「このこと」を知ったのは、いつもの寺小屋ゼミの打ち上げの宴席でだった。そう、凱風館は宴会が多いのである。内田先生より、「山崎さんが竹田恒泰から訴えられました。山崎さんは、とても困っています。僕としても何らかの形で山崎さんを支援したいと思っていて、その内容は、後日発表します。山崎さん、事件の概要についてお話しください。」それを、受けて、山崎さんより今回の事件の概要について説明がなされた。
僕は、こう見えて(どう見えているか分からないが...)感情的な人間で、山崎さんの話を聞きながら、激しい憤りを感じていた。経済的、社会的に優位な立場の人間が、逆の立場の人間を訴えるって、法の精神に反しているのではないだろうか?法というのは、最後の最後の手段であって、裁判するほどのことなのか?そんなことを考えながら、話の途中で、すでに「何とか役に立ちたい」と心は決まっていた。
後日、内田先生より、「裁判費用支援のお知らせ」を知り、僕は、即効でお金を送金した。送金したあと、僕は、何かとてもいいことをしたような気になったが、一方で、一体どれだけのお金が集まるのか一抹の不安を覚えた。(その時点で、僕は100万円ぐらいだろうと予想しており、まさかこれほどの金額になろうとは、思いもしなかった。)と同時に、もしかしたら自分も訴えられるかもしれないという危険を孕んでいたが、そうなってからそのときに考えようという、いつもの楽観主義でやり過ごした。
結果については、この本に詳細が書かれているが、まさか、最高裁まで行くとは思いもよらず、「もしかしたら...」という思いから、判決のその日は、何度もスマホで結果をチェックしたのを思い出す。本当によかった。
この本のなかでも「自国優越思想」について触れているので、僕の思うところにういて書いてみる。
50代の右傾化というのは、巷でよく言われていることだが、実感として、本当にそのとおりで、まわりの同世代の連中は、「日本維新の会」を応援し、百田尚樹の著書を愛読している。村上春樹をこよなく愛し、山本太郎の演説を聞きにいく僕のような人間は、まわりに一人もいない。彼らと話をしながら、僕は、ある傾向に気づいた。例えば、このような会話だ。「日本の報道の自由度ランキングが下がり続けていることについては、どう思う?」「...。」「報道が規制されたことが、先の戦争の一因とも考えられるよね」「...。そもそもその統計が正しいかどうか分からない。戦争に結び付けるのは、極端だ。」こんな具合である。彼らは、そのことを知らないのだ。彼らは、外国人が、日本の百均が自国のそれより安い理由で、大量に購入しているのを、日本の製品が優れているからだと信じて疑わない。村上春樹ではないが、「やれやれ」な気分である。彼らに共通しているのは、それらの情報は、テレビでは放送されないから圧倒的に情報量が不足していることである。あるいは、その情報を見ないようにしているといった方が正しいかもしれない。
また、あるときの飲み会の席で、同世代の人が、司馬遼太郎の話を始め、「日本というのは、あの大国の中国、ロシアに勝ったんですよ。そういう国なんです。」と目に涙を浮かべながら熱く語り始めた。僕は、一気に酔いが醒め、まるで珍奇な動物でも見るように彼を見つめた。
彼らは、現在の凋落している日本は、かりそめの姿でしかなく、いつか必ずや、復活するものだと信じ込んでいる。だから、他国を非難したり、「過去」にこだわることでしか、現在のこの状況を是認できないのである。
最近の新入社員は、入社すると同時に転職サイトに登録するそうである。最初、この話を聞いたときには、驚いたが、同じ理屈ではないだろうか?「今の自分は、かりそめの姿で、自分はもっとすごい。こんな会社には、ずっといる気はない。」
韓国映画をよく観る。どの作品も本当によくできていて、2時間退屈することなく、いつも観ている。その展開力もさることながら、韓国映画には、「歴史もの」というジャンルが存在する。その「歴史もの」では、過去の負の歴史ともきっちりと向き合っている。では、邦画はどうだろう?ないとはいわないが、圧倒的に少ないように思える。
「イトマン事件」、「薬害エイズ」、「オウム事件」...etc題材には困らないはずだが。
先日、いつも利用する地下鉄「心斎橋」駅が、若い人でごった返していた。手には、
「BLACKPINK」と書かれたうちわを持って嬉しそうに歩いている。大阪ドームでコンサートがあったことは容易に推測できたが、「BLACKPINK」という名前を知らなかったので、すぐにググってみると、韓国のアイドルグループで、ワールドツァーの一環で日本に来ているらしい。しかもあの「BTS」をすでに凌駕するような人気だそうだ。
今、日本のミュージシャンで、ワールドツァーを敢行できるバンドはあるだろうか?
残念ながら、見当たらない。完敗と言えば言い過ぎだろうか。