ブダペスト五区、メグミさんが放火されたアパートのあるシュトラ・ベーラ通りは、僕にとって決して馴染みのない通りではない。
クリナリス・パーラメントという食料品店がシュトラ・ベーラ通りのすぐ隣りにあり、オーガニックの野菜やヴィーガン餃子などが販売されていた。ブダペストでは絶滅危惧種的な、最後のヴィーガン食料品店の一つだったので、小テストが終わった後などにクリナリス・パーラメントでポテチやソーダやピクルスなどを買い、それを自分へのご褒美にしていた。
その周辺はアンティークショップやお菓子屋、カフェなどが並ぶ閑静な街並みで、道路に並ぶ席でゆったりとコーヒーやお茶を楽しむ人々が見られた。この辺りを僕は散歩したこともある。ブダペストの中でも、安全な地域の一つのはずだった。それは9~11月のことである。12月に入ると、ハンガリー政府からの例の「脅迫状」によってそれどころではなくなってしまったのだが。
「外観(ファサード)」とは裏腹に、その安全そうに見える街並みの建物の中は、ブダペストで最も危険な場所だった、ということなのだろうか。
事件の後、警察から「不快な思いをさせてしまい申し訳ない」という謝罪動画が公開され、警察の担当者らを処分したというニュースをインターネットで見た(毎日新聞)。しかし、個人的に言って、僕は今回の事件についてそのような対応がブダペストを安全な街にするための十分な対応だとは思えない。言わせてもらえば、謝って済むことではない。ごめんで済むなら警察はいらない。
担当者の処分は、警察組織内での単なる「見せしめ」程度の効果しかなく、ブダペストの弱い立場にある人のためのものではない。「もうこれ以上ブダペストにおける差別を追求しないでくれ」という、「臭いものに蓋」としての対応にすぎない。「もう、日本人と関わるのはやめようぜ?だって、あいつらと関わったら、何に巻き込まれるかわかんないからさ。」そんな考えが、これから現地の人の間で幅を効かせることになるのではないか。
だから、そうではなく、「それで、何が間違っていたのだろうか?」ということをちゃんと考えることにつながるような対応をしてほしい。今回の事件には、言うまでも無い(が、それゆえに見過ごされがちの)二つの要素がある。一つは、命を奪われたのが女性であることと。さらにもう一つは、その人がハンガリーではマイノリティに属する「外国人(=日本人)」だということだ。
DV、ストーカー、性犯罪についての女性の訴えを「最悪の最悪」が起こる前に、対応してほしい。女性が自ら「こんなのは些細なことだから」と言うなどということがないように、性犯罪を「些細なこと」として扱わず、責任はレイプされる側ではなくレイプする側にあるという教育を徹底してほしい。これは現地の外国人だけでなく、現地の欧米人も必要としている教育だ。
そして、「外国人」の人権について、自分も外国人としてブダペストに住んでいた経験から言うと、「外国人」としてブダペストに住む苦労は、「味方がいない」ということだ。僕は奇跡的な幸運によって何人かの「すごく頼れる友人(Lくん、君のことです。ありがとう)」がいたが、単なる留学生でさえあれほど大変だったのに、まして、二人の子供がいる人にとってその重圧は想像を絶する。「親身になってくれる人がいない」ということはとても辛いことなのだ。
現地のハンガリー人は親身になってくれなかった。他者に対して親身になる能力をブダペストのハンガリー人は有していなかった。それは、他者に対して親身になれる人間性や優しさがブダペストで育っていないことを表している。
人間性が一朝一夕で育つわけがない。長期的な視野で考えなければいけないことが起こってしまったと考えるべきだ。警察の処分や謝罪、一回きりの追悼で「済んだこと」にしてはいけない。誰かに責任をなすりつけて終わりにしてはいけない。ゆったりと、長いスパンで、「なぜ欧米人は非欧米人に対して親身になれないのか?」ということを、一つ一つの事例から考えていくことが大切であり、まさにそのことが必要とされていると提案したい。