二足の草鞋

12月10日
 11月に入り、マディソンもいよいよ極寒の季節を迎えようとしていた頃、ちょっとした出来事があった。後から思うと、それは自分自身が「貧困生活」を送っているという恥ずかしさからくる嫉妬に起因するようなことだったのかもしれないが、それでもそれは人間関係のズレや居心地の悪さが付きまとい、なんとなく心のささくれとなって自分の心の中に沈殿するような出来事だった。例えばそれは、自分自身を査定された場合に、「身の回り品」や「パートナーの収入」でしか評価されないとなると、どう考えても、私は人より分が悪いという事実による、いたたまれなさや悔しさのようなものだったのである。

 そんなちょっとしたことがあった11月のある日の夕方のことだった。くさくさしていた私の目に、ふと「ボランティア」の文字が飛び込んできたことがあった。週に二度ほど訪れるコミュニティセンターで、何やら「ボランティア」を募集していると書いてあるのである。
 ボランティア...。

 私はビザの関係上、就労することが出来なかった。そのためアメリカで血を売ることもできない呪われた身分だった。だけど、お金を稼ぐことは出来なくても、働くことは出来るのではないか...。これまでの人生でボランティアに参加したことなど無かったけれど、何故だかこの日、私は途方もなくこの「ボランティア」の文字に心惹かれ、道が開けたような、晴れ晴れしい気持ちになるのを感じていた。自分の価値を底上げしたかったからか、それとも人との比較によって沸き起こってしまったさもしい気持ちをかき消したかったのか、どちらか分からないけれど、私はこうしてその日、天啓を受けたかのごとく、すぐにコミュニティセンターのボランティアについて問い合わせをするに至ったのだった。

 それは週に二度ほど出入りしているコミュニティセンターだった。家から車で南へ十分ほどの距離にあるそこへ、私は毎週、恵まれない人に配給される様々な物資を取りに足繁く通っていた。また、金曜日には子供のために無料で児童館のようなものが開放されるので、そこも利用しており、そのうちにスタッフとはいつの間にか顔見知りになって、あるときはそのスタッフから息子に大量の古くなった衣類をプレゼントされるということもあり、かなり居心地の良いコミュニティセンターだったのである。
 
「ボランティアに興味があります」
 私はさっそく物資を受け取りに行った帰り、顔見知りのスタッフに問い合わせてみた。するとすぐに近くに居たシンシアという黒人女性を紹介され、シンシアからウェブ上でエントリーするようにと教えられた。
 どんなボランティアをするのか分からなかったけれど、私はおそらくこのコミュニティセンターで行われるシニア向けの「炊き出し」の配膳や調理のボランティアだろうと想像し、その日中にウェブ上でのエントリーを完了させた。シンシアや顔見知りのスタッフには「どうにか社会にコミットしたい」やら「今の自分を変えたい」などと熱いことを言ってボランティアに対する熱意も口頭で伝えた。あとはシンシアからの連絡を待つだけである。

 ところが、エントリーしたものの、待てど暮らせどシンシアからは一向に返事が来ることがなかった。二週間ほど待った後、しびれを切らしてシンシアに再度問い合わせると、シンシアは「モリーという女性から連絡があるはずだ」と言う。それからさらに一週間、私は我慢強くモリーからの連絡を待ったが、やはりモリーからも連絡はないのである。シンシアにもう一度問い合わせると、今度は「ビッキーから連絡がある」と言う。だけど、やっぱりビッキーからは一向に連絡は来ない。
 
 ああ、そうだ...これがアメリカ式仕事術なのだ...。私はここで初めて、アパートのオーナーがこの夏、いつまでたってもアパートのインターフォンの設定をしてくれなかったことを思い出していた。彼女はいつも「今日の午後する」と言って、したためしがなかった(結局、インターフォンの設定は二か月以上もかかった)。シンシアだって「今日の午後、確認してメールする」と言って、一度もメールをくれたことがなかった。保険会社への電話も全然つながらないとぼやいていた友達も居た。「フードシェア」というシステムを利用するために担当者へメールを送った時も、四度目のメールでやっと返事が来たことがあった。日本では考えられないが、とにかく、アメリカでは何度も何度も根気強く問い合わせをしなければ、物事が動かないことが頻繁にあったのである。
 そうして、「ボランティアをしよう」と思いついたあの11月の日から、無駄にひと月が経とうとしていた。12月に入り、もしかして自分はボランティアも出来ない身分だったのか?と、底知れない疑心暗鬼と自信喪失に日々さいなまれるようになっていた頃である。さすがに「何度もボランティアの問い合わせをするアジア人」と認識されたのか、シンシアでもモリーでもビッキーでもないスタッフからやっと、「あなたのペーパーワーク、通過しました」とのメールが私のもとに届けられたのだった。

「来週の木曜日から、フードパントリーで一緒に働きましょう」
 メールにはそう書かれてあった。
 "フードパントリー"
 それは、私にはとても馴染みのある言葉だった。というのも、「フードパントリー」こそが、火曜日の夜に私自身が足繁く通っている「物資配給」の制度の正式名称だったからである。とすると、それは私が思い描いていたような、老人に食事を配膳したり調理したりする「給食のおばさん」のような仕事ではないということを意味していた。むしろ、「フードパントリー」のスタッフを見ていると、食品に関する語彙力や、受給者との高いコミュニケーションスキルが必要とされるようなちょっと難しそうな仕事だった。

「ボランティアというのは、フードパントリーのことですか?」
 とんちんかんなメールを返すと、すぐに「イエス」、と困惑気味の返事が返ってきた。確かに、よくよく応募したページを見ると、ボランティアはフードパントリーのスタッフと書かれてある。だけど、私はもともと火曜日の需給日に毎週出没しているフードパントリーのヘビーユーザーである。となると、図らずも私は、火曜日には物資を受け取りに行くパントリーユーザーであり、翻って木曜日には、物資を分け与えるスタッフ側になる、という訳の分からないことが起るわけである。

 白井君はボランティアが決まったと報告する私に、「良かったね」と顔をほころばせながら、だけど不思議そうにこう尋ねた。
「それがずっとやりたかった仕事なんだね?」
 そう聞かれると、この一か月、「アメリカ人は仕事が遅い!」とぼやきながら、何度も何度もコミュニティセンターのスタッフにボランティアの問い合わせをしていた自分の姿が蘇ってくる。あれだけアメリカ人をせっついて手に入れた仕事である。今更、「思っていた給食のおばさんみたいな仕事じゃなかったので辞めます」とは言えるはずはないのである...。

 かくして私は、火曜日には、恵まれない"フードパントリーユーザー"として物資を受け取りに行き、木曜日には物資の受け渡し側に回ってスタッフとして奉仕するという二足の草鞋を履きこなしながら、生まれて初めて「ボランティア」という職を、ここマディソンで手に入れたのだった。

11月24日。
 カンバセーションパートナーになったアメリカ人のニコールには、クロエという二歳になる娘が居た。ニコールは父親の仕事の関係で幼少期を日本で過ごした経験があり、娘のクロエがいつも大事そうに持っているトトロのぬいぐるみを使って「オハヨウゴザマス」と日本語を交えた歌を歌う親日家だった。そんなニコールと私は少し前にひょんなことから知り合いになったのだが、ちょうどクロエが私の息子と同じくらいの月齢であることから、私の方からニコールにカンバセーションパートナーになってくれないか?と、持ち掛けたのが私達の関係の始まりだった。英語は使わないとすぐに話せなくなってしまう。だけどニコールなら、うちで子供同士を遊ばせながらフレキシブルにパートナーを組むことが出来る。ニコールは仕事をしているのでその合間、月に一、二回ほどで良い。出会ってすぐにもかかわらず私がそう提案すると、彼女はすぐに快く引き受けてくれ、私は新しい形でニコールとカンバセーションパートナーを組むことになったのである。
 そうしてパートナーとなったニコールは、実はキリスト教の教会で週に何度かバイブルのクラスを担当している聖職者だった。旦那さんも同じように教会で働いているという彼女は、大学時代に社会正義という分野を専攻していたため、アメリカが抱える社会問題や差別、貧困などの問題にとても詳しく精通しており、彼女と話しをするのはとても刺激的だったのだが、さらに私の興味を引いたのが、彼女の娘のクロエはどこからどう見ても黒人だということだった。ニコールが白人なので、私はずっとクロエの父親が黒人なのだろうと思っていたのだが、ある日、会話の中でニコールが「この子の産みの母親が...」と言ったことで、私はようやくクロエが養子(アダプティッド・チャイルド)であることを理解したのだった。

 日本では出会うことはなかったが、養子(しかも肌の色が違う子供)を持つ人に出会うのは語学学校のベス先生に続き、ニコールが二人目だった。ニコールの場合は、自分が子供を産むことができないと分かった時点で養子を迎え入れることを考えていたそうだが、数ある養子縁組のタイプの中でもニコールの場合は、違う州に住む白人の母親から依頼を受けて引き取ったのだと彼女は教えてくれた(ちなみに、クロエが黒人なのは父親が白人と黒人のハーフだからだそうだ)。
 ニコールは、自分とクロエの産みの母親との関係は"非常にオープン"なのだと言いながら、近年、アメリカでかなり深刻な問題になっているオピオイドという麻薬系鎮痛剤の依存症について知っているか?と私に尋ねた。もちろん私はそんな薬物依存症については知らなかったが、このオピオイドは去年トランプ大統領が非常事態宣言を行うほど、アメリカでは社会問題になっていると、ニコールは丁寧に教えてくれ、クロエの母親も同様にオピオイド依存症患者であり、子供を育てることが出来ない状態だったのだと私に言った。
 ところで、こうした薬物依存症の母親にはすぐに行政が介入することがあった。だからクロエは生まれてすぐに、行政の手によって母方の親戚に養子に出されることになったのだという。しかし、このように半ば強制的に親戚の家に養子に出されるとなると、ことは一筋縄ではいかないことがあり、クロエの母親もまたこのような形でわが子が親戚の手に渡ることを潔しとしなかった。クロエの母親は、なんらかの理由で、クロエを親戚の家に養子に出したくはなかったのである。そうなると母親が取った最後の手段は、子供を親戚に取り上げられる前に、自ら養子に出してしまうという方法であり、クロエの母親は膨大な登録リストの中からアダプト先としてニコール夫婦を選び出し、ある日、ニコールのもとにエージェントから連絡が入ったのだった。
「もちろん、そのことに関しては、私たち夫婦は何度も話し合ったわ」
 数ある養子縁組のシステムの中で、選出されて子供を引き取ることになったニコール夫婦も、もともと養子が欲しかったとはいえ考えなくてはいけないことが山ほどあったとニコールは語った。だいたいクロエはクォーターとはいえ、見るからに黒人だった。社会正義について人一倍詳しいニコールである。「クロエのことは心配していない」と言いながらも、彼女はアメリカにおける社会問題の現実をよく知っていた。悩みながら、だけどニコールは何度も夫と話し合った末、ついにクロエをアダプトすることにしたのである。

 私よりもいくらか若いニコールのこのいささかシリアスな人生の選択の話を聞きながら、私は即座に「すごいね」などと感想を述べることが出来なかった。もちろん養子を持つことのアメリカでのシステムはいろんな意味で素晴らしいことだと思いつつ、馴染がない分、自分の中ですんなり飲み下せるテーマではなかったし、自分が養子を持てる立場だったとしてそうした決断を下せるのかどうか自信がなかったのである。

 だけどそんなニコールとシリアスなカンバセーションをしながら、私はふと、ある母親の事を思い出していた。
その母親とは週に一度行くコミュニティセンターで出会ったのだが、ちょっとしたきっかけで話しをしていた時のことだった。彼女はとても屈託なくフレンドリーで、私たちは初めて話をするにも関わらず楽しく歓談していたが、実はそんな彼女にはアリスという重度の障がいを持つ娘が居た。しかも彼女の携帯電話にはひっきりなしにこのアリスに関するセラピーから電話がかかってくるので、私たちは何度も会話を中断しなくてはならないほどだった。だけどそんな切れ切れの会話を続けていた時、その母親は突然何でもないことのように、ふいに私に「養子を持ちたい」と話し出したのである。

 私が驚いたのは言うまでもなかった。三歳になるアリスはいまだに一人で歩くこともできずに私達の足元に寝そべっていたし、そうでなくてもアリスの上にはもう一人息子が居て、彼女は既に二児の母親だったのである。ただでさえ養子を貰うのには莫大な費用がかかるし、二人も子供が居て、しかも一人は障がいを抱えているというのに、なぜ三人目の養子を欲しいと思うのだろうか。私は咄嗟に「へぇ」と分かったように頷いてみせたものの、このときほどこのアリスの母親に驚き、共感出来なかったことはなかったのである。

 だけど今、こうして身近にニコールの話を聞いていると、私はもしかすると彼女たちの「子供を育てる」という概念そのものが、私が思い描いていたものとで大きく異なるのかもしれない、と思うようになっていた。
 アメリカでは子供は十八歳を過ぎると家を出るのが慣例である。もう一人前なのだから自分ことは自分でするように育てられ、子供たちは社会に解き放たれる。日本のように家や血縁関係、あるいは同居などのしがらみが少ないので、彼らは「跡継ぎ」という形で養子を望むことはほとんどなかった(むしろ彼らは「跡継ぎ」という日本の概念に驚いて見せたくらいである)。
 だから、育てられる人、育てられない人がいる多様性の中で、彼らはただ個人のエゴが一切介入しない、全く別の次元で「子供を社会の中に送り出す手伝い」という子育てに従事しているように思えたのである。

「たいてい養子をもらう家庭は裕福だから、そう言う意味でも親元を離れて養子に出されることは良いことだと思うよ」
アメリカ人のトニはそう私に言ったことがあった。
 もちろん、そうなるまでにはニコールのようにたくさん悩みながら取り組む人も居る。だけどそれは今、「社会奉仕」とか「慈善活動」とか、そういう薄っぺらい言葉に変えるにはあまりにも大きな愛の活動に私には感じられた。そしてだからこそ、ニコールやアリスの母親のように、並々ならぬ決意で生まれ落ちた命を引き受けようとする人達の居る世界と居ない世界の在り方について、強く考えさせられたのである。

血を売りたい

11月4日
 それは二週間ほど前の出来事だった。ダウンタウンでハロウィンのイベントがあったので、そのついでに語学学校へ遊びに行った時のことである。
私はこの頃ずっと気になっていたアメリカ人の血液型に対する無頓着ぶりを引き合いに、フロントデスクで働くタイ人のプンとお喋りに興じていた。日本では血液型を知っていることは当たり前のことだったし、それによって性格診断を信じている人が多かったが、アメリカではほとんどの人が自分の血液型を知らなかったからである。だから、この日もプンが自分の血液型を「忘れた」と言い、アメリカ人のマイケル先生も「知らない」と答える度に笑い、スタッフのエミリーが、「自分はO型だったはずだ」と答えると驚いたりしていた。(ただ、エミリーは日本で働いたことがあり、その時に日本の書類に記載する必要があったために、アマゾンの血液型判定キットを10ドルで購入して自分で調べたのだという。)
だから、アメリカ人のほとんどが自身の血液型を把握していないことが興味深かったし、実際、私もマディソン生まれの息子の血液型を未だに知らずにいた。子供が生まれた時に血液型を聞くと、ドクターからは「輸血が必要なときは、その直前に血液型を調べるから心配しなくていいのよ」と言われ、「それ以外に、今この子の血液型を知りたい特別な理由があるのか?」と不思議そうに聞かれたので、そう言われるとさすがに「性格診断のため」と答える勇気がなく、私はそのままずるずると子供の血液型を知らずにこの二年近くを過ごしていたのだった。
 
そんな話で盛り上がっていた時のことである。たまたまアハメが通りかかり(アハメには本当に良く会う)、何を盛り上がっているのだ?と聞くので、私はさっそく「自分の血液型を知っているか?」とアハメにも尋ねてみた。すると、意外にもアハメは自信たっぷりに「もちろん、僕はO型だよ」と即答して周囲を驚かせた。
 「なんで知ってるの?」
 私が尋ねると、アハメは「大事だから」と当たり前のように答える。
 「もしもの時のために知っておくのはとても大切なことじゃないの?」
そう至極真っ当なことを言うと、「僕はよく献血に行くんだ。プラズマとかね」とアハメは言った。
 「プラズマ...」
私はアハメが何を言ったのか分からなかったが、エミリーは「それ、時間かかるやつでしょ?」と聞く。するとアハメは頷きながら、「だけどお金がもらえるし、人の役に立つし...」と続けたのだった。
 「お金?」
 私が叫ぶと、二人はそんな私を振り返りながら、「献血するとお金がもらえるんだよ」とさらに私を驚かせ、アハメは「でも僕はお金はもらわないよ!人の役に立ちたいだけだから」と、うそぶいたのだった。
 
 プラズマ、献血、お金...。
私はその日、家に飛んで帰ると、さっそくこの三つのキーワードをもとに、アメリカでは今も民間血液銀行(プラズマセンター)で成分献血をすることで20ドルから40ドルの現金を受け取ることが出来、しかもその成分献血は普通の献血とは違いプラズマという血漿を採取して血液を戻すため、二日ほどで再び献血をすることが可能である、という衝撃の事実を知ることになったのだった。報酬は地域によって異なるが、ウィスコンシン州は40ドルとも書かれている。一回40ドルで週二回血を抜くことが出来るとすれば、週に80ドル。ともすれば、一か月で320ドルの副収入を得ることが出来る計算になる...。
はやる気持ちを抑えながら、気が付くと、私は家から一番近いマディソンのプラズマセンターに電話をかけていた。電話口では聞き取りにくい英語を話す男の人が、「プラズマセンターでの献血には予約は必要ないこと」、「初回は検査をするので二時間ほど時間がかかること」などを手短に教えてくれたので、私はドキドキしながら、「必要なものはありますか?」と、聞いた。
すると、そんな私に対し、電話口の男の人は快活にこう答えたのだった。
「免許証を持って来ればいいよ!」

これが二週間前の出来事である。
かくして、この日から私の売血へ向けての、自動車免許取得の猛勉強が幕を開け、その二週間後の金曜日に筆記試験をパスして仮免許を取得するに至ったのだから、私のこの売血にかける思いは並々ならぬものがあったとしか言いようがない。そもそも、こんなに早くに免許の勉強をする予定ではなかった。白井君に何度せっつかれても、国際免許証の有効期限が一年間あるのを良いことに、春になってから始めようなどと呑気なことを考えていた私である。
だけど月に320ドルの副収入が夢物語ではないとなると、話は違うのである。この二週間、私は毎晩、売血が出来た暁には電車が好きな息子にブリオのオモチャを買ってあげるのだと白井君に熱く語り、何か欲しいものがあると、頭をよぎるのは「売血」の二文字だった。アハメではないけれど、「人の役に立ってお金がもらえる」のだったら、これがよく聞く"ウィンウィン"の関係ではないのか。アメリカンドリームではないだろうか...。

そんなことを考えながら久しぶりに驚異的に勉強をし、晴れて仮免許を取得した次の日のことである。
土曜日、そのピカピカの仮免許をひっさげて意気揚々と訪れたプラズマセンターで、私はそもそも自分がソーシャルセキュリティ―ナンバーを持っていないので、『そのナンバーの記載のない免許証を持参しても意味がない』という根本的な事実を知るに至った。とどのつまり、私という人間はそもそも「就労できないビザの関係上、売血もできない身分」だということを、今更ながらこのプラズマセンターで知ったというわけである。
ものの三分で門前払いを食らいながら、私は出来たばかりの仮免許を持ったまま、ショックで呆然とせずにはいられなかった。思い描いていた夢の売血業への道が閉ざされたという現実を、しばらく受け入れられずにいたのだった。

10月20日
齢七十を過ぎた今でも、デービッド・ボードウェルは現役さながら、世界中で活躍を続ける映画理論家だった。長年ウィスコンシン大学で教鞭を取ってきた彼は、コミュニケーションアーツという学部の映画学の分野に大きく貢献した人物でもあり、現在もウィスコンシン大学の映画学の授業では、ボードウェルの本が教科書として扱われることがよくあった。去年までコミュニケーションアーツで学部長を務め、前回の滞在で私に聴講の許しをくれていたカプレイ教授もまた、かつてはそのボードウェルの生徒だった人物である。
だから、私がいつもマディソンに戻ってきて良かったと思うことは、このウィスコンシン大学の「映画を学ぶ」ことへの素晴らしい環境だった。カプレイ教授はもう退官していたけれど、カプレイ教授の紹介で私は相変わらず、週に二日、九月から始まった映画学の講義へ聴講に出かけていたし、公共図書館にあるお宝のような映画のDVDを借りてきて観ることにも日々忙しかった。
大学内にある映画館ではやっぱり毎週あらゆる映画が無料上映されていて、中には全米公開直前のものや公開後一週間しか経っていないような新作映画まで、誰でも無料で観ることが出来た。日本だと単館の小さな映画館での上映を待つか、DVDを買って観るしかない、あるいは観ること自体が不可能なものなども、ここマディソンに居る限りいくらでも無料で観る機会があったので、映画が好きな私にとって、マディソンはこの上ないパラダイスだったのである。

だけどその一方で、現在子育て中の身としては、そんな大好きな映画に費やす時間を捻出することが大変な仕事であるのも事実だった。講義に行くために子供を預けるとなると、朝からそのための準備に神経をとがらせることもあり、授業では毎週課題映画があるので、それを図書館で事前に借りてきて夜な夜な家で鑑賞することもなかなかハードなことだった。
秋から新しく聴講に行くようになった講義は、ベン・シンガー教授というカプレイ教授よりはいくらか若い、素晴らしい先生だったのだが、カプレイ教授の時のような小規模な授業ではなかったので、私は日々の疲れとあいまって、なんとなくこの授業への不満を抱えてしまうことも少なくなかった。その上幼い息子は、預ける度に大泣きして私の首にしがみついてくるので、その姿を毎週見るのも辛く、「ここまで大変な思いをして映画を学ぶ必要があるのだろうか?」という問いがゆっくりと頭をもたげてくることがあり、そうなると、映画を観ること自体が苦しいという思いに変わって、ついにはしばらく映画を観たくもない、授業も行きたくないという気になり、子供を預けるところまで行ったのにバスに乗らなかったということが一度だけ起こったのだった。

「せっかく聴講の機会を得た授業をむざむざ棒に振ってしまい、いい聴講生ではなくなってしまったかもしれない...」一度の挫折とはいえ、そんな風なことがあると、あとはもうなんだかやさぐれながら九月が終わり、悶々としながら日々を送っていたのだが、そんな十月初旬のある日、私は久しぶりにお世話になったカプレイ教授から、一通のメールを受け取ったのだった。

それは、その次の週に大学で行われるシンポジウムに参加するので、その日に時間があればお茶でも飲まないか?というカプレイ教授からの嬉しいお誘いのメールだった。もちろん私は小躍りしながら指定された日にコーヒーショップへと出向いたが、嬉しいことはそれだけにとどまらなかった。というのも、カプレイ教授はそうして一年三か月ぶりに再会した私に会うなり、「コミュニケーションアーツの仲間で月に二、三度行われる映画のシンポジウムに参加したらいい」という、素敵な提案をしてくれたからである。
「確か、来週はデービッド・ボードウェルの回だったはずだよ!」
そう言うと、カプレイ教授はまた、そのシンポジウムのメーリングリストに私を加えてもいいとまで言ってくれたので、私はすっかり有頂天になり、次の週、またいそいそとウィスコンシン大学のコミュニケーションアーツの学部へと赴くと、そこで生まれて初めて、この世界的に有名な映画理論家であるデービッド・ボードウェルの講義を聞くという機会を得たのだった。

素晴らしい講義だった。『ジオメトリーとしての映画』と表されたそれは、多角的な語り口で書かれたフォークナーなどの「文学作品」と照らし合わせ、そうした文学を原作として作られた映画が、どのような表現方法で多角的な構造として表現されているか、ということを目まぐるしく検証していくとてもスリリングな内容であり、またその面白さもさることながら、私は初めて体験するボードウェルの、その膨大な知識量と発想力、それからあふれ出るエネルギーにただただ圧倒され続けていたからである。
いったい、この人のこのパワーはどこから来るのだろうか?
「ボードウェルは退官して何年も経つのに、本を出版し続けているんだよ」そうカプレイ教授は言ったが、その言葉の通り、ボードウェルはとてつもなく精力的だった。彼はあらゆる映画、あらゆる文学を網羅していたし、その体中からほとばしる映画への情熱は熱く、若々しく、そして眩しかったので、私はその眩しい光に照らされて、思わず自分の存在の小ささが浮き彫りになるような感覚を覚えずにはいられなかった。会場に居る誰もが、ボードウェルの発表に関心を寄せているのが分かったし、それほどまでに、ボードウェルは圧倒的な知的存在感を放っていたのである。

「ボードウェルはいつも新しいものを次々に発表するんだよ」
講義が終わり、カプレイ教授は無邪気にそう言ったが、私はなんだか分からない焦燥感に駆られながら、先月末に自分が一度でも「映画を学ぶ」ことへの意欲を失っていたことを恥じ、反省せずにはいられなかった。
「面白かったです。でも、私はもっともっと勉強しないといけないと思いました...」
私がそう言うと、カプレイ教授は面白そうに私を振り返って笑った。
会場の前の方では、せわしなくボードウェルが知人たちと盛り上がっているのが見えた。とても楽しそうだった。だけどそんな心地よい興奮の残る会場をあとにしながら、私はこの日、自分の中で消えかかっていた映画への情熱が再び、静かに舞い戻ってくるのを感じていたのだった。

10月8日 
「あれ!来たんだね」
アハメが私を呼びとめた。ダリア・ムガヘッドというイスラム教徒の女性研究者による無料講演会の会場でのことである。ダリア・ムガヘッドは、ISPUというワシントンにある研究機構の研究者で、中東のイスラム教世界やアメリカにおけるイスラム教徒(アメリカンムスリム)などを中心に幅広いリサーチをし、オバマ大統領時には大統領のアドバイザーを務めたり、講義無料配信サイトTEDで講演したりと、近年目覚ましい活躍をしている女性著名人である。ウィスコンシン大学では時々こうした面白そうな無料の講義が行われるのだが、私はひょんなことからこのイスラム社会についての講義に興味を惹かれ、先週末の日曜日、午後に一人でその講義の行われる会場に来ていたのである。
中東社会やイスラム教に詳しいわけではなく、ただ面白そうだし英語の勉強になると思って紛れ込んだのだが、やはり会場には大勢のアラブ人と少しの白人がいるだけで、アジア人はほとんど来ていなかった。なんとなく「部外者感」のある中で、ヒジャブをまとった美しいアラブ人女性たちに促されるままに受付を済ませると、思いがけずコーランに関する分厚い本を無料でもらい、それからクッキーやらコーヒーやらのサービスを受けたので、私はなんだかすっかり嬉しくなって会場の中をウキウキと歩き回っていたのだが、そんな時にアハメが私を呼びとめたのである。
「一人で来たの?」とアハメが言うので、私はそうだと頷くと、アハメは従兄弟と来たのだと言って、ちらりと後ろを振り返った。見ると、アハメの斜め後ろにとびきり可愛い顔の男の子がニコニコとこちらを見て座っていた。アハメが彼の隣に座ったらいい、と勧めてくれたので、言われるままに私はアハメの真後ろの、その美しい男の子の隣に腰を据えた。会場の前から三番目のど真ん中である。しかも後から気付いたが、最前列に座るダリア・ムガヘッドの父親の二つ後ろの席だった。その上、アハメはちょうどその父親と話しに来ていたダリア・ムガヘッドを指さして「彼女だよ」と言って振り返ると、私をそのままダリア・ムガヘッドに紹介し、講義前の忙しい彼女とのツーショット写真まで撮ってくれたのだった。
私は舞い上がってしまい「ダリア・ムガヘッドと知り合いなの?」と勢いよくアハメに聞いたが、アハメは「知らない」とあっさりと答えた。そして「彼女はとても有名な人なんだよ。僕はもう何度も彼女の講義には行っているよ」と得意気に言うと、「あ、彼女の父親とは知り合いだよ」と付け加えたので、私は少しだけ安心した。なんでも、ダリア・ムガヘッドの父親はウィスコンシン大学の教授だそうで、アハメはマディソンにあるモスクで彼と知り合いになったのだと言う。それから講義が始まると、アハメはすぐさま自身の携帯電話を取り出し、そのまま講義を録音し始め、ときおり映し出されるパネルの写真を熱心に撮り始めたのだから、私はその勤勉ぶりにも驚かされてしまった。ただでさえアハメは宿題に追われる学生生活を送っているのに、休日にわざわざ従兄弟を連れて講演会に来て、記録までしているのである。
「分からないことがあれば、なんでも従兄弟に聞いたらいい」ともアハメは言ってくれたので、私はダリア・ムガヘッドが登場する前に壇上に上がった人のことについて、何度か隣に座るアハメの従兄弟に質問したのだが、彼はそんな私の質問にすべて、申し訳なさそうにはにかみながら「知らない」と答えると、とびきりチャーミングに笑った。

そうして始まった講義は、基本的にはアメリカに住むイスラム教徒たちに関する彼女が行った膨大なリサーチからはじき出されたアメリカンムスリムへの「差別」や「偏見」に対する訴えのようなものがメインだった。私はこの講義で初めて「イスラモフォビア」という言葉を知ったのだが、それはイスラム教徒が危険だと思い込んだ「イスラム恐怖症」のことを意味し、そうしたイスラモフォビアが暴力を産むのだとダリア・ムガヘッドは強調した。
「イスラム教徒を名乗ってテロを起こした人を本当にイスラム教徒だったと思うか?」あるいは「キリスト教徒を名乗ってテロを起こした人を本当にキリスト教徒だと思うか?」という二つのアンケート調査では、圧倒的にイスラム教徒を名乗って起こしたテロを「本当にイスラム教徒だと思う」と答えた人が多いという結果もパネルに映し出されたし、ヒジャブを付ける女性への偏見に対して、ムスリム女性たちの意識調査のデータをもとに、彼女たちは決して強制されてヒジャブを付けているわけではなく、信仰心とアイデンティティからヒジャブを付けるのだと、自身のヒジャブを手で整えながらダリア・ムガヘッドは結論付けた。
「イスラム教徒たちは決して危険ではない」そんな当たり前のようなことを、さまざまなデータや調査、彼らを取り巻く環境のリサーチなどを通じて言葉に置き換えて行くダリア・ムガヘッドをアハメの背中越しに見ながら、私は昔、「マディソンではそんなに差別を受けないけれど、フロリダに行ったときはすごく差別をされたわよ」とサウジアラビア人のダラルが言っていたのを思い出していた。

ダリア・ムガヘッドの白熱した講義が終わり、その後は質疑応答の時間に移った。可愛い中学生くらいのアラブ人の男の子がダリア・ムガヘッドに「神様は男の人ですか?女の人ですか?」と聞く微笑ましいシーンもあったのだが、私はそろそろ帰らなくてはいけなかったのでアハメとその従兄弟に挨拶をすると、そっと会場を後にした。
会場の外に出ると、エントランスには色とりどりのヒジャブをつけた美しい女性たちが輪になってお喋りをしていた。そんな華やかな女性たちを追い越しながら、ふと、私はアハメももしかしたら差別や偏見にさらされて、祖国では感じることのない嫌な思いをしたことがあるのかもしれないのだな、と考えていた。ダイヤモンドと金の会社を経営する家の子供であり、何不自由なく天真爛漫に育った大金持ちのアハメだが、祖国を出さえしなければ味わうことのなかった思いもたくさん経験しているのかもしれない...。いつも優しくてご機嫌なアハメのことを思いながら、私はこの日、人一倍熱心に講義に耳を傾けているアハメの真面目な後ろ姿が、目に焼き付いて離れなかったのだった。

Amazonが殺した

9月14日 
母になったパニカは、日がな一日、家に子供とこもりっきりのようだった。パニカのアパートは私のアパートの三軒ほど隣りだったので、パニカは私がマディソンに戻ってから、よく遊びに来いと誘ってくれた。私の息子が遊びに行けば、パニカの娘のリアーナが喜ぶのだと言う。そして実際、私もパニカの家に出向くのはたいした仕事ではなかったので、私たちはよくパニカの家で子供たちを遊ばせていた。それにパニカの家には膨大な数のオモチャがあったので、私の息子もそこで遊べるのを楽しみにしていたのである。
だけどたくさんの高そうなオモチャに囲まれながら、最初に再会した時、パニカは「毎日とくに何もしていない」と眠たそうに私に語った。毎日リアーナとオモチャで遊びながら、パニカはトニが夕方に会社から戻ってくるのを待つ毎日なのだと言った。
「このマンションのエレベーター、止まってたけど知ってる?」と私が聞いたときも、パニカは「知らない」と答えた。一日中外に出ないので、アパートのエレベーターにすらパニカは乗らないのである。買い物はトニが帰ってきたら車で行ってくれるし、週末になれば家族でやれ湖だの公園だのに出かけて、それをSNSにいつもアップするのがパニカの楽しみの一つだった。そうでなくてもトニは高給取りである。パニカは家で一人、リアーナを育てて時々家庭菜園をしていれば何もする必要はなかった。トニと三人で穏やかな日々を送りながら、だけどパニカは確実に大きな幸せを手に入れたようだった。

「そういえばベビザラスは潰れたよね?」
オモチャに飛びつく息子を横目で見ながら、あるとき、私はそうパニカに聞いた。するとパニカは「そうね」と答えながら、「そういえば、あともう少しで潰れるおもちゃ屋さんがあるの知ってる?」と逆に私に質問をした。なんでも、その店は今閉店セール中なのだそうだ。それからおもむろに、部屋に置いてあるリアーナの食事用のハイチェアを指さすと、パニカは「これも、もう潰れた他のお店の閉店セールで買ったのよ」と得意気に言った。「何もかもすごく安いのよ」と。
だけど私は、パニカがそのハイチェアを廉価で手に入れたことよりも、マディソン中のおもちゃ屋さんがこの一年三か月で軒並み潰れていることにびっくりしていた。そもそもベビザラスが潰れたことにも人知れずショックを受けていた身である。
「じゃあ、オモチャはどこで買ったらいいの?」
そう叫ぶ私を見ながら、パニカはきょとんとして、大丈夫よ、とばかりにこう言った。
「アマゾン...」

そんなやりとりがあった後のことである。私は家から車で十分ほどの距離にあるウェスト・タウン・モールというショッピングモールに、家族で出かけたことがあった。ウェスト・タウン・モールは、マディソン最大級のショッピングモールで、今は亡きベビザラスも出店していたモールである。特に他に行くところがないので、私は昔から買い物といえばこのウェスト・タウン・モールに来るのが決まりとなっていた。何か買う時はいつもここに来たし、よく人に出くわすこともあった。土日などは特に賑やかなマディソン随一のショッピングモールである。ベビザラスはもう無いけれど、モールの中には他のおもちゃ屋さんもあったし、スーパーも本屋さんもアップル・ストアもある。だから、私たちは久しぶりにこのモールに出かけてみたのである。

ウェスト・タウン・モールに着くと、思った通りベビザラスはなかった。だけど、そこにあったはずのもう一つのおもちゃ屋さんも消えていた。
「確かここがオモチャ屋さんだったような...」
記憶をたどりながらふと振り返ると、シアーズという大手の小売店が不気味に真っ暗なのが私たちの目に飛び込んできた。モールを少し歩くと、今度はいつも甘い匂いがしていたはずのチョコレートの匂いがしてこない。ゴディバがいつまでたっても見えてこないのである。それからゴディバの近くにあったはずのスターバックス母体の紅茶専門店ティバーナも静かに死んでいた。その奥にあったはずのもう一つの大手小売店であるボストンストアズの入り口は、無情にシャッターが下りているのが見える。あったはずのJ.crewやアップル・ストアは泥船となったモールを見限ったのか、すでに撤退したようだった。
私たちはそんなスコスコになったモールをあっという間に通り抜けると、また同じ道を引き返した。よく見るとすれ違う人の量もまばらである。今度はもうはっきりと、私たちはウェスト・タウン・モールに何が起こっているのかを理解することが出来た。開いている店といえばだいたいがセールをしていて、もはや今後どうなるのか予測できそうなものだったからである。そうでなくても、私たちは最近、ダウンタウンの州議事堂の近くにあったオシャレなおもちゃ屋さんが潰れていたことに、ショックを受けたばかりである。
 
「アマゾン...」と、当たり前のように言ったパニカの声が聞こえてくるようだった。そういえば、パニカはいつ遊びに行っても、リビングにあるパソコンでネットショッピングをしていた。リアーナのオモチャだけではない。パニカが開いたままにしていたページには、ワンピースなどの服が見えている時もあった。だからパニカは、一日中家には居たものの、お買い物だけは楽しんでいたのである。
でもそんなショッピングのなんと味気ないことだろう...。私たちは、休日に訪れる場所が消えつつあることの寂しさを感じながら、今まさに巨大な廃墟と化そうとしているウェスト・タウン・モールを後にしたのだった。

生きるヒント

9月7日。
本格的な節約生活が始まったが、始まってみると質素な生活もなかなか悪いものではなかった。そもそも、私たちはもともとの交友関係をフル稼働し、台所用品のほとんどを無料で譲り受けて初期費用を少なくすることに成功し、ダイニングテーブルもテレビも掃除機もラックも買わないで済んだのだから、始まりは上々だった。日々、外食はしないとか、無駄なお金は使わないという当たり前のことを意識するところから始まって、私たちは毎日、これまでの生活態度を反省しては悔い改めて暮らしていたので、そうやって模索を重ねていると、早くも清貧への道が開けてきたように感じていたのである。

その証拠と言ってはなんだが、白井君はここのところ目に見えて痩せていっていた。日本では中性脂肪がやや高めという健康診断の結果を持つ健啖家だったので、白井君がこの節約生活が始まって以来10日余りで早くも五キロの減量に成功したのは、実に喜ばしいことだった。明らかに肉の落ちた体を眺めながら、白井君はちょっと興奮しつつ「節約生活ってすごいな!」と悦に入っていた。その上、彼はいつも空腹で目が覚めるらしく、そういう時の朝ごはんもとびきり美味しいのだという。無駄な間食をしていた頃には気付かなかったことである。
私はというと、白井君ほど痩せることはなかったものの、節約生活が始まって以来、白井君が大学で提供されたクッキーやブラウニー、コーヒーやピザなどをこっそりカバンにしのばせて持ち帰るのを楽しみにしており、そうしたお土産にささやかな幸せを感じるようになっていた。加えて、ウィスコンシン大学では生徒が運営しているオープンシートという制度があり、それに登録すると週に一度、物資配給のようにさまざまな生活用品や食料品を無料で受け取ることが出来たので、それらの品々にも心を躍らせていた。
配給日の初日を迎えた先週、帰宅した白井君のカバンから次から次へと取り出された戦利品を見て、私はその多さにいくらか驚きもした。トマト缶、パスタ、スープ、コーン、石鹸、シャンプー、髭剃り...すぐに使えるものばかりだった。そうでなくても、キャンパスの近くにある教会では毎週、苦学生のためのディナーやランチが提供されていたり、近所のスーパーでは12歳以下の子供には毎日無料のフルーツやクッキーが提供されるサービスがあって、そのサービスにいちいち感激するので忙しかった。しかもその全てが、前回の滞在では気付かなかった発見ばかりだったのである。

素晴らしいことは他にもあった。ウィスコンシン大学は、私たちのように子供連れの低所得世帯のため、託児所を1セメスター(9月から12月末まで)50時間まで無料で利用できるサービスを行っており、これは大いにあり難いサービスだった。子供の教育という面では、地域ごとに週に一度、"Play and Learn"と言って遊んだり、学んだりできる児童館のような場所もあったし、教会などでは子供のための簡単な歌のプログラムなどもあった。図書館の子供コーナーでは、立派なBRIOの電車のオモチャやレゴ、何台ものiPadが置かれてあり、それらを使って子供たちはいくらでも自由に遊ぶことが出来た。いくつかの無料で利用できるミュージアム、動物園、二歳以下までなら無料で使える室内遊具場、公園、コンサート、映画館...探せば探すほどに、マディソンではお金を使わずに楽しめるサービスがたくさんあり、その充実ぶりには目を見張るものがあったのである。

韓国人のセオンは、6か月になる子供のいる主婦友達だったが、「ここに暮らす人は全員お金がないんじゃないの?」と私に向かって言ったことがあった。彼女もまた私と同じような境遇で、旦那さんのわずかな大学の給料で生活をしている世帯だったのである。だけど「お金がなくて...」と暗い顔で言う私に向かって、彼女は「そんなことは当たり前」だとさらりと言った。トム先生も「学生というのは貧乏なもんだ」と言ったことがあった。みんなギリギリの中で暮らしているのだ、と。だいたいマディソンはウィスコンシン大学で栄える学術都市である。世界中から様々な事情の人材が集まってくる。そしてだからこそ、気付いてみるとここではそういう人々が生きていくための、たくさんのヒントがあちこちに隠されているように思えたのだった。

変わらないもの

8月19日
二度目となるマディソンでは、前回暮らしたアパートと同じ通りに面したクラシックなアパートに居を構えることになった。内装も前のアパートによく似た古めかしいアパートである。がらんとした部屋には、日本から持ってきたトランクが三つと、事前に送っておいた段ボール箱が三つ入り、それからすぐにマディソンに暮らしている日本人の友人に、この夏に帰国した日本人家族から譲り受けた家具などを運び込んでもらった。もちろんリビングにダイニングテーブルはないので、ご飯は段ボール箱をひっくり返したものをテーブルがわりにして床で食べるしかなかったけれど、二度目ともなると、引っ越しのいろいろなことが想定の範囲内だった。
着いてすぐの買い出しも、どこで何を買ったらいいか分かりすぎるほど分かっていた。だいたい目をつぶっていてもたどり着けたのではないかと思うほど、マディソンは何も変わっていなかった。もちろん、アパートの前のビルが大がかりな解体工事をしていたり、近くのモールにお洒落なアップルストアが出来、マディソン中にご当地キャラクターであるバッキー君の巨大な置物が出現していたりと、細かな変化はあった。だけど、基本的にマディソンはマディソンのままだった。道の広さだったり、ゆったりとした車の流れだったり、道を歩く人々の優しい微笑みは相も変わらず健在していたのである。
 
あまりにも何も変わらないので、私はすぐにマディソンの日常に溶け込むことが出来たが、着いて早々に、語学学校時代の旧友達からウェルカムバックのメールをもらったことも心強いことの一つだった。タイ人のパニカはさっそく会おうと言ってくれたので、私は時差ボケも修正できぬまま、到着三日目には近所に住むパニカの家に出向いてゴーヤチャンプルのようなタイ料理をご馳走になった。それから大好きなサウジアラビア人のアハメも、渡米二日目の夜に「明日の夜にディナーでもどう?」というメールを送ってきてくれた。極貧のためディナーになど出かけられる身分ではない私は、アハメのこの誘いに「ちょっと引っ越したばかりで忙しい...」と言って断りを入れたが、優しいアハメは「それなら何か手伝えることはない?」と嬉しい申し出をしてくれ、すぐにその週末、私はアハメに車を出してもらっていくつか用事を済ませることになった。

土曜日。アハメは前日に約束した時間よりも一時間半遅れて、陽気に私のアパートまで車で迎えに来てくれた。もちろん、アラブ人の習性であるこの大幅な遅刻も想定内だったので、私はむしろ予想を裏切らなかったアハメに感動すらした。いや、そんなことよりも、久方ぶりに見るアハメがすっかり太り、貫禄のあるアラブ人になっていたことの方が驚きだった。喋り方もなんだかアメリカンガイである。車を降りる時も、私の座席のドアを開けてくれるという成長ぶりである。三年前、出会った頃の舌足らずで出来の悪い十代の可愛いアハメは影も形もなかった。これが祖国を離れ、異国で三年間揉まれた成果なのだろうか?確かまだ二十二歳かそこらのはずだったような...と思いながら、私は人知れず、少しだけ後退したように見えるアハメの額の生え際にも着目せずにはいられなかった。

だけど、そんな風に成長したアハメが示してくれる献身ぶりにも、私はまた驚きと心からの感謝を抱かずにはいられなかった。マディソンでは車が無いと何かと不便である。来たばかりで車の購入まで至っていない私たちにとって、車を出してくれる人というのはアッラーよりも上の存在に思えるのである。お昼前から夕方まで、アハメはご機嫌に車を飛ばしてマディソン中をあっちへ行きこっちへ行きし、私たちの用事に根気強く付き合ってくれた。一つ用事が終わると「次はどこへ行ったらいいんだい?」と聞くので、私たちは神のようなアハメにすっかり甘え、主要な用事をいくつか済ませることが出来たのだが、帰り際になるとさすがにアハメは少しだけ疲れた様子を見せた。
「疲れた?」
何だか口数が減ってきたので、私はアハメにそう尋ねた。実は、このときになって初めて私は、アハメはもしかするとお腹が空いているのかもしれない、と思い当たって心配になったのだった。
というのも、この日、午後1時を過ぎたあたりで、アハメが「お昼ご飯はどうする?」と聞いてきたのだが、貧困層でランチを外で食べることの出来ない私たちは「食べてきた」と答えてしまったからである。アハメはすると、「それなら僕はブランチを食べたから大丈夫」と言ってそのまま運転を続けたが、その後、中古車屋さんに入ると、お店に置いてある無料の水を全速力で取りに行き、それをゴクゴクと勢いよく美味しそうに飲んだ。
そしてそれ以外はアハメの様子に特段の変化は見られなかった。アハメは終始穏やかでご機嫌にふるまっていたので、私にはその突き出たお腹の減り具合をうかがい知ることは困難だったのだが、しかし、後になるとアハメはやっぱりなんだか元気がなくなってきたようだったのである。
「大丈夫?」
私が聞くと、アハメはハッと驚き、「何?僕?」と聞き返した。
「なんでそんなこと聞くの?」とアハメが聞くので、「だって、いっぱい運転してくれたから」と私が言うと、アハメはにやりと笑い、「全然疲れてないよ」と言った。
私は、サンキューと何度もお礼を言いながら、こんなに良くしてくれたお礼をもっとアハメに伝えたいと思っていた。アハメが今日一日付き合ってくれたことで、私たちがどんなに助かったか...。だけど、そのお礼として私たちがアハメに差し出すことが出来たのは、白井君が仕事場から貰ってきたフリーのオレンジが三つと、「何かあった時のために...」と思って日本からスーツケースに滑り込ませていた「寿司の消しゴムセット」のみだったからである。
アハメは寿司型の消しゴムをしげしげと眺め、オレンジは日本から持ってきたのか?と尋ねたが、私たちはその期待にすら応えられずに「ノー」と答えた。

だけどアハメが変わらずマディソンに居てくれて良かった、と私は心から思っていた。優しいアハメ...。アハメは今も変わらずマディソンに居て、そしてやっぱり魅力的なアラブ人のアハメのままだったのである。

再出発

8月15日
マディソンに戻ってきた。日本を出発して十三時間。デトロイトでの乗り継ぎを経て、旦那さんの白井君と一歳七か月になる息子の三人で、くたくたになりながらまたここに戻ってきた。一年二か月ぶりのアメリカである。美味しいご飯もない、オシャレなブティックもない、のどかで豊かな自然の中で、バジャーと暖かい人達が陽気に暮らすウィスコンシン州マディソンである。

それにしても、文字通り舞い戻った瞬間、飛行機の窓から見下ろした先に広がる殺風景な景色を前にして、私の心に沸き上がる喜びはひとしおだった。眼下に広がるのは、ぽつりぽつりと芝生の間に家が立ち並び、その向こうに湖が見えるのみの味気ない景色である。なんの刺激もない。初めて来た人なら「なんという田舎に来てしまったのだろう」と帰りたくなるかもしれない景色である。だけど私は今や、その「何もなさ」の中にこそマディソンに生きる意味があることを知っていた。たくさんの気づきと学びの思い出が、夕刻迫るマディソンの景色と共に胸に去来して、思わず機内にいる私の頬を涙が伝った。

ところで、マディソンに戻るまでのこの一年と二か月。私の日本での生活は、あわただしいものだった。出版のお話をいただいたことによる嬉しい忙しさの中で、不慣れな子育てには相変わらず苦労することが多かったし、日本での子育ては異国とはまた違う大変さがあり、私はこの一年二か月を通じ、日々、いろいろな感情を抱くことがあった。もちろん日本の美味しいごはんにはいつも感動していたし、二年ぶりに友人達と再会を果たすことが出来たのは喜ばしいことだった。でもそうこうするうちに再び県をまたいでの大きな引っ越しもあり、そうした生活の大変さから、人生で初めて救急車で搬送された夜もあった。忙しさの中で何度も寝込み、その度に暗い気持ちになって子供みたいに泣いた日もあった。嬉しいことも悲しいこともたくさんあった。そうして色んな思いが混じりあった一年二か月の末、私はまた、こうしてマディソンに戻る時を迎えたのである。

しかしそんな新たな門出に立つ一方で、これは私たちにとっては大きな決断の時でもあった。というのも、今回は前回ののんきな滞在とは少し毛色が違っていたからである。そもそもこれからのマディソンでの暮らしを支える資金の出所が前回と違っているので、信じられないほど極貧で生活しなくてはいけなかった。私たち家族の暮らしを支えるのは、白井君が大学のTAをすることで得られるわずかばかりの給料と、日本で蓄えた貯金のみである。何年滞在するかも正確にはわからない。その先に思い描いたものを得ることができるかどうかもわからない。ともすると、驚異的な飢餓に苦しむかもしれない。貧しさから心が荒むかもしれない。そうして夢半ばで帰国を余儀なくされるかもしれない。たくさんの心配事と不安が私達の前には立ちはだかっていた。いや、むしろ私の脳裏には不安しかなかった。
だけど、それでも私たちは、再び挑戦する覚悟を決めたのである。迷いながら、悩みながら、何だかよくわからないうれし涙と薄ら笑いを浮かべて、私はこうして再び、マディソンの心洗われる世界に足を踏み入れたというわけである。

 6月27日。マディソンは、夕闇に無数の蛍が飛び交う美しい季節である。この時期、マディソンに点在しているいくつかの美しい湖はその水面に白と青の空の色を映し込み沢山のカヤックやモーターボートを浮かべて、まるでモネかルノワールの絵のような美しい姿を見せる。この頃、夜の九時頃まで日は落ちないので、遠くで野外ライブの演奏がいつまでも楽しげに聞こえてくる夜もある。そうしてその音が消えたかと思うと、今度は薄暗がりの中、どこからともなく蛍の光がほうぼうで舞い上がり、そこら中で彼らのひと夏の求愛が始まるのである。穏やかでこの上なく美しくとても豊かな季節である。
 
 二年前の7月、私はこの美しい夏のマディソンに白井君と二人で降り立った。右も左も分からぬ異国の地で最初に感動したのは何よりもまず、アメリカの、マディソンのこの自然の「豊かさ」だった。そしてその羨望は二年経った今もなお、ますます募るばかりである。これが戦争をしている国だろうか?マディソンでの豊かでのどかな生活は、自分がこれまで抱いていた「アメリカ」という大国への考え方を根本から覆すものだったからである。穏やかで平和で安全でクリーンでインターナショナルな学園都市であるマディソンには、あらゆる国の人々が住み、それぞれがそれぞれの文化や歴史に敬意を払いながら、思い合い、助け合って生きていた。夕暮れに行きかう人々は、知り合いではなくてもにこやかに挨拶を交わし、時に冗談を言って笑い合って去りゆく時もある。お金がなくて困っていた日、洗濯機の乾燥機用のクオーターコインを2ドル分、無償でくれた人も居た。自動販売機でポテトチップスを買おうとしたら、商品の補充をしていた業者の人からポテトチップスを貰ったこともある。赤ちゃんを連れていて知らない人から声をかけられるのも、ドアを開けてもらうことにも、私はすっかり慣れてしまった。

寛容で、いい意味でルーズでカジュアル。「マディソンは田舎で刺激がないから詰まらない」と言う人も居る。だけどそれは、代り映えのない至極の美しさに慣れてしまった人の惰性以外に他ならない。マディソンの良さは、人々の人間性も含め、優しくて素朴という点でもあるからだ。だから結局私は、アメリカに来る前に想定していた「怖い思い」(黒人にリンチされるとか、「イエローモンキー」と罵られて石を投げつけられるとか、白井君が銃で撃たれて死ぬとか。)を経験することはなく、この豊かなマディソンの土地に染みわたる国際色豊かな養分を十二分に吸い込み、学び、笑い、人生で最も楽しかったと言っても過言ではない二年間を過ごすことが出来たのである。

そしてもう一つ。そんなマディソンで感じ、身に起った一つ一つをこうして言葉に書き起こし、日記として残すことの出来る場所があったことも、私には何よりも代えがたい大きな幸せだった。こんな風に、自分一人では経験できそうもない機会を与えてくれた家族、そして恩師内田樹先生には感謝してもしきれない。ウィスコンシン渾身日記を締めくくるにあたって、二年間、こんな風に毎月毎月長屋にアップしてくださった内田先生にあたらためてお礼申し上げます。二年間、本当にありがとうございました。