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2006年4月 アーカイブ

2006年4月 1日

さらばオフィスまた来る日まで。私しゃ今日から旅烏

3月31日(金)

 自己都合により退職。お世話になりました。


3月30日(木)

 「闘病記」は、どこの世界にも存在するのだろうか。少なくとも日本においては、そういうものを読む文化があるのだろう。「闘病記」というジャンルがあるくらいだし、読む人もいるし、たとえ読む宛先がなくとも書く人はいるのだから、というような話を以前どこかで聞いたことがある。たぶん。
 
「闘病記」には程遠いかもしれぬ。のちのちの記憶のために、メモ程度に書いてみた。
いやあ、だんだん暗くなるねえ。
やですねえ、暗いの。わたし、暗いの嫌いなんです、根が明るいので。
すべては、「うっきーの愛せなかった仕事」のせいよ、きっと。


昨年の六月、尿道結石と診断される。腰でもなく腹でも胃でもない、どこか内臓あたりに痛みを感じ、最初は内科に行く。精密検査を受けるように言われ、夏休み最初に出かけた総合病院である。
 実を言えば、検査のとき、「命に別状があれば、昨日までに会った人ともお別れだな」と真剣に思った。部屋は片付いているなとも思った。
結果を言えば、検査のときに想像したような悪いことは起こらず、元気に回復を見せた。特別な原因は見当たらないが、癖になるといけないので充分な注意が必要と言われた。

 夏休みの頃は、大きく身体を壊すこともなく、なんとかかんとか過ごしていた。

 九月の終わり頃から慢性的な風邪に襲われる。
続く十月、十一月、十二月と喉の痛みがずっと続く。
風邪と診断されるがいっこうによくならず。処方された感冒剤が効きにくい。もともと効きにくいのだから、飲んでも効くはずがない。
 
十月には肌荒れが目立つ。
最初は、栄養が悪いのだろうか(よく食べているのに)、化粧品が悪いのだろうか(とても薄いのに)、睡眠不足だろうか(悪いやつほどよく眠る)と思ったが、どうもそうではないらしい。これまでの健康体イメージゆえに周囲の心配の声も多い。目の周りも赤く、酷く荒れ、腫れる哀れな姿。
 
十二月中旬、遂に高熱を発して一週間ほど寝込む。
最初は喉から、そして身体がだるくなり、熱の日々を過ごした。この数日は、ほとんど記憶にない状態。
 
年末年始は、かろうじて休養。
 
新年明けてまた高熱を発し、一週間ほど寝込む。
症状は年末のものと似通っていたが、さらに強い悪寒を感じる。食欲ももちろんない。インフルエンザでないため、出講停止扱いにもならず。
 体力が一時的に落ちていたのか、一月下旬、湯上りの脱衣場で倒れる。幸い怪我はなかったものの打ち身が酷く、しばらくは瞬きすると痛む。

二月は静かに過ごす。下旬頃、ようやく日常的な思考や笑いができるようになる。
 
三月初旬、再び喉の痛みを覚える。
三月中旬、再度、肌荒れが目立つようになる。下旬には治る。
三月下旬、いきなり花粉症。

■終わり。


3月29日(水)

 「昼ごはんを一緒に食べるのもこれが最後ですね」と言われて気づいた昼の味。


3月28日(火)

 花粉症のような症状に襲われ、終日くしゃみ。


3月27日(月)

 夜は、宝塚にて学長主催のお食事会に出席。


3月24日(金)~26日(日)春合宿

 春合宿に行く。いつもの神鍋へ。
 初めて合宿に参加してから早くも7年が経つ。
数年前に一度、「下川先生の出られるお能の舞台を拝見する」という事情により、秋合宿初日の夜に到着した以外は、すべて参加している。
数えてみると参加回数14回。参加し始めてからは、ほぼ皆勤である。

 今回は、朝の集合場所の芦屋に着く頃から、既にテンションが高い。
それは気のせいではなく事実である。
日常とは違う世界へ行く、という気負いというか喜びがそうさせるのだろう。
ここしばらく「普段を過ごしているわたし」をご存知の方からすれば、到底想像もつかない姿であるだろう。
またもや荒れ狂っていた肌の調子も、合宿が終わる頃にはころっと治っている。現金なものだ。
皮膚科に勧めたいくらいである。
「あのー、ご存知ですか?『合気道療法』ってのがあるんです」。

二日目には審査を受ける。
 審査は級から段へ、それも若い方から順次進められていくのが常である。よって、三段の順番が来るのは、最後の最後。
審査は、先輩エグッチと一緒に受けることができた。随分しあわせなことである。始めた日には、こんな日が来るとは夢にも思わなかった。単純に「うっきーの欲望」とも言われる。でも、思いが募って叶うなら、思う力は大きいと思う。

審査を受け、無事に三段を頂いた。
内田先生から、お褒めのことばをいただいた。
ありがとうございました。
 今後とも精進いたします。よろしくお願いいたします。

2006年4月 4日

新年度の決意表明

4月3日(月)

 春本番である。
 朝早起きして、テキストブックを開く。あにょんはせよ。かむさはむにだ。
 武道家は早起きなのである。


4月2日(日)

 パソコンの掃除を行う。
毎度、新年度になると(実際にはその前から)、わたしは、無性に部屋が片付けたくなる習癖を持っている。それも割合本格的なもので、本棚の中身はもちろん、部屋の模様替えもする。いらないものはがんがん捨てて、部屋を文字通り一掃し、すっきりさせる。
例によって、年度末年度始めとなった。
部屋の中は、すでに「ごみを捨てたい気分」でいっぱいになっている。

今回はパソコンと周辺機器も気分新たに片付けることにした。
まずは、ソフトの再インストールから。
 パソコン本体にあるデータは、常にUSBドライブに取り出しているので、さほど大きな変更はない。
データを改めて確認し、区分けして、要らないものは削除。捨てる捨てる捨てる。
再インストール用CDを数枚、順番どおりに入れていくと再セットアップが始まる。
WordやExcelなどのOfficeXPのCD、Norton Internet SecurityのCDも放り込んでいく。
 インターネットの設定を行い、Netscapeをダウンロードし、メールをつなげる。
 あまり調子のよくなかったプリンタも、新たにつなぐことで、動きがよくなった。
こうして、世間とのつながりが途切れることなく構築される。
 さて、次は本棚である。


4月1日(土)

 本日より合気道の専門家として生きることにしました。

 4月より、合気道の道場を開設いたします。

 この場をお借りまして、ご挨拶方ご報告申し上げます。
今後とも変わらぬご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願い申し上げます。

2006年4月11日

道場開き

4月7日(金)

 「一度始めたことは、なかなかやめない」とは、内田先生がよく言われるところであるが、いまさらながら、こういった気質というか体質は師匠に似るのだろうか。果てまたそういった気質なり体質こそが師匠に習ったものなのか。あるいはまた、潜在的にそのような気質や体質あるいは性質がわたしにもあったからこそご縁があったのだろうか。とにかく「一度始めたことは、なかなかやめない」のはたしかである。
ひとは、これをして「しつこい」と言うことがある。だが、なに、人の意見には左右されまい。本人は別段その意識はないからである。これまで続けているから、次もまた続けるだけである。
しかしなるほど。違う側面あるいは傍から見れば、続けていける状況が続いているということかもしれない。それは幸運だ。好運だ。ほんとうにありがたいことだ。
「なぜ続けていけるのか」について、これ以外の理由をひとつ挙げるなら、続けていく快感があるから続けていけるのである。続けられる状況や事態があっても、それをよしとする心地よさがなければ、なにも続くこともないでしょうな。続ければ続けるほどに快感が増す。だから、これはもうやめられない。結果(といってもこれまた現時点も現在進行形)、「長年」に見えるのは当然のことで、それがまた快感を呼ぶ。またその快感が続けるための秘訣となる。秘訣がまた快感を生み、悦びとなりまた次の快感を呼ぶ。続けてきた快感が次の快感を生み、さらにまた快感が快感を生むわけである。快感の複製かね。なるほどね。

さて、というわけで、本日はクラブ紹介。今年で実に七年目。
こんなに出る方も出る方だが、見る方は毎年変わる新入生相手なので何の心配もない。
「あ、去年もいたひとだ!」なんてわかるまい。わかるということは、見ているそのひとは留年しているか、よっぽどのもの好きか、ひまじんである。そして、これまた出る機会があるのだから、ありがたいことである。
毎年出ているからといって同じことばかりではない。なかには新鮮なこともある。
公衆の面前で、杖の12本目を打太刀内田先生、仕杖をわたしでご披露するのは、これで二度目である。クラブ紹介では本邦初公開である。これは、わたしにとってかなり新鮮味。
こういった新鮮なことは、同じことを続けているからこそ発見されるものである。

そして、ことしもまた、同じことをしながら、何時も訪れる春の行方を確認する時期に来たことを知らされもするのである。ねえ、えぐちさん。


4月6日(木)

 夜桜もいいものである。
夜の大学に行ったのだ。
ずいぶんと長い間ここに通ってきたものだが(そして今後もそうなるだろうが)、これほどまでに桜の木が多かったことにいまさらながら気づいた。
ところで、これは、自然林なのだろうか、あとから植樹されたのだろうか。と書いて気づいたが、さくらは近代の産物。植樹でしょうな。
あまりに桜がきれいで、いつになく写真を撮ろうとした。だが、すーっと背筋のあたりが寒くなったので、やめた。見るだけにした。
花見は今週末の昼間にしよう。


4月5日(水)

 今日が誕生日で、これまでに会ったことのあるひと、3人。会ったことのない野村萬斎を入れると4人。


4月4日(火)

「芦屋合気会」杮落とし。
初めて、師となって教える日である。
稽古開始時間の12時半より早めに行き、道場の掃除。
いつも使っているのと同じ場所、同じ広さなのに、いつもとは違うものに見え、とても広く感じるから不思議なものだ。
看板(というほどのものもないが)を整え、じっと開始時間を待つ。

なぜそんなことが頭をよぎったのか、実は、いまこれを書いている段になってもよくわからないのだが、開始時間を待っている間、恐れ多くも多田先生が、イタリアで最初に道場を持たれた日のことをうかがった話を思い出した。
続けて内田先生が、台風の日に、誰も来ない道場で、ぽつねんと稽古時間の最後まで来るべき誰かを待たれていたという話を思い出した。
どちらの話も、その実際の場所を見たことはない。ただ、これまでに一度聞いたきりの話である。お聞きしてから、一度として思い出すこともなかった話である。なのに、今日は、妙にリアルにイメージされた。場所も色もくっきりと描くことができた。
なぜそんなことを思い、描くのか、自分でもよくわからなかった。
思い出すだけでも、身に余ることがらであり、ご無礼なことであるのは、頭では重々承知しているのに、このタイミングで思い出すとはどういうものだろう。
もしかしたら、わたしの立ち位置が変化しつつあること、そこに影響あるのだろうか。

今日は天気もよく、外は晴れている。わたしにとって、最初のお弟子さんが来た。それは幸いなことである。

準備体操をし、呼吸法、足捌き、とり舟、四方斬り、前受身、後ろ受身、片手取りの四方投げを行う。
基本的なことだが、基本的なことこそ実際にことばで説明し、誰にでも聞こえるように理解してもらい、身体を動かし、実践するのは、そう容易なことではない。

「薄目が開いた」という言葉を借りるなら、その「薄目」の位置がすこしだけわかった気がする。「弟子を持つと師の教えを請うものだ」といつも言われていた師の言葉の意味に対して、すこしだけ。
扉の向こうへ進む道を見つけたというよりも、扉についているノブらしきものを発見しかかったというくらいに。
初めての稽古を無事に最初の時間を終えることができたのもまた、師があるおかげだと切に思う。
今日の日を、これからの発展と慶びを祈念して、「道場の日」と呼ぶことにした。わたしにとって、忘れることのない日となるはずだからである。


さて、奇しくもこの日は、祖父の命日であった。

開設当初は水曜日から始めようかと思っていた。それが、なぜか急に火曜日から始めようと思い直し、この日になった。この日が4日だったのは単なる偶然である。カレンダー次第では、なんとでも変更してしまう。だが、そうそう何度も偶然が続くわけでもあるまい。

これまで何度か話したような気もするが、再度申し上げると、数年前の厄年の際、自動車接触事故に遭ったのもこの日だった。(先方自動車、わたしは自転車)。ぽーんと宙を舞ったのだが、自転車に助けられ、かすり傷ひとつなかった。(数年後、そのときの打ち身が身体に影響を及ぼしていたことが三宅先生により発覚。おかげで治療していただくといったご縁に恵まれる。またその祖父の娘であるところの人物、つまりわたしにとっての伯母-それはもう歩く姿を見るのも哀れなほどだったが-は、いまではすっかりよくなり、海外旅行にまで行ってしまうくらいなのである)。

かすり傷ひとつなかったこのときも、病院に行った朝から晩までずっと祖父のことを思い出していた。連れて行かれるのだろうか。それとも早くに誘いに来たのだろうかとも。
命日だから思い出すというのが理由の大半だが、実際に会ったことはない。どこかでこの祖父に見守られている、そんな気がして。

結局大事には至らず生きてこられたわたしは、ときどき声がする。ときどき話しかける。話したことのない人物でも話しかけることができるのを知ったのは、このときからだ。偶然が運んだ必然であったといまでは思う。

道場の開設は、365日のいつだっていい。なのに、ふとした理由でこの日を選んだ、この日が選ばれたことに、少なからず深い意味合いを感じてしまう。

ところで、この「会ったことのない祖父」と「わたし」は、体形がとてもよく似ていると親戚筋から言われる。写真でしか見たことのない姿だが、そう異質なものでもあるまい。今のところ、わたしの額は後退していないので、その辺りは似ていない。性別も同じではない。それでも身体のライン、ある種のどっぷり感、その雰囲気が似ているのだと言われる。
ついでに言えば、「会ったことのあるもひとりの祖父」には、中身のほどがとてもよく似ていると言われる。考え方や事柄の進め方、嫌味なところ、性格の悪さ、ふとした表情や人間関係の作り方、言い出せばきりがない程にいろいろと細かな性格だが、多くはどうやらこっちから来たらしい。
数年前までわたしも住んでいた実家には、生前、この祖父が育てた紫陽花が祖父母宅から植え替えられ、毎年勢いよく咲いていた。その紫陽花はどうしたわけか、最近になって衰えを見せているという。翳るどころか枯れてきているらしい。代わりに咲いているのは数年前にわたしが母の日に贈った紫陽花。祖父紫陽花の横に配置されたのをいいことに、栄養をむさぼり、どういうわけか毎年大きな花を咲かせているという話を聞く。
不思議な感じだ。花もまた、祖父エネルギーをもらって生きているというわけか。どちらにせよ、なんにせよ、隔世遺伝間違いなしだな、わたしは。


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 「芦屋合気会」
 
芦屋にて、道場開設いたします。随時募集中です。
 興味のある方はご連絡ください。
稽古日程、場所、時間等をお知らせいたします。

2006年4月18日

日曜日は空白

4月16日(日)

 


4月15日(土)

 お能の稽古、合気道の稽古、うちに帰って荷物を置いて、それから仕事。結構大変な一日。雨だしね。


4月14日(金)

 金曜日のイレギュラー体制のおかげで、仕事が終われば午後十一時。


4月13日(木)

 「教えること」も「教わること」も、どちらであっても、いろいろ「教わること」が多いと気づく。


4月12日(水)

 すこしずつ充実してきた。合気道のことって、ここに書いてもいいのかな。あっちのページに書くよ、やっぱり → http://space.geocities.jp/ashiya_aikikai2006


4月11日(火)

 道場を開いてからちょうど一週間が経った。その間、黄砂が吹き荒れ、何万粒あるいはそれ以上もの雨が降った。桜の桃色は緑が見え始めている。


4月10日(月)

 外は思い切った雨。
 特段雨が嫌いなわけでもないが、雨の日に、表に出ないといけない日は、雨があまり好きにはなれない。
 スーツやジャケットといった格好をしているならなおさらそうだ。
雨が降って、スーツを着て、電車に乗らなければならないときは、電車に乗るまでに雨に濡れないように充分に気をつけなければならず、そのうえ、傘や鞄で乗っている乗客にもまた気を配らなければならない。自分の結界をうまくつかえるようにならなければならないなあと、思う。
 
そろそろことしのスケジュールも落ち着いてきたころか。と思いきや、まだまだイレギュラーな予定が入る。
「今日だけですからお願いします」といわれると、「いや」とは言えない性分である。(ほんまか!という声が聞こえてきそうだが)。そういうところもある。
まだまだ暫定的な4月である。


4月9日(日)

 昼から居合のお稽古。
 うっかり「杖」の袋を手にとってお家を出てしまったので、慌てて戻る。戻ってから、落ち着いて「模擬刀」の袋を手に取り直す。
 予定していた電車に乗り遅れること5分。
 稽古開始時間に、すこし遅れてしまう。


4月8日(土)

 黄砂のなかで花見。
 暮れかかる太陽が、異様にまぶしく見える。特撮映画に出てくる「この世の終わり」のようだった。

2006年4月23日

誰にいぢめられとんの

4月22日(土)

 胸骨がどうにかなっているせいで、首が痛い。
「かわいそうに」は三宅先生の一言。「誰にいぢめられとんの。裏に入口があって…」とは続くお言葉。
ほんと、誰にいぢめられてんでしょう。あーかわいそ。


4月21日(金)

 西宮市内と突っ切って、芦屋市内縦断計画を立てた。市内の掲示板に道場の案内を掲示するためだ。

 自転車をこげば、縦長の芦屋市を何度となく走り続けるうちに、海と山が一望できる。だから、そうしようと思った。バスもよさそうだったが、土地勘があるようでないし、バスは、いつ来るとも限らないものだ。

 何度も市内の地図を見て東西を図りながら動いていると、町名に詳しくなった。何町がどのへんで、国道43号線からのおおよその位置もわかってきた。だいたいの街の雰囲気もつかむことできた。土地には、それぞれの空気がある。来たこともない場所でさえ懐かしさを覚えたり、できれば早く立ち去りたい感じのところもあった(どことは言えませんが)。
 
「鵺塚」の橋の袂に来たとき、なぜか感動した。「おお、ここが」と思った。「これですかあ」と思っただけで、すぐに次の現場に急いだけれど。

途中、谷崎潤一郎記念館、高浜虚子記念館、村上春樹が通ったらしい精道小学校(工事中)を見る。芦屋は偉大なる文学者を生み出す場所なのだろうかと思う。
このどれもに行ってみたかったが、今回は諦めてペダルをこいだ。

こいだ距離はわからないけれど、迷うことなくすごした時間は四時間である。


4月20日(木)

 今月、私を目で見た人間から、「性別不詳扱い」を三回受ける。機械じゃないよ。自己最多記録。


4月19日(水)

所用でA市市役所に行く。
訪れた時間が悪かったのか、「昼休みは働いてはいけないのだ」という就業規則でもあるのか、誰も動かない。それでもまあ、愛想がまあまあいいので許そう。ほかの対応も○。
これまで、電話や窓口で、さまざまな市町村の役所関係の方々と接する機会があったが、「なんでやねん」というぐらいに無愛想な方ばかりだった。そういう人にしか出会ったことがない(全国の関係者のみなさま、ごめんなさい)ので、いやなイメージしかなかった。その点、西宮のアクタにあるN市の出張書はまた、いつ行ってもたいへんに愛想がよいのである。


4月18日(火)

 道場を開いて三週目。
 入門者がぽつぽつと増えてきました。
 
合気道っておもしろいですよ。
え?どう、おもしろいのかわからないって?
そりゃあ、あんさん、百聞は一見に如かず。一度見に来ておくんなせえ。


4月17日(月)

 すこしずつ仕事を片付ける。


4月16日(日)

 「日曜日は空白」なんじゃなくて、まだ書いてなかっただけなんですけど、実際は。
 次の号って言ったら変ですが(つまりはこれ)、ここから始まるのが、この日曜のことからだったんです。お送りした日と掲載された日とのずれがあって、こういうことになったんだと思います。しかし、なんであれ、ということは、内田先生が日曜日の欄を追加してくださったってことか。
 どうもすみません(三平風)。

2006年4月30日

くまった質問

4月29日(土)

 朝から残った仕事を少しして、合気道の稽古に行く。
終わってから、秘密結社「魔女の会」に顔をお出しする。
久々の先生方、初めての方々にお会いし、近況を報告。

その後、甲南麻雀連盟にもさらに顔を出させていただく。
神妙な面持ちで牌を打つ姿は、ふだんは見ている方たちでも、なかなか見られない貴重な表情ばかりである。うーん渋い。
それにしても、いきなり雀荘みたいで、すごいぞ四卓。
個人レッスン、オープン戦と称して、かの四卓目で、いろいろと細かなルールをみなさまにご教授いただいた。どうもありがとうございました。

4月28日(金)

 日本の国民らしく生きてみる。勤勉に。あっちに行ったり、こっちに行ったり。ちょっとここに書いちゃうとまずいので、差し控えますが。まあ、なんつーか、あれですな。


4月27日(木)

 肩がバリバリに凝っている。背中はまだ治らない。伸びた髪を切る。


4月26日(水)

 昼寝をできるこの幸せ!って別に、たった15分の転寝ですが。


4月25日(火)

 今日も稽古。だんだんと入門者が増えてくる。がんばろう。


4月24日(月)

 お能の稽古に行って、仕事をして、片付けて、仕事に出かけて、それから杖の稽古。いやあ結構疲れる。


4月23日(日)

 6Bの鉛筆を持った少年は、わたしの顔を見るなり、こんなことを言う。
 
「ねえ、男なの?女なの?」

適当に答えるには簡単なようで、とても難しい質問だった。なぜなら、何と答えるのがいいのか、一瞬ためらいを覚えてしまうからだ。
ためらいを覚えるのには訳がある。
そんなの、今はどっちでもいいことなんじゃないと思うからだ。
だって、そんなの、漢字を書くのといったいどういう関係があるというのだろう。詩を読むのとどういう関わりが必要なのだろう。
と考えたからだ。
とはいえ、聞いてきた相手が相手だけに、場所が場所だけに少し考えてみた。
相手は、まだ何も知らないふりをしたこどもである。十歳にも満たないこどもである。年齢が年齢だけに、どういう答えを求めて聞いているのか、考えてしまう。それに傷つけるぐらいは簡単だ。傷つけないのもまたひとつの方便だ。

いったい「何を」聞きたいのだろう。
どんな「答えを」求めているのだろう。
そして「どう言えば」傷つけないですむのだろう。
瞬間的であれ、慣れぬ適度な親切心が芽生えてくる。

親切な人間は、こういうとき少し損をする。
親切が仇になることがあるとは、よく聞く話だが、まあ、その心配はないだろう。だって、わたしは、さほど親切ではないからだ。
だから聞かれてとりあえず、5秒ほど考える。5秒間にいくつかの答え方が浮かべる。浮かべながらの5秒のうちに、「ねえ、男なの?女なの?」の質問に、「何が」と聞いてみる。すると向こうは「先生が」と答えた。

そうこうするうち、5秒後。頭の中にいろいろな答え方が浮かんだ。
「男に決まってるじゃない」「女だよ」「どっちだっていいじゃない」「なんで、そんなこと聞くの?」「君は男なの?女なの?」「どっちだと思う?」「今日はいい天気だね」

頭の回路は「君は男なの?女なの?」を言いたくなり、口から出たのは「なんで、そんなこと聞くの?」である。

「なんでそんなこと聞くの?」
そう言うと、6Bの鉛筆を握り締めた少年は、「だって先生、顔がわかりにくい」
 
どうやら彼にとって、わたしの顔は、性別の判断がつきにくいものらしかった。たしかに世の中、「男顔」とか「女顔」ということは言うこともある。けれど、顔がわかりにくいと言われたのは初めてだ。中間的な顔なのか?

「顔?」
「男の顔か、女の顔かわかりにくい」
「ふーん」

 彼のなかには、何か基準のようなものがあるのか、「女だとわかる顔」や「男の顔だ」と判断できる何かがわたしには見受けられなかったようだ。
さらに、6B鉛筆の少年は続ける。

「あと、くまみたい」
「くま?」
「くま。森にいるくま」
「くま・・・?」
「ねえ、もし、くまだったらどうする?」
「くまだったら?そうだね、森でくまと遊ぶかな」
「じゃあ、森にくまがほかに誰もいなかったらどうする?」
「そのときは、誰かが遊びに来てくれるのを待つかな」

6Bの鉛筆を握り締めた少年には、わたしは、くまの顔らしい。
くまの顔の話をするうち、わたしはくまのプーさんを思い出した。くまのプーさんも、よく見れば、女か男か、顔の見分けがつきにくい。くまの顔は、顔もわかりにくい。
 わたしは、くまのプーさんかな。ふーん、プーさんね。くまったな。
 
しかし、ある意味、これは、「先生」と「生徒」としての関わりしては、そう大きくは間違ってはいない証明にはなるな。

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