誰が差別主義者のことを気にするというのだろう。
 
 国際ボクシング協会の検証されていない検査に基づいて女性ボクサーを男性と呼んでいる時点でJKローリングは「権威に訴える論証の誤謬」を犯している。「権威に訴える論証の誤謬」とは、論証したいことについてよく知らない人の言うことを根拠に推論することである。これは僕には深刻な間違いのように思える。
 
 たとえ『ハリー・ポッター』が多くの人を救った価値ある作品でありJKローリングがその物語を書いた人だとしても、そんなことはこの際どうでもいい。それが誰であろうと、現に誤謬を犯していて、しかも差別的な文章を「書いている」のであればその「行動」は間違っている。

 なぜ人は誤謬(もし本人が意図しているのであれば詭弁)にコミットしてしまうのだろう。目先の利益に誘導されたのか。脅されたのか。支配欲や驕りがあったのか。社会の不平等によって適切な教育を受けられなかったからなのか。

僕にとってローリングの言葉についての信用は、すでに灰となった。

 日記を書く前に読んだ記事

Kat Brown, "Olympic boxer Imane Khelif is a woman and has always been a woman (no matter what JK Rowling says)", https://www.independent.co.uk/voices/imane-khelif-woman-jk-rowling-olympic-boxer-trans-b2590258.html

 話し合いが成立していないときに話し合い以外の方法で相手を納得させることが、おそらく「論破」と呼ばれているのだろう。

「碁を打つに、さばかりと知らで、ふくつけさは、又、こと所にかかぐりありくに、異方より目もなくして、多く拾ひ取りたるも嬉しからじや。誇りかにうち笑ひ、唯の勝ちよりはほこりかなり。」

(碁を打つとき、相手はそれほどとは理解せず欲をかいて別のところをたずねたずね打っている間に、普通と違う所から攻めて眼さえ奪い、多くの地をとるのが快くないはずがない。誇らしそうに笑って、ただ勝つより誇らしい)

-『枕草子』178段 清少納言

「論破」は囲碁で「勝つ」ことに似ていると思う。どちらも交互にターンがあったのち、勝負を決めた結果である。だから、清少納言がここで囲碁をメタファーに使って私たちに教えているのは、清少納言の得意な修辞法だ。清少納言のような有名人が正直に自分の言葉の使い方をみんなに教えてくれるなんて、なんという太っ腹。すごい、さすが清少納言。

「つたなき人の、碁うつ事ばかりにさとく巧みなるは、かしこき人の、この芸におろかなるを見て、己れが智に及ばずと定めて、万の道の匠、我が道を人の知らざるを見て、己すぐれたりと思はん事、大きなる誤りなるべし。」

(凡庸な人間で、語を打つことばかりに頭が働いて、上手な人が、賢い人で、碁を打つ技につたないのを見て、自分の知恵に及ばないと決め込んだり、全てそれぞれの道の専門の職人が、自分の専門のことを、人が知らないのを見て、自分がまさっていると思うようなのは、大きなまちがいであろう。)

-日本古典文学全集『徒然草』193段 兼好法師
 
 徒然草のこの箇所で指摘されているのは欧米の「誤謬」という概念に当たる(兼好法師がちゃんと理解していたかどうかは確かではないが)。本来、議論を行うときには誤謬を見逃してはいけない。しかし「論破」する人たちは浅い意見の投げつけ合いをしているに過ぎないし、誤謬もひどい。「議論」を戦いのことだと思っている人が多く、辞書にもそう書いてあるけれど、議論は戦いなんかではない。語の意味が根本的に変わってしまっているが、これは「時空の歪み」みたいなもので、もとからお互い全然違う話をしていたのだった。とはいえ、彼らがそんな勝負事を楽しんでいるのであれば無理には止めますまい。

 試験にもよく出題される題材の一つに、過去の習慣(past habits)を表す"used to"と"would"の使い分けがある。この使い分けの説明について、もしかして日本語を使う人は誰も文法を理解できていないのではないかと思うような例に出会ってしまったので、紹介したい。日本語の高校で使われるような教科書には大抵次のような説明がされている。

「used toは過去と現在との対比を含みとして使われるのに対して、wouldは個人的な回想の文によく使われる。」(英文法解説、第3版、江川泰一郎, p311)

これに対して、4年ほど英語を勉強した30歳の学習者が対象で、英語媒体の教材が説明する使い分け方は以下のようなものである。

'Would' is only good for actions or situations that were repeated many times;

'Used to' is good for any action or situation that continued for a period of time in the past, including repeated actions or situations. (BBC LERNING ENGLISH)

 読み比べるとわかるように、日本語媒体の教科書と比べて、英語媒体の教材の方が説明が論理的かつ簡潔である。加えて、日本語媒体の教科書ではよく「used toは動作動詞と状態動詞どちらにも結合するが、would toは動作動詞としか結合しない」と説明されていることがあるが、これを理解する際にも、英語媒体の教材が教えるように「ある期間繰り返すのがused to、何回も何回も何回も繰り返すのがwould」と考えればなぜ状態動詞と繋がりやすくなるのか、きちんと論理的に理解できる。でも、日本語媒体のように「動作動詞/状態動詞」で説明する方法は論理的な説明ではないので、結局パターン暗記する羽目になる。

 これはほんの一例で、それも基本的なレベルの文法知識にすぎない。しかし基本的なレベルであっても、どうも日本語媒体の高校の教科書の説明は、学習者に十分な理解を促すものと思えないのである。

 僕は英語教育の専門家でもないし、文法の専門家でもない。しかし一人の英語学習者として、上に挙げたような説明を読み比べると、日本人は文法を全然理解できてないのではないのかと推測できてしまうことは免れない。(もし日本語の教科書でロジカルに文法を説明したものがあるのだとしたら、ぜひ知りたい。)

 日本では英語の権威のような立場にある者たちが「文法の知識すらまともに持っていない」という事実はひどく気を滅入らせるものである。「定義が間違っていて」「文法の知識がない」という人が、さらに高度な文学作品を読み解くことなどできるのだろうか?(できないと推論するのが妥当である)

我々は正確な文法知識を最も欲している。なんといっても文法の学習は「無償」なのだから。

 日本に帰国した後は、日本について別に書きたいこともないし、日記を書くつもりはなかったのだが、日本の大学に出席していると、あまりに酷いことが続くので、書いてやることにした。

 僕は「日本の」人文学の講義を受けていると違和感を覚えまくる。ハンガリーで人文学を勉強していても、違和感を感じることがあったが、日本の場合は違和感のレベルが「犯罪レベル」であり、「災害レベル」であり、とにかくヤバさのレベルが狂っている(笑い事ではない)。

「ナチスはフォルクス・ワーゲンの開発に貢献した」と教える、自称ユダヤ人を先祖にもつ教授。ポストコロニアル批評をろくに理解していない教授、自分に都合の悪い論点を指摘する学生は「怒鳴る」という方法だけで黙らせる教授。文法知識が欠けている編者が編集した教科書。

 こういう犯罪的指導をする教育の、何がヤバいかというと、「間違った定義に基づいて論を展開している」という、ただその一点に尽くされる。

 間違いを犯したものには、きちんと責任をとってほしい。

 論理的に、「PならばQ」という命題に対して、前提Pが偽(誤っている)ならば、「PならばQ」は有無を問わず真(正しい)になる。これが、今の日本の大学で起こっていることだ。

 たとえば、こういうこと。
 P=『雪は氷の結晶』
 Q=『雪は冷たい』
 とすると、「PならばQ」とは、
「『雪は氷の結晶』ならば『雪は冷たい』」。
 雪は氷の結晶なので冷たい。この命題は、私たちがどこからどのように考えても、正しい。雪は冷たいものだ。ところが、雪が冷たくなくなることがある。それは、「雪は氷の結晶」と言う前提が偽(間違っている)の場合だ。

 どこかのマッドなサイエンティストが奇怪な研究を進めた結果、雪は氷の結晶ではなく、綿飴の塊だったと言うことが証明されたとする。そういうパラレルワールドでは、「雪は氷の結晶」と言う前提が偽(間違い)となる。すると、「雪は氷の結晶」と言う前提から導かれるQは全て正しい。Qが「雪は黒い」でも、「雪は鉛より重い」でも、真(正しい)。雪が綿飴なら。

 では、雪とは綿飴だったのでしょうか?

 僕は、前提Pの正しさを守ろう、と言っているまでなのだ。前提Pの正しさは、思いつきや気まぐれで守ることはできないから、ちゃんと勉強して保護しないといけない。

 根本的な前提が危険に晒されているので、若い私たちは、ろくに勉強することもできない。

 とうとう帰国。ハンガリー革命の記念日で街中に国旗がはためく中、首相演説の準備をしているステージを走って横切って空港に向かうシャトルバスに乗った。

 ハンガリーと日本はとても遠いという先入観があったが、実際にそれぞれの行き帰りを経験すると、そこまで言うほど遠くもなかったと思う。むしろ、日本に到着してから「改札口」というものがある阪急電車に乗るときはじめて、ブダペスト滞在の感覚で言えばかなり過激な資本主義の社会へ足を踏み入れるような気がした。

 ハンガリーには日本人がとても少なく、滞在中の初めの頃は遠いところに来た感がすごかった。ユークリッド幾何学的な距離という意味では、実際に二つの場所の間にはとても大きな距離がある。しかし、昨日はブダペスト、今日は大阪という移動が可能であることを考えると、たった一日で移動できる距離がそこまで遠いと言えるだろうか?パスポートと航空券は必要にせよ。

 ハンガリーで見つけたものの多くは、僕が知らなかっただけで実は日本にもあるということを知った。ヘレンドの陶器も日本にもファンがいて、百貨店で手に入ることがあるらしい。ハンガリーに来ることがなければ、おそらく僕はヘレンドの陶器を知る機会を得ることはなかっただろう。しかし、ハンガリーに足を踏み入れた以上、僕は必然的にヘレンドに出会い、魅了されることになっただろう。ハンガリー陶器のように、日本にいるときの視点では見えにくく、ハンガリーにいるときの視点では見えやすい物があった。それはまるで一方の方向にだけ電流が流れるダイオードに繋がった電気回路のようなものである。ある一方の方向の電流は流れやすいが、逆方向の電流は極めて流れにくいのである。

 今回の留学で多くを学んだが、本当を言うと「まだ、何か重要なものをいくつか見落としている」という感覚が強くある。例えば、ハンガリー語を僕はまだ全然理解できていない。辞書を引き引きハンガリー語の絵本を読んでいると、「ライオン」という意味の単語と「ロシア」という意味の単語は綴りが似ていることに気づいた。でも、ライオンとロシアがなんで似ているのだろう?わからない。このように、十分にハンガリー語を修得せずにハンガリーで過ごすと言うことは、暗号のキーを知らされずに暗号文を提示されているようなものだ。言語以外の情報から何が起こっているのか意味を推論することはできるが、はじめから暗号のキーを知っていればそれに越したことはないと思った。

 今後、またハンガリーと縁があるかもしれない。あるいは、もう二度とないのかもしれない。あるとしても、いつどのようにして関わる可能性があるのかということすら、今は全く予想がつかない。いずれにせよ、次の機会まで、暫しの別れ!

END

Twitterでアカデミー賞の動画が流れてきた。僕は「アカデミー賞」が一体なんなのかも知らなかったので、調べてみるとアメリカの盛大な授賞式だと言うことがわかった。トロフィーを渡すときに俳優のホイ・クアンを俳優のダウニー・Jrが無視したらしい。確かにひどいなーと思った。

そのことについてツイッターで「白人の中には差別心が本当にない人もいるが、それは少数派だ」と書き込んでいる日本の大学教員の方がいた。ロシアに一年滞在したらしい。でも、それは違う。認知が歪んでいる上に、このような主張は危険な思想を招きかねないと判断したので文章を書くことにした。

 現実には、差別する意図が本当にある人の方が少数派である。ヨーロッパの人々は、我々が認識しているよりも我々のことをよく見ている。ヨーロッパの人に攻撃されたのなら、それは差別ではなく、どっかの他の日本人に搾取され、嫌がらせを受けたことの復讐の標的にされていると思ったらいいと思う。僕は本気でそう思っている。そして、それは差別ではない。ハンガリーに滞在している間、ハンガリーの人に差別的な扱いを受けたか、と聞かれれば、正直なところ「日本人が僕に対してするよりは差別されなかった」と答えるだろう。自覚がないのかもしれないが、日本人はそれほどまでに観察力がなく、認知が歪んでいて、猜疑心が強く、無礼で、語彙が少ないので何を言っているのかもよくわからず、差別的である。話はその前提をちゃんと認識してからだ。

だから、白人至上主義は確かに大きな問題だが、日本人男性が呑気に白人を馬鹿にしている場合ではない。日本人の方がやべーから。

 そもそも、大体、差別的な白人なんてどうだっていいじゃん。

オックスフォード英語辞典(OED)には大体60万語の英単語が登録されている。英語話者がOEDに登録されているすべての単語を隅々まで記憶しているわけでは無いと思うけれど、英語がよくできる人は潜在的には60万語の英単語がわかるような気がする。一方で、海外留学に最低限必要な英語試験で求められる単語数は6000語くらい。残念ながら、6000語の語彙力と60万語の単語数の間には大きなギャップがあると考えざるを得ない。

日本の大学で、最も難しい入試に合格するために必要な単語数も6000語くらいだそうである。どうして日本人の英語のレキシコン(語彙力)はこんなにも貧しいのか?うまくいかない日本社会や、臭いものに蓋をして放置している問題が語彙の幅の狭さに現れているのではないだろうか。

どう考えても、6000語の語彙力は英語を理解するために不十分な語彙数だ。英語圏で生まれた成人の語彙数は2~3万語らしいが、それにしたってOEDに登録されている単語には少なく見積もってまだ残り57万語ある。それに加えて、SNSなどで日々発明されているような、OEDに登録されていない新しい単語もあるので、実際にはもっともっとたくさんある。

受験用に覚えた英単語だけしか使えないと、端的に「頭が悪くなる」という感じがする。「前もって」どうこうと言いたいときにいつまで経っても日本の単語帳に載っているリストから単語を引っ張ってきて、foregoing, before that~, previously~, だなんだと言っていると、脳みそと息がつまるような感じがする。Beforeなんとかという表現がダメなのではなく、"prescient"のように(*1)幅の広い表現があることを知っていたら、もっと豊かに表現できるし、息のしやすい英語になると思う。例えばの話。

A prescient warning. (OEDより)

有名な日本の作家のハルキ・ムラカミの英語スピーチでさえ「英語の語彙の幅」という一点の、ただそれだけのみに関して言ってしまうとそれほど豊かではないと考えざるを得ない。他の国の人と比べても日本人は皆、英語の語彙が際立って少ない。どうして日本人の語彙はこんなに貧しいのだろう。どうすれば語彙が増えるのだろう。語彙が少ないという状況は、どうすれば打開できるのだろう。

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(*1)prescientという単語を紹介している素敵なポッドキャスト→"Nerd Word", Revision Sound, https://podcasts.apple.com/jp/podcast/nerd-word/id1641406770?i=1000598315775

3月4日 (月) タイムズ

 格安航空に乗ってイギリスへ。スタンステッド空港からリヴァプール・ストリート駅に入る。日本から飛行機に乗るとヒースローから入るが、ハンガリーからだとスタンステッドから入る。駅を降りるとすごく古いものもすごく新しいものも街には乱立している。イギリスに着いた日は疲れていてすぐに寝てしまった。
 
 日曜日に「イートン校の生活ミュージアム」を見に行く。イートン校とは、イギリスで一番の中等教育機関と言われる男子校である。ロンドンから西に向かってウィンザーへ。車や鉄道なら、高いが、ロンドンから簡単に行ける。しかし、イートン~ウィンザーは丘や平野に囲まれていて徒歩では外から出入りがしにくい立地である。「男子校カルチャー」の中では酷いことが起こりやすい、ということは皆知っているので、皆出来るだけ気を配っていると思う。イートンの庭で、リスがおやつに赤いバラを食べているところを見かけた。

 土曜日にロンドン大学の近くでカフェを見つけてご飯を食べる。昼から博物館(展覧会?)に行き、展示物の意味がわかるまでゆっくり考えながら見ているとあっという間に夕方になる。本屋で本を選んでいると、まだまだ時間があると思っていたのに瞬く間に夜になって店が閉まる。ロンドンの新聞はタイムズという名前だし、時計や時計職人にこだわりがあるなと思っていたけど、なるほど、ロンドンに居ると時間をすっかり気にしなくなってしまうから「タイムズ」というのだ。勘だけど、絶対そうだろうと思う。

 ある博物館を訪れ、ローマをはじめとするヨーロッパについてとても役に立ちそうな知識などをたくさん得た。ヨーロッパのトレンドをあまり詳しく知らない僕にとって博物館はすごくありがたい。
 博物館ではゴヤの絵画を見ることができた。ヨーロッパでは今、主流の人々が「ゴヤの世界」化していると僕は思う。守る想定のモラルを守らない者がいるようだ。イタリアも大変なのである。
 地中海を見に行くと波が荒れていて風が強かった。魚市場を興味深く見た後、魚料理を食べられないかと思って入ったお店はレストランではなく食材を売るお店だった。まあ、いいかと思って「ラビオリ」なるパスタの一種を買い、宿に戻って茹でて塩を振ると涙が出るほどうまい!しかもレストランで食べると14ユーロくらいするのに、自分で茹でると2ユーロ弱。
 宿をチェックアウトして帰路の鉄道に乗るまで街を歩いて時間を潰そうと思ったらザーザー雨が降り始める。海が荒れていたのがお陸まで来た。疲れも溜まっていてかなりフラフラになりながら本屋に逃げ込む。並んでいる本を少しずつ読んでみると、ローマではウィーンなどに比べてアカデミズムとサイエンスに信頼を置いていて厳しい印象がある。こういう所も日本に近い。オカルト寄りのハンガリーとの違いである。
 まだまだ訪れたい所はあるが、三日ではとても回りきれないのでまたの機会に。ローマはこれからも無視できない都市であることを願う。

 ローマのとブダペストの西洋風の建物はつくりが同じだ。ローマのコレを模倣してブダペストのアレが作られたのかという発見が続く。ブダペストはローマのような街を作ろうとした時期があることがわかった。ローマはみんなの憧れだったみたいだ。日本も憧れたんだろうな。

ローマで何回も日本人を見た。実は日本人観光客を見ることすら何ヶ月ぶりだかわからない。ブダペストやウィーンと比べてローマに日本人観光客の多いこと!キラキラと小綺麗な日本人の皆さまを見かけると、そういえば日本人ってこんな感じの人が多かったなーと思い、何となくボロッとした格好でウロウロしている自分と比べ、ずいぶん長い間日本と離れた所にいたのだということを思った。

 ローマは日本と近い感じがする。本当に久しぶりに日本人を見た。どの辺りに日本人が増える境界があるのだろう。オーストリアの国境を越えたあたりで日本人がぐっと減るのかなー。

 コロッセオやパルテノン神殿など有名な観光地を訪れる。ものすごい数の観光客が集中している。もうちょっと人が集まっていない所で、見どころがあるはずだと思い、人混みをかわしながら街を散策。ヨーロッパの街歩きや公共交通機関の勝手はブダペストと大して変わらないので、慣れたもんである(あまり油断するといけないが...)。おいしいカルボナーラを食べて通りを歩いていると色々と面白い品物を見ることができた。

 ローマはさすがの観光地である。観光客を喜ばせるようにできていて、ちょっとやそっとでは新しいものが見つからないな(でも見つけたいな...)と思う。

 サヴォイア家のヴィラがあることを調べ、街の中心から少しだけ離れたヴィラにバスで向かう。サヴォイア家とはイタリア有数の名家である。ヘレンド陶器を評価した貴族のひとつでもある。

 ヴィラの敷地内には誰でも入れるようになっていて、信じられないくらいのどかな空間が広がっている。若者たちと若くない者たちのピクニック天国。クローバーのお花畑。おとぎ話のような森と草原と空。鴉。ここで遊んでいる人たちはサヴォイア家に縁のある人々なのだろうか。ふと気がつくと、周りには観光客が一人もいない。あれ?僕みたいな観光客が入っても良かったのだろうか、何かしきたりとかあったらどうしよう...と思ったが、思っただけでズンズン入ってゆく。おおきな枝垂れ柳に出会う。「日本ぽいな」と思い、また別のところには桜の木が咲き始めている。再び「日本ぽいな」と思う。さらに小道を進んでゆくと竹が植えられている。「日本だな〜」と思う。まだまだどんどん進んでゆくと、ぱかぱかと馬が走っている。おー。馬はやっぱりいいですね。

 観光気分で訪れる場所だったか微妙だけど、随分落ち着いた気分になった。資産のある人がこうやってパブリックに土地を提供するのは素敵なことなのではないでしょうか。
 
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