「街とその不確かな壁」
まわりの子供たちが、「巨人の星」に熱中し、野球に夢中になっていたのを尻目に、僕は、「もーれつア太郎」の世界観に強く惹かれた。熱血に野球を指導し、酒を飲んでは暴れる頑固な父親。そんな父親に「大リーガー養成ギブス」を装着され毎日厳しい野球の練習に耐える星飛雄馬。そんな「巨人の星」に描かれている世界より、子分が全員子豚という「ブタ松親分」や、タヌキにしか見えないのにいつもスーツを着こなし尻尾がはみ出ている「ココロのボス」など意味不明なキャラクターがたくさん登場する「もーれつア太郎」の世界観の方に、僕は「リアル」を感じていた。変なこどもだった。しかし、困ったことに、この「感じ」は、この年になっても消えなかったことだ。
上手く言えないが、僕には、眼前に厳と存在する(かのような)「現実」に、なにか違和感を感じていて、むしろ、それとは別の「現実」が存在するような感覚が強くある。小説「1Q84」は、首都高速道路三号線の緊急避難用階段を、青豆が降りていくことから物語が起動していく。この描写が、僕はとても好きで、僕の感覚にぴたりとフィットするのである。日常の隙間に、もうひとつの現実が存在している、そんな感覚だ。
随分と前置きが長くなった。今春、村上春樹が6年振りに新作「街とその不確かな壁」を発表した。ハルキニストの僕は、即効で書店に行った。
冒頭の5行を読んだ瞬間から、僕は、すでにワクワクしながら、ページをめくっていった。初期の村上ワールドが展開していくような気がしたからだ。しかし、読み進めていくうちに、僕の期待は裏切られていくことになる。村上春樹フアンなら、この小説と、「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」と近似性に気づくのに、それほど時間は要さない。しかし、本作と、「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」は、似て非なるものである。
本作は1200枚という長編小説である。この長大な物語に登場する主な人物は、ぼく、きみ、私、君、影、子易辰也、子易観理、子易森、イエロー・サブマリンの少年、彼女、
ぐらいである。そして、本作を読み進めて行くなかで気づいたのだが、子易さん一家、つまり、死者にのみ、名前が付与されている(厳密にいえば、イエロー・サブマリンの少年もM**だが)。しかも、この三人のフルネームが、発覚するのは、墓石においてである。一体このことは何を意味するのであろう。
本作で描かれている「街」には、一切の概念が存在しない。「時間」もなければ、「名前」も「地図」もない。おまけに、眼球に傷をつけられ、「影」まで剥がされてしまう。そこにあるのは、膨大な「古い夢」だけで、「ぼく」は、ひたすら「夢読み」を続ける。
そして、獣たちが次々と死んでいく。お世辞にも言ってみたいとは思わない。
「ぼく」は、こちらの世界にいたかと思えば、「街」に行ったり、「街」を出るかと思いきや、踏みとどまったり、またこちらの世界に戻ってきたりする。そして、こちらの世界で、子易さんに招かれるように、地方の図書館で働き始め、時々、子易さんと会ったりするのだが、その子易さんは、もうこの世に存在しない。幽霊なのである。
最初、僕は、「街」は、死の象徴なのだろうと思って本作を読んでいたのだが、だとすれば、子易さん一家、つまり、死者にのみ、名前が付与されていることとは矛盾することに気が付いた。では、「街」は、どこに?
ぼくは、このように考える。概念化された世界が、フラットに横並びに配置されていて、そのフラットな世界に別の世界が垂直に交差する。その交差している箇所が、目に見えている「現実」なのではないだろうか。つまり、「現実」というのは、「点」でしかないのではと思うのである。
もう一つの本作における大きな疑問がある。それは、「ぼく」の存在そのものである。
「ぼく」は、「別の現実」にそれこそ縦横無尽に、時空も平気で飛び越える。最初は、少し違和感を覚えたのだが、「ぼく」は、実体ではないのではないかと思っている。逆に、そう思うことで、本作での「ぼく」の存在(のようなもの)が、僕のなかではっきりとする。「ぼく」というのは、実体としての存在ではなく、ひとつの「思念」ではないかと思っている。「思念」である以上、「ぼく」は「私」になれれば、死者との会話も可能になるし、「街」との行き来も自由なわけである。そういってしまえば、身も蓋もないように聞こえなくもないが、決してそうではない。一つの思念の「軌跡」を追うことで、「大きな」現実を描いたところに村上春樹の偉大さを感じる。
作中、「ぼく」は「彼女」の店に行く度に「ブルーベリーマフィン」を食べながらコーヒーを飲む。僕自身「マフィン」は、過去に数えるほどしか食べたことがなく、明日、この世から「マフィン」が無くなったとしても、別に困らないが、本作を読み終えた後、無性に「ブルーベリーマフィン」を食べたくなり、近所のスーパーに買いに行った。残念ながら、陳列台に置いてあったのは、「ブルーベリーマフィン」ではなく、「バナナマフィン」だったのだが、村上春樹の本を読むと、作中にでてくる食べ物を無性に食べたくなるのである。