私は校閲ガール

1月7日

 あっという間に年が明けてしまった。
 昨年は、紆余曲折を経て、とある教育系の出版社で校閲のお仕事を、フルタイムですることとなったのが、私にとって一番大きな出来事だった。あまり詳しいことは書けないが、そこは小学校の教科書や問題集などを作る会社で、私はその「道徳チーム」に配属されると、令和6年から全国の小学校で使用される「道徳」の教科書作りのお手伝いをすることになったのである。憧れの出版社でのお仕事。校閲ガール!である。

 というわけで、未知の領域である「道徳」であるが、(私は知らなかったのだが、)これは2018年に「特別の教科」として正式に教科化された、日本の教育における新しい取り組みとも言えるものらしく、これまでに私が学校で習ってきた(「生活」という授業に組み込まれていた)「道徳」とはまたひと味もふた味も違うもののようだった。
 
 とはいえ、道徳が扱う「モラル」や「倫理」、「思いやり」や「マナー」、「生きる力」、あるいは「愛国心」などといったテーマは、実に多岐にわたっており、一言では説明できない。ただ、部分的に「モラルやマナーについての教科書作り」というふうに英語で説明すると、アメリカにいる友人たちからは一様に、「そんなことは学校じゃなくて家庭で教えるものではないのか?」とのリアクションが返ってきた。特にアメリカ人の友人たちは、「モラルの概念は家庭によって違う」と言う人が多かったので、そういったものを、学校で教科として扱うこと自体に驚かれ、疑問をもたれる事が多かった。
 もちろん私も、「"道徳を子供達に教える"とはなんなのか?」と首を傾げながら、できたてホヤホヤの教科書を開いた。しかし意外にも、そこに展開されていたのは、国家による価値観の押し付けなどではなく、もっとデリケートに、かつ、子供達がこれからの時代を広い視野を持って生き延びていくために緻密に考えられた処方箋のようなものであり、「道徳教育」そのものの今後の可能性について、明るい希望を持てるような気がしたのだった。

 そして、そんな道徳の関係教材を朝から晩まで扱う校閲のお仕事は、毎日が天国のように楽しかった。単純に、私自身が字を追う作業が好きだということもあるのだろうが、誤字脱字やレイアウトの間違いを見つけるのは快感だったし、扱われる道徳教材を読むごとに、心が綺麗になり、良い人間になるような気もした。そして何より、実在した偉人が出てくる話には、校閲をしながら、感動することも少なくなかった。

 実際、私は仕事中に何度か涙を流すことがあった。仕事が終わり、家に帰って白井君にその教材の内容の話をすると、話しながらまた泣けてくるのである。教科書にはプロの声優さんを使った音声も作成しなくてはいけないのだが、その音源の校正作業になると、前に素読みをしながら泣いた同じ教材を、今度は耳で聞きながら私は再び泣いた。その後デジタル教材というものをAIのボイススピーカーで作る作業に入ると、やっぱり音声データを打ち込みながら、全く同じ箇所で全く同じ涙が流れるのだから忙しない。(とにかく、良い教材なのだ。)

 だからといってはなんだが、私は今、この「特別の教科」である「道徳」が、日本の子供たちにとって良い効果をもたらすことを願いながら、校閲をしている。道徳を改めて教科化するまでもなく、日本人の礼儀正しさやモラルの高さは世界的にもよく知られていることだと思うが、それは2018年の教科化される以前からも、日本の学校教育において、「道徳」そのものが存在したからなのではないかと私は思っている。そしてこの度、一新された「特別の教科 道徳」には、LGBTやSDGs、ネットいじめやネットモラル、そしてレジリエンスといった現代的な課題が多く取り扱われており、子供たちがこれからの時代を生きるために学べきであろうものが多いのである。

 一校閲者である私が、教材そのものや教育方針に口を出すということはないが、将来、学校でこの教材が使用され、子供達が何かしら学び、成長するのだということを考えると、それだけで胸がワクワクした。
 そしてそれは、私がこれまでの人生で一度も経験したことのない種類の「仕事」だった。朝、仕事を始める度に、私の心は喜びでいっぱいになった。作業をするスクリーンをいっぱいに照らすのは、未来の子供たちを豊かに照らす、希望の光のような気がしたからである。