「僕の昭和歌謡ベスト3」

 年が明け、あまりにも暗いニュースが続くので、気晴らしに歌謡曲について書いてみた。
 先日、ふと立ち寄った本屋で、『文芸春秋』を立ち読みしていると、「私の昭和歌謡ベスト3」という特集が組まれていて、内田先生他各界の著名人が選んだ歌謡曲が掲載されていた。
僕は、1977年にラジオでセックス・ピストルズの「ANARCHY IN THE UK」を聞くまでは、歌謡曲少年だった。僕が、小学生のころは、毎日のようにテレビで歌番組が放映されていて、殆どの歌番組を観ていた。それでも飽き足らず、10才ぐらいになると、ラジオでも歌謡曲を聴いていた。当時、番組名は忘れたが、高島忠男が司会を務める、歌謡曲のイントロ当てクイズ番組があり流行っていた。僕は、その番組を毎週楽しみに見ていたが、僕にしてみると、あまりに簡単で、もし出演したら、毎違いなく優勝するのになぁと勝手に妄想を膨らませていた そんな僕が、勝手に昭和歌謡ベスト3を選んでみた。いろいろ考えた結果、「融合」という切り口で選んだ。

1.「ス・ト・リ・ッ・パ・ー」(沢田研二、1981年)
 当時の沢田研二は、バンドサウンドを追求し「JULIE & EXOTICS」という名前で活躍していた。この曲は、ロカビリーそのものだが、ステージ衣装は、当時のUKニューウェーブを強く意識したものだった。化粧をし、派手な衣装を着こなす沢田研二は、唯一無二の存在だった。日本のデビッドボウイといえば言い過ぎだろうか。そして、この路線は、その後の「麗人」、「6番目のユ・ウ・ウ・ツ」と続き、さらにUKニューウェーブ色を強めていく。このあたりが、沢田研二のピークだった。   
 その後、「大人の事情」で、沢田研二は、テレビから忽然と消えた。しかし、その後も、沢田研二は、自主制作で音楽を作り続け、それに合わせて毎年コンサートを行っているのは、何となく知っていた。年末に、WOWOWで、「75才記念ライブ」の模様が放送された。すっかり老いてしまった沢田研二は、髪が真っ白で、太っていた。しかし、その歌声は、衰えたとはいえ、「老人シャウト」と呼んでもいいような、老人にしか出せない声で、僕は、すっかり魅了されたのである。
 沢田研二の歌謡曲における功績は、歌謡曲に見事なまでにロックを融合させた点にある。沢田研二がいなければ、その後の「BOOWY」も「GRAY」も存在しなかったであろう。その功績は、もっと世間に認知されるべきだと思うが、テレビに出ないことで沢田研二のことを知らない人が多いことに、僕はせつなくなる。
 因みに、カラオケに行けば、僕は必ずこの曲を歌うのである。

2.「あの日に帰りたい」(荒井由美、1970年)
 今でもこの曲を聞いたときのことは、昨日のことのように、はっきりと覚えている。小学校4年生のときで、当時の僕の日曜日の午前中のルーティンは、ロイ・ジェームスの歌謡曲ベストテン番組を聞くことだった。その日、ロイ・ジェームスが少し興奮したような口調で、「それでは、第四位です。初登場で、堂々の4位です。荒井由美「あの日に帰りたい」。どうぞ。」このような感じだった。
 それは、今まで聞いてきた歌謡曲とは、全然違うものだった。歌謡曲にありがちな、大仰なアレンジはなく、淡々とバックの演奏が続けられていた。しかも、曲調は、当然ながら事後的に知ることになるのだが、「ボサノバ」風だった。なにか、自分が少し大人になったような気がした。それは、小学校4年生の少年が、「あの頃の私に戻って、あなたに会いたい」という歌詞に共鳴するという、それほどまでに、想像力を掻き立てるものだった。
 冬のある日、営業車を運転していると、カーラジオから「ヴェルベット・イースター」が流れた。そのとき初めて聞いたのだが、いい曲だなと思い、公園に車を停めて最後まで聞いた。この曲のサビの部分の歌詞は、「空がとっても低い」である。曲が終わり、何気に空を見てみると、どんよりとした冬らしい空で、とっても低かった。高い空とは、よく聞く表現だが、低い空とは、よくいったもので、そのときの不思議な感じは、荒井由美の作詞家としての才能に驚いた瞬間だった。
 荒井由実は、プロコハルムなどのイギリスの音楽が好きだったそうだ。一方、バックで演奏するのは、「はっぴいえんど」を解散した細野晴臣が結成した「ティン・パン・アレー」だった。黄金期のアメリカンポップスを知り尽くした細野晴臣が、イギリスの新しい音楽に興味を持つ早熟な才能と融合した結果、この曲が生まれたというわけである。
 荒井由実のデビューアルバム「ひこうき雲」は、「ティン・パン・アレー」の前身「キャラメル・ママ」の全面的なバックアップにより完成した。改めて聞いてみても、その演奏力の高さに驚かされる。細野晴臣自身が、自分の若いときのプレーに驚いているぐらいだ。
 この曲を歌謡曲といっていいのか分からないが、日本ポップス史上に残る曲であることは間違いない。

3.「木綿のハンカチーフ」(太田裕美、1975年)
 「はっぴいえんど」を解散した後、松本隆が作詞家としての地位を確立した曲。
 歌詞は4番まであり、西のとある地方から東京を想起させる都会に出た男性と、故郷に残された女性との遠距離恋愛が破れるまでを、男女の対話形式でストーリー仕立てにしている(ウィキペディアより)。
 初めてこの曲によって、僕は「文学」と出会ったような気がする。それまで、文学とはまったく無縁な環境で、「もーれつア太郎」や「天才バカボン」しか知らなかった僕にとっては、何か少し高尚なものに触れた気がした。僕にとっては、歌謡曲と文学が融合した瞬間である。
 松本隆の書く詩は、しばしば文学的と言われる。そのことにまったく異論はないが、そこに付加される側面も捨てがたい。
 太田裕美の歌う松本隆の世界は、少女の世界観である。その世界観に、なぜか男の僕は感情移入している。この曲に限らず、「雨だれ」、「赤いハイヒール」など、なぜかすべての少女に同化してしまう。そして、この世界観は、松田聖子へと引き継がれていく。
 しかし、よく考えてみるとある矛盾に気づいた。それは、太田裕美の世界観には、深く共鳴するのに、松田聖子のそれには、まったく反応しない。なぜだろう。
 それは、この曲を聞いた僕の年齢によるのでは、僕はそう思う。この曲を聞いたのは、10才のころで、早熟だった僕は、子どもを卒業しようとしていた。その時期は、子どもでもない、もちろん大人でさえない、何者でもない非常に不安定な時期だった。そんな時期だからこそ、少女にさえなり得たのではないだろうか。そんな気がするのである。
 それにしても、当時「はっぴいえんど」のことなどまったく知らなかったのに、自分の選んだ3曲のうち2曲も、間接的に「はっぴいえんど」が関与していたことに驚きを隠せない。
 
 因みに奥さんの選んだ3曲は、「ちぎれた愛」(西城秀樹、1973年)、「別れの朝」(ペドロ&カプリシャス、1971年)「横須賀ストーリー」(山口百恵、1976年)だそうです。