街を歩いていると、知らない人によく道を聞かれる。これだけスマホが普及しているにも関わらずにである。そんなものは、この世に存在しないが、「知らない人によく道を聞かれる人選手権」が、もし開催されれば、僕は、間違いなく入賞するだろう。決して大げさなことではなく、僕は本当に知らない人によく道を聞かれるのである。
しかも、僕に、道を尋ねてくるのは、老若男女、さらに国境も問わない。黒人の男性、白人のおばあさん、中国人の夫婦、‥etc。万国共通なのだろうか。
僕は、第一印象では、およそフレンドリーな人間には見えない(長く同じ時間を過ごすと、そうでもないようだが...)。どちらかと言えば、僕は、不愛想で、表情も乏しい。では、なぜ、道が分からない時に、僕を選ぶのか。答えは、二種類しかない。「この人に道を聞けば、嫌がらずに、きちんと教えてくれそう」、「ニコニコしていて、話かけやすい。」
となると、僕の場合は、前者しか当てはまらないことになる。確かに、僕は、道を聞かれれば、できるだけ丁寧に正確に道順を教える。上手く説明できないときは、そこまで一緒についていくことさえある。あるとき、JR三宮駅で白人女性のバックパッカーから、センター街にある家電量販店の場所を聞かれ、「僕も今からそちらの方に向かうので、一緒に行きましょう」とたどたどしい英語で答え、彼女を案内したことがある。
そんな僕は、果たして親切な人間なのだろうか?そう、自分に問いかけて、僕は、困惑してしまった。小学生でも知っている「親切」という言葉の具体的なイメージが湧かなかったからである。そこで、僕は、身近な「親切そうな人」を探してみた。何人か、該当する人が浮かんだが、実は、彼らに共通していたのは、「親切」ではなく、「気が利く」、「気がまわる」であって、決して「親切」ではなかったことだ。さらに、彼らが、「よく気がついたり」、「気がまわる」のは、すべて打算の上に成り立っているもので、その見返りを期待した上での行為であることを残念なことに発見してしまった。彼らのことを、今一つ好きになれなかったのは、このような理由によるものだろう。
では、「親切」っていったいどういうことなのだろうか。僕は、早速、「親切」をググってみることにした。すると、「相手の身になって、その人のために何かをすること。また、そのさま。2.心の底からすること。また、そのさま。」と書いてあった。また、語源について調べてみると、「「親を切る」という意味ではない。親は「親しい」、「身近に接する」という意味で、切は刃物を直に当てるように「身近である」「行き届く」という意味がある。」とある。「親切」の反対語、「不親切」は、これらに当てはめてみると、「相手の身にならず」、「心の底からではない」ということになり、これは、つまり「体裁だけを整えた」、「やってるふり」ともいえるかもしれない。
僕は、人から何かしてもらうよりは、人に対して、何かするほうが好きである。完璧に「尽くす」タイプである。いい恰好言っているようだが、本当にそうで、性分としかいいようがなく、逆に人から尽くされたりすると、お尻がむずむずして、とても居心地が悪い。30代のころ、僕はまわりの殆どの飲み会を仕切った。店の手配から、会計まで、全てを僕が段取り、あまったお金は、僕がプールし、次の宴会の足しにした。みんなが楽しそうにお酒を飲んでいるのを見ているだけで、僕は十分だった。「ここ、美味しいね。」などと言われると、また、次も幹事をやろうと思う単純な男である。
今年の夏、釣り仲間の一人からお中元が届いた。お礼の電話をかけたあと、彼からラインが届いた。「いつも、釣りのときは、重い荷物を代わりに持ってくれたり、本当にありがとう。なかなか面と向かって言えないので、日頃の感謝の気持ちを込めて送りました。」とあった。そんなラインをもらった方が、むしろ気恥ずかしい気がするが、僕は、病み上がりの彼に代わって荷物を持ったりすることなど、当たり前だと思っていたので、むしろ面食らってしまった。
どうしてこのようなことをつらつらと書いているのか、それは内田先生の「街場の成熟論」を読んだからである。もっとも印象に残ったのが、「親切について」(P150)である。「親切」というトピックが、まさか、太宰治の文学論に飛び火するとは、予想だにしなかったが、内田先生らしい話の広がりに毎回驚かされるばかりで、「あるいは創造とは親切の効果かもしれぬ。」(p151)のなら、ぜひ親切でありたいと切に思う。
いろいろと自分のことについて、自己分析を試みてきたが、一旦、自分のことを「親切」だということにしておこうと思う。さらに、このことのダメ押しとして、「ただ、親切な人の話は必ずわかりにくいものになるのが難点だが」(p151)という点でも、僕は「親切」かもしれない。