日本に帰国してから、さまざまな敵意を向けてくる人がいる。なぜ敵意を向けてくるのか全くわからない状況で敵意を向けてくる人がいる。自尊心をわざと下げるようなやり方で。感覚的に言って「これは差別では?」と思う攻撃を受けることもある。その頻度は、ブダペストにいたときよりもずっと多いかもしれない。
しかし、ブダペストにいるときよりも日本にいるときの方が攻撃を受けることが多い、という状況は変なのではないか。日本国籍なのに日本で差別を受けるのも変である。
彼らは僕の何に反応して何を攻撃しているのだろうか。
どうやら、彼らは僕の「身体」に反応して「身体」を攻撃しているらしいということがわかってきた。ただし、彼ら自身でも制御できないような憎悪と怒りをもって。彼らが差別し、憎悪し、蔑視しているのは「身体」だ。身体蔑視。それが、2025年の日本人が抱えている最も深刻な病だと思う。
・・・と書かれた文章を読んで、「身体」ね、「身体」なら、誰でもわかる話だな。と思わないように、一旦、待ってほしい。それは誤解である。
この種類の誤解は本当に多い。
そう思ってしまうのは、誰でも身体をもっているからである。ところが「身体蔑視」において彼らが蔑視するのは、いわば「近代の身体」である。そして「近代の身体」とは、寝ているだけで理解できるというような安易なものではない。
すべてのものは身体である。ブダペストのドナウ川に沿って石を積んだのは、身体である。ブダペストを流れるドナウ川の形を決めたのは脳という身体である。日本では踏むことができない、脳の回転を助けてくれる懐かしきブダペストの石畳を敷いたのも、ぼんやり光る夜の電灯も、重い扉を建設したのも、みんな身体だったのである。(ということに今気づいたのだが)たしかに石畳はただの石だが、「ここにこうやって石を敷こう」と考えたのは頭であり、敷いた石を何百年にもわたって踏んできたさまざまな人たちの脚は身体であり、その風景に目が休まる思いがする人がおり、それらはみんな身体なのである。
僕が二年間にわたってブダペストで吸い込んできたのは、ブダペストの身体だった。それは日本社会の身体とは隔絶している。お互いの身体を蔑視してきたからである。そして今、日本に帰国すると、大変な攻撃をしてくる人がいる。身体に対する蔑視をやめればいいのである。
現代の日本人は、身体を蔑視している。なぜ身体を蔑視しているのかというと、いままでにも身体を蔑視してきたからである。
「異星人の身体」に対して、日本人が理解できる身体は幼虫の段階で止まっている。幼虫の身体を見たときに、人によって、「おっ、幼虫だ」と思うか、「潰しちまえ!」と思うかという問題であり、「潰しちまえ!」と思う場合、それは「身体蔑視」なのではないか、と思う。