「セイコのスポティファイIDは何?レッツ ビー スポティファイ フレンズ!」
 韓国人の友人のヘジンがスナップチャットからそうメールしてきた時、私はちょうど長らく自分のSpotifyにログインしていなかったために、IDの有効期限が切れていることに気づいた矢先だった。「Spotifyって韓国でも流行ってるの?」と聞くと、ヘジンは「ノー。韓国はメロン」と言う。何やら韓国では、メロンという音楽配信アプリが主流なようだ。日本はLINEミュージックだろうか?ヘジンの言う「Spotify friends」というものがどういうものか少し興味をそそられたものの、なぜか今になって私はSpotifyへの再ログインがうまくいかず、結局なんだかんだしてるうちに面倒くさくなってSpotify friendsのことは有耶無耶になった。どうせ一年半使わなかったのだから、まだしばらくは使うことはないだろう...。
 だけど、思い返せばアメリカにいた頃はよくSpotifyを使っていたものだった。あの頃、私は毎日ジムに通っていて、トラック一周分ある巨大なトレーニングルームのランニングマシンで、いつもSpotifyを立ち上げて音楽を聴いていたからだ。白井君も同じだった。白井君だけではない、その辺にいたアメリカ人の誰もが音楽といえばこのスウェーデン産のアプリであるSpotifyを愛用していた。パーティに呼ばれれば、誰かが自分のSpotifyのプレイリストをサッと開いてBGMを選び、「好きな音楽は?」ではなく「Spotifyでよく聞く曲は?」が自己紹介の挨拶となる時もあった。創始者であるダニエル・エクのサクセスストーリーは去年の秋にネットフリックスでドラマ化され、最近では年末になると友人たちはこぞって、Spotifyによって決定された「あなたが今年最もSpotifyで聴いた曲」というリストを自身のインスタグラムやらのソーシャルメディアで自慢げにシェアすることもあり、Spotifyは嫌でも目にする言葉だったのである。
 そして実際、これは使ってみるととても便利だった。30分に一回流れる広告さえ我慢すれば、世界中の楽曲が無料で、しかもダウンロードなしで聴き放題だったし、リスナーの好みをすぐに学習するので、使えば使うほどに自分好みの音楽の世界が広がるようだった。広告なしの有料会員になったとしても、それほど高くない料金で、大好きなアーティストの曲をいくらでも聴くことができる。マディソンでジムに通っていた頃、私はジムに併設されている無料の託児所を利用して子供を預けると、時間を気にせず毎日ランニングをし、プールで泳ぎ、サウナに入り、たっぷりとSpotifyを聴いた。今はそんな気ままで便利なジムも時間もないので、こうして悲しいかな、Spotifyとはすっかり疎遠になってしまったが、ふと、私の生活事情はさておいても、日本ではアメリカほどこのSpotifyがどの世代からも多く支持されているわけではないことが不思議だった。
 だけど一方で、アメリカで絶大な人気を誇りながら、私にはどうしてもその人気が理解できないアプリもあった。もうずっとアメリカの若い世代で愛されているコミュニケーションツール、Snapchatである。
 設定は変更可能とはいえ、Snapchatは基本的にそこで行われたメッセージなどのやり取りがすべて消える。それだけなら、割とあっさりしたコミュニケーションアプリなのかと思うが、Snapchatには設定をオンにすれば「位置情報がわかる」というサービスもあり、若い子たちの間ではそれをオンにする同調圧力によって、クラスメイトがどこで何をしているか、知ることができるのである。
 私は若い韓国人の友人ヘジンとのやり取りだけのためにこの刹那的なアプリを保有していたが、Snapchatのこの余計な「位置情報機能」のせいで、ある時期、アメリカにいるヘジンからひっきりなしにメールを受信することがあった。というのも、ヘジンはこのSnapchatの位置情報に翻弄され、付き合い始めたばかりの彼氏と自分の女友達の位置情報が同じだということに、半狂乱になって日本にいる私に矢継ぎ早にボイスメッセージを送ってきたからである。
だけどSnapchatの魔物性はそれだけではなかった。そうやってヘジンから尽きることのない恋愛相談を受けるうちに、ある日、やり取りをする私の画面に赤いハートマークのスタンプが出現するようになったからである。これは二人が「二週間以上、お互いに一番メッセージを送り合った相手」という証のエンブレムであり、これからもその調子でSnapchatを送り合うように、とのアプリからの余計な激励のメッセージだった。
 だけど、初めてこのハートマークを見つけたとき、私はなんだか誇らしい気持ちを感じないわけにはいかなかった。Snapchatのフレンドがヘジンしかいない私にとって、彼女がそこでのベストフレンドと認定されるのは当然のことだとしても、若き学生のヘジンにとっても私が一番のメッセージ送信相手だということがなんだか信じられず、嬉しかったのである。そして十六歳も年下の女の子から頼りにされているということに自尊心がくすぐられると、自然とSnapchatでの会話の頻度も上がるようになった。
 もちろん、このベストフレンドの称号は長くは続かなかった。ある日Snapchatを開けると、あの真っ赤に燃えるハートマークが見当たらず、代わりにスマイルマークが出現しているのを発見したからである。私はすぐにその称号の意味を検索すると、悲しいかな、いま、私とヘジンの関係が「数あるベストフレンドのうちの一人」に降格されたことを理解したのである。
いや、ヘジンはアメリカの現役の大学生なのだから、私以外にも友達や「ベストフレンド」がいて当然である。そのことは私にはなんの関係もなかった。そんなことで友情の大きさや形、あるいは重みを計れるものではないだろう。だけど、これはなんという無駄にトラブルメーカーな機能だろうか...。Snapchatはいたずらにも、主婦の私に「あなたはこれまではヘジンにとって一番の友達だったけど、今日からはその他大勢にすぎない」と言い放ったのである。
 というわけで、私は今日も、ヘジンにとって「その他大勢」としてSnapchat越しに彼女の甘酸っぱい恋の行方を見守っている。時々、「きっと他の人にも同じことを送っているのだろう」などという邪推が脳をよぎるのはアプリのせいだが、一体どうして、Snapchatが今も、これほどまでに多くのアメリカの若者に人気があるのか、私にはただただ不思議なことに思えるのだった。

4月21日

「ママ、銃乱射のアナウンスがあったから、暗闇の中でテーブルの下に隠れてるの」
「何?それはリアルなの?それともドリルなの?」
「わからない。ママ、怖い」
「どこにいるの?何が起こっているの?電話して」'

 これは、先月3月16日に『マディソンマガジン』というマディソンのローカル誌がカバーいっぱいに飾ったショートメールの内容だった。この日、私はソーシャルメディア上でこの不穏なショートメールのやり取りだけが掲載された写真を見つけると、つい画面をスクロールする手を止めてこのローカル誌の記事に興味をそそられたものだった。  
 カバーの下のほうには「銃乱射訓練は良い面以上に悪い面があるのでは?」とのキャッチコピーが添えられている。いつもの地元の美味しいお店やゆかりのある人物を紹介するという楽しそうな写真ではなく、なんだか物々しい雰囲気である。ショートメールの中の「ドリル」という言葉が何を意味するのか分からなかったので、それが「訓練」を意味する英語であり、またロックダウンという言葉はアメリカ人にとってコロナに関連するものだけではなく、銃乱射の犯人が来た際に学校そのものを封鎖する時に使うのだということに改めて驚きながら記事を読んだが、それ以上に私を驚かせたのは、奇しくもこの記事に目を留めたわずか10日後の3月27日、アメリカはテネシー州の私立小学校で再び銃乱射事件が起こり、6人が殺されたという事実だった。
 
 そう、アメリカでは2023年に入ってからすでに100件以上の銃乱射事件が起こっており、のどかな田舎町のマディソンでも、今では子供たちは学校で必ず「銃乱射訓練」というものを受けるようになっている。しかもその訓練は、より緊張感を出すために子供達に訓練かどうかを知らせない場合があるので、それによって子供たちが学校生活でトラウマを持つという副次的な社会問題が深刻化しているのである。中には、訓練中に七歳の子供が腕に「ママパパ愛している」と書いて自分が死んだ時に備えたというエピソードや、訓練を受けたことでより多くの子どもたちが、以前より不安感を抱くようになったという統計が報告されており、だからこそ、マディソンのローカル誌は、表紙一面を使って改めて、子供たちが銃乱射訓練を受けることそのものに疑問を投げかけたというわけである。

 六歳の息子を持つ私としては、なんとなく他人ごとではない話だった。あのままアメリカの学校に通っていればいずれは息子もその訓練を受けたわけであり、しかも、もしも子供から銃乱射事件が起こっているから助けてほしいという連絡が入ったとしても、親は絶対に学校に駆けつけてはいけないと教えられるそうである。(無理な話である。)またALICEという悪名高い銃乱射訓練を実施する会社はアンチ訓練派から最も嫌われているプログラムを提供しており、より緊張感を高めるための爆発音などの演出に加えて2019年には偽物の銃を使ってトレーニング中に学校の先生たちを実際に撃ったこともあり、これも大きな物議を醸したことがあった。ALICEのコンセプトは「Run-Hide-Fight」であり、子供たちは犯人が来た時に何か投げつけて犯人を戦えるように手元にハサミなどを持つように教えられる。銃乱射事件は通報を受けてから警察が到着する前に事件が収束することが多いため、このALICEは逃げ隠れて膠着するだけではなく、戦うことも子供達の体に教え込ませるという過激なプログラムなのである。
 だけど、高まる訓練への不満とは裏腹に、今、全米のほとんどの学校が年に一回以上の銃乱射訓練を実施しており、子供達は学校が必ずしも安全な場所ではないということを知っているようだった。彼らは訓練を通じて学校で常に自分が隠れることのできる場所を見つけておくように指導され、ハサミや教材で使う積み木などは勉強道具であるとともに銃乱射の犯人に向かって投げつける凶器にもなり得ると教えられるのである。

「いつもロックダウン訓練の時は本当に緊張する」
 マディソンマガジンの取材を受けたイーストハイスクールに通うアイリーンという少女はそう答えていた。頭ではこれはドリルだって分かってる、と。
「だけどもしもそうじゃなかったら?もし、今回私たちの学校が銃乱射の現場となっていて、自分が来週のニュースに報じられる子供になるとしたら?」
 リアルなのか?それともドリルなのか?記事を読みながら私は、銃社会をいつまでも選び続けるアメリカ社会の子供達への皺寄せは決して小さくないような気がしたのだった。
 

420

「今ボストンに遊びにきてるの!」
 そう嬉そうにスナップチャットからメールをくれたのは、マディソンのカレッジに通う韓国人の友人ヘジンだった。春休みである。
 ボストンはどう?と聞くと、ヘジンは何もかもが素晴らしい!と答える。見るべきものが多すぎると嬉々として語る若いヘジンにとって、大都会であるボストンの一人旅はとても刺激的なようだった。
「だけど...オーマイガー!」
 ヘジンは言った。「ここでは誰もがマリワナを吸ってる。どこでも!誰も彼も!」

 そう、ボストンのあるマサチューセッツ州はカリフォルニアやワシントン州同様、アメリカで大麻使用が合法化されている州の一つなのだ。そしてそういう州ではマディソンに比べると白昼堂々とそういう光景を目にすることがある。だから韓国から大学進学のためにやってきたばかりの若いヘジンにとっては、それもまたボストン旅行で見るべきものの一つだったようだ。

 とはいえ隣接するイリノイ州やミシガン州でもマリワナは合法化されているので、マディソンも日本では比較にならないくらいドラッグは身近なところにあったと私は思う。街を歩けばマリワナの匂いを嗅ぐことはよくあるし(だからマリワナの匂いはすぐに覚える)、警察ですら売買さえしなければ、注意喚起にとどめていちいち捕まえたりはしない。デルタ8と言ってギリギリ合法の大麻を堂々と売っているお店も、ダウンタウンのオシャレな通りで見かけたことがある。毎年4月20日になるとカナダで大麻を合法化させようという運動があることから、ルームメイトを探すサイトやマッチングアプリに「420 Friendly」などという隠語を記載し、自分は大麻使用オッケーだと自己紹介を記載する人なんかもいる。そして使用するしないに関わらず、「マリワナは中毒性がないからタバコよりも安全」というのはどこでも人の口から漏れ聞く話だった。

 少し極端なところになると、マリワナを始め、ある種のドラッグは自然界から人間への「贈り物」であり、精神病などに対するセラピー的な効果があるとして積極的に礼賛する人々も少なからず居た。ハリウッド女優のグイネス・パルトロウは自身が企画する番組でスタッフを南米へ派遣すると、幻覚剤セラピーを受けさせ、その効果をネットフリックスで実証したこともあった。アメリカ人の菌類学者であるポール・スタメッツもまた、その手の人々にとってはスターのような存在であり、ドキュメンタリー「素晴らしき、キノコの世界(Fantastic fungi)」では、マジックマッシュルームによる自身の身に起きた神秘体験について語り、セラピーとしてのマジックマッシュルームの素晴らしさを様々な場所で力説している。
 もちろん、一概にアメリカ人全員がドラッグに寛容というわけではない。語学学校のマイケル先生は「中毒性がないという説は嘘だ」と言う大麻反対派だったし、「誰が吸おうと自分は絶対に吸わないし、吸ったことがない」という人も居るので、アメリカにおける薬物というのは、白であり、黒であり、グレーであり、その向き合い方は十人十色だった。
 だけど、日本で大麻関係で人々がこぞって失望したり憤慨したりするのを見ていると、私はつい「面白いな」と思ってしまう。中毒性があるかどうかの真偽は別にしても、誰が大麻を使用して人生を失敗しようが、アメリカ人はここまで熱心に怒ったり嘆いたりはしないからだ。人格が否定され、謝罪を求められることもなく、そういう意味でアメリカという国は、割と誰もが「精神的に420Friendly」なのである。

 ところで薬物という言葉で私が思い出すのは、アメリカで産後に病院で処方されたモルヒネの成分を含むオピオイドという強い薬の思い出だ。オピオイドクライシスという言葉があるほど、アメリカではこの医療用ドラッグによる中毒者が社会的な問題になっているのだが、そんな言葉も知らない頃にオピオイドを処方された私は他に漏れずすぐにこの薬の虜になり、出された薬を飲み切った次の日に、「もっと処方して欲しい」と医者に懇願しに行ったのを昨日のことのように覚えている。そして「中毒性があるから処方するのはこれが最後よ」と、前回に処方された数の半分の量の処方箋をナースに手渡された時の強い絶望感も...。
 あの時、産後の疲れ切った体に、オピオイドはよく効いた。頭は冴え、恍惚とした万能感に包まれた数時間、身体中に力がみなぎり世界は優しくうっとりと私に微笑んでいたが、薬が切れた途端に動くこともできなくなるほどの底知れぬ疲労感に襲われると、私はすぐに「オピオイド」という薬は素晴らしい薬だと思い込んだ。そして、二度目に手渡された前回の半分の量のオピオイドを一つ一つ、大事に大事に飲んだものだった。
 この話を、タイ人のパニカにしたとき、パニカは「あら?私の時は医者はもっと薬を勧めてきたわよ」と驚きながら言ったことがあった。私と同様、産後に手術をしたパニカも同じようにオピオイドを処方されたが、医者はパニカに「もっといるか?」と毎回勧めてきたのだと言う。あの頃の私なら、そんな風に進められれば有り難く飲んでいたと思うのだが、パニカの夫でありアメリカ人のトニはこの手の医者による薬の過剰な処方を問題視していたので、すぐにパニカは服用を自粛したと言う。少し事情が違えば、私もパニカもアメリカのメジャーな薬物中毒まっしぐらだったというわけである。
 薬物との付き合い方は人それぞれの「自由の国アメリカ」とはいえ、今思うとちょっと怖い話である。

メリーゴーランド

12月18日

 少し前から仕事を始め、張り切って働いているのだが、通勤ラッシュというのがどうも苦手だった。というのも、私には「パニック発作」を経験した過去があり、その発作に付随する「予期不安」という症状に悩まされることがあったからである。
 そもそもパニック発作やその予期不安というものは、閉塞的な空間で起こる。(あるいは起こりそうになる。)最初に発作を起こしたのは一年ほど前、マディソンで白昼に一人、高速道路で運転をしていたときだった。突然「車を停止させることができない」という高速道路上の当たり前のルールがトリガーとなり、運転しながら全身が震え出すという恐ろしい体験をしたのである。
 そしてそれ以来、私は日常的に「自分がコントロールできない何か」を前にすると、再びあの高速道路でのパニック発作を経験するのではないか?という二次的な「予期不安」を発症するようになったのである。
 
 怖いのは高速道路、高速道路を連想させるような広い道、あるいは運転中の「赤信号」(青信号よりも動くことのできない赤信号の方が恐怖を感じる)、混雑した映画館や人ごみ、(物によるが)年季の入ったエレベーター...そして、朝の通勤電車だった。
 空いていれば問題はないが、東京の朝である。空いている車両があるはずもなく、運転間隔調整のために区間内で突然電車が停止した日などは気が狂いそうになることがよくあった。(意外とこの運転間隔調整はよく起こる。)スムーズに運行されていれば、まあ問題はないが、例えば座っている私の目の前に見知らぬ人に立たれたりすると、それがまたどうも具合が良くないのである。
 だけど目の前に立った見知らぬ人に「すいません、目の前に立たないでください」などと言える訳もなく、なんとか気を紛らわしてじっと耐えるしかない。この場合、なぜか読書をしたり音楽を聞くのはあまり得策ではないので(逆にそういうことをすることで気分が落ち着かなくなることがある)、ただひたすら、目を瞑って、目的の駅に着くまでじっと耐えるのである。「ここは電車の中ではなく、もちろん区間調整のための停止もないし、自分の前に誰かが立っていることなどない...」そう自分自身に言い聞かせながら心を無にすることが、ここのところ、私の東京での毎朝の通勤ラッシュのやり過ごし方だった。
 
 ところでそうやって電車の中でぎゅっと目を瞑っているとき、しんとした心の中にふと、私にはたびたび浮かんでくる映像があった。

 それは、マディソンのとある夜の出来事だった。
 その夜、私は友人たちと家から少し離れた場所に新しくできたホットドックのお店に食べに出かけていた。美味しいホットドックと楽しい友人たちとの会合にすっかりテンションが上がった帰りで、私は友人のウィルを引き連れて車に飛び乗ると、いつもの癖で車のカーナビを起動させ、自分がどこにいるかもきちんと確認せずにナビが指し示す方へ盲目的に車を走らせたのである。
 マディソンで初めてのパニック発作が起こってから、まだ数ヶ月しか経っていないころの出来事だった。

「ちょっと待って!ハイウェイ!!」
 家とは逆方向を走りながら、何かがおかしいと気づいた時にはもう目の前に高速道路が迫っており、私は車の中でそう叫んでいた。まさか、カーナビが私のパニック障害を考慮して高速道路を避けるなんてことはなく、今まさに私の運転する車はインターチェンジからなだらかに高速道路へと続く合流地点へかけ上がろうとしていたのである。

「どうしよう!運転できない!」
 パニック発作を起こしてから一度も高速道路など走ったことがなく、広い道でさえも避けていた私である。発作はまだ起きていないがほぼパニック状態の私の横には、ウィスコンシン大学のうら若い学生であるウィルが座っていた。

「落ち着いて!大丈夫だから!!」
 異様に狼狽える私を落ち着かせようと、ウィルが私に向かってそう叫んだ。
 しかし、泣いても笑ってもそこはもう高速道路だった。
「どうしようどうしよう。運転できない」
 目の前がどんどん暗くなっていくような感覚に襲われながら、私はハンドルを握っていた。なすすべもなく、ウィルもただ「大丈夫、大丈夫」と私に向かって言い続けていた。
 車は緩やかにインターチェンジを上り切り、左後方から続く恐ろしい高速道路に合流した...。全身の力が抜けて、気が遠くなっていくようだった...。と、不思議なことに、その道は高速道路に突入してすぐに、再び高速道路を離れるもう一方の下りの道へと繋がっていた。
「やった!出口だ!そのまま降りて!」
 ウィルがそう叫んだ。私はなぜそんなことになったのかわからず、ただ言われるがままに、左右に分かれた道の右方向へ入った。ぐるりと伸びた下りの道はそのまま高速道路から離れていった。さっきまで入りかけていた地獄の道であるが、今は背後へ消えたようだった。
 「あっ違う!入り口だ!」
 ホッしている私に向かって再びウィルが叫び、私の心臓は再び縮み上がった...。
 
 後になって分かったことだが、その夜、私たちが入り込んだこの道は、高速道路へとつながるインターチェンジであり、出口でもありながら、その実ドーナツのように再び元のインターチェンジに舞い戻るという「無限ループ」だったのである。
 だから、出口だと思っていた道は大きなカーブを描きながら再び元の高速道路への入り口に向かう上り坂へと変わり、それに伴って私の呼吸は再び荒くなり、高速道路へと続く。そして高速道路に入ったかと思うと、次の瞬間その出口へと伸びる分岐点が出現し、元の場所に戻っていくのである。

 私たちはその夜、何度も何度も、このよくわからない入り口から高速道路スレスレを走っては再び出ていくということを繰り返していたが、結局、頃合いを見計らってインターチェンジ内で私とウィルは運転を代わり、脱出することができた。(結果的にこの無限ループのおかげで助かったのである。)

 だけど一体誰が、何のために、こんな無限ループを作ったのだろうか?
 私はひたすらに疑問だった。飛び級して大学で物理学を学び、ルービックキューブの世界大会に出場し輝かしい成績を収めた秀才のウィルでさえ、この果てのない袋小路の存在意義を解明できないようだった。

 ただ私たちはぐるぐると、ひたすらに、同じ場所をすごく遅いスピードで走っていた。近づいてはやがて遠ざかってゆく高速道路。ウィルの叫び声。何度も縮み上がる私の心臓。そして無限のメリーゴーランド...。朝、満員電車で一人目を瞑りながら、私はいつもそんな忘れがたいマディソンの夜を思い出すのだった。

11月10日

 9月に急性虫垂炎で入院し、多くの人から指摘されたことは、「これが日本で起きたことで良かった」ということだった。これがもしも、そのほんの2ヶ月前まで住んでいたアメリカでの出来事だったらどうだっただろうか?アメリカの医療費が恐ろしく高いのは有名だが、具体的に自分がその憂き目にあっていたかも知れないという可能性について考えると、背筋が凍りつくようだった。
 まず救急車を使った時点で、その搬送料として(処置や距離にもよるが)数万円から20万円の出費はくだらない。運ばれた先が自身の加入する保険のカバーする病院であれば良いが(アメリカでは加入する保険の種類によって細かくカバーされる病院や処置が異なる)、運悪く、保険の適応されない病院に搬送されてしまった場合はどうだろうか?アメリカの崩壊した医療制度では、虫垂炎の手術は平均で300万から500万円である。入院すれば、滞在だけ(処置なし)で一日20万円となるので、四日間入院した私の場合、それだけで80万円のコストとなるのである。

 だからそうした突然の出費が原因でホームレスになる人もいるし、怪我をして治療もできない人たちもいる。医療費を支払えずに自己破産したという話はありふれた出来事なのである。

 もちろん、アメリカ社会が抱える問題は医療費だけではなかった。それ以外でもアメリカでは今、大学の学費がノンストップで上昇し続けているという問題がある。というのも、親が日本のように学費を支払う文化のないアメリカでは多くの若者たちが二十代そこそこで多額の借金を背負い、それが今深刻な問題となっているからである。8月にバイデン大統領が発表した学費ローン一部免除の政策は衝撃的だったが、それだけでは追いつかないほど、まだまだ多くのアメリカの若者たちが学費ローンの借金を抱えているのが現状で、だから進学する前に数年間どこかでアルバイトをして学費を貯める子もいるし、友人のマットは「だから僕は中国の大学に進学したんだよ」とまことしやかに語ったこともあった。

「年収800万円くらいが最も幸せに生きることのできる年収みたいだよ」

 虫垂炎の入院費の話から、アメリカの医療費の問題、学費ローンについて友人のヘンリーと話したとき、私たちは「幸せに生きるためにはお金はいくら必要なのだろうか?」とGoogleで検索して「年収800万円」という回答を得たことがあった。
 あるいはどこの国が一番裕福なのか?本当に医者になれば幸せなのか?など...。
 確かに、医者になれば裕福に暮らすことができるだろうが、日本とは違いアメリカでは医師免許を継続させるために、生涯定期的に試験を受け続けなければならない。そこに至るまでに医学生としての長い道のりと(もちろん高額の学費ローン)、研修医としてのハードな日々、手にしたお金を十分に使えるほどの満足いく時間を確保できるかどうか?総合的に見て、私たちはどのくらいの時間とどのくらいのお金で幸せを感じながら生きることができるのだろうか?と、そんなことを、ヘンリーと私は最近ウダウダと語り合ったことがあった。

 そんなヘンリーは、現在病院で働く二十四歳だったが、実はキャリアアップのために来年の春には大学へ戻ろうとしていた。もちろんその分、例によって学費ローンが追加でかかることになるのだが、やりたいことのために再び勉学に邁進できるということは数値では測ることのできない幸せがそこにあるようだったし、それは多額の学生ローンや高額医療費などの問題を別にして、私がアメリカが良いと思うことの一つでもあった。つまり、アメリカではヘンリーのように誰もが何度でも大学に戻ったり、そのキャリアを変えることが出来るからである。
 社会人になってから大学に戻ったり学士を取得することはもちろん、介護の仕事をしていた友人が大工になり、バーテンダーになり、普通のオフィスに再就職したこともあり、そうした全く別のキャリアを一つの人生の中で辿るということは、あちらでは日本で考えるほど困難なことではなかった。
 そもそもアメリカでは履歴書に生年月日を記載することを禁じられている。写真を貼ることも、性別を書く必要もないので、採用の際に年齢や見た目でその能力を査定されることがないのである。

 日本ではそんな風に簡単にキャリアを変えることが難しく、たいていは学校を卒業した後のキャリアのままだとヘンリーに伝えると、「その点、僕たちはラッキーだね」とため息をつきながら彼は言った。
「その仕事を好きになれるかどうかなんて働いてみないとわからないのに、就職した後でその仕事が自分に合ってなかったってわかって、だけどそれをもう変えられないとしたら、そんなことは考えるだけでも怖いことだね」と。

 もちろん、高額医療費や学費の他にもドラッグや銃など、アメリカではまだまだたくさんの社会的な問題があった。そしてそういうことをきっかけに人生を転げ落ちるリスクは日本よりも高く、それはそれでとても怖いことだった。だけど一方で、アメリカでは仕事に就いてみて合わなければまた違うキャリアを選択できるという「人生の巻き直し」のオプションがあり、多くの人がそうやって自分に適応した職種を模索することが可能なようだった。
 一体どちらの社会がより幸福な人生への近道だろうか?
 私はそういうことを考えるとやっぱりいつも、どこに住むのが一番なのか、分からなくなってしまうのだった。

OS教育

10月13日

 帰国してすぐ、夏の初めに私は仕事を始めることになった。
「日本に帰国したのだからそろそろ仕事でも...」と思っていた矢先にハローワークで見つけたとある会社のパートタイムである。
 職種は「事務職」及び会社の「専属ライター」。これまで事務職の経験があったし、「書く」という行為も好きだったので「これならやれそうだ」と思って応募したところ、うまいこと採用されたのである。ビザの関係上、アメリカにいる間は働くことができなかったのでおよそ7年ぶりの社会復帰。しかもそれはかたやライターとしても活躍できるという、喜ばしい再出発だった。

 だけど今思うと、いろんなことがおかしかった。
 私を採用したのはかなり小さな会社で、オフィスは都内のマンションの一角にあり、従業員は10人にも満たないベンチャー企業だった。毎日職場に来るのはせいぜい4人ほどで、社長とそのつがいのようにくっついている年配の女性役員の他には、私のようなパートタイムの主婦が2人か3人いる程度である。
 業務連絡のメインツールはLINE。お昼になると仕事場にあるキッチンで、例の社長のツガイのような女性役員が社長のお昼ご飯を作り始め、二人仲良く食べ始める。朝は朝で出勤すると、二人で朝ご飯を食べている日もあったし、日中は廊下の奥にある洗濯機が回っていることもあった。

 業務は何の問題もなかった。
 事務の仕事も、ライターとしての仕事も、それなりに楽しかった。だけど「新人研修」という名前の下、別室に連れて行かれて一時間以上怒られたのは、まだ勤務し始めてたった一週間目の出来事だった。「なんでも言ってね」と言われたので、「サービス残業はできない」との旨を伝えた次の日の出来事である。

 そのうち、入ったばかりで本当に何でも思ったことをストレートに口にする私の態度を改めさせるべく、この「新人研修」はパソコンのOS(本質的な部分という意味)になぞらえて「OS教育」と呼ばれるようになり、ことあるごとにくだんの女性役員や社長が、私の「社会人としての資質(OS)」を正すべく「上司はお客さま」「できないと発言するのはクビ要員」「人の気持ちを考えろ」など、私が「会社でうまく働くコツ」を丁寧に教える時間となった。
 しかもこの「OS教育」には、「7年も仕事にブランクのある私を会社は雇ってくれていて、仕事を教えてくれていて、それはまさしく無料でパソコン教室に通っている状態なのだから、サービス残業は当たり前」という内容の哲学も盛り込まれており、これまでの私の「会社で働く」という概念そのものを根本から覆すような画期的なものが多かった。

 もちろん私はそんなOS教育を自身のiPhoneやApple Watch でこっそり録音すると、家に帰って白井くんや友人たちに夜な夜な聴かせていたが、その結果録音テープを全部聞いた友人の一人は体調不良を訴え、白井くんは「しんどいからもう聴きたくない」とギブアップするようになった。
 そんなOS教育を直に浴びていた私はというと、教育の時間に腕につけていたApple Watchがよくブルブルと震え「脈が高いが大丈夫か?」と私の身を案じてくれることもあったのだが、ある朝ついに、別室に呼び出されている最中に倒れると、救急車で搬送され、そのまま急性虫垂炎で入院することになった。働き出して、たった1ヶ月目の出来事だった。

 もちろん、急性虫垂炎を機に、私は会社を辞めた。この一連の出来事に教訓があるとすれば、いったいそれは何だっただろうか?私のiPhoneやApple Watchには今もまだ、かの「OS教育」の長時間に渡る録音テープが残っている。

夕暮れ

8月28日
 
 2ヶ月前にアメリカから帰国し、ホームであるはずの日本で始まった暮らしは、強烈なカルチャーショックの連続だった。なにしろこの四年、日本に一度も帰国せずにアメリカの田舎町にいたのだから、まずそこらじゅうに日本人が居るということに戸惑ってしまう。それから、未だに誰もがマスクをしているということ、当たり前だけど日本語が飛び交っていること、そして誰もがムキムキでカジュアルなアメリカ人に比べると華奢で礼儀正しくエレガントなことに、いちいち驚かされるのだ。

 日本(日本人)は四年前からこうだったのだろうか?何度もそう私は白井くんに聞いた。でもたぶんそうだったのだろう。四年分のアメリカ漬けの暮らしは確実に私の何かを変えていたようで、だから例えばそれはペーパーワークの多さや現金でしか支払いの出来ない場面に遭遇すると、いちいち辟易するという反応によって日常で顕在化されるのだった。

 毎朝、保育園の連絡帳にシャチハタでハンコを押さなければならない時、私はよくマディソンで槍玉に上がった日本の「ハンコ文化」についての会話を思い出すことがあった。もちろん、勤め始めた会社でもハンコは必須だった。だからこの四年間、一度もハンコを使うこともなく、また四年前、ダンボールのどこにハンコをしまったのかわからない私は、まず東急ハンズまでシャチハタを買いにいく事になった。ずらりと並んだハンココーナーを前にして、そこに表示されていた1300円という値段の高さにひっくり返りそうになったのは私があまりにもその意味から遠く離れていたせいだろう。
 
 職場に復帰した白井くんは、予想通り、平日は帰宅時間がとても遅かった。
 息子は家の近くを流れる川をふざけて「汚い湖」と呼んで笑っていたが、学校から持ち帰った七夕の短冊には「ウィスコンシンに行きたい」と書いてあった。私は仕事を始めて一週間目で上司に口答えしたので、さっそく呼び出されて一時間ほど説教を食うことがあった。いろんなことが突如として変わり、それらがあまりにも違いすぎていて、私の心は時々、込み上げてくる複雑な思いと戦わなければならなかった。それは郷愁とか悲しみといったセンチメンタルな感情ではなく、なんというか、漠然とした生きることそのものへの困難のようだった。

 そんなある夕方のことだった。私はこの日、暗い気持ちを抱えて、息子と二人で荒川の土手を歩いていた。心の中がもやもやしていて、どうしても夕焼けが見たくなったのである。夕暮れ時、少し開けた川の土手に出ると、そこにはいつかマディソンで見たような、ピンク色に染まった美しい空が広がっていた。

 と、突然息子が歓喜の声を上げた。見ると、そこに息子と同じくらいの男の子が私たちと同じように母親と歩いていたのだが、面白いことに、その男の子は私の息子と全く同じデザインのズボンを履いていたのである。
 二人はすぐに打ち解けて駆け出した。ウズベキスタン人だった。
 
 「ウズベキスタン語と日本語が話せます。だけどウズベキスタン語の方が上手です」
 ヒジャブを纏った母親は、私にそう片言で話した。聞くと、その男の子はウズベキスタンで生まれたらしく、だから日本語は私の息子のそれと同じくらいのレベルだったのである。同い年で、同じようにバイリンガルで、同じズボンを履いているウズベキスタン人とアメリカ生まれの男の子。だけど二人の共通言語は日本語なので、二人とも頑張ってカタコトの日本語を話しながら遊んでいるのが、なんだか面白かった。

 「日本はどうですか?」
 サウダットという名のその母親に私が聞くと、「大変ですね」と彼女は寂しそうに笑った。日本で仕事をしている彼女の旦那さんは、週に二日ほどは朝まで働いているのだと言う。
 「アメリカはどうですか?」
 サウダットが私に聞いたので、私は「いい面と悪い面があるよ」と言ったが、それを聞くと彼女は分かったような分からないような顔をしてこくんと頷いた。
 
「ウズベキスタンに帰りたいですか?」
 私は聞いた。
 「はい、帰りたいです。でも難しいです」
 サウダットは言った。

 「アメリカに帰りたいですか?」
 サウダットが私にそう尋ねた。
 「はい。帰りたいです」
 
 はい、帰りたいです。
 とても反射的な言葉だった。考えるよりも先に、あまりにも自然に、あっさりと自分の口から飛び出してきたので、それはまるで自分の言葉ではないかのように耳に響いたが、飛び出した言葉のあまりの重さに、胸が押し潰されそうにもなった。
 「でも、難しいです」
 少し間を置いてそう付け足すと、サウダットはそんな私を見て何かを感じたのか、ふふふと静かに笑った。

 ふと見ると、同じパンツを履いた二人の男の子がまだ夢中になって一緒に遊んでいた。二人は時折、互いの理解出来ない言葉で叫んだりもしていた。その後ろに、荒川と東京のシンボルであるスカイツリーが見えた。それからその上にはいつかマディソンで見たような、ピンク色の美しい夕暮れの空が広がっていた。

帰国

7月21日
 
 七年前の七月、私は生まれて初めて、アメリカ合衆国、ウィスコンシン州はマディソンという小さな街に、夫である白井くんと二人で降り立った。何の準備もしてなかったので、着いてすぐに私はマディソンにある語学学校で必死に英語の勉強を始めた。それから子供も産まれ、二年後、私たちは予定通り日本に戻った。だけどその後ワケあって再びマディソンに舞い戻ると、今度は四年間という月日をこの美しい田舎町で暮らすことになり、気づけば何の因果か三十一歳から三十八歳のうち六年間という歳月を、私はここウィスコンシン州マディソンで過ごすこととなった。
 
 一度目の滞在とは打って変わり、二度目のマディソンでの生活は極貧から始まったので、血を売ろうとしたり、フードパントリーに通ってボランティアとして働いてみたりと、無茶苦茶なことが多かった。その上雪道をスリップして車を壊したことも、パンクしたまま車を走らせたり、はたまた警察に呼び止められたりと、怖い出来事も少なくなかった。高速道路でパニック発作を起こしたこともあった。パンデミックという未曾有の事態が起こり、さよならも言えずに会えなくなった人たちがいた。英語が上達するにつれ、友人たちと揉めることもあったし、ブラックライブズマター、マスクやワクチンを巡る攻防の折には、アメリカという社会が直面しつつある大きな分断を肌で感じることがあった。

 だけどどれだけハードな時を過ごそうと、この六年間、私のマディソンを愛する気持ちは一度も変わることがなかった。どれだけ辛い出来事が起ころうとも、私の目に映るマディソンは変わらず美しかったし、点在する湖を眺めれば、くよくよと悩んでいることがバカバカしく思えることがよくあった。
 モネの油絵のような湖の水面は、どんな時でも穏やかに光り輝いて、そこにいる人々の心を癒しているようだったし、冬になれば真っ白に凍りつくことも幻想的だった。湖が凍らない時はよくアヒルが泳いでいた。名前も知らない不思議な鳥が囀っていた。そして夏になるとそこらじゅうに蛍が飛び交って、やっぱり私たちの心を明るく照らすのだった。

 人との関わりもまた、私がマディソンを愛する理由の一つだった。
 ブラジル人のママ友のルアーナは、私を日本に帰国させないよう、白井くんと別れてアメリカ人と再婚することを最後まで強く勧めた(彼女はウィスコンシン州でゲイの結婚が認められていることから、自分が既婚でなければ結婚したのに...と何度も言った)。中国人のメンディは最後の日、「自分はこれからどうやって生きたらいいのか?」と言って泣きながら別れを惜しんでくれた。ロシア人のエフゲニアも、私が最後に手紙を書いて渡すと、「こういうのは大嫌いだからやめて欲しい」と言って怒ると、やっぱり唇を歪めて泣いた。私も泣いた。

 夏になると街のあちこちでよく無料のライブイベントが催され、人々はテラスで夜更けまで飲み集っていた。秋になれば誰もがフットボールに熱狂し、冬になれば湖はスケートリンク場になった。大学のキャンパスは多くの若者たちが行き交い、大学のキャラクターであるアナグマのバッキーは街のアイドルだった。そして春、学校の学期が終われば...、それは別れの季節だった。
 目を瞑れば今も、私はありありと、その光景を一つ一つ思い浮かべることができる。ダウンタウン、街のシンボルである真っ白な州議事堂、その奥にあるフランク・ロイド・ライトによって設計されたモノナテラス...。たくさんの思い出が「マディソン」という言葉のなかに詰まっていた。

 だけど、私にとっての「ウィスコンシン州マディソン」は、この地理上の、海をはるか遠く越えたアメリカ大陸だけに位置しているものだけではなかった。というのも、ここ長屋での『ウィスコンシン渾身日記』という場所もまた、ある意味では私のもう一つの六年間のマディソン生活だったからである。

 辛い時、苦しい時、あるいは楽しい時も、私の心を鼓舞したのは何よりも、恩師である内田樹先生にいただいたこのブログという「場所」であり、それは仕事もなく何の目的もなくアメリカに駐在することになった主婦である私にとって、大きな心の拠り所だった。
 今でも、先生があの時「日記を書いたら?」とお声がけくださったことは、私の人生において最も大きな幸運だったと思わずにはいられない。ここでの六年間なしに、私のマディソン生活は決して語り得ることはなかっただろう。
 先生がそこにいて、私のマディソンでのあれこれを聞いてくださっていたことで、私はこんなにもマディソンでの生活を愛することができたからである。

 6月13日をもって、残念ながら私たちのマディソンでの暮らしは終わった。
 日本帰国。新天地は東京である。

国境を越えて

4月13日

「お金持ちの、セレブリティのスキャンダルに、私は今それほど興味がないの」
 オスカーの授賞式でのウィル・スミスの平手打ちについて持ち出した時、ママ友のエフゲニアはいつになく神妙に私にそう答えた。彼女の三十六歳のお誕生日のお祝いに、二人で飲みに出かけた夜のことだった。
 エフゲニアはアメリカ人の旦那さんと結婚してマディソンに暮らすロシア人だった。幼い頃、母親の仕事の関係でウクライナに数年間暮らしたことがあり、ロシアにもウクライナにも彼女にはたくさんの友達がいた。1ヶ月半前、最初にロシアがウクライナ侵攻を始めた時、エフゲニアはまだ元気そうに「ニュース見た?」と私に声をかけてきたものだった。その頃、職場に持参するサラダにいつも「ロシアンサラダ」と書いていたエフゲニアは「今日は実はロシアンって書かなかったのよ」という冗談を言って笑うほどの余裕があった。だけどそれ以来、楽観的に捉えていた戦争が長引くにつれ、エフゲニアはソーシャルメディアの活動をパッタリとしなくなり、彼女はここひと月半ほどウクライナのことで頭がいっぱいのようだった。
 ロシアに残した彼女の母親やロシアに対する制裁の影響を私が心配すると、エフゲニアはいつも「ロシアのことは心配いらない」とキッパリと答えた。もちろん海外の会社に勤務していたロシア人の友人は失業し、海外にそのほとんどを頼っていた医薬品などの輸入が滞り、日本の製品を買おうとした友人がその品物を買うことが出来なくなるなど、ロシアを取り巻く情勢が厳しく変わっているのは確かだったが、彼女にとってそんなことはウィル・スミスの平手打ちと同様に大した話ではなく、その心はいつも、彼女がかつて幼少期を過ごし、同じスラブ民族である友人が多く住むウクライナにあるようだった。
「だけど、この戦争は避けられなかったのよ」
 諦めたように情勢を見守りながらそう話すエフゲニアは、「プーチンが何を考えているのか分からない」とため息をついた。そしていつもこう言うのだった。「これはプーチンの戦争なのだ」と。

 ところが興味深いことに、中国は吉林省に戻った朝鮮族のフミンさんの心境はエフゲニアとは真逆の様相を呈し、その心はウクライナではなくロシアにあった。
「私はロシアを応援しています。悪いのはアメリカです」
 久しぶりに電話をした時、フミンさんは電話口でそうあっけらかんと言うと、今、中国ではロシアを応援するためにロシア製品が飛ぶように売れているのだと教えてくれた。その上フミンさんはプーチンのことを「セクシー」だとも表現した。中国の女たちはみんなプーチンが好きで、悪いのは全てアメリカなのだ、と。
「中国の報道とアメリカや日本での報道は真逆みたいだね」
 私がそう答えると、フミンさんはふふふ、と笑って「そうでしょう」と言った。
「それから私は韓国も嫌いです」
 付け加えるようにフミンさんがそう言ったので、私はまた驚いてしまった。フミンさんといえば、中国に住む朝鮮族である。彼女が育った中国の吉林省延吉は朝鮮族の多く住む地区であり、結婚式にもチマチョゴリを着るほどに彼女は自分のアイデンティティは中国というよりは韓国にあるといつも話していたからだ。
「何かあったんですか?」
 私がそう聞くと、フミンさんは先の北京オリンピックがきっかけだと言った。なんでもオリンピックの開会式では中国に住む多様な民族のコスチュームが紹介されたそうだが、その中で吉林省の人たちがチマチョゴリを着て出演したことに韓国のメディアが苦言を呈したのだと言う。
「元々、私たちは戦争で逃げられなかった朝鮮族なんです。たくさんの朝鮮族が国に戻ることができましたが、私たちは逃げられなくて吉林省に残ったんです」
 フミンさんはいつになく感情的にそう言った。歴史的な背景を考えれば当たり前のことだとわかるのに、韓国のメディアは「中国人がチマチョゴリを着た」と悪意ある報道をし、そのことがフミンさんにとって韓国を嫌いになるきっかけになったのだと言う。
「私たちは朝鮮族なんだから、チマチョゴリを着て何が悪いんですか?」
 
 久しぶりのフミンさんとの長電話でそんな話を聞きながら、だけどふと、私はやはり、スラブ民族に、ウクライナに思いを寄せるエフゲニアのことを考えずにはいられなかった。
 アメリカでは、いや、マディソンでは最近、あちらこちらでウクライナの国旗を見かけることがあった。そしてエフゲニアはよく出かけ先で見つけたそんなウクライナの国旗の写真を携帯に収めていた。ブラジル人のルアナの家の玄関にも、小さなウクライナの国旗が先月くらいから吊るされるようになった。近くのスーパーでもウクライナを支援する寄付金を求められることがよくあった。
 住む場所が違うと言うことは、耳にする言葉、目にする情景、手にする情報が変わるということだった。そして国境という当たり前のようにそこにある線引きによって引き裂かれた時、私たちの心はいともたやすく悪意にも好意にも変わり、元々一つであったものでさえ、思いもかけないほど遠くへと引き離されてしまうようだった。
 もちろん、エフゲニアもフミンさんも、マディソンで出会ったかけがいのない友人に変わりはなかった。だけど今、そんな友人たちを取り巻く全く別の環境の変化を感じながら、私はそんな世界のあり様を興味深いと思うよりはむしろ、残酷だと思わずにはいられなかったのである。

マットの時計

4月4日
「エヴァンジェリカルの人とは真に友達にはなれない」とは、多くの人から受けた助言だったけれど、結局私はずるずるとキリスト教福音派・エヴァンジェリカルの宣教師であるマットとジョーダンと不思議な友人関係を続けていた。マットもジョーダンも優しかったし、時々神について話し出すことがあったとしても、それが世間が騒ぐほどに彼らとの友情関係を直ちに辞めなければいけないという理由にはならなかったからだ。

 マディソンで出会う以前、マットとジョーダンは2020年3月まで中国の重慶で宣教活動をしていた。そもそも中国では宣教活動そのものが禁止されているので、彼らの活動は秘密裏に行われていたが、ある時は彼らの部屋で盗聴器を発見することがあったり、ある時は一人一人の時間をバラバラに設定して会合に集まるという工夫がなされたりと骨の折れることが多かったという。だけどその反面、そんな重慶での彼らの滞在時期が一番信者の伸び率が高かったそうで、その頃のエヴァンジェリカルの中国でのグループは水面化で急速に花開いたのだとマットは懐かしそうに語った。

 だけど2020年3月といえばパンデミックの始まりだった。3月、ちょうど休暇を取って他の宣教師の仲間とタイへ旅行に出ていた二人は、思いがけず旅先で中国への再入国が不可能となってしまい、そのままどこにも動くことができなくなってしまった。中国でのアパートの家賃を払い続けたまま、彼らは何ヶ月もタイに留まり中国に戻る日を待っていたが、そのうち中国に戻ることは諦めるようにとの指示が出されると、彼らは全ての荷物を中国に残したまま泣く泣くアメリカに舞い戻り、ウィスコンシン州マディソンに集められたのだった。

 2020年秋、私がそんなマットとジョーダンに出会った頃、彼らはマディソンでせっせと日本語を勉強をしていた。中国での活動再開が不可能となった今、彼らの次なる宣教活動の地は「日本」との天啓を受けたからである。だけどもちろんコロナ禍のもとすぐに日本に渡航できるわけもなく、二人はその後実に長い間、マディソンで根気よく、日本のビザ申請の許可が降りるのを待つ事となったのだった。
 
 ところで中国で活動していたので、二人はもちろん中国が大好きだった。特にマットは中国で過ごした期間が長かったので、「日本よりも中国が好き」だと臆面もなく私に言ったが、それは普段中国に対するネガティブな意見を聞くことの多い私の耳には新鮮に聞こえた。
「中国人は本当にフレンドリーで楽しいんだよ」
 マットがそう語るたびに、私はまた数ヶ月前に中国に旅立ったカイルと言う友人のことを思い出すことがあった。カイルは大学時代、アラビア語を勉強していたが、それは9.11があったからだとかつて私に語ったことがあった。あの頃、アメリカではイスラム教徒への風当たりが強く、いろいろなバイアスが渦巻いていたというが、そんな風潮をきっかけにしてカイルはアラビア語を勉強することに決めたのだと言う。
「僕は自分の目で、耳で、真実が知りたいだけなんだ」
 カイルは私にいつもそう語った。そしてだからこそ、今度は中国に行くのだと言って、実際に中国へ旅立ってしまった。カイルを冒険に導くものはいつも、アメリカ社会の中に蔓延る偏見に起因しているようだったし、私はどちらかと言うと、そうやって社会の中に浸透してしまっている目に見えないバイアスや物の見方にあえて疑問を持ち、立ち向かおうとする友人に惹かれる傾向があった。なぜなら、そうやって様々な無意識のバイアスをきちんと把握することそのものが、実際にはとても難しいものだ言うことを自分自身についても思うことが多々あったからだ。

 ところで、今年の三月に入り、エヴァンジェリカルのマットとジョーダンはついに日本滞在のビザ取得がうまく運び、私よりも一足先にマディソンを去ることになった。一年半の待機の末の、活動再開である。二人とも嬉しそうに「次は日本で会おう」と言った。
 最後の日、マットは私にやっぱり聖書をくれた。そして丁寧に「ここの箇所を読んだらいいよ」と言って、読んで欲しい場所に栞を挟んでくれた。
「一年半もビザの申請を待っていて、本当に長かったね」と私が言うと、まあね、と彼は答えた。それから、「だけどそれで良かったんだよ」と言うと、おもむろにそばにあった紙に小さな時計と大きな時計を描いたのだった。

「ほら、これが僕の時計、そしてこっちが神さまの時計」
 小さな時計はマットの中にあった'マット時間'で、大きな時計は'神さまの時間'なのだとマットは説明した。マットはずっとすぐにでも日本に行きたいとばっかり思っていた。だからマディソンで出国の日を待つ日々は辛いと思うことがあった。だけどそれは神さまの時計とは食い違っていたからで、今のタイミングで行くべきだと言うことに気づいてなかったからなのだと言う。
「だから僕は小さな時計で考えてたから知らなかったけど、神さまはこの大きな時計で見てたから、全部知ってたんだよ。」
 マットはそう言った。そしてにっこり微笑むと、「だからこそ僕はセイコと友達になれたし、マディソンでいい思い出がたくさん出来たんだよ」と言ったのだった。

 たくさんの人が私に、エヴァンジェリカルの人とは付き合うなと忠告した。私自身、宗教に興味があるわけではないので、このまま友達で居ても良いものかと悩むこともあった。だけどそれでも今、マットが教えてくれた大きな時計と小さな時計の話を私は心から面白いと思った。そんな風に世界を「神様」の視点から見るということ、あるいはそうやって全く違う世界を生きている人たちがいるということを垣間見ることは、私にとってそこまで悪いことではないと気づくことができたからである。