兄のような人
僕には、兄がいた。「いた」という風に過去形で書いているのは、今はもういないからである。もう少し正確に言えば、僕はその兄に会ったことさえない。兄は、僕が生まれる前に、交通事故で亡くなっている。僕は、兄のことを生前の写真や母が語る「物語」の中でしか知らない。
僕は、時折、周りの人に長男に特有な性格を指摘される。それは、変な責任感のようなものを自分で勝手に背負い込み、その結果、周りの人に対して横柄に見えることがよくあるらしい。本人には、まったくその自覚がない。困ったものである。もし、兄が生きていたなら、この長男的な性格から解放され、どんな風な人間になっていたのだろうと、兄という存在が僕に与えただろう影響について、僕はしばしば夢想する。今と同じような人間になっていたのか、あるいは、全然違う人格になっていたのか。しかし、それはどんな風に夢想してみたところで、全く現実感を伴わなかった。僕は、兄の存在を体現してみたかった。
Tさんとの出会いは、今から約30年ほど前の1988年にまで遡る。僕の嫁さんと、Tさんの嫁さんが友だちで、僕たちは彼女たちを介して出会った。よくある「彼氏」を互いに紹介するというものだ。嫁さんたちは仲がいいのに、その彼氏、旦那とは、馬が合わないというのは、世間にはよくある話だが、僕たちは違った。なぜか、Tさんは僕のことを気に入ってくれたようで、Tさんが結婚したころぐらいから、僕たちは、嫁さんたち抜きで、「差し」で会ったりするようになった。男兄弟のいないTさんは、3才年下の僕のことを可愛がってくれた。それは、ともだちでもなく、後輩でもなく、まるで「弟」のようにだった。僕は僕で、兄のことを妄想しながら、「兄」のようにTさんに接した。僕たちはよく酒を飲みながら延々とくだらない話をし、笑い転げた。Tさんはサーファーで、好きな音楽といえば、アメリカの西海岸のロック。一方、僕はといえば、高橋幸宏と村上春樹が好きで、映画「レオン」を見ては何度も涙を流す。そんな二人に共通点と呼べるようなものは、殆どいっていいぐらいなかった。それでも、僕たちは馬が合った。特に、僕は、Tさんが話すサーフィンの話が好きだった。彼が高校生の頃、雑誌「POPYE」でサーフィンのことを知り、ジェリー・ロペスの真似をして、毎朝グレープフルーツを食べたいと母親にねだったところ、あまりに高価なため、即効で断られたこと。当時、波乗りに行くときには、マーキー谷口がDJを務めるラジオ番組から、波の情報を入手していたこと。どの話も、僕にとっては、新鮮なものだった。Tさんは、新しいものが大好きなミーハーだった。そして、そのミーハーぶりは、どこかかわいらしかった。
本当なら、年下の僕の方が、連絡をして食事を誘ったりするのが普通なのだろうが、人に甘える術を知らない僕が連絡しないことをよく知っているTさんは、いつも絶妙なタイミングで、僕を食事や旅行に誘ってくれた。また、機会があるたびに、Tさんの仲間に僕を紹介してくれた。いつも受け身でいられる、そんな状態は、僕にとっては大変心地よいもので、そんな彼とのやり取りを通して、僕は、初めてリアルな「兄」のような存在を感じることができた。兄は、死んでもうこの世には存在しないが、「兄」は生きていたのである。僕は、Tさんといる間だけ、「弟」になることができた。
そんなTさんが、この世から突然いなくなった。2022年4月18日未明、3年8ケ月の長い闘病生活は終わった。二度にわたる骨髄移植は、成功しなかった。その闘病がいかに過酷なものだったのかは、今年のお正月に2年ぶりに再会したときの彼の顔をみれば、一目瞭然だった。結果的に、そのお正月でのいつもの会食が、最後にTさんと会った日になってしまった。
僕は、お通夜へと向かう電車の中で、Tさんと過ごしたたくさんの時間のことを振り返った。初めて会った大阪ミューズホールでのスカパラのライブ。神戸ユニバーシアードで観た、日韓ワールドカップ、「ナイジェリア対スウェーデン」の試合。ある時期、毎年GWになると出かけた中村市と四万十川。そして、毎年恒例となったお正月の会食。どれもこれも僕にとってはかけがえのない大切な時間たちだ。そして、これから先、お互いが年を取ってからの、いつもの宴会がどのようなものになるのかと、起こりえない未来に思いを巡らせた。
葬儀の会場に到着し、Tさんの奥さんと少しだけ話すことができた。奥さんから、今年のお正月の時点で、Tさんの病気が再発していたことを、そのとき僕は初めて聞かされる。奥さんが、「お正月どうする?井上君たちにきてもらう?」と聞いたところ、Tさんは、「うん、来てもらう。お正月やし、僕の病気が再発していることは、伏せておこう。」と言ったらしい。一体、どんな気持ちで、Tさんは、僕たちとのあの時間をすごしたのだろう。そのことを考えると、僕は、涙が止まらなかった。