考えるだけでも怖いこと

11月10日

 9月に急性虫垂炎で入院し、多くの人から指摘されたことは、「これが日本で起きたことで良かった」ということだった。これがもしも、そのほんの2ヶ月前まで住んでいたアメリカでの出来事だったらどうだっただろうか?アメリカの医療費が恐ろしく高いのは有名だが、具体的に自分がその憂き目にあっていたかも知れないという可能性について考えると、背筋が凍りつくようだった。
 まず救急車を使った時点で、その搬送料として(処置や距離にもよるが)数万円から20万円の出費はくだらない。運ばれた先が自身の加入する保険のカバーする病院であれば良いが(アメリカでは加入する保険の種類によって細かくカバーされる病院や処置が異なる)、運悪く、保険の適応されない病院に搬送されてしまった場合はどうだろうか?アメリカの崩壊した医療制度では、虫垂炎の手術は平均で300万から500万円である。入院すれば、滞在だけ(処置なし)で一日20万円となるので、四日間入院した私の場合、それだけで80万円のコストとなるのである。

 だからそうした突然の出費が原因でホームレスになる人もいるし、怪我をして治療もできない人たちもいる。医療費を支払えずに自己破産したという話はありふれた出来事なのである。

 もちろん、アメリカ社会が抱える問題は医療費だけではなかった。それ以外でもアメリカでは今、大学の学費がノンストップで上昇し続けているという問題がある。というのも、親が日本のように学費を支払う文化のないアメリカでは多くの若者たちが二十代そこそこで多額の借金を背負い、それが今深刻な問題となっているからである。8月にバイデン大統領が発表した学費ローン一部免除の政策は衝撃的だったが、それだけでは追いつかないほど、まだまだ多くのアメリカの若者たちが学費ローンの借金を抱えているのが現状で、だから進学する前に数年間どこかでアルバイトをして学費を貯める子もいるし、友人のマットは「だから僕は中国の大学に進学したんだよ」とまことしやかに語ったこともあった。

「年収800万円くらいが最も幸せに生きることのできる年収みたいだよ」

 虫垂炎の入院費の話から、アメリカの医療費の問題、学費ローンについて友人のヘンリーと話したとき、私たちは「幸せに生きるためにはお金はいくら必要なのだろうか?」とGoogleで検索して「年収800万円」という回答を得たことがあった。
 あるいはどこの国が一番裕福なのか?本当に医者になれば幸せなのか?など...。
 確かに、医者になれば裕福に暮らすことができるだろうが、日本とは違いアメリカでは医師免許を継続させるために、生涯定期的に試験を受け続けなければならない。そこに至るまでに医学生としての長い道のりと(もちろん高額の学費ローン)、研修医としてのハードな日々、手にしたお金を十分に使えるほどの満足いく時間を確保できるかどうか?総合的に見て、私たちはどのくらいの時間とどのくらいのお金で幸せを感じながら生きることができるのだろうか?と、そんなことを、ヘンリーと私は最近ウダウダと語り合ったことがあった。

 そんなヘンリーは、現在病院で働く二十四歳だったが、実はキャリアアップのために来年の春には大学へ戻ろうとしていた。もちろんその分、例によって学費ローンが追加でかかることになるのだが、やりたいことのために再び勉学に邁進できるということは数値では測ることのできない幸せがそこにあるようだったし、それは多額の学生ローンや高額医療費などの問題を別にして、私がアメリカが良いと思うことの一つでもあった。つまり、アメリカではヘンリーのように誰もが何度でも大学に戻ったり、そのキャリアを変えることが出来るからである。
 社会人になってから大学に戻ったり学士を取得することはもちろん、介護の仕事をしていた友人が大工になり、バーテンダーになり、普通のオフィスに再就職したこともあり、そうした全く別のキャリアを一つの人生の中で辿るということは、あちらでは日本で考えるほど困難なことではなかった。
 そもそもアメリカでは履歴書に生年月日を記載することを禁じられている。写真を貼ることも、性別を書く必要もないので、採用の際に年齢や見た目でその能力を査定されることがないのである。

 日本ではそんな風に簡単にキャリアを変えることが難しく、たいていは学校を卒業した後のキャリアのままだとヘンリーに伝えると、「その点、僕たちはラッキーだね」とため息をつきながら彼は言った。
「その仕事を好きになれるかどうかなんて働いてみないとわからないのに、就職した後でその仕事が自分に合ってなかったってわかって、だけどそれをもう変えられないとしたら、そんなことは考えるだけでも怖いことだね」と。

 もちろん、高額医療費や学費の他にもドラッグや銃など、アメリカではまだまだたくさんの社会的な問題があった。そしてそういうことをきっかけに人生を転げ落ちるリスクは日本よりも高く、それはそれでとても怖いことだった。だけど一方で、アメリカでは仕事に就いてみて合わなければまた違うキャリアを選択できるという「人生の巻き直し」のオプションがあり、多くの人がそうやって自分に適応した職種を模索することが可能なようだった。
 一体どちらの社会がより幸福な人生への近道だろうか?
 私はそういうことを考えるとやっぱりいつも、どこに住むのが一番なのか、分からなくなってしまうのだった。