とうとう帰国。ハンガリー革命の記念日で街中に国旗がはためく中、首相演説の準備をしているステージを走って横切って空港に向かうシャトルバスに乗った。

 ハンガリーと日本はとても遠いという先入観があったが、実際にそれぞれの行き帰りを経験すると、そこまで言うほど遠くもなかったと思う。むしろ、日本に到着してから「改札口」というものがある阪急電車に乗るときはじめて、ブダペスト滞在の感覚で言えばかなり過激な資本主義の社会へ足を踏み入れるような気がした。

 ハンガリーには日本人がとても少なく、滞在中の初めの頃は遠いところに来た感がすごかった。ユークリッド幾何学的な距離という意味では、実際に二つの場所の間にはとても大きな距離がある。しかし、昨日はブダペスト、今日は大阪という移動が可能であることを考えると、たった一日で移動できる距離がそこまで遠いと言えるだろうか?パスポートと航空券は必要にせよ。

 ハンガリーで見つけたものの多くは、僕が知らなかっただけで実は日本にもあるということを知った。ヘレンドの陶器も日本にもファンがいて、百貨店で手に入ることがあるらしい。ハンガリーに来ることがなければ、おそらく僕はヘレンドの陶器を知る機会を得ることはなかっただろう。しかし、ハンガリーに足を踏み入れた以上、僕は必然的にヘレンドに出会い、魅了されることになっただろう。ハンガリー陶器のように、日本にいるときの視点では見えにくく、ハンガリーにいるときの視点では見えやすい物があった。それはまるで一方の方向にだけ電流が流れるダイオードに繋がった電気回路のようなものである。ある一方の方向の電流は流れやすいが、逆方向の電流は極めて流れにくいのである。

 今回の留学で多くを学んだが、本当を言うと「まだ、何か重要なものをいくつか見落としている」という感覚が強くある。例えば、ハンガリー語を僕はまだ全然理解できていない。辞書を引き引きハンガリー語の絵本を読んでいると、「ライオン」という意味の単語と「ロシア」という意味の単語は綴りが似ていることに気づいた。でも、ライオンとロシアがなんで似ているのだろう?わからない。このように、十分にハンガリー語を修得せずにハンガリーで過ごすと言うことは、暗号のキーを知らされずに暗号文を提示されているようなものだ。言語以外の情報から何が起こっているのか意味を推論することはできるが、はじめから暗号のキーを知っていればそれに越したことはないと思った。

 今後、またハンガリーと縁があるかもしれない。あるいは、もう二度とないのかもしれない。あるとしても、いつどのようにして関わる可能性があるのかということすら、今は全く予想がつかない。いずれにせよ、次の機会まで、暫しの別れ!

END

Twitterでアカデミー賞の動画が流れてきた。僕は「アカデミー賞」が一体なんなのかも知らなかったので、調べてみるとアメリカの盛大な授賞式だと言うことがわかった。トロフィーを渡すときに俳優のホイ・クアンを俳優のダウニー・Jrが無視したらしい。確かにひどいなーと思った。

そのことについてツイッターで「白人の中には差別心が本当にない人もいるが、それは少数派だ」と書き込んでいる日本の大学教員の方がいた。ロシアに一年滞在したらしい。でも、それは違う。認知が歪んでいる上に、このような主張は危険な思想を招きかねないと判断したので文章を書くことにした。

 現実には、差別する意図が本当にある人の方が少数派である。ヨーロッパの人々は、我々が認識しているよりも我々のことをよく見ている。ヨーロッパの人に攻撃されたのなら、それは差別ではなく、どっかの他の日本人に搾取され、嫌がらせを受けたことの復讐の標的にされていると思ったらいいと思う。僕は本気でそう思っている。そして、それは差別ではない。ハンガリーに滞在している間、ハンガリーの人に差別的な扱いを受けたか、と聞かれれば、正直なところ「日本人が僕に対してするよりは差別されなかった」と答えるだろう。自覚がないのかもしれないが、日本人はそれほどまでに観察力がなく、認知が歪んでいて、猜疑心が強く、無礼で、語彙が少ないので何を言っているのかもよくわからず、差別的である。話はその前提をちゃんと認識してからだ。

だから、白人至上主義は確かに大きな問題だが、日本人男性が呑気に白人を馬鹿にしている場合ではない。日本人の方がやべーから。

 そもそも、大体、差別的な白人なんてどうだっていいじゃん。

オックスフォード英語辞典(OED)には大体60万語の英単語が登録されている。英語話者がOEDに登録されているすべての単語を隅々まで記憶しているわけでは無いと思うけれど、英語がよくできる人は潜在的には60万語の英単語がわかるような気がする。一方で、海外留学に最低限必要な英語試験で求められる単語数は6000語くらい。残念ながら、6000語の語彙力と60万語の単語数の間には大きなギャップがあると考えざるを得ない。

日本の大学で、最も難しい入試に合格するために必要な単語数も6000語くらいだそうである。どうして日本人の英語のレキシコン(語彙力)はこんなにも貧しいのか?うまくいかない日本社会や、臭いものに蓋をして放置している問題が語彙の幅の狭さに現れているのではないだろうか。

どう考えても、6000語の語彙力は英語を理解するために不十分な語彙数だ。英語圏で生まれた成人の語彙数は2~3万語らしいが、それにしたってOEDに登録されている単語には少なく見積もってまだ残り57万語ある。それに加えて、SNSなどで日々発明されているような、OEDに登録されていない新しい単語もあるので、実際にはもっともっとたくさんある。

受験用に覚えた英単語だけしか使えないと、端的に「頭が悪くなる」という感じがする。「前もって」どうこうと言いたいときにいつまで経っても日本の単語帳に載っているリストから単語を引っ張ってきて、foregoing, before that~, previously~, だなんだと言っていると、脳みそと息がつまるような感じがする。Beforeなんとかという表現がダメなのではなく、"prescient"のように(*1)幅の広い表現があることを知っていたら、もっと豊かに表現できるし、息のしやすい英語になると思う。例えばの話。

A prescient warning. (OEDより)

有名な日本の作家のハルキ・ムラカミの英語スピーチでさえ「英語の語彙の幅」という一点の、ただそれだけのみに関して言ってしまうとそれほど豊かではないと考えざるを得ない。他の国の人と比べても日本人は皆、英語の語彙が際立って少ない。どうして日本人の語彙はこんなに貧しいのだろう。どうすれば語彙が増えるのだろう。語彙が少ないという状況は、どうすれば打開できるのだろう。

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(*1)prescientという単語を紹介している素敵なポッドキャスト→"Nerd Word", Revision Sound, https://podcasts.apple.com/jp/podcast/nerd-word/id1641406770?i=1000598315775

3月4日 (月) タイムズ

 格安航空に乗ってイギリスへ。スタンステッド空港からリヴァプール・ストリート駅に入る。日本から飛行機に乗るとヒースローから入るが、ハンガリーからだとスタンステッドから入る。駅を降りるとすごく古いものもすごく新しいものも街には乱立している。イギリスに着いた日は疲れていてすぐに寝てしまった。
 
 日曜日に「イートン校の生活ミュージアム」を見に行く。イートン校とは、イギリスで一番の中等教育機関と言われる男子校である。ロンドンから西に向かってウィンザーへ。車や鉄道なら、高いが、ロンドンから簡単に行ける。しかし、イートン~ウィンザーは丘や平野に囲まれていて徒歩では外から出入りがしにくい立地である。「男子校カルチャー」の中では酷いことが起こりやすい、ということは皆知っているので、皆出来るだけ気を配っていると思う。イートンの庭で、リスがおやつに赤いバラを食べているところを見かけた。

 土曜日にロンドン大学の近くでカフェを見つけてご飯を食べる。昼から博物館(展覧会?)に行き、展示物の意味がわかるまでゆっくり考えながら見ているとあっという間に夕方になる。本屋で本を選んでいると、まだまだ時間があると思っていたのに瞬く間に夜になって店が閉まる。ロンドンの新聞はタイムズという名前だし、時計や時計職人にこだわりがあるなと思っていたけど、なるほど、ロンドンに居ると時間をすっかり気にしなくなってしまうから「タイムズ」というのだ。勘だけど、絶対そうだろうと思う。

 ある博物館を訪れ、ローマをはじめとするヨーロッパについてとても役に立ちそうな知識などをたくさん得た。ヨーロッパのトレンドをあまり詳しく知らない僕にとって博物館はすごくありがたい。
 博物館ではゴヤの絵画を見ることができた。ヨーロッパでは今、主流の人々が「ゴヤの世界」化していると僕は思う。守る想定のモラルを守らない者がいるようだ。イタリアも大変なのである。
 地中海を見に行くと波が荒れていて風が強かった。魚市場を興味深く見た後、魚料理を食べられないかと思って入ったお店はレストランではなく食材を売るお店だった。まあ、いいかと思って「ラビオリ」なるパスタの一種を買い、宿に戻って茹でて塩を振ると涙が出るほどうまい!しかもレストランで食べると14ユーロくらいするのに、自分で茹でると2ユーロ弱。
 宿をチェックアウトして帰路の鉄道に乗るまで街を歩いて時間を潰そうと思ったらザーザー雨が降り始める。海が荒れていたのがお陸まで来た。疲れも溜まっていてかなりフラフラになりながら本屋に逃げ込む。並んでいる本を少しずつ読んでみると、ローマではウィーンなどに比べてアカデミズムとサイエンスに信頼を置いていて厳しい印象がある。こういう所も日本に近い。オカルト寄りのハンガリーとの違いである。
 まだまだ訪れたい所はあるが、三日ではとても回りきれないのでまたの機会に。ローマはこれからも無視できない都市であることを願う。

 ローマのとブダペストの西洋風の建物はつくりが同じだ。ローマのコレを模倣してブダペストのアレが作られたのかという発見が続く。ブダペストはローマのような街を作ろうとした時期があることがわかった。ローマはみんなの憧れだったみたいだ。日本も憧れたんだろうな。

ローマで何回も日本人を見た。実は日本人観光客を見ることすら何ヶ月ぶりだかわからない。ブダペストやウィーンと比べてローマに日本人観光客の多いこと!キラキラと小綺麗な日本人の皆さまを見かけると、そういえば日本人ってこんな感じの人が多かったなーと思い、何となくボロッとした格好でウロウロしている自分と比べ、ずいぶん長い間日本と離れた所にいたのだということを思った。

 ローマは日本と近い感じがする。本当に久しぶりに日本人を見た。どの辺りに日本人が増える境界があるのだろう。オーストリアの国境を越えたあたりで日本人がぐっと減るのかなー。

 コロッセオやパルテノン神殿など有名な観光地を訪れる。ものすごい数の観光客が集中している。もうちょっと人が集まっていない所で、見どころがあるはずだと思い、人混みをかわしながら街を散策。ヨーロッパの街歩きや公共交通機関の勝手はブダペストと大して変わらないので、慣れたもんである(あまり油断するといけないが...)。おいしいカルボナーラを食べて通りを歩いていると色々と面白い品物を見ることができた。

 ローマはさすがの観光地である。観光客を喜ばせるようにできていて、ちょっとやそっとでは新しいものが見つからないな(でも見つけたいな...)と思う。

 サヴォイア家のヴィラがあることを調べ、街の中心から少しだけ離れたヴィラにバスで向かう。サヴォイア家とはイタリア有数の名家である。ヘレンド陶器を評価した貴族のひとつでもある。

 ヴィラの敷地内には誰でも入れるようになっていて、信じられないくらいのどかな空間が広がっている。若者たちと若くない者たちのピクニック天国。クローバーのお花畑。おとぎ話のような森と草原と空。鴉。ここで遊んでいる人たちはサヴォイア家に縁のある人々なのだろうか。ふと気がつくと、周りには観光客が一人もいない。あれ?僕みたいな観光客が入っても良かったのだろうか、何かしきたりとかあったらどうしよう...と思ったが、思っただけでズンズン入ってゆく。おおきな枝垂れ柳に出会う。「日本ぽいな」と思い、また別のところには桜の木が咲き始めている。再び「日本ぽいな」と思う。さらに小道を進んでゆくと竹が植えられている。「日本だな〜」と思う。まだまだどんどん進んでゆくと、ぱかぱかと馬が走っている。おー。馬はやっぱりいいですね。

 観光気分で訪れる場所だったか微妙だけど、随分落ち着いた気分になった。資産のある人がこうやってパブリックに土地を提供するのは素敵なことなのではないでしょうか。
 
 宿へ戻る。

 ブダペストは長らく神聖ローマ帝国領のパンノニアと呼ばれる場所にあった。帝国の本拠地であるローマに出かけようと思う。

 ブダペストからウィーンを経由して、ローマに向かう鉄道に乗る。ブダペストからウィーンまで2時間、ウィーンからベニスまで8時間、ベニスからローマまで8時間ののんびり鉄道旅行。ウィーンからイタリアに向かって国境を越えるまで平野を行くのかと思いきや、かなりの割合で山や森の中を走る。雪の残った山の峰や牛や馬を眺めながら、夜中にベニスに到着。乗り換えに2時間ほどあるので、夜中のベニスを散策。海のにおいがして嬉しい。ハンガリーは内陸なので、海の気が全くない。ドナウ川は流れているから水の気はあるけれど、海と川はにおいが違う。海の気に飢えていたようで、藻のにおいが嬉しかった。

 ベニスは今や観光都市になっているので、夜中でも煌々と照明がついている。きれいな街明かりを見るのもいいけれど、空を見上げるの月と星が街を装飾していることに気づく。今のように観光都市になる前、ベニスを訪れる人たちは海のにおいと波の音を聴きながら、夜空の星に照らされる中世の建物を眺めてお酒と食事を楽しんだに違いない、と妄想した。だから、個人的には街の明かりの量をもう少し減らして欲しいと思いましたね。

 ハンガリーの人口は997万人。一方で、あるヨーロッパの新聞記事によると(*1)、ハンガリーを離れて生きている人の人数は70万人。これは全体の約7パーセントである(この数は近隣諸国に住むハンガリー系の200万人を含まない)。この驚異的な割合を日本に適用すると、約840万人の日本人が国外に移住して働き、国外で生活しているという計算になる。凄まじい流出だ。政府は国外のハンガリーの人々が「ホーム」に帰ってくるようなキャンペーンをしているが、ほとんどの人は故郷へ帰るつもりはない。政治的にこんなキャンペーンはジョークに過ぎないということである。同記事は流出の原因は政治が反リベラリズムに向かっているせいだと言う。僕もそうだと思う。「岡目八目」のように、国を離れた人の方が物事をよく見えているかもしれない。

 以下にここ数日間で調べたことやあった出来事を書く。新しく知ったことが多過ぎて、まとまったストーリーにはできなかった。

 16〜17世紀のハンガリーの貴族で「血の伯爵夫人」と呼ばれるエリザベス・バートリという悪名高い人物がいる。なんでも、城の召使いや下級貴族の女を600人以上殺し、処女の血に身を浸すことによって若さを保とうとしたそうだ(*2)。バートリについては様々な残虐なエピソードがあり、興味深いオカルト話として伝承されてきた。

 しかし、バートリについての逸話が本当かどうかの真偽は確かではないということが、アメリカなどの近年の研究で指摘されている(*3)。当時の貴族の家庭では親が子供を大事にしなかったせいでバートリのように残虐な人間が生まれたということがまことしやかに語られていたが、事実は全く反対で、当時の貴族たちは子供を甘やかせるだけ甘やかしていた。一族が確実に長く生き延びるように子供を大切にする慣習があったようだ。権力を持つ女性として恐れられたので周りの貴族が殺人をでっち上げたと主張する者もいるが歴史的に言ってこれも正しくない。権力を持つ女性は当時のヨーロッパ社会で珍しくなかった。600人は多く見積もりすぎと言われているが、針やアイアンメイデンなどの信じられないほど恐ろしい拷問器具を用いてバートリは実際に何人かの若い女性を殺害した可能性は極めて高い。なぜバートリは世にも恐ろしいことをしたのか、伝説はどの程度真実なのか、それは今でも謎のままだ。

 バートリにまつわるオカルト話は面白い。面白いとか言っていると人格を疑われそうだが。
 
 17世紀、ハンガリーはハプスブルク家とオスマン帝国によって分割され、トランシルバニアを統治するバートリ一族にハンガリーへ平和をもたらすことが期待されていた。バートリ家はどうしてドラゴンの紋章を掲げたのだろう。

 カタリン・ノヴァーク元大統領の辞任を受けて、2月16日、英雄広場でオルバン率いるフィデス政党に抗議するデモがある。英雄広場を埋め尽くすほどの大規模なデモだったことがわかる写真を見た。この日は体調を崩してしまって現場に行けなかったのだが、デモに参加した人々のSNSからも熱気が伝わってきた。後日英雄広場を訪れるとダンボールで作ったカードがまだ残っていた。少し離れた場所のロシア大使館前に死亡したアレクセイ・ナワリヌイを追悼する場が設けられており、花束とキャンドルが備えられていた。火の消えたキャンドルに僕も一つ火を灯した。これは革命の火だと言うことを感じた手が震えた。

*参考文献

*1)『若い女性600人を殺害「血の伯爵夫人」バートリ・エルジェーベト』, NATIONAL GEOGRAPHIC, https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/22/102500492/

*2) "Hungary Is Spending A Fortune To Entice Its Young People Back Home, But Many Remain Unconvinced", Lili Rutai, https://www.rferl.org/a/hungary-brain-drain-politics-jobs/32753641.html

*3) "No Blood in the Water: the Legal and Gender Conspiracies against Countess Elizabeth Bathory in Historical Context", Rachael Leigh Bledsaw, https://ir.library.illinoisstate.edu/cgi/viewcontent.cgi?article=1134&context=etd

2/6(火) お金の話

 いつ何時お茶を点てる機会に恵まれるかわからないので、茶道を稽古している者の嗜みとして野点セット(茶室だけではなく屋外でお茶を点てるための道具セット)を一応スーツケースに忍ばせてハンガリーまでやってきた。ところが中途半端なことに、肝心の「棗(なつめ)」という抹茶を入れておく容器を持ってくるのを忘れてしまった。しかし、せっかくハンガリーに来たのだから日本の道具だけでなくハンガリーで棗に代用できるもの(見立て)を探してそれを使うことによりミックス道具セットを作ってみよう、と思いついたのが去年の夏。慣れない環境にしばらく右往左往していて今まで道具を探す余裕があまりなかったのだが、ヨーロッパで新しいセメスターが始まるこの時期には地元のあらゆるお店が商品を新しく入荷させ、にわかに街がどよどよと活気づき始めていた。今こそ道具を探す良い機会ではないかと思い、一軒のアンティークショップに立ち入ったことがハンガリーの有名ブランド「ヘランド」の陶器との出会いである。

 ハンガリーでは刺繍が有名だということはSNSなどで目にしていたけれど、陶磁器について僕は全く無知だった。ところがハンガリーは陶磁器で世界的に有名なブランドが三つもある。「ヘレンド」「ジョルナイ」「ホルハザ」である(お店の人がこの三つが有名なのだと高らかに唱えてくれた)。ハンガリーには閉鎖的な文化があり、それは長らくウクライナ支援に反対の立場をとっていたことにも象徴されているだろう。ところがハンガリーにおける陶磁器は今まで僕が出会った中で最も「世界的にオープンかつ常識的」という部類のもののように思った。

 ハンガリーの他に中国、香港、アラビア諸国の道具が並べられていたアンティークショップで一際輝くオーラを放っていたのがハンガリーの陶磁器だった。批判を重ねるようだが、ハンガリーの造形物に対しては僕は基本的にいつも大きな翳りがあると感じずにはいられない。裕福そうな家や街の教会の建築さえどこかバランスの崩れや神経過敏な追い込まれ方を見て取ることができた。ところが陶磁器には病的な暗さがそれほどなかった。これはハンガリーにおいて例外的なことと考えられる。

 ところで、ヘレンドの陶器を買う時の、お店のオーナーの人の値段の決め方が面白かった。客の僕に「どれくらいだと思う?」と聞いて決めようとするのだ。骨董品の値段を決めることはおそらく難しいことなのだ。本を売るときと同じように、内容の価値に照らし合わせて物の値段を決めるわけにはいかない。人生を変えるような本だからといって「人生を変えるような本なので一生かけて支払わないような値段にしないといけないからとりあえず500万円」というような値段の付け方はしない。どれだけすごい内容の本であっても古本屋ならポテトチップスと変わらない価格帯で本は買える。骨董品も似たようなもので実用性に照らした値段にするわけにもいかないだろうし、僕はたいして詳しくないけど、おそらく芸術的価値みたいなものに照らして値段をつけるのだろうけれども、そもそも芸術的価値の客観的評価など簡単にできるわけがない。

 僕が購入した陶器に僕が値段をつけるなら「15万円はくだらない」とするのだけれど、これは相場を知らない僕が陶器に感動したときの気持ちの問題としてそれくらいの値段かと思ったというだけの話であって、そもそも食器の相場は世界で最も高価なカテゴリーであっても1万円〜2万円くらいのようなので15万円なんていう値段は絶対につかない。ちなみに25ユーロで購入した。

 アンティークショップも商売でやっているわけなので、一応できるだけ高い値段でたくさん買ってもらおうと思っているはずではある。ハンガリーの通貨フォリント、EUの通貨ユーロ、僕の馴染みある日本円の換算は単純計算が難しい。日用品を買うときはフォリントが日本円の半分よりちょっと安いくらい、ユーロが3/2倍してゼロを二つつけるくらい、というかなりアバウトな計算をしていたのだが、「10000フォリント」と言わずに「25ユーロ」と言われるとユーロの方がお手軽な気がしてくる。でも実際は同じくらいの値段である。しかも初めに「30ユーロはどう?」と提案があって「学生にはちょい高いっすかねえ」と応え、「25ユーロは?」「それなら良いかも」というやり取りの結果の25ユーロだったため安くまけてもらったくらいの気でいたが後で考えるとそう安い買い物でもなかった。でも初めから僕は「これはいくらでも出す価値ある(出せるかどうかは別だが)」と思っていたので全然構わないのである。

 ところでヘレンドというのは日本でも有名なブランドらしく、古くは1826年にハンガリー西部に位置するヘレンド村でユダヤ系経営者によって始まった陶器でありハンガリーの帝室・王室御用達でありロスチャイルド家もヴィクトリア女王もハプスブルク家もウィリアム王子もキャサリン王妃も愛用したばかりか、それだけでなく1870年ごろ倒産の危機に直面するや贋造によって経営を建て直した歴史を隠そうともせず公開しているという、どの話も嘘っぽいけど全部本当の、なんだかすごく面白いブランドなのである。

 もう一つの有名ブランド「ジョルナイ」はペーチというハンガリー南部の都市に本拠を置いているらしい。「ホルハザ」はよくわからない。どのブランドも手描きで装飾の絵を描いているらしい。また目にする機会があれば調べてみたい。

 いきなりありえないレベルの貴重な物に遭遇してすっかり驚いてしまった。

1/26(金) ウィーンへ

 19世紀にハンガリー帝国を解放へと導いた皇妃エリザベートは当時ヨーロッパで最も美しい女性と讃えられたにも関わらず、絶え間ない暴力と侵略がエリザベートに向けられたせいで決してその頭脳に美しいものを理解する余裕を与えなかった。ウィーンへ小旅行に出かけてエリザベートの生涯を展示した博物館を見てまわってそう思った。
 
 博物館には皇妃が使った小物類や家具なども展示されており、皇妃が使ったとされる東洋風の扇子を見ることができた。扇には綺麗な桜の花が描かれていた。どうして桜の花を選んで描いたのだろうか。

 開花時期を過ぎた桜の木の下を歩いたことのある者は誰でも桜の木が醜い毛虫に覆われることを知っている。王家の者に贈るのであればもっと特別な花を選んでも良かったのではないか。エリザベートは桜の花に満足しただろうか?いや、エリザベートは桜の花の醜さをどこか感じて見通していながらもその扇を愛し、その扇で構えをとったのである。

 日本で生まれ育った僕はこのことについてどう考えたらいいのだろう。