年が明け、あまりにも暗いニュースが続くので、気晴らしに歌謡曲について書いてみた。
先日、ふと立ち寄った本屋で、『文芸春秋』を立ち読みしていると、「私の昭和歌謡ベスト3」という特集が組まれていて、内田先生他各界の著名人が選んだ歌謡曲が掲載されていた。
僕は、1977年にラジオでセックス・ピストルズの「ANARCHY IN THE UK」を聞くまでは、歌謡曲少年だった。僕が、小学生のころは、毎日のようにテレビで歌番組が放映されていて、殆どの歌番組を観ていた。それでも飽き足らず、10才ぐらいになると、ラジオでも歌謡曲を聴いていた。当時、番組名は忘れたが、高島忠男が司会を務める、歌謡曲のイントロ当てクイズ番組があり流行っていた。僕は、その番組を毎週楽しみに見ていたが、僕にしてみると、あまりに簡単で、もし出演したら、毎違いなく優勝するのになぁと勝手に妄想を膨らませていた そんな僕が、勝手に昭和歌謡ベスト3を選んでみた。いろいろ考えた結果、「融合」という切り口で選んだ。
1.「ス・ト・リ・ッ・パ・ー」(沢田研二、1981年)
当時の沢田研二は、バンドサウンドを追求し「JULIE & EXOTICS」という名前で活躍していた。この曲は、ロカビリーそのものだが、ステージ衣装は、当時のUKニューウェーブを強く意識したものだった。化粧をし、派手な衣装を着こなす沢田研二は、唯一無二の存在だった。日本のデビッドボウイといえば言い過ぎだろうか。そして、この路線は、その後の「麗人」、「6番目のユ・ウ・ウ・ツ」と続き、さらにUKニューウェーブ色を強めていく。このあたりが、沢田研二のピークだった。
その後、「大人の事情」で、沢田研二は、テレビから忽然と消えた。しかし、その後も、沢田研二は、自主制作で音楽を作り続け、それに合わせて毎年コンサートを行っているのは、何となく知っていた。年末に、WOWOWで、「75才記念ライブ」の模様が放送された。すっかり老いてしまった沢田研二は、髪が真っ白で、太っていた。しかし、その歌声は、衰えたとはいえ、「老人シャウト」と呼んでもいいような、老人にしか出せない声で、僕は、すっかり魅了されたのである。
沢田研二の歌謡曲における功績は、歌謡曲に見事なまでにロックを融合させた点にある。沢田研二がいなければ、その後の「BOOWY」も「GRAY」も存在しなかったであろう。その功績は、もっと世間に認知されるべきだと思うが、テレビに出ないことで沢田研二のことを知らない人が多いことに、僕はせつなくなる。
因みに、カラオケに行けば、僕は必ずこの曲を歌うのである。
2.「あの日に帰りたい」(荒井由美、1970年)
今でもこの曲を聞いたときのことは、昨日のことのように、はっきりと覚えている。小学校4年生のときで、当時の僕の日曜日の午前中のルーティンは、ロイ・ジェームスの歌謡曲ベストテン番組を聞くことだった。その日、ロイ・ジェームスが少し興奮したような口調で、「それでは、第四位です。初登場で、堂々の4位です。荒井由美「あの日に帰りたい」。どうぞ。」このような感じだった。
それは、今まで聞いてきた歌謡曲とは、全然違うものだった。歌謡曲にありがちな、大仰なアレンジはなく、淡々とバックの演奏が続けられていた。しかも、曲調は、当然ながら事後的に知ることになるのだが、「ボサノバ」風だった。なにか、自分が少し大人になったような気がした。それは、小学校4年生の少年が、「あの頃の私に戻って、あなたに会いたい」という歌詞に共鳴するという、それほどまでに、想像力を掻き立てるものだった。
冬のある日、営業車を運転していると、カーラジオから「ヴェルベット・イースター」が流れた。そのとき初めて聞いたのだが、いい曲だなと思い、公園に車を停めて最後まで聞いた。この曲のサビの部分の歌詞は、「空がとっても低い」である。曲が終わり、何気に空を見てみると、どんよりとした冬らしい空で、とっても低かった。高い空とは、よく聞く表現だが、低い空とは、よくいったもので、そのときの不思議な感じは、荒井由美の作詞家としての才能に驚いた瞬間だった。
荒井由実は、プロコハルムなどのイギリスの音楽が好きだったそうだ。一方、バックで演奏するのは、「はっぴいえんど」を解散した細野晴臣が結成した「ティン・パン・アレー」だった。黄金期のアメリカンポップスを知り尽くした細野晴臣が、イギリスの新しい音楽に興味を持つ早熟な才能と融合した結果、この曲が生まれたというわけである。
荒井由実のデビューアルバム「ひこうき雲」は、「ティン・パン・アレー」の前身「キャラメル・ママ」の全面的なバックアップにより完成した。改めて聞いてみても、その演奏力の高さに驚かされる。細野晴臣自身が、自分の若いときのプレーに驚いているぐらいだ。
この曲を歌謡曲といっていいのか分からないが、日本ポップス史上に残る曲であることは間違いない。
3.「木綿のハンカチーフ」(太田裕美、1975年)
「はっぴいえんど」を解散した後、松本隆が作詞家としての地位を確立した曲。
歌詞は4番まであり、西のとある地方から東京を想起させる都会に出た男性と、故郷に残された女性との遠距離恋愛が破れるまでを、男女の対話形式でストーリー仕立てにしている(ウィキペディアより)。
初めてこの曲によって、僕は「文学」と出会ったような気がする。それまで、文学とはまったく無縁な環境で、「もーれつア太郎」や「天才バカボン」しか知らなかった僕にとっては、何か少し高尚なものに触れた気がした。僕にとっては、歌謡曲と文学が融合した瞬間である。
松本隆の書く詩は、しばしば文学的と言われる。そのことにまったく異論はないが、そこに付加される側面も捨てがたい。
太田裕美の歌う松本隆の世界は、少女の世界観である。その世界観に、なぜか男の僕は感情移入している。この曲に限らず、「雨だれ」、「赤いハイヒール」など、なぜかすべての少女に同化してしまう。そして、この世界観は、松田聖子へと引き継がれていく。
しかし、よく考えてみるとある矛盾に気づいた。それは、太田裕美の世界観には、深く共鳴するのに、松田聖子のそれには、まったく反応しない。なぜだろう。
それは、この曲を聞いた僕の年齢によるのでは、僕はそう思う。この曲を聞いたのは、10才のころで、早熟だった僕は、子どもを卒業しようとしていた。その時期は、子どもでもない、もちろん大人でさえない、何者でもない非常に不安定な時期だった。そんな時期だからこそ、少女にさえなり得たのではないだろうか。そんな気がするのである。
それにしても、当時「はっぴいえんど」のことなどまったく知らなかったのに、自分の選んだ3曲のうち2曲も、間接的に「はっぴいえんど」が関与していたことに驚きを隠せない。
因みに奥さんの選んだ3曲は、「ちぎれた愛」(西城秀樹、1973年)、「別れの朝」(ペドロ&カプリシャス、1971年)「横須賀ストーリー」(山口百恵、1976年)だそうです。
早いもので、2024年も約2週間が経過した。言うまでもないが、2024年は、1月1日の能登半島地震で始まってしまった。時間を経るごとに明らかになる惨状とは裏腹に、国の対応は、驚くほど遅くやる気が感じられない。そんななか、山本太郎は、すぐに現地入りした。新聞やテレビがあまり報じないので、知らない人もいるかもしれないが、たとえば、2011年の東北大震災以来、恒例のように、山本太郎は、年末・年始の炊き出しに参加している。2019年9月、安倍晋三元首相の国葬が行われたが、れいわ新選組は式をボイコット、山本太郎は、豪雨被害のあった静岡の被災地に入っている。これらのことは、ほんの一例にしか過ぎない。
山本太郎は、そんな人である。僕は、なにもネットで収集した情報を単に並べているのではない。僕は、山本太郎が、「大阪都構想」反対演説を、大阪市内各所で繰り広げているのを、目の前で見ていたからである。れいわ新選組にとって、大阪都構想は大阪市の問題で、直接には関係のない、政治的イシューであるにもかかわらず、山本太郎は連日、街頭に立ち続けた。あるとき、スタッフと話をする機会があり雑談をしていると、スタッフは僕にこう言った。「彼は、本気です。決して生半可な気持ちでやっていません。毎日4か所で演説を行っています。我々スタッフが、体のことを心配してもまったく聞く耳を持たないんですよ((笑))」。
また、大阪メトロ「西長堀」駅前での演説を僕の横で聞きにきていた飲食店経営者が、「都構想の何が悪いのか、正直分からなくて聞きにきました。」と話かけられ、僕は「今からそのことを山本太郎が説明してくれます。とにかく、最後まで聞いてみてください。」と答えた。演説が終わると、飲食店経営者は、「そういうことだったんですね。」とニコリと微笑み、れいわ新線組のポスターを手に取り、「店に貼ることにしました。」といいながら、その場を立ち去っていった。政治家とはこのような人のことをいうのだろう。「大阪都構想」が、僅差で否決されたのは、山本太郎に負うところが大きいと思っていて、大阪市民の一人として、本当に心から感謝している。
山本太郎は、世の中の不条理に対し、常に怒り続けている。だから、能登半島地震にいち早く反応し、現地に駆け付ける行動力は、僕としては容易に想像ができた。
が、しかしである。この山本太郎の行動を冷ややかに批判する輩がネットを通じて頻発した。この連中の言い分を、どのように理解すればいいのか、僕の知性では、到底理解することも、想像することさえできなくて、忸怩たる思いでいっぱいだった。
お正月休みの間、僕は、「奇跡の経済教室【基礎知識編】」、「奇跡の経済教室【戦略編】」(@中野剛志)を読んでいた。本当に面白い本なので、是非、ご一読いただきたい。内容は、日本が30年もの長いあいだデフレから脱却できない理由について、ド素人にも分かるように、丁寧に分かりやすく解説している。その内容は、山本太郎が演説で繰り返し繰り返し主張し続けているものと何ら変わらない。内容を簡単に要約すると、日本が長い間デフレから脱却できないのは、本来インフレに対する処方箋として有効な新自由主義的政策を、日本はデフレ下で行い続けているのが、最大の原因だと著者は分析している。では、なぜそのようなことが起こるのかというと、「主流経済学者」が「貨幣」について何もわかっていないからだということだそうだ。
あまりに面白い内容なので、ページをどんどんめくっていくうちに、次のような文章に出会った。
「デフレによって、人々はルサンチマンを抱きやすくなるのです。」
(「奇跡の経済教室【戦略編】P117」)
僕は、虚を突かれる思いがした。山本太郎の「能登現地入り」を冷ややかな目で見ている人たちに共通するのは、ある種の「ルサンチマン」だろうとは思っていた。しかし、その「ルサンチマン」は、その人独自のものだということから、僕の思考がスタートしたので、袋小路に入ってしまい、その中から抜け出せずにいた。そうではなく、彼らに共通する「ルサンチマン」が存在するとすれば、僕の仮説も成立する。中野剛志によると、その共通する「ルサンチマン」の対象がデフレ下の経済状況となる。
「デフレで不況のときは、需要という全体のパイが縮小してしまいます。そうすると、縮小するパイをみんなで奪い合うことになりやい。」
(「奇跡の経済教室【戦略編】P115」)
このことは、当然ながら経済状況のことを説明しているのであるが、同時にデフレ下に生きる人間そのものにも当てはまるのではないだろうか。縮小するパイをで奪うことに腐心し、そのことで成功した人間たちの現在の心のありようなんだろうと思う。彼らが、どのような考えを持ち、どのような発言をしようと、「どうぞ勝手にやってください」と思うだけだが、そういう連中を支持する連中がそれなりにいることが、僕をさらに困惑させるのである。
先日、寺小屋ゼミで「孤独大国ニッポン」というテーマで発表をした。発表を終え、内田先生からのコメントのあと、いつもの質疑応答の時間となったが、テーマがあまりに重たかったのか、当日参加されていたゼミ生から、最初は質問の手が挙がらず、僕は少し困惑したが、その後、何人かの方から、感想や質問をいただき、無事に発表を終えた。
僕は、ゼミの発表用のノートを作っているが、今回の発表にあたり、久しぶりにそのノートを開いてみると、「カントリーミュージック」について調べたことが記録されていた。2020年11月17日のことである。そのときの寺小屋ゼミのテーマは、「アメリカと中国」だったのだが、僕は、「カントリーミュージック」について調べてみることにした。当初は、アメリカにおけるポピュラーミュージック史を考えていたが、アメリカというのは、その面積の広さから、音楽に関してもあまりに広範囲にわたるので、「カントリーミュージック」に絞ることにしたのである。
調べてみて、非常に驚いたことがあった。RIAA(アメリカレコード協会)がアメリカにおけるアルバム総売上枚数を調べたところ、1位「ビートルズ」、2位「ガース・ブルックス」、3位「エルビス・プレスリー」だった。因みに、マイケル・ジャクソンは7位、マドンナは17位だった。これを世界に置き換えると、1位「ビートルズ」、2位「エルビス・プレスリー」、3位「マイケル・ジャクソン」、4位、「マドンナ」となる。
「ガース・ブルックス」の売上と同等の規模のアーティストは、「エアロスミス」、「プリンス」、「スティーヴィー・ワンダー」と日本でも人気のあるアーティストたちで、「レデイー・ガガ」、「イーグルス」、「ブルース・スプリングスティーン」を凌駕しているのである。
もうすでにお気づきだと思うが、「ガース・ブルックス」って誰だということになる。音楽については、それなりに知識があるつもりでいたが、「ガース・ブルックス」という名前は、見たことも聞いたこともない。
「ガース・ブルックス」。ウィキペディアによると、1962年に生まれ、オクラホマ州出身のカントリー歌手で、1989年~1997年の9年間の間に発売された7枚のアルバムの内5枚が1000万枚以上の売り上げを記録している。最近では、バイデン大統領の就任式で、「アメイジンググレイス」を熱唱したそうだ。そもそも「カントリー」は売れないとレッテルの貼られた音楽ジャンルと言われているが、たったの9年間という非常に短い期間に爆発的に売れた。
このことは、僕に別のことを思い出させてくれた。それは、「カウボーイ」である。
「カウボーイ」の存在と「ガース・ブルックスが売れた」事実には大きな共通点がある。それは、先ほど述べた期間の短さに比して、その存在感の大きさである
「カウボーイ」が存在したのは、1865年~1890年までの僅か約25年のことで、しかも最下層労働者である「カウボーイ」は、黒人やインディアン、中国人と雑多な人種から形成されていたという事実である。そんな、我々が西部劇で見るような風景と、実際とが全然違うはずなのに、アメリカ人は、カウボーイを「アメリカ的男性のロールモデル」に仕立て上げ、アメリカ人の無意識的な欲望を盛り込まれた幻想的なアイコンになった。
アメリカにおける「カントリーミュージック」の由来は、遅れてきた移民に由来する。彼らには、居住する場所が残されておらず、主にアパラチア山脈の麓に住み始めた。彼らは、「ヒルビリー」という蔑称で呼ばれていた。アメリカには、「レッドネック」、「ヒルビリー」、「オウキー」など特定の白人に対する多くの蔑称が存在する。なかでも「ヒルビリー」については、その情報があまりに少ないせいで、ネガティブな情報だけが独り歩きした。暴力的で大酒呑み。あるいは、閉じられたコミュニティの中でしか生きていけず、近親相姦を繰り返しているなど。これら、蔑称の総称が「ホワイト・トラッシュ」である。
当時、「ホワイト・トラッシュ」に関する映画を調べていたところ、映画評論家の町山智浩の推薦する「脱出」という作品を観た。いわゆるホラー映画ではないが、久しぶりに怖い映画を観た。ストーリーは、男4人組が、カヌーで渓流下りを楽しむために、山深い町で出会うハプニングといったところだろうか。この作品は、山にひっそりと暮らしている「ヒルビリー」に出会ったことから始まる悲劇を描いているといってもいいだろう。
そして、「クライモリ」である。題名は、何となく知っていたのだが、先日WOWWOWで放送されていているのを観た。なんとも怖い映画だった。見終わったあと調べてみると、ウィキペディアには、「ヒルビリーホラー復活のきっかけを作った作品」で、「シリーズ化され、6作目まで制作された。」そうである。
アメリカ人は、「ホワイト・トラッシュ」への自責の念からか、どこかで恐怖を覚えている。
「ガース・ブルックス」の登場は、1989年である。1989年といえば、ベルリンの壁が崩壊し、12月3日のマルタ会談で冷戦の終結が宣言され、アメリカは「冷戦後」に突入する。そんなときに必要だったのは、「あるべきアメリカの姿」だったのではないだろうか。そんな「あるべき姿」として、自分たちが蔑んできた「ホワイト・トラッシュ」への差別を一回捻ったうえで、「カントリーミュージック」に託したのではないだろうか。
このストーリーパターンはたぶん今でも多くのアメリカ人に深い感動を与え続けていると思います。そして、ある種の政治的運動にも心的なエネルギーを備給している。2016年の大統領選挙でトランプに支持を与えた「ラストベルト」の人々や2021年1月6日の連邦会議に侵入した人々を突き動かしていた情念は、この物語に培養されたものではないかと。
僕も内田先生のこのご意見に激しく同意する。
※斜線部分は、「街場の米中論」より
街を歩いていると、知らない人によく道を聞かれる。これだけスマホが普及しているにも関わらずにである。そんなものは、この世に存在しないが、「知らない人によく道を聞かれる人選手権」が、もし開催されれば、僕は、間違いなく入賞するだろう。決して大げさなことではなく、僕は本当に知らない人によく道を聞かれるのである。
しかも、僕に、道を尋ねてくるのは、老若男女、さらに国境も問わない。黒人の男性、白人のおばあさん、中国人の夫婦、‥etc。万国共通なのだろうか。
僕は、第一印象では、およそフレンドリーな人間には見えない(長く同じ時間を過ごすと、そうでもないようだが...)。どちらかと言えば、僕は、不愛想で、表情も乏しい。では、なぜ、道が分からない時に、僕を選ぶのか。答えは、二種類しかない。「この人に道を聞けば、嫌がらずに、きちんと教えてくれそう」、「ニコニコしていて、話かけやすい。」
となると、僕の場合は、前者しか当てはまらないことになる。確かに、僕は、道を聞かれれば、できるだけ丁寧に正確に道順を教える。上手く説明できないときは、そこまで一緒についていくことさえある。あるとき、JR三宮駅で白人女性のバックパッカーから、センター街にある家電量販店の場所を聞かれ、「僕も今からそちらの方に向かうので、一緒に行きましょう」とたどたどしい英語で答え、彼女を案内したことがある。
そんな僕は、果たして親切な人間なのだろうか?そう、自分に問いかけて、僕は、困惑してしまった。小学生でも知っている「親切」という言葉の具体的なイメージが湧かなかったからである。そこで、僕は、身近な「親切そうな人」を探してみた。何人か、該当する人が浮かんだが、実は、彼らに共通していたのは、「親切」ではなく、「気が利く」、「気がまわる」であって、決して「親切」ではなかったことだ。さらに、彼らが、「よく気がついたり」、「気がまわる」のは、すべて打算の上に成り立っているもので、その見返りを期待した上での行為であることを残念なことに発見してしまった。彼らのことを、今一つ好きになれなかったのは、このような理由によるものだろう。
では、「親切」っていったいどういうことなのだろうか。僕は、早速、「親切」をググってみることにした。すると、「相手の身になって、その人のために何かをすること。また、そのさま。2.心の底からすること。また、そのさま。」と書いてあった。また、語源について調べてみると、「「親を切る」という意味ではない。親は「親しい」、「身近に接する」という意味で、切は刃物を直に当てるように「身近である」「行き届く」という意味がある。」とある。「親切」の反対語、「不親切」は、これらに当てはめてみると、「相手の身にならず」、「心の底からではない」ということになり、これは、つまり「体裁だけを整えた」、「やってるふり」ともいえるかもしれない。
僕は、人から何かしてもらうよりは、人に対して、何かするほうが好きである。完璧に「尽くす」タイプである。いい恰好言っているようだが、本当にそうで、性分としかいいようがなく、逆に人から尽くされたりすると、お尻がむずむずして、とても居心地が悪い。30代のころ、僕はまわりの殆どの飲み会を仕切った。店の手配から、会計まで、全てを僕が段取り、あまったお金は、僕がプールし、次の宴会の足しにした。みんなが楽しそうにお酒を飲んでいるのを見ているだけで、僕は十分だった。「ここ、美味しいね。」などと言われると、また、次も幹事をやろうと思う単純な男である。
今年の夏、釣り仲間の一人からお中元が届いた。お礼の電話をかけたあと、彼からラインが届いた。「いつも、釣りのときは、重い荷物を代わりに持ってくれたり、本当にありがとう。なかなか面と向かって言えないので、日頃の感謝の気持ちを込めて送りました。」とあった。そんなラインをもらった方が、むしろ気恥ずかしい気がするが、僕は、病み上がりの彼に代わって荷物を持ったりすることなど、当たり前だと思っていたので、むしろ面食らってしまった。
どうしてこのようなことをつらつらと書いているのか、それは内田先生の「街場の成熟論」を読んだからである。もっとも印象に残ったのが、「親切について」(P150)である。「親切」というトピックが、まさか、太宰治の文学論に飛び火するとは、予想だにしなかったが、内田先生らしい話の広がりに毎回驚かされるばかりで、「あるいは創造とは親切の効果かもしれぬ。」(p151)のなら、ぜひ親切でありたいと切に思う。
いろいろと自分のことについて、自己分析を試みてきたが、一旦、自分のことを「親切」だということにしておこうと思う。さらに、このことのダメ押しとして、「ただ、親切な人の話は必ずわかりにくいものになるのが難点だが」(p151)という点でも、僕は「親切」かもしれない。
僕には、三つ年の離れた兄がいた。「いた」というふうに過去形で書いたのは、兄は、もうすでにこの世にいないからである。いや、厳密にいうなら、僕は、その兄に会ったことさえない。僕の生まれる前に、彼は、交通事故で亡くなっていたからだ。僕は、しばしば、その不在の兄の存在を夢想する。もし、兄がいれば、僕はどんな人間になっていたのだろう。今と同じようになっていたのか、あるいは、もう少しまともな人間になっていたのか、弟というのはどんな感じなのだろう...etc。それほど、僕にとっては、兄の存在が今でも大きく横たわっている。
また、僕は、31才のときに友人を失った。僕の左腕には、彼の形見のロレックスの腕時計がはめられている。葬儀が終わり、彼の母から、「井上君、これ、形見にもらってあげて。井上君が身につけてくれるなら、きっと息子も喜ぶと思うわ。」とその腕時計を渡された。あまりに高価なものなので、丁重にお断りしたのだが、彼の親族一同からの、強い思いに負けてしまい、いただくことにした。その日以降、僕は、毎日そのロレックスの腕時計を身につけている。
こんなふうに、僕は、いつも死者を身近に感じながら生きている。
このような「存在しないもの」を身近に感じる感覚が養われたのは、おそらく、子どものころ母を通じて聞かされた「怪談話」の影響が大きい。最初に聞かされたのは、母が子供のころに遭遇した幽霊の話である。母の実家は、バス道から幅2mほどの狭い道を10分ほど歩いた突き当りに建っている。その途中に、緩く道が折れ曲がった箇所の右手に小さな墓地がある。その墓地で、母は子供のころ、男の幽霊を見たそうだ。お盆に、盆踊りの会場から母の実家に帰る途中、その墓地が、前方に見えてくると、母は僕の手を引きながら、急に歩く速度を緩め、「見てみぃ。あのあたりで、お母さん、男の幽霊見たんよ。」と僕の顔を覗き込みながら、話かけるのである。母は、なぜか怖がる僕の様子を楽しんでいるようかのようだった。この原体験のせいで、僕は、すっかりホラー映画好きとなる。
一方、僕は、運命論者でもある。僕は、原理主義的な思考をあまり好まないが、僕は、かなり原理主義的運命論者である。自分に必要なものは、人も含めて必ず出会えると、無根拠に信じている。だから僕は、自ら積極的に、面白そうなことを探したりは決してしない。そのようなものや人は、必ず、僕の前に、忽然と現れることを経験的に知っているからだ。縁といえば、それまでのことだが、僕は、もっともっとなにか大きな力に動かされているように固く信じている。
あるとき「お墓見」に参加した。この企画は、本書の著者である内田先生と釈先生による、凱風館のお墓「道縁廟」と如来寺のお墓「法縁廟」を眺めながらお酒をいただくというもので、秋空の下、楽しそうだなという軽い気持ちで参加した。現地に行って僕は、驚いた。正面には、五月山がどんと構えていて、そこには、嫁さんの両親が眠っている。さらに、ほぼ同じぐらい北の方向には、僕の両親が眠っている。さらに、三か所間の距離がほぼ同じで、つまり、三か所を繋ぐと正三角形となる。子供のいない、僕たち夫婦は、道縁廟でお世話になることをすぐに決めた。あちらに行っても、いつものように宴席を楽しみたいものである。更に、付け加えると、釈先生のいらっしゃる如来寺と僕の実家は、隣町という関係にあり、互いに同じ駅を利用していただろう。年齢も比較的に近いことから、どこかで会っていたかもしれない。
どうでもいいような私的なことを、なにをダラダラと書いてきたかというと、「日本宗教のクセ」を読みながら、僕のなかでの点と点が、一気に繋がり始めたからである。
どうやら、僕という人間のベースになっているのは、「宗教的センス」(本書、P219 )なのだということに気づいた。いや、気づかせてくれたのが、本書である。音楽を聞いたり、山に登ったりするのもすべてそうかもしれない。
最後に、本書のなかで、僕が一番気に入った箇所について書いてみる。それは、第二章「夕日の習合論」である。大阪市内というのは、京都と同じように、東西南北に道が整備されている。僕は、大阪市西区に住んでいるので、仕事の帰り道は、東西の道を西に向かいながら、毎日家に帰る。つまり、ほぼ毎日、夕日を見ながら家に帰るのである。なんとも気分がいいものである。さらに、僕が一番好きな時間帯は、「マジックアワー」の一瞬である。特に、日没の「マジックアワー」が大好きで、わずか一瞬、時間にすると数分間だが、夜に入る手前の一瞬、あたりが真っ青になる。それは、夕方でも夜でもなく、あたかも世界が、一瞬だけ、透明になるような気がする。あまりにもロマンチックなことなので、人に話をするのも気恥ずかしかったのだが、「夕日の習合論」を読んでいると、「マジックアワー」もまた、宗教性に大きく関係しているのがよく分かった。
そんなことを考えながら、今年もいつものお盆のように、友人、両親、そして道縁廟
へお墓参りに行った。
「街とその不確かな壁」
まわりの子供たちが、「巨人の星」に熱中し、野球に夢中になっていたのを尻目に、僕は、「もーれつア太郎」の世界観に強く惹かれた。熱血に野球を指導し、酒を飲んでは暴れる頑固な父親。そんな父親に「大リーガー養成ギブス」を装着され毎日厳しい野球の練習に耐える星飛雄馬。そんな「巨人の星」に描かれている世界より、子分が全員子豚という「ブタ松親分」や、タヌキにしか見えないのにいつもスーツを着こなし尻尾がはみ出ている「ココロのボス」など意味不明なキャラクターがたくさん登場する「もーれつア太郎」の世界観の方に、僕は「リアル」を感じていた。変なこどもだった。しかし、困ったことに、この「感じ」は、この年になっても消えなかったことだ。
上手く言えないが、僕には、眼前に厳と存在する(かのような)「現実」に、なにか違和感を感じていて、むしろ、それとは別の「現実」が存在するような感覚が強くある。小説「1Q84」は、首都高速道路三号線の緊急避難用階段を、青豆が降りていくことから物語が起動していく。この描写が、僕はとても好きで、僕の感覚にぴたりとフィットするのである。日常の隙間に、もうひとつの現実が存在している、そんな感覚だ。
随分と前置きが長くなった。今春、村上春樹が6年振りに新作「街とその不確かな壁」を発表した。ハルキニストの僕は、即効で書店に行った。
冒頭の5行を読んだ瞬間から、僕は、すでにワクワクしながら、ページをめくっていった。初期の村上ワールドが展開していくような気がしたからだ。しかし、読み進めていくうちに、僕の期待は裏切られていくことになる。村上春樹フアンなら、この小説と、「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」と近似性に気づくのに、それほど時間は要さない。しかし、本作と、「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」は、似て非なるものである。
本作は1200枚という長編小説である。この長大な物語に登場する主な人物は、ぼく、きみ、私、君、影、子易辰也、子易観理、子易森、イエロー・サブマリンの少年、彼女、
ぐらいである。そして、本作を読み進めて行くなかで気づいたのだが、子易さん一家、つまり、死者にのみ、名前が付与されている(厳密にいえば、イエロー・サブマリンの少年もM**だが)。しかも、この三人のフルネームが、発覚するのは、墓石においてである。一体このことは何を意味するのであろう。
本作で描かれている「街」には、一切の概念が存在しない。「時間」もなければ、「名前」も「地図」もない。おまけに、眼球に傷をつけられ、「影」まで剥がされてしまう。そこにあるのは、膨大な「古い夢」だけで、「ぼく」は、ひたすら「夢読み」を続ける。
そして、獣たちが次々と死んでいく。お世辞にも言ってみたいとは思わない。
「ぼく」は、こちらの世界にいたかと思えば、「街」に行ったり、「街」を出るかと思いきや、踏みとどまったり、またこちらの世界に戻ってきたりする。そして、こちらの世界で、子易さんに招かれるように、地方の図書館で働き始め、時々、子易さんと会ったりするのだが、その子易さんは、もうこの世に存在しない。幽霊なのである。
最初、僕は、「街」は、死の象徴なのだろうと思って本作を読んでいたのだが、だとすれば、子易さん一家、つまり、死者にのみ、名前が付与されていることとは矛盾することに気が付いた。では、「街」は、どこに?
ぼくは、このように考える。概念化された世界が、フラットに横並びに配置されていて、そのフラットな世界に別の世界が垂直に交差する。その交差している箇所が、目に見えている「現実」なのではないだろうか。つまり、「現実」というのは、「点」でしかないのではと思うのである。
もう一つの本作における大きな疑問がある。それは、「ぼく」の存在そのものである。
「ぼく」は、「別の現実」にそれこそ縦横無尽に、時空も平気で飛び越える。最初は、少し違和感を覚えたのだが、「ぼく」は、実体ではないのではないかと思っている。逆に、そう思うことで、本作での「ぼく」の存在(のようなもの)が、僕のなかではっきりとする。「ぼく」というのは、実体としての存在ではなく、ひとつの「思念」ではないかと思っている。「思念」である以上、「ぼく」は「私」になれれば、死者との会話も可能になるし、「街」との行き来も自由なわけである。そういってしまえば、身も蓋もないように聞こえなくもないが、決してそうではない。一つの思念の「軌跡」を追うことで、「大きな」現実を描いたところに村上春樹の偉大さを感じる。
作中、「ぼく」は「彼女」の店に行く度に「ブルーベリーマフィン」を食べながらコーヒーを飲む。僕自身「マフィン」は、過去に数えるほどしか食べたことがなく、明日、この世から「マフィン」が無くなったとしても、別に困らないが、本作を読み終えた後、無性に「ブルーベリーマフィン」を食べたくなり、近所のスーパーに買いに行った。残念ながら、陳列台に置いてあったのは、「ブルーベリーマフィン」ではなく、「バナナマフィン」だったのだが、村上春樹の本を読むと、作中にでてくる食べ物を無性に食べたくなるのである。
「このこと」を知ったのは、いつもの寺小屋ゼミの打ち上げの宴席でだった。そう、凱風館は宴会が多いのである。内田先生より、「山崎さんが竹田恒泰から訴えられました。山崎さんは、とても困っています。僕としても何らかの形で山崎さんを支援したいと思っていて、その内容は、後日発表します。山崎さん、事件の概要についてお話しください。」それを、受けて、山崎さんより今回の事件の概要について説明がなされた。
僕は、こう見えて(どう見えているか分からないが...)感情的な人間で、山崎さんの話を聞きながら、激しい憤りを感じていた。経済的、社会的に優位な立場の人間が、逆の立場の人間を訴えるって、法の精神に反しているのではないだろうか?法というのは、最後の最後の手段であって、裁判するほどのことなのか?そんなことを考えながら、話の途中で、すでに「何とか役に立ちたい」と心は決まっていた。
後日、内田先生より、「裁判費用支援のお知らせ」を知り、僕は、即効でお金を送金した。送金したあと、僕は、何かとてもいいことをしたような気になったが、一方で、一体どれだけのお金が集まるのか一抹の不安を覚えた。(その時点で、僕は100万円ぐらいだろうと予想しており、まさかこれほどの金額になろうとは、思いもしなかった。)と同時に、もしかしたら自分も訴えられるかもしれないという危険を孕んでいたが、そうなってからそのときに考えようという、いつもの楽観主義でやり過ごした。
結果については、この本に詳細が書かれているが、まさか、最高裁まで行くとは思いもよらず、「もしかしたら...」という思いから、判決のその日は、何度もスマホで結果をチェックしたのを思い出す。本当によかった。
この本のなかでも「自国優越思想」について触れているので、僕の思うところにういて書いてみる。
50代の右傾化というのは、巷でよく言われていることだが、実感として、本当にそのとおりで、まわりの同世代の連中は、「日本維新の会」を応援し、百田尚樹の著書を愛読している。村上春樹をこよなく愛し、山本太郎の演説を聞きにいく僕のような人間は、まわりに一人もいない。彼らと話をしながら、僕は、ある傾向に気づいた。例えば、このような会話だ。「日本の報道の自由度ランキングが下がり続けていることについては、どう思う?」「...。」「報道が規制されたことが、先の戦争の一因とも考えられるよね」「...。そもそもその統計が正しいかどうか分からない。戦争に結び付けるのは、極端だ。」こんな具合である。彼らは、そのことを知らないのだ。彼らは、外国人が、日本の百均が自国のそれより安い理由で、大量に購入しているのを、日本の製品が優れているからだと信じて疑わない。村上春樹ではないが、「やれやれ」な気分である。彼らに共通しているのは、それらの情報は、テレビでは放送されないから圧倒的に情報量が不足していることである。あるいは、その情報を見ないようにしているといった方が正しいかもしれない。
また、あるときの飲み会の席で、同世代の人が、司馬遼太郎の話を始め、「日本というのは、あの大国の中国、ロシアに勝ったんですよ。そういう国なんです。」と目に涙を浮かべながら熱く語り始めた。僕は、一気に酔いが醒め、まるで珍奇な動物でも見るように彼を見つめた。
彼らは、現在の凋落している日本は、かりそめの姿でしかなく、いつか必ずや、復活するものだと信じ込んでいる。だから、他国を非難したり、「過去」にこだわることでしか、現在のこの状況を是認できないのである。
最近の新入社員は、入社すると同時に転職サイトに登録するそうである。最初、この話を聞いたときには、驚いたが、同じ理屈ではないだろうか?「今の自分は、かりそめの姿で、自分はもっとすごい。こんな会社には、ずっといる気はない。」
韓国映画をよく観る。どの作品も本当によくできていて、2時間退屈することなく、いつも観ている。その展開力もさることながら、韓国映画には、「歴史もの」というジャンルが存在する。その「歴史もの」では、過去の負の歴史ともきっちりと向き合っている。では、邦画はどうだろう?ないとはいわないが、圧倒的に少ないように思える。
「イトマン事件」、「薬害エイズ」、「オウム事件」...etc題材には困らないはずだが。
先日、いつも利用する地下鉄「心斎橋」駅が、若い人でごった返していた。手には、
「BLACKPINK」と書かれたうちわを持って嬉しそうに歩いている。大阪ドームでコンサートがあったことは容易に推測できたが、「BLACKPINK」という名前を知らなかったので、すぐにググってみると、韓国のアイドルグループで、ワールドツァーの一環で日本に来ているらしい。しかもあの「BTS」をすでに凌駕するような人気だそうだ。
今、日本のミュージシャンで、ワールドツァーを敢行できるバンドはあるだろうか?
残念ながら、見当たらない。完敗と言えば言い過ぎだろうか。
昨年サッカーワールドカップが開催された。日本代表が、強豪国ドイツ、スペインに勝ち、大いに盛り上がった大会となった。そんなさなか、知人と会食をしているときに、話題がワールドカップに及んだ。その知人が、いきなり「私、サッカーを見たことがないんです。サッカーの何がそれほど面白いんですか?」という、極めて根源的な問いを突き付けられた。僕は、腕を組み天井を見つめながら、しばらくして、このように答えた。
サッカーの解説では、よくシステム(フォーメーション)のことが取沙汰される。
例えばブラジル代表は典型的な「4-4-2」(ディフェンス、中盤、フォワードの順番)、日本代表は「4-2―3-1」といった具合である。つまり、サッカーというスポーツの根幹にあるのは、この「システム」である。世界的な監督、モウリーニョが、サッカー未経験というのは、あまりに有名な話で、それほど、サッカーにおける「システム」の重要性は高い。が、しかしである。「システム」が秀逸なチームが強いかと言えば、必ずしもそうではない。むしろ、逆である。その「システム」から逸脱して、自分の判断で、そのときの閃きでプレーする選手がいるチームにのみ、勝利の女神は微笑んでくれる。それは、「システム」を打ち破る「勇気」あるいは「想像力」といっていいかもしれない。昨年の大会でいうと、フランス代表のエムバペがその象徴といえるだろう。
ここしばらく世界のサッカーを牽引してきたスペインのサッカーは、まるでコンピューターでシュミレートしたかのように10人のプレーヤーが同時に動き、細かいパスをつないでいくというものだった。それはそれで見ていて面白かったのだが、そのスペインが日本に負けてしまった。スポーツの勝敗には様々な要素が複雑に絡んでいるので、スペインの敗因を分析するほどの知識を僕は持ち合わせていないが、システムサッカーが終焉を迎えた象徴だろうと思っている。
村上龍は、あるインタビューで、「自分が作家になったのは、システムに対する憎悪にも似たような強い感情があって、そのことが、物語を創作していくうえでの大きな原動力となっている。」と言っていた。村上龍と自分を並列に語るのは、あまりにもおこがましいが、僕もそうである。「システム」や「管理」が、どうも性に合わない。
僕は、1988年に会社員となり、今年で35年目となる。この性格でよくサラリーマンが続いたものだと、我ながら改めて感心する。この35年の間には、平成バブル(1989年~1991年)、金融不安(1994年~1997年)、リーマンショック(2008年)と大きな社会的変動があったが、僕の印象としては、そんな影響からか2000年代に入ったころぐらいから、会社は、大きく様変わりし始めた。個人的には、ちょうど2000年に以前勤めていた会社が今の会社に吸収されたときで、新しい会社になったことが、大きな要因だと、最初のころは思っていたが、そうではなかった。このころくらいから、会社は、管理に心血を注ぐようになったのである。その病的といってもいいほどの性向が、現在までもずっと続いている。喜んでいるのは、所謂「本部機能」であったり、「管理職」だけである。僕も一度管理職を経験したことがあるが、経験してみて分かったのは、「退屈でつまらない」ということだけである。この「退屈でつまらない」ことに日本の企業は、腐心している。それも嬉々としながら。もはや病気としかいいようがない。よくもまぁ、次々といろいろなことを思いつくものだと感心するほどである。「管理信教」といっても過言ではない。
例えば、僕の勤めている会社には、「安否確認システム」が存在する。そのシステムが機能しているか否かは、定期的にチェックされ、報告が遅延したりすると、「本部」から叱責される。しかし、このシステムは、東北大震災のときにも、西日本豪雨のときにもついぞ機能することはなかった。
そして、日本の企業組織の問題点は、「上下」の関係への強いこだわりである。よく言われていることだが、日本には、単身赴任という制度がある。海外では、あり得ない制度らしい。僕は幸いにも経験したことはないが、経験した方たちに聞くと、皆が二度と味わいたくないと口をそろえて言う。僕は、この制度の趣旨がよく分からなかったが、
これは、会社への忠誠心を計るための装置であることに気づいた。人事異動も同様である。「嫌なら、どうぞ辞めてください。代わりはいくらでもいます。それが嫌なら受け入れなさい。」こんなところだろう。また、管理職に至っては、営業職のやる気をそぐことについては、天才的ともいえる。これも、イエスマンを生産していくための「有効」な戦略なのだろう。なんとも馬鹿馬鹿しい。
「君たちのための自由論」(@内田樹、@ウサビ・サコ)を、最近読んだ。なかでも、
「おわりに-「管理」と「創造」」というタイトルにインスパイアされ、普段思っていることを書き綴ってみたのである。
2012年12月22日、その日の夜、僕は、渋谷の「Bunkamura オーチャードホール」にいた。ユキヒロさん(僕には、この呼び方が一番しっくりくるので、以下もこう呼ばせてもらいます。)の還暦を記念するライブ「高橋幸宏 60th Anniversary Live」を観るためである。チケットが取れるかどうか分からなかったので、申し込もうかどうかギリギリまで迷っていたのだが、ダメ元で申し込んだところ、なんと当選したのである。開演の30分前に着席し、「一体、どんな人たちが観に来ているんだろう」と思い、まわりを見渡してみて、僕は驚いた。まわりは、殆ど僕みたいな連中でいっぱいだったのである。そう、50代前後で、眼鏡をかけたオッサンばかりだった。特に、右隣に座っていた夫婦(と思う)の夫(と思う)が、関西弁で「「今日の空」演るかな~。演ったら、涙もんやで~」と一人高いテンションで、一体これは独り言なのか、奥さん(と思う)に話かけているのか分からず、僕は思わず吹き出してしまった。
その日のコンサートは、細野晴臣、鈴木慶一など、ユキヒロさんと古くから親交のあるゲストが多数参加した、とても濃い内容だった。代表的な曲を中心に演奏されたが、改めてその楽曲のよさに気づかされた。しかし、なにより感動したのは、二回目のアンコールが終わり、場内が明るくなったとほぼ同時に観客が次々と立ち上がり、いつまでも拍手を続けたことだった。僕は、そのとき初めて「スタンディングオベーション」を経験した。
それから約10年が経ち、2022年9月18日、プロ活動50周年という節目の年であることを祝い、それを記念するライブ「高橋幸宏 50周年記念ライヴ LOVE TOGETHER 愛こそすべて」がNHKホールで行われたが、そこにユキヒロさんの姿はなかった。僕は、三回申し込んだが、今回は三回とも見事に外れてしまった。
2022年6月6日、ご自身のお誕生日のツイッターには「みんな、本当にありがとう」と発信されていて、インスタグラムには、痩せこけたご本人の姿が、アップされていた。その姿が、2020年からの闘病の過酷さを物語っていて、僕は、その写真を眺めているだけで、胸をしめつけられるような思いだった。あの美意識の塊のようなユキヒロさんが、今の変わり果てた姿をフアンの前にさらけ出したことに、僕はユキヒロさんの「覚悟」を感じざるを得なかった。
僕にとってユキヒロさんは、いくつになってもアイドルであり続けた。
1987年夏、22才のとき、僕は、就職活動で初めて東京に行った。僕は、予定より一時間早く東京駅に着き、すぐに渋谷パルコへと向かった。当時、渋谷パルコのB1には、ユキヒロさんのファッションブランド「Bricks Mono」のお店があった。真偽のほどは定かではないが、山本耀司は、ユキヒロさんのことをかなり警戒していたらしいという逸話がある。それはともかく、ドキドキしながら、僕はすぐにそのお店を見つけたが、店内にいるオシャレな店員のお兄さんと目が合っただけで、即効で退散した。また、深夜テレビで偶然にユキヒロさんのライブを見て、そのときにかけていたサングラスがどうしても欲しくなり、ミナミの「白山眼鏡店」で、できるだけそのサングラスを思い出しながらサングラスを買ったりした。それから数十年経ち、その時のライブ映像がたまたまYouTubeでアップされていて、改めてじっくりと見てみたが、ユキヒロさんのサングラスと僕のそれとは、似て非なるものだった。
とにかく、ユキヒロさんはカッコいい。そのカッコよさは、いったい何なのか。まず、その革新性については、だれも異論はないだろう。1974年、「サディスティック・ミカ・バンド」で、「ロキシー・ミュージック」の全英ツアーのオープニング・アクトを務めたりだとか、YMOでは、当時としては珍しかったコンピューターに合わせてドラムを演奏したりだとか、どれもが最先端を歩んでいた。
しかし、僕はユキヒロさんのカッコよさのもとになっているものは、新しさやセンスのよさといったこととは、別のところにあるように思える。
そのことを象徴するのが、2014年に結成した「METAFIVE」というユニットである。
この「METAFIVE」は、テイ・トウワなどいわゆるYMOチルドレンと呼ばれる、ユキヒロさんより一回りも年齢の違うメンバーを集めたスーパーバンドだった。彼らにしてみると、カリスマのような存在のユキヒロさんと同じバンドメンバーでいることのプレッシャーは相当のものだったに違いない。しかし、「幸宏さんがいるからまとまったというか。」(ゴンドウトモヒコ)、「幸宏さんの人徳というか」(テイ・トウワ)(「MUSIC MAGAZINE」2016年11月号)とメンバーが証言しているように、バンドの成功は、ユキヒロさんの性格に負うところが大きかったと推察する。
ユキヒロさんは、どうしてもクールな印象が強いが、実際は、かなりの人好きだったようだ。子供のいないユキヒロさんは、甥っ子二人を、まるで自分の子供のように可愛がり、年の離れたバンドメンバーを、よく自分の家に招いたりしていたようだ。いい人だったのだろうと思う。その「いい人」に、革新性やセンスの良さが付加された結果が、「カッコいい」になっている。つまり、逆説的にいうと、単なる革新性やセンスの良さなどだけでは、僕にとっては、カッコよくはならないということでもる。この世からひとつ「カッコいい」がなくなってしまった。
1月15日の朝、僕は起床し、いつものようにスマホでニュースをチェックした際に、ユキヒロさんの訃報を知った。その日は日曜日だったが、出勤日だったので、僕はいつものようにスーツに着替え、家を出た。その日、1月にしては、生暖かく、ふと、空を見上げると、墨汁を水で薄く薄めたような雲が低く垂れこめていた。ユキヒロさんの名曲「今日の空」は、「今日の空は、少し、悲しいって」という歌詞で始まる。僕は、この雲を遠くに見ながら、いつものように会社へと向かった。頭の中では、ずっと「今日の空」が鳴り止まないままだった。
あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
お正月を迎え、ふと思ったことについて書いてみる。
2022年大晦日、寝る前にトイレで用を足している最中にふとこのように思った。
「これからは、できるだけ美しいものとだけとともに生きていこう。」
ソファに戻り、早速本棚から「陰翳礼讃」(@谷崎潤一郎)を読み出す自分の浅薄なところが、少し気になるところではあるが。
「また大層な話を~」、「どうせ酔っぱらってただけじゃないの~」というような声がたくさん聞こえてきそうだが、僕は、12月28日にコロナに罹り、それからアルコールは一口も口にしていない。
「いやいや、コロナで体調が悪かっただけじゃないの~」という声も聞こえてきそうであるが、幸いにも発熱で辛かったのは、28日一日ぐらいで、大晦日には、完全に平熱に戻っていた。つまり、極めて素面の頭に思い浮かんだ「思い」なのである。
2021年初夏、映画「アメリカン・ユートピア」を映画館で観た。本作は、デビッド・バーンによるブロードウェーでのライブを、スパイク・リーが監督したもの。前評判もすこぶるよく、僕の周りでの評価も高かった。出不精な僕は、大阪での上映が終了するその週に、重い腰を上げ、仕事帰りに、なんばの映画館で本作を観た。デビッド・バーンと言えば、僕らの世代では、「トーキングヘッズ」のリーダーとして認知されているが、やはり、観客は、僕ら世代が中心なのかなと思い、開演前の劇場を見渡してみたが、客層はバラバラだった。隣のおばさんを除いては...。このライブの大きな特徴は、舞台上には、ドラムセットもギターアンプもマイクスタンドも何もないので、総勢11人のミュージシャンたちが舞台の上を自由自在に動きまわりながら演奏することである。舞台の前から後ろへ、右から左へ、あるいは、全員が一列となって時計の針のようにぐるぐる回ったりとする。そう、彼らは、常に動きながら楽器を奏で、歌を歌うのである。そして見事なまでに、全員の呼吸がぴたっと一体となっているのがよく分かる。
「自由」を煎じ詰めたその先にあったのは、なんと「完全な調和」だったのである。僕は、そのあまりの完全な調和に言葉を失った。横のおばさんが、同じことを感じ取っていたのかは知る由もないが、今にも立ち上がって踊り出しそうな勢いでイスに座りながら体を揺らせていた。
映画が終わり、生暖かい空気のなか、映画館からなんば駅に向かいながら、僕は、大変気分がよかった。まるで、体中が音楽という何かとてつもない大きな力に包み込まれているような気がした。これまでに、音楽のライブはたくさん観てきたが、「こんな気持ち」は、初めてだった。僕は、この時間がこのまま永遠に続いてほしいと心底思ったのである。
そして、この日以来、僕のなかでおこった「こんな気持ち」は、いったい何だろうとずっと考えていた。
その答えが、1年半を経て、冒頭の「これからは、できるだけ美しいものだけとともに生きていこう。」である。答えが見つかった。
僕は、この答えについてもっと深く知りたくなり、元旦に本棚から一冊の本を取り出した。「人はなぜ「美しい」がわかるのか」(@橋本治)である。自分でいうのもなんだが、こういうときの自分の直感を僕は信用している。
橋本治によると、この世には、「美しいがわかる人」と「美しいがわからない人」がいる。人は、「美しい」に出あうと、思考停止、判断停止に陥る。それが嫌な人は、「美しい」がどういうことかを分からなくすればいい。しかし、このことは、「わかることはわかる」の理解能力はあって、「わからないことをわかる」の類推能力は育たない。
また、「美しいがわかる人」は敗者で、勝者になりたかったら「美しいが分からない」を選択しなければならない、どういうわけか、世の中はそうなっている。
僕なんぞにいわれる筋合いは、まったくないのだろうけれど、橋本治という人は、本当に賢い。この世にすでにいないことが残念でしかたがない。
「アメリカン・ユートピア」を観たあの夜、僕は間違いなく幸せだった。あのような瞬間は、これから数えるほどしかないのかもしれないが、それに近いような、ちょっとした時間というのはあるもので、僕は、そういう時間をこれからもずっと大切にしていきたい。
正月早々、こんなことを思ったのには、もうひとつ理由がある。
僕たち夫婦は、昨年12月28日、二人そろってコロナに罹ってしまった。幸いにも高熱に悩まされたのは、僕の場合は、28日当日ぐらいのものだったのだが、嫁さんの合気道仲間が、次々と差し入れを届けてくれた。年末の忙しいときに、寒空のなか、そのためだけに、わざわざ我が家まで足を運んでくれたのである。僕は、彼らがもって来てくれた、「たまごがゆ」(レトルト)、「カレーヌードル」、「カキ」をたべながら、「なんかいいなぁ~」と思ったのである。