6月27日。マディソンは、夕闇に無数の蛍が飛び交う美しい季節である。この時期、マディソンに点在しているいくつかの美しい湖はその水面に白と青の空の色を映し込み沢山のカヤックやモーターボートを浮かべて、まるでモネかルノワールの絵のような美しい姿を見せる。この頃、夜の九時頃まで日は落ちないので、遠くで野外ライブの演奏がいつまでも楽しげに聞こえてくる夜もある。そうしてその音が消えたかと思うと、今度は薄暗がりの中、どこからともなく蛍の光がほうぼうで舞い上がり、そこら中で彼らのひと夏の求愛が始まるのである。穏やかでこの上なく美しくとても豊かな季節である。
 
 二年前の7月、私はこの美しい夏のマディソンに白井君と二人で降り立った。右も左も分からぬ異国の地で最初に感動したのは何よりもまず、アメリカの、マディソンのこの自然の「豊かさ」だった。そしてその羨望は二年経った今もなお、ますます募るばかりである。これが戦争をしている国だろうか?マディソンでの豊かでのどかな生活は、自分がこれまで抱いていた「アメリカ」という大国への考え方を根本から覆すものだったからである。穏やかで平和で安全でクリーンでインターナショナルな学園都市であるマディソンには、あらゆる国の人々が住み、それぞれがそれぞれの文化や歴史に敬意を払いながら、思い合い、助け合って生きていた。夕暮れに行きかう人々は、知り合いではなくてもにこやかに挨拶を交わし、時に冗談を言って笑い合って去りゆく時もある。お金がなくて困っていた日、洗濯機の乾燥機用のクオーターコインを2ドル分、無償でくれた人も居た。自動販売機でポテトチップスを買おうとしたら、商品の補充をしていた業者の人からポテトチップスを貰ったこともある。赤ちゃんを連れていて知らない人から声をかけられるのも、ドアを開けてもらうことにも、私はすっかり慣れてしまった。

寛容で、いい意味でルーズでカジュアル。「マディソンは田舎で刺激がないから詰まらない」と言う人も居る。だけどそれは、代り映えのない至極の美しさに慣れてしまった人の惰性以外に他ならない。マディソンの良さは、人々の人間性も含め、優しくて素朴という点でもあるからだ。だから結局私は、アメリカに来る前に想定していた「怖い思い」(黒人にリンチされるとか、「イエローモンキー」と罵られて石を投げつけられるとか、白井君が銃で撃たれて死ぬとか。)を経験することはなく、この豊かなマディソンの土地に染みわたる国際色豊かな養分を十二分に吸い込み、学び、笑い、人生で最も楽しかったと言っても過言ではない二年間を過ごすことが出来たのである。

そしてもう一つ。そんなマディソンで感じ、身に起った一つ一つをこうして言葉に書き起こし、日記として残すことの出来る場所があったことも、私には何よりも代えがたい大きな幸せだった。こんな風に、自分一人では経験できそうもない機会を与えてくれた家族、そして恩師内田樹先生には感謝してもしきれない。ウィスコンシン渾身日記を締めくくるにあたって、二年間、こんな風に毎月毎月長屋にアップしてくださった内田先生にあたらためてお礼申し上げます。二年間、本当にありがとうございました。

マイアミの思い出

6月9日。「あなたの旅行の経験について聞かせてください。」というメールが悪名高きユナイテッド航空から届いた。メールの文面にある『旅行の経験』とは、数日前に家族三人で行ったマイアミ旅行のことで、『聞かせてください』とは、その帰りのシカゴ行きの飛行機のことである。もちろん、その飛行機について聞かせられる何かとは18時間近くに及んだ飛行機の遅延の話であり、ユナイテッド航空は私たち乗客にそのお詫びとして一人75ドルぽっちのユナイテッド航空の次回割引券を発行したのみだった。遅延理由は悪天候だから仕方ないのかもしれない。そもそもマイアミは雨期である。私たちの滞在中は幸運にも晴れ間の多い日が続いたが、最終日のその日は朝からどうも雲行きが怪しかった。

だけどその日、私たちは午後3時に飛び立つはずの飛行機を空港で6時間近く待ったあげく、「今夜のフライトはキャンセルで、どこのホテルももう空き部屋がありません。明日の朝9時に来てください。」という他人行儀なアナウンスと共に夜のマイアミに放り出されたのである。後から思うと、「どこのホテルも空き部屋がない」というのはユナイテッド側の法螺話だったのだが、やにわにパニックになった搭乗口では我先にとインターネットでホテルを探す人やスタッフに駆け寄る人でごった返していた。私は赤ちゃんを連れて空港で宿泊するわけにはいかないと必死でホテルを探し、一番にヒットした安宿に飛びついたのだが、その日冷静を欠いて予約したホテルは小汚く、部屋は泣けてくるほど寝苦しくジメジメしていた。だけど時計はもはや深夜を回り、外はざざぶりの雨である。疲れの取れないまま、次の日やっとのことでシカゴに飛んだ後、車で三時間かけてマディソンの自宅まで戻ってきた私たちは、楽しかったマイアミでの夏の思い出が掻き消えるほどに疲労困憊する中、ユナイテッド航空からこの一通のメールを受け取ったというわけである。

だからこの旅行の経験で思い出されるのはそんな苦労話である。そもそもマイアミでは特に何をしたということもなかったからである。私たちはマイアミビーチに行き、レンタカーでドライブをし、ホテルのプールで寝そべり、メキシコ料理やキューバ料理を食べてブラついていただけだった。ちょっと良いホテルに泊まってマイアミのダウンタウンとプールとビーチをただ練り歩いていた。マイアミは中南米からの移民が多く、ホテルの従業員やタクシーの運転手などはたいていがヒスパニック系で、そこら中でスペイン語が飛び交っていた。もちろん南米系のご飯は絶品だったけれどニューオリンズに行った時ほどの融合された濃い文化の発見を見たわけではなく、特に見るべき面白いものがあるわけでもなかった。ときどき顔の濃い白井君がそんなヒスパニック系の労働者から気軽にスペイン語で「Hola!」(こんにちは!)と声をかけられて、同業者だと思われているのが面白かったくらいである。そして最後の最後で飛行機のトラブルに見舞われたというわけである。

だけどそんな苦い思い出と共に、私たちには一つだけ忘れられないマイアミの素敵な思い出があった。最終日の前日に夕食のために夜のダウンタウンに繰り出そうとしていた時のことである。私たちはホテルのエレベーターで不思議な二人組の男性と乗り合わせた。それは背の高い紳士とその人よりは少し背の低い紳士の二人組だった。背の高い方の紳士は大柄で体格もよく、浅黒い肌のエキゾチックな顔をしたハンサムな男で、エレベーターに乗り込むと、すぐに私たちのベビーカーをひょいと覗き込んで「何か月?」と快活に尋ねてきた。エレベーター内はその二人の紳士と白井君、そして私と赤ちゃんの五人だけである。もう一人の連れの男性は、少し控えめにエレベーターボーイのようにして立っている。私は「五か月です。アメリカ生まれなんです。」と紋切型の返答をすると、背の高い男性は「それはいいね」と言って、また私たちの赤ちゃんを興味深そうに覗き込んできた。ベビーカーではついさっき寝入った赤ちゃんがいぎたなく足を広げて眠りこけている。「僕のワイフも今妊娠中なんだよ。」とその紳士が私たちをまっすぐに振り返って言った。とてもハンサムで好感の持てる顔だった。「おめでとうございます」と白井君と私が声を合わせて言うと、「君たちこそおめでとう。」と彼はさわやかな笑顔を見せた。

数十秒ほどの会話だった。そこでエレベーターが地上に着き扉が開かれたからである。エレベーターボーイのように立っていたもう一人の紳士が私たちに先に出るようにと手でドアをおさえて促してくれた。私たちはお礼をのべ、ベビーカーを押して先にエレベーターを出た。ふと振り返ると、その背の高い方の紳士が私たちとは反対方向の道へ颯爽と消えていくのが見えた。とてもフレンドリーでなんとも不思議な魅力のある人だと思った。が、それもそのはずである。その去りゆく後ろ姿こそ、アメリカ人ならば誰もが知っているメジャーリーグのスーパースター選手、デレク・ジーターその人そのものだったからである。私たちはエレベーターを降りて数分後、たまたま近くを歩いていたアメリカ人の青年にあの紳士がデレク・ジーターであることを知らされた。彼が妊娠中だと語った妻とはモデルのハンナ・デービスのことで、私と白井君はそのデレク・ジーターに偉そうにも「おめでとう」などとマイアミで先輩風を吹かせたというわけである。

パニカとトニのこと

  5月10日。タイ人のパニカが結婚した。語学学校のすぐ近くにある州議事堂の中で、パニカはとてもカジュアルな結婚式を挙げた。新郎はずっと一緒に暮らしていたアメリカ人のトニである。同席者は語学学校のフロントデスクで働くタイ人のプンとその夫のケビン、それから語学学校の友人である私と韓国人のユン、そして結婚式の進行役の女性の五人だけである。私とユンはたまたま式の前日にパニカとメールをしていたことで知らされただけだったので、もともとは契約書に立会人としてのサインが必要だったプンとケビンだけの予定だったのだろう。結婚式というよりは、結婚の手続きに立ち会うという感じで、10分ほどで終わった。だけどそんなあっさりした式にも関わらず、私は一年以上友人だったパニカの晴れ姿を見て、込み上げてくるものをおさえることが出来なかった。

 私がパニカに出会ったのは去年の三月だった。パニカはタイでアメリカ人のトニと恋に落ち、彼を追いかけるようにして去年の春にマディソンにやってきたのである。34歳だった。なかなかいい年齢である。だけどパニカはタイでの仕事を辞め、いつタイに帰国するのか、帰国してから何をするのかも何も考えずに、ただ時間とお金の許す限り、トニのアパートから語学学校に通っている無鉄砲な子だった。その上、勉強熱心なタイの生徒が多い中、パニカはびっくりするほど勉強嫌いだった。熱心に英語の勉強をしないので、喋っていても何を言っているのか分からないのがパニカの特徴で、「何を言ってるのか分からないから、付き合いたくない」と陰でパニカの事を悪く言っている女の子も居たし、恋人であるトニでさえもパニカが喋るのを黙って聞いた後に、「何を言ってるのかぜんぜん分からなかったよ。」と優しく囁いていることがあった。誰もパニカが英語で何を話しているのか理解できなかった。だけどパニカは英語が上達したいわけではなくて、ただトニと一緒に居たくてマディソンに居るだけの愛に生きる女性だったので、パニカの純粋な愛の前には、「語学習得」というものは何の意味も持たなかったのかもしれない。

 が、語学学校に通っている限り、そんな綿菓子のような甘いことは言ってはいられなかった。私たちの通う学校はアカデミックなコースを取ると、山ほど宿題が出る。パニカは毎日厭々ながら宿題をこなし、時にクラスをリピートしながらも少しずつ英語を上達させざるを得なかった。だけど勉強嫌いのパニカである。だいぶ英語が上達したところで、もうアカデミックなコースを取るのを辞め、宿題が出ない簡単なクラスばかり取るようになった。600のレベルまで進むと、次は大学進学レベルの700の最終クラスとネイティブが通う「ティーチャー・トレーニングプログラム」が残されているのみだったからだ。パニカはそんな上級のクラスに行って毎日宿題漬けになる気なんてサラサラなかったのである。

だけどそのうち、パニカは簡単なクラスをすべて取ってしまい、セッションの始まりにいつも、フロントデスクでうつむきながら、次のセッションで取る授業を悩むようになった。アカデミックではないクラスはどれも二度ずつ取ってパスしたのだとパニカは暗い顔で言った。でもビザの関係上、パニカはフルタイムで授業を受けなくてはいけなかったのである。私はそんなパニカに、近くのコミュニティカレッジに進学したらどうか?と勧めたこともあった。コミュニティカレッジなら語学学校よりも授業料は安く厳しくないのが特徴で、多くの生徒が語学学校で600をクリアした後に進学している。けれど私がその話をしているのを、毎回パニカにアカデミックなコースに進むように指導しているフロントデスクのプンに聞かれてしまい、「パニカはまず英語を勉強すべきなのだ。一年近く居てパニカは全然喋れるようになっていない。勝手なアドバイスはするな。」と、なぜか私一人だけあとでプンに怒られたことがあった。

結局パニカはぐずぐずと遊びのような授業を何度もリピートして、先の見えない恋の終焉を先延ばしにしていた。私はそんなパニカに何度も「トニと結婚したら勉強しないでずっとマディソンに居られるよ」と言ったことがある。トニ本人にも言ったことがある。そう言うと、パニカはもちろん結婚したそうに微笑んだが、トニの方はすこし様子が違っていた。トニはずるい男だったのである。トニはいつもパニカに「先のことは分からない。」とか「来年、君はタイに帰ってるのかな?分からないけど。」などと言って、自分たちの関係を曖昧にしていた。トニはとてもハンサムで頭の切れる男だったが、私はそんなことをパニカに言うトニを、密かに残酷な男かもしれないと思っていた。だらだらと月日だけが過ぎ、パニカは35歳になってしまったからである。私は、毎度暗い顔をして授業の予定を作るパニカを見ながら、彼女はいずれタイに一人で帰るのだろうと思っていた。アメリカでしたいことがあるわけではない。お金も時間もそろそろ限界だろう。誰もがそう思っていた。そしていよいよ、トニと別れてタイに戻るだろうと思われたころ、パニカは妊娠したのである。

今日、少し膨らんだお腹を抱えて、白いワンピース姿で州議事堂にトニと手をつないで現れたパニカは、とても美しかった。予期せぬ出来事のため、親戚や友人などのほとんど居ない寂しい結婚式だった。進行役の女性も、ぼさぼさの髪の毛に普段着というカジュアルな恰好で、州議事堂の渡り廊下に着くと「この辺でするのはどう?」と言った。それでもパニカはすごく幸せそうにトニにぴったりと寄り添い、州議事堂の渡り廊下でトニと向かい合わせになって立った。私たちが見守る中、進行役の女性がトニに「パニカを妻とし愛し続けますか?」と問いかけた。パニカは震えながら恐る恐るトニを見つめた。トニは「イエス、アイドゥ」と静かに、だけど優しくパニカに言った。パニカの目から大粒の涙が次から次へとこぼれ落ちた。「宿題が好きじゃない」と言ってフロントデスクでうなだれていたパニカの姿が私の脳裏をよぎり、私の目からも涙があふれてきた。だけど今日、どんな形であれパニカの愛は成就したのである。九回裏、パニカは黙って愛の逆転ホームランを見事に打ち放ったのである。

(余談だけどパニカはやっぱりもう少し英語を勉強するべきだった。肝心なところで進行役の英語が聞き取れず、誓いの言葉をうまく言えてなかったからだ。でもとても素晴らしい結婚式だった。)

カプレイ教授の退官

4月27日。「今日だよ!」教室に来るなりカプレイ教授が私に言った。もう三回ほど言われているので忘れるはずがないのだけれど、私は「四時からですよね?」と確認する。カプレイ教授は大きく頷いて「ルーム4070だからね。」と念を押した。忘れるはずがない。今日はカプレイ教授の退官の記念講演会の日なのだ。最初にそのことを言われたのは3月の上旬のとある授業の日だった。授業の始まる直前に教壇から私を手招きして呼び寄せ、カプレイ教授は今日の講演会の日程を個人的に教えてくれたのである。そして「デーヴィッド・ボードウェルも来るよ。」といたずらっぽく言った。それはマディソンで映画好きを気取っている人なら誰もが知っている名前である。もちろんマディソンでなくても、映画好きを気取っていなくても、知っている人は知っている有名人である。日本でも何冊か彼の本が翻訳されて出版されているし、ウィスコンシン大学の映画講義のいくつかは彼の本を中心に展開されている。デーヴィッド・ボードウェルはウィスコンシン大学が世界に誇る映画批評の生きた権威であり、ウィスコンシン大学の映画を学ぶ豊かな環境に大きく貢献した人なのである。

だけどデーヴィッド・ボードウェルが来るということよりも、私はとにかくお世話になったカプレイ教授の退官の記念講演会なのだから、今日は雨が降ろうが槍が降ろうが這ってでも講演会にはいかないといけないと思っていた。ただ、カプレイ教授が毎回私にしかアナウンスしないので、一瞬同じクラスのベリチアンナに今日の講演会の連絡メールのようなものが生徒たちには送られていたりするのかどうか確認しようと思ったが、前回のチチカット・フォーリーズのようなことがあってはいけないと思い辞めておいた。いったいどんな講演会なのかもよく知らないけれど、カプレイ教授が熱心に誘ってくれるのだから行かないわけにはいかない。わくわくしながら、私は3時半頃に大学に到着し、会場に向かった。そこはよく知っている会場で、ウィスコンシン大学の内部に併設されている歴史ある映画館である。

会場に入るといきなり私はデーヴィッド・ボードウェルに出くわした。というよりも、デーヴィッド・ボードウェルと一人の助手しかいない。そして何やら大きな声でスクリーンをチェックしている。恐ろしすぎて私は引き返し、何度も女子トイレと会場の入り口のあたりをウロウロと往復し、やはりもう一度出直そうと決意したところでカプレイ教授が現れた。「すいません、早く来過ぎて…」ごにょごにょと言い訳をしている私に構わずカプレイ教授は「こっちこっち!」と言って私を会場に招き入れた。そして逃げ出さんばかりの私の手を取って中に連れて行くと、私をボードウェルに紹介してくれたのである。「ボードウェル!こちらは日本から来たセイコだよ。素晴らしいシネフィルなんだ。」デーヴィッド・ボードウェルは作業の手を止めて、面白そうに私の所に駆け寄って来ると、「日本には四度行ったことがあるよ。」と言った。が、私はもう他にどんな会話をしたのか覚えていない。

始まって気付いたが、集まっていたのは完全に関係者だけだった。生徒など一人も来ていない。ほとんどがウィスコンシン大学のフィルム学に関わるカプレイ教授の素晴らしい同僚やTA、少数の親族と一人のカメラ小僧だけだった。退官の記念講演会と言えば、私は内田先生の講演会のようなもの(沢山の取材陣や卒業生が集まり、講演そのものがまるっと一冊の本になったりするもの。)を想像していたので、きっと講演会というよりは内輪のイベントのようなものだったのだろう。とてもアットホームでカジュアルなものだった。だけど、私はとにかく自分が場違いではないかと思い終始、恐縮しきりだった。カプレイ教授はデーヴィッド・ボードウェルと私を引き合わせた後、今度は奥さんのベティ・カプレイの所へ私を連れて行き、紹介してくれたからである。また、講演が始まると冒頭の挨拶で沢山の関係者にお礼を述べたのち、最後の方で「それから」と言って「皆は知らないと思うけれど、あそこに座っているセイコにもお礼を。日本から来た素晴らしいシネフィルです。」と私をまた大々的に紹介してくれたのである。いくつもの目が私に注がれ、知らない人がこちらを向いて「ハーイ」と手を振ってくれた。デーヴィッド・ボードウェルも見ている。私は恥ずかしくて恐縮して、ぎこちなく笑うしか出来なかった。

まったくもって不思議なことだった。なぜカプレイ教授は、何の関係もない部外者の私に、こんなにも良くしてくれるのか。白井君がウィスコンシン大学に二年間留学することになり、目的もなくウィスコンシン州マディソンにやって来たただの映画好きの主婦である。大好きな映画学を盗聴することに生きがいを見つけ、三セメスター、カプレイ教授の恩恵にあずかり、その合間に子供を産み、産んでもなお授業に通ってきたよくわからない日本人がもの珍しかったのかもしれない。あと一週間でカプレイ教授の40年の教員生活は終わる。そしてまた、あと二か月で私たちのマディソンでの生活も終わる。だけどカプレイ教授は講演会の後、「日本に帰っても連絡を取り合おう」と言ってくれた。人生というのは本当に不思議で何が起こるか分からないものだ。私はマディソンに来て今日と言う日ほど、それを噛みしめた日はなかった。

 4月1日。「もちろん無料だよ。ウィスコンシン大学が映画を愛するすべての人のために配っているチケットだよ。」そう言って授業の後、カプレイ教授は毎年この時期に開かれているウィスコンシン大学のフィルムフェスティバルの上映映画のチケットを私に手渡してくれた。私の他にも何人かの学生がチケットをもらいにカプレイ教授の周りに集まっている。私は嬉しくて手渡されたばかりのピカピカのチケットをしばらく眺めていた。チケットには「10ドル」と書かれていた。それから「土曜 18時15分 チチカット・フォーリーズ」の文字が踊っている。『チチカット・フォーリーズ』!私は嬉しくて何度もそのタイトルを眺めた。『チチカット・フォーリーズ』!それはドキュメンタリー映画の第一人者、フレデリック・ワイズマンによる伝説のデビュー作品のタイトルなのである。「弁護士かつ映画監督」という異色のキャリアを持つワイズマンは、60年代にナレーション、サウンドトラック、テロップなどの説明手段を一切使わないという極めて実験的で挑戦的な“ダイレクトシネマ”という手法を用い、数々の素晴らしいドキュメンタリー映画を作った(今なお作り続けている)ドキュメンタリー映画界のドンである。授業で彼の『法と秩序』という素晴らしい作品を観て以来、私はすっかりこのワイズマンの世界の虜になっていたのだが、この『チチカット・フォーリーズ』は、そんなワイズマンがマサチューセッツ州の精神異常犯罪者の矯正院の日常を撮影し、その衝撃の内容から一般上映が長らく禁止されていたという作品なのである。

 「セイコ、一緒に行かない?」私が恍惚としてチケットを眺めていると、同じクラスのベリチアンナという中国人の学生が声をかけてきた。ベリチアンナはドキュメンタリー映画と日本語に興味のあるウィスコンシン大学の女学生だ。高校からアメリカに住んでいるので英語は第二の母語なのだが、今は日本語を習得したいらしく、ドキュメンタリー映画の授業に潜り込んでいる私によく興味を持って声をかけてきてくれるのである。「それで映画の前に一緒にディナーでもどう?」とベリチアンナは誘う。私は一人で行くつもりだったが断る理由もないので、「もちろん」と快諾した。「16時に会って、私のアパートで一緒に料理を作って食べない?」とベリチアンナはなんだか楽しそうな提案をしたが、私は赤ちゃんの世話のことを考えて「17時からしか会えない」と断った。すると彼女は「じゃあ、私が17時までに夕食を作る。セイコは何もしなくていいから17時に私のアパートに来て、一緒に私が作った餃子を食べよう。」と提案してくれた。私はもちろん快諾した。17時から中国人の女の子が作る本場の餃子を食べて歓談し、18時からずっと観たかったワイズマンの映画を観るなんて、なんて素敵な週末の予定だろう。私はウキウキしながら土曜日、マディソンにある日本食材のお店でベリチアンナの家に持っていくお土産のどら焼きを購入し、家のことを片付けて、一人でバスに乗ってベリチアンナのアパートへ向かった。

 17時8分。約束の時間より少し到着が遅れた私がアパートのドアをノックすると、顔中が汗だくのベリチアンナがアパートから出てきた。眉毛と眉毛の間も鼻の頭も、びっしりと大粒の汗が光っている。「ごめんなさい。ジムでトレーニングしててシャワーを浴びていたの」とベリチアンナは言うが、どう見ても未だ汗だくである。「とにかく座って」とベリチアンナは部屋に招き入れた。大きな可愛いベッドが部屋の中心にあり、横にキッチンの付いたワンルームの学生らしい部屋だ。部屋の端に長い机があり、その机には餃子の代わりにリンゴが三切れ皿に盛られていた。「今日は本当に忙しくて、クレイジーな一日だったの!」ベリチアンナはそう言って何やらバタバタしている。どうやら餃子の種を今から作るようだ。私は嫌な予感を感じながら「何か手伝おうか?」と聞いた。「じゃあ、セロリを切ってくれる?」そう言ってベリチアンナは鶏肉のミンチを冷蔵庫から出した。私は時計を見た。17時15分。ワイズマンの映画の上映は18時15分である。映画上映まであと一時間しかない。だけど私には、今からセロリを切る以外選択の余地もなかった。

かくして私は、ベリチアンナと一緒にセロリを切り、餃子の種を作り、それを皮に詰め、ボイルし、食べる、ということを凄いスピードで行うことになった。ベリチアンナは時々手を止めて喋ったり、彼氏の写真を見せてきたりして、餃子の種を皮に詰める際は「わーお、セイコってすごく速いのね!」と悠長に、私のスピード重視の醜い餃子がすごい速度で作られてくのを見て感嘆していたが、こっちは必死である。この日の映画を楽しみに生きてきたのだから、私はこのワイズマンの『チチカット・フォーリーズ』に一分、一秒だって遅れたくはなかったのである。もっと言うと、余裕をもって15分前には席に着きたかった。何が悲しくて、大好きな映画上映の40分前に餃子をせっせと作らないといけないのか…。だけど種を詰めながら、私はベリチアンナがカプレイ教授の授業や、授業で扱う映画上映の時、よく遅刻して部屋に入ってきていた姿を思い出し、自分が今日、人生の大きな選択ミスをしたのではないかと感じていた。そんな私の心境を知ってか知らずか、ベリチアンナはまた私の餃子の食べる速さに感心した。そして自分はフランス映画が好きで、好きな監督はアニエス・ヴァルダだ、と語った。

私はそんな会話もそこそこに、5分で餃子を胃に収めると、18時には玄関で靴を履いてドアを開けてみせたが、ベリチアンナはアパートの鍵を探し出してなかなか玄関に現れなかった。18時5分に二人で小走りでアパートを出発し、しばらく歩いていると上映開場が見えてきた。(幸い彼女のアパートは大学のすぐ近くだった。)開場が見えてくると私は少しだけ安心し、歩く速度は緩めすぎないよう注意し、少し遅れて後ろを歩くベリチアンナを振り返りながら、「『5時から7時までのクレオ』は観た?」と聞いてみた。ベリチアンナはきょとんとして「何?」と聞き返すので、私が「『5時から7時までのクレオ』…アニエス・ヴェルダの作品の…」と言うと、ベリチアンナは私に追いつこうと頑張りながら「フランス映画に詳しくないの。」と、にべもなく言った。それから「そんなに急がなくても大丈夫よ。」と私に笑いかけた。

 結局、私の努力は報われ、私たちは映画開始2分前に会場に滑り込むことに成功し、私はワイズマンの『チチカット・フォーリーズ』を一秒も見逃すことなく楽しむことが出来た。期待した通り、映画はとても興味深いドキュメンタリーだった。ナレーションも、サウンドトラックも、テロップも無い映像の連続。見続けるのは少し疲れる作品である。目をそむけたくなるような衝撃的なシーンも沢山あった。そんな映画に夢中になっている私の隣で、ベリチアンナは眠りこけていた。こっくり、こっくり、横で単調にリズムを刻むベリチアンナの頭は、静かに、そして永遠に、映画が始まってから終わるまで、気持ちよさそうに揺れ動いていた。そして『チチカット・フォーリーズ』が終わる数分前に目を覚ますと、彼女はどこやらのパーティに顔を出すとかなんとか言い、あわただしく闇の中へと消えて行った。

 3月3日。2月から3月にかけて、マディソンの気候は思わせぶりである。昨日唐突に芝生の雪をすべて溶かしたかと思うと、次の日の朝にはまたそこら一面に白い雪を降らせることがあるからである。春を待ちわびる人々の気持ちをもてあそびながら、マディソンはゆっくりと凍てつくような冬から遠ざかろうとする。けれどそれはまだ長い冬のトンネルの出口ではなく、あくまでも気まぐれに私たちの心をかき乱す一進一退の春への攻防なのである。

 私はというと、そんなマディソンの気候に呼応するかのように、産後の体力は回復したりしなかったりを繰り返していた。手伝いに来てくれた母が一月末に帰国したあと、二月から私の本当の育児はスタートしたのだが、火曜日と木曜日の朝に相変わらずカプレイ教授の授業を聴講に行っていると、それだけですぐに動けなくなり、熱が出て寝込んでしまっていたのである。三時間おきの授乳と家事だけで精一杯だったのだが、それでも調子のいい日は頑張って外に出るようにし、友人に二時間ほど会ったりもした。が、その次の日に決まって熱が出て動けなくなった。出産前からずっと自分に課している読書や映画鑑賞のノルマも思うようにこなせない。産前にランナーとして鍛え上げていた足腰の筋肉がすべて失われ、一キロ走るのもやっとの体になっていたこともショックだった。すべての体力が出産でゼロになり、それを一にするための入り口がなかなか見つからない。可愛いわが子との愛おしい日々と引き換えに、私は何か大きな、自分自身の生命力の一部分をどこかに置いてきてしまったのだと考えずにはいられなかった。

 それでもようやく最近、雪解けの日が増えてくるのと同様に、ジムでトレーニングしたり、語学学校に顔を出したりすることが出来るようになってきた。家事も読書も映画鑑賞も、授乳の合間にやるコツを掴んできた。少しずつ日常が戻ってくると、今度は出産するまで気付かなかったことが見えてくるようになった。広いトイレや段差のないバリアフリーの道のありがたさを感じるようになったし、乳飲み子を抱えているということに対する周りの暖かさも冷たさも、自分が知らなかった世界が急速に見えてきたのである。それと同時に、私を取り巻く交友関係の在り方も様相を変えることがあった。子供を持つという人生の選択に対して、すべての友人が祝福してくれているとは限らなかったからである。「母親にならない」ということと「母親になれない」ということの大きな隔たりについて私は少しも考えたことがなかったので、子供の話題をすることで同世代の友人を知らず知らずのうちに傷つけているということも、これまで考えたこともなかった。だから、たかだか産後二か月でこれまで築いてきた友情があっけなく幕を閉じたり、心無い言葉を浴びせられたりすることがあるほど、『出産』というイベントが女性の生き方において、これほど繊細な問題だったのだということも、私は恥ずかしながら自分が出産するまで知らなかった。
 
 そんなことがあったせいで、私は最近ベス先生の『養子縁組』の話をよく思い出していた。日本では「養子を持つ」ことはほとんど人生の選択にはあがらないが、アメリカでは人生の選択の一つである。実際、ベス先生は二人の中国人と一人のルーマニア人の養女を育てていて、授業でもよくその話をする。そしていつも決まって「子供が出来ないことをずっと嘆いていたが、今は子供ができなかったことを良かったと思っている。そのおかげで今の子供たちに出会えたからだ。」と幸せそうに話を締めくくるのである。私は養子という文化になじみがなかったので、「子供たちは差別を受けたりしないのか?」とぶしつけな質問をベスにしたことがあったが、ベスは少し気を悪くしつつも「ない」と答え、アメリカは養子を持つ人が沢山いるのだと教えてくれた。

 また、夏に取ったネイサンの授業でもこんなことがあった。その日ネイサンは家の絵を描くように生徒に指示を出した。私たちは不思議に思いつつ、ノートにおのおの似たようなサザエさんのエンディングに出てくるような家の絵を描いた。ネイサンは生徒たちが描いた家の絵を満足そうに眺めながら、次にその家に住む家族の絵を描くように言った。またしても私たちは不思議に思いながら、父親、母親、そして子供の簡単な絵を各自ノートに描いた。ネイサンも白い紙に家と家族の絵を描いた。ネイサンが描いた家族は四人家族だった。大人が二人に子供が二人…だけど、ネイサンの描いた家族は私たち生徒が当たり前のように描いた四人家族とは少し違っていた。親である大人は二人ともスカートを履いていたのである。ネイサンは、家族の形は一つだけではない。物の見方は一つではないと私たちに教えながら、女同士、男同士の夫婦もあるし、今は彼らも子供を持つことだってできるだろ?と言うのである。

 あの夏の授業を思い出しながら私はいま、だけどそれはアメリカだから成立するのだと、思わずにはいられなかった。日本にはそんな多種多様な文化はなかなか成立しないし、だからこそ『出産』にまつわる様々な犯罪、閉塞感が日本には蔓延しているように思われるのだ。「赤ちゃんポストに捨てるくらいなら俺にくれよって思う。」と、あるゲイの男の子は私に言った。彼は結婚したいし子供が欲しいのだそうだ。だけど日本人である彼にはそのすべてが難しいことなのである。だから、日本では『出産』という言葉はある人々にとっては喜びだけではなく、苦しみの感情をもたらす言葉ですらあるのである。もしアメリカのように「養子」という選択が当たり前のように、自由にそこにあったなら、救われる人も沢山いるのではないだろうかと、そんなことを考えた春の日である。

1月18日。12月28日に出産して、12月30日に退院したせいか、私は産後すぐ、いわゆる「産褥期」というものがピンと来なかった。出産時に少し手術をしたので、その際に処方された痛み止めがとても強い薬だったというのも一因してか、どこか「産後ハイ」のような状態だったようで、しかもアメリカは退院した翌朝に再び病院に検診を受けに行かなくてはいけなかったためじっくり休んでいる暇がなく、日本でよく聞く「産後は絶対安静にしなくてはいけない」と言われている「産褥期」というものそのものを意識できぬまま、私は日本から「産褥期のケア」のために渡米してきてくれた母親の言うことも聞かずに産後一週間で、何度も外出を繰り返した。が、その後、ぱったりと携帯のメールも開けることが出来ないほどの疲労を感じて床に伏し、一日中泥のように眠り、「これがいわゆる産褥期か。」とぼんやりと思ったりしたのが産後二週間目のことだった。

そもそもアメリカは出産して2日で退院する。しかもその2日間の入院期間はずっと生まれてすぐの新生児と一緒に過ごし、休む暇もなく母乳のトレーニングや新生児の検診など、入れ代わり立ち代わりナースが来てとても目まぐるしい。もともと入院期間が短いというのは知っていたので、私はアメリカには日本でよく聞く「産褥期」という概念そのものがないのだと勝手に思っていたが、漏れ聞くところによると単純にアメリカは「医療費が恐ろしく高い」という事情があって、日本のようにゆっくりと入院することが出来ないのだそうだ。だからアメリカでも「産後は安静にすべき」という考え方はあるそうだが、私はその話を聞くまで、「アメリカ人は単純にタフな民族なのだろう」と思っていた。入院食だってピザやチーズバーガーで、日本人だと乳腺が詰まりそうだと心配しそうなものだが、アメリカではそれが当たり前なのだ。日本人は繊細だから、育児書にはやれ根野菜を食べないといけないだの、とにかく起き上がってはいけないだの書いてあるけれど、アメリカ人が出来ているのなら、本当は「産褥期」なんて都市伝説のようなものなのではないだろうか。私は「産後ハイ」の頭の中で、そんなことすら考えていた。が、もちろんそれは間違いだと、産後二週目にして、寤寐の境に私は思い知った。

ということで、産後二週間から三週目にかけて、私の「産褥期」はピークだったが、三週目を過ぎた頃、少し回復してきた私はまたムクムクと「動きたい」気持ちに突き動かされ、今月中旬から始まったカプレイ教授の「ドキュメンタリー映画学」の初回授業に出るべく、二時間ほど可愛いわが子を白井君と母親に託して大学へ赴いたのである。

カプレイ教授に会うのは年末の12月22日、前のセメスターの最終日以来、一か月ぶりである。前回「フィルム学」を聴講し、最後に挨拶に行くと、カプレイ教授は「いつでもまた来ていいよ。」と私に言ってくれた。「次のセメスターも来たいのですが、出産があるのでどうなるか分からないのです。」と私が言うと、カプレイ教授は「信じられない」というように驚いて、私のお腹をまじまじと見た。(臨月ですら、私はほとんど妊婦だと気づかれないほどお腹が小さかったのである。)「でも必ずまた会いに来ます」と言ってカプレイ教授と固く握手をして別れ、その一週間後に出産し、その三週間後の今日、再び私はカプレイ教授の授業に現れた、というわけである。(わざわざこんなにすぐに授業に復帰するとは、自分でもすさまじい執念のように感じる。)きっと私はまだ少し産後ハイなのだろう。だけど、やはり少し無理をしてこの初回に聴講に行けたのは私にとって嬉しい時間だった。

「やあ、戻ってきたね。」カプレイ教授は学生でもない私ににこやかに微笑んでくれた。出産したと報告すると、やはりカプレイ教授は「信じられない」というように驚いて、面白そうに私のお腹をちらっと見た。カプレイ教授の著書を持っていたので、サインをしてもらうと、カプレイ教授も嬉しそうに「For Seiko!」と書いてくれた。「For Seiko! a wonderful cinefile! Vince K.」そう書いて本を手渡しながら、カプレイ教授は「cinefileって言葉知ってる?フランス語なんだけど。」と私に尋ねた。「映画が好きな…」私は言い淀んだ。すると、カプレイ教授は笑いながらこう言ったのである。「映画を愛する人!つまり、君の事だよ!セイコ!」

1月16日。「明日の夕方19時に入院して、明後日か、遅くともその次の日までには出産する運びになります。」と担当医である女医のシュミール先生に言われたのは、妊娠39週に差し掛かろうとしている昨年の12月26日のことだった。当初の出産予定日は1月2日。日本だと考えられないが、三日ほど前に受診した「超音波検診」で胎児が小さいと診断され、胎盤機能が低下しているかもしれないというリスク回避のため、早めに産んでしまおうという処置だったのである。(アメリカは訴訟などの問題も大きく関係しているのかもしれない。)そもそもアメリカサイズから見て「小さい」という診断だったので、日本だと標準の大きさ(2600グラム)だったのだが、郷に入っては郷に従えである。その日、大慌てで家に帰ると、私と白井君は入院に向けて炊飯器六合分のおにぎりを握り、図書館で『キングギドラVSゴジラ』のDVDを借りて促進剤が効くまでの暇つぶしにしようと画策し、「見納め」と言ってはマディソンの美しく凍った湖の上をツルツルと歩いて写真撮影しに行き…今思うとあまりにも悠長に、そして楽観的に出産の備えをしていた。

そもそもアメリカで出産をすることのメリットとして私が考えていたのは、子供が「二重国籍」になることと、もう一つは「無痛分娩」で出産できるという点だった。計画分娩や帝王切開が主流だというタイ出身のプンに「日本では自然分娩が普通」だと言うと「なぜわざわざ痛い思いを?」ととても驚かれたことがあり、台湾人のジエルからも「帝王切開にしないのか?」と聞かれたこともあって、私の中でずっとぼんやりと「麻酔がある今の世で、わざわざ痛い思いをして出産するなんて文明に反しているかもしれない」というような思いが芽生えていた。担当医のシュミール先生も「麻酔は使っていいのよね?」と念を押してくれたし、私の出産に対する心構えはすこぶる余裕だった。目下の心配事は入院食。事前に出産する病院(アメリカは検診と出産当日の病院が異なる。)の見学ツアーに行った際、ピザやハンバーガーと言ったまるでファミレスのような入院時のメニュー表を見せられて、「これはいけない」と大きな危機感を感じた私は、事前におにぎりや大根の煮物、シチューや栄養ドリンクの準備だけは怠らなかった。(結果的にこれは大正解だった。)あとは、陣痛の合間にいつ『キングギドラVSゴジラ』を鑑賞しようか?などと白井君と相談し、白井君は「あわよくば大河ドラマの『真田丸』も観たい」と言って笑って夜は更けていった。

 ところが、である。12月27日の19時に入院した私は、翌28日の朝10時に出産するという思いがけないスピード出産となり、そのせいで『キングギドラVSゴジラ』も『真田丸』ももちろん鑑賞している暇などなく、夜中の3時に陣痛が始まると、その鈍い痛みはいよいよ夜明けとともに大きくなり、私はひたすら記憶がほとんど無くなるほどに苦しんだのである。あまりの痛さのため、私はすぐに「エピドゥラル、プリーズ(麻酔してください)」と叫んだが、ナースたちは「まだ担当の先生が到着してないから麻酔は打てないのよ」と涼しげに答えて、「まだ生まれないだろう」と言って相手にしてくれなかった。こんなに痛いのに、まだ噂に聞く無痛分娩にならないのだろうか?キングギドラかゴジラにでもなりそうなほど「痛い、痛い」と日本語で叫ぶ私の背中をひたすらさする白井君。「エピドゥラル、エピドゥラル、プリーズ!」私がしつこく麻酔をしてくれ、と叫んでいると、ついにナースが「あら、もう子宮口が開き始めている」と動いてくれたのが朝の8時である。やっと痛みから解放される、と安堵したのもつかの間、「担当医のシュミール先生が到着してないから、麻酔はまだ打てない」と再び言われると、シュミール先生を待つこと一時間。(一年くらい待ったような長い時間だった。)そしてやっとのことで到着し、病室に入ってきたシュミール先生は、開口一番「もう麻酔を打っている暇はないのでこのまま行きましょう」と言い放ち、私は予想してなかったまさかの「自然分娩」で12月27日朝10時、アメリカはウィスコンシン州マディソンの病院で小さな男の子を出産したのだった。

それにしても痛かった。この喜ばしい出産という人生の大きな出来事の中で、恨み言を一つ言わせてもらうとすれば、この朝、病室に遅れて現れて「麻酔無し」の決断をしたシュミール先生が、実は花柄の上下のドレスに白衣を羽織って現れ、その実メイクばっちりという今までで見た中で一番美しい姿をしていた、という点である。先生がもし、ノーメイクで、着の身着のままで病院に駆けつけてくれていたら、私はもしかしたら無痛分娩で出産出来ていたのではないか、と、私はつい思わずにはいられないのである。

好奇心旺盛なダラル

 12月23日。「サウジアラビアでは、結婚するまえにSEXはしないの。」すっかり降り積もった州議事堂の雪景色をバックに、スターバックスで席に着くなりサウジアラビア人のダラルは唐突にそう言った。「アメリカも厳しいキリスト教信仰者の間では結婚するまえにSEXはしないそうよ。ベスがこないだそう言ったの。」ベスというのは、旦那さんが教会の牧師か司祭か何かをしている語学学校のベテランの女の先生のことだ。彼女はとても厳しい先生でも有名だが、いかにも教会に携わる彼女が言いそうなことだなと私は思ったりもする。「日本はどう?」とダラルが聞くので、私は少し考えてから「日本はそんなことないよ。結婚前も結婚後も…例えば不倫なんかもよくあるよ。」と答えてみた。するとダラルは「本当に?!」と叫んで両手で口をおさえた。ダラルにとってはカルチャーショックだったようだ。「まあ、基本的には許されてないけどね。」と私は付け加える。

 この美しい昼下がりの女子トークに、ダラルがなぜこんな話題を選んだのか分からなかったけれど、「ベス先生」と聞いて私はふいに前のセッション、ベスが「ネットのポルノ閲覧」について凄まじいほど個人的な嫌悪感を露呈したことを思い出していた。授業中、彼女の娘のネット閲覧履歴に「ポルノ画像」が含まれていて驚嘆したというエピソードを披露したベス先生は、少し異常と思われるほど、「ポルノが」「ポルノが」と「ポルノ否定」をしていたので、私はつい「ポルノを閲覧することってそんなに悪いことですか?」と反旗を翻し、火に油を注いでしまったことがあったのだ。ベス先生は予想以上に怒りの矛先を私に向け、「あなたのそのお腹の子供がポルノを見るようになったらどうするの?」と私に尋ねた。私は「別にいいんじゃないの。」と答えたけれど、保守的で敬虔なキリスト教徒のベス先生には理解できなかったようで、このときは、ベス先生との間に分かり合えない大きな溝がぽっかりと空くのが見えた瞬間だった。

 当たり前のことだけど改めて、信仰する宗教のレベル、国やカルチャーごとによって『性のあり方』もとても違うのだなと私は考える。もちろんサウジアラビアでは同性愛は許されていないので、ダラルはアメリカに永住しているサウジアラビア人の男がほとんどゲイなのだということを、声を潜めて教えてくれた。祖国で認められることのない彼らは、アメリカに渡り、アメリカで同性婚をし、祖国を捨ててアメリカに移住している人ばかりなのだそうだ。(だから、マディソンに永住しているサウジアラビア人はゲイが多いのよ。とダラルは私に耳打ちする。)そう言われると確かにアメリカではゲイをよく見かけることがある。そのせいか分からないが、こちらに来てから何人かのティーン達があっさりと私にカミングアウトすることもあったし、語学学校の先生やスタッフの一人がゲイであるということも生徒やスタッフの間では暗黙の了解である。

 だけどそういう同性愛への寛容さの一方で、アメリカ人というのは不倫やセックスレスなどによって、驚くほど簡単に離婚する一面があるのも事実である。知り合いのアメリカ人の両親があまりにも多く離婚しているせいで、長年連れ添った熟年夫婦を見るとつい感動を覚えてしまうくらい、こちらの離婚率は高い。日本とは違い、こちらでは「夫婦」であるということが「性的な結びつき」によって強く結ばれていることが絶対的な条件なので、日本のようにセックスレスでも不倫されても離婚に至らない、などということは考えられないのだそうだ。それに、日本のように「ちょっと角を曲がればいかがわしい通り」というものもマディソンでは全く見かけることがない。もちろん噂ではそういう場所もあるとは聞くけれど、町中でけばけばしい無料ティッシュも配ってもないし、そもそもラブホテルや風俗店なども見たことがない。徹底的に町や人々の思想から表向き「いかがわしさ」というものが排除されているクリーンな印象を受けるのである。

 昼間からダラルがSEX、SEXと連呼するので、私はだいぶ恥ずかしかったが、ダラルはアメリカや日本の「性」のあり方に興味津々だった。もしかするとダラルはサウジアラビア人の女性の中ではとても特異なタイプなのかもしれない。だけど、彼女のそういう何事にも好奇心旺盛な姿勢は、保守的で厳格なキリスト教徒のベス先生よりも何倍も柔軟で寛容さに富んでいるように私には思えたし、ダラルの話や興味の対象はいつもとても面白かった。スターバックスを後にし、力強いハグをしてダラルと別れた私は、白銀に染まったマディソンの町を滑らないように慎重に歩いてバス停へと急いだ。まだまだ妊婦だとばれることがないほど私のお腹は小さい。だけどしばらくはこんな楽しくて刺激的なランチもお預けである。真っ白な州議事堂の雪景色を見てバスを待ちながら私はふと、次にダラルに会う時は私もダラルと同じく母親なのだなぁと思ったのである。

それぞれの住環境

 12月16日。日本人留学生のユウト君から、先月のサンクスギビングの動画が送られてきた。毎年11月末にあるサンクスギビングはアメリカの大切なホリデーの一つで、家族で集まってターキーを食べるなどして過ごすのだが、家庭によっては食後の団欒として余興のようなものをすることがあるそうで、その時の記念の動画を送ってくれたのである。ユウト君が参加したホストファミリーの余興の動画は歌の披露だったが、それはただ歌を披露するのではなく、ちょっとした小芝居も組み込まれていた。それはサンクスギビングの晩餐後、バンドマンであるホストファザーがギターを片手に一族の前で歌を披露するところから始まる。けれどなぜかその日、ホストファザーはいつもの調子が出ない。ホストマザーが助けに入るもなぜかうまくいかず、場は白けた雰囲気になる。そんな二人を見かねた留学生のユウト君が「オーケー」と立ち上がり、ビートルズのhere there and everywhereを歌い上げる。という筋書きなのである。サンクスギビングの一週間ほど前から、学校の宿題の合間に歌や小芝居の練習をしなければならないと焦っているユウト君の姿をみて、私は密かに、「そんなことをさせられるホームステイ先は嫌だ」と思ったものだが、まだ19歳の彼は割と楽しんでこなしていたので、すっかり感心してしまった。そうでなくても、ユウト君のホストファミリーは日ごろからユウト君に「今日は先生に質問を一つすること。」などと課題を出したり、予定のない週末にはクッキー作りを手伝わせたりしていたので、私だったら耐えられずにホスト先を変えてしまいそうなものだと思っていたのである。

 実際、ホームステイ先との相性が合わないといったトラブルというのは、語学留学に来ている生徒の間ではよく聞く話である。先々週、カンバセーションアワーに参加していた韓国人のジャイアンという女の子は、「最近どう?」というジェシー先生の社交辞令的な第一声に対して、「私の部屋のエアコンだけが動かないの。」と言って泣きだしたからである。「大丈夫?」と周りが心配していると、ホストファミリーはとてもケチで、“シャワーは5分以内で浴びる”などを含む27個のルールが定められていると言って彼女はノンストップで不満をぶちまけた。その上、ホストファザーが車で送ってあげるというから車に乗ると、後で15ドル請求されたそうで、ジャイアンは自分がこんな目に遭っていることを韓国に居る母親が知ったらと思うと涙が出るのだそうだ。カンバセーション開始早々の事態に困惑しながらも、ジェシー先生は優しくティッシュを差し出して、「どう?皆、何か彼女に言ってあげられるいい解決案はあるかしら?」と、本日のカンバセーションのお題にして私たちに話を振ったが、その日集まった数名の生徒たちによって絞り出された解決策はたった一つだった。「ホームステイ先を変えること。」

 ジャイアン(それにしても面白い名前)の話も確かにひどい例だったけれど、留学生たちの話を聞いていると、ホームステイ先というのは本当に当たりはずれがあるように思われる。飼っている犬がうるさい、とか、家の子供たちが反抗期、食事中によく夫婦喧嘩が勃発する、というのはまだましな方で、ホストマザー一人だけの家庭だと思っていたら、実は地下に「知り合いの乞食(!)」を住まわせており、人目を避けて夜な夜な乞食が台所に出没していたという話や、毎週金曜日の夕食はカリカリのベーコンとフレンチトーストだけで、もう二度とフレンチトーストは見たくなくなったという話、猫が直前までお尻をつけて座っていたお皿に気にせず料理を盛られた話、食後は指先で料理の皿を嘗め回す家族の話、いつもトイレを流すことのない家だったので、来る日も来る日もホストファミリーの大便小便を流していた話など、多岐にわたる。とりわけ、大便小便を流さないホストファミリーの逸話は他の2,3人の留学生から聞いたことがあったので、私の中ではちょっとしたマディソンの七不思議の一つだった。

 もちろん、ホームステイをすることで、サンクスギビングなどのアメリカの伝統的な家庭を体験出来たり、ネイティブの人の英語に常に触れる機会があるというのは、私のように個人でアパートに住むよりも楽しそうで羨ましく思うことはあるけれど、ホストファミリーとのトラブルの多くは、潔癖性な日本人留学生から漏れ聞く話が多かったので、私は、これはこれで良かったかなとも思う。とりわけ、ここマディソンでのアパートは、私が結婚してからこれまで暮らしてきた五つのアパートの中で一番広くて快適である。マディソンのアパートにはどこもたいていジムとプールが付いていて、私のアパートにもジムとプール、サウナとちょっとした集会場のようなものがあって、その上卓球台や屋外バーベキューもある。寒い土地ならではのセントラルヒーティングのため、冬でも常にアパート内は暖かいし、アパートの前には広々とした芝生の公園が広がっていて、リスやウサギが走っている。歌を歌わされることもなく、大便小便を流さないホストファミリーも居ないので、気楽なものである。

 だけど、そんな私がちょっと住んでみたかったな、と思うのは、ウィスコンシン大学が経営している特殊な寮の話である。ダウンタウンに住む学生達のほとんどがシェアハウスや寮に住んでいるのだが、そのうちの一つに、語学向上用の寮があるという話を聞いたからである。私のカンバセーションパートナーだったパラヴァノフ君の彼女が、その「フランス語専用」の寮に住んでいたそうだが、その寮に住む寮生たちは、フランス語しか話してはいけないルールなのだそうだ。そういった語学向上用の寮は他の言語もあり、パラヴァノフ君は日本語専用の寮に入りたいと私に語っていた。しかもそういった寮ではその言語専用のTAも少し安めの金額で一緒に住んでいるので、月に何度かは勉強会のようなものも開かれているのだそうだ。勉強熱心な学生の町、マディソンならではのなんとも素敵な住宅事情だなぁと私は思うのである。