自分の考えを共有できる人に出会うと、嬉しい。日本では共有できなかった考えが異国で共有できると、留学に来てよかったな〜と思う。
 直接会う人とはできていないけど、ブダペスト大学図書館の本とは「考えの共有」ができ始めている。日本の図書館や本屋さんと違う時空の本が配架されている。
 ドイツ(なぜドイツランドと呼ばないのか不思議)のキリスト教世界はとても恐ろしく、非人間的なことがたくさん起こってきたことを知り、感覚的にもそうだと思う。ハムレット王子が学んだのはウィッテンベルグ大学だけれど、ここで教えたマルティン・ルターの宗教改革も色々と問題を含んでいたことを知る。ルターははじめユダヤ人に対してもプロテスタントの門を開こうとしていたが、晩年、On the Jews and Their Liesという文書によってユダヤ人迫害を呼びかけた。これがのちのホロコーストにつながっていることは明らかだ。
 僕はキリスト教というとカトリックかプロテスタントかという区分くらいしかピンときていなかったけど、それはかなり杜撰な分け方だったようだ。僕が知っている同志社のプロテスタントはどちらかというとイングランドが起源のようだし、また、僕が一番興味のある英国国教会もルター派とは系統が違うように思う。
 イングランドはイングランドで宗教改革をやったし、ドイツはドイツで宗教改革をやったので、それぞれの国の宗教改革はお互いに影響しあってはいるけれど、起源を辿ればそれぞれ結構違う、ということだと理解した。その違いは、実際にその土地に住む僕としては重要だ。
 ハンガリーは宗教的にドイツの影響が強いように見えるけれど、ドイツやハンガリーで過去に起こってきた残虐な出来事の数々を思うと、そういう世界とは違った、イングランドの宗教改革者ウィクリフのいたオックスフォードには是非一度行きたいな〜、と思う。

Discipline your mind.

9/28 警察を呼ぶ

 スペイン人の集団は夜になっても騒いでいるし、イランから来た別の集団もうるさいし、僕は風邪でしんどいし、眠れない。
 ハンガリーの法律では、夜10時を過ぎて部屋の前などで騒ぐ人がいた場合、警察を呼んでもいいらしい。そういうわけで、警察を呼んだ。
 件のワンピース好きトルコの爽やか青年からは「ふざけんな」と罵倒を浴びる。日本語を勉強している彼は日本語で「ふざけんな」と言うのである。Fuck the police. 僕も一緒にふざけんなと、そう言いたい気持ちであるが、マジで寝られないしうるさいししんどい。賃貸約契約書には、警察沙汰になった場合、賃貸主はテナントを強制的に賃貸を退去させ、ビザが取り消すことができるとある。でも、向こうが警察沙汰になるほどの「暴力」を振るっているんだから、こっちがふざけんなと言いたいところのだ。
 警察を呼ぶと、とりあえず1回目なのでスペイン人の集団に対する警告で済む。2回目は怖いぞ、と言っておしまい。僕はパスポートをパスポートをチェックされ、写真を撮られる。パスポートは入国審査でも滞在許可証申請でも何回もチェックされたけど、チェックするなら僕のパスポートじゃなくて騒いでる人たちのパスポートだよなあと思いながら、パスポートを見せる。
 イランの人が首筋を触ってくるので、あと少しで肩取り四方投げをしそうになる。
 ああ、すごく嫌な気分になる〜。

 ハンガリー(現地語はハンガリー語)で英語で講義を受ける、という割と無茶なプログラムを実行した結果入り込んできてしまった怪物に、僕は遭遇しているのかもしれない。「質の悪い問い」という名前の怪物である。
 Hungarian Cultureというセミナー授業で、ゼミをとった理由を聞かれ、「ブダペストに来る前にハンガリーのことを勉強してみたけど、勉強すれば勉強するほど、より混乱した。でも、せめて何か手掛かりを掴みたい」と答えたところ、教授は「このゼミで余計混乱するかもね」と返した。
 このとき、さて、ブダペスト大学の教授の知性はちゃんと働いているのであろうか、と思ってしまった。新島襄が学問について書いたとき、「学問において、やればやるほど明らかになって行くのが良い。やればやるほどわからなくなる、という学びは持て囃されることがあるが、学問に限って言えばこれは良くない」と断言しているのを読んだことがあり、そうだな、と思った。
 解く必要のない難問、と言うものが存在するからである。「極右」がその典型だ。極右の発する問いはいつもやたら難しいわりに問いが孤立していて他の分野と関連性がない。時間だけが無駄になる。平たく言えばこう言う問いを詐欺という。そういう狭い穴を深く、深く掘り進んでいくような、やればやるほどどんどん暗くなるような問いは良くない。良い問題とは、暗闇を一瞬にして照らす明るい灯火のようなもので、他の分野と関連が見つけられるようなものだ。
 ブダペスト大学の教授たちもいくらかの学生もそれを直感してはいる。ところが、今の政治状況やハンガリーの風土が人々を孤立へとせき立てる。「解く必要のない難問」を直感できない学生はスタックして身動きが取れなくなる。
 僕にとっては最も優先度が高いのが「やればやるほど明らかになっていく」と言う状態になることだ。そのためには、孤立した問題に対してはっきりNoを突きつけること。
 今のところ講義で提示される問いの中には広がりのありそうな問いもある。一方で、頭の悪いパズルのような問いも多い。ハンガリーの「優秀な」人には無意味なパズルに興じる、とても良くない悪癖があるように見受けられる。問いの質が悪い。質の悪い問いは魂を蝕む。
 英語で講義を受けることによって、日本の大学では知りようもなかった世界への素晴らしい扉が開いたことは事実だ。これはグローバル化の功績だろう。だが、なかなかやばそうな怪物も入ってきた。
 英語で入ってきた怪物を英語で退治できるものなのだろうか。楽園の作り方を考えている。

 風邪はウイルス性の何かで、コロナではなかったのでそれはよかった。診断書を書いてもらって、一週間は学校を休むように、とのこと。風邪が悪化したのはやはり免疫がないからだと思う。
 大学の講義室でも、寮でも、かなり多くの人が咳をしている。おそらくは僕と同じウイルスだ。空気感染しているのだから、相当強い感染力のウイルスだと思う。どういうウイルスなのだろう、これは。それで、咳をしている学生たちが病院に行った様子がない。近くの部屋の人に聞いても、まあ咳だけだし行かなくてもいいでしょ、と言っていた。そしてかなりの人が咳をしているにもかかわらず、誰もマスクをつけない。
"Everyone is sick now." と担当医の人は言った。大学の講義で風邪をうつされないためには、マスクをして行くのが今のところ唯一の対策ということだ。しかしこの場合、比喩的な意味の病気ではなくて文字通りウイルスにかかっているのだから、異変を感じたら病院には行けよ、と僕は思う。
 ウイルス性の風邪を見栄で直すつもりだろうか。咳が出てもマスクをつけない留学生にこれまで一体どれだけの人が「頼むから病院に行ってくれ」「頼むからマスクをしてくれ」と言ってきたのだろう。
 クルハリラズール。今は、色々なことに対してじっとしていることがいいだろう。

 風邪を引いた。喉の辺りがイガイガして、なんとなく頭の働きが悪いのは、はじめはプレッシャーや緊張による体調不良かと思っていたけれど、一週間経って、ウイルス性の風邪だと気づいた。他の寮生も咳をしている。感染力強いな。
 風邪の治りが悪い。いつもの感じで風邪が治らない。お金で手に入るものは経済によってみんなグローバル化した。大学の教育も学位もグローバル化して、映画や音楽などの芸術もグローバル化したと思った。世の中のたいていのものはすべてグローバル化したんじゃないかと思っていたけど、風邪に対する免疫はグローバル化していなかった。免疫もグローバル化しとけよ。
 ハンガリーでも、ついに、「病」という人生における最大の難問の一つに直面している。病院に行こう。。。

 こんなことを言うと留学生たちをみんな敵に回しかねないけど、僕の知る限り、留学生の多くはいとも簡単に、あっという間にファシズムに陥る。権威主義的な言動をするし、他の国から来た人について興味があるふりをしていても、国境を超えた高度な理解をするつもりはない。ファシズムに抗う心的耐性を持っている留学生はものすごく少ないと思う。どうしてそうなるのかというと、僕は留学生が「正当化された少数派」というポジションによって利益を獲得しようとしているためだと思う。
 アメリカではトップ1%が総資産の30パーセントを握る。そういう少数の者たちが利益を独占するという状態を防ぐために、私たちは「何もしない」という手段によって少数派に抗うことができる。利益を独占する少数の者たちは、常に多数派による貢献を必要としているからだ。多数派が少数派に資源を支払わない限り、少数派は結局のところ利益を獲得できない。だから多数派は少数派を直接的に攻撃しなくても、「何もしない」ということによって、少数派に利益が集まることを防ぐことができる。
 留学生は自らを「何かしている人」というポジションに置くことに躊躇しない。留学するためには語学試験を受けたり面倒な書類の手続きをしたりするし留学生は自分が「何かしている」「行動している」と思い込みやすい。ところが、これは躊躇しないといけないことなのである。これはグローバリゼーションの罠なのである。「何かする」ということは、少数派に利益を集中させることにいとも簡単につながるということを忘れてはいけない。
 留学する人は少数派であってはならない。教室の自分以外の人たちは、みんな自分とは人種も違ううえに、受けてきた教育も慣習も違う人たちだ。外国では、自分一人が日本人だ。しかし、それにもかかわらず、自分は多数派なのだ。留学する人は決して孤高の戦士ではない。留学する人はどこにでも味方を見つけることができる。そういう認識が大切なのだと僕は言いたい。

 ブダペストは観光都市でもあるので、旅行者が不自由しないように誰でもある程度食べ慣れているようなものが売られている。マクドナルドもあるし、インスタントの袋麺も売っているし、冷凍ピザやお寿司やラーメンも売っているので、食べ慣れたものを食べることもできる。だけどそういうものはちょっと値段が高いし、ラーメンはラーメンというより鍋で煮込んだうどんに近い。それにせっかく異国に来たのなら日本で食べられないものを食べてみたいと思って冒険してみた。
 何なのかまったく知らずスーパーで適当に選んだスープが意外においしくて、どういう料理なのかなと思って調べてみると、「セケリカポシュタ」というハンガリーの19世紀まで遡る伝統あるスープだった。キャベツと豚肉のシチューを混ぜ合わせたスープで、僕が食べたのはレンジで2分温めればいいだけのお手軽バージョンだったけど、寒くなってきたら体を温めるために重宝しそうなスープだった。
 パンは日本では考えられないほど安い。安さを追求すれば、パンがひとかたまり20円で手に入るところもある。でも、味は安っぽくない。とりあえずパンを食べていれば、お腹は満たせる。
 パンにハンガリー風の味付けをするなら、「クルズット」というチーズスプレッドをパンに塗るのがいい。中・東欧の郷土料理で、羊乳チーズとパプリカや玉ねぎなどの野菜、お酒やマスタードなどの調味料を混ぜ合わせたペーストらしく、滑らかなコクがありながら酸味が利いていておいしい。『裏切りのサーカス』という映画の冒頭で、諜報員が待ち合わせの食事でパンに何やら塗りたくっていたのも多分、チーズスプレッドだ。一缶150円くらいの安さで、ハンガリー生活に欠かせない調味料になりつつある。日本では知られていないだけで、日本に輸入すればあっという間に人気になると思う。
 ハンガリーの料理は日本では全然聞いたこともないような料理ばかりで、冒険しがいがあるし、結構おいしくて、値段が安い。食事に困ることは当分ないように思う。お味噌汁とかは、ちょっと我慢しないといけないけど。
 食事を済ませてネットフリックスでスペイン語の映画を見ていると、一部の金持ち・エリートが庶民や貧しい人々を搾取する、という社会構造を描いた作品が多いことに気づく。搾取といっても、プロの犯罪集団が権力者に雇われて臓器売買するとか実際に人を殺すとかいうレベルのものが描かれている。
 映画のフィクションが現実の世界でそのまま行われているというわけでなくても、そういう映画が作られているということは、スペインで格差や犯罪が大きな社会問題になっていることを表していると思う。
 僕の部屋の前に集まって騒いでいたのはスペインの中でも「権力の甘い蜜」に与れないが与りたかった面倒な田舎者たちで、ビジネスによって成り上がりたいという「夢」にしがみついているように見える。そんな人と関わっても文学の勉強には役に立たなさそうなので、できればお引き取り願いたいものだ。
 ハンガリーで情報収集をするときに役に立つ言語は、ハンガリー語、ドイツ語、英語の三つだ。この三つの言語が使いこなせれば、「ハンガリーから見るヨーロッパ」というものがかなりわかってくるのではないかなと予想している。学部の図書館は英語資料とドイツ語資料が並列して置かれていて、ドイツ語資料には「スカンディナヴィアの民話」とか「デンマークのフォークロア」とか北欧を含む様々なヨーロッパの国々の資料があり、この資料に気軽にアクセスできたらヨーロッパがもっとわかるのになあ、と思いドイツ語ができないことが歯痒かった。でも、英語の習得にすら苦労しているので、ハンガリー語やドイツ語が本当にちゃんと使いこなせるようになるまでの道のりは長そうだ。

 昨日書いたことの手のひらを返すようだけど、スペインから来た人たちの集団が僕の部屋の前で騒いでいる、という状況がおかしくなってきた。
 気遣いとか思いやりとかができない人たちの騒ぎかと思っていたけれど、まあ80パーセントくらいは彼らの無神経さからくるんじゃないかなと実際思うんですけど、残り20パーセントくらいは、彼らの誇りだかなんだか知らないけど、「みんなに聞こえる声で迷惑かけて、何がなんでも騒いでやるぞ」「俺たちは若いんだ、騒ぎたいんだ」という、一種の彼らなりの真面目な闘いなのかもしれないと思うようになってきた。
 それにしてもうるさい(今もこの日記を書きながら、すぐそばで騒いでいる)。僕は昨日は結構怒って彼らの騒ぎに異議申し立てをして、彼らの騒ぎに水を差したと思うんだけど、それでも騒いでいる。窓から彼らをじっと見ていると、「お前も入りたいか?」と誘ってくる図々しさである。もちろん断る。
 こうなったら僕が寮を出るか、彼らが寮を出るか、僕も一緒に騒ぐかである。冗談です。そんな三択はありえない。
 日本には周りに迷惑をかけてまで、そんな意地でも騒ぐ人もいないし、意地でも騒ぐのが楽しい環境というのもないですよね。想定外の状況だなあ。怒ってる僕の心が狭いんじゃないかと思えてきた。
 どうしてこの状況で僕が反省しているかというと、それは一つは彼らが「集団」で、僕はわりかし一人で抗議しているのだという点によるものである。しかも、出身地はスペインの北も南も入り混じって、男女も入り混じった、言っても多様な集団である。僕はひとり。
 もちろん、他の寮生も、彼らがうるさいとは思っている。怒っている人もいる。だからといって、怒れる他の寮生と結託して、彼らを黙らせたらそれで良いのか。
 それも違うような気がする。だからと言って、やっぱり彼らはうるさい。騒ぐにしたって、もっと楽しげに騒いだらいいのに、どこかストレスフルな騒ぎなのだ。それが気になる。
 そうこう言っているうちに、彼らはパーティに行くらしい。
 ひとまず静かになった。
 で、また戻ってきた。

 ブダペストに集まる留学生がみんな反体制かというと、そんなことはない。どちらかというと保守的な人がわりといる。ブダペストに集まる留学生たちが各国の優秀な人たちかというと、そういうことでもない。なんだかよく分からない人たちが集まっている。
 ブダペスト到着から一週間以上がたち、僕自身は一時的な「旅行モード」から長期的な「移住モード」になっていき(実際にハンガリーに移住するかどうかはともかく)、さっそく人間関係で困っている。
 僕の部屋の前で毎日、スペイン人の集団(男はフットボールのユニフォームみたいなものを毎日洗濯もせず着ている)が騒いでいる。うるさいと注意してもあまり聞かない。
 ルームメイトはHungarian boyと聞いていたが、結局来ていない。ダブルルームに一人で住んでいる。
 白人至上主義というのは本当にあるんだなあと感じることは少なくない。白人男性の諸君がアジア人である僕を見る目つきは、基本的には「なめている」(もちろんみんなそんな連中ではないけれど)。「御しやすいやつ」と思っているように見える。ギラリと睨んでくる。
 彼らの醜い偏見がわかりやすく露呈しているという現象については、別にいいんですけど、それにしてもこわいなあと思う。
 フットボールのユニフォームを着ている人はすごくめんどくさい。ハンガリー首相のオルバンがフットボールが好きとかいうのも勘弁してくれと思う。フットボールの人たちはもう初手からアジア人を「舐めている」。キッチンは散らかして掃除しないし、他の寮生からも嫌われている。トルコから来た人も厄介で、爽やかな青年もいるのだけれど、ドン引きするほどのレイシストもいる。爽やかなトルコ青年から「ナルトとワンピースとデスノートが好きで、ずっと日本人の友達が欲しかったんだ」とキラキラした目で言われると、これからダークサイドに落ちていくルークを見ているような気分で、気の利いたことを言いたいんだけど、「はあ・・・」としか返事ができなくなる。
 はじめは「日本人ではない人」の表情を見分けたり会話のレトリックを見破ったりするのに手こずったけど、今はわりにシンプルに、「嫌な感じ」がしたらそいつはまず「仲良くならなくてもいいやつ」だし、「嫌な感じ」がしなかったら、仲良くなれるかもしれない、というくらいのもので、そこで人種や言語や文化の違いをいちいち分析する必要はないと思うようになった。
 そんなこんなで隣人と基本的にファイトしているせいで、ヘイ、ブラザーと呼び合うような友達はできていない。別にそんな友達を求めてないのだけれど。
 共同キッチンで居合わせたイランの人がフライパンで煮込んでいるスープからいい香りがしたので、美味しそうだねと声をかけたら、ちょっといるかいと言ってくれてお裾分けしてもらった。このスープはすごくおいしかった。なすと玉ねぎとトマトを煮込んだと言っていた。
 そういう、一瞬のご縁みたいな素敵な人間関係はちょこちょこ築けているけど、恒久的な友人関係になりそうな関係ではない。そもそも寮でそんな濃密な人間関係を築くという発想は僕にはちょっと考えにくいんだけど。
 アジア人を「御せる」という目で見る白人を見ると、まあがっかりするというか、そういうヨーロッパ在住の学生の「余裕のなさ」に結構びっくりする。長い歴史、洗練された文化、美しい音楽、美味しい料理、そういうものを、ヨーロッパの大学生はさぞ潤沢に楽しんでいるのだろうと思いきや、意外なことに、そういった精神的なリッチさにおいて彼らに対するアドバンテージは日本人の僕にもかなりある。
 それはともかく、うるさいスペイン人を避けてブダペストを散歩していたら、オペラの野外公演に遭遇し、ハンガリーの素敵な音楽を聴く機会に恵まれた。この演奏はなかなか良かった。悪いことがあったと思えばいいこともあるのが不思議である。
 ハンガリー政府の反LGBT法、移民排除の政策がニュースにもなって有名な通り、ハンガリーでは「異性愛」を無理矢理にでも成り立たせようという作戦がここかしこで実行されている。花火をバックに抱き合う男女の大きな垂れ幕。道端でキスしている男女(同意をとっているのか定かではない)。オペラのステージでも観客の一部男性はオペラ演劇にもそういうものを期待していて、一方でオペラ上演者たちがミソジニー男性たちにいかにして「水を差すか」、ということを試みているのが面白かった。 
 演奏会の後、お寺で嗅ぐお香のような香りの漂う「セイント・テレサ・オブ・アヴィラ・パリッシュ教会」というところに立ち寄った。この教会の地下には、百人か二百人かくらいの人の名前が刻まれた石板と、聖櫃が陳列されている回廊のような空間があって、なんだか見覚えのある空間だなあと思ったら、これは京都の鞍馬寺本堂の地下にある「地下清浄髪(しょうじょうはつ)奉納祈願所」に雰囲気がよく似ているのだ。お香みたいな香りもしたし、もしかしたらどこか仏教と関わりがあるのかもしれない。でも全然、根拠はないです。
 気遣い、という概念があるのかどうかすら怪しいスペイン人の集団は厄介だけど迷惑なので、しつこく注意してみようと思う。

 ユダヤのシナゴーグはブダペスト第七地区に多いみたいだ。神の好きな数字「7」の地区にユダヤの宮殿が密集している、というのは面白い。
 第七地区は人種的なマイノリティの人にフレンドリーな所だと感じた。アジア系、黒人系の人たちを第五区よりも頻繁に見かけた。キリスト教系の装飾が少なく、タイ料理、日本料理などのお店も多く、目立つ建物にレインボー・フラッグやウクライナの国旗を掲げていた。スーパーの店員もどことなくフレンドリーだった。三つの地区しか歩いてないからまだ分からないけど、ブダペストでは一番リベラルな地区なのではないだろうか。
 ところが、ブダペストではハンガリー政府によるユダヤの人々に対する弾圧が強まっている。ユダヤのシナゴーグの一つが閉鎖され、話題になった。
 第七地区が反骨の場所であり続けることを祈る。
 その後、"Goodbye Budapest"を読んだ後では涙なしでは見られぬコービン・シネマ(第八地区)を見に行き、裏のショッピングモールで買い物して帰宅。
 ブダペストで生活するには第七地区の動向が最も気になるところである。