<ビザ取り消しについてのそれぞれの人の意見>
・現地の友達の意見:この国の首相オルバーンの移民排斥思想のせい。ビザ取り消しは最悪。(そう言って励ましてくれる。)
・大学の意見:期限までに書類を提出しなかった僕が悪い。それを命令できるのが権力。従え。でも私たちはあなたの勉学をサポートしたい。(ほんとか?)(補足:期限を提示された覚えはない。)
・移民局職員の意見:あってもなくてもいい書類(実際に、新しいビザ申請要項に今回求められた未提出の書類は明記されていなかった)が原因でまた移民局員の仕事が増えるのは勘弁してほしい。不服申し立てをして、早くビザを受け取ったらいい。
・僕の意見:ハンガリー政府に難癖をつけられているようにしか思えない。
<今僕ができること>
前提条件:ビザ申請のためには移民局に直接赴く必要がある。移民局に直接赴いて申請プロセスを開始した時点で、滞在は合法になる。クリスマスと年末年始に移民局は閉館する。
プランA:不服申し立てをする。不服が承認されれば法的に僕のハンガリー滞在は問題ない。すぐにビザを入手でき、不服申し立てに2万円要求されたことと心理的な苦痛を除けば、特に問題はなく全て落ち着く。
プランAa:不服申し立てをして、ハンガリーに滞在する。この場合、不服が承認されれば僕の滞在に問題はないが、不服が拒否されれば強制送還になる。
プランAb:不服申し立てをして、日本に帰国する。僕のビザはパスポートによって12月29日まで有効なので、それまでの間に帰国する。学期末の試験が受けられないため、せっかく勉強した単位をいくつか強制的に落とす。
プランB:不服申し立てを取り下げ、新しくビザを申請する。年末年始の移民局閉館までの間に新しくビザ申請ができれば、ハンガリー滞在は法的に問題なくなり、試験はみんな受けられ、安全な選択。これが大学側の提案。ところがこの場合、難癖(としか僕には思えない)に屈することになるので、それが僕はすごく嫌。
僕が今選択しようとしているのはプランAb。つまり即帰国。なぜならもうこれ以上、難癖・いいがかりに付き合いたくはないから。
パスポートを提出していないことが原因でビザが拒否されるなどならまだしも、提出していないのは「アクティブステータス」という、「この学生は今学期中に休学ではない形で籍を置いている」という証明書なのは、単に嫌がらせに思える。「籍を置いている」ということ自体は他に提出した入学許可証などでわかりきっているし、そもそも「休学している学生」は「学生ではない」ということを意味していいのか?
それぞれの人に「できること」と「できないこと」がある。いいがかり(としか僕には思えない)に我慢することは、僕には「できないこと」に属するように思う。
法の最も重要な役割の一つは市民の安全を守ることである----ハンガリーの貴族エリザベス・バートリの逸話が残した教訓はそのことではないのか。
法が市民の安全を守ることではなく守るふりをするようになったとき、差別が差別を生む最悪の循環を生まないように抵抗する力を受け入れる側の人間が失ってはならないと思うのだが(それは差別へ加担することである)、そのようなこの国の差別主義者の更生の道はまだまだ長く遠い道のりのようだ。
ときどき、この国の人は僕が他人だということを忘れているのではないかと思う。気に入らなくなったら僕はすぐにこの国を出ていくし、政治家たちが口を揃えていうような「ハンガリーへのノスタルジーと思い出」など僕にはかけらもない。
歓迎されているなら訪れるし、無礼があれば立ち去る。いたって当然の判断基準だと思うのだが。もう少し他者に対する想像力は働かせてみてはどうかと思う。
移民局での滞在許可証申請はオンラインにて行われる。オンラインで必要書類を提出したらそれで完了。のはずなので、とっとと書類を提出して、移民局で2時間×三日くらい待たされたのち、滞在許可証の申請を終えた。それが9月末。それ以来ビザについてはすっかり忘れていた。
そう思ったら嫌な雰囲気のするポストの通知書が届いた。僕の住むアパートにはポストがないので、郵便物を投函できなかったため、郵便局まで配達物を取りに来なさいという通知書。
郵便局に行くと印刷日が11月27日と記録された書類が入っており、「8日以内にのみ異議申し立てができる。そのために2万円くらい払いなさい」と書いてある何やら物々しい通知書が。郵便物が届いたのが最速で12月9日だから異議申し立てはすでに不可能である。ビザ申請に必要な書類とは違う書類が提出されているので、ビザ申請プロセスを取り消した、と書いてある。
まずここで言っておきたいことは、僕はすでに必要な書類を提出したということだ。移民局がここで「提出しろ」と要求しているのは、僕がブダペスト大学に正式に在籍していることを証明する書類だが、それはもうすでに提出している。それに加えて、追加の書類を移民局が要求してきた。それを満たしていないから、お前は犯罪者になりました、とそう言ってきている。全部ハンガリー語で。読めるかバカ。
僕が大学に在籍して勉強していることはすでに証明済みなのにも関わらず。
とりあえずのところは、大学の機関及び移民局の出せる限りの宛先に要求された(心底、無意味な)書類は提出したが、返答はない。こうやって僕が自分の知らないうちに犯罪者に仕立て上げられていることを知ると恐ろしい気持ちになる。
これをシステムの暴力と言わずになんと言おう。
本件に関して、ハンガリー語でなんと書いてあるか教えてくれた友達と職員には敬意と感謝を表したい。ありがとうございます。こんなしょうもないことで時間とってすみません。しかし、本件でせっかくできた友達、友達になれそうだった人たちのうちのかなりの人々を失った。
ハンガリーのシステムは、「こういうことをする」システムのようだ。「こういうことをする」システムを「えらい」と崇めろと言われましても。俺らは偉いんだから靴底を舐めろと言われましても。
そんなん言われましても不可能ですよ。あのー、勉強の邪魔せんといてくれます?
何より試験が楽しみで大学に通っているという人はあまりいないと思うけれども、何はともあれ試験期間が始まる。
言い訳っぽいが、試験において確かにハンガリー国外からの留学生にはそれなりに不利があることは事実だと思う。試験結果の不利ではなく、学習精度の不利がある。ヨーロッパのギムナジウムと大学の課程はそれなりに繋がっているため、ギムナジウム(高校)に通っていない僕は、所々でやる気のギアがかかりにくい。例えばトロイア戦争などのギリシャ神話をギムナジウムで大量の時間をかけて勉強するというような、そういう西洋古典からのレファレンスについて学校では勉強していないため、そういうところが手薄になるのが苦しい(なけなしの知識で現代ではマルクス主義と対比されるところのプロメテウスが鷲にいじめられるギリシャ神話を引いたらえらく褒められたけれど、プロメテウスは科学者にとっては適度にクリティカルかもしれないが文学作品を読むには破壊力の方が強すぎる神話だなあと、プロメテウスを引くたびにいつも思う)。とは言えそんなことは現地の学生と情報交換すればいいだけのことで、これも留学の愉しみの一つか。
ハンガリーでさえ英文学を真面目に勉強する学生は決して多数派というわけではないらしく、チョーサーだろうとマーロウだろうとシェイクスピアだろうと、ドライデンだろうとディケンズだろうとウルフだろうとマンスフィールドだろうと、どの作家の専門の教授のところに行っても基本的にほぼ涙目で「やっと、やっと文学研究に対して真面目な学生が来てくれた...!」と大歓迎をされるのは嬉しいような悲しいような。英文学って孤独な学問なんですね。
ハンガリーのシステムの方は「お前なんかどうせ部外者なんだからこっち来んな!ケッ」とアジア人差別混じりの世にもひどい攻撃をしてき、一方で個人の力で留学生を受け入れているなかなかすごい人たちもおり、その二重性(多層性?)を留学生がうまく見切ることで大学の環境に適応する、ということを僕はしている。正直、曲芸みたいで嫌だな、と思うこともある。
競争率が高そうな権威ある作家の作品についてがっちり学ぶのが現在のブダペスト大学のトレンドなのだろうか。そのような学習がレファレンスとして役に立つことは間違い無いだろう。しかしみんなが当たり前だと思っている前提を問うような話題(そんな話題はいっぱいありますよね。)については目を瞑りがちでは無いのか。致命的に権威主義的なのではないか。「完璧な頭の良さ選手権」で勝つ競走は決して僕にとって最上位の優先度では無いのですけど。...そんな暗闇も予感されています。
海賊は奪った宝の価値をわかっているのだろうか。奪った宝の価値をわかって奪ったのか、それとも「なんとなくいいなあ」という直感で奪ったのか。
日本のような環境ではあまり思い切ったことをする必要はないから、上品に構えていればそれで結構。むしろ普通以上に頑張ってみせることは下品ですらある。
しかしブダペストの文化は日本文化と同じように発展してきたという訳ではない。全員がそうだというわけではないが、ブダペストでは海賊的な気質が発達してきた。今のところ僕にはそう思える。
それはただの略奪ではない。ちゃんと奪ったものの価値をわかっている。もとの所有者よりもわかっているかもしれないほど価値がわかっていて、ねらいを定めて鮮やかに奪う。それはもはや「奪う」という動作ですらなく、宝物が向こうからやってきたのだとすら言える。そんな現象がギリギリ存在しているように思える。(でも、海に面してないのに、どういうことなのでしょうか)。
そのような海賊的な人を前にして僕はなんと言えばいいのか正直よくわからない。ただ「すごいですね...」と思う。
大学の女子トイレに「道義的行為に反する落書きがされている」という噂が広まった。「シオニストの落書きがされている」らしかった。「これは白人・ハンガリー人差別である」ということで重大な問題として処理されるらしかった。その噂を聞いて、僕は頭が痛くなった。
「シオニストの落書き」というからには、それはハーケンクロイツのような記号が書かれているということだろう、と思った。しかし書かれていたのはパレスチナでの虐殺に対する抗議らしかった。
パレスチナでの虐殺に対する抗議を女子トイレに落書きすれば、「シオニスト」としてスケープゴートされる大学。虐殺への抗議を「白人差別だ」と解釈する学生たち。トイレの落書きを検閲する馬鹿馬鹿しさ。
そして、ここでは僕もちゃんとスケープゴートにされている。僕はStand with Palestineでやっているので、要するに僕が人権を主張すれば「それは白人差別だ」ということで黙らせようというポリシーだ。もちろん女性もスケープゴートの対象だ。虐殺に抗議することを許さないと言っている。
本当に恐ろしい虐殺を告発せず、虐殺に抗議する落書きを告発して処罰するというシステムの不備。システムの権力が暴走している。
さらに、この状況において僕は落書きを処罰する側の人間だと思われているという甚だしい勘違い。「落書きなんて非常識よねえ。飯田くんもそう思うでしょ?」思わねえよ。当然、僕はじゃない方の人間だ。落書きを非常識だと思わない方の人間。落書きする方の人間です。いくらでも落書きしますよ。
ビデオゲームが苦手だ。しかしこの国では、講義中に音を出してシューティングゲームをするほどのゲーム中毒ぶりの学生が隣に座ってくる、という嫌がらせまで受ける始末。僕、ビデオゲームが好きそうに見えます?ごめんね、それも勘違い。
ゲームはゲームでもボードゲームなら時々やりますよ。議論もゲームの一種と言えるかもしれない。でも、ただ銃を持った男が敵と思しきキャラクターを撃ちまくるようなゲームは全然やりません。スマホゲームもひとつもやりません。理由はおもしろくないからです。以上。
今日なんとなく『コンビニ人間』はエイセクシュアル(他人に対して全く性欲を抱かない人間)なのだろうかどうなのだろうか、ということを考えた。それで、ちょっと違うのではないかと思った。主人公の古倉恵子(以下K)は橋本治の定義によれば「性欲でしか動けない人間」だと思う。Kにとっての「他人の都合」は、「他人ができるだけ幸せになるように」という視点で必ず終結する。しかし「他人に幸せになってほしい」というのはKの都合でしかなく、それゆえにKの行動原理はすべてK自身の都合によって支配されている。
例えばKが死んだ小鳥を見ていきなり「これ食べよう」という場面。
"私は、父と母とまだ小さい妹が、喜んで小鳥を食べているところしか想像できなかった"
-『コンビニ人間』p13文春文庫
これはKが他人の幸せを想像している場面である。
"父も母も、困惑していたものの、私を可愛がってくれた。"
-『コンビニ人間』p16文春文庫
これはKが他人の行動を説明している場面だが、Kには「よくわからないけど、父や母は私の幸せを望んでいる」という認識しかできない。
"私は、白羽さんの存在が自分にとって有益かどうかどうか考えていた。母も妹も、そして私も、治らない私に疲れ始めていた。変化が訪れるなら、悪くても良くても今よりましな気がした。"
-『コンビニ人間』p109文春文庫
これはKが結婚について考えている場面だが、ここでいう「まし」とは「疲れのない状態」、つまり、「今より幸せな状態」の一種だ。
さて、そのようにKの行動を読めばKの視点はなんとも涙を誘うほど思いやりの深い視点のように思えるが、ちょっと待ってほしい。「他人」とは、常に自分の幸せを優先して行動するものなのだろうか。「他人」とは、Googleマップが目的地への最短距離を計算するようにつねに幸せへの最適解を探索し続けるものなのだろうか。違うはずだ。人間は自分の健康を害ったり、自分を傷つけるようなことをあえてする不思議な存在である。つまり、「他人」は不幸を追求することもある存在であり、「他人の都合」は幸福と矛盾することもある存在だということだ。「他人の都合」には、「幸せにならないように行動する都合」が織り込まれているのである。この点をKはつねに見落とし続けている。
Kは「幸せと矛盾する他人の都合」がわからない人だ。その意味において、 Kは「他人の都合」がわからない。「あえて不幸を追求する人間」の意味がわからない。これをキッパリ言ってしまうと「性欲でしか動けない人間」になる。
さて、『コンビニ人間』についてなぜこんな分析をしないといけないのか。それは、まさに今僕が暮らしているブダペストの「普通の人たち」が他人の幸せを最大化するように行動しているからだ。ブダペストだけではない。今や世界中の人が、「みんな幸せになったらいい」と思って行動していて、特に疑問も持たずにそれを「いいこと」だと思っている。特に家族は身内の人間に対して「幸せになってほしい」と思いがちだし、先生は生徒に対して「幸せになってほしい」と思いがちだし、グローバリストは海外でがんばる他のみんなに「幸せになってほしい」と思いがちだ。しかし待ってほしい。我々には、その「他人を幸せにしたい欲」を裏切ることは許されていないのか?
お友達の某君は「ふつうのハンガリー人」とは結構違う気がする。某君は「いい人」だ。攻撃的なところがあまりなく、優しくて、頭が良い。思わせぶりなことをするが、だからといって僕を傷つけるようなことをしないし言わないように気をつけている(それってすごくないですか?)。しかし勉強はサボりがちで課題をやっていない(これはよくない)。某君は何故かわからないけど興味があることが多くない。きっと何かとんでもない苦しみのなかに生きているのだろうと思う。
ハンガリーは小さな国だが、一枚岩じゃないのだ。国家の枠組みでは捉えきれない多層性がある。
そんなすてきなお友達ができたことは幸運というほかないのだが、一方で講義室にいる留学生の数が激減している。と、いうか、いない。僕以外。
留学生がハンガリーでうまくいかない理由は想像がつく。受け入れ大学の体制、現地の学生、留学生、それぞれの要素が組み合わさってうまくいっていないのだが、留学生側が状況を悪くしている要素には「資本主義への執着」が挙げられるだろう。
対して、現地の学生が状況を悪くしているのは「コミュニズムへの無知」であり、これは勉強不足というほかない。『資本論』を読まずして、共産主義が可能なのか。
状況をよくするために、「マルクスをちゃんと読み、実践する」ということ以外に良い案を僕には特に思いつかない。これはハンガリーの学生の知性を信用するほかない。
アニメ「ちはやふる」の二十四首を見ていていいシーンがあった。クイーン戦を観戦しているとき千早がクイーンの札の取り方を見て、みんなが「すげえ、居合みたい」と褒めているなかで、千早が「刃物じゃない!糸を繋いでる」と気づくシーンがあり、これは使える教訓だと思った。
ブダペスト大学では英語がうまくなりたかったら、「研ぎ澄まされたような英語を話せ」と指導するものが少なからずいる。その多くは男性である。かなりの学生がそのような指導のもとで英語を学んだらしく、切り裂くような英語を話す。相手に力を見せつけるために。相手により深くダメージを与えられるように。
僕の鼻の骨を折ったハンガリーの合気道道場も然り。大学の学部長の合気道道場も然り。ずっと、しゃーこ、しゃーこ、と刀を研いで、自己愛に執着し、ナルシズムを極めている。
だから、彼らは僕のことも「どれだけ研ぎ澄まされた英語を話すか」で勝負をしにきていると思い込んでいる。勘違いも甚だしい。そんなわけないじゃないですか。
みんなの勘違いに気付ける人ってすごいと思うんだけど。