ハンガリー留学中、文学批評の教科書だったか政治学の教科書だったか思い出せないのだけれど、はじっこに"Don't be alarmed!" という警句のマンガが書いてあるページがあった。その記憶が印象深く残っている。
Don't be alarmed. 警報を鳴らすな。異国の文化(文学)を学びながら読んだその短い英語は、特別深い教訓を含んでいるように僕には思えた。
異国の文学を読んでいると、ときどきびっくりするような辛辣な物言いや刺激的な描写を目にすることがある。異国で生活していると、暑いからという理由で裸にリュックで自転車を漕いで通勤している集団など、日本の常識じゃ考えられない行動を取る人がいる。そんな状況に直面したとき、つい身体がこわばってしまいそうになる前に、"Don't be alarmed!" という言葉が一つ開放的な視点を提供してくれる。そこで警報を鳴らす必要はない。
日本において、安心安全を最優先にしている状況や集団では、「とにかくalarmを鳴らそう、alarmが鳴ったらすぐに逃げよう」という行動が推奨される。どんなにわずかな危険の兆候でも見逃さず、すぐに逃げよう。そうして危険を回避して自分を大事にすること自体は全く正しいことだと思うのだが、目の前に現れている状況が「危険」の兆候であるかどうかに関わらず、「普通ではないこと」の兆候は全て「危険」の兆候と見做してしまって何でもかんでもガンガンalarmを鳴らそう、というようにして行動することを意味するのだとすれば、それはあまりにも世の中を疑いすぎだと僕は思う。alarmを鳴らすかどうかは必要に応じて状況をしっかり見極めなければならない。そういう教訓として僕は"Don't be alarmed!" という言葉を受け取った。
このような意味でハンガリーの大学では"Don't be alarmed!" という警句が教訓として成立していた。教育の空間がその程度には信頼されている、ということだ。ハンガリーのこういうところはすごかったなと僕は思い出す。日本ではどうか。日本には「気をつけない」という発想がないのではないかと心配になることがある。日本の体育の授業で「気をつけ!」という指示はあっても、「気をつけるな!」と言う指示はない。しかし、「気をつけ」の反対は「休め」ではなく「気をつけるな!」でもいいはずだ。そもそも「気をつけるな!」は「気をつけ!」と同じくらい重要なはずだ。
さて、しかしながら、alarmを本当に鳴らして逃げなければならない状況は実際に存在するので、alarmを鳴らさないと自分が損なわれてしまうなどの場合は本気で逃げないといけない。一方で、alarmを鳴らしてはいけない状況も逆に存在する。目の前の状況がどういう状況なのか、どうやって判断したらいいのだろう。
alarmを鳴らす判断基準について、またはalarmの誤作動について、本を読んでいると稀に「ちゃんと叱ってくれる人の書いた文章」に出会うことがある。トランスヘイトや外国人差別を本気でなくすには「叱る」力が必要な側面がある。alarmの鳴らし方を知るには「ちゃんと叱れる人」の存在が必要だと思う。「叱る」とは、相手の間違いに対する強制的で確実な介入である。だから、「ちゃんと叱れる人」はすごい人だ、と僕は思っている。