歌謡曲的風景

 地下鉄「本町」駅の構内で雑誌「BRUTUS」の広告が目に止まった。「歌謡曲特集」とある。実は、「BRUTUS」は、1996年に「歌謡曲´96」という特集を組んでいる。当時の日本の音楽シーンが、歌謡曲という言葉に代わり「J POP」となっていたので、その時代背景を考えれば、1996年に歌謡曲特集を組んだのはよく分かるが、なぜ、今さら、歌謡曲の特集かと思いながら、とりあえず、「BRUTUS」を買ってみた。パラパラと目を通してみると、最近、若い人たちの間で昭和歌謡が流行っているそうだ。蛇足だが、「BRUTUS 「歌謡曲´96」」は、沢田研二のインタビューを筆頭に、寄稿している一人にリリー・フランキーがいたり、「はっぴいえんど」コーナーがあったりと、とても充実した内容で、当時の雑誌が、まだ面白かったことを窺わせる。僕はこの「BRUTUS 「歌謡曲´96」」を即買いし、今でも僕の本棚に大切に保管されている。
 12才でFMラジオから流れてきたSEX PISTOLSの「ANARCHY IN THE UK」を聞くまでは、僕は、歌謡曲少年だった。テレビをつければ、ほぼ毎日、歌番組や歌謡バラエティーが放送されていて、僕は飽きることなくこれらの番組を見ていた。そんな歌謡曲少年だった僕が初めて覚えた「大人の歌」が「フランシーヌの場合」である。調べてみると、1969年6月に新谷のり子と言う人が歌い、ヒットした曲らしい。つまり僕は、この曲に3才10ケ月で出会ったことになるが、まさかその年齢で覚えたはずはなく、もちろん、新谷のり子という名前も顔も記憶はないので、きっと、その後に覚えたのだろうとは思うが、とにかく、自分の音楽遍歴を遡っていくと最終的にはこの曲に辿り着く。
 この曲は、パリで政治的抗議により自殺した一人の学生のことを題材にしたもので、当時の政治的に不安定な時代背景を反映した、極めて政治色の強いものである。そんな社会的な曲が、僕の音楽生活のスタートとは、自分でも意外な感じがする。
僕はこの曲を聞くと、今でも幼いころの心象風景が鮮やかに甦る。それは、一言で言えば、「貧しさ」である。
 当時、僕たち家族は、3Kの長屋に家族3人で住んでいた。家の前をドブ川が流れているため、時折悪臭が立ち込め、風通しも日当たりも悪い暗い家だった。トイレは汲み取り式で、辛うじてお風呂はあったものの、洗面所などあるはずもなく、台所で歯を磨き、顔を洗った。もちろん、エアコンなどあるはずもなく、夏の暑さ、冬の寒さが本当に身にしみた。また、当時子供の着ていたものなど、素材も悪かったため、夏の暑さ、冬の寒さに、更に拍車をかけた。時々、母の作る晩ご飯のメニューの少なさに、僕が不満げな態度を取ると、烈火の如く怒られた。それは、明らかに「叱って」いるのではなく、「怒って」いたのである。そんなことは、子供に言われるまでもなく、母親自身が、一番身に沁みて感じていたはずで、誰よりも母親が悔しかったに違いない。
 このように、僕の家は決して裕福ではなかった。しかし、僕のまわりを見渡せば、殆どどの家も同じようなものだった。皆が貧しかったのである。1969年といえば、歴史的には、高度経済成長期ということになるのだが、今から振り返ってみても、そんな実感は、全くと言っていいほどない。母は、近所のおばさんと、醤油やみその貸し借りをし、作りすぎたおかずを交換したりしていた。そんな時代だった。その貧しさは、言うまでもなく、日本が戦争に負けたことによるもので、僕が子供の時には、その傷跡が、まだ周辺には残っていた。
 子供のころ、僕は片足のないおじさんを町でよく見かけた。スラックスの右足部分の真中あたりから半分に折り曲げ、松葉杖をつきながら歩いているのを、何度も何度も見かけたものである。母に聞くと、戦争によるものだと教えてくれた。また、時々、母の買い物に連れられ繁華街へ出かけると、軍服を着たおじさんが、足元に金タライを置き、頭を下げながらお金を乞う光景を時々見かけた。戦争の残りかすは、あちらこちらに存在した。まだ、戦後は終わっていなかった。
 今、この曲を聞き直しても、夏の西日で充満されたあの長屋の二階の部屋のことや、歯をがくがく震わせながら、母と停留所でバスを待った真冬の寒い夜のことなど、あのときのあの体感をありありと感じ取ることができる。BRUTUSの中で、近田春夫は、「歌謡曲の基底を成す価値観は、「不幸せ」に対する被虐的な興奮。」といっている。「被虐的な興奮」という箇所には、多少の違和感を覚えるが、「赤いハイヒール」(@太田裕美)、「真夜中のギター」(@千賀かほる)など、僕の好きな歌謡曲の楽曲たちに共通している心象風景は、どれもこれも「不幸せ」とまでは言わないまでも、寂しさ、不安などネガティブなものが多いような気がする。
 僕は、この曲と出会ったことで、初めて「社会」と出会ったのかも知れない。だとすれば、この曲が社会的なものだったことは、ただの偶然ではないだろう。