必修の言語学を勉強する気がさっぱり起こらず、ゴロゴロしながら、内田せんせいの『寝ながら学べる構造主義』を読む。土曜の夜に読み始めて日曜の昼に読み終わる。本当に寝ながら学んでしまった。なるほど、今僕に与えられている言語分析の手法は構造主義の手法なのだなあ。『寝な構』は中学生の時に読んだし、なんなら高校の教科書に載ってたし、言語学における構造主義的手法は「割と聞いたことある知ってる話」のはずだと思っていたけれど、今とっている講義とうまく結び付かなかったので、やっぱりあまりわかってなかったみたい。でも、再読して繋がりが見えてきた。深く読むことは大事。学生の助けになる副読本をありがとうございます先生。

 そうはいっても繋がりがわかったからといって言語学を勉強する気がバリバリ起こってきたかというと必ずしもそうとは言えない。なぜかというと、有名な例としてたとえば日本語では/r/と/l/の区別をしないわけだが、ハンガリーの教育プログラム的には当然のことながら/r/と/l/の音素を区別することに母語で慣れ親しんでいると言う前提で、無意識のうちにそう言う学生を想定した講義がぐんぐん進んでいくため、なんだかぽつねんとした気分になるからだ。日本語にそんなんないもん。大学に行ってまでして(しかも国境を超えてまでして)そんな機械的な作業をするのかー?と思ってしまうと言うのもある。「日本語では/r/と/l/の区別はしないんだよね」と言う限定的な補助コメントがつくことはあるけれど、より根本的な論題として、日本語にはない言語学的な差異化、日本語にもあるけど微妙に定義が違う差異化、注目するところ・重要だと思うところが違う差異化などがどんどん出てきて「ここ試験に出るから覚えてね」と言う感じで授業はどんどん進む。分析手法を身につけることはきっと将来的に有用なのだろうと言う予感はあるものの、深いところまで手が届かないもどかしさのようなものを感じ、やはりやる気が起きず勉強机を離れてゴロゴロしてしまう。モチベーションが。モチベーションが起こりにくいのだ。

 こうやって日本とは慣習の違う異国のプラグラムに沿って勉強することは海外留学の醍醐味である。アウェーな気分も全然悪くない。問題は、どうやって浅い理解にとどまらず、深く、多面的な知性を維持するのかという点にある。難しいよー。そんな議論に乗ってくれる学友求ム。

「ヨーロッパにおけるアジアのイメージ」が明らかにおかしい。その違和感が、ある閾値を超え始めている。おそらく日本人は全員感じていることであり、未だに改善されていないことが信じられないような思いで、感覚が麻痺しかけてしまうが、未だに中華人民共和国のことを「Chine(シナ)」と呼んでいることはかなり失礼だし、そのうえ"China"に性的な意味を含ませていると知ったときはただただ気持ち悪いと思うし、「Japan」だって正直言って意味不明の呼称だ。西洋人は寿司屋やラーメンを食べたがるのに、しばしば箸を嫌うのもよくわからない。俺らパスタ食べるときは箸じゃなくてフォーク使っているけど、あまりにも律儀なのかなあ。西洋の読み物をひらけば意味不明の瞑想や理想郷の場所としてアジアが描かれているが、ただひたすら異常にしか見えない。そこには本来ヨーロッパの文化にはあるはずの、普遍的な論理が意図的に捨てられているので、そこが異常に見える。
 
ヨーロッパにおけるアジアに対する「明らかに異常な妄想」について、はじめは笑い事で済むことだから放っておけばいいかなと思っていたが、次第に笑い事ではなく、これはそのまま差別に直結するシリアスな歪んだ認知でもあると思われるようになった。ヨーロッパは今までアジアを先入観抜きで認知することができなかったようだ。

 ヨーロッパの人は「藁人形論法(議論をする中で相手の主張を歪めて引用し、本来の趣旨とは異なる主張に捻じ曲げて反論する論法)」をアジアの認知に適用して、意図的に認知を歪めてきたように見える。今まで、ヨーロッパにとって、長らく、アジアは潰しやすくて体のいい「藁人形」だったのだ。

 ところが、いくらヨーロッパがアジアを「藁人形」だと思い込もうとしたところで、事実としてアジアは藁人形ではないので、必然的に無理が生じる。英語がいくら中国をシナと呼んだところで、中国はシナではないし、日本は黄金の国ジ・パングでもなんでもない。アジアの人々はそんな妄想とまったく違うところで生きている。当のヨーロッパの文化そのものが妄想の誤謬を指摘する。妄想と先入観を取り除けば、ヨーロッパの認知はただのナンセンスなステレオタイプにすぎない。さらにそれに加えて、先入観抜きでアジアについて知りたいと思うヨーロッパの人も少なくないだろうに、そういった人々の興味すら今までステレオタイプで押し潰してきたのではないか。

 「藁人形論法」を当の日本人さえもが使い始め、迎合し始めたとき、それは「核爆弾」の暴力性を帯びる。その使用をヨーロッパがやめない限り、お互いの関係は浅くて味気ない無意味なものに終結するだろう。

 ハンガリーにこれ以上住みたいだろうか。そう思い始めたのは、いっこうになくならないばかりか、日に日に激しくなる学校・スーパー・道路・住宅の差別攻撃にほとほと嫌気がさしてきたからだ。滞在許可証のためのアポイントは取れないし。

 例えば、大学の教授は僕の名前を絶対に正しくスペリングしない。「飯田」はローマ字で「Iida」と書いているのだが、最初の「I」を「L」にして「Lida」と書いたりして、必ずミススペルする。「I」を二つ並べて「IIda」とか。「Ryusei」は「Ryusey」にミススペルする。最初は目が悪いのかと注意力がないのかと思っていたが、全ての教授が必ずミススペルするのを見て流石に変だぞと考えた結果、こうやってマイノリティの名前をマジョリティの名前に書き換えることをindexical bleachingということを知った。つまりは創氏改名。なんだこいつら、クズじゃねえか。これを教授が(つまり大人が)やるというところにどうしようもなさがある。こういう大人を見て次世代の子供が育つのである。差別主義者の再生産。

 indexical bleachingのうんざりするところは、大の大人がこういうしょうもないことでしか憂さを晴らせないというくだらなさ。大人のくせに他人の名前すら尊重できないというみみっちさ。歴史から学ばない無知。ま、あんたらに僕の名前なんか呼んで欲しくないので、スルーしておく。でも、スペリングくらいちゃんとしろ。

 こういうことをすると、ハンガリー人の尊厳とか評判とかがガンガン下がると思わないんだろうか。ガンガン下がってますよ。誰も差別主義者と友達になんかなりたくないからね。お互いにリスペクトして話そうとしている時に一方的な差別攻撃をしてくる人に出会うのは、雨宿りに木陰に入ったら木の洞から大量のムカデが這い出てくるようなグロテスクさがある。あーグロい。しっしっ。

 他人を尊重できないハンガリー人の背景には、今まで尊重されてこなかったハンガリー人という自意識があるのだろう。しかし自らが尊重されたいのであれば、その自らこそ他人を尊重しないと。自分は他人を尊重することもできないのに、他人から尊重なんてされませんよ。今は馬糞並みの尊厳しか持っていないでしょうが、これから少しずつでも確実な尊厳を確立していかないですか、ねえ。

何度も顔を合わせるから良い関係とは限るものではなく、一度しか会わなかったけれど良い関係というものもあると思う。

大抵は、実際には出会いが繰り返されるものではあるのだが、一度会った人と再び会う保証がどこかにあるわけではない。日本の対人関係においては、相手が自分にとって大切な人であれば大切な人であるほど、その出会いの機会は一度きりのものだと思って接するように精神が動く。逆に言えば、「この出会いは一度きり。これが最後」だと思っているからこそ、相手を大切にできる。

この出会いは一回きりだと心がけて人間関係を築くことはとても日本的な接し方だと思うけれど、そう思って人と接する気持ちは、言語によらない...と思いたい。何度も会えると妄信していると、一度しか会えないと思っていたら決してしないようなひどいことを人はしてしまう。

味方を増やしたいものだが、あまりにもひどいことをしてくる人にひどいことをされるとこちらも身構える。ちなみにこのブログはハンガリーでも読まれていて、授業中に僕の書いた内容に近い内容が今までに5回くらい登場したのは偶然ではないだろう。読み物として読んでくれるのは、嬉しいと思う。しかし、僕の「日本語」や「考え方」を「分析」して「いじる」ためにこの文章を読んでる人は読まなくて良いですよちなみに。そう言う人のために書いてないので。

とにかく、ハンガリーの学生は日本の常識で言うと、「それやったら一発で絶交」なことをすごくやってくるため、警戒度が上がる。授業中に僕が何か発言しようものなら、「お前の言うことはわからない」と言って黙らせ、他のヨーロッパ人の発言だけ取り上げて授業を進める教授なんていうのも珍しくなく、普通にいる(この教授はハーケンクロイツを黒板に書いて文字の起源について説明していた。冗談のつもりなのだろうが、全く笑えない)。要するに、差別しても咎められないとわかるや否やどんな差別でもする連中が割といる。

他の場面では穏やかな人なのかもしれないが、たまに「威圧モード」にバチっとスイッチが入る人がいる。「威圧モード」になった人が相手のときは、説得も会話も不可能である。日本語で言うところの「キレる」と言う状態に近い。ハンガリーの人はわりとすぐキレる。キレてる人との建設的な会話が不可能なことは、よく知られている通りである。しかもそのキレ方が、「俺を舐めとんのか」(え?あ、はい、あなたのことは舐めてます)、「俺を崇めろ!」(嫌なこった)、「俺は偉いんだ!」(あーはいはい。)と言う種類のキレ方。いかにも「日本のおじさん」とそっくりなので、彼らによって幻想的な美しい中・東欧のイメージは無惨にも台無しに壊れてしまうので、やめてほしい。

「怒ること自体は良いけど、俺を立てないのが気に食わないとかそんな理由で、そんな浅い感情で怒るって、どういうこと?」と思うのが本音なのだが、そんなことを言おうものなら、火に油を注ぐだけだろう。

ハンガリーに戻りブダペストに再び滞在することになった。日本を離れると味噌や豆腐や梅干しなどが食べられなくなるのは名残惜しいが、それは我慢。すでに残暑とはいえ、ハンガリーでも八月・九月は暑い。エネルギー消費を抑えて温暖化対策をとった方がいいと思う。とにかく暑さはピクルスを食べて対策。ピクルスは美味しい。ピクルスを食べると暑さに強くなる。ピクルスは程よくジャンクな食べ物だというところもいい。トマト、オリーブ、きゅうりなど様々な野菜を漬けたピクルスを齧って、今年の夏を乗り切ろうと思う。

ブダペストにはリスト・フィレンツェ音楽大学という世界的に評価の高い音楽大学があり、近くを通りかかったので立ち寄ってみると、偶然にも予約の必要ないオープンのイベントが行われていた。様々な国籍の50人以上の歌手がそれぞれオペラのアリアを歌うというイベントで、せっかくなので一時間半ほど聴いてみた。聴いていると、すごい!と歌手のすごさがわかるような気もしたが、技術の巧拙は素人の僕にはそれほどよくわからない。一方で歌手の表情変化があまりにもシュールなのでツボにハマってしまったのだが、歌っている人は真面目に歌っているのだろうから必死で無礼をこらえた(どうしてあんなに面白い表情をしていたのだろう。それとも僕が旅疲れのせいで箸が転んでも面白い精神状態に陥ってしまっていたのだろうか)。アリアを聴いたら「よーし、ブダペストで学ぶぞー」という気持ちになった。今度はちゃんとした歌劇場の演奏を聴きに行ってみたい。

去年の留学では何が何だかわからない混乱のうちに留学生活を過ごしてしまったが、今回はハンガリーで暮らす人々の傾向や考えやが以前の自分よりよく見えるようになった気がする。どんな人も医学的に言えば同じ臓器を備え、同じ病気や怪我に対して弱みのある人間である。そう考えれば、表面上の違いを恐れることもないと思う。

 誰が差別主義者のことを気にするというのだろう。
 
 国際ボクシング協会の検証されていない検査に基づいて女性ボクサーを男性と呼んでいる時点でJKローリングは「権威に訴える論証の誤謬」を犯している。「権威に訴える論証の誤謬」とは、論証したいことについてよく知らない人の言うことを根拠に推論することである。これは僕には深刻な間違いのように思える。
 
 たとえ『ハリー・ポッター』が多くの人を救った価値ある作品でありJKローリングがその物語を書いた人だとしても、そんなことはこの際どうでもいい。それが誰であろうと、現に誤謬を犯していて、しかも差別的な文章を「書いている」のであればその「行動」は間違っている。

 なぜ人は誤謬(もし本人が意図しているのであれば詭弁)にコミットしてしまうのだろう。目先の利益に誘導されたのか。脅されたのか。支配欲や驕りがあったのか。社会の不平等によって適切な教育を受けられなかったからなのか。

僕にとってローリングの言葉についての信用は、すでに灰となった。

 日記を書く前に読んだ記事

Kat Brown, "Olympic boxer Imane Khelif is a woman and has always been a woman (no matter what JK Rowling says)", https://www.independent.co.uk/voices/imane-khelif-woman-jk-rowling-olympic-boxer-trans-b2590258.html

 話し合いが成立していないときに話し合い以外の方法で相手を納得させることが、おそらく「論破」と呼ばれているのだろう。

「碁を打つに、さばかりと知らで、ふくつけさは、又、こと所にかかぐりありくに、異方より目もなくして、多く拾ひ取りたるも嬉しからじや。誇りかにうち笑ひ、唯の勝ちよりはほこりかなり。」

(碁を打つとき、相手はそれほどとは理解せず欲をかいて別のところをたずねたずね打っている間に、普通と違う所から攻めて眼さえ奪い、多くの地をとるのが快くないはずがない。誇らしそうに笑って、ただ勝つより誇らしい)

-『枕草子』178段 清少納言

「論破」は囲碁で「勝つ」ことに似ていると思う。どちらも交互にターンがあったのち、勝負を決めた結果である。だから、清少納言がここで囲碁をメタファーに使って私たちに教えているのは、清少納言の得意な修辞法だ。清少納言のような有名人が正直に自分の言葉の使い方をみんなに教えてくれるなんて、なんという太っ腹。すごい、さすが清少納言。

「つたなき人の、碁うつ事ばかりにさとく巧みなるは、かしこき人の、この芸におろかなるを見て、己れが智に及ばずと定めて、万の道の匠、我が道を人の知らざるを見て、己すぐれたりと思はん事、大きなる誤りなるべし。」

(凡庸な人間で、語を打つことばかりに頭が働いて、上手な人が、賢い人で、碁を打つ技につたないのを見て、自分の知恵に及ばないと決め込んだり、全てそれぞれの道の専門の職人が、自分の専門のことを、人が知らないのを見て、自分がまさっていると思うようなのは、大きなまちがいであろう。)

-日本古典文学全集『徒然草』193段 兼好法師
 
 徒然草のこの箇所で指摘されているのは欧米の「誤謬」という概念に当たる(兼好法師がちゃんと理解していたかどうかは確かではないが)。本来、議論を行うときには誤謬を見逃してはいけない。しかし「論破」する人たちは浅い意見の投げつけ合いをしているに過ぎないし、誤謬もひどい。「議論」を戦いのことだと思っている人が多く、辞書にもそう書いてあるけれど、議論は戦いなんかではない。語の意味が根本的に変わってしまっているが、これは「時空の歪み」みたいなもので、もとからお互い全然違う話をしていたのだった。とはいえ、彼らがそんな勝負事を楽しんでいるのであれば無理には止めますまい。

 試験にもよく出題される題材の一つに、過去の習慣(past habits)を表す"used to"と"would"の使い分けがある。この使い分けの説明について、もしかして日本語を使う人は誰も文法を理解できていないのではないかと思うような例に出会ってしまったので、紹介したい。日本語の高校で使われるような教科書には大抵次のような説明がされている。

「used toは過去と現在との対比を含みとして使われるのに対して、wouldは個人的な回想の文によく使われる。」(英文法解説、第3版、江川泰一郎, p311)

これに対して、4年ほど英語を勉強した30歳の学習者が対象で、英語媒体の教材が説明する使い分け方は以下のようなものである。

'Would' is only good for actions or situations that were repeated many times;

'Used to' is good for any action or situation that continued for a period of time in the past, including repeated actions or situations. (BBC LERNING ENGLISH)

 読み比べるとわかるように、日本語媒体の教科書と比べて、英語媒体の教材の方が説明が論理的かつ簡潔である。加えて、日本語媒体の教科書ではよく「used toは動作動詞と状態動詞どちらにも結合するが、would toは動作動詞としか結合しない」と説明されていることがあるが、これを理解する際にも、英語媒体の教材が教えるように「ある期間繰り返すのがused to、何回も何回も何回も繰り返すのがwould」と考えればなぜ状態動詞と繋がりやすくなるのか、きちんと論理的に理解できる。でも、日本語媒体のように「動作動詞/状態動詞」で説明する方法は論理的な説明ではないので、結局パターン暗記する羽目になる。

 これはほんの一例で、それも基本的なレベルの文法知識にすぎない。しかし基本的なレベルであっても、どうも日本語媒体の高校の教科書の説明は、学習者に十分な理解を促すものと思えないのである。

 僕は英語教育の専門家でもないし、文法の専門家でもない。しかし一人の英語学習者として、上に挙げたような説明を読み比べると、日本人は文法を全然理解できてないのではないのかと推測できてしまうことは免れない。(もし日本語の教科書でロジカルに文法を説明したものがあるのだとしたら、ぜひ知りたい。)

 日本では英語の権威のような立場にある者たちが「文法の知識すらまともに持っていない」という事実はひどく気を滅入らせるものである。「定義が間違っていて」「文法の知識がない」という人が、さらに高度な文学作品を読み解くことなどできるのだろうか?(できないと推論するのが妥当である)

我々は正確な文法知識を最も欲している。なんといっても文法の学習は「無償」なのだから。

 日本に帰国した後は、日本について別に書きたいこともないし、日記を書くつもりはなかったのだが、日本の大学に出席していると、あまりに酷いことが続くので、書いてやることにした。

 僕は「日本の」人文学の講義を受けていると違和感を覚えまくる。ハンガリーで人文学を勉強していても、違和感を感じることがあったが、日本の場合は違和感のレベルが「犯罪レベル」であり、「災害レベル」であり、とにかくヤバさのレベルが狂っている(笑い事ではない)。

「ナチスはフォルクス・ワーゲンの開発に貢献した」と教える、自称ユダヤ人を先祖にもつ教授。ポストコロニアル批評をろくに理解していない教授、自分に都合の悪い論点を指摘する学生は「怒鳴る」という方法だけで黙らせる教授。文法知識が欠けている編者が編集した教科書。

 こういう犯罪的指導をする教育の、何がヤバいかというと、「間違った定義に基づいて論を展開している」という、ただその一点に尽くされる。

 間違いを犯したものには、きちんと責任をとってほしい。

 論理的に、「PならばQ」という命題に対して、前提Pが偽(誤っている)ならば、「PならばQ」は有無を問わず真(正しい)になる。これが、今の日本の大学で起こっていることだ。

 たとえば、こういうこと。
 P=『雪は氷の結晶』
 Q=『雪は冷たい』
 とすると、「PならばQ」とは、
「『雪は氷の結晶』ならば『雪は冷たい』」。
 雪は氷の結晶なので冷たい。この命題は、私たちがどこからどのように考えても、正しい。雪は冷たいものだ。ところが、雪が冷たくなくなることがある。それは、「雪は氷の結晶」と言う前提が偽(間違っている)の場合だ。

 どこかのマッドなサイエンティストが奇怪な研究を進めた結果、雪は氷の結晶ではなく、綿飴の塊だったと言うことが証明されたとする。そういうパラレルワールドでは、「雪は氷の結晶」と言う前提が偽(間違い)となる。すると、「雪は氷の結晶」と言う前提から導かれるQは全て正しい。Qが「雪は黒い」でも、「雪は鉛より重い」でも、真(正しい)。雪が綿飴なら。

 では、雪とは綿飴だったのでしょうか?

 僕は、前提Pの正しさを守ろう、と言っているまでなのだ。前提Pの正しさは、思いつきや気まぐれで守ることはできないから、ちゃんと勉強して保護しないといけない。

 根本的な前提が危険に晒されているので、若い私たちは、ろくに勉強することもできない。

 とうとう帰国。ハンガリー革命の記念日で街中に国旗がはためく中、首相演説の準備をしているステージを走って横切って空港に向かうシャトルバスに乗った。

 ハンガリーと日本はとても遠いという先入観があったが、実際にそれぞれの行き帰りを経験すると、そこまで言うほど遠くもなかったと思う。むしろ、日本に到着してから「改札口」というものがある阪急電車に乗るときはじめて、ブダペスト滞在の感覚で言えばかなり過激な資本主義の社会へ足を踏み入れるような気がした。

 ハンガリーには日本人がとても少なく、滞在中の初めの頃は遠いところに来た感がすごかった。ユークリッド幾何学的な距離という意味では、実際に二つの場所の間にはとても大きな距離がある。しかし、昨日はブダペスト、今日は大阪という移動が可能であることを考えると、たった一日で移動できる距離がそこまで遠いと言えるだろうか?パスポートと航空券は必要にせよ。

 ハンガリーで見つけたものの多くは、僕が知らなかっただけで実は日本にもあるということを知った。ヘレンドの陶器も日本にもファンがいて、百貨店で手に入ることがあるらしい。ハンガリーに来ることがなければ、おそらく僕はヘレンドの陶器を知る機会を得ることはなかっただろう。しかし、ハンガリーに足を踏み入れた以上、僕は必然的にヘレンドに出会い、魅了されることになっただろう。ハンガリー陶器のように、日本にいるときの視点では見えにくく、ハンガリーにいるときの視点では見えやすい物があった。それはまるで一方の方向にだけ電流が流れるダイオードに繋がった電気回路のようなものである。ある一方の方向の電流は流れやすいが、逆方向の電流は極めて流れにくいのである。

 今回の留学で多くを学んだが、本当を言うと「まだ、何か重要なものをいくつか見落としている」という感覚が強くある。例えば、ハンガリー語を僕はまだ全然理解できていない。辞書を引き引きハンガリー語の絵本を読んでいると、「ライオン」という意味の単語と「ロシア」という意味の単語は綴りが似ていることに気づいた。でも、ライオンとロシアがなんで似ているのだろう?わからない。このように、十分にハンガリー語を修得せずにハンガリーで過ごすと言うことは、暗号のキーを知らされずに暗号文を提示されているようなものだ。言語以外の情報から何が起こっているのか意味を推論することはできるが、はじめから暗号のキーを知っていればそれに越したことはないと思った。

 今後、またハンガリーと縁があるかもしれない。あるいは、もう二度とないのかもしれない。あるとしても、いつどのようにして関わる可能性があるのかということすら、今は全く予想がつかない。いずれにせよ、次の機会まで、暫しの別れ!

END