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道場開き

4月7日(金)

 「一度始めたことは、なかなかやめない」とは、内田先生がよく言われるところであるが、いまさらながら、こういった気質というか体質は師匠に似るのだろうか。果てまたそういった気質なり体質こそが師匠に習ったものなのか。あるいはまた、潜在的にそのような気質や体質あるいは性質がわたしにもあったからこそご縁があったのだろうか。とにかく「一度始めたことは、なかなかやめない」のはたしかである。
ひとは、これをして「しつこい」と言うことがある。だが、なに、人の意見には左右されまい。本人は別段その意識はないからである。これまで続けているから、次もまた続けるだけである。
しかしなるほど。違う側面あるいは傍から見れば、続けていける状況が続いているということかもしれない。それは幸運だ。好運だ。ほんとうにありがたいことだ。
「なぜ続けていけるのか」について、これ以外の理由をひとつ挙げるなら、続けていく快感があるから続けていけるのである。続けられる状況や事態があっても、それをよしとする心地よさがなければ、なにも続くこともないでしょうな。続ければ続けるほどに快感が増す。だから、これはもうやめられない。結果(といってもこれまた現時点も現在進行形)、「長年」に見えるのは当然のことで、それがまた快感を呼ぶ。またその快感が続けるための秘訣となる。秘訣がまた快感を生み、悦びとなりまた次の快感を呼ぶ。続けてきた快感が次の快感を生み、さらにまた快感が快感を生むわけである。快感の複製かね。なるほどね。

さて、というわけで、本日はクラブ紹介。今年で実に七年目。
こんなに出る方も出る方だが、見る方は毎年変わる新入生相手なので何の心配もない。
「あ、去年もいたひとだ!」なんてわかるまい。わかるということは、見ているそのひとは留年しているか、よっぽどのもの好きか、ひまじんである。そして、これまた出る機会があるのだから、ありがたいことである。
毎年出ているからといって同じことばかりではない。なかには新鮮なこともある。
公衆の面前で、杖の12本目を打太刀内田先生、仕杖をわたしでご披露するのは、これで二度目である。クラブ紹介では本邦初公開である。これは、わたしにとってかなり新鮮味。
こういった新鮮なことは、同じことを続けているからこそ発見されるものである。

そして、ことしもまた、同じことをしながら、何時も訪れる春の行方を確認する時期に来たことを知らされもするのである。ねえ、えぐちさん。


4月6日(木)

 夜桜もいいものである。
夜の大学に行ったのだ。
ずいぶんと長い間ここに通ってきたものだが(そして今後もそうなるだろうが)、これほどまでに桜の木が多かったことにいまさらながら気づいた。
ところで、これは、自然林なのだろうか、あとから植樹されたのだろうか。と書いて気づいたが、さくらは近代の産物。植樹でしょうな。
あまりに桜がきれいで、いつになく写真を撮ろうとした。だが、すーっと背筋のあたりが寒くなったので、やめた。見るだけにした。
花見は今週末の昼間にしよう。


4月5日(水)

 今日が誕生日で、これまでに会ったことのあるひと、3人。会ったことのない野村萬斎を入れると4人。


4月4日(火)

「芦屋合気会」杮落とし。
初めて、師となって教える日である。
稽古開始時間の12時半より早めに行き、道場の掃除。
いつも使っているのと同じ場所、同じ広さなのに、いつもとは違うものに見え、とても広く感じるから不思議なものだ。
看板(というほどのものもないが)を整え、じっと開始時間を待つ。

なぜそんなことが頭をよぎったのか、実は、いまこれを書いている段になってもよくわからないのだが、開始時間を待っている間、恐れ多くも多田先生が、イタリアで最初に道場を持たれた日のことをうかがった話を思い出した。
続けて内田先生が、台風の日に、誰も来ない道場で、ぽつねんと稽古時間の最後まで来るべき誰かを待たれていたという話を思い出した。
どちらの話も、その実際の場所を見たことはない。ただ、これまでに一度聞いたきりの話である。お聞きしてから、一度として思い出すこともなかった話である。なのに、今日は、妙にリアルにイメージされた。場所も色もくっきりと描くことができた。
なぜそんなことを思い、描くのか、自分でもよくわからなかった。
思い出すだけでも、身に余ることがらであり、ご無礼なことであるのは、頭では重々承知しているのに、このタイミングで思い出すとはどういうものだろう。
もしかしたら、わたしの立ち位置が変化しつつあること、そこに影響あるのだろうか。

今日は天気もよく、外は晴れている。わたしにとって、最初のお弟子さんが来た。それは幸いなことである。

準備体操をし、呼吸法、足捌き、とり舟、四方斬り、前受身、後ろ受身、片手取りの四方投げを行う。
基本的なことだが、基本的なことこそ実際にことばで説明し、誰にでも聞こえるように理解してもらい、身体を動かし、実践するのは、そう容易なことではない。

「薄目が開いた」という言葉を借りるなら、その「薄目」の位置がすこしだけわかった気がする。「弟子を持つと師の教えを請うものだ」といつも言われていた師の言葉の意味に対して、すこしだけ。
扉の向こうへ進む道を見つけたというよりも、扉についているノブらしきものを発見しかかったというくらいに。
初めての稽古を無事に最初の時間を終えることができたのもまた、師があるおかげだと切に思う。
今日の日を、これからの発展と慶びを祈念して、「道場の日」と呼ぶことにした。わたしにとって、忘れることのない日となるはずだからである。


さて、奇しくもこの日は、祖父の命日であった。

開設当初は水曜日から始めようかと思っていた。それが、なぜか急に火曜日から始めようと思い直し、この日になった。この日が4日だったのは単なる偶然である。カレンダー次第では、なんとでも変更してしまう。だが、そうそう何度も偶然が続くわけでもあるまい。

これまで何度か話したような気もするが、再度申し上げると、数年前の厄年の際、自動車接触事故に遭ったのもこの日だった。(先方自動車、わたしは自転車)。ぽーんと宙を舞ったのだが、自転車に助けられ、かすり傷ひとつなかった。(数年後、そのときの打ち身が身体に影響を及ぼしていたことが三宅先生により発覚。おかげで治療していただくといったご縁に恵まれる。またその祖父の娘であるところの人物、つまりわたしにとっての伯母-それはもう歩く姿を見るのも哀れなほどだったが-は、いまではすっかりよくなり、海外旅行にまで行ってしまうくらいなのである)。

かすり傷ひとつなかったこのときも、病院に行った朝から晩までずっと祖父のことを思い出していた。連れて行かれるのだろうか。それとも早くに誘いに来たのだろうかとも。
命日だから思い出すというのが理由の大半だが、実際に会ったことはない。どこかでこの祖父に見守られている、そんな気がして。

結局大事には至らず生きてこられたわたしは、ときどき声がする。ときどき話しかける。話したことのない人物でも話しかけることができるのを知ったのは、このときからだ。偶然が運んだ必然であったといまでは思う。

道場の開設は、365日のいつだっていい。なのに、ふとした理由でこの日を選んだ、この日が選ばれたことに、少なからず深い意味合いを感じてしまう。

ところで、この「会ったことのない祖父」と「わたし」は、体形がとてもよく似ていると親戚筋から言われる。写真でしか見たことのない姿だが、そう異質なものでもあるまい。今のところ、わたしの額は後退していないので、その辺りは似ていない。性別も同じではない。それでも身体のライン、ある種のどっぷり感、その雰囲気が似ているのだと言われる。
ついでに言えば、「会ったことのあるもひとりの祖父」には、中身のほどがとてもよく似ていると言われる。考え方や事柄の進め方、嫌味なところ、性格の悪さ、ふとした表情や人間関係の作り方、言い出せばきりがない程にいろいろと細かな性格だが、多くはどうやらこっちから来たらしい。
数年前までわたしも住んでいた実家には、生前、この祖父が育てた紫陽花が祖父母宅から植え替えられ、毎年勢いよく咲いていた。その紫陽花はどうしたわけか、最近になって衰えを見せているという。翳るどころか枯れてきているらしい。代わりに咲いているのは数年前にわたしが母の日に贈った紫陽花。祖父紫陽花の横に配置されたのをいいことに、栄養をむさぼり、どういうわけか毎年大きな花を咲かせているという話を聞く。
不思議な感じだ。花もまた、祖父エネルギーをもらって生きているというわけか。どちらにせよ、なんにせよ、隔世遺伝間違いなしだな、わたしは。


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2006年4月11日 09:49に投稿されたエントリーのページです。

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