2月15日(土)イプシロンのために

 「ムラヤマのちょっと一言いいですか?」で僕の日記についてのコメントを拝読しました。読んでくださってありがとうございます。読んでいただいたことを大変ありがたく思います。一点だけ、誤解が生じているところがあるように思ったので、気になった点について日記を投稿したいと思います。

 「音素と異音の関係を関数の単射のようなものだと説明した」と言うことについて、「理科系の心得があるもの同士で通じるクリアカットな説明」と受け取られてしまったということなのですが、できればそういうふうには受け取らないでほしかったな、というところがあります。実を言いますと、僕は数学好き同士でのみ通じる「ジャーゴン」として関数の単射という表現をしたわけではありませんでした。

 僕が「単射の写像」という表現を使ったのは決して「ジャーゴン」としての使い勝手のよさのためではなく、この表現がもっとも真実を表しており、「美しい」と考えたためです。僕は「クリアカット」というよりはもっとごちゃごちゃした合理性をイメージしていました。そもそも、自然言語と数学とはあまり関係ないです。数学は数学のことしか表現できないと僕は思っています。でも、僕は数学の「美しさ」は学問の分野を超えて有効だと考えています。だから写像という表現をしてみたというわけでした。

 Aristotleが"Physics"の二巻で "Necessity in mathematics is in a way similar to necessity in things which come to be through the operation of nature." と書いているのを読んだことがあります。「数学における必要は、自然の働きによって生じる物事の必要と、ある意味で似ている(拙訳)」。

 このアリストテレス的信念に基づいて、自然言語という「自然」の必要について、数学的な言葉を使って提言してみたのですが、うまくいくときとあまりうまくいかないときがあるみたいです。

 ところで、「数学を勉強している高校生はもてない」という認識は一般的な認識なのでしょうか。近年の映画やドラマを見る限り(『僕と世界の方程式』、『不思議の国の数学者』など)、数学ができる人は劇中で基本的にもてもてですから、数学ができる高校生はもてるんだろう、と勝手に思っていたので、意外な感じがしました。