法の最も重要な役割の一つは市民の安全を守ることである----ハンガリーの貴族エリザベス・バートリの逸話が残した教訓はそのことではないのか。
法が市民の安全を守ることではなく守るふりをするようになったとき、差別が差別を生む最悪の循環を生まないように抵抗する力を受け入れる側の人間が失ってはならないと思うのだが(それは差別へ加担することである)、そのようなこの国の差別主義者の更生の道はまだまだ長く遠い道のりのようだ。
ときどき、この国の人は僕が他人だということを忘れているのではないかと思う。気に入らなくなったら僕はすぐにこの国を出ていくし、政治家たちが口を揃えていうような「ハンガリーへのノスタルジーと思い出」など僕にはかけらもない。
歓迎されているなら訪れるし、無礼があれば立ち去る。いたって当然の判断基準だと思うのだが。もう少し他者に対する想像力は働かせてみてはどうかと思う。