2月10日(月)ブダペストでの在外邦人の殺害ニュースを知って

 共同通信やThe Japan Timesのニュースによると、一月末、ブダペスト5区でハンガリー在住の日本人女性が欧米人の元夫に殺害された。この記事を昨日知って読み、本当に辛く悲しい気持ちになると共に、個人的に追悼した。

 僕はこの女性のことを個人的には知らなかったのだが、それは現地の日本人コミュニティ、アジア系のコミュニティ、またその周辺にいると思われる人々と、僕が接触を避けてきたせいかもしれない。僕はハンガリー滞在中、意図的に他の日本人との接触を避けていた。ブダペスト大学の日本人コミュニティとも全く接触していなかった。しかしそれは、僕と現地日本人の双方が、お互いに命の危険があるような事態にはならない(そんな事態にならない程度にはブダペストは安全である)という前提のことだ。

 例えば、僕はヴィーガンだが、ハンガリーの日本人コミュニティの方々は、ヴィーガンについて知識がなかったり、ヴィーガンを嫌っていたりする傾向があるように見受けられた。そういう人たちと接触し、誤ったヴィーガンの知識が広がり、僕がその一員のように思われると困る。また、ブダペストの日本人の中にシェイクスピア戯曲の原文を一つでも始めから最後まで読んだことのある人も居なさそうだった。シェイクスピアの作品は古代ヨーロッパにつながる広がりと深みのある「宇宙」であり、グローバリズム的な「帝国主義者の英語」とはかなり違いがあるということを理解してもらうことは難しそうだと思った。その点を誤解している人と同一視されることは、1日の大半を英文学の勉強に費やしていた僕にとって、「危険」であり、また、「不都合」だった。ハンガリー人からみるとそれぞれの日本人は"one of them"の日本人に見えるのだろうな、と予想し、そのうちの一人だと思われて誤解に基づく怨みなどを買うと困るので、気をつけて単独行動していたのだ。決してブダペストの日本人が嫌いというわけではなかったのだが、そのような事情で、僕なりの自己防衛として他の在ハンガリー日本人とは関わっていなかった。僕は僕、そっちはそっちでやってもらったほうがいいと思っていた。しかしそれは、繰り返すが、お互いに命の危険があるような事態にはならず、そんな事態にならない程度にはブダペストは安全である、という前提のことだった。

 今回の事件をめぐるハンガリー警察の対応、また、日本大使館の対応、他の在ハンガリー日本人の反応、現地ハンガリー人の反応、日本のメディアの報道をインターネットで見る限り、それは「ああ、今後もブダペストにおける日本人の危険は変わらないだろうな」というものでしかない。今回の事件を受けて、何が間違っていたのか(なぜ欧米人は日本人の命や尊厳をこれほど軽く扱うのか)をよく考えて、現地の多くの人が危険を前もって感知し、「最悪」が起こることを未然に防ぐことができるように状況が改善されることになるとは、考えにくい。僕の経験から言っても、現地のハンガリー人は危険の中にいる日本人を守ってはくれない。あるいは、危険から守る術を知らない。人ひとりの命がハンガリーで「現実に」奪われた、という事実は、重く受け取られるべきだと僕は思う。

 アパートの賃貸情報に日本人のポルノが合わせて載っていることを通報したり、ハンガリーにはレイプカルチャーがあって外国人をその餌食にしていたり、ハンガリー社会にアジア人差別や権威主義があることを、それが大変に危険であることを、僕は今まで何度も何度も警鐘を鳴らしてきたが、根本的に何も変わっていない。

 ハンガリーは日本人にとって安全な国ではない、ということは、正式に政府などの公的機関から告知される必要があり、今後、ハンガリーから脱出の必要がある日本人に対しては積極的に支援する必要がある。もはや、ハンガリーの状況はそういう段階にあると僕は思う。

 すべての人の安全を祈る