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2006年3月 アーカイブ

2006年3月15日

おそるべし石井竜也

3月14日(火)

 『四月の雪』は見てないが、今日は「三月の雪」を見た。日中、空が雪で白くなる。
 今日は、いろいろと引継ぎをした。と言っても、わたしが口を挟む余裕などほとんどなく、事態は日々刻々と進んでいくばかりだ。いや、進められていくばかりだ。能動的なのがいいのか受動的なのがいいのか悩むところである。しかし悩んでも仕方ないので、こつこつと仕事する。


3月13日(月)

 この頃、決まって夜になるとおなかが空く。
昼はさほど空かない。昼ならいいのにと思う。
夜は、何を食べても食べても、どこか食べたらない感がある。だからといって、朝に胃がもたれるわけでもない。もちろん食欲に任せて食べ続けているわけでもないが。
 事情があって、近日中に痩せなければいけないのに、何とも困ったものである。


3月12日(日)

 友人に誘われ、石井竜也のコンサートへ。夕方の大阪に出る。
日曜の大阪の混雑は想像をはるかに超えていた。滅多にこの時間に歩かないことも手伝ってか、いつもなら5分で着くはずの集合場所に辿り着くだけで、その倍はかかった。すごい人の群れだ。

 コンサートは久しぶりである。
 初めてコンサートに行ったのは神戸国際会館だった。会館はいまの場所ではなく、前の時代のときだ。
1980年代の始め頃だっただろうか、NHKが『加山雄三ショー』という番組をやっていた。その全国巡回が神戸に来たとき、観に行ったのが最初だった。もちろん、わたしが率先して行ったわけではなく、連れられて行ったのである。旧国際会館がどこにあったのか覚えてもないが、駅から非常に遠かったように記憶する。
当時まだ小学生だったわたしは、ある日、学校を終えて家に帰ると、「いまから神戸に行くよ」と訳もわからぬままに連れられて、出かけた。道のりは遠く、行きも帰りも、揺られる電車のなかからして、眠くて眠くてたまらなかった。それでも、コンサートはたいへん楽しかったのを覚えている。
 なんてたって、テレビで見る人がそこで歌っているのだから。

番組には毎回ひとり、ゲストがやってきた。その回は南こうせつだった。さらに小ゲストにエド山口(モト冬樹の実兄)。ネタにはなっても、あまり自慢にはなりそうもないなどと言うのは失礼だが、後年そのようなことを思う。だから、よく、「初めて生で見た芸能人は誰?」と聞かれることがあるが、聞かれる度、わたしは、「加山雄三」と答えることにしている。
さて、コンサートに流れる歌は、比較的耳慣れた曲ばかりだった。
幼い頃から日常的に聴いていたわけではないが、結果的に、加山曲はよく聴こえていたので、たいそう心地よかった。そう。楽曲は決して悪くないのである。声も悪くない。名曲が多い。作詞もいい。ほとんど岩谷時子氏だし。
 
そんな小学生から中学、高校、大学と進むうち、熱狂するほどのファンはあっても、コンサートには結局行かずじまいだった。宝塚や四季などの演劇、世界各地からの来日公演、能、狂言、バレエ、ミュージカル、オペラ、オッペケペー節から黒柳徹子の翻訳劇など、数は少ないながらも観る機会はあったが、コンサートなるものだけは、とんとご縁がなかった。
 そんなこんなで、おそらく、ひさびさのコンサートである。
 
 ひさびさに出かけるのが石井竜也。声がいいというだけの理由で、行ってみる気になったはいいが、どんなものだろうか。何とも激しい想像をした。
まず着ていくものを考えた。
素人の勝手なイメージで、とにかくラメ入り!とか、羽根つきとか、スパンコール、派手なものを思ってしまった。
だが、そんな服は持っていない。
結果、シャツにジーンズといった普段とあまり変わらない格好をしていった。踊り仕様で、少しだけ髪を厳しくセットして。
 
 会場に着くと、音が鳴り始めるなり全員総立ち。
 ここは、バレエなども繰り広げられるホールではなかったか!と思うより先に音楽は次々と流れてゆく。甘い声が繰り広げられる。
結局、休憩時間の10分以外、椅子に座ることなど、ほとんどなかった。
立ちっぱなしの踊りっぱなし。
詳しく踊りを知っていても知らなくても誰もがみな阿波踊り状態。
日頃の見取り稽古が発揮されたのか(!?)予習なしでも踊ることができた。すこし前に局所集中的に流行った「ファンタスティポ」の動きのほうが、わたしは断然難しい。
 熱狂的なファンもいて、完全なる石井竜也コスプレ、休憩時間には、ドレスのお着替え持参者もたくさんいた。ある意味、想像は当たったわけである。
友人も見たことのないようなきれいなスーツに身を包み、踊っていた。
そして、アンコールも鳴りやまず。
ホールの「本日の公演はすべて終了しました」アナウンスを都合三度聞こえた。
す、すごい。
おそるべし、石井竜也。
ファンになりそ¬ー。


3月11日(土)

 稽古のあと、大阪城公園に梅を見に行く。
 「花より団子」の性格なのに、朝にドーナツをひとつ食べたきり、ずっと何も口にしないまま、稽古して、さらに2時間半ほど歩き続けたので、夕方には、もうよろよろ。


3月10日(金)

 イ・ヨンエの美しい顔立ちにひかれ、おいしそうな料理に見とれる『チャングムの誓い』だが、実はまだ7話までしか見ていない(全54話)。これは、クォン・サンウ初主演ドラマ『太陽に向かって』(全20話)の誘惑に負けてしまったからだ。クォン・サンウは言わずと知れた「モムチャン」の代表格。モムチャンは、韓国語で、「最高の肉体」というような意味合いがあるらしい。


3月9日(木)

 誰でもいいから「さんきゅー」と言ってみたくなった今日だった。
今日しかできないことのひとつだから思ったのかもしれないし、日頃から、お世話になっている人々に感謝の念を忘れていはいけませんよと、神様が教えてくれたのだろう。しかし気づけば、時は経ち。
誰にも言うことなく翌日になっていた。
また来年までのお預けだ。そうして、悪の思いがはびこるのだ。
んなはは。


3月8日(水)

 無性に眠気に襲われる。
昼夜問わず眠たい。もうどうしようもないくらいに眠たい。睡眠はとるようにしているのに眠たい。眠たくって仕事にならない。だからといって、「じゃあ、おやすみなさい」と仕事を切り上げて帰ることもできない。


3月7日(火)

 特記すべき事項もなく、穏やかな日(のはず)。
穏やかな日は、それなりに時間も心も余裕がありそうなものだが、何かほっこりしないし、早く眠る。


3月6日(月)

 暖かくも薄ら寒い日である。
 「三寒四温」ということばが似合うこの頃。いつものように朝早く起きて、顔を洗い、歯を磨いて、表に出た。


3月5日(日)

 下川正謡会大会。午前十時始め。
謡『吉野天人』のシテ、『清経』のワキ、仕舞は『胡蝶』と、たくさんの舞台に立たせていただいた。まずは、そのことに感謝。
 謡は今回、番組構成が朝一の夕方最後だったので、その間の時間をかなり長く感じた。
時間の空いたときは、見所で心地よく見ながら転寝していたら、何度となく知り合いの人に呼ばれた(起こされた)。いろいろな意味を込めて、すこし恥ずかしい。

 下川先生の仕舞は、どうしてあんなに美しいのだろう。
美しいものを見ると、心もきれいになるような気がする。


3月4日(土)

 急に春めいてきた。
ちょうど来月辺りはお花見シーズン到来だろうか。


3月3日(金)

 さんざんおーるすたーず。もう疲れた。
疲れを示しているのも、さらに忘れるほどに疲れた。


3月2日(木)

 稽古の時に撮影があった。
 数時間の稽古を飽きることなく撮影をしまくっていたカメラマンに付いて来た企画側の人々は、ある意味えらいと思う。寒いし、冷えるし、動かずにじっとしているのは、ときおり耐えられないような時間もあったかもしれないからだ。
いい写真ができればいいな。


3月1日(水)

 また喉が痛くなってきたので朝から慌てて通院。週末には「謡う」ので、いつもより強めの薬を処方してもらう。事前にトラブルを回避だ。なんとか体力を保ち、暖かくして、体調管理をしなければ。今度こそ。


2月28日(火)

 2月の終わり。それは3月を迎えるということ。


2月27日(月)

 さすがに週末がないのは疲れる。
 早めに切り上げて、早めの就寝。就寝は身体すべてを整えてくれる偉大なものだと思う。


2月26日(日)

兵庫県連盟の合気道研鑽会のため、姫路へ。
外は朝から生憎の大雨だが、大概の場合、合気道は室内稽古なので、雨が降っても余り困ることはない。それに会場となる姫路の武道場に着く頃には雨もあがっていた。
ご指導は、本部道場の横田師範。
240名ほどの連盟会員が参加し、熱気溢れる稽古となった。私自身、これまでの稽古のなかで疑問に思っていた事柄(相手の裏側に入るときの硬さ、柔らかさの違い、身体の捌き方ひとつで相手の身体の生かし方が変わってくるなど)を改めて捉えなおす機会を与えていただいた。
 
講習会の懇親会にも参加させていただき、大御所の先生方とお話させていただいた。限られた時間ではあったが、地域の方々と交流することで、改めて合気道の普及率の高さを感じた。


2月25日(土)

 明日は姫路に行く。
 
「ひめじ」の発音は、ずっと、のべたんと「ひ・め・じ」と同じ高さで発音するのが常だと思っていた。だが、ときどき、関東から来た方々や独特の関東弁を話す人たちは、「ひめじ」の「ひ」を高く上げてから、「め」と「じ」の高さを下げて、これら二つは同じ高さで、のべたんと発音する。これは、関西に住む者にとって、独特の思いを起こさせる。
それは、「ひめじ」と「しめじ」が同じ扱いを受けているかのように感じられるからだ。
たとえば、「ひめじ」の「ひ」と「し」を入れ替えみる。すると、「ひめじ」から「しめじ」になる。
ここで、「しめじ」の「し」を高く発音してから、「め」と「じ」の高さを下げ、これら二つは同じ高さで、のべたんと発音してみる。
 関東圏語発話者の「ひめじ」と、そう変わらないように聞こえはしないだろうか。

では、「しめじ」の「し」と「ひ」を入れ替えて元に戻す。すると、「しめじ」から「ひめじ」になる。
ここで、「ひめじ」の「ひ」を高く発音してから、「め」と「じ」の高さを下げ、これら二つは同じ高さで、のべたんと発音してみる。
どうだろう。
こうすると、「ひめじ」と「しめじ」が同じように聞こえはしないだろうか。

ここで補足がひとつ。
発話者がかなりの江戸っ子の場合、普段から「ひ」と「し」が入れ替わることがままある。本人は「ひ」と発音しているが、「し」と聞こえてしまうことがある。有名なのに朝日新聞の集金(あさしひんぶんのひゅうきん)という江戸弁がある。この流れで考えると、「しめじ」と言ったつもりが「ひめじ」に聞こえ、「ひめじ」と言ったつもりが「しめじ」になってしまうことがあるかもしれない。「ひめじ城」と言ったつもりが「しめじ城」なんてなんてしまう。「しめじ城」とは、一見おいそしそうだし、食糧事情にも困らないだろうが、あんまり画的に食欲をそそるシロ!モノではない。
 以上、「ひめじ」の勝手に秘め事情!でした。
ついでに申し上げますと、「ひめじ」と「しめじ」の話ばかりしてますが、「ひめじ」の名物は「しめじ」でもなく、「あなご」です。わたしの好物は、「あなご」ではなく、「うなぎ」です。


2月24日(金)

 何があったか。


2月23日(木)

 覚えていない。

2006年3月29日

うっきーが愛せなかったお仕事

3月23日(木)

 とりふる、てりぼー、ああ怖い。

今冬(昨冬?)、インフルエンザのことを「インフル」と呼んでいるのを初めて聞いた。鳥インフルエンザもそれに合わせてか、「鳥フル」なんて呼んでいるらしい。カンフル注射を訳もなく思い出してしまう。どちらも怖いものには違いない。
一時期、サラリーマンが自嘲的に「リーマン」というのを聞いた。これなどは、リーチと役満の複合語になったその略語みたいに聞こえる。略語になると、案外明るいもののように感じられるが、ひとによっては、恐怖のことばとなるのかもしれない。じつは。


3月22日(水)

 「どうしたん、うっきー。疲れて。ぼろぼろやないの。どうなっとんの、この身体」というのは、毎度の口上ではなく、今年度最も多いお言葉なのである。それに加えて今日は、「もう、かわいそうに。誰にいじめられとんの?誰?もう左肩に紙貼っとき。『三宅先生がやってきます』って紙貼っとき。先生はアルバイトで別の稼業もしとるから。今月は暇やからサービス月間よ」などと冗談交じりに言われるほどに、身体が変なのです。左身の方。
困ったなああ。


3月21日(火・祝)

 天気がいいので洗濯、お掃除、布団干し。
 
WBCの決勝戦を少し見る。イチローに感動(今年で二度目)。合間には来年度から建て直し。


3月20日(月)

 夜には、大学時代の友人と再会。


3月19日(日)

 きょうも稽古。ぷらいべーとれっすんなんて、またまた気のいい事をするから、ほら、道理で天気が悪いのさ。


3月18日(土)

 歯医者は大嫌いである。それと同じくらいに歯が痛いのも嫌いである。神経に障るほどの大事になったことはないが、なぜか歯だけは、敏感に痛さを感じる。これに歯医者特有のきつすぎる消毒の独特の匂いと削る恐音が加わると、もう生きているのがぞっとしてくる。

小学生の頃から痛くても異様なくらいに我慢した。無理矢理なくらいに引っ張られてようやく出かけた歯医者で、抵抗したことは何度かある。口を開けないのだ。こどもながらに、妙な具合に力が強いのだなと認識したのは、その頃からだ。
年を重ねても痛さがやわらぐわけでもなく、まして恐さが消え去るわけでもない。年を重ねてわかるのは、「痛くても派手に騒げない」とか「無理な抵抗ができない」といった社会的な自分を意識してしまうことである。却って難儀になるだけである。

今年に入ってしばらくして、詰めていたモノが取れた。穴の開いたかのような歯はやはり生活しにくい。現実的な意味合い仕方なく歯医者に行くことにした。それでも時間的な余裕がない、身体の具合がいまいちだ(事実そうだったし)など、いろいろ理由をつけて、先伸ばしにしていた。重い腰をあげ、紹介された歯医者へ予約を入れたのは数ヶ月後の今日。

医者は治療前、「麻酔を打って治療しますか?それともそのまま打たずに治療しますか?」と尋ねた。「はい」か「いいえ」で答えられる簡単な質問なのに、わたしは返答に困った。なぜなら、これまで歯の麻酔を一度も打ったことがなかったからだ。だから、「これまで麻酔を打ったことがないんです」と答えた。「え?ないんですか?これまで、すごく痛かったでしょう」と医者は続けた。「ええ、そりゃあ、もちろん痛かったです」「じゃあ、打ってみましょうか、今回は」ということで、麻酔を打たれた。
打ったことがないので何が麻酔なのかもわからないくらい、あっという間に麻酔注射を打たれていたのは驚いた。歯の麻酔注射の経験がないので、もっと仰々しい準備やら機械でも出てくるのだと思っていたし、かなり痛いものだろうと想像していたから、あっという間のことで拍子抜けした。「気づかないくらいなら、ちょうどいいです」と医者は言った。
麻酔を打ったとはいえ、そのあと、やっぱりいくらか痛かった。医者が言うには、わたしは「神経が過敏にできているから、普通よりも痛みに反応しやすい体質です」ということだった。それをこれまで生身で治療していたのだから、えらいもんだとも。

長年、歯の痛みを極端に感じていた。痛みを感じて、無抵抗的に表現するのは、まるで悪いことのように言われたこともある。そのくせ痛くても、歯医者を敬遠するこの不条理。すべては、この歯の敏感体質によるのだと原因解明できた。そう解釈できたとき、次の予約を入れた。そういうもんである。


3月17日(金)

 夜は「お食事会」(というふうに呼ぶ人が世の中に入るんです。「宴会」とか「飲み会」じゃなくて)。至ってクールでホットに過ごす。


3月16日(木)

 卒業式。
 どうっしようもないくらいの大雨。茶話会も体育館で。
黒系統の服、和装は禁止と定められている本学の卒業式では、ことしもまたいろんな黒色が並ぶ。気の毒なのは、ピンヒールのオネエサンたち。山なのか丘なのかわからない「おかだやま」に式典があるときは、タクシーは正門前どまり。上まで登れないのだ。普段から歩いてなさそうなところを、自力で、しかもずぶぬれにならないように、高いヒールで歩くなんてたいへんだ。


3月15日(水)

 「僕の記憶は80分しか持たない」博士(@『博士の愛した数式』小川洋子)は、ある日の事故を境に新たな「記憶」することができなくなってしまった。
毎日過ごす時間のうち、継続して覚えていられるのは80分。それを過ぎると何もかも新しいことになる。すべてリセットされてしまうのだ。だから、80分前に初めて会った人は、80分経つとまた初めて会った人になってしまう。持ち合わせた記憶はすべて事故以前の事柄であり、阪神タイガースの江夏が活躍していた時代からまったく進んでいない。
それでも、「現在」という時間が進む。覚えられない状況を認識するうち、博士は、日々の忘れてはいけない事柄を小さなメモにし、上着のポケットや袖口、腕など、目に見える身体のあちこちに貼り付けた。「記憶が80分しか持たない」という事実も含めて、彼は自らの記憶できない記憶のために、工夫していたのである。

ところで、わたしの記憶は、おそらく80分以上持つと思う。しかしふと見渡せば、上着にこそ貼ってないが、事務机にはいろいろなメモが貼り付けられている。そのことに気づいたのは、ほんのつい最近である。
メモはどれもこれも、「○△の場合は~すること」「□は**のなか」「メールは&%」「☆△の期限は×○」「内線++++」など、仕事に関する事柄ばかりだ。なかには、パソコンにまで貼ってあるのもある。「誰それと面会」「$#のときは¥?を使う」など。すべては忘れないようにするための工夫であり、二度も三度も確認しないための備忘録として控えたものだ。
時と共に色が変わり、紙がふやけ、文字が見にくくなっているのもある。ときどき気づいたものは、書き換えた。80分以上の記憶力があるなら、書き換えるうち、必要になくなるものもいくつか出てきそうなものだが、どれも外すことはなかった。なぜなら、書き換えても、書き換えても、事柄が覚えられなかったからだ。
そして、いつも、翌日にすることは、前日に必ず書いていた。これぐらいのことは、当たり前の人にとっては当たり前のことかもしれない。これは、何もかもすっかり忘れてしまわないように工夫のひとつだった。備忘録は必要かもしれない。でも、備忘録を備忘録として控えたことを忘れてしまうとき、備忘録の備忘録が必要になる。それを忘れると、さらにまたその備忘録が必要になる。だから、わたしは、日が変わってもすぐわかるところにメモを残し、それを引き出しの入口すぐのところに置いた。すぐに取り出せるように、メモがメモとしてわかるように、ほかのものとの違いがすぐにわかるようにした。

「記憶できない」というよりはむしろ、突発的に何かが覚えられない性質が、わたしにはあるような気がした。
何が覚えられないのか。
今になって少しだけわかるようになったことがある。
それは無味乾燥な出来事であるはずのことに、感情が覆いかぶさる出来事である。
事務的な事柄を感情で処理しようとする状況に補足された出来事である。

往々にして事務的な事柄の大半は、さほど感情を置かない事柄であると思う。
感情抜きであってもできるし、感情など、どこにもいらないこともある。だからといって、作業をするときに、気を抜け、人間味など失くしてしまえということではない。それもまた必要であるだろう。ただ、いらない場面があるということである。必要な場面が少ないということである。感情とは別のところで処理せよということである。
事務的な事柄を労働的にこなすだけならば、感情は、さほどなくても済むかもしれない。ある種のクールさが必要だ。このことに気づくまで、そしてここに至るまで、一年かかった。この時間は、果たして長いのか短いのか、どちらだろう。いま、その答えはわからない。

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