石畳は保存すべきなのか。というか、石畳ってなんなのか。
石畳の歴史は三世紀のローマ帝国の要塞にまで遡るらしい。歴史を感じる石畳であり、石畳の上を歩くと、石畳は足の裏をべこぼこと打ちつけるために、血流がよくなって神経が活性化するような気がした。(気がしただけだが)
しかし、例えば、車いすで移動する人にとって、石畳はそれほどありがたいものではないといえるだろう。石畳は足裏を心地よく刺激してくれるが、車椅子のタイヤを心地よく刺激してくれるとは言えない。それほど足が自由に使えない人にとって石畳は特にありがたくもないだろう。
そして以下に書くことは、僕の根拠のない想像である。
あるとき、名もなきハンガリー人のひとりはこう思っていたのである。
「石畳って歩きづらいな」と。
それで、「確かにそうだな」と、いろんな人たちが石畳の不便さを理解しはじめた。
「石畳では足の怪我のもとなのではないか」
「身体障がい者に対して差別的だ」
「靴がいたむ」・・・などなど。
そして、ひとりの天才ハンガリー人の頭脳にある天才的アイデアが降りることになる。つまり、「石畳を嫌う人は多いが、景観的にも趣があると言えないこともないし、歩くと心地の良い、素晴らしい建築素材であると思えなくもない。しかし、あまりにもでこぼこしているために現代人にとって包括的な建築素材とは必ずしも言えない。足を自由に使えない人でも石畳のいいところを経験できないものだろうか」と。
それで一つのパズルが出来上がった。
そのパズルはさまざまな人たちの身体を通して感動を与えた。
しばしの時が流れ、ある玩具のアイデアが天才ハンガリー人の頭脳に閃く。ハンガリーで生まれる。ルービック・キューブである。
ルービック・キューブとは、本来「石畳のでこぼこを足裏で感じる」という「足の感覚」を「手の感覚」に完璧に「翻訳」したのではないだろうか。このような芸当は「身体蔑視」の対極にあると言えないこともないのではないだろうか、と考える。
(参考)
Brief History of Architecture, https://www.cobblestonemuseum.org/CobblestoneStructuresCatalog/CMPubs/Brief%20History%20of%20Cobblestone%20Architecture.htm
日本に帰国してから、さまざまな敵意を向けてくる人がいる。なぜ敵意を向けてくるのか全くわからない状況で敵意を向けてくる人がいる。自尊心をわざと下げるようなやり方で。感覚的に言って「これは差別では?」と思う攻撃を受けることもある。その頻度は、ブダペストにいたときよりもずっと多いかもしれない。
しかし、ブダペストにいるときよりも日本にいるときの方が攻撃を受けることが多い、という状況は変なのではないか。日本国籍なのに日本で差別を受けるのも変である。
彼らは僕の何に反応して何を攻撃しているのだろうか。
どうやら、彼らは僕の「身体」に反応して「身体」を攻撃しているらしいということがわかってきた。ただし、彼ら自身でも制御できないような憎悪と怒りをもって。彼らが差別し、憎悪し、蔑視しているのは「身体」だ。身体蔑視。それが、2025年の日本人が抱えている最も深刻な病だと思う。
・・・と書かれた文章を読んで、「身体」ね、「身体」なら、誰でもわかる話だな。と思わないように、一旦、待ってほしい。それは誤解である。
この種類の誤解は本当に多い。
そう思ってしまうのは、誰でも身体をもっているからである。ところが「身体蔑視」において彼らが蔑視するのは、いわば「近代の身体」である。そして「近代の身体」とは、寝ているだけで理解できるというような安易なものではない。
すべてのものは身体である。ブダペストのドナウ川に沿って石を積んだのは、身体である。ブダペストを流れるドナウ川の形を決めたのは脳という身体である。日本では踏むことができない、脳の回転を助けてくれる懐かしきブダペストの石畳を敷いたのも、ぼんやり光る夜の電灯も、重い扉を建設したのも、みんな身体だったのである。(ということに今気づいたのだが)たしかに石畳はただの石だが、「ここにこうやって石を敷こう」と考えたのは頭であり、敷いた石を何百年にもわたって踏んできたさまざまな人たちの脚は身体であり、その風景に目が休まる思いがする人がおり、それらはみんな身体なのである。
僕が二年間にわたってブダペストで吸い込んできたのは、ブダペストの身体だった。それは日本社会の身体とは隔絶している。お互いの身体を蔑視してきたからである。そして今、日本に帰国すると、大変な攻撃をしてくる人がいる。身体に対する蔑視をやめればいいのである。
現代の日本人は、身体を蔑視している。なぜ身体を蔑視しているのかというと、いままでにも身体を蔑視してきたからである。
「異星人の身体」に対して、日本人が理解できる身体は幼虫の段階で止まっている。幼虫の身体を見たときに、人によって、「おっ、幼虫だ」と思うか、「潰しちまえ!」と思うかという問題であり、「潰しちまえ!」と思う場合、それは「身体蔑視」なのではないか、と思う。
ハーバード大学の予算を削除、などのトランプによる弾圧がニュースで流れてきており、その様子はアメリカの自滅行為そのものと言える。アメリカの知的威信と尊敬を集めてきたハーバード大学を圧束したところで、長期的に見てアメリカにとっていいことは何もないと思うのだが、アメリカの人たちはそんなこともわからなくなってしまったらしい。
「自分さえ良ければそれでいい」とか、「自分の"友達"さえ良ければそれでいい」とか、「差別のせいでひどい目に遭う人のことはどうでもいい」とか、そういった方針で生きている方々はもしかしたらトランプに共感したりするのかもしれない。よくわからないが。しかし、そのような方針の方々は、ちょっとでも意見の合わない者たちが自分の考えを言ったり自分で判断したりすることを認める余裕すら持たない。
「自分さえ良ければそれでいい」と思っている人たちは、どういうわけか集団的に排他的になる傾向がある。なぜか。
『スター・トレック ザ・ネクスト・ジェネレーション』というテレビシリーズのシーズン5の2話、「謎のタマリアン星人」にそのヒントがあると思った。このテレビドラマでは、U.S.S.エンタープライズ号という宇宙船に乗った調査隊が異星人のタマリアン星人と出会い、コミュニケーションをとる。地球人の言葉では全く理解できない言葉を話すタマリアン星人に遭遇したピカード艦長は、クルーとコミュニケーションとは何かについて語る。
"In my experience communication is a matter of patience, imagination."
「私の経験によると、コミュニケーションとは辛抱強さと想像力の問題だ。」
実際に、ドラマの中でピカード艦長とカウンセラーのディアナは英語とはまったく違うタマリアン星人の言語を辛抱強く繰り返し聞き、推論を立てて、異星人とのコミュニケーションを図る。
トランプには辛抱も想像力もない。それの何がいけないのか?自分とは違う都合で行動する人が全く理解できず、永遠にタマリアン星人と心を通い合わせることができないからトランプはダメなのだ。コミュニケーションの代わりにトランプができることといえば、マウンティングを取るくらいだ。
タマリアン星人のように変なやつらと心を通い合わせなくても俺は困らない・・・と、いうようにして想像力が欠如した人のことを橋本治は「美しい」がわからない人、と呼んだのだと思う。それはつまりトランプみたいな人のことだ。
大阪万博もトランプの政治と同じだ。大阪万博のポリシーのどこにpatienceやimaginationがあるのだろう。そんな状態で異文化とコミュニケーションなどできるのだろうか。普通に考えれば、できない。大体、ELTEでの勉強を邪魔し、人々の尊厳を奪っているのはトランプのような権威主義者なのだ。許すまじ。
日本ではものごとの本質や意味を考えない人が表面だけを追って無駄に威張っている状況があり、それはナルシズムなのだが、そのせいでpatienceとimaginationを単に無駄で苦しいだけのことのように考えてしまう人がいるかもしれないけれど、そんなことはない。Patienceとimaginationは無駄どころか、他者と会話するために最も重要な能力のひとつだ。トランプには政治の舞台からさっさと退場していただきたい。
ムラヤマさん、コメントありがとうございます。
確かに「写像」(function)は自然言語の会話ではあまり使わない言葉かもしれないですね。どんな言葉がどんな環境でジャーゴンになりうるのか--興味深いテーマだと思いました。
「もて論」のようなことを考えるときにどうも引っかかることなのですが、科学の世界のジェンダーバイアスというのは、一体どうなっているのでしょうか。例えば、これから科学や数学の世界を志そうとする若い人たちにとっての「日本人」かつ「女性」かつ「科学者または数学者」のロールモデルって存在するのでしょうか?
「日本人」かつ「男性」かつ「科学者または数学者」のロールモデルや成功譚は山のようにたくさん存在します。しかし、それなら同じ割合の「女性」のロールモデルがいても全然おかしくない。そうですよね?しかし、実際にはそのようなロールモデルは極めて少ない。
欧米には、「女性」かつ「科学者または数学者」で人気のある人がいます。例えば、コーネル大学の教授でMoon Duchinという女性の数学者がYouTubeで数学の面白さをユーモアや親しみやすさを交えながらわかりやすく伝えていて、素敵だなと思いました。Moonさんは動画のなかでFelix HausdorffとEmmy Noetherという、Moonさんの考える二人の偉大な数学者の名前を挙げています(僕はこの二人は渾身の選出だと思いました)。こうやって、アメリカのトップ大学の教授が、男性のロールモデルも女性のロールモデルもいっぺんに挙げることができる。これはありがたい。是非真似したい能力です。Moon教授と同じようにして、バイアスのせいであまり注目を浴びていないけれど、本当はたくさん学ぶことがある「成功譚」を他に見つけることは自分にもできないだろうか?ということについて議論して考えている人はELTE(ブダペスト大学)にもいました。そういう人たちと話すことができたのは僕にとってもよい経験だったと思います。
またフィンランドでは、(日本と同じように)STEM分野の男性支配が続いているため10代の子供を持つ親のステレオタイプなジェンダー観が話題に上っています。まさに差別や偏見によらないロールモデルが必要だという提起です。
素直さと感性を大事にすることにもちろん僕は賛同します。そして、数学の「美しい」がわかる人は、多様なロールモデルが等しい割合で存在する社会にいると思います。
(参考)
'OLIV project.' https://blogs.helsinki.fi/olive-project/2023/01/26/panel-discussion-women-in-stem/.
'数学者だけど質問ある? | Tech Support | WIRED.jp'. https://www.youtube.com/watch?v=SIUl9Mx51W4.
権威主義の右翼政党はLGBTQ+に関する本のbook ban(禁書運動)を行なっている。ブダペストのプライド・マーチを標的にし、プライド・マーチに参加した人は顔認証ソフトによって罰される。法律は性別も名前も変えることを許さない。それでもブタペストの人々は抗議デモを行い、LGBTQ+の当事者の人たちは国外移住を検討している。
翻って、プラトンは詩人ホメロスの国外追放を論じたが、それはホメロスが国家に害をなす人物を英雄として称揚していることに対する論評だった。LGBTQ+の人たちを描いた文学作品が、今、権力によって政治的に禁止されているわけだが、それが意味するのは、その政治権力が「LGBTQ+の人たちは国家にとって害をなしている」という頓珍漢な認識、現実の実態とは全くズレた認識、観察力をまったく欠いた認識をしているということだ。このような歪んだ認識は異性愛中心主義がこれまであまりにも多くの人たちの人権を踏み躙ってきたことの表れだろう。
日本も、悪い意味で、よく似た政治状況なのではないだろうか。
端的に言うと、異性愛中心主義は「気持ち悪い」。
すでに相当キモいのに、法律による性別・名前の変更の禁止や禁書をすることによって、ますますキモさが倍増している。やめればいいと思う。
18歳以下にLGBTQ+に関する知識を与えることを禁止する。そして権力者たちはこう言う。「これは子どもを守るためなのだ」と。しかし、そんなおかしな理屈はない。マイノリティの人たちに対する正しい知識を得ることを妨害すること、またマイノリティの人たちの生き方を知る機会を奪うことで、まさにそれによって侵害しているのが子どもの人権、知る権利という人権である。
プラトンのホメロス論について再びじっくり考えるときが来ているのではないだろうか。私たちが英雄だと思っていた人物は私たちが思っていたような英雄だったのか?私たちが追放すべきだと判断した人物は本当に追放されるべき人物だったのか?あなたたちがheartlessだと決めつけた人物は本当にあなたたちが決めつけたような人物だったのか?
権力者の都合のいいようにしか認識しない、認識できない。そうやってズレた認識は現実にうまくはまらないから、無理がある。
オルバンNO!トランプNO!ヘイトNO!
(参考文献)
'We won't be deterred or scared': Hungary's LGBTQ+ community fights for right to march in Pride', https://www.theguardian.com/world/2025/mar/28/we-wont-be-deterred-or-scared-hungarys-lgbtq-community-fights-for-right-to-march-in-pride?CMP=Share_iOSApp_Other
'Hungary votes to end legal recognition of trans people', https://www.theguardian.com/world/2020/may/19/hungary-votes-to-end-legal-recognition-of-trans-people?CMP=Share_iOSApp_Other
'Hungarian bookstore fined for selling LGBTQ+ novel in youth section', https://www.theguardian.com/world/2023/jul/13/hungarian-bookstore-fined-for-selling-lgbtq-novel-in-youth-section?CMP=Share_iOSApp_Other
ハンガリー出身の著名な学者は少なくないが、振り返ってみると、彼らの受けた教育と僕が留学中に学んだことはどこかつながっている気がする。何がつながっているのかというと、ひとことで言うならば、ハンガリーの教育で磨き上げられる能力の一つは、「ガチのパズル解決能力」だという点だ。ハンガリー以外ではとても真似できないような本気度のenigma(謎)というものを想像してほしい。そのパズルは数々の不可能を可能にしてきた。そんなパズルを想像して欲しい。これは現在のハンガリーの大学でもひっそりと受け継がれている。
かつてハンガリーの高等学校にはエトヴェシュ・コンクールと呼ばれるコンクールがあった。
「選ばれた学生が密室に閉じ込められ、難しい数学問題が与えられる。一般に大学レベルの素養が必要で、創造的で大胆な思考が要求されるものだった。このコンクールの面白いところは、賞を獲得した学生の教師が大変な栄誉を受けることだ。だから教師もまた最良の学生にコンクールの準備をさせるのに力を入れた。」
(異星人伝説 20世紀を創ったハンガリー人 p244-245)
ハンガリー出身で活躍した科学者の半数以上がエトヴェシュ・コンクールで受賞したことがあるそうだ。ハンガリーのコンクールを形だけ日本で真似しようとしても、そのコンクールは単なる閉鎖的な競争に落ちぶれてしまうことだろう。ハンガリーのそれは必ずしも競争ではない。学生が自立できるようにサポートするための教育プログラムでもあるのだ。
エトヴェシュ・コンクールは数学や科学のコンクールだが、同じ学びのスタイルは文学の分野にも見ることができる。さりげなくきれいに整えられた詩やプローズが与えられ、学生は一週間程度で文学を読解する。平凡な学生はひとつの詩からひとつやふたつくらいのどうでもいいメッセージを読み取ることしかできないが、優秀な学生はひとつの詩から百や二百の重要で合理的な特徴を見つける。ブダペスト大学での学びが平凡なものにとどまるか、異世界への扉となるかは、学生の意欲と能力次第となる。わりと過酷なことである。僕の留学経験はそんな感じだった。
世界中で学問の自由が脅かされている。ブダペストの輝きもやはり脅かされている。ハンガリー人がそのすごいところを思う存分発揮できる日がやってくるとしたら、それはいつになるのだろう。
「ムラヤマのちょっと一言いいですか?」で僕の日記についてのコメントを拝読しました。読んでくださってありがとうございます。読んでいただいたことを大変ありがたく思います。一点だけ、誤解が生じているところがあるように思ったので、気になった点について日記を投稿したいと思います。
「音素と異音の関係を関数の単射のようなものだと説明した」と言うことについて、「理科系の心得があるもの同士で通じるクリアカットな説明」と受け取られてしまったということなのですが、できればそういうふうには受け取らないでほしかったな、というところがあります。実を言いますと、僕は数学好き同士でのみ通じる「ジャーゴン」として関数の単射という表現をしたわけではありませんでした。
僕が「単射の写像」という表現を使ったのは決して「ジャーゴン」としての使い勝手のよさのためではなく、この表現がもっとも真実を表しており、「美しい」と考えたためです。僕は「クリアカット」というよりはもっとごちゃごちゃした合理性をイメージしていました。そもそも、自然言語と数学とはあまり関係ないです。数学は数学のことしか表現できないと僕は思っています。でも、僕は数学の「美しさ」は学問の分野を超えて有効だと考えています。だから写像という表現をしてみたというわけでした。
Aristotleが"Physics"の二巻で "Necessity in mathematics is in a way similar to necessity in things which come to be through the operation of nature." と書いているのを読んだことがあります。「数学における必要は、自然の働きによって生じる物事の必要と、ある意味で似ている(拙訳)」。
このアリストテレス的信念に基づいて、自然言語という「自然」の必要について、数学的な言葉を使って提言してみたのですが、うまくいくときとあまりうまくいかないときがあるみたいです。
ところで、「数学を勉強している高校生はもてない」という認識は一般的な認識なのでしょうか。近年の映画やドラマを見る限り(『僕と世界の方程式』、『不思議の国の数学者』など)、数学ができる人は劇中で基本的にもてもてですから、数学ができる高校生はもてるんだろう、と勝手に思っていたので、意外な感じがしました。
ブダペスト五区、メグミさんが放火されたアパートのあるシュトラ・ベーラ通りは、僕にとって決して馴染みのない通りではない。
クリナリス・パーラメントという食料品店がシュトラ・ベーラ通りのすぐ隣りにあり、オーガニックの野菜やヴィーガン餃子などが販売されていた。ブダペストでは絶滅危惧種的な、最後のヴィーガン食料品店の一つだったので、小テストが終わった後などにクリナリス・パーラメントでポテチやソーダやピクルスなどを買い、それを自分へのご褒美にしていた。
その周辺はアンティークショップやお菓子屋、カフェなどが並ぶ閑静な街並みで、道路に並ぶ席でゆったりとコーヒーやお茶を楽しむ人々が見られた。この辺りを僕は散歩したこともある。ブダペストの中でも、安全な地域の一つのはずだった。それは9~11月のことである。12月に入ると、ハンガリー政府からの例の「脅迫状」によってそれどころではなくなってしまったのだが。
「外観(ファサード)」とは裏腹に、その安全そうに見える街並みの建物の中は、ブダペストで最も危険な場所だった、ということなのだろうか。
事件の後、警察から「不快な思いをさせてしまい申し訳ない」という謝罪動画が公開され、警察の担当者らを処分したというニュースをインターネットで見た(毎日新聞)。しかし、個人的に言って、僕は今回の事件についてそのような対応がブダペストを安全な街にするための十分な対応だとは思えない。言わせてもらえば、謝って済むことではない。ごめんで済むなら警察はいらない。
担当者の処分は、警察組織内での単なる「見せしめ」程度の効果しかなく、ブダペストの弱い立場にある人のためのものではない。「もうこれ以上ブダペストにおける差別を追求しないでくれ」という、「臭いものに蓋」としての対応にすぎない。「もう、日本人と関わるのはやめようぜ?だって、あいつらと関わったら、何に巻き込まれるかわかんないからさ。」そんな考えが、これから現地の人の間で幅を効かせることになるのではないか。
だから、そうではなく、「それで、何が間違っていたのだろうか?」ということをちゃんと考えることにつながるような対応をしてほしい。今回の事件には、言うまでも無い(が、それゆえに見過ごされがちの)二つの要素がある。一つは、命を奪われたのが女性であることと。さらにもう一つは、その人がハンガリーではマイノリティに属する「外国人(=日本人)」だということだ。
DV、ストーカー、性犯罪についての女性の訴えを「最悪の最悪」が起こる前に、対応してほしい。女性が自ら「こんなのは些細なことだから」と言うなどということがないように、性犯罪を「些細なこと」として扱わず、責任はレイプされる側ではなくレイプする側にあるという教育を徹底してほしい。これは現地の外国人だけでなく、現地の欧米人も必要としている教育だ。
そして、「外国人」の人権について、自分も外国人としてブダペストに住んでいた経験から言うと、「外国人」としてブダペストに住む苦労は、「味方がいない」ということだ。僕は奇跡的な幸運によって何人かの「すごく頼れる友人(Lくん、君のことです。ありがとう)」がいたが、単なる留学生でさえあれほど大変だったのに、まして、二人の子供がいる人にとってその重圧は想像を絶する。「親身になってくれる人がいない」ということはとても辛いことなのだ。
現地のハンガリー人は親身になってくれなかった。他者に対して親身になる能力をブダペストのハンガリー人は有していなかった。それは、他者に対して親身になれる人間性や優しさがブダペストで育っていないことを表している。
人間性が一朝一夕で育つわけがない。長期的な視野で考えなければいけないことが起こってしまったと考えるべきだ。警察の処分や謝罪、一回きりの追悼で「済んだこと」にしてはいけない。誰かに責任をなすりつけて終わりにしてはいけない。ゆったりと、長いスパンで、「なぜ欧米人は非欧米人に対して親身になれないのか?」ということを、一つ一つの事例から考えていくことが大切であり、まさにそのことが必要とされていると提案したい。
共同通信やThe Japan Timesのニュースによると、一月末、ブダペスト5区でハンガリー在住の日本人女性が欧米人の元夫に殺害された。この記事を昨日知って読み、本当に辛く悲しい気持ちになると共に、個人的に追悼した。
僕はこの女性のことを個人的には知らなかったのだが、それは現地の日本人コミュニティ、アジア系のコミュニティ、またその周辺にいると思われる人々と、僕が接触を避けてきたせいかもしれない。僕はハンガリー滞在中、意図的に他の日本人との接触を避けていた。ブダペスト大学の日本人コミュニティとも全く接触していなかった。しかしそれは、僕と現地日本人の双方が、お互いに命の危険があるような事態にはならない(そんな事態にならない程度にはブダペストは安全である)という前提のことだ。
例えば、僕はヴィーガンだが、ハンガリーの日本人コミュニティの方々は、ヴィーガンについて知識がなかったり、ヴィーガンを嫌っていたりする傾向があるように見受けられた。そういう人たちと接触し、誤ったヴィーガンの知識が広がり、僕がその一員のように思われると困る。また、ブダペストの日本人の中にシェイクスピア戯曲の原文を一つでも始めから最後まで読んだことのある人も居なさそうだった。シェイクスピアの作品は古代ヨーロッパにつながる広がりと深みのある「宇宙」であり、グローバリズム的な「帝国主義者の英語」とはかなり違いがあるということを理解してもらうことは難しそうだと思った。その点を誤解している人と同一視されることは、1日の大半を英文学の勉強に費やしていた僕にとって、「危険」であり、また、「不都合」だった。ハンガリー人からみるとそれぞれの日本人は"one of them"の日本人に見えるのだろうな、と予想し、そのうちの一人だと思われて誤解に基づく怨みなどを買うと困るので、気をつけて単独行動していたのだ。決してブダペストの日本人が嫌いというわけではなかったのだが、そのような事情で、僕なりの自己防衛として他の在ハンガリー日本人とは関わっていなかった。僕は僕、そっちはそっちでやってもらったほうがいいと思っていた。しかしそれは、繰り返すが、お互いに命の危険があるような事態にはならず、そんな事態にならない程度にはブダペストは安全である、という前提のことだった。
今回の事件をめぐるハンガリー警察の対応、また、日本大使館の対応、他の在ハンガリー日本人の反応、現地ハンガリー人の反応、日本のメディアの報道をインターネットで見る限り、それは「ああ、今後もブダペストにおける日本人の危険は変わらないだろうな」というものでしかない。今回の事件を受けて、何が間違っていたのか(なぜ欧米人は日本人の命や尊厳をこれほど軽く扱うのか)をよく考えて、現地の多くの人が危険を前もって感知し、「最悪」が起こることを未然に防ぐことができるように状況が改善されることになるとは、考えにくい。僕の経験から言っても、現地のハンガリー人は危険の中にいる日本人を守ってはくれない。あるいは、危険から守る術を知らない。人ひとりの命がハンガリーで「現実に」奪われた、という事実は、重く受け取られるべきだと僕は思う。
アパートの賃貸情報に日本人のポルノが合わせて載っていることを通報したり、ハンガリーにはレイプカルチャーがあって外国人をその餌食にしていたり、ハンガリー社会にアジア人差別や権威主義があることを、それが大変に危険であることを、僕は今まで何度も何度も警鐘を鳴らしてきたが、根本的に何も変わっていない。
ハンガリーは日本人にとって安全な国ではない、ということは、正式に政府などの公的機関から告知される必要があり、今後、ハンガリーから脱出の必要がある日本人に対しては積極的に支援する必要がある。もはや、ハンガリーの状況はそういう段階にあると僕は思う。
すべての人の安全を祈る
京大数理研の望月新一先生がブログで欅坂46について何か書いているという古い新聞記事を見て、「そんなことあるかな?」と半信半疑でブログを訪れてみると本当に書いておられた。すごいな〜と思いながら先生の他のブログ記事も読んでみると、「先生の言っていること、わかる、わかるぞ〜」の連続。特にヨーロッパの高名な学者が宇宙際タイヒミュラー理論を目打って混乱していることについて「欧米人自身の神格化・選民思想」が表れていると主張する記事については「あ〜、そういうこと、ほんまにありそうだな〜」と自らのヨーロッパでの経験と照らして説得力を感じながら読むことができたのであった。きっと高校生を想定読者に設定しておられるのではないかと考えられる。だから僕でもわかることを書いておられるのだろう。
僕はもともと京大理学部数学科志望だったので、京大数理研には憧れがある。(中・高校の数学の先生はそこ出身だったし)
欧米の学者が欧米人以外の知能を低くみるということは実際にある。とにかく欧米のお粗末な実態が権威主義的な環境を作り、権威主義的な教員が学生の学習意欲を削ぐ。ブダペスト大学の「言語学入門」1回目の授業で、アラビア系の教員が「音素と異音の違いはどのように説明できるか?」と問いかけたので、「音素は異音になります」と答えると「違う!」と食い気味に否定された。そして「誰だ、お前にそう教え教員は?」と畳み掛けてくるので、とりあえず僕は「音素と異音の関係は数学における(単射)写像のような構造だと説明できます」と答えたのだが、それ以降そのアラビア系の教員はあまり僕を相手にせず授業を進めることに決めたようだった。そしてその授業以来、僕の主張は基本的に"What?(はあ?)"であしらわれることになってしまった。関数の単射・全射は日本では高校生レベルの知識である。数学の進度が遅いと言われる欧米であっても少なくとも学部レベルだろう。このアラビア系教員の反応は、何処の馬の骨とも知れぬ留学生から指摘された間違いが「高校生レベルの初歩的な誤解」ということになれば、自分の権威が脅かされると恐れてのことだろう。
一介の学部生の留学経験を超エリート研究者の望月先生の経験になぞらえて言うのは僭越だが、欧米の学問の実態の中には歪んだものがあり、その歪みは研究者だけでなく、大学院生だけでもなく、学部生、さらには高校生、中学生にまで明確に及んでいる。広範囲の社会的な弊害だ。それは事実であり、まともな批判を受けていない。健全な学習環境のために、それに関してはきちんと批判されるべきだと思うという主張には僕も一票を投じたい。