する。そのシステムが機能しているか否かは、定期的にチェックされ、報告が遅延したりすると、「本部」から叱責される。しかし、このシステムは、東北大震災のときにも、西日本豪雨のときにもついぞ機能することはなかった。
そして、日本の企業組織の問題点は、「上下」の関係への強いこだわりである。よく言われていることだが、日本には、単身赴任という制度がある。海外では、あり得ない制度らしい。僕は幸いにも経験したことはないが、経験した方たちに聞くと、皆が二度と味わいたくないと口をそろえて言う。僕は、この制度の趣旨がよく分からなかったが、
これは、会社への忠誠心を計るための装置であることに気づいた。人事異動も同様である。「嫌なら、どうぞ辞めてください。代わりはいくらでもいます。それが嫌なら受け入れなさい。」こんなところだろう。また、管理職に至っては、営業職のやる気をそぐことについては、天才的ともいえる。これも、イエスマンを生産していくための「有効」な戦略なのだろう。なんとも馬鹿馬鹿しい。
「君たちのための自由論」(@内田樹、@ウサビ・サコ)を、最近読んだ。なかでも、
「おわりに-「管理」と「創造」」というタイトルにインスパイアされ、普段思っていることを書き綴ってみたのである。
2012年12月22日、その日の夜、僕は、渋谷の「Bunkamura オーチャードホール」にいた。ユキヒロさん(僕には、この呼び方が一番しっくりくるので、以下もこう呼ばせてもらいます。)の還暦を記念するライブ「高橋幸宏 60th Anniversary Live」を観るためである。チケットが取れるかどうか分からなかったので、申し込もうかどうかギリギリまで迷っていたのだが、ダメ元で申し込んだところ、なんと当選したのである。開演の30分前に着席し、「一体、どんな人たちが観に来ているんだろう」と思い、まわりを見渡してみて、僕は驚いた。まわりは、殆ど僕みたいな連中でいっぱいだったのである。そう、50代前後で、眼鏡をかけたオッサンばかりだった。特に、右隣に座っていた夫婦(と思う)の夫(と思う)が、関西弁で「「今日の空」演るかな~。演ったら、涙もんやで~」と一人高いテンションで、一体これは独り言なのか、奥さん(と思う)に話かけているのか分からず、僕は思わず吹き出してしまった。
その日のコンサートは、細野晴臣、鈴木慶一など、ユキヒロさんと古くから親交のあるゲストが多数参加した、とても濃い内容だった。代表的な曲を中心に演奏されたが、改めてその楽曲のよさに気づかされた。しかし、なにより感動したのは、二回目のアンコールが終わり、場内が明るくなったとほぼ同時に観客が次々と立ち上がり、いつまでも拍手を続けたことだった。僕は、そのとき初めて「スタンディングオベーション」を経験した。
それから約10年が経ち、2022年9月18日、プロ活動50周年という節目の年であることを祝い、それを記念するライブ「高橋幸宏 50周年記念ライヴ LOVE TOGETHER 愛こそすべて」がNHKホールで行われたが、そこにユキヒロさんの姿はなかった。僕は、三回申し込んだが、今回は三回とも見事に外れてしまった。
2022年6月6日、ご自身のお誕生日のツイッターには「みんな、本当にありがとう」と発信されていて、インスタグラムには、痩せこけたご本人の姿が、アップされていた。その姿が、2020年からの闘病の過酷さを物語っていて、僕は、その写真を眺めているだけで、胸をしめつけられるような思いだった。あの美意識の塊のようなユキヒロさんが、今の変わり果てた姿をフアンの前にさらけ出したことに、僕はユキヒロさんの「覚悟」を感じざるを得なかった。
僕にとってユキヒロさんは、いくつになってもアイドルであり続けた。
1987年夏、22才のとき、僕は、就職活動で初めて東京に行った。僕は、予定より一時間早く東京駅に着き、すぐに渋谷パルコへと向かった。当時、渋谷パルコのB1には、ユキヒロさんのファッションブランド「Bricks Mono」のお店があった。真偽のほどは定かではないが、山本耀司は、ユキヒロさんのことをかなり警戒していたらしいという逸話がある。それはともかく、ドキドキしながら、僕はすぐにそのお店を見つけたが、店内にいるオシャレな店員のお兄さんと目が合っただけで、即効で退散した。また、深夜テレビで偶然にユキヒロさんのライブを見て、そのときにかけていたサングラスがどうしても欲しくなり、ミナミの「白山眼鏡店」で、できるだけそのサングラスを思い出しながらサングラスを買ったりした。それから数十年経ち、その時のライブ映像がたまたまYouTubeでアップされていて、改めてじっくりと見てみたが、ユキヒロさんのサングラスと僕のそれとは、似て非なるものだった。
とにかく、ユキヒロさんはカッコいい。そのカッコよさは、いったい何なのか。まず、その革新性については、だれも異論はないだろう。1974年、「サディスティック・ミカ・バンド」で、「ロキシー・ミュージック」の全英ツアーのオープニング・アクトを務めたりだとか、YMOでは、当時としては珍しかったコンピューターに合わせてドラムを演奏したりだとか、どれもが最先端を歩んでいた。
しかし、僕はユキヒロさんのカッコよさのもとになっているものは、新しさやセンスのよさといったこととは、別のところにあるように思える。
そのことを象徴するのが、2014年に結成した「METAFIVE」というユニットである。
この「METAFIVE」は、テイ・トウワなどいわゆるYMOチルドレンと呼ばれる、ユキヒロさんより一回りも年齢の違うメンバーを集めたスーパーバンドだった。彼らにしてみると、カリスマのような存在のユキヒロさんと同じバンドメンバーでいることのプレッシャーは相当のものだったに違いない。しかし、「幸宏さんがいるからまとまったというか。」(ゴンドウトモヒコ)、「幸宏さんの人徳というか」(テイ・トウワ)(「MUSIC MAGAZINE」2016年11月号)とメンバーが証言しているように、バンドの成功は、ユキヒロさんの性格に負うところが大きかったと推察する。
ユキヒロさんは、どうしてもクールな印象が強いが、実際は、かなりの人好きだったようだ。子供のいないユキヒロさんは、甥っ子二人を、まるで自分の子供のように可愛がり、年の離れたバンドメンバーを、よく自分の家に招いたりしていたようだ。いい人だったのだろうと思う。その「いい人」に、革新性やセンスの良さが付加された結果が、「カッコいい」になっている。つまり、逆説的にいうと、単なる革新性やセンスの良さなどだけでは、僕にとっては、カッコよくはならないということでもる。この世からひとつ「カッコいい」がなくなってしまった。
1月15日の朝、僕は起床し、いつものようにスマホでニュースをチェックした際に、ユキヒロさんの訃報を知った。その日は日曜日だったが、出勤日だったので、僕はいつものようにスーツに着替え、家を出た。その日、1月にしては、生暖かく、ふと、空を見上げると、墨汁を水で薄く薄めたような雲が低く垂れこめていた。ユキヒロさんの名曲「今日の空」は、「今日の空は、少し、悲しいって」という歌詞で始まる。僕は、この雲を遠くに見ながら、いつものように会社へと向かった。頭の中では、ずっと「今日の空」が鳴り止まないままだった。
あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
お正月を迎え、ふと思ったことについて書いてみる。
2022年大晦日、寝る前にトイレで用を足している最中にふとこのように思った。
「これからは、できるだけ美しいものとだけとともに生きていこう。」
ソファに戻り、早速本棚から「陰翳礼讃」(@谷崎潤一郎)を読み出す自分の浅薄なところが、少し気になるところではあるが。
「また大層な話を~」、「どうせ酔っぱらってただけじゃないの~」というような声がたくさん聞こえてきそうだが、僕は、12月28日にコロナに罹り、それからアルコールは一口も口にしていない。
「いやいや、コロナで体調が悪かっただけじゃないの~」という声も聞こえてきそうであるが、幸いにも発熱で辛かったのは、28日一日ぐらいで、大晦日には、完全に平熱に戻っていた。つまり、極めて素面の頭に思い浮かんだ「思い」なのである。
2021年初夏、映画「アメリカン・ユートピア」を映画館で観た。本作は、デビッド・バーンによるブロードウェーでのライブを、スパイク・リーが監督したもの。前評判もすこぶるよく、僕の周りでの評価も高かった。出不精な僕は、大阪での上映が終了するその週に、重い腰を上げ、仕事帰りに、なんばの映画館で本作を観た。デビッド・バーンと言えば、僕らの世代では、「トーキングヘッズ」のリーダーとして認知されているが、やはり、観客は、僕ら世代が中心なのかなと思い、開演前の劇場を見渡してみたが、客層はバラバラだった。隣のおばさんを除いては...。このライブの大きな特徴は、舞台上には、ドラムセットもギターアンプもマイクスタンドも何もないので、総勢11人のミュージシャンたちが舞台の上を自由自在に動きまわりながら演奏することである。舞台の前から後ろへ、右から左へ、あるいは、全員が一列となって時計の針のようにぐるぐる回ったりとする。そう、彼らは、常に動きながら楽器を奏で、歌を歌うのである。そして見事なまでに、全員の呼吸がぴたっと一体となっているのがよく分かる。
「自由」を煎じ詰めたその先にあったのは、なんと「完全な調和」だったのである。僕は、そのあまりの完全な調和に言葉を失った。横のおばさんが、同じことを感じ取っていたのかは知る由もないが、今にも立ち上がって踊り出しそうな勢いでイスに座りながら体を揺らせていた。
映画が終わり、生暖かい空気のなか、映画館からなんば駅に向かいながら、僕は、大変気分がよかった。まるで、体中が音楽という何かとてつもない大きな力に包み込まれているような気がした。これまでに、音楽のライブはたくさん観てきたが、「こんな気持ち」は、初めてだった。僕は、この時間がこのまま永遠に続いてほしいと心底思ったのである。
そして、この日以来、僕のなかでおこった「こんな気持ち」は、いったい何だろうとずっと考えていた。
その答えが、1年半を経て、冒頭の「これからは、できるだけ美しいものだけとともに生きていこう。」である。答えが見つかった。
僕は、この答えについてもっと深く知りたくなり、元旦に本棚から一冊の本を取り出した。「人はなぜ「美しい」がわかるのか」(@橋本治)である。自分でいうのもなんだが、こういうときの自分の直感を僕は信用している。
橋本治によると、この世には、「美しいがわかる人」と「美しいがわからない人」がいる。人は、「美しい」に出あうと、思考停止、判断停止に陥る。それが嫌な人は、「美しい」がどういうことかを分からなくすればいい。しかし、このことは、「わかることはわかる」の理解能力はあって、「わからないことをわかる」の類推能力は育たない。
また、「美しいがわかる人」は敗者で、勝者になりたかったら「美しいが分からない」を選択しなければならない、どういうわけか、世の中はそうなっている。
僕なんぞにいわれる筋合いは、まったくないのだろうけれど、橋本治という人は、本当に賢い。この世にすでにいないことが残念でしかたがない。
「アメリカン・ユートピア」を観たあの夜、僕は間違いなく幸せだった。あのような瞬間は、これから数えるほどしかないのかもしれないが、それに近いような、ちょっとした時間というのはあるもので、僕は、そういう時間をこれからもずっと大切にしていきたい。
正月早々、こんなことを思ったのには、もうひとつ理由がある。
僕たち夫婦は、昨年12月28日、二人そろってコロナに罹ってしまった。幸いにも高熱に悩まされたのは、僕の場合は、28日当日ぐらいのものだったのだが、嫁さんの合気道仲間が、次々と差し入れを届けてくれた。年末の忙しいときに、寒空のなか、そのためだけに、わざわざ我が家まで足を運んでくれたのである。僕は、彼らがもって来てくれた、「たまごがゆ」(レトルト)、「カレーヌードル」、「カキ」をたべながら、「なんかいいなぁ~」と思ったのである。
あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
お正月を迎え、ふと思ったことについて書いてみる。
2022年大晦日、寝る前にトイレで用を足している最中にふとこのように思った。
「これからは、できるだけ美しいものとだけとともに生きていこう。」
ソファに戻り、早速本棚から「陰翳礼讃」(@谷崎潤一郎)を読み出す自分の浅薄なところが、少し気になるところではあるが。
「また大層な話を~」、「どうせ酔っぱらってただけじゃないの~」というような声がたくさん聞こえてきそうだが、僕は、12月28日にコロナに罹り、それからアルコールは一口も口にしていない。
「いやいや、コロナで体調が悪かっただけじゃないの~」という声も聞こえてきそうであるが、幸いにも発熱で辛かったのは、28日一日ぐらいで、大晦日には、完全に平熱に戻っていた。つまり、極めて素面の頭に思い浮かんだ「思い」なのである。
2021年初夏、映画「アメリカン・ユートピア」を映画館で観た。本作は、デビッド・バーンによるブロードウェーでのライブを、スパイク・リーが監督したもの。前評判もすこぶるよく、僕の周りでの評価も高かった。出不精な僕は、大阪での上映が終了するその週に、重い腰を上げ、仕事帰りに、なんばの映画館で本作を観た。デビッド・バーンと言えば、僕らの世代では、「トーキングヘッズ」のリーダーとして認知されているが、やはり、観客は、僕ら世代が中心なのかなと思い、開演前の劇場を見渡してみたが、客層はバラバラだった。隣のおばさんを除いては...。このライブの大きな特徴は、舞台上には、ドラムセットもギターアンプもマイクスタンドも何もないので、総勢11人のミュージシャンたちが舞台の上を自由自在に動きまわりながら演奏することである。舞台の前から後ろへ、右から左へ、あるいは、全員が一列となって時計の針のようにぐるぐる回ったりとする。そう、彼らは、常に動きながら楽器を奏で、歌を歌うのである。そして見事なまでに、全員の呼吸がぴたっと一体となっているのがよく分かる。
「自由」を煎じ詰めたその先にあったのは、なんと「完全な調和」だったのである。僕は、そのあまりの完全な調和に言葉を失った。横のおばさんが、同じことを感じ取っていたのかは知る由もないが、今にも立ち上がって踊り出しそうな勢いでイスに座りながら体を揺らせていた。
映画が終わり、生暖かい空気のなか、映画館からなんば駅に向かいながら、僕は、大変気分がよかった。まるで、体中が音楽という何かとてつもない大きな力に包み込まれているような気がした。これまでに、音楽のライブはたくさん観てきたが、「こんな気持ち」は、初めてだった。僕は、この時間がこのまま永遠に続いてほしいと心底思ったのである。
そして、この日以来、僕のなかでおこった「こんな気持ち」は、いったい何だろうとずっと考えていた。
その答えが、1年半を経て、冒頭の「これからは、できるだけ美しいものだけとともに生きていこう。」である。答えが見つかった。
僕は、この答えについてもっと深く知りたくなり、元旦に本棚から一冊の本を取り出した。「人はなぜ「美しい」がわかるのか」(@橋本治)である。自分でいうのもなんだが、こういうときの自分の直感を僕は信用している。
橋本治によると、この世には、「美しいがわかる人」と「美しいがわからない人」がいる。人は、「美しい」に出あうと、思考停止、判断停止に陥る。それが嫌な人は、「美しい」がどういうことかを分からなくすればいい。しかし、このことは、「わかることはわかる」の理解能力はあって、「わからないことをわかる」の類推能力は育たない。
また、「美しいがわかる人」は敗者で、勝者になりたかったら「美しいが分からない」を選択しなければならない、どういうわけか、世の中はそうなっている。
僕なんぞにいわれる筋合いは、まったくないのだろうけれど、橋本治という人は、本当に賢い。この世にすでにいないことが残念でしかたがない。
「アメリカン・ユートピア」を観たあの夜、僕は間違いなく幸せだった。あのような瞬間は、これから数えるほどしかないのかもしれないが、それに近いような、ちょっとした時間というのはあるもので、僕は、そういう時間をこれからもずっと大切にしていきたい。
正月早々、こんなことを思ったのには、もうひとつ理由がある。
僕たち夫婦は、昨年12月28日、二人そろってコロナに罹ってしまった。幸いにも高熱に悩まされたのは、僕の場合は、28日当日ぐらいのものだったのだが、嫁さんの合気道仲間が、次々と差し入れを届けてくれた。年末の忙しいときに、寒空のなか、そのためだけに、わざわざ我が家まで足を運んでくれたのである。僕は、彼らがもって来てくれた、「たまごがゆ」(レトルト)、「カレーヌードル」、「カキ」をたべながら、「なんかいいなぁ~」と思ったのである。
物心ついた頃から、怖い話が大好きだった。僕は、中高一貫教育の学校に通っていたので、高校受験がなく、その代わりに自由課題でレポートの提出がその学校では義務付けられていた。僕は、「KWAIDAN」(@小泉八雲)の翻訳をその課題として選んだ。まわりの同級生が、四苦八苦しているのを尻目に、僕は「Mujina」、「Rokuro-kubi」などを嬉々として訳し、提出締切日のはるか前に教師に提出した。変な子供である。
僕がこのように怖いもの好きになったのには、おそらく、幼いころに母親が体験した怪談話を聞かされたことの影響が大きいと思う。母親の実家は、バス通りから車一台がやっと通れるような狭い道を10分ほど歩いた突き当りにあり、その途中にはちょっとした墓地がある。母は、子どものころ、その墓地で男の幽霊を見たらしい。僕が子供のころ、母親に連れられ、盆踊りの帰り道、その墓地が近づいてくると、急におとなしくなった僕の顔を覗き込みながら、「お母さん、あそこで見たんよ。ほら、あの墓石のあたり。」と僕をからかうのだった。目をつぶりながら、足早に墓地を通り過ぎようとする僕の姿を、母親は、ケラケラと笑いながら見ていた。
そんな原体験からか、僕は、怪談にまつわるものなら何でも飛びついた。中でも、最も僕を怖がらせたのは、映画だった。初めてみた怖い映画は、天地茂主演の「四谷怪談」(@中川信夫)だった。子供のころ、お盆になると、決まって夜中に「怪談累ケ淵」「牡丹灯籠」などの怪談映画が放送されていた。
父親の実家は、兵庫県の北西部に位置し、鳥取県との県境に近い「湯村温泉」で有名なところで、その頃は毎年、家族で帰省していた。今でこそ、高速道路が整備され随分と便利になったが、昭和40年代の頃は、昼間に国道9号線が混むため、叔父たちは、夜に車を走らせ夜中に実家に到着するのが、いつのまにか通例となった。車のない僕の家族は、宝塚から特急「まつかぜ」に乗り、夕方には到着し、叔父たちが到着するのを夜中までずっと待っていた。当時は、お盆の頃になると、昼間とうって変わって、夜はすこしひんやりとしていた。そんな、ひんやりとしたなかで、僕は、「四谷怪談」を食い入るように観た。怖かった。
僕は、その後も次々とホラー映画を観た。作品名を挙げるとキリがないが、この年齢になって改めて観ても、いまだに怖い作品がいくつかある。「サスペリアⅡ」(@ダリオ・アルジェント)、「エイリアン」(@リドリー・スコット)、「女優霊」(@中田秀夫)などなど。しかし、あまりにたくさんのホラー映画を観てきたせいで、ちょっとやそっとでは、何を観ても怖くなくなってきた。悲しいことである。
昨年、寺小屋ゼミの発表のために「ホワイト・トラッシュ」について調べた。「ホワイト・トラッシュ」とは、アメリカにおける白人の低所得者層に対する蔑称のことで、なにか参考になるような映画がないか探していたところ、映画評論家の町山智浩の推薦する「脱出」という作品を観た。いわゆるホラー映画ではないが、久しぶりに怖い映画を観た。ストーリーは、男4人組が、カヌーで渓流下りを楽しむために、山深い町で出会うハプニングといったところだろうか。では、このストーリーのどこに僕は、恐怖をおぼえたのだろうか。それは、この作品が、山にひっそりと暮らしている「ヒルビリー」に出会ったことから始まる悲劇を描いているところにある。
「ホワイト・トラッシュ」というのは、先にも書いたとおり、ある白人たちへの蔑称のことである。調べてみると、「レッドネック」、「ヒルビリー」、「オキー」など特定の白人に対する多くの蔑称が存在する。彼らは、遅れてアメリカにやってきた移民である。遅れた分、彼らは、住環境としては劣悪な、自然環境のとても厳しいところに居ついた。なかでも「ヒルビリー」と呼ばれる人たちは、アパラチア山脈の中に住みつく。彼らに関する情報があまりに少ないせいで、ネガティブな情報だけが独り歩きした。暴力的で大酒呑み。あるいは、閉じられたコミュニティの中でしか生きていけず、近親相姦を繰り返しているなど。
この映画では、自分たちの住む世界のすぐ向こう側には、自分たちの知らない世界が、現実に存在しているという事実を僕に知らしめた。
その次に観た作品が、名作「悪魔のいけにえ」(@トビー・フーパー)である。改めて観てみると、この作品も「脱出」同様、「ホワイト・トラッシュ」映画と呼べるものであろう。後味の悪さということにかけては、この作品の右に出るものはない。
そして、「クライモリ」である。題名は、何となく知っていたのだが、先日WOWWOWで放送されていているのを観た。なんとも怖い映画だった。見終わったあと調べてみると、ウィキペディアには、「ヒルビリーホラー復活のきっかけを作った作品」で、「シリーズ化され、6作目まで制作された。」そうである。しかし、よく考えてみると奇妙なことである。「ヒルビリー」というアメリカに存在する特定の人たちを題材にした作品が、日本人の僕を怖がらせたわけで、いわば世界性を獲得したわけである。
ハリウッド映画は、これまでいろいろな題材を扱い「恐怖」を制作してきた。それは、動物(「ジョーズ」)、子供(「エクソシスト」)、死者(一連のゾンビシリーズ)だったりと種種雑多である。そんなハリウッドが、「ヒルビリー」を通して描きたかった恐怖とは、いったい何なのか?
僕には、よくわからない。
内田先生は、よく喋る。とにかく、よく喋る。
2019年10月、僕は、鳥取県智頭町にある「タルマーリ」での内田先生のトークイベントを聞きに行くため、神戸から内田先生に同行した。いや、くっついて行ったという方が正しい。当日、13時に凱風館に行き、そこから内田先生の運転するベンツの助手席にちょこんと座り、僕たちは「タルマーリ」を目指した。それまでに何度も内田先生とお話しする機会はあったが、初めての「差し」の場面に、僕はいささか緊張していた。車中で、無言の時間が続いたらどうしょうと、少し不安な思いのまま、車は出発した。
しかし、僕のそんな心配は杞憂に終わった。「タルマーリ」に到着するまでの間、約3時間のドライブ中、話が途切れることはなかった。三島由紀夫のこと、アル・パチーノのこと、その日の内田先生の対談相手の平川さんのことなど、トピックはあちこちに展開したが、僕のつまらない質問にも、内田先生は、丁寧に応えてくれた。
夕方、「タルマーリ」に到着し、主催者の渡邉さんを囲んで、談笑していると、平川さんが現れた。内田先生と平川さんは、トークイベント直前にも関わらず、お二人でおしゃべりを楽しんでいた。中でも、僕が印象に残っているのが、「小田嶋が、さぁ~」と、ニコニコしながら先日お亡くなりになった小田嶋隆さんとのエピソードを語る平川さんの話だった。特に、お二人で誰も知らないような温泉宿を訪ね、訪ねてはその宿の「イマイチ」なところを小田嶋さんが感想を述べるという話が僕の興味を引いた。そんな平川さんを見ていると、人というのは、自分の話をするときよりも、「ともだち」の話をしているときの方が、気分がいいんだなということがよく分かる。
その後、内田先生と平川さんのトークイベントが開催され、終了後に、打ち上げ。この間も、内田先生は、ひたすら喋り続けた。そして、その日の出来事がすべて終わり、宿泊先のホテル前で解散するときは、さすがに、内田先生は疲れた様子で、それは、まるで、マラソンランナーがフルマラソンを完走したあとのような面持ちだった。考えてみれば、13時~22時までの約9時間、喋りつづけたのだから、無理もない話である。
内田先生は、共著の本をたくさん出している。対談したものを文字起こししたものが大半だ。これほどまでにたくさんの対談本を出している作家を、僕は、あまり知らない。しかも、対談相手は、さまざまなジャンルの方で、トピックも政治から文学までと縦横無尽である。中には、シリーズ化されたものさえある。僕は、あるときから、凱風館関係の宴席では、必ず内田先生の横か正面に座り、お酒を飲みながら内田先生とおしゃべりを楽しんでいる。まわりからは、随分図々しい奴だと思われているかもしれないが、僕としてはこんな貴重なタイミングを逃す訳にはいかない。それぐらい、内田先生の話は、面白い。僕にとっては、至福の時間である。おそらく、内田先生と対談された方も、僕と同じ感想を持ったに違いない。そのことは容易に想像がつく。さらに、内田先生は、ただよく喋るだけでなく、相手の話を実によく聞く。相手のどんな話にも耳を傾け、適当な返事ですますということは絶対にしない。
以前、宴席で、いつものように僕は、内田先生の横に座り、おしゃべりを楽しんでいた。どういう展開で、そうなったのかは、よく覚えていないが、僕は、ドラマ「北の国から」の話をした。僕が、どうしてもこのドラマに共感が持てず、そのことを先輩に言ったところ、「おまえは血も涙もない人間だ」と言われたという、どうでもいい話である。内田先生は、僕のそのどうでもいい話をゲラゲラ笑いながら聞き入っていたが、そのときの話が、後日、「「ゴッドファーザー」と「北の国から」」というタイトルで、映画「ゴッドファーザー」公開50年を記念した雑誌「KOTOBA」のゴッドファーザー特集の回に掲載されていた。その雑誌には、なんとアル・パチーノのインタビューものっていて、僕は何だか不思議な感じがした。
新作「下り坂のニッポンの幸福論」を読んだ。内田先生と映画監督想田和弘との対談本である。本作では、聞き手としての内田先生の魅力が発揮されている。想田監督という方が、どんな方なのかは、僕はよく知らないが、内田先生との話を通して、想田監督が、高揚している様子が、ひしひしと伝わってくる。それにインスパイアを受け、いつものように内田先生の話にドライブがかかる。あたかもそこに居合わせたように、対談の楽しさが伝わってくる。
内田先生の書くもの・ことについては、一度試してみたくなるという大きな特徴がある。それは、村上春樹の小説を読むと食欲が沸くのとよく似ている。「下り坂のニッポンの幸福論」の「はじめに」に「しだいに日が傾いてきて、西の海に日が沈み、部屋も外の景色も真っ赤に染まり、やがて群青の夜空が広がり、気が付くと満点の星が輝いていた」という一節がある。
僕は、この一節を読んで、無性に牛窓に行きたくなった。