そんなハーレー乗り達の姿とあのだだっ広いアメリカのハイウェイを思い出したのは、ここのところハマっているニューヨークタイムズのポッドキャスト「The Daily」で、「アメリカの歩行者の死亡件数が先進国の中で群を抜いている」という内容を聞いていたからだった。ゲストのエミリー・バジャーは2009年以降、うなぎ上りとなったアメリカの歩行者の死亡事故についてあれやこれやと仮説を立てていたが、それがなかなか面白かったのである。
彼女はまずなんと言っても、2007年「スマートフォン」が登場したことを挙げた。それからアメリカはヨーロッパなどの他の国に比べるとオートマ車を使う人が多いこと。(エミリーの説では、オートマ車に乗ることで片手が手持ち無沙汰になり、スマートフォンを触るのだそうだ。)そしてアメリカ人が小型車ではなく、大型車をより好む傾向があることから、そういった大型車が歩行者にヒットした時の致死率が高いことなどを列挙した。そして最後に、歩道の整備がきちんとされていない場所などが多く、そんな中で車を買うことのできない低所得者やホームレスが、都市部へ移動する際にハイウェイをそぞろ歩いているのを問題視したが、結局この謎を解く決定的な手がかりというものはなく、エミリー自身も最後の最後には「いろいろな要因が組み合わさっている」というちょっとぼんやりとした結論を述べるに至って番組は終わった。
だけどまあ、私から言わせると、アメリカの歩行者の死亡事故件数が多いのは、「さもありなん」な事柄でもあった。ウィスコンシン州だけに限ったことで言うと(なぜなら私はウィスコンシン州しか住んだ事がないから。)、まずエミリーの仮説に加えて、飲酒運転を法律で許容している(呼気中のアルコール濃度(BAC)が0.08パーセントまでオーケー)という点は見逃し難い。こんな法律のせいで、車で出かけた際にアルコールを飲むことに、みんな全然抵抗がない(なんならきっとマリワナだって吸いながら運転している人もいるだろう)し、実際、何年か前、白井くんのクラスメートの中国人の女の子が夜中に酒気帯び運転に跳ねられて帰らぬ人となったこともあった。
それから、アメリカの運転免許証の取りやすさも目に余る事象であった。アメリカの運転教育プラットフォームであるZutobiが2023年に発表した統計によると、アメリカは世界で4番目に自動車免許取得が「簡単」な国に選ばれていたが、(ちなみに、日本は運転免許取得が「難しい」国ランキングで21位である。)私からすると、あれよりも簡単な国があるのか、という驚きも少なくなかった。なぜならアメリカでは、日本で免許を取得する時に必要な座学のような講習会も、そして教官を横に乗せて走る練習期間もなく、筆記試験と実技の二つを独学で勉強してパスすればよかったからである。
筆記試験に至っては、試験官すらいなかった。がらんとした小部屋にパソコンが並び、どれもで好きなものを使って良いと言われてほったらかしにされる。制限時間だってあるのかないのか、よくわからなかった。カンニングしたってきっとバレなかっただろう。日本のように、何度も何度も、しつこいくらい交通事故についてのビデオを見せられることも、縦列駐車や並列駐車の実技もないので、やっぱりそんなところで免許を取得したドライバーたちの質は世界的に低くなるのだろうと、私は勝手に予想するのである。
そして、ウィスコンシンの極め付けは、「雪」である。
私も白井くんも(白井くんは私ほどではないが、)雪道を何度もスリップして怖い目にあった事がある。ロシア人のエフゲニアは、何年経っても、雪が降り始める11月のサンクスギビングのあたりで、警察官である旦那さんから「雪道の走り方」という長いリストのメールを受信するのが恒例になっていて(ロシア人なのに。)、そこには「スリップしたらブレーキを踏まないこと」などのためになるアドバイスが盛りだくさんだった。もちろん雪の降り積もった日には、そこらじゅうで事故現場を見る事があったし、私もあわや大惨事となるスリップを経験したことがあった。
ある時は、夜中に雪道をスリップして歩道に乗り上げると、そのまま車が動かなくなったこともあった。1月の雪のしんしんと降り積もる、マディソンの寒い夜のことである。
私は震えながらうんともすんとも言わない車から飛び出ると、車を押したりタイヤの周りの雪を掻いたりして、乗り上げた道と雪の壁から車をなんとか引っ張り出そうとした。だけどどうもフロントが少し凹んだせいで、前輪に車の車体が当たって、バックすることができないのである。アパートまであと少しのところだったが、こんな雪深い夜には車もほとんど行き交っていない。白井くんはもう寝てしまっているようで電話に出なかった。
途方に暮れていると、一台の車が通りかかった。ちょうどデート帰りのような、ちょっとめかしこんだ見知らぬカップルだったが、私が「車が動かなくなったんです」と言うと、すぐに二人は車から降り、そこから熱心に私の車を雪から引っ張り出すのを手伝い始めてくれたのである。
私は申し訳なさでいっぱいだった。一番申し訳ないのは、私が暖房の効いた車の中でエンジンをかけて掛け声に合わせてアクセルを踏む間に、二人は粉雪の舞い散る車の外に立って私の車をぎゅうぎゅうと押していたことだった。路上に降り積もった雪は排気ガスによって煤けているので、とても汚い。二人が車に思いっきり体を押し付ける度に、その雪が彼らのファンシーなコートを汚すのが見えた。
だけど何度目かの「せーの!」という掛け声のあと、やっと彼らの計り知れない努力によって車は歩道の雪の中から引っ張り出された。が、前輪がうまく動かないせいで、上り坂を走らせることができなかった。
「さあ、もう一度僕たちが上まで押すから乗って。そしてあそこの頂上まで行ったらもう下り坂だから、お別れだよ。」
そう言われて、私は咄嗟にお礼をしたいから連絡先を教えて欲しい、と言った。ここまでもう一時間近くも、極寒の中で私の車をぎゅうぎゅうと二人は押してくれたのである。服は泥だらけ。何もお返ししないわけにはいかないと思ったのである。
だけど彼らは「そんなことはいいから。いいから」と手を振って私を車の中へ押し込んだ。
「名前だけでも教えてください」
私は必死にそう食い下がった。
「...ケビン」
少し間を置いて、男の人がたった一言、そう言った。
そしてそれきりだった。二人は再びぎゅうぎゅうと坂道を私の車を押して上り、上がり切るとあっという間に消えてしまった。へとへとに疲れて、笑顔で手を振る二人の上半身がバックミラーから最後に一瞬だけ見えたが、私はもう引き返すことができなかった。そしてそのまま、その下り坂の途中にある自分のアパートまでノロノロと車を走らせると、私はその夜無事に帰宅する事ができたのである。
だから、アメリカの車社会に思いを馳せる時、私はこういった「とんでもエピソード」の枚挙にいとまがなかった。対向車線を走ったこと、警察に捕まったこと、車を撤去されたこと、ハイウェイでパニック発作を起こしたこと、雪道でスリップして助けられたこと...本当にたくさんの忘れられない経験をした。そして兎にも角にも、あの時死ななくて良かったと、ポッドキャストを聴きながら、そんなことを考えたのだった。
]]>他の家のお母さんなんかは、割とGPSなしに子供がマンションの下や近くの公園で遊び、いつまでも帰ってこなくてもさほど心配してないようだったが、私にとって子供が自分の手の届かぬ距離にいるというのはなんだか落ち着かない、もどかしいことであり、手元に流れてくる恐ろしいニュースを目にしては、いつ自分の子供が犯罪に巻き込まれるかと、考えるだに恐ろしくてオロオロしてしまうのである。その上、その安全のために付けているGPSの誤動作で息子が「近所の川の中に居る」と表示された日には(そういう日があった!)、あと一歩で警察沙汰になるところで、こうなるともうGPSですら信用できないという、まあ、私はなんというか、ある意味、過保護なダメ親なのだった。
だけど実際、1年生になったばかりの夏休みに、息子は見知らぬ男性から声をかけられたことがあった。
学童からの帰り道、家から目と鼻の先の徒歩数分の道で、見知らぬ男性が「ピカチュウあるよ」と言って、息子と、一緒に帰っていた同級生の女の子をそそのかしたのである。幸い、「要らない」と言って二人はすぐにその場を離れたが、息子は帰宅した直後にはその話を私にせず、しばらくしてゆっくりと、「あのお兄さんは良い人だと思うんだけどね...」と、言い訳をするような前置きをしてからその出来事を話し出して、「僕、行かなかったよ」と、涙目になって言ったことがあったのである。
もちろん、この出来事は学校を通じて警察へ通報されると、すぐに二人の刑事(若い男と渋い中年という絵に描いたようなコンビ)が息子に会いに来た。息子はその刑事二人を現場まで案内すると、刑事の一人がもう一人の刑事を犯人に見立て、息子に接触している犯人という構図の写真を何枚か撮り、そして「絶対に知らない人が近づいてきたら離れるように」とよくよく言い含めると、さわやかに帰っていった。
こういうことがあったことも手伝って、私はつい普段、アメリカの社会が徹底して子供の安全性に気を配っていたことについて思いを巡らせてしまう事があった。
アメリカでは小学校などでは学校が始まる前に親が一斉に、子供と一緒に校庭に並んで門が開くのを待たなければならなかったし、放課後もまた、親たちは同じように校庭にずらり並ぶと、門が開くのを暑い日も寒い日も雨の日も待ち、各クラスの教師達がそれぞれの親の顔を一人一人確認するまで子供を連れて帰ることができなかったのである。
あるときは、私が通っていた託児所付きのジムで、白井くんのIDで子供を預けたあと、先にシャワーを終えた私が引き取りに行ったときに、頑なに子供の引き渡しを拒まれたこともあった。もう1年以上もほぼ毎日通っている顔見知りばかりのジムで、私が母親で、白井くんが父親だと誰もが知っていても、である。
私はスタッフに何度も、「私がママって知っているよね?」と苛立ちを隠しながら聞いた。だけど彼女は「ごめんね。無理なの」としか答えなかった。万が一、母親が父親の許可なしに、子供をどこかへ連れ出そうとしていたら、それは母親といえども立派な「キッドナップ」にあたるからである。
だから、こういう経験を通じて私が学んだのは、子供は親だけのものではないのだということだった。社会によって、あらゆる大人から子供は守られるべきなのであり、そういう意味で、アメリカの制度というのは目を見張るものがあったのである。
もう一つ、アメリカの子供を守る対策の一貫として、私がすごいなと思ったのは、小児性犯罪者に対し、仮出所の際、薬物療法による化学的去勢を義務付けている(しかも本人負担)州がいくつかあるというところだった。また、ほぼ全ての州で、性犯罪者の居住地や個人情報をインターネット上で公開もしていた。
他の犯罪歴もウィスコンシン内の出来事であれば、CCPA(サイトは州によって違う)という裁判所のサイトで無料で見る事ができるのだが、とりわけ性犯罪者に関しては写真、名前や年齢はもちろんのこと、肌の色やタトゥー、そして住所(部屋番号)に至るまで仔細に公開されている。もちろん、そうした情報公開によって彼ら犯罪者の再出発の妨げになるという意見もあるが、それは性犯罪が極めて再犯の多い犯罪であるということと、アメリカ人の意識、とりわけ幼児に対する犯罪の罪が重いということを強く意味していた。
初めてそのことを知った時、私はそういったサイトからウィスコンシン州の自宅周辺を興味本位に調べたことがあったが、それはあまりにも簡単かつ詳細に調べることができたので、しばらく夢中でその犯罪者マップを見ていたことがあった。もちろんそれが後々何かの役に立ったとか、そのせいで何かが起こったということはなかった。だけど、住み慣れたマディソンの地図上に浮かび上がる犯罪者マップには、よく息子が遊びに行く友達の家の裏通りに、性犯罪者が一人住んでいるのを確認することができた。
「もし自分に息子がいたら、僕はその子の頭にGPSのチップを埋め込むね」
そう冗談を言ったのは、かつてESLスクールに通ってた頃のトム先生だったが、私は今ならその心理がよくわかる気がした。
あの日、夜遅くまで見つめていた犯罪者マップに浮かび上がってきたのは、普段の日常では知り得ることのないマディソンの裏の表情だった。そしてあの時に感じた強い不安感を、私は今も、忘れられずにいるのである。
あっという間に年が明けてしまった。
昨年は、紆余曲折を経て、とある教育系の出版社で校閲のお仕事を、フルタイムですることとなったのが、私にとって一番大きな出来事だった。あまり詳しいことは書けないが、そこは小学校の教科書や問題集などを作る会社で、私はその「道徳チーム」に配属されると、令和6年から全国の小学校で使用される「道徳」の教科書作りのお手伝いをすることになったのである。憧れの出版社でのお仕事。校閲ガール!である。
というわけで、未知の領域である「道徳」であるが、(私は知らなかったのだが、)これは2018年に「特別の教科」として正式に教科化された、日本の教育における新しい取り組みとも言えるものらしく、これまでに私が学校で習ってきた(「生活」という授業に組み込まれていた)「道徳」とはまたひと味もふた味も違うもののようだった。
とはいえ、道徳が扱う「モラル」や「倫理」、「思いやり」や「マナー」、「生きる力」、あるいは「愛国心」などといったテーマは、実に多岐にわたっており、一言では説明できない。ただ、部分的に「モラルやマナーについての教科書作り」というふうに英語で説明すると、アメリカにいる友人たちからは一様に、「そんなことは学校じゃなくて家庭で教えるものではないのか?」とのリアクションが返ってきた。特にアメリカ人の友人たちは、「モラルの概念は家庭によって違う」と言う人が多かったので、そういったものを、学校で教科として扱うこと自体に驚かれ、疑問をもたれる事が多かった。
もちろん私も、「"道徳を子供達に教える"とはなんなのか?」と首を傾げながら、できたてホヤホヤの教科書を開いた。しかし意外にも、そこに展開されていたのは、国家による価値観の押し付けなどではなく、もっとデリケートに、かつ、子供達がこれからの時代を広い視野を持って生き延びていくために緻密に考えられた処方箋のようなものであり、「道徳教育」そのものの今後の可能性について、明るい希望を持てるような気がしたのだった。
そして、そんな道徳の関係教材を朝から晩まで扱う校閲のお仕事は、毎日が天国のように楽しかった。単純に、私自身が字を追う作業が好きだということもあるのだろうが、誤字脱字やレイアウトの間違いを見つけるのは快感だったし、扱われる道徳教材を読むごとに、心が綺麗になり、良い人間になるような気もした。そして何より、実在した偉人が出てくる話には、校閲をしながら、感動することも少なくなかった。
実際、私は仕事中に何度か涙を流すことがあった。仕事が終わり、家に帰って白井君にその教材の内容の話をすると、話しながらまた泣けてくるのである。教科書にはプロの声優さんを使った音声も作成しなくてはいけないのだが、その音源の校正作業になると、前に素読みをしながら泣いた同じ教材を、今度は耳で聞きながら私は再び泣いた。その後デジタル教材というものをAIのボイススピーカーで作る作業に入ると、やっぱり音声データを打ち込みながら、全く同じ箇所で全く同じ涙が流れるのだから忙しない。(とにかく、良い教材なのだ。)
だからといってはなんだが、私は今、この「特別の教科」である「道徳」が、日本の子供たちにとって良い効果をもたらすことを願いながら、校閲をしている。道徳を改めて教科化するまでもなく、日本人の礼儀正しさやモラルの高さは世界的にもよく知られていることだと思うが、それは2018年の教科化される以前からも、日本の学校教育において、「道徳」そのものが存在したからなのではないかと私は思っている。そしてこの度、一新された「特別の教科 道徳」には、LGBTやSDGs、ネットいじめやネットモラル、そしてレジリエンスといった現代的な課題が多く取り扱われており、子供たちがこれからの時代を生きるために学べきであろうものが多いのである。
一校閲者である私が、教材そのものや教育方針に口を出すということはないが、将来、学校でこの教材が使用され、子供達が何かしら学び、成長するのだということを考えると、それだけで胸がワクワクした。
そしてそれは、私がこれまでの人生で一度も経験したことのない種類の「仕事」だった。朝、仕事を始める度に、私の心は喜びでいっぱいになった。作業をするスクリーンをいっぱいに照らすのは、未来の子供たちを豊かに照らす、希望の光のような気がしたからである。
「ママ、銃乱射のアナウンスがあったから、暗闇の中でテーブルの下に隠れてるの」
「何?それはリアルなの?それともドリルなの?」
「わからない。ママ、怖い」
「どこにいるの?何が起こっているの?電話して」'
これは、先月3月16日に『マディソンマガジン』というマディソンのローカル誌がカバーいっぱいに飾ったショートメールの内容だった。この日、私はソーシャルメディア上でこの不穏なショートメールのやり取りだけが掲載された写真を見つけると、つい画面をスクロールする手を止めてこのローカル誌の記事に興味をそそられたものだった。
カバーの下のほうには「銃乱射訓練は良い面以上に悪い面があるのでは?」とのキャッチコピーが添えられている。いつもの地元の美味しいお店やゆかりのある人物を紹介するという楽しそうな写真ではなく、なんだか物々しい雰囲気である。ショートメールの中の「ドリル」という言葉が何を意味するのか分からなかったので、それが「訓練」を意味する英語であり、またロックダウンという言葉はアメリカ人にとってコロナに関連するものだけではなく、銃乱射の犯人が来た際に学校そのものを封鎖する時に使うのだということに改めて驚きながら記事を読んだが、それ以上に私を驚かせたのは、奇しくもこの記事に目を留めたわずか10日後の3月27日、アメリカはテネシー州の私立小学校で再び銃乱射事件が起こり、6人が殺されたという事実だった。
そう、アメリカでは2023年に入ってからすでに100件以上の銃乱射事件が起こっており、のどかな田舎町のマディソンでも、今では子供たちは学校で必ず「銃乱射訓練」というものを受けるようになっている。しかもその訓練は、より緊張感を出すために子供達に訓練かどうかを知らせない場合があるので、それによって子供たちが学校生活でトラウマを持つという副次的な社会問題が深刻化しているのである。中には、訓練中に七歳の子供が腕に「ママパパ愛している」と書いて自分が死んだ時に備えたというエピソードや、訓練を受けたことでより多くの子どもたちが、以前より不安感を抱くようになったという統計が報告されており、だからこそ、マディソンのローカル誌は、表紙一面を使って改めて、子供たちが銃乱射訓練を受けることそのものに疑問を投げかけたというわけである。
六歳の息子を持つ私としては、なんとなく他人ごとではない話だった。あのままアメリカの学校に通っていればいずれは息子もその訓練を受けたわけであり、しかも、もしも子供から銃乱射事件が起こっているから助けてほしいという連絡が入ったとしても、親は絶対に学校に駆けつけてはいけないと教えられるそうである。(無理な話である。)またALICEという悪名高い銃乱射訓練を実施する会社はアンチ訓練派から最も嫌われているプログラムを提供しており、より緊張感を高めるための爆発音などの演出に加えて2019年には偽物の銃を使ってトレーニング中に学校の先生たちを実際に撃ったこともあり、これも大きな物議を醸したことがあった。ALICEのコンセプトは「Run-Hide-Fight」であり、子供たちは犯人が来た時に何か投げつけて犯人を戦えるように手元にハサミなどを持つように教えられる。銃乱射事件は通報を受けてから警察が到着する前に事件が収束することが多いため、このALICEは逃げ隠れて膠着するだけではなく、戦うことも子供達の体に教え込ませるという過激なプログラムなのである。
だけど、高まる訓練への不満とは裏腹に、今、全米のほとんどの学校が年に一回以上の銃乱射訓練を実施しており、子供達は学校が必ずしも安全な場所ではないということを知っているようだった。彼らは訓練を通じて学校で常に自分が隠れることのできる場所を見つけておくように指導され、ハサミや教材で使う積み木などは勉強道具であるとともに銃乱射の犯人に向かって投げつける凶器にもなり得ると教えられるのである。
「いつもロックダウン訓練の時は本当に緊張する」
マディソンマガジンの取材を受けたイーストハイスクールに通うアイリーンという少女はそう答えていた。頭ではこれはドリルだって分かってる、と。
「だけどもしもそうじゃなかったら?もし、今回私たちの学校が銃乱射の現場となっていて、自分が来週のニュースに報じられる子供になるとしたら?」
リアルなのか?それともドリルなのか?記事を読みながら私は、銃社会をいつまでも選び続けるアメリカ社会の子供達への皺寄せは決して小さくないような気がしたのだった。
そう、ボストンのあるマサチューセッツ州はカリフォルニアやワシントン州同様、アメリカで大麻使用が合法化されている州の一つなのだ。そしてそういう州ではマディソンに比べると白昼堂々とそういう光景を目にすることがある。だから韓国から大学進学のためにやってきたばかりの若いヘジンにとっては、それもまたボストン旅行で見るべきものの一つだったようだ。
とはいえ隣接するイリノイ州やミシガン州でもマリワナは合法化されているので、マディソンも日本では比較にならないくらいドラッグは身近なところにあったと私は思う。街を歩けばマリワナの匂いを嗅ぐことはよくあるし(だからマリワナの匂いはすぐに覚える)、警察ですら売買さえしなければ、注意喚起にとどめていちいち捕まえたりはしない。デルタ8と言ってギリギリ合法の大麻を堂々と売っているお店も、ダウンタウンのオシャレな通りで見かけたことがある。毎年4月20日になるとカナダで大麻を合法化させようという運動があることから、ルームメイトを探すサイトやマッチングアプリに「420 Friendly」などという隠語を記載し、自分は大麻使用オッケーだと自己紹介を記載する人なんかもいる。そして使用するしないに関わらず、「マリワナは中毒性がないからタバコよりも安全」というのはどこでも人の口から漏れ聞く話だった。
少し極端なところになると、マリワナを始め、ある種のドラッグは自然界から人間への「贈り物」であり、精神病などに対するセラピー的な効果があるとして積極的に礼賛する人々も少なからず居た。ハリウッド女優のグイネス・パルトロウは自身が企画する番組でスタッフを南米へ派遣すると、幻覚剤セラピーを受けさせ、その効果をネットフリックスで実証したこともあった。アメリカ人の菌類学者であるポール・スタメッツもまた、その手の人々にとってはスターのような存在であり、ドキュメンタリー「素晴らしき、キノコの世界(Fantastic fungi)」では、マジックマッシュルームによる自身の身に起きた神秘体験について語り、セラピーとしてのマジックマッシュルームの素晴らしさを様々な場所で力説している。
もちろん、一概にアメリカ人全員がドラッグに寛容というわけではない。語学学校のマイケル先生は「中毒性がないという説は嘘だ」と言う大麻反対派だったし、「誰が吸おうと自分は絶対に吸わないし、吸ったことがない」という人も居るので、アメリカにおける薬物というのは、白であり、黒であり、グレーであり、その向き合い方は十人十色だった。
だけど、日本で大麻関係で人々がこぞって失望したり憤慨したりするのを見ていると、私はつい「面白いな」と思ってしまう。中毒性があるかどうかの真偽は別にしても、誰が大麻を使用して人生を失敗しようが、アメリカ人はここまで熱心に怒ったり嘆いたりはしないからだ。人格が否定され、謝罪を求められることもなく、そういう意味でアメリカという国は、割と誰もが「精神的に420Friendly」なのである。
ところで薬物という言葉で私が思い出すのは、アメリカで産後に病院で処方されたモルヒネの成分を含むオピオイドという強い薬の思い出だ。オピオイドクライシスという言葉があるほど、アメリカではこの医療用ドラッグによる中毒者が社会的な問題になっているのだが、そんな言葉も知らない頃にオピオイドを処方された私は他に漏れずすぐにこの薬の虜になり、出された薬を飲み切った次の日に、「もっと処方して欲しい」と医者に懇願しに行ったのを昨日のことのように覚えている。そして「中毒性があるから処方するのはこれが最後よ」と、前回に処方された数の半分の量の処方箋をナースに手渡された時の強い絶望感も...。
あの時、産後の疲れ切った体に、オピオイドはよく効いた。頭は冴え、恍惚とした万能感に包まれた数時間、身体中に力がみなぎり世界は優しくうっとりと私に微笑んでいたが、薬が切れた途端に動くこともできなくなるほどの底知れぬ疲労感に襲われると、私はすぐに「オピオイド」という薬は素晴らしい薬だと思い込んだ。そして、二度目に手渡された前回の半分の量のオピオイドを一つ一つ、大事に大事に飲んだものだった。
この話を、タイ人のパニカにしたとき、パニカは「あら?私の時は医者はもっと薬を勧めてきたわよ」と驚きながら言ったことがあった。私と同様、産後に手術をしたパニカも同じようにオピオイドを処方されたが、医者はパニカに「もっといるか?」と毎回勧めてきたのだと言う。あの頃の私なら、そんな風に進められれば有り難く飲んでいたと思うのだが、パニカの夫でありアメリカ人のトニはこの手の医者による薬の過剰な処方を問題視していたので、すぐにパニカは服用を自粛したと言う。少し事情が違えば、私もパニカもアメリカのメジャーな薬物中毒まっしぐらだったというわけである。
薬物との付き合い方は人それぞれの「自由の国アメリカ」とはいえ、今思うとちょっと怖い話である。
少し前から仕事を始め、張り切って働いているのだが、通勤ラッシュというのがどうも苦手だった。というのも、私には「パニック発作」を経験した過去があり、その発作に付随する「予期不安」という症状に悩まされることがあったからである。
そもそもパニック発作やその予期不安というものは、閉塞的な空間で起こる。(あるいは起こりそうになる。)最初に発作を起こしたのは一年ほど前、マディソンで白昼に一人、高速道路で運転をしていたときだった。突然「車を停止させることができない」という高速道路上の当たり前のルールがトリガーとなり、運転しながら全身が震え出すという恐ろしい体験をしたのである。
そしてそれ以来、私は日常的に「自分がコントロールできない何か」を前にすると、再びあの高速道路でのパニック発作を経験するのではないか?という二次的な「予期不安」を発症するようになったのである。
怖いのは高速道路、高速道路を連想させるような広い道、あるいは運転中の「赤信号」(青信号よりも動くことのできない赤信号の方が恐怖を感じる)、混雑した映画館や人ごみ、(物によるが)年季の入ったエレベーター...そして、朝の通勤電車だった。
空いていれば問題はないが、東京の朝である。空いている車両があるはずもなく、運転間隔調整のために区間内で突然電車が停止した日などは気が狂いそうになることがよくあった。(意外とこの運転間隔調整はよく起こる。)スムーズに運行されていれば、まあ問題はないが、例えば座っている私の目の前に見知らぬ人に立たれたりすると、それがまたどうも具合が良くないのである。
だけど目の前に立った見知らぬ人に「すいません、目の前に立たないでください」などと言える訳もなく、なんとか気を紛らわしてじっと耐えるしかない。この場合、なぜか読書をしたり音楽を聞くのはあまり得策ではないので(逆にそういうことをすることで気分が落ち着かなくなることがある)、ただひたすら、目を瞑って、目的の駅に着くまでじっと耐えるのである。「ここは電車の中ではなく、もちろん区間調整のための停止もないし、自分の前に誰かが立っていることなどない...」そう自分自身に言い聞かせながら心を無にすることが、ここのところ、私の東京での毎朝の通勤ラッシュのやり過ごし方だった。
ところでそうやって電車の中でぎゅっと目を瞑っているとき、しんとした心の中にふと、私にはたびたび浮かんでくる映像があった。
それは、マディソンのとある夜の出来事だった。
その夜、私は友人たちと家から少し離れた場所に新しくできたホットドックのお店に食べに出かけていた。美味しいホットドックと楽しい友人たちとの会合にすっかりテンションが上がった帰りで、私は友人のウィルを引き連れて車に飛び乗ると、いつもの癖で車のカーナビを起動させ、自分がどこにいるかもきちんと確認せずにナビが指し示す方へ盲目的に車を走らせたのである。
マディソンで初めてのパニック発作が起こってから、まだ数ヶ月しか経っていないころの出来事だった。
「ちょっと待って!ハイウェイ!!」
家とは逆方向を走りながら、何かがおかしいと気づいた時にはもう目の前に高速道路が迫っており、私は車の中でそう叫んでいた。まさか、カーナビが私のパニック障害を考慮して高速道路を避けるなんてことはなく、今まさに私の運転する車はインターチェンジからなだらかに高速道路へと続く合流地点へかけ上がろうとしていたのである。
「どうしよう!運転できない!」
パニック発作を起こしてから一度も高速道路など走ったことがなく、広い道でさえも避けていた私である。発作はまだ起きていないがほぼパニック状態の私の横には、ウィスコンシン大学のうら若い学生であるウィルが座っていた。
「落ち着いて!大丈夫だから!!」
異様に狼狽える私を落ち着かせようと、ウィルが私に向かってそう叫んだ。
しかし、泣いても笑ってもそこはもう高速道路だった。
「どうしようどうしよう。運転できない」
目の前がどんどん暗くなっていくような感覚に襲われながら、私はハンドルを握っていた。なすすべもなく、ウィルもただ「大丈夫、大丈夫」と私に向かって言い続けていた。
車は緩やかにインターチェンジを上り切り、左後方から続く恐ろしい高速道路に合流した...。全身の力が抜けて、気が遠くなっていくようだった...。と、不思議なことに、その道は高速道路に突入してすぐに、再び高速道路を離れるもう一方の下りの道へと繋がっていた。
「やった!出口だ!そのまま降りて!」
ウィルがそう叫んだ。私はなぜそんなことになったのかわからず、ただ言われるがままに、左右に分かれた道の右方向へ入った。ぐるりと伸びた下りの道はそのまま高速道路から離れていった。さっきまで入りかけていた地獄の道であるが、今は背後へ消えたようだった。
「あっ違う!入り口だ!」
ホッしている私に向かって再びウィルが叫び、私の心臓は再び縮み上がった...。
後になって分かったことだが、その夜、私たちが入り込んだこの道は、高速道路へとつながるインターチェンジであり、出口でもありながら、その実ドーナツのように再び元のインターチェンジに舞い戻るという「無限ループ」だったのである。
だから、出口だと思っていた道は大きなカーブを描きながら再び元の高速道路への入り口に向かう上り坂へと変わり、それに伴って私の呼吸は再び荒くなり、高速道路へと続く。そして高速道路に入ったかと思うと、次の瞬間その出口へと伸びる分岐点が出現し、元の場所に戻っていくのである。
私たちはその夜、何度も何度も、このよくわからない入り口から高速道路スレスレを走っては再び出ていくということを繰り返していたが、結局、頃合いを見計らってインターチェンジ内で私とウィルは運転を代わり、脱出することができた。(結果的にこの無限ループのおかげで助かったのである。)
だけど一体誰が、何のために、こんな無限ループを作ったのだろうか?
私はひたすらに疑問だった。飛び級して大学で物理学を学び、ルービックキューブの世界大会に出場し輝かしい成績を収めた秀才のウィルでさえ、この果てのない袋小路の存在意義を解明できないようだった。
ただ私たちはぐるぐると、ひたすらに、同じ場所をすごく遅いスピードで走っていた。近づいてはやがて遠ざかってゆく高速道路。ウィルの叫び声。何度も縮み上がる私の心臓。そして無限のメリーゴーランド...。朝、満員電車で一人目を瞑りながら、私はいつもそんな忘れがたいマディソンの夜を思い出すのだった。
]]> 9月に急性虫垂炎で入院し、多くの人から指摘されたことは、「これが日本で起きたことで良かった」ということだった。これがもしも、そのほんの2ヶ月前まで住んでいたアメリカでの出来事だったらどうだっただろうか?アメリカの医療費が恐ろしく高いのは有名だが、具体的に自分がその憂き目にあっていたかも知れないという可能性について考えると、背筋が凍りつくようだった。
まず救急車を使った時点で、その搬送料として(処置や距離にもよるが)数万円から20万円の出費はくだらない。運ばれた先が自身の加入する保険のカバーする病院であれば良いが(アメリカでは加入する保険の種類によって細かくカバーされる病院や処置が異なる)、運悪く、保険の適応されない病院に搬送されてしまった場合はどうだろうか?アメリカの崩壊した医療制度では、虫垂炎の手術は平均で300万から500万円である。入院すれば、滞在だけ(処置なし)で一日20万円となるので、四日間入院した私の場合、それだけで80万円のコストとなるのである。
だからそうした突然の出費が原因でホームレスになる人もいるし、怪我をして治療もできない人たちもいる。医療費を支払えずに自己破産したという話はありふれた出来事なのである。
もちろん、アメリカ社会が抱える問題は医療費だけではなかった。それ以外でもアメリカでは今、大学の学費がノンストップで上昇し続けているという問題がある。というのも、親が日本のように学費を支払う文化のないアメリカでは多くの若者たちが二十代そこそこで多額の借金を背負い、それが今深刻な問題となっているからである。8月にバイデン大統領が発表した学費ローン一部免除の政策は衝撃的だったが、それだけでは追いつかないほど、まだまだ多くのアメリカの若者たちが学費ローンの借金を抱えているのが現状で、だから進学する前に数年間どこかでアルバイトをして学費を貯める子もいるし、友人のマットは「だから僕は中国の大学に進学したんだよ」とまことしやかに語ったこともあった。
「年収800万円くらいが最も幸せに生きることのできる年収みたいだよ」
虫垂炎の入院費の話から、アメリカの医療費の問題、学費ローンについて友人のヘンリーと話したとき、私たちは「幸せに生きるためにはお金はいくら必要なのだろうか?」とGoogleで検索して「年収800万円」という回答を得たことがあった。
あるいはどこの国が一番裕福なのか?本当に医者になれば幸せなのか?など...。
確かに、医者になれば裕福に暮らすことができるだろうが、日本とは違いアメリカでは医師免許を継続させるために、生涯定期的に試験を受け続けなければならない。そこに至るまでに医学生としての長い道のりと(もちろん高額の学費ローン)、研修医としてのハードな日々、手にしたお金を十分に使えるほどの満足いく時間を確保できるかどうか?総合的に見て、私たちはどのくらいの時間とどのくらいのお金で幸せを感じながら生きることができるのだろうか?と、そんなことを、ヘンリーと私は最近ウダウダと語り合ったことがあった。
そんなヘンリーは、現在病院で働く二十四歳だったが、実はキャリアアップのために来年の春には大学へ戻ろうとしていた。もちろんその分、例によって学費ローンが追加でかかることになるのだが、やりたいことのために再び勉学に邁進できるということは数値では測ることのできない幸せがそこにあるようだったし、それは多額の学生ローンや高額医療費などの問題を別にして、私がアメリカが良いと思うことの一つでもあった。つまり、アメリカではヘンリーのように誰もが何度でも大学に戻ったり、そのキャリアを変えることが出来るからである。
社会人になってから大学に戻ったり学士を取得することはもちろん、介護の仕事をしていた友人が大工になり、バーテンダーになり、普通のオフィスに再就職したこともあり、そうした全く別のキャリアを一つの人生の中で辿るということは、あちらでは日本で考えるほど困難なことではなかった。
そもそもアメリカでは履歴書に生年月日を記載することを禁じられている。写真を貼ることも、性別を書く必要もないので、採用の際に年齢や見た目でその能力を査定されることがないのである。
日本ではそんな風に簡単にキャリアを変えることが難しく、たいていは学校を卒業した後のキャリアのままだとヘンリーに伝えると、「その点、僕たちはラッキーだね」とため息をつきながら彼は言った。
「その仕事を好きになれるかどうかなんて働いてみないとわからないのに、就職した後でその仕事が自分に合ってなかったってわかって、だけどそれをもう変えられないとしたら、そんなことは考えるだけでも怖いことだね」と。
もちろん、高額医療費や学費の他にもドラッグや銃など、アメリカではまだまだたくさんの社会的な問題があった。そしてそういうことをきっかけに人生を転げ落ちるリスクは日本よりも高く、それはそれでとても怖いことだった。だけど一方で、アメリカでは仕事に就いてみて合わなければまた違うキャリアを選択できるという「人生の巻き直し」のオプションがあり、多くの人がそうやって自分に適応した職種を模索することが可能なようだった。
一体どちらの社会がより幸福な人生への近道だろうか?
私はそういうことを考えるとやっぱりいつも、どこに住むのが一番なのか、分からなくなってしまうのだった。
帰国してすぐ、夏の初めに私は仕事を始めることになった。
「日本に帰国したのだからそろそろ仕事でも...」と思っていた矢先にハローワークで見つけたとある会社のパートタイムである。
職種は「事務職」及び会社の「専属ライター」。これまで事務職の経験があったし、「書く」という行為も好きだったので「これならやれそうだ」と思って応募したところ、うまいこと採用されたのである。ビザの関係上、アメリカにいる間は働くことができなかったのでおよそ7年ぶりの社会復帰。しかもそれはかたやライターとしても活躍できるという、喜ばしい再出発だった。
だけど今思うと、いろんなことがおかしかった。
私を採用したのはかなり小さな会社で、オフィスは都内のマンションの一角にあり、従業員は10人にも満たないベンチャー企業だった。毎日職場に来るのはせいぜい4人ほどで、社長とそのつがいのようにくっついている年配の女性役員の他には、私のようなパートタイムの主婦が2人か3人いる程度である。
業務連絡のメインツールはLINE。お昼になると仕事場にあるキッチンで、例の社長のツガイのような女性役員が社長のお昼ご飯を作り始め、二人仲良く食べ始める。朝は朝で出勤すると、二人で朝ご飯を食べている日もあったし、日中は廊下の奥にある洗濯機が回っていることもあった。
業務は何の問題もなかった。
事務の仕事も、ライターとしての仕事も、それなりに楽しかった。だけど「新人研修」という名前の下、別室に連れて行かれて一時間以上怒られたのは、まだ勤務し始めてたった一週間目の出来事だった。「なんでも言ってね」と言われたので、「サービス残業はできない」との旨を伝えた次の日の出来事である。
そのうち、入ったばかりで本当に何でも思ったことをストレートに口にする私の態度を改めさせるべく、この「新人研修」はパソコンのOS(本質的な部分という意味)になぞらえて「OS教育」と呼ばれるようになり、ことあるごとにくだんの女性役員や社長が、私の「社会人としての資質(OS)」を正すべく「上司はお客さま」「できないと発言するのはクビ要員」「人の気持ちを考えろ」など、私が「会社でうまく働くコツ」を丁寧に教える時間となった。
しかもこの「OS教育」には、「7年も仕事にブランクのある私を会社は雇ってくれていて、仕事を教えてくれていて、それはまさしく無料でパソコン教室に通っている状態なのだから、サービス残業は当たり前」という内容の哲学も盛り込まれており、これまでの私の「会社で働く」という概念そのものを根本から覆すような画期的なものが多かった。
もちろん私はそんなOS教育を自身のiPhoneやApple Watch でこっそり録音すると、家に帰って白井くんや友人たちに夜な夜な聴かせていたが、その結果録音テープを全部聞いた友人の一人は体調不良を訴え、白井くんは「しんどいからもう聴きたくない」とギブアップするようになった。
そんなOS教育を直に浴びていた私はというと、教育の時間に腕につけていたApple Watchがよくブルブルと震え「脈が高いが大丈夫か?」と私の身を案じてくれることもあったのだが、ある朝ついに、別室に呼び出されている最中に倒れると、救急車で搬送され、そのまま急性虫垂炎で入院することになった。働き出して、たった1ヶ月目の出来事だった。
もちろん、急性虫垂炎を機に、私は会社を辞めた。この一連の出来事に教訓があるとすれば、いったいそれは何だっただろうか?私のiPhoneやApple Watchには今もまだ、かの「OS教育」の長時間に渡る録音テープが残っている。
]]>日本(日本人)は四年前からこうだったのだろうか?何度もそう私は白井くんに聞いた。でもたぶんそうだったのだろう。四年分のアメリカ漬けの暮らしは確実に私の何かを変えていたようで、だから例えばそれはペーパーワークの多さや現金でしか支払いの出来ない場面に遭遇すると、いちいち辟易するという反応によって日常で顕在化されるのだった。
毎朝、保育園の連絡帳にシャチハタでハンコを押さなければならない時、私はよくマディソンで槍玉に上がった日本の「ハンコ文化」についての会話を思い出すことがあった。もちろん、勤め始めた会社でもハンコは必須だった。だからこの四年間、一度もハンコを使うこともなく、また四年前、ダンボールのどこにハンコをしまったのかわからない私は、まず東急ハンズまでシャチハタを買いにいく事になった。ずらりと並んだハンココーナーを前にして、そこに表示されていた1300円という値段の高さにひっくり返りそうになったのは私があまりにもその意味から遠く離れていたせいだろう。
職場に復帰した白井くんは、予想通り、平日は帰宅時間がとても遅かった。
息子は家の近くを流れる川をふざけて「汚い湖」と呼んで笑っていたが、学校から持ち帰った七夕の短冊には「ウィスコンシンに行きたい」と書いてあった。私は仕事を始めて一週間目で上司に口答えしたので、さっそく呼び出されて一時間ほど説教を食うことがあった。いろんなことが突如として変わり、それらがあまりにも違いすぎていて、私の心は時々、込み上げてくる複雑な思いと戦わなければならなかった。それは郷愁とか悲しみといったセンチメンタルな感情ではなく、なんというか、漠然とした生きることそのものへの困難のようだった。
そんなある夕方のことだった。私はこの日、暗い気持ちを抱えて、息子と二人で荒川の土手を歩いていた。心の中がもやもやしていて、どうしても夕焼けが見たくなったのである。夕暮れ時、少し開けた川の土手に出ると、そこにはいつかマディソンで見たような、ピンク色に染まった美しい空が広がっていた。
と、突然息子が歓喜の声を上げた。見ると、そこに息子と同じくらいの男の子が私たちと同じように母親と歩いていたのだが、面白いことに、その男の子は私の息子と全く同じデザインのズボンを履いていたのである。
二人はすぐに打ち解けて駆け出した。ウズベキスタン人だった。
「ウズベキスタン語と日本語が話せます。だけどウズベキスタン語の方が上手です」
ヒジャブを纏った母親は、私にそう片言で話した。聞くと、その男の子はウズベキスタンで生まれたらしく、だから日本語は私の息子のそれと同じくらいのレベルだったのである。同い年で、同じようにバイリンガルで、同じズボンを履いているウズベキスタン人とアメリカ生まれの男の子。だけど二人の共通言語は日本語なので、二人とも頑張ってカタコトの日本語を話しながら遊んでいるのが、なんだか面白かった。
「日本はどうですか?」
サウダットという名のその母親に私が聞くと、「大変ですね」と彼女は寂しそうに笑った。日本で仕事をしている彼女の旦那さんは、週に二日ほどは朝まで働いているのだと言う。
「アメリカはどうですか?」
サウダットが私に聞いたので、私は「いい面と悪い面があるよ」と言ったが、それを聞くと彼女は分かったような分からないような顔をしてこくんと頷いた。
「ウズベキスタンに帰りたいですか?」
私は聞いた。
「はい、帰りたいです。でも難しいです」
サウダットは言った。
「アメリカに帰りたいですか?」
サウダットが私にそう尋ねた。
「はい。帰りたいです」
はい、帰りたいです。
とても反射的な言葉だった。考えるよりも先に、あまりにも自然に、あっさりと自分の口から飛び出してきたので、それはまるで自分の言葉ではないかのように耳に響いたが、飛び出した言葉のあまりの重さに、胸が押し潰されそうにもなった。
「でも、難しいです」
少し間を置いてそう付け足すと、サウダットはそんな私を見て何かを感じたのか、ふふふと静かに笑った。
ふと見ると、同じパンツを履いた二人の男の子がまだ夢中になって一緒に遊んでいた。二人は時折、互いの理解出来ない言葉で叫んだりもしていた。その後ろに、荒川と東京のシンボルであるスカイツリーが見えた。それからその上にはいつかマディソンで見たような、ピンク色の美しい夕暮れの空が広がっていた。
]]> だけどどれだけハードな時を過ごそうと、この六年間、私のマディソンを愛する気持ちは一度も変わることがなかった。どれだけ辛い出来事が起ころうとも、私の目に映るマディソンは変わらず美しかったし、点在する湖を眺めれば、くよくよと悩んでいることがバカバカしく思えることがよくあった。
モネの油絵のような湖の水面は、どんな時でも穏やかに光り輝いて、そこにいる人々の心を癒しているようだったし、冬になれば真っ白に凍りつくことも幻想的だった。湖が凍らない時はよくアヒルが泳いでいた。名前も知らない不思議な鳥が囀っていた。そして夏になるとそこらじゅうに蛍が飛び交って、やっぱり私たちの心を明るく照らすのだった。
人との関わりもまた、私がマディソンを愛する理由の一つだった。
ブラジル人のママ友のルアーナは、私を日本に帰国させないよう、白井くんと別れてアメリカ人と再婚することを最後まで強く勧めた(彼女はウィスコンシン州でゲイの結婚が認められていることから、自分が既婚でなければ結婚したのに...と何度も言った)。中国人のメンディは最後の日、「自分はこれからどうやって生きたらいいのか?」と言って泣きながら別れを惜しんでくれた。ロシア人のエフゲニアも、私が最後に手紙を書いて渡すと、「こういうのは大嫌いだからやめて欲しい」と言って怒ると、やっぱり唇を歪めて泣いた。私も泣いた。
夏になると街のあちこちでよく無料のライブイベントが催され、人々はテラスで夜更けまで飲み集っていた。秋になれば誰もがフットボールに熱狂し、冬になれば湖はスケートリンク場になった。大学のキャンパスは多くの若者たちが行き交い、大学のキャラクターであるアナグマのバッキーは街のアイドルだった。そして春、学校の学期が終われば...、それは別れの季節だった。
目を瞑れば今も、私はありありと、その光景を一つ一つ思い浮かべることができる。ダウンタウン、街のシンボルである真っ白な州議事堂、その奥にあるフランク・ロイド・ライトによって設計されたモノナテラス...。たくさんの思い出が「マディソン」という言葉のなかに詰まっていた。
だけど、私にとっての「ウィスコンシン州マディソン」は、この地理上の、海をはるか遠く越えたアメリカ大陸だけに位置しているものだけではなかった。というのも、ここ長屋での『ウィスコンシン渾身日記』という場所もまた、ある意味では私のもう一つの六年間のマディソン生活だったからである。
辛い時、苦しい時、あるいは楽しい時も、私の心を鼓舞したのは何よりも、恩師である内田樹先生にいただいたこのブログという「場所」であり、それは仕事もなく何の目的もなくアメリカに駐在することになった主婦である私にとって、大きな心の拠り所だった。
今でも、先生があの時「日記を書いたら?」とお声がけくださったことは、私の人生において最も大きな幸運だったと思わずにはいられない。ここでの六年間なしに、私のマディソン生活は決して語り得ることはなかっただろう。
先生がそこにいて、私のマディソンでのあれこれを聞いてくださっていたことで、私はこんなにもマディソンでの生活を愛することができたからである。
6月13日をもって、残念ながら私たちのマディソンでの暮らしは終わった。
日本帰国。新天地は東京である。
「お金持ちの、セレブリティのスキャンダルに、私は今それほど興味がないの」
オスカーの授賞式でのウィル・スミスの平手打ちについて持ち出した時、ママ友のエフゲニアはいつになく神妙に私にそう答えた。彼女の三十六歳のお誕生日のお祝いに、二人で飲みに出かけた夜のことだった。
エフゲニアはアメリカ人の旦那さんと結婚してマディソンに暮らすロシア人だった。幼い頃、母親の仕事の関係でウクライナに数年間暮らしたことがあり、ロシアにもウクライナにも彼女にはたくさんの友達がいた。1ヶ月半前、最初にロシアがウクライナ侵攻を始めた時、エフゲニアはまだ元気そうに「ニュース見た?」と私に声をかけてきたものだった。その頃、職場に持参するサラダにいつも「ロシアンサラダ」と書いていたエフゲニアは「今日は実はロシアンって書かなかったのよ」という冗談を言って笑うほどの余裕があった。だけどそれ以来、楽観的に捉えていた戦争が長引くにつれ、エフゲニアはソーシャルメディアの活動をパッタリとしなくなり、彼女はここひと月半ほどウクライナのことで頭がいっぱいのようだった。
ロシアに残した彼女の母親やロシアに対する制裁の影響を私が心配すると、エフゲニアはいつも「ロシアのことは心配いらない」とキッパリと答えた。もちろん海外の会社に勤務していたロシア人の友人は失業し、海外にそのほとんどを頼っていた医薬品などの輸入が滞り、日本の製品を買おうとした友人がその品物を買うことが出来なくなるなど、ロシアを取り巻く情勢が厳しく変わっているのは確かだったが、彼女にとってそんなことはウィル・スミスの平手打ちと同様に大した話ではなく、その心はいつも、彼女がかつて幼少期を過ごし、同じスラブ民族である友人が多く住むウクライナにあるようだった。
「だけど、この戦争は避けられなかったのよ」
諦めたように情勢を見守りながらそう話すエフゲニアは、「プーチンが何を考えているのか分からない」とため息をついた。そしていつもこう言うのだった。「これはプーチンの戦争なのだ」と。
ところが興味深いことに、中国は吉林省に戻った朝鮮族のフミンさんの心境はエフゲニアとは真逆の様相を呈し、その心はウクライナではなくロシアにあった。
「私はロシアを応援しています。悪いのはアメリカです」
久しぶりに電話をした時、フミンさんは電話口でそうあっけらかんと言うと、今、中国ではロシアを応援するためにロシア製品が飛ぶように売れているのだと教えてくれた。その上フミンさんはプーチンのことを「セクシー」だとも表現した。中国の女たちはみんなプーチンが好きで、悪いのは全てアメリカなのだ、と。
「中国の報道とアメリカや日本での報道は真逆みたいだね」
私がそう答えると、フミンさんはふふふ、と笑って「そうでしょう」と言った。
「それから私は韓国も嫌いです」
付け加えるようにフミンさんがそう言ったので、私はまた驚いてしまった。フミンさんといえば、中国に住む朝鮮族である。彼女が育った中国の吉林省延吉は朝鮮族の多く住む地区であり、結婚式にもチマチョゴリを着るほどに彼女は自分のアイデンティティは中国というよりは韓国にあるといつも話していたからだ。
「何かあったんですか?」
私がそう聞くと、フミンさんは先の北京オリンピックがきっかけだと言った。なんでもオリンピックの開会式では中国に住む多様な民族のコスチュームが紹介されたそうだが、その中で吉林省の人たちがチマチョゴリを着て出演したことに韓国のメディアが苦言を呈したのだと言う。
「元々、私たちは戦争で逃げられなかった朝鮮族なんです。たくさんの朝鮮族が国に戻ることができましたが、私たちは逃げられなくて吉林省に残ったんです」
フミンさんはいつになく感情的にそう言った。歴史的な背景を考えれば当たり前のことだとわかるのに、韓国のメディアは「中国人がチマチョゴリを着た」と悪意ある報道をし、そのことがフミンさんにとって韓国を嫌いになるきっかけになったのだと言う。
「私たちは朝鮮族なんだから、チマチョゴリを着て何が悪いんですか?」
久しぶりのフミンさんとの長電話でそんな話を聞きながら、だけどふと、私はやはり、スラブ民族に、ウクライナに思いを寄せるエフゲニアのことを考えずにはいられなかった。
アメリカでは、いや、マディソンでは最近、あちらこちらでウクライナの国旗を見かけることがあった。そしてエフゲニアはよく出かけ先で見つけたそんなウクライナの国旗の写真を携帯に収めていた。ブラジル人のルアナの家の玄関にも、小さなウクライナの国旗が先月くらいから吊るされるようになった。近くのスーパーでもウクライナを支援する寄付金を求められることがよくあった。
住む場所が違うと言うことは、耳にする言葉、目にする情景、手にする情報が変わるということだった。そして国境という当たり前のようにそこにある線引きによって引き裂かれた時、私たちの心はいともたやすく悪意にも好意にも変わり、元々一つであったものでさえ、思いもかけないほど遠くへと引き離されてしまうようだった。
もちろん、エフゲニアもフミンさんも、マディソンで出会ったかけがいのない友人に変わりはなかった。だけど今、そんな友人たちを取り巻く全く別の環境の変化を感じながら、私はそんな世界のあり様を興味深いと思うよりはむしろ、残酷だと思わずにはいられなかったのである。
マディソンで出会う以前、マットとジョーダンは2020年3月まで中国の重慶で宣教活動をしていた。そもそも中国では宣教活動そのものが禁止されているので、彼らの活動は秘密裏に行われていたが、ある時は彼らの部屋で盗聴器を発見することがあったり、ある時は一人一人の時間をバラバラに設定して会合に集まるという工夫がなされたりと骨の折れることが多かったという。だけどその反面、そんな重慶での彼らの滞在時期が一番信者の伸び率が高かったそうで、その頃のエヴァンジェリカルの中国でのグループは水面化で急速に花開いたのだとマットは懐かしそうに語った。
だけど2020年3月といえばパンデミックの始まりだった。3月、ちょうど休暇を取って他の宣教師の仲間とタイへ旅行に出ていた二人は、思いがけず旅先で中国への再入国が不可能となってしまい、そのままどこにも動くことができなくなってしまった。中国でのアパートの家賃を払い続けたまま、彼らは何ヶ月もタイに留まり中国に戻る日を待っていたが、そのうち中国に戻ることは諦めるようにとの指示が出されると、彼らは全ての荷物を中国に残したまま泣く泣くアメリカに舞い戻り、ウィスコンシン州マディソンに集められたのだった。
2020年秋、私がそんなマットとジョーダンに出会った頃、彼らはマディソンでせっせと日本語を勉強をしていた。中国での活動再開が不可能となった今、彼らの次なる宣教活動の地は「日本」との天啓を受けたからである。だけどもちろんコロナ禍のもとすぐに日本に渡航できるわけもなく、二人はその後実に長い間、マディソンで根気よく、日本のビザ申請の許可が降りるのを待つ事となったのだった。
ところで中国で活動していたので、二人はもちろん中国が大好きだった。特にマットは中国で過ごした期間が長かったので、「日本よりも中国が好き」だと臆面もなく私に言ったが、それは普段中国に対するネガティブな意見を聞くことの多い私の耳には新鮮に聞こえた。
「中国人は本当にフレンドリーで楽しいんだよ」
マットがそう語るたびに、私はまた数ヶ月前に中国に旅立ったカイルと言う友人のことを思い出すことがあった。カイルは大学時代、アラビア語を勉強していたが、それは9.11があったからだとかつて私に語ったことがあった。あの頃、アメリカではイスラム教徒への風当たりが強く、いろいろなバイアスが渦巻いていたというが、そんな風潮をきっかけにしてカイルはアラビア語を勉強することに決めたのだと言う。
「僕は自分の目で、耳で、真実が知りたいだけなんだ」
カイルは私にいつもそう語った。そしてだからこそ、今度は中国に行くのだと言って、実際に中国へ旅立ってしまった。カイルを冒険に導くものはいつも、アメリカ社会の中に蔓延る偏見に起因しているようだったし、私はどちらかと言うと、そうやって社会の中に浸透してしまっている目に見えないバイアスや物の見方にあえて疑問を持ち、立ち向かおうとする友人に惹かれる傾向があった。なぜなら、そうやって様々な無意識のバイアスをきちんと把握することそのものが、実際にはとても難しいものだ言うことを自分自身についても思うことが多々あったからだ。
ところで、今年の三月に入り、エヴァンジェリカルのマットとジョーダンはついに日本滞在のビザ取得がうまく運び、私よりも一足先にマディソンを去ることになった。一年半の待機の末の、活動再開である。二人とも嬉しそうに「次は日本で会おう」と言った。
最後の日、マットは私にやっぱり聖書をくれた。そして丁寧に「ここの箇所を読んだらいいよ」と言って、読んで欲しい場所に栞を挟んでくれた。
「一年半もビザの申請を待っていて、本当に長かったね」と私が言うと、まあね、と彼は答えた。それから、「だけどそれで良かったんだよ」と言うと、おもむろにそばにあった紙に小さな時計と大きな時計を描いたのだった。
「ほら、これが僕の時計、そしてこっちが神さまの時計」
小さな時計はマットの中にあった'マット時間'で、大きな時計は'神さまの時間'なのだとマットは説明した。マットはずっとすぐにでも日本に行きたいとばっかり思っていた。だからマディソンで出国の日を待つ日々は辛いと思うことがあった。だけどそれは神さまの時計とは食い違っていたからで、今のタイミングで行くべきだと言うことに気づいてなかったからなのだと言う。
「だから僕は小さな時計で考えてたから知らなかったけど、神さまはこの大きな時計で見てたから、全部知ってたんだよ。」
マットはそう言った。そしてにっこり微笑むと、「だからこそ僕はセイコと友達になれたし、マディソンでいい思い出がたくさん出来たんだよ」と言ったのだった。
たくさんの人が私に、エヴァンジェリカルの人とは付き合うなと忠告した。私自身、宗教に興味があるわけではないので、このまま友達で居ても良いものかと悩むこともあった。だけどそれでも今、マットが教えてくれた大きな時計と小さな時計の話を私は心から面白いと思った。そんな風に世界を「神様」の視点から見るということ、あるいはそうやって全く違う世界を生きている人たちがいるということを垣間見ることは、私にとってそこまで悪いことではないと気づくことができたからである。
]]> だけど、寒さというのは慣れてしまえばそれほど私たちにとって大きな問題ではなかった。建物の中に入れば半袖で過ごす人も少なくなかったし、車さえ持っていれば(外で長時間過ごす予定さえなければ)、スノーブーツやらスノーパンツなど必要なく、普段は手袋さえ持ち歩くことはなかった。だいたい一旦寒さの深い底を知ってしまうと、私たちはその基準に沿って衣替えをするようになるので、マイナス一度くらいだと私はハーフの薄いダウンジャケットで十分だった。マイナスにならない日には、外で半袖短パンの人を見かけるくらいである。そういう日はママ友たちだって薄いニット一枚で子供を迎えに来て、「今日は暖かいわね」などと微笑み合っている。マイナス十度だと「寒い」、マイナス十五度以下から「かなり寒い」というのが、こちらの感覚のようだった。
では極寒の何が一番私たちを悩ますのかというと、それは寒さそのものではなく、降り積もる真っ白な雪たちだった。雪が降ればそれが凍り道が滑りやすくなるので、あちらこちらで自動車事故が起こった。もちろん自動車だけではなく、歩いていて歩道で転倒することもあった。数年前、凍った路上に足を取られ、顔面を強打、歯を何本も折る大怪我をした友人もいた。そしてだからこそ、雪が降り始めると必ず路上という路上に凍結防止剤が撒かれ、どこもかしこも凍結防止剤と雪に埋め尽くされるようになるのだった。すると今度はそれが靴にこびりついて靴が汚くなるし、その靴で帰宅すれば家の中が泥だらけになった。路面の雪だって最初は美しい姿を見せるものの、日を追うごとに車の排気ガスによって黒く煤けてくるので、それがまた車やら靴に付いて、車は中も外も汚くなってしまう。凍結防止剤に含まれる塩化ナトリウムは金属を溶かすので、洗車を怠った車はその後、すべからく錆びて古くなるのも悩みの種だった。
毎年一人か二人、凍った湖に落ちて死ぬこともあった。まだ凍り切っていない部分を誤って歩く人がいるからである。用事もなく、極寒の中、湖の上を歩いていて落っこちてしまうのである...だけどそれでもなお、凍った湖に行くと必ず誰かがその上を歩いていた。時々氷上で釣りをしている人も見かけた。自転車に乗って氷の上を向こう岸まで渡ろうとしている人も居た。小さい湖はスケートリンク場になり、週末には多くの人が集まって、アイススケートをしていた。そして白い息を吐きながら、人々は遊び、ホットチョコレートを飲むのだった。
雪の降らない年がないように、マディソンの湖が凍らない年もなかった。気温が下がるにつれ、湖は少しずつシャーベット状になり、幾つもの平べったい氷塊が浮かぶようになる。そしてある日、何もない、完全に真っ白なだだっ広い雪の地面に変わるのである。神秘的な光景だった。
常夏のパナマから来たアシェリーは、そんなマディソンの冬に畏敬の念を抱いていた。人生で一度も雪を見たことがなければ、分厚いコートなど着たことのない彼女だったので、私はそんなアシェリーにぜひ雪を見てほしいとずっと思っていた。だけど今年は12月の半ばになってもちっとも寒くならず、多くの人が暖冬だ、暖冬だと口にしていた。でもそれは私たちの感覚からそう思えることで、パナマ人のアシェリーからしたら11月頃からもう十分、耐え難く寒かったらしく、ある時外を歩いていると、突然「オーマイガー!」と彼女は叫び出したことがあった。
「痛い!」
アシェリーは飛び跳ねながらそう言うと、手袋をはめていない剥き出しの両手を擦り合わせて走り出した。痛い痛いと言って泣き出しそうになりながら手をどうにか上着の中に突っ込むと、避難できる場所を探して走り出したのである。
私は大笑いしたが、アシェリーは辛そうだった。彼女は寒いことがこんなに痛いことなのだということを、知らなかったのである。
だけど結局、マディソンはアシェリーがパナマに戻る日まで暖冬のまま、一度も雪を降らせなかった。12月の終わりになりアシェリーがマディソンを去ると、やっと初雪が舞った。まるでアシェリーがパナマに帰るのを待っていたかのように降り出したので、私はその日のことをとてもよく覚えていた。その上ちょうど私はコロナウィルスに感染していて辛い隔離期間の真っ最中だったので、それも記憶に残る要因だった。
その夜、ふと夜中に目が覚めて窓の外を見ると、一面が真っ白な世界に変わっていた。暗闇の中、しんしんと降り積もる雪と、忙しそうな除雪機の走り回る気配だけが不気味な存在感を放ち、すぐに、痛い痛いと寒がったアシェリーのことが心に浮かんだ。それからアシェリーはもうマディソンにはいないし、彼女はまだ雪を知らないのだなと思うと「ああ、この雪をアシェリーに見せてあげたかったな」という思いが強く込み上げて来た。コロナウィルスに感染したパナマ人のケイラはアシェリーと同じ飛行機で帰国できなかったので、この初雪を、人生初めての雪を見ることができたのだが、そのことを考えると、それはそれでなんだかおかしかった。
常夏の国から来た友人たち、アシェリー、ケイラ、コロナウィルス、そして初雪...。
マディソンに暮らすということはそういうことだった。マディソンでの記憶はいつも、その年に起こったことと、それがどのような冬だったかということが密接に、分かち難くつながっていたからである。
]]>韓国人のヘジンはマディソンのカレッジに通う二十歳の女の子だった。私はこの夏、共通の知り合いを通じて彼女と友達になり、夏の間、この若い学生のヘジンと、それからパナマから来た若い学生の友人たちとグループになって、よくつるんでいた。パナマから来た他の友人たちは、パナマ政府のプログラムで私がかつて通っていたマディソンの語学学校に夏の間だけ語学の勉強に来ていた留学生たちだった。ヘジンもパナマ人の子たちも二十代前半の若者たちだったけれど、私は陽気な彼女たちが好きで彼女たちを誘っていろんな場所に遊びに出かけた。ヘジンもパナマ人の子たちもお酒が入るとよく踊り、私のスマートフォンにはこの夏、たくさん彼女たちの写真が収められていた。
十二月の半ば、いよいよパナマの子たちのプログラムが終了し、彼女たちが帰国する日が差し迫ると、私はいっそう多くの時間を一緒に過ごし、忙しいヘジンも学業の合間を縫って合流し、よく遊んだ。
帰国直前の最後の週末には、私たちはたくさんハグをして別れを惜しんだ。そしていつか日本で、あるいはパナマで、と再会を何度も何度も約束し合った。パナマ人のアシェリーは「友情の証に」と言って色違いのミサンガを買いたがり、私たちは色違いのお揃いのミサンガをつけることとなった。ミサンガのつけ方が分からなかった私に、アシェリーは直接ミサンガをつけてくれた。生まれて初めてつけるミサンガだったが、三十七歳の私にとってはかなり甘酸っぱいミサンガだった。そしてまだ帰国まで数日残っているので、もう一度だけ最後に会おうと私たちは約束して別れ、結局この日が私たちの最後の日となった。
この二日後、私たちはコロナウィルスに感染していたことが発覚したからである。
ヘジンたちと最後の週末を楽しんだ次の日から四十度近くの熱が出たので、私はすぐにPCR検査を受けに行った。結果は陽性。時を同じくしてパナマ人のケイラも陽性だった。ケイラは数日後にパナマに戻る予定だったが、フライトは即時にキャンセルされた。もちろんヘジンも感染していた。彼女もまたその数日後に家族でクリスマスをフロリダで過ごす予定だったが、全て白紙となった。ケイラのホストファミリーも感染していた。
折あしく、私はその頃、五歳になる息子の誕生日会を盛大に執り行っていた。パーティには息子のクラスメートや友達をたくさん招待し、私はケーキを切り分け、子供たちに、ママ友たちに配ると、マスクも付けずにベタベタとたくさんハグをした。その結果、五歳のエミリーと一歳になるその妹が感染した。一番仲の良いエフゲニアというロシア人のママ友も感染し、その家族も感染した。ついでに白井くんも感染した。
というわけで、ホリデーシーズンの一番忙しい時期に、私とその周りの人たちはバタバタとドミノ倒しのように隔離生活に入っていった。そしてその頃のマディソンは、いやアメリカは、これから2022年を迎えると言うよりは、2020年に戻るのではないかというほどコロナウィルスの感染者がどこの州も軒並み上昇していた。PCR検査の会場はホリデーシーズンの旅行のために検査する人と、実際に感染した人たちでごった返し、どこのドライブスルーにも長蛇の列ができていた。薬局では自宅で出来るウィルスの簡易検査キットが品薄となり、先を見越してストックを持っている家庭から横流ししてもらったり、「どこぞの薬局にいましがたストックがあるのを見かけた」というママ友たちからの内輪の連絡によって薬局まで買いに走るような事態だった。少し前までは、オミクロンはフロリダかどこかで発見されたかもしれない...というニュースだったが、気づけばマディソンのそこらじゅうでオミクロンが発見されているようだった。
だけど、いくら感染者と接触しても全く感染しない人たちもいた。五歳の私の息子はどんなに感染者と接触しようとも最後まで感染しなかったし、ミサンガをつけてくれたアシェリーも、「ヘジン、ケイラ、私」というトリプル感染者に一日中揉まれながら、その感染を免れた強者だった。ブラジル人のルアーナも感染したエフゲニアと私に挟まれてマスクなしに何度もハグをしたにも関わらず感染しなかった。大きな声では言えないけれど、症状がほとんどないからおそらくは感染しているだろうけど検査に行かない、という人もいた。
症状も千差万別だった。ケイラは感染者でありながら、無症状でピンピンしていたし、ヘジンは眩暈と倦怠感を訴えて十日間の隔離期間を終えてもなおなかなかPCR検査が陰性にならず、誰よりもずっと長く隔離生活を送っていた。ママ友のエフゲニアはずっと嗅覚がおかしいといって味覚障害を訴えていたが、隔離生活を終えると元に戻ったようだった。(後で知ったことだが、エフゲニアは反ワクチン派で、先のワクチンを一度も受けていなかった。)
私はというと、最初の一日は四十度近くの熱がでたが、その後はしつこい咳とひどい倦怠感、凄まじい眠気が一週間ほど続いただけで、あとは結構元気だった。
だけど体の症状というよりも、私はどちらかというとコロナウィルスに感染したことそのものに対する精神的ショックの方が大きかった。一旦自分の健康に対する過信が崩れると、症状がある間は、この世間を悩ますウィルスに一体自分がどれほど耐えられるのだろうか?という恐怖が沸き起こったし、同じように感染した友人たちの安否も心配だった。それから白井くんだけがずっとコロナウィルスを私が運んできたことをぷりぷりと根に持って怒っていたので、それも悲しかった。だからとにかく、私は隔離期間、これでもかというほどよく眠った。おそらくはウィルスのせいなのだろうが、この期間私はいくらでも眠れた。そしてその間とても多くの夢を見たし、なぜかそれは幸せな夢が多かった...。
隔離生活が無事に終わると、世の中は2022年に突入していた。これほどオミクロンが蔓延している中でも、今ではもう世の中はロックダウンなどしなかったし、どこの学校も新学期は二日間だけオンラインで行ったものの、結局その後はすぐに対面の授業が解禁となった。一度だけジムでマスクをつけていない若い女の子に突っかかるおばさんを見かけたけれど、少し郊外に行けば、これほど感染者が出ているにもかかわらず、室内で誰もマスクをつけていないことがよくあった。2年前、ロックダウンの際に「うちはマスクなんてつけなくても良いよ」とマディソンのとあるカフェが「マスクフリー」を謳い、そのせいで数ヶ月後に閉店に追い込まれたことがあったが、そんなことは今ではもう嘘みたいだった。
感染報告義務があったので、陽性反応が出た五日前までに遡って接触した人たちに報告し謝罪すると、ママ友のロータスは「謝らないで。怒ってないんだから。」と言った。
「パーティはすごく楽しかったんだから。どうしようもないでしょ?それとも私に人生を生きるなって言うの?」
幸い、私の周りで重症化した感染者は一人もいなかった。ケイラは隔離生活最終日に無事にパナマに帰国していったし、ヘジンは冬休みのほとんどを隔離で過ごしたが、来週から対面の授業が始まるのだと言って「そろそろ彼氏が欲しい」と恥ずかしそうに言った。白井くんもなんとかまた研究に専念できるようになり機嫌が直ったようだった。日常は新しく、だけど変わらず進んでいるようだった。
これが、2021年の年末から2022年の始まりにかけて、私と私の周りで起こったコロナウィルスにまつわる出来事だった。
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