「2024年年頭に思ったこと」

 早いもので、2024年も約2週間が経過した。言うまでもないが、2024年は、1月1日の能登半島地震で始まってしまった。時間を経るごとに明らかになる惨状とは裏腹に、国の対応は、驚くほど遅くやる気が感じられない。そんななか、山本太郎は、すぐに現地入りした。新聞やテレビがあまり報じないので、知らない人もいるかもしれないが、たとえば、2011年の東北大震災以来、恒例のように、山本太郎は、年末・年始の炊き出しに参加している。2019年9月、安倍晋三元首相の国葬が行われたが、れいわ新選組は式をボイコット、山本太郎は、豪雨被害のあった静岡の被災地に入っている。これらのことは、ほんの一例にしか過ぎない。  山本太郎は、そんな人である。僕は、なにもネットで収集した情報を単に並べているのではない。僕は、山本太郎が、「大阪都構想」反対演説を、大阪市内各所で繰り広げているのを、目の前で見ていたからである。れいわ新選組にとって、大阪都構想は大阪市の問題で、直接には関係のない、政治的イシューであるにもかかわらず、山本太郎は連日、街頭に立ち続けた。あるとき、スタッフと話をする機会があり雑談をしていると、スタッフは僕にこう言った。「彼は、本気です。決して生半可な気持ちでやっていません。毎日4か所で演説を行っています。我々スタッフが、体のことを心配してもまったく聞く耳を持たないんですよ((笑))」。    また、大阪メトロ「西長堀」駅前での演説を僕の横で聞きにきていた飲食店経営者が、「都構想の何が悪いのか、正直分からなくて聞きにきました。」と話かけられ、僕は「今からそのことを山本太郎が説明してくれます。とにかく、最後まで聞いてみてください。」と答えた。演説が終わると、飲食店経営者は、「そういうことだったんですね。」とニコリと微笑み、れいわ新線組のポスターを手に取り、「店に貼ることにしました。」といいながら、その場を立ち去っていった。政治家とはこのような人のことをいうのだろう。「大阪都構想」が、僅差で否決されたのは、山本太郎に負うところが大きいと思っていて、大阪市民の一人として、本当に心から感謝している。  山本太郎は、世の中の不条理に対し、常に怒り続けている。だから、能登半島地震にいち早く反応し、現地に駆け付ける行動力は、僕としては容易に想像ができた。  が、しかしである。この山本太郎の行動を冷ややかに批判する輩がネットを通じて頻発した。この連中の言い分を、どのように理解すればいいのか、僕の知性では、到底理解することも、想像することさえできなくて、忸怩たる思いでいっぱいだった。  お正月休みの間、僕は、「奇跡の経済教室【基礎知識編】」、「奇跡の経済教室【戦略編】」(@中野剛志)を読んでいた。本当に面白い本なので、是非、ご一読いただきたい。内容は、日本が30年もの長いあいだデフレから脱却できない理由について、ド素人にも分かるように、丁寧に分かりやすく解説している。その内容は、山本太郎が演説で繰り返し繰り返し主張し続けているものと何ら変わらない。内容を簡単に要約すると、日本が長い間デフレから脱却できないのは、本来インフレに対する処方箋として有効な新自由主義的政策を、日本はデフレ下で行い続けているのが、最大の原因だと著者は分析している。では、なぜそのようなことが起こるのかというと、「主流経済学者」が「貨幣」について何もわかっていないからだということだそうだ。  あまりに面白い内容なので、ページをどんどんめくっていくうちに、次のような文章に出会った。 「デフレによって、人々はルサンチマンを抱きやすくなるのです。」 (「奇跡の経済教室【戦略編】P117」)  僕は、虚を突かれる思いがした。山本太郎の「能登現地入り」を冷ややかな目で見ている人たちに共通するのは、ある種の「ルサンチマン」だろうとは思っていた。しかし、その「ルサンチマン」は、その人独自のものだということから、僕の思考がスタートしたので、袋小路に入ってしまい、その中から抜け出せずにいた。そうではなく、彼らに共通する「ルサンチマン」が存在するとすれば、僕の仮説も成立する。中野剛志によると、その共通する「ルサンチマン」の対象がデフレ下の経済状況となる。  「デフレで不況のときは、需要という全体のパイが縮小してしまいます。そうすると、縮小するパイをみんなで奪い合うことになりやい。」 (「奇跡の経済教室【戦略編】P115」)  このことは、当然ながら経済状況のことを説明しているのであるが、同時にデフレ下に生きる人間そのものにも当てはまるのではないだろうか。縮小するパイをで奪うことに腐心し、そのことで成功した人間たちの現在の心のありようなんだろうと思う。彼らが、どのような考えを持ち、どのような発言をしようと、「どうぞ勝手にやってください」と思うだけだが、そういう連中を支持する連中がそれなりにいることが、僕をさらに困惑させるのである。