Amazonが殺した

9月14日 
母になったパニカは、日がな一日、家に子供とこもりっきりのようだった。パニカのアパートは私のアパートの三軒ほど隣りだったので、パニカは私がマディソンに戻ってから、よく遊びに来いと誘ってくれた。私の息子が遊びに行けば、パニカの娘のリアーナが喜ぶのだと言う。そして実際、私もパニカの家に出向くのはたいした仕事ではなかったので、私たちはよくパニカの家で子供たちを遊ばせていた。それにパニカの家には膨大な数のオモチャがあったので、私の息子もそこで遊べるのを楽しみにしていたのである。
だけどたくさんの高そうなオモチャに囲まれながら、最初に再会した時、パニカは「毎日とくに何もしていない」と眠たそうに私に語った。毎日リアーナとオモチャで遊びながら、パニカはトニが夕方に会社から戻ってくるのを待つ毎日なのだと言った。
「このマンションのエレベーター、止まってたけど知ってる?」と私が聞いたときも、パニカは「知らない」と答えた。一日中外に出ないので、アパートのエレベーターにすらパニカは乗らないのである。買い物はトニが帰ってきたら車で行ってくれるし、週末になれば家族でやれ湖だの公園だのに出かけて、それをSNSにいつもアップするのがパニカの楽しみの一つだった。そうでなくてもトニは高給取りである。パニカは家で一人、リアーナを育てて時々家庭菜園をしていれば何もする必要はなかった。トニと三人で穏やかな日々を送りながら、だけどパニカは確実に大きな幸せを手に入れたようだった。

「そういえばベビザラスは潰れたよね?」
オモチャに飛びつく息子を横目で見ながら、あるとき、私はそうパニカに聞いた。するとパニカは「そうね」と答えながら、「そういえば、あともう少しで潰れるおもちゃ屋さんがあるの知ってる?」と逆に私に質問をした。なんでも、その店は今閉店セール中なのだそうだ。それからおもむろに、部屋に置いてあるリアーナの食事用のハイチェアを指さすと、パニカは「これも、もう潰れた他のお店の閉店セールで買ったのよ」と得意気に言った。「何もかもすごく安いのよ」と。
だけど私は、パニカがそのハイチェアを廉価で手に入れたことよりも、マディソン中のおもちゃ屋さんがこの一年三か月で軒並み潰れていることにびっくりしていた。そもそもベビザラスが潰れたことにも人知れずショックを受けていた身である。
「じゃあ、オモチャはどこで買ったらいいの?」
そう叫ぶ私を見ながら、パニカはきょとんとして、大丈夫よ、とばかりにこう言った。
「アマゾン...」

そんなやりとりがあった後のことである。私は家から車で十分ほどの距離にあるウェスト・タウン・モールというショッピングモールに、家族で出かけたことがあった。ウェスト・タウン・モールは、マディソン最大級のショッピングモールで、今は亡きベビザラスも出店していたモールである。特に他に行くところがないので、私は昔から買い物といえばこのウェスト・タウン・モールに来るのが決まりとなっていた。何か買う時はいつもここに来たし、よく人に出くわすこともあった。土日などは特に賑やかなマディソン随一のショッピングモールである。ベビザラスはもう無いけれど、モールの中には他のおもちゃ屋さんもあったし、スーパーも本屋さんもアップル・ストアもある。だから、私たちは久しぶりにこのモールに出かけてみたのである。

ウェスト・タウン・モールに着くと、思った通りベビザラスはなかった。だけど、そこにあったはずのもう一つのおもちゃ屋さんも消えていた。
「確かここがオモチャ屋さんだったような...」
記憶をたどりながらふと振り返ると、シアーズという大手の小売店が不気味に真っ暗なのが私たちの目に飛び込んできた。モールを少し歩くと、今度はいつも甘い匂いがしていたはずのチョコレートの匂いがしてこない。ゴディバがいつまでたっても見えてこないのである。それからゴディバの近くにあったはずのスターバックス母体の紅茶専門店ティバーナも静かに死んでいた。その奥にあったはずのもう一つの大手小売店であるボストンストアズの入り口は、無情にシャッターが下りているのが見える。あったはずのJ.crewやアップル・ストアは泥船となったモールを見限ったのか、すでに撤退したようだった。
私たちはそんなスコスコになったモールをあっという間に通り抜けると、また同じ道を引き返した。よく見るとすれ違う人の量もまばらである。今度はもうはっきりと、私たちはウェスト・タウン・モールに何が起こっているのかを理解することが出来た。開いている店といえばだいたいがセールをしていて、もはや今後どうなるのか予測できそうなものだったからである。そうでなくても、私たちは最近、ダウンタウンの州議事堂の近くにあったオシャレなおもちゃ屋さんが潰れていたことに、ショックを受けたばかりである。
 
「アマゾン...」と、当たり前のように言ったパニカの声が聞こえてくるようだった。そういえば、パニカはいつ遊びに行っても、リビングにあるパソコンでネットショッピングをしていた。リアーナのオモチャだけではない。パニカが開いたままにしていたページには、ワンピースなどの服が見えている時もあった。だからパニカは、一日中家には居たものの、お買い物だけは楽しんでいたのである。
でもそんなショッピングのなんと味気ないことだろう...。私たちは、休日に訪れる場所が消えつつあることの寂しさを感じながら、今まさに巨大な廃墟と化そうとしているウェスト・タウン・モールを後にしたのだった。

生きるヒント

9月7日。
本格的な節約生活が始まったが、始まってみると質素な生活もなかなか悪いものではなかった。そもそも、私たちはもともとの交友関係をフル稼働し、台所用品のほとんどを無料で譲り受けて初期費用を少なくすることに成功し、ダイニングテーブルもテレビも掃除機もラックも買わないで済んだのだから、始まりは上々だった。日々、外食はしないとか、無駄なお金は使わないという当たり前のことを意識するところから始まって、私たちは毎日、これまでの生活態度を反省しては悔い改めて暮らしていたので、そうやって模索を重ねていると、早くも清貧への道が開けてきたように感じていたのである。

その証拠と言ってはなんだが、白井君はここのところ目に見えて痩せていっていた。日本では中性脂肪がやや高めという健康診断の結果を持つ健啖家だったので、白井君がこの節約生活が始まって以来10日余りで早くも五キロの減量に成功したのは、実に喜ばしいことだった。明らかに肉の落ちた体を眺めながら、白井君はちょっと興奮しつつ「節約生活ってすごいな!」と悦に入っていた。その上、彼はいつも空腹で目が覚めるらしく、そういう時の朝ごはんもとびきり美味しいのだという。無駄な間食をしていた頃には気付かなかったことである。
私はというと、白井君ほど痩せることはなかったものの、節約生活が始まって以来、白井君が大学で提供されたクッキーやブラウニー、コーヒーやピザなどをこっそりカバンにしのばせて持ち帰るのを楽しみにしており、そうしたお土産にささやかな幸せを感じるようになっていた。加えて、ウィスコンシン大学では生徒が運営しているオープンシートという制度があり、それに登録すると週に一度、物資配給のようにさまざまな生活用品や食料品を無料で受け取ることが出来たので、それらの品々にも心を躍らせていた。
配給日の初日を迎えた先週、帰宅した白井君のカバンから次から次へと取り出された戦利品を見て、私はその多さにいくらか驚きもした。トマト缶、パスタ、スープ、コーン、石鹸、シャンプー、髭剃り...すぐに使えるものばかりだった。そうでなくても、キャンパスの近くにある教会では毎週、苦学生のためのディナーやランチが提供されていたり、近所のスーパーでは12歳以下の子供には毎日無料のフルーツやクッキーが提供されるサービスがあって、そのサービスにいちいち感激するので忙しかった。しかもその全てが、前回の滞在では気付かなかった発見ばかりだったのである。

素晴らしいことは他にもあった。ウィスコンシン大学は、私たちのように子供連れの低所得世帯のため、託児所を1セメスター(9月から12月末まで)50時間まで無料で利用できるサービスを行っており、これは大いにあり難いサービスだった。子供の教育という面では、地域ごとに週に一度、"Play and Learn"と言って遊んだり、学んだりできる児童館のような場所もあったし、教会などでは子供のための簡単な歌のプログラムなどもあった。図書館の子供コーナーでは、立派なBRIOの電車のオモチャやレゴ、何台ものiPadが置かれてあり、それらを使って子供たちはいくらでも自由に遊ぶことが出来た。いくつかの無料で利用できるミュージアム、動物園、二歳以下までなら無料で使える室内遊具場、公園、コンサート、映画館...探せば探すほどに、マディソンではお金を使わずに楽しめるサービスがたくさんあり、その充実ぶりには目を見張るものがあったのである。

韓国人のセオンは、6か月になる子供のいる主婦友達だったが、「ここに暮らす人は全員お金がないんじゃないの?」と私に向かって言ったことがあった。彼女もまた私と同じような境遇で、旦那さんのわずかな大学の給料で生活をしている世帯だったのである。だけど「お金がなくて...」と暗い顔で言う私に向かって、彼女は「そんなことは当たり前」だとさらりと言った。トム先生も「学生というのは貧乏なもんだ」と言ったことがあった。みんなギリギリの中で暮らしているのだ、と。だいたいマディソンはウィスコンシン大学で栄える学術都市である。世界中から様々な事情の人材が集まってくる。そしてだからこそ、気付いてみるとここではそういう人々が生きていくための、たくさんのヒントがあちこちに隠されているように思えたのだった。

変わらないもの

8月19日
二度目となるマディソンでは、前回暮らしたアパートと同じ通りに面したクラシックなアパートに居を構えることになった。内装も前のアパートによく似た古めかしいアパートである。がらんとした部屋には、日本から持ってきたトランクが三つと、事前に送っておいた段ボール箱が三つ入り、それからすぐにマディソンに暮らしている日本人の友人に、この夏に帰国した日本人家族から譲り受けた家具などを運び込んでもらった。もちろんリビングにダイニングテーブルはないので、ご飯は段ボール箱をひっくり返したものをテーブルがわりにして床で食べるしかなかったけれど、二度目ともなると、引っ越しのいろいろなことが想定の範囲内だった。
着いてすぐの買い出しも、どこで何を買ったらいいか分かりすぎるほど分かっていた。だいたい目をつぶっていてもたどり着けたのではないかと思うほど、マディソンは何も変わっていなかった。もちろん、アパートの前のビルが大がかりな解体工事をしていたり、近くのモールにお洒落なアップルストアが出来、マディソン中にご当地キャラクターであるバッキー君の巨大な置物が出現していたりと、細かな変化はあった。だけど、基本的にマディソンはマディソンのままだった。道の広さだったり、ゆったりとした車の流れだったり、道を歩く人々の優しい微笑みは相も変わらず健在していたのである。
 
あまりにも何も変わらないので、私はすぐにマディソンの日常に溶け込むことが出来たが、着いて早々に、語学学校時代の旧友達からウェルカムバックのメールをもらったことも心強いことの一つだった。タイ人のパニカはさっそく会おうと言ってくれたので、私は時差ボケも修正できぬまま、到着三日目には近所に住むパニカの家に出向いてゴーヤチャンプルのようなタイ料理をご馳走になった。それから大好きなサウジアラビア人のアハメも、渡米二日目の夜に「明日の夜にディナーでもどう?」というメールを送ってきてくれた。極貧のためディナーになど出かけられる身分ではない私は、アハメのこの誘いに「ちょっと引っ越したばかりで忙しい...」と言って断りを入れたが、優しいアハメは「それなら何か手伝えることはない?」と嬉しい申し出をしてくれ、すぐにその週末、私はアハメに車を出してもらっていくつか用事を済ませることになった。

土曜日。アハメは前日に約束した時間よりも一時間半遅れて、陽気に私のアパートまで車で迎えに来てくれた。もちろん、アラブ人の習性であるこの大幅な遅刻も想定内だったので、私はむしろ予想を裏切らなかったアハメに感動すらした。いや、そんなことよりも、久方ぶりに見るアハメがすっかり太り、貫禄のあるアラブ人になっていたことの方が驚きだった。喋り方もなんだかアメリカンガイである。車を降りる時も、私の座席のドアを開けてくれるという成長ぶりである。三年前、出会った頃の舌足らずで出来の悪い十代の可愛いアハメは影も形もなかった。これが祖国を離れ、異国で三年間揉まれた成果なのだろうか?確かまだ二十二歳かそこらのはずだったような...と思いながら、私は人知れず、少しだけ後退したように見えるアハメの額の生え際にも着目せずにはいられなかった。

だけど、そんな風に成長したアハメが示してくれる献身ぶりにも、私はまた驚きと心からの感謝を抱かずにはいられなかった。マディソンでは車が無いと何かと不便である。来たばかりで車の購入まで至っていない私たちにとって、車を出してくれる人というのはアッラーよりも上の存在に思えるのである。お昼前から夕方まで、アハメはご機嫌に車を飛ばしてマディソン中をあっちへ行きこっちへ行きし、私たちの用事に根気強く付き合ってくれた。一つ用事が終わると「次はどこへ行ったらいいんだい?」と聞くので、私たちは神のようなアハメにすっかり甘え、主要な用事をいくつか済ませることが出来たのだが、帰り際になるとさすがにアハメは少しだけ疲れた様子を見せた。
「疲れた?」
何だか口数が減ってきたので、私はアハメにそう尋ねた。実は、このときになって初めて私は、アハメはもしかするとお腹が空いているのかもしれない、と思い当たって心配になったのだった。
というのも、この日、午後1時を過ぎたあたりで、アハメが「お昼ご飯はどうする?」と聞いてきたのだが、貧困層でランチを外で食べることの出来ない私たちは「食べてきた」と答えてしまったからである。アハメはすると、「それなら僕はブランチを食べたから大丈夫」と言ってそのまま運転を続けたが、その後、中古車屋さんに入ると、お店に置いてある無料の水を全速力で取りに行き、それをゴクゴクと勢いよく美味しそうに飲んだ。
そしてそれ以外はアハメの様子に特段の変化は見られなかった。アハメは終始穏やかでご機嫌にふるまっていたので、私にはその突き出たお腹の減り具合をうかがい知ることは困難だったのだが、しかし、後になるとアハメはやっぱりなんだか元気がなくなってきたようだったのである。
「大丈夫?」
私が聞くと、アハメはハッと驚き、「何?僕?」と聞き返した。
「なんでそんなこと聞くの?」とアハメが聞くので、「だって、いっぱい運転してくれたから」と私が言うと、アハメはにやりと笑い、「全然疲れてないよ」と言った。
私は、サンキューと何度もお礼を言いながら、こんなに良くしてくれたお礼をもっとアハメに伝えたいと思っていた。アハメが今日一日付き合ってくれたことで、私たちがどんなに助かったか...。だけど、そのお礼として私たちがアハメに差し出すことが出来たのは、白井君が仕事場から貰ってきたフリーのオレンジが三つと、「何かあった時のために...」と思って日本からスーツケースに滑り込ませていた「寿司の消しゴムセット」のみだったからである。
アハメは寿司型の消しゴムをしげしげと眺め、オレンジは日本から持ってきたのか?と尋ねたが、私たちはその期待にすら応えられずに「ノー」と答えた。

だけどアハメが変わらずマディソンに居てくれて良かった、と私は心から思っていた。優しいアハメ...。アハメは今も変わらずマディソンに居て、そしてやっぱり魅力的なアラブ人のアハメのままだったのである。

再出発

8月15日
マディソンに戻ってきた。日本を出発して十三時間。デトロイトでの乗り継ぎを経て、旦那さんの白井君と一歳七か月になる息子の三人で、くたくたになりながらまたここに戻ってきた。一年二か月ぶりのアメリカである。美味しいご飯もない、オシャレなブティックもない、のどかで豊かな自然の中で、バジャーと暖かい人達が陽気に暮らすウィスコンシン州マディソンである。

それにしても、文字通り舞い戻った瞬間、飛行機の窓から見下ろした先に広がる殺風景な景色を前にして、私の心に沸き上がる喜びはひとしおだった。眼下に広がるのは、ぽつりぽつりと芝生の間に家が立ち並び、その向こうに湖が見えるのみの味気ない景色である。なんの刺激もない。初めて来た人なら「なんという田舎に来てしまったのだろう」と帰りたくなるかもしれない景色である。だけど私は今や、その「何もなさ」の中にこそマディソンに生きる意味があることを知っていた。たくさんの気づきと学びの思い出が、夕刻迫るマディソンの景色と共に胸に去来して、思わず機内にいる私の頬を涙が伝った。

ところで、マディソンに戻るまでのこの一年と二か月。私の日本での生活は、あわただしいものだった。出版のお話をいただいたことによる嬉しい忙しさの中で、不慣れな子育てには相変わらず苦労することが多かったし、日本での子育ては異国とはまた違う大変さがあり、私はこの一年二か月を通じ、日々、いろいろな感情を抱くことがあった。もちろん日本の美味しいごはんにはいつも感動していたし、二年ぶりに友人達と再会を果たすことが出来たのは喜ばしいことだった。でもそうこうするうちに再び県をまたいでの大きな引っ越しもあり、そうした生活の大変さから、人生で初めて救急車で搬送された夜もあった。忙しさの中で何度も寝込み、その度に暗い気持ちになって子供みたいに泣いた日もあった。嬉しいことも悲しいこともたくさんあった。そうして色んな思いが混じりあった一年二か月の末、私はまた、こうしてマディソンに戻る時を迎えたのである。

しかしそんな新たな門出に立つ一方で、これは私たちにとっては大きな決断の時でもあった。というのも、今回は前回ののんきな滞在とは少し毛色が違っていたからである。そもそもこれからのマディソンでの暮らしを支える資金の出所が前回と違っているので、信じられないほど極貧で生活しなくてはいけなかった。私たち家族の暮らしを支えるのは、白井君が大学のTAをすることで得られるわずかばかりの給料と、日本で蓄えた貯金のみである。何年滞在するかも正確にはわからない。その先に思い描いたものを得ることができるかどうかもわからない。ともすると、驚異的な飢餓に苦しむかもしれない。貧しさから心が荒むかもしれない。そうして夢半ばで帰国を余儀なくされるかもしれない。たくさんの心配事と不安が私達の前には立ちはだかっていた。いや、むしろ私の脳裏には不安しかなかった。
だけど、それでも私たちは、再び挑戦する覚悟を決めたのである。迷いながら、悩みながら、何だかよくわからないうれし涙と薄ら笑いを浮かべて、私はこうして再び、マディソンの心洗われる世界に足を踏み入れたというわけである。

 6月27日。マディソンは、夕闇に無数の蛍が飛び交う美しい季節である。この時期、マディソンに点在しているいくつかの美しい湖はその水面に白と青の空の色を映し込み沢山のカヤックやモーターボートを浮かべて、まるでモネかルノワールの絵のような美しい姿を見せる。この頃、夜の九時頃まで日は落ちないので、遠くで野外ライブの演奏がいつまでも楽しげに聞こえてくる夜もある。そうしてその音が消えたかと思うと、今度は薄暗がりの中、どこからともなく蛍の光がほうぼうで舞い上がり、そこら中で彼らのひと夏の求愛が始まるのである。穏やかでこの上なく美しくとても豊かな季節である。
 
 二年前の7月、私はこの美しい夏のマディソンに白井君と二人で降り立った。右も左も分からぬ異国の地で最初に感動したのは何よりもまず、アメリカの、マディソンのこの自然の「豊かさ」だった。そしてその羨望は二年経った今もなお、ますます募るばかりである。これが戦争をしている国だろうか?マディソンでの豊かでのどかな生活は、自分がこれまで抱いていた「アメリカ」という大国への考え方を根本から覆すものだったからである。穏やかで平和で安全でクリーンでインターナショナルな学園都市であるマディソンには、あらゆる国の人々が住み、それぞれがそれぞれの文化や歴史に敬意を払いながら、思い合い、助け合って生きていた。夕暮れに行きかう人々は、知り合いではなくてもにこやかに挨拶を交わし、時に冗談を言って笑い合って去りゆく時もある。お金がなくて困っていた日、洗濯機の乾燥機用のクオーターコインを2ドル分、無償でくれた人も居た。自動販売機でポテトチップスを買おうとしたら、商品の補充をしていた業者の人からポテトチップスを貰ったこともある。赤ちゃんを連れていて知らない人から声をかけられるのも、ドアを開けてもらうことにも、私はすっかり慣れてしまった。

寛容で、いい意味でルーズでカジュアル。「マディソンは田舎で刺激がないから詰まらない」と言う人も居る。だけどそれは、代り映えのない至極の美しさに慣れてしまった人の惰性以外に他ならない。マディソンの良さは、人々の人間性も含め、優しくて素朴という点でもあるからだ。だから結局私は、アメリカに来る前に想定していた「怖い思い」(黒人にリンチされるとか、「イエローモンキー」と罵られて石を投げつけられるとか、白井君が銃で撃たれて死ぬとか。)を経験することはなく、この豊かなマディソンの土地に染みわたる国際色豊かな養分を十二分に吸い込み、学び、笑い、人生で最も楽しかったと言っても過言ではない二年間を過ごすことが出来たのである。

そしてもう一つ。そんなマディソンで感じ、身に起った一つ一つをこうして言葉に書き起こし、日記として残すことの出来る場所があったことも、私には何よりも代えがたい大きな幸せだった。こんな風に、自分一人では経験できそうもない機会を与えてくれた家族、そして恩師内田樹先生には感謝してもしきれない。ウィスコンシン渾身日記を締めくくるにあたって、二年間、こんな風に毎月毎月長屋にアップしてくださった内田先生にあたらためてお礼申し上げます。二年間、本当にありがとうございました。

マイアミの思い出

6月9日。「あなたの旅行の経験について聞かせてください。」というメールが悪名高きユナイテッド航空から届いた。メールの文面にある『旅行の経験』とは、数日前に家族三人で行ったマイアミ旅行のことで、『聞かせてください』とは、その帰りのシカゴ行きの飛行機のことである。もちろん、その飛行機について聞かせられる何かとは18時間近くに及んだ飛行機の遅延の話であり、ユナイテッド航空は私たち乗客にそのお詫びとして一人75ドルぽっちのユナイテッド航空の次回割引券を発行したのみだった。遅延理由は悪天候だから仕方ないのかもしれない。そもそもマイアミは雨期である。私たちの滞在中は幸運にも晴れ間の多い日が続いたが、最終日のその日は朝からどうも雲行きが怪しかった。

だけどその日、私たちは午後3時に飛び立つはずの飛行機を空港で6時間近く待ったあげく、「今夜のフライトはキャンセルで、どこのホテルももう空き部屋がありません。明日の朝9時に来てください。」という他人行儀なアナウンスと共に夜のマイアミに放り出されたのである。後から思うと、「どこのホテルも空き部屋がない」というのはユナイテッド側の法螺話だったのだが、やにわにパニックになった搭乗口では我先にとインターネットでホテルを探す人やスタッフに駆け寄る人でごった返していた。私は赤ちゃんを連れて空港で宿泊するわけにはいかないと必死でホテルを探し、一番にヒットした安宿に飛びついたのだが、その日冷静を欠いて予約したホテルは小汚く、部屋は泣けてくるほど寝苦しくジメジメしていた。だけど時計はもはや深夜を回り、外はざざぶりの雨である。疲れの取れないまま、次の日やっとのことでシカゴに飛んだ後、車で三時間かけてマディソンの自宅まで戻ってきた私たちは、楽しかったマイアミでの夏の思い出が掻き消えるほどに疲労困憊する中、ユナイテッド航空からこの一通のメールを受け取ったというわけである。

だからこの旅行の経験で思い出されるのはそんな苦労話である。そもそもマイアミでは特に何をしたということもなかったからである。私たちはマイアミビーチに行き、レンタカーでドライブをし、ホテルのプールで寝そべり、メキシコ料理やキューバ料理を食べてブラついていただけだった。ちょっと良いホテルに泊まってマイアミのダウンタウンとプールとビーチをただ練り歩いていた。マイアミは中南米からの移民が多く、ホテルの従業員やタクシーの運転手などはたいていがヒスパニック系で、そこら中でスペイン語が飛び交っていた。もちろん南米系のご飯は絶品だったけれどニューオリンズに行った時ほどの融合された濃い文化の発見を見たわけではなく、特に見るべき面白いものがあるわけでもなかった。ときどき顔の濃い白井君がそんなヒスパニック系の労働者から気軽にスペイン語で「Hola!」(こんにちは!)と声をかけられて、同業者だと思われているのが面白かったくらいである。そして最後の最後で飛行機のトラブルに見舞われたというわけである。

だけどそんな苦い思い出と共に、私たちには一つだけ忘れられないマイアミの素敵な思い出があった。最終日の前日に夕食のために夜のダウンタウンに繰り出そうとしていた時のことである。私たちはホテルのエレベーターで不思議な二人組の男性と乗り合わせた。それは背の高い紳士とその人よりは少し背の低い紳士の二人組だった。背の高い方の紳士は大柄で体格もよく、浅黒い肌のエキゾチックな顔をしたハンサムな男で、エレベーターに乗り込むと、すぐに私たちのベビーカーをひょいと覗き込んで「何か月?」と快活に尋ねてきた。エレベーター内はその二人の紳士と白井君、そして私と赤ちゃんの五人だけである。もう一人の連れの男性は、少し控えめにエレベーターボーイのようにして立っている。私は「五か月です。アメリカ生まれなんです。」と紋切型の返答をすると、背の高い男性は「それはいいね」と言って、また私たちの赤ちゃんを興味深そうに覗き込んできた。ベビーカーではついさっき寝入った赤ちゃんがいぎたなく足を広げて眠りこけている。「僕のワイフも今妊娠中なんだよ。」とその紳士が私たちをまっすぐに振り返って言った。とてもハンサムで好感の持てる顔だった。「おめでとうございます」と白井君と私が声を合わせて言うと、「君たちこそおめでとう。」と彼はさわやかな笑顔を見せた。

数十秒ほどの会話だった。そこでエレベーターが地上に着き扉が開かれたからである。エレベーターボーイのように立っていたもう一人の紳士が私たちに先に出るようにと手でドアをおさえて促してくれた。私たちはお礼をのべ、ベビーカーを押して先にエレベーターを出た。ふと振り返ると、その背の高い方の紳士が私たちとは反対方向の道へ颯爽と消えていくのが見えた。とてもフレンドリーでなんとも不思議な魅力のある人だと思った。が、それもそのはずである。その去りゆく後ろ姿こそ、アメリカ人ならば誰もが知っているメジャーリーグのスーパースター選手、デレク・ジーターその人そのものだったからである。私たちはエレベーターを降りて数分後、たまたま近くを歩いていたアメリカ人の青年にあの紳士がデレク・ジーターであることを知らされた。彼が妊娠中だと語った妻とはモデルのハンナ・デービスのことで、私と白井君はそのデレク・ジーターに偉そうにも「おめでとう」などとマイアミで先輩風を吹かせたというわけである。

パニカとトニのこと

  5月10日。タイ人のパニカが結婚した。語学学校のすぐ近くにある州議事堂の中で、パニカはとてもカジュアルな結婚式を挙げた。新郎はずっと一緒に暮らしていたアメリカ人のトニである。同席者は語学学校のフロントデスクで働くタイ人のプンとその夫のケビン、それから語学学校の友人である私と韓国人のユン、そして結婚式の進行役の女性の五人だけである。私とユンはたまたま式の前日にパニカとメールをしていたことで知らされただけだったので、もともとは契約書に立会人としてのサインが必要だったプンとケビンだけの予定だったのだろう。結婚式というよりは、結婚の手続きに立ち会うという感じで、10分ほどで終わった。だけどそんなあっさりした式にも関わらず、私は一年以上友人だったパニカの晴れ姿を見て、込み上げてくるものをおさえることが出来なかった。

 私がパニカに出会ったのは去年の三月だった。パニカはタイでアメリカ人のトニと恋に落ち、彼を追いかけるようにして去年の春にマディソンにやってきたのである。34歳だった。なかなかいい年齢である。だけどパニカはタイでの仕事を辞め、いつタイに帰国するのか、帰国してから何をするのかも何も考えずに、ただ時間とお金の許す限り、トニのアパートから語学学校に通っている無鉄砲な子だった。その上、勉強熱心なタイの生徒が多い中、パニカはびっくりするほど勉強嫌いだった。熱心に英語の勉強をしないので、喋っていても何を言っているのか分からないのがパニカの特徴で、「何を言ってるのか分からないから、付き合いたくない」と陰でパニカの事を悪く言っている女の子も居たし、恋人であるトニでさえもパニカが喋るのを黙って聞いた後に、「何を言ってるのかぜんぜん分からなかったよ。」と優しく囁いていることがあった。誰もパニカが英語で何を話しているのか理解できなかった。だけどパニカは英語が上達したいわけではなくて、ただトニと一緒に居たくてマディソンに居るだけの愛に生きる女性だったので、パニカの純粋な愛の前には、「語学習得」というものは何の意味も持たなかったのかもしれない。

 が、語学学校に通っている限り、そんな綿菓子のような甘いことは言ってはいられなかった。私たちの通う学校はアカデミックなコースを取ると、山ほど宿題が出る。パニカは毎日厭々ながら宿題をこなし、時にクラスをリピートしながらも少しずつ英語を上達させざるを得なかった。だけど勉強嫌いのパニカである。だいぶ英語が上達したところで、もうアカデミックなコースを取るのを辞め、宿題が出ない簡単なクラスばかり取るようになった。600のレベルまで進むと、次は大学進学レベルの700の最終クラスとネイティブが通う「ティーチャー・トレーニングプログラム」が残されているのみだったからだ。パニカはそんな上級のクラスに行って毎日宿題漬けになる気なんてサラサラなかったのである。

だけどそのうち、パニカは簡単なクラスをすべて取ってしまい、セッションの始まりにいつも、フロントデスクでうつむきながら、次のセッションで取る授業を悩むようになった。アカデミックではないクラスはどれも二度ずつ取ってパスしたのだとパニカは暗い顔で言った。でもビザの関係上、パニカはフルタイムで授業を受けなくてはいけなかったのである。私はそんなパニカに、近くのコミュニティカレッジに進学したらどうか?と勧めたこともあった。コミュニティカレッジなら語学学校よりも授業料は安く厳しくないのが特徴で、多くの生徒が語学学校で600をクリアした後に進学している。けれど私がその話をしているのを、毎回パニカにアカデミックなコースに進むように指導しているフロントデスクのプンに聞かれてしまい、「パニカはまず英語を勉強すべきなのだ。一年近く居てパニカは全然喋れるようになっていない。勝手なアドバイスはするな。」と、なぜか私一人だけあとでプンに怒られたことがあった。

結局パニカはぐずぐずと遊びのような授業を何度もリピートして、先の見えない恋の終焉を先延ばしにしていた。私はそんなパニカに何度も「トニと結婚したら勉強しないでずっとマディソンに居られるよ」と言ったことがある。トニ本人にも言ったことがある。そう言うと、パニカはもちろん結婚したそうに微笑んだが、トニの方はすこし様子が違っていた。トニはずるい男だったのである。トニはいつもパニカに「先のことは分からない。」とか「来年、君はタイに帰ってるのかな?分からないけど。」などと言って、自分たちの関係を曖昧にしていた。トニはとてもハンサムで頭の切れる男だったが、私はそんなことをパニカに言うトニを、密かに残酷な男かもしれないと思っていた。だらだらと月日だけが過ぎ、パニカは35歳になってしまったからである。私は、毎度暗い顔をして授業の予定を作るパニカを見ながら、彼女はいずれタイに一人で帰るのだろうと思っていた。アメリカでしたいことがあるわけではない。お金も時間もそろそろ限界だろう。誰もがそう思っていた。そしていよいよ、トニと別れてタイに戻るだろうと思われたころ、パニカは妊娠したのである。

今日、少し膨らんだお腹を抱えて、白いワンピース姿で州議事堂にトニと手をつないで現れたパニカは、とても美しかった。予期せぬ出来事のため、親戚や友人などのほとんど居ない寂しい結婚式だった。進行役の女性も、ぼさぼさの髪の毛に普段着というカジュアルな恰好で、州議事堂の渡り廊下に着くと「この辺でするのはどう?」と言った。それでもパニカはすごく幸せそうにトニにぴったりと寄り添い、州議事堂の渡り廊下でトニと向かい合わせになって立った。私たちが見守る中、進行役の女性がトニに「パニカを妻とし愛し続けますか?」と問いかけた。パニカは震えながら恐る恐るトニを見つめた。トニは「イエス、アイドゥ」と静かに、だけど優しくパニカに言った。パニカの目から大粒の涙が次から次へとこぼれ落ちた。「宿題が好きじゃない」と言ってフロントデスクでうなだれていたパニカの姿が私の脳裏をよぎり、私の目からも涙があふれてきた。だけど今日、どんな形であれパニカの愛は成就したのである。九回裏、パニカは黙って愛の逆転ホームランを見事に打ち放ったのである。

(余談だけどパニカはやっぱりもう少し英語を勉強するべきだった。肝心なところで進行役の英語が聞き取れず、誓いの言葉をうまく言えてなかったからだ。でもとても素晴らしい結婚式だった。)

カプレイ教授の退官

4月27日。「今日だよ!」教室に来るなりカプレイ教授が私に言った。もう三回ほど言われているので忘れるはずがないのだけれど、私は「四時からですよね?」と確認する。カプレイ教授は大きく頷いて「ルーム4070だからね。」と念を押した。忘れるはずがない。今日はカプレイ教授の退官の記念講演会の日なのだ。最初にそのことを言われたのは3月の上旬のとある授業の日だった。授業の始まる直前に教壇から私を手招きして呼び寄せ、カプレイ教授は今日の講演会の日程を個人的に教えてくれたのである。そして「デーヴィッド・ボードウェルも来るよ。」といたずらっぽく言った。それはマディソンで映画好きを気取っている人なら誰もが知っている名前である。もちろんマディソンでなくても、映画好きを気取っていなくても、知っている人は知っている有名人である。日本でも何冊か彼の本が翻訳されて出版されているし、ウィスコンシン大学の映画講義のいくつかは彼の本を中心に展開されている。デーヴィッド・ボードウェルはウィスコンシン大学が世界に誇る映画批評の生きた権威であり、ウィスコンシン大学の映画を学ぶ豊かな環境に大きく貢献した人なのである。

だけどデーヴィッド・ボードウェルが来るということよりも、私はとにかくお世話になったカプレイ教授の退官の記念講演会なのだから、今日は雨が降ろうが槍が降ろうが這ってでも講演会にはいかないといけないと思っていた。ただ、カプレイ教授が毎回私にしかアナウンスしないので、一瞬同じクラスのベリチアンナに今日の講演会の連絡メールのようなものが生徒たちには送られていたりするのかどうか確認しようと思ったが、前回のチチカット・フォーリーズのようなことがあってはいけないと思い辞めておいた。いったいどんな講演会なのかもよく知らないけれど、カプレイ教授が熱心に誘ってくれるのだから行かないわけにはいかない。わくわくしながら、私は3時半頃に大学に到着し、会場に向かった。そこはよく知っている会場で、ウィスコンシン大学の内部に併設されている歴史ある映画館である。

会場に入るといきなり私はデーヴィッド・ボードウェルに出くわした。というよりも、デーヴィッド・ボードウェルと一人の助手しかいない。そして何やら大きな声でスクリーンをチェックしている。恐ろしすぎて私は引き返し、何度も女子トイレと会場の入り口のあたりをウロウロと往復し、やはりもう一度出直そうと決意したところでカプレイ教授が現れた。「すいません、早く来過ぎて…」ごにょごにょと言い訳をしている私に構わずカプレイ教授は「こっちこっち!」と言って私を会場に招き入れた。そして逃げ出さんばかりの私の手を取って中に連れて行くと、私をボードウェルに紹介してくれたのである。「ボードウェル!こちらは日本から来たセイコだよ。素晴らしいシネフィルなんだ。」デーヴィッド・ボードウェルは作業の手を止めて、面白そうに私の所に駆け寄って来ると、「日本には四度行ったことがあるよ。」と言った。が、私はもう他にどんな会話をしたのか覚えていない。

始まって気付いたが、集まっていたのは完全に関係者だけだった。生徒など一人も来ていない。ほとんどがウィスコンシン大学のフィルム学に関わるカプレイ教授の素晴らしい同僚やTA、少数の親族と一人のカメラ小僧だけだった。退官の記念講演会と言えば、私は内田先生の講演会のようなもの(沢山の取材陣や卒業生が集まり、講演そのものがまるっと一冊の本になったりするもの。)を想像していたので、きっと講演会というよりは内輪のイベントのようなものだったのだろう。とてもアットホームでカジュアルなものだった。だけど、私はとにかく自分が場違いではないかと思い終始、恐縮しきりだった。カプレイ教授はデーヴィッド・ボードウェルと私を引き合わせた後、今度は奥さんのベティ・カプレイの所へ私を連れて行き、紹介してくれたからである。また、講演が始まると冒頭の挨拶で沢山の関係者にお礼を述べたのち、最後の方で「それから」と言って「皆は知らないと思うけれど、あそこに座っているセイコにもお礼を。日本から来た素晴らしいシネフィルです。」と私をまた大々的に紹介してくれたのである。いくつもの目が私に注がれ、知らない人がこちらを向いて「ハーイ」と手を振ってくれた。デーヴィッド・ボードウェルも見ている。私は恥ずかしくて恐縮して、ぎこちなく笑うしか出来なかった。

まったくもって不思議なことだった。なぜカプレイ教授は、何の関係もない部外者の私に、こんなにも良くしてくれるのか。白井君がウィスコンシン大学に二年間留学することになり、目的もなくウィスコンシン州マディソンにやって来たただの映画好きの主婦である。大好きな映画学を盗聴することに生きがいを見つけ、三セメスター、カプレイ教授の恩恵にあずかり、その合間に子供を産み、産んでもなお授業に通ってきたよくわからない日本人がもの珍しかったのかもしれない。あと一週間でカプレイ教授の40年の教員生活は終わる。そしてまた、あと二か月で私たちのマディソンでの生活も終わる。だけどカプレイ教授は講演会の後、「日本に帰っても連絡を取り合おう」と言ってくれた。人生というのは本当に不思議で何が起こるか分からないものだ。私はマディソンに来て今日と言う日ほど、それを噛みしめた日はなかった。

 4月1日。「もちろん無料だよ。ウィスコンシン大学が映画を愛するすべての人のために配っているチケットだよ。」そう言って授業の後、カプレイ教授は毎年この時期に開かれているウィスコンシン大学のフィルムフェスティバルの上映映画のチケットを私に手渡してくれた。私の他にも何人かの学生がチケットをもらいにカプレイ教授の周りに集まっている。私は嬉しくて手渡されたばかりのピカピカのチケットをしばらく眺めていた。チケットには「10ドル」と書かれていた。それから「土曜 18時15分 チチカット・フォーリーズ」の文字が踊っている。『チチカット・フォーリーズ』!私は嬉しくて何度もそのタイトルを眺めた。『チチカット・フォーリーズ』!それはドキュメンタリー映画の第一人者、フレデリック・ワイズマンによる伝説のデビュー作品のタイトルなのである。「弁護士かつ映画監督」という異色のキャリアを持つワイズマンは、60年代にナレーション、サウンドトラック、テロップなどの説明手段を一切使わないという極めて実験的で挑戦的な“ダイレクトシネマ”という手法を用い、数々の素晴らしいドキュメンタリー映画を作った(今なお作り続けている)ドキュメンタリー映画界のドンである。授業で彼の『法と秩序』という素晴らしい作品を観て以来、私はすっかりこのワイズマンの世界の虜になっていたのだが、この『チチカット・フォーリーズ』は、そんなワイズマンがマサチューセッツ州の精神異常犯罪者の矯正院の日常を撮影し、その衝撃の内容から一般上映が長らく禁止されていたという作品なのである。

 「セイコ、一緒に行かない?」私が恍惚としてチケットを眺めていると、同じクラスのベリチアンナという中国人の学生が声をかけてきた。ベリチアンナはドキュメンタリー映画と日本語に興味のあるウィスコンシン大学の女学生だ。高校からアメリカに住んでいるので英語は第二の母語なのだが、今は日本語を習得したいらしく、ドキュメンタリー映画の授業に潜り込んでいる私によく興味を持って声をかけてきてくれるのである。「それで映画の前に一緒にディナーでもどう?」とベリチアンナは誘う。私は一人で行くつもりだったが断る理由もないので、「もちろん」と快諾した。「16時に会って、私のアパートで一緒に料理を作って食べない?」とベリチアンナはなんだか楽しそうな提案をしたが、私は赤ちゃんの世話のことを考えて「17時からしか会えない」と断った。すると彼女は「じゃあ、私が17時までに夕食を作る。セイコは何もしなくていいから17時に私のアパートに来て、一緒に私が作った餃子を食べよう。」と提案してくれた。私はもちろん快諾した。17時から中国人の女の子が作る本場の餃子を食べて歓談し、18時からずっと観たかったワイズマンの映画を観るなんて、なんて素敵な週末の予定だろう。私はウキウキしながら土曜日、マディソンにある日本食材のお店でベリチアンナの家に持っていくお土産のどら焼きを購入し、家のことを片付けて、一人でバスに乗ってベリチアンナのアパートへ向かった。

 17時8分。約束の時間より少し到着が遅れた私がアパートのドアをノックすると、顔中が汗だくのベリチアンナがアパートから出てきた。眉毛と眉毛の間も鼻の頭も、びっしりと大粒の汗が光っている。「ごめんなさい。ジムでトレーニングしててシャワーを浴びていたの」とベリチアンナは言うが、どう見ても未だ汗だくである。「とにかく座って」とベリチアンナは部屋に招き入れた。大きな可愛いベッドが部屋の中心にあり、横にキッチンの付いたワンルームの学生らしい部屋だ。部屋の端に長い机があり、その机には餃子の代わりにリンゴが三切れ皿に盛られていた。「今日は本当に忙しくて、クレイジーな一日だったの!」ベリチアンナはそう言って何やらバタバタしている。どうやら餃子の種を今から作るようだ。私は嫌な予感を感じながら「何か手伝おうか?」と聞いた。「じゃあ、セロリを切ってくれる?」そう言ってベリチアンナは鶏肉のミンチを冷蔵庫から出した。私は時計を見た。17時15分。ワイズマンの映画の上映は18時15分である。映画上映まであと一時間しかない。だけど私には、今からセロリを切る以外選択の余地もなかった。

かくして私は、ベリチアンナと一緒にセロリを切り、餃子の種を作り、それを皮に詰め、ボイルし、食べる、ということを凄いスピードで行うことになった。ベリチアンナは時々手を止めて喋ったり、彼氏の写真を見せてきたりして、餃子の種を皮に詰める際は「わーお、セイコってすごく速いのね!」と悠長に、私のスピード重視の醜い餃子がすごい速度で作られてくのを見て感嘆していたが、こっちは必死である。この日の映画を楽しみに生きてきたのだから、私はこのワイズマンの『チチカット・フォーリーズ』に一分、一秒だって遅れたくはなかったのである。もっと言うと、余裕をもって15分前には席に着きたかった。何が悲しくて、大好きな映画上映の40分前に餃子をせっせと作らないといけないのか…。だけど種を詰めながら、私はベリチアンナがカプレイ教授の授業や、授業で扱う映画上映の時、よく遅刻して部屋に入ってきていた姿を思い出し、自分が今日、人生の大きな選択ミスをしたのではないかと感じていた。そんな私の心境を知ってか知らずか、ベリチアンナはまた私の餃子の食べる速さに感心した。そして自分はフランス映画が好きで、好きな監督はアニエス・ヴァルダだ、と語った。

私はそんな会話もそこそこに、5分で餃子を胃に収めると、18時には玄関で靴を履いてドアを開けてみせたが、ベリチアンナはアパートの鍵を探し出してなかなか玄関に現れなかった。18時5分に二人で小走りでアパートを出発し、しばらく歩いていると上映開場が見えてきた。(幸い彼女のアパートは大学のすぐ近くだった。)開場が見えてくると私は少しだけ安心し、歩く速度は緩めすぎないよう注意し、少し遅れて後ろを歩くベリチアンナを振り返りながら、「『5時から7時までのクレオ』は観た?」と聞いてみた。ベリチアンナはきょとんとして「何?」と聞き返すので、私が「『5時から7時までのクレオ』…アニエス・ヴェルダの作品の…」と言うと、ベリチアンナは私に追いつこうと頑張りながら「フランス映画に詳しくないの。」と、にべもなく言った。それから「そんなに急がなくても大丈夫よ。」と私に笑いかけた。

 結局、私の努力は報われ、私たちは映画開始2分前に会場に滑り込むことに成功し、私はワイズマンの『チチカット・フォーリーズ』を一秒も見逃すことなく楽しむことが出来た。期待した通り、映画はとても興味深いドキュメンタリーだった。ナレーションも、サウンドトラックも、テロップも無い映像の連続。見続けるのは少し疲れる作品である。目をそむけたくなるような衝撃的なシーンも沢山あった。そんな映画に夢中になっている私の隣で、ベリチアンナは眠りこけていた。こっくり、こっくり、横で単調にリズムを刻むベリチアンナの頭は、静かに、そして永遠に、映画が始まってから終わるまで、気持ちよさそうに揺れ動いていた。そして『チチカット・フォーリーズ』が終わる数分前に目を覚ますと、彼女はどこやらのパーティに顔を出すとかなんとか言い、あわただしく闇の中へと消えて行った。

 3月3日。2月から3月にかけて、マディソンの気候は思わせぶりである。昨日唐突に芝生の雪をすべて溶かしたかと思うと、次の日の朝にはまたそこら一面に白い雪を降らせることがあるからである。春を待ちわびる人々の気持ちをもてあそびながら、マディソンはゆっくりと凍てつくような冬から遠ざかろうとする。けれどそれはまだ長い冬のトンネルの出口ではなく、あくまでも気まぐれに私たちの心をかき乱す一進一退の春への攻防なのである。

 私はというと、そんなマディソンの気候に呼応するかのように、産後の体力は回復したりしなかったりを繰り返していた。手伝いに来てくれた母が一月末に帰国したあと、二月から私の本当の育児はスタートしたのだが、火曜日と木曜日の朝に相変わらずカプレイ教授の授業を聴講に行っていると、それだけですぐに動けなくなり、熱が出て寝込んでしまっていたのである。三時間おきの授乳と家事だけで精一杯だったのだが、それでも調子のいい日は頑張って外に出るようにし、友人に二時間ほど会ったりもした。が、その次の日に決まって熱が出て動けなくなった。出産前からずっと自分に課している読書や映画鑑賞のノルマも思うようにこなせない。産前にランナーとして鍛え上げていた足腰の筋肉がすべて失われ、一キロ走るのもやっとの体になっていたこともショックだった。すべての体力が出産でゼロになり、それを一にするための入り口がなかなか見つからない。可愛いわが子との愛おしい日々と引き換えに、私は何か大きな、自分自身の生命力の一部分をどこかに置いてきてしまったのだと考えずにはいられなかった。

 それでもようやく最近、雪解けの日が増えてくるのと同様に、ジムでトレーニングしたり、語学学校に顔を出したりすることが出来るようになってきた。家事も読書も映画鑑賞も、授乳の合間にやるコツを掴んできた。少しずつ日常が戻ってくると、今度は出産するまで気付かなかったことが見えてくるようになった。広いトイレや段差のないバリアフリーの道のありがたさを感じるようになったし、乳飲み子を抱えているということに対する周りの暖かさも冷たさも、自分が知らなかった世界が急速に見えてきたのである。それと同時に、私を取り巻く交友関係の在り方も様相を変えることがあった。子供を持つという人生の選択に対して、すべての友人が祝福してくれているとは限らなかったからである。「母親にならない」ということと「母親になれない」ということの大きな隔たりについて私は少しも考えたことがなかったので、子供の話題をすることで同世代の友人を知らず知らずのうちに傷つけているということも、これまで考えたこともなかった。だから、たかだか産後二か月でこれまで築いてきた友情があっけなく幕を閉じたり、心無い言葉を浴びせられたりすることがあるほど、『出産』というイベントが女性の生き方において、これほど繊細な問題だったのだということも、私は恥ずかしながら自分が出産するまで知らなかった。
 
 そんなことがあったせいで、私は最近ベス先生の『養子縁組』の話をよく思い出していた。日本では「養子を持つ」ことはほとんど人生の選択にはあがらないが、アメリカでは人生の選択の一つである。実際、ベス先生は二人の中国人と一人のルーマニア人の養女を育てていて、授業でもよくその話をする。そしていつも決まって「子供が出来ないことをずっと嘆いていたが、今は子供ができなかったことを良かったと思っている。そのおかげで今の子供たちに出会えたからだ。」と幸せそうに話を締めくくるのである。私は養子という文化になじみがなかったので、「子供たちは差別を受けたりしないのか?」とぶしつけな質問をベスにしたことがあったが、ベスは少し気を悪くしつつも「ない」と答え、アメリカは養子を持つ人が沢山いるのだと教えてくれた。

 また、夏に取ったネイサンの授業でもこんなことがあった。その日ネイサンは家の絵を描くように生徒に指示を出した。私たちは不思議に思いつつ、ノートにおのおの似たようなサザエさんのエンディングに出てくるような家の絵を描いた。ネイサンは生徒たちが描いた家の絵を満足そうに眺めながら、次にその家に住む家族の絵を描くように言った。またしても私たちは不思議に思いながら、父親、母親、そして子供の簡単な絵を各自ノートに描いた。ネイサンも白い紙に家と家族の絵を描いた。ネイサンが描いた家族は四人家族だった。大人が二人に子供が二人…だけど、ネイサンの描いた家族は私たち生徒が当たり前のように描いた四人家族とは少し違っていた。親である大人は二人ともスカートを履いていたのである。ネイサンは、家族の形は一つだけではない。物の見方は一つではないと私たちに教えながら、女同士、男同士の夫婦もあるし、今は彼らも子供を持つことだってできるだろ?と言うのである。

 あの夏の授業を思い出しながら私はいま、だけどそれはアメリカだから成立するのだと、思わずにはいられなかった。日本にはそんな多種多様な文化はなかなか成立しないし、だからこそ『出産』にまつわる様々な犯罪、閉塞感が日本には蔓延しているように思われるのだ。「赤ちゃんポストに捨てるくらいなら俺にくれよって思う。」と、あるゲイの男の子は私に言った。彼は結婚したいし子供が欲しいのだそうだ。だけど日本人である彼にはそのすべてが難しいことなのである。だから、日本では『出産』という言葉はある人々にとっては喜びだけではなく、苦しみの感情をもたらす言葉ですらあるのである。もしアメリカのように「養子」という選択が当たり前のように、自由にそこにあったなら、救われる人も沢山いるのではないだろうかと、そんなことを考えた春の日である。