12月29日(日)自律的移民の条件

 戦争などのやむをえない事情で移民となった人ではなく、学問、仕事、芸術活動などを目的に移民として国外に滞在する者はただ普通に暮らしていればいいというものではないのではないかと思えてきた。つまり自律性が必要なのではないか。

というのも、「普通に暮らしている移民」は実にたくさんおり、留学生もその一部で、彼らを敵に回すようなのだが、実にみっともないからである。お金にものを言わせてイベントに参加し、国境をこえて旅行したとしても、どうもみっともない。ちっとも楽しそうに見えない。どうしてみっともないのかなあと考えたところ、彼らが「普通に過ごしている」からだと思った。

 「普通に過ごす」のどこがいけないのだろう。いや、どこもいけないわけではないのだが、なんとなくカッコ悪いと言いますか、だらしがないと言いますか、つまり「普通に過ごしている移民」は「普通に過ごしている現地の人」しか視野に入らないところがなんだか気持ちが悪いと言いましょうか。

 現地の人の大半は「普通に過ごしている人」なのかもしれませんが、見えにくいところには困窮している人がおり、性・身体障害・年齢などの属性によって平等な職業機会を与えられない人がおり、そこまで極端な例でなくても、尊厳を踏み躙られる人がおり、歪んだ社会に幸せを踏み躙られた人があり、望まぬ人間関係を強いられる人がおり、実にさまざまな人がさまざまな事情で苦しんでいるにも関わらず、そんな人たちをみんな無視して「普通に過ごす」というのはどういう了見なのだろう、という考えが浮かぶ。

 だからモラルの高さ。モラルの高さは必須だと思う。せめて「モラルが高いふり」をするだけでも、必要だと思う。モラルの低い人間に移民は務まらぬ。そこらじゅうにモラルの低い移民はいるし、モラルの低い現地の人々もたくさんいるが、この人たちは後でそのツケをしっかり払うのにまだ気がついていないだけである。「普通に過ごす」ができない人たちの尊厳を踏みじるような、「移民が諸悪の根源だ」というレイシストの言い分にわざわざ塩を送るような、そんなことに僕は絶対加担したくない。

 記念すべき(?)留学一年目の年越しを前にして、そんなことを考えた。