現在、外気温は0度を下回っているが、通例の如く暖房設備が停止する。特に珍しいことではない。

 暖房なし、シャワーなしで年を越してくださいという脅迫である。電気と水はいつまで持つんでしょうね。

 修理を呼んでも修理屋は絶対に直さない。インフラを使った脅迫はブダペストで黙認されている。

 まあ僕はあと数日すればこんな場所には二度ときませんから、もういいでしょうか。

 お前には水もやらない、ガスもやらない、食事もやらない、人間としての必要なものは何もやらない。

 しかしながら、「人を呪わば穴二つ」という諺がありますね。無抵抗の人間にこれだけの無法行為を繰り返していて、僕は無事で済むとはどうも思いません。

 まあ僕の知ったことではないのですが。

 戦争などのやむをえない事情で移民となった人ではなく、学問、仕事、芸術活動などを目的に移民として国外に滞在する者はただ普通に暮らしていればいいというものではないのではないかと思えてきた。つまり自律性が必要なのではないか。

というのも、「普通に暮らしている移民」は実にたくさんおり、留学生もその一部で、彼らを敵に回すようなのだが、実にみっともないからである。お金にものを言わせてイベントに参加し、国境をこえて旅行したとしても、どうもみっともない。ちっとも楽しそうに見えない。どうしてみっともないのかなあと考えたところ、彼らが「普通に過ごしている」からだと思った。

 「普通に過ごす」のどこがいけないのだろう。いや、どこもいけないわけではないのだが、なんとなくカッコ悪いと言いますか、だらしがないと言いますか、つまり「普通に過ごしている移民」は「普通に過ごしている現地の人」しか視野に入らないところがなんだか気持ちが悪いと言いましょうか。

 現地の人の大半は「普通に過ごしている人」なのかもしれませんが、見えにくいところには困窮している人がおり、性・身体障害・年齢などの属性によって平等な職業機会を与えられない人がおり、そこまで極端な例でなくても、尊厳を踏み躙られる人がおり、歪んだ社会に幸せを踏み躙られた人があり、望まぬ人間関係を強いられる人がおり、実にさまざまな人がさまざまな事情で苦しんでいるにも関わらず、そんな人たちをみんな無視して「普通に過ごす」というのはどういう了見なのだろう、という考えが浮かぶ。

 だからモラルの高さ。モラルの高さは必須だと思う。せめて「モラルが高いふり」をするだけでも、必要だと思う。モラルの低い人間に移民は務まらぬ。そこらじゅうにモラルの低い移民はいるし、モラルの低い現地の人々もたくさんいるが、この人たちは後でそのツケをしっかり払うのにまだ気がついていないだけである。「普通に過ごす」ができない人たちの尊厳を踏みじるような、「移民が諸悪の根源だ」というレイシストの言い分にわざわざ塩を送るような、そんなことに僕は絶対加担したくない。

 記念すべき(?)留学一年目の年越しを前にして、そんなことを考えた。

 早く帰りたい、と真剣に思うわけなのだが、そう思う理由は、つまり、僕が相当なマヌケ扱いをここで受けるからである。

 「マヌケである」ということと「マヌケ扱いをする」ということは違う。「マヌケ」というのは「事実」だが、「マヌケ扱いをする」というのは恣意的なラベルである。「マヌケ扱いをしない」ということによって人は徐々にマヌケではなくなることもあろう。しかしながら「マヌケ扱いをする」というのはそいつがますますマヌケになるように呪いをかけるということである。

 残念なミスマッチであるが、僕はここの人によほどのマヌケに見えているらしい。繰り返し言うが、これは実際に僕がマヌケであろうとマヌケでなかろうと関係なく、マヌケ扱いを受ける環境という意味であり、つまり僕はここに居ても仕方がないということである。

 そういう環境はどちらにしろ存在する。僕にとっては中学・高校が「いつもマヌケ扱いされる場所」だったし、ブダペスト大学も「いつもマヌケ扱いされる場所」である。だから僕は大きく距離を取る。そんな場所には居たくないから。

 やはり他人と関わる時に一番大事なのは敬意だなと思う。


 兎にも角にも帰国準備である。

 有意義なんだかあまり意味はなかったんだかわからない留学生活ではあったが、まあ後になって「行ってよかったなー」と思う日が来ないとも限らない。すぐには役に立たなくとも、あとで役に立つことがあるかもしれないからとりあえず今できることをやる、という姿勢でやっていきたい。

 まだいくつか試験はあるが。

 よくわからないビザの関係ですぐに帰国しないといけないかなと思ったが、移民法の弁護士によるとひとまず異議申し立て期間中は滞在しても合法らしい。

 今できること:「試験を受ける」→「帰国(安全に)」!

 留学期間中に「知り合い」になってきてくれた人たち、ありがと〜。正直、僕とブダペスト大学の人々とでは価値観が予想を遥かに超えて全然違ったため、うまく馴染めたとは言い難いですし、僕は常に「出ていけ」と言われているように感じていましたが、とはいえ局所的にはまともなコミュニケーションの瞬間がなかったわけでもないでしょう。つまり、部分的には健全なコミュニケーションも存在したことでしょう。そう思いたいです。

 この局所的な健全性を基盤にして、国際交流が広がったらいいなと思います。そしてそういうふうに考えているのは僕だけじゃなくてたくさんいると思います。つまりそれが多数派の考えだと思います。


 何度も何度も読んだので、ばらばらになってしまった大好きな植物図鑑を製本し直す「本のお医者さん」こと『ルリユールおじさん』という絵本を子供の頃に読み、なんと美しい話だろうと感動した覚えがある。

 ほんの小さいときに読んだかすかな記憶から、それは外国の絵本を翻訳したもので舞台は日本のどこかだと、今まで思っていた。ところが、お友達のJさんとKalákaというバンドのクリスマス・コンサートに行った帰りにおうちにあがらせてもらってモフモフの猫ちゃんを撫でながら(猫成分摂取!)製本のお話になったときに、『ルリユールおじさん』を知ってるかどうかと聞こうと思ったのだが、描いたのは日本人で、舞台はパリの路地裏なのでうまく紹介できなかった。

 彼女の手作りのbookbindを見せてもらったときにrelieurをなんとなく思い出したのである。ルリユールrelieurはフランス語で「製本」の意味。絵本の絵の方ばかり見ていたので言語の方にそんな意味があるとは知らなかった。ブダペストで本物のルリユールとの思いがけない邂逅。

 ヨーロッパにおけるルリユールとは貴族たちのための工芸品のようだ。中身を読むというより観賞用なのかもしれない。すると、「直してまた読む」という文脈でルリユールを解釈するというのはかなり日本的な解釈の仕方かもしれない。

 一生懸命読んでばらばらになった本は、また縫って、もっと一生懸命読めるようにアップデートしていくというしぶとさ。虫の魂百までって言いますよっ。

 今年は、そんな早めのメリー・クリスマス。

<ビザ取り消しについてのそれぞれの人の意見>

・現地の友達の意見:この国の首相オルバーンの移民排斥思想のせい。ビザ取り消しは最悪。(そう言って励ましてくれる。)

・大学の意見:期限までに書類を提出しなかった僕が悪い。それを命令できるのが権力。従え。でも私たちはあなたの勉学をサポートしたい。(ほんとか?)(補足:期限を提示された覚えはない。)

・移民局職員の意見:あってもなくてもいい書類(実際に、新しいビザ申請要項に今回求められた未提出の書類は明記されていなかった)が原因でまた移民局員の仕事が増えるのは勘弁してほしい。不服申し立てをして、早くビザを受け取ったらいい。

・僕の意見:ハンガリー政府に難癖をつけられているようにしか思えない。

<今僕ができること>

前提条件:ビザ申請のためには移民局に直接赴く必要がある。移民局に直接赴いて申請プロセスを開始した時点で、滞在は合法になる。クリスマスと年末年始に移民局は閉館する。

プランA:不服申し立てをする。不服が承認されれば法的に僕のハンガリー滞在は問題ない。すぐにビザを入手でき、不服申し立てに2万円要求されたことと心理的な苦痛を除けば、特に問題はなく全て落ち着く。

プランAa:不服申し立てをして、ハンガリーに滞在する。この場合、不服が承認されれば僕の滞在に問題はないが、不服が拒否されれば強制送還になる。

プランAb:不服申し立てをして、日本に帰国する。僕のビザはパスポートによって12月29日まで有効なので、それまでの間に帰国する。学期末の試験が受けられないため、せっかく勉強した単位をいくつか強制的に落とす。

プランB:不服申し立てを取り下げ、新しくビザを申請する。年末年始の移民局閉館までの間に新しくビザ申請ができれば、ハンガリー滞在は法的に問題なくなり、試験はみんな受けられ、安全な選択。これが大学側の提案。ところがこの場合、難癖(としか僕には思えない)に屈することになるので、それが僕はすごく嫌。

 僕が今選択しようとしているのはプランAb。つまり即帰国。なぜならもうこれ以上、難癖・いいがかりに付き合いたくはないから。

 パスポートを提出していないことが原因でビザが拒否されるなどならまだしも、提出していないのは「アクティブステータス」という、「この学生は今学期中に休学ではない形で籍を置いている」という証明書なのは、単に嫌がらせに思える。「籍を置いている」ということ自体は他に提出した入学許可証などでわかりきっているし、そもそも「休学している学生」は「学生ではない」ということを意味していいのか?

 それぞれの人に「できること」と「できないこと」がある。いいがかり(としか僕には思えない)に我慢することは、僕には「できないこと」に属するように思う。

 法の最も重要な役割の一つは市民の安全を守ることである----ハンガリーの貴族エリザベス・バートリの逸話が残した教訓はそのことではないのか。

 法が市民の安全を守ることではなく守るふりをするようになったとき、差別が差別を生む最悪の循環を生まないように抵抗する力を受け入れる側の人間が失ってはならないと思うのだが(それは差別へ加担することである)、そのようなこの国の差別主義者の更生の道はまだまだ長く遠い道のりのようだ。

 ときどき、この国の人は僕が他人だということを忘れているのではないかと思う。気に入らなくなったら僕はすぐにこの国を出ていくし、政治家たちが口を揃えていうような「ハンガリーへのノスタルジーと思い出」など僕にはかけらもない。

 歓迎されているなら訪れるし、無礼があれば立ち去る。いたって当然の判断基準だと思うのだが。もう少し他者に対する想像力は働かせてみてはどうかと思う。

 移民局での滞在許可証申請はオンラインにて行われる。オンラインで必要書類を提出したらそれで完了。のはずなので、とっとと書類を提出して、移民局で2時間×三日くらい待たされたのち、滞在許可証の申請を終えた。それが9月末。それ以来ビザについてはすっかり忘れていた。

 そう思ったら嫌な雰囲気のするポストの通知書が届いた。僕の住むアパートにはポストがないので、郵便物を投函できなかったため、郵便局まで配達物を取りに来なさいという通知書。

 郵便局に行くと印刷日が11月27日と記録された書類が入っており、「8日以内にのみ異議申し立てができる。そのために2万円くらい払いなさい」と書いてある何やら物々しい通知書が。郵便物が届いたのが最速で12月9日だから異議申し立てはすでに不可能である。ビザ申請に必要な書類とは違う書類が提出されているので、ビザ申請プロセスを取り消した、と書いてある。

 まずここで言っておきたいことは、僕はすでに必要な書類を提出したということだ。移民局がここで「提出しろ」と要求しているのは、僕がブダペスト大学に正式に在籍していることを証明する書類だが、それはもうすでに提出している。それに加えて、追加の書類を移民局が要求してきた。それを満たしていないから、お前は犯罪者になりました、とそう言ってきている。全部ハンガリー語で。読めるかバカ。

 僕が大学に在籍して勉強していることはすでに証明済みなのにも関わらず。

 とりあえずのところは、大学の機関及び移民局の出せる限りの宛先に要求された(心底、無意味な)書類は提出したが、返答はない。こうやって僕が自分の知らないうちに犯罪者に仕立て上げられていることを知ると恐ろしい気持ちになる。

 これをシステムの暴力と言わずになんと言おう。

 本件に関して、ハンガリー語でなんと書いてあるか教えてくれた友達と職員には敬意と感謝を表したい。ありがとうございます。こんなしょうもないことで時間とってすみません。しかし、本件でせっかくできた友達、友達になれそうだった人たちのうちのかなりの人々を失った。

 ハンガリーのシステムは、「こういうことをする」システムのようだ。「こういうことをする」システムを「えらい」と崇めろと言われましても。俺らは偉いんだから靴底を舐めろと言われましても。

 そんなん言われましても不可能ですよ。あのー、勉強の邪魔せんといてくれます?

 何より試験が楽しみで大学に通っているという人はあまりいないと思うけれども、何はともあれ試験期間が始まる。

 言い訳っぽいが、試験において確かにハンガリー国外からの留学生にはそれなりに不利があることは事実だと思う。試験結果の不利ではなく、学習精度の不利がある。ヨーロッパのギムナジウムと大学の課程はそれなりに繋がっているため、ギムナジウム(高校)に通っていない僕は、所々でやる気のギアがかかりにくい。例えばトロイア戦争などのギリシャ神話をギムナジウムで大量の時間をかけて勉強するというような、そういう西洋古典からのレファレンスについて学校では勉強していないため、そういうところが手薄になるのが苦しい(なけなしの知識で現代ではマルクス主義と対比されるところのプロメテウスが鷲にいじめられるギリシャ神話を引いたらえらく褒められたけれど、プロメテウスは科学者にとっては適度にクリティカルかもしれないが文学作品を読むには破壊力の方が強すぎる神話だなあと、プロメテウスを引くたびにいつも思う)。とは言えそんなことは現地の学生と情報交換すればいいだけのことで、これも留学の愉しみの一つか。

 ハンガリーでさえ英文学を真面目に勉強する学生は決して多数派というわけではないらしく、チョーサーだろうとマーロウだろうとシェイクスピアだろうと、ドライデンだろうとディケンズだろうとウルフだろうとマンスフィールドだろうと、どの作家の専門の教授のところに行っても基本的にほぼ涙目で「やっと、やっと文学研究に対して真面目な学生が来てくれた...!」と大歓迎をされるのは嬉しいような悲しいような。英文学って孤独な学問なんですね。

 ハンガリーのシステムの方は「お前なんかどうせ部外者なんだからこっち来んな!ケッ」とアジア人差別混じりの世にもひどい攻撃をしてき、一方で個人の力で留学生を受け入れているなかなかすごい人たちもおり、その二重性(多層性?)を留学生がうまく見切ることで大学の環境に適応する、ということを僕はしている。正直、曲芸みたいで嫌だな、と思うこともある。

 競争率が高そうな権威ある作家の作品についてがっちり学ぶのが現在のブダペスト大学のトレンドなのだろうか。そのような学習がレファレンスとして役に立つことは間違い無いだろう。しかしみんなが当たり前だと思っている前提を問うような話題(そんな話題はいっぱいありますよね。)については目を瞑りがちでは無いのか。致命的に権威主義的なのではないか。「完璧な頭の良さ選手権」で勝つ競走は決して僕にとって最上位の優先度では無いのですけど。...そんな暗闇も予感されています。

海賊は奪った宝の価値をわかっているのだろうか。奪った宝の価値をわかって奪ったのか、それとも「なんとなくいいなあ」という直感で奪ったのか。

 日本のような環境ではあまり思い切ったことをする必要はないから、上品に構えていればそれで結構。むしろ普通以上に頑張ってみせることは下品ですらある。

 しかしブダペストの文化は日本文化と同じように発展してきたという訳ではない。全員がそうだというわけではないが、ブダペストでは海賊的な気質が発達してきた。今のところ僕にはそう思える。

 それはただの略奪ではない。ちゃんと奪ったものの価値をわかっている。もとの所有者よりもわかっているかもしれないほど価値がわかっていて、ねらいを定めて鮮やかに奪う。それはもはや「奪う」という動作ですらなく、宝物が向こうからやってきたのだとすら言える。そんな現象がギリギリ存在しているように思える。(でも、海に面してないのに、どういうことなのでしょうか)。

 そのような海賊的な人を前にして僕はなんと言えばいいのか正直よくわからない。ただ「すごいですね...」と思う。