ブダペスト大学ではいい学びができた。しかし自主退学を申請するメールを送った。
たとえ100人のうち99人が差別をしなくても、たった1人でも差別をする人がいるのなら、その集団にはとてもいられない。たったそれだけのことである。
僕は99人のハンガリー人は差別主義者ではないと信じている。ハンガリーの言語や芸術や学問の中に「差別主義者のいない世界」を見ることがあるからだ。
でも、ブダペスト大学は自主退学する。なぜなら、差別主義者たちの差別の相手をして来たせいで、帰国する前から帰国した後にかけてもう僕は二ヶ月間くらいまともに頭脳も身体も働かなくて学問にも手がつかない状態だからだ。それに、これ以上大学に僕の時間を捧げれば、僕も差別主義者の片棒を担がされているような気がして、それに加担したくない。
ド直球の差別を先生・スタッフ・クラスメートから毎日受けながら学校に通うなんてことはできない。
今後、「またイイダにハンガリーに来てほしい。イイダと友達になりたい」と思うハンガリー人が奇跡のように存在することを願う。
どちらかというと今は、このボロボロになった僕自身の精神状態をどうにかすることの方が優先である。
もしビザが無効ということになれば、シェンゲン協定によって滞在できるパスポートの残り日数次第ではオーバーステイによる入管法違反になる可能性あるわけで、これはかなり恐ろしい事態である。ということにようやく思い当たり、即帰国することにした。
帰りの飛行機のチケットをとって空港に向かっているとメールが届き、読むとビザが有効になったというお知らせ。ああ、もう何が何だかわからない。とにかく頭が働かない。これがいい知らせなのか悪い知らせなのかもわからない。
結局、試験をまともに受けることはできなかった。くそー。
色々学ぶことは多かったが、後味のあまりよくない形でセメスターを終えることになった。
友達っぽいハンガリー人たちとの突然の別れ。将来どこかで会うことがあったらどうぞ仲良くしてください。それでは、また。搭乗ゲートがそろそろ開きそうなので。
不服申し立て却下の郵便を郵便局で受け取る。
えー。さて。
とりあえず、僕に残された選択肢は移民局で新しいビザを申請するか、即帰国するかということなのでしょうか。
頭が働かなくなってきた。大学の留学生関係を取り扱う部署は、「私たちはあなたに今後必要な情報を与えないかもしれない」ということを言ってきている。
「かもしれない」ってどういうことですか。必要な情報を与えるのがあなたらの仕事では。
あと何日パスポートで滞在できるのかも不明。
とりあえず明日移民局に行くか...
これただの脅しですよね。そうとしか思えないのですが...
9月から12月にかけて大変真面目にリーディング・リストのWuthering Heights, Moll Flanders, Frankensteinなどの小説、戯曲、詩を英語の原文で読み、この読書にかけた時間の総量はなかなかすごい量だったので、もう口頭試験などお茶の子さいさいよ。そう思って気楽に口頭試験に臨んだところ、質問に一つも答えられずあえなく文学史の科目のうち一つの試験に落第することとなった(再試のチャンスあり)。そんなー。同じ轍を踏んでいる人が他にもいそうだ。
作品の登場人物とプロットを説明しなさいと聞かれたのだが、一つも覚えていなかったのである。でも、それは別に英語が難しくてWuthering Heightsなどが読めていなかったというわけでもなく、ちゃんと話の筋は追えていたし、「面白いな〜」と思って楽しく読んでいたのだが、後になって「説明しなさい」と試験されると、自分でも驚くべきことに、なんにも思い出せなかったのだった。
「本当に読んだの?読んでないんでしょ?嘘つくんじゃないよ」という疑いの目を向けられ。いやあ。読んだんですけど、信じてもらえませんでしょうか。
実感として、『忍たま乱太郎』の「猪名寺乱太郎の両親は誰ですか?」という質問が試験で、「猪名寺...?誰...」とか考えていると「主人公の名前も覚えていないなんて何も読んでないんでしょうね。次は試験準備してから来なさい」と言って不可になった形である。『忍たま乱太郎』の乱太郎くんの苗字は猪名寺らしい(知らねえよ)。
主人公の名前なんか知らなくても『忍たま乱太郎』を「面白いな〜」と思って読むことは全然できるので、まさかそこが「文学作品への理解度」の評価基準になるとは思いもよらぬことである。
しかしまさか大学の教授が本気で、登場人物やプロットを説明したくらいで「どれだけ読めているか」を確かめられると思っているはずもあるまい。まさかね。そうだとしたら文学作品は相当舐められたものである。
でも、一冊三百ページの小説のプロットを全部暗記していたら逆に理解度は下がるのではないでしょうか。また、登場人物の性質について原文から読み取るのってすごく難しいと思うのですが。
ただ単に僕が嫌いなだけで恣意的に低く評価しているのでは、というきつめの違和感があるが、とはいえ気楽にやろうと思う。こちらはできる限りのことをやってるんだから(本当に)あとは僕の仕事ではない。
あと、試験とは(あまり)関係ないのですが、フェイスブックのマーケットからアクセスできるブダペストのアパート掲示板に、日本人のポルノが並列して掲載されていたのをFacebookに報告しても削除されませんでした。賃貸情報と日本人のポルノが合わせて載っているのが黙認されているというのはどう考えても危険だと思うのでお気をつけください。
国立で、国内では1番の大学という自負のある組織的に「かわいい仲間」とは、やはり非有色人種で、家族神話を大切にするような旧いタイプで、ことの理非が通らなくてもある程度蓋をする人間像なのではないか、と「中途半端に頭のいい人間」の僕はそう思う。
有色人種で、家族神話や結婚神話を全然信じていなくて、気持ちの悪いものが混じっていると"No thank you"です...と一歩引くような学生は、最初は物珍しがられるが、次第に「かわいくない仲間」となり、割りを食う。
ボタンのかけ違いは「『上司』に気に入られないと死ぬ」という強迫観念を心に秘めているかどうかの違いだと思う。『上司』とは現実には文字通りの上司であったり、先生であったり、先輩であったりするわけだが、問題は『上司』が気に入らない『部下』を「殺す」という行動である。
例えばハンガリーという国に住み着いたとき、住みついたのが早い順番に大きい権力を分配していき、後から来た人たちのうち目障りなものたちを「殺していく」というシステムを「いいこと」だと思っているかどうかの違いである。
僕はそれを全然いいことだと思わない。
その『上司』の脅しこそが人権侵害であり、『上司』がそんな酷いことをしなければいいのだ。僕は本当にハンガリーの話をしているのだろうか。これはアメリカの話の気がしてきた。アメリカによる介入以前はもしかすると今よりもアジア人含む移民に寛容な社会がハンガリーにも存在したのかもしれないという気がしないでもない。どちらにしろ上の立場の人間が下の人間をいじめちゃダメだろう。その脅しが自由な気風と政治の流動性を奪う。
とにかく、「えらい人はひどいことができるのだ」という考えについては僕は心底みっともないと思うからやめてほしい。
暖房もシャワーもない環境なんて酷すぎる環境だが、だからといって寒さを凌ぐことができないわけではない。お湯が必要なのであればキッチンで熱湯を作って水と混ぜれば適温のお湯ができる。
部屋の電気を付けておけば室温は少し上がる。布団を重ねれば体温は保存できる。
電気と水が止まれば流石にもう打つ手はないけれど、まだ電気と水はあるし。こういう積み重ねで病気をしないくらいの環境を作ることができないわけではないと思う。しかし環境が劣悪だということに変わりはない。さすがにこの環境の長期化は無理だ。
いいアパートに住むために高いお金を払ったり、怪しげなパートナーを見つけて二人以上で住んだりするのがいいかというと(そういう方法を取る人がいる)、それは僕は危険だと思う。そもそもパートナーがいないとまともに生活できない環境についてちゃんと警戒すべきだ。その環境は自立を否定している可能性がある。それよりは自分に強いられている劣悪さを直視し、その程度と性質を分析して、お金にも友達にも頼らないで生き延びる方法を自分で考えるのが確実だと思う。頼れる人がいたらいるに越したことはないけれど。
問題は暖房のあるなしだけではなく、移民に対して暖房すら与えないモラルの方にあるのだから、表面的な解決だけを追っても仕方がない。呆れるような攻撃は寒さだけではなく、バスが平気でアジア人を乗車拒否するとかそういうところ(こういうことをされるせいで予定が邪魔される。)にも現れているのだから、対策は慎重に考えないといけない。
人間にとって本当に必要なものはそう簡単に他人が奪うことはできない。電灯と毛布があれば本は読める。パソコンがあれば映画が見られる。紙と鉛筆があれば手紙が書ける。
中途半端な貧乏は惨めだが、貧乏を極めてしまえば知恵の宝庫である。
悪い記憶は消すことができる。それが記憶のいいところだ。
いいところだけ頭の中に残しておこう。例えばあるシェイクスピアの詩についての講義で登場したある美しい話(美しすぎてここに文字化することも憚られる)のこと。Conceitの本当の使い方についての話は、崩れ落ちるくらい面白くてかっこよかった。あの話が聞けただけでもブダペスト大学に来てよかったのではないか?
悪い記憶はどんどん消してしまおう。
いい記憶だけ残したらいい。
動物性の食品を食べないと公言している人間に対して、その人間の口に無理やり肉を押し込むということはどういうことなのだろう。
一般的にヴィーガンという生き方がいいか悪いとかいうことについて僕は話していない。それはもっと複雑な問題だ。まあ本音で言えば、相手が動物性の食物を食べるかどうかについて一度聞いておく程度の想像力は持っていてくれ、と思う。
しかし今考えることが必要なのはそれではなくて、ヴィーガンを公言している人に対して、その人がヴィーガンだと知っている人が、その人の口に無理やり肉を押し込むとはどういうことなのか。たった一つのその論題についてのみ考えたい。
12月22日に僕は無理やり肉を食わされた。それまで約一年間動物性のものは口にしていなかった。
後で、もしかしたらその人は僕がヴィーガンだと知らなかったのかもしれないという万一の可能性に賭けて「あれはやめて欲しかった」と伝えたら、「その場で拒否しなかったあなたが悪い」といきなり責められるだけだった。
しかし、僕としては、言わなくても気がついて欲しかったのだ。僕が肉を食べることについて一度もはっきりyesと言わなかったことに、気がついて欲しかった。ずっと嫌そうな顔をしていることに気づいて欲しかった。
肉を食べたくなかった。そして、相手には間違いを認めて欲しかった。
機内食でもナッツとフルーツしか食べず、ブダペストでは野菜と穀物を中心に料理した。卵を含む麺類は使わず、白砂糖を使った調味料も使わないようにした。小麦でできたパンを食べ、ジャガイモで炭水化物を摂取した。そうして料理していると人体は意外に肉も卵も牛乳も必要としていないことがわかり、動物性の食物がなかったらなかったでどうにかなるんだな、と気づくことが日々の楽しみになっていた。
だから、その楽しみを意図的に邪魔にされたことに対して真剣に腹が立った。
少なくとも、「noと言わなかったあなたが悪い」という言い分は、ただ単に尊厳を踏み躙るだけのレイプだった。レイプの肯定。食事を出したのはハンガリーの大学講師だ。僕に罪悪感だけを強いたのはその子供で、かつて僕が友達だと思おうとした人だ。どうしてyes means yesが理解できないハンガリーのみっともないレイプカルチャーを開陳せずにはいられないのだろう?
現在、外気温は0度を下回っているが、通例の如く暖房設備が停止する。特に珍しいことではない。
暖房なし、シャワーなしで年を越してくださいという脅迫である。電気と水はいつまで持つんでしょうね。
修理を呼んでも修理屋は絶対に直さない。インフラを使った脅迫はブダペストで黙認されている。
まあ僕はあと数日すればこんな場所には二度ときませんから、もういいでしょうか。
お前には水もやらない、ガスもやらない、食事もやらない、人間としての必要なものは何もやらない。
しかしながら、「人を呪わば穴二つ」という諺がありますね。無抵抗の人間にこれだけの無法行為を繰り返していて、僕は無事で済むとはどうも思いません。
まあ僕の知ったことではないのですが。
戦争などのやむをえない事情で移民となった人ではなく、学問、仕事、芸術活動などを目的に移民として国外に滞在する者はただ普通に暮らしていればいいというものではないのではないかと思えてきた。つまり自律性が必要なのではないか。
というのも、「普通に暮らしている移民」は実にたくさんおり、留学生もその一部で、彼らを敵に回すようなのだが、実にみっともないからである。お金にものを言わせてイベントに参加し、国境をこえて旅行したとしても、どうもみっともない。ちっとも楽しそうに見えない。どうしてみっともないのかなあと考えたところ、彼らが「普通に過ごしている」からだと思った。
「普通に過ごす」のどこがいけないのだろう。いや、どこもいけないわけではないのだが、なんとなくカッコ悪いと言いますか、だらしがないと言いますか、つまり「普通に過ごしている移民」は「普通に過ごしている現地の人」しか視野に入らないところがなんだか気持ちが悪いと言いましょうか。
現地の人の大半は「普通に過ごしている人」なのかもしれませんが、見えにくいところには困窮している人がおり、性・身体障害・年齢などの属性によって平等な職業機会を与えられない人がおり、そこまで極端な例でなくても、尊厳を踏み躙られる人がおり、歪んだ社会に幸せを踏み躙られた人があり、望まぬ人間関係を強いられる人がおり、実にさまざまな人がさまざまな事情で苦しんでいるにも関わらず、そんな人たちをみんな無視して「普通に過ごす」というのはどういう了見なのだろう、という考えが浮かぶ。
だからモラルの高さ。モラルの高さは必須だと思う。せめて「モラルが高いふり」をするだけでも、必要だと思う。モラルの低い人間に移民は務まらぬ。そこらじゅうにモラルの低い移民はいるし、モラルの低い現地の人々もたくさんいるが、この人たちは後でそのツケをしっかり払うのにまだ気がついていないだけである。「普通に過ごす」ができない人たちの尊厳を踏みじるような、「移民が諸悪の根源だ」というレイシストの言い分にわざわざ塩を送るような、そんなことに僕は絶対加担したくない。
記念すべき(?)留学一年目の年越しを前にして、そんなことを考えた。