3月23日(木)
とりふる、てりぼー、ああ怖い。
今冬(昨冬?)、インフルエンザのことを「インフル」と呼んでいるのを初めて聞いた。鳥インフルエンザもそれに合わせてか、「鳥フル」なんて呼んでいるらしい。カンフル注射を訳もなく思い出してしまう。どちらも怖いものには違いない。
一時期、サラリーマンが自嘲的に「リーマン」というのを聞いた。これなどは、リーチと役満の複合語になったその略語みたいに聞こえる。略語になると、案外明るいもののように感じられるが、ひとによっては、恐怖のことばとなるのかもしれない。じつは。
3月22日(水)
「どうしたん、うっきー。疲れて。ぼろぼろやないの。どうなっとんの、この身体」というのは、毎度の口上ではなく、今年度最も多いお言葉なのである。それに加えて今日は、「もう、かわいそうに。誰にいじめられとんの?誰?もう左肩に紙貼っとき。『三宅先生がやってきます』って紙貼っとき。先生はアルバイトで別の稼業もしとるから。今月は暇やからサービス月間よ」などと冗談交じりに言われるほどに、身体が変なのです。左身の方。
困ったなああ。
3月21日(火・祝)
天気がいいので洗濯、お掃除、布団干し。
WBCの決勝戦を少し見る。イチローに感動(今年で二度目)。合間には来年度から建て直し。
3月20日(月)
夜には、大学時代の友人と再会。
3月19日(日)
きょうも稽古。ぷらいべーとれっすんなんて、またまた気のいい事をするから、ほら、道理で天気が悪いのさ。
3月18日(土)
歯医者は大嫌いである。それと同じくらいに歯が痛いのも嫌いである。神経に障るほどの大事になったことはないが、なぜか歯だけは、敏感に痛さを感じる。これに歯医者特有のきつすぎる消毒の独特の匂いと削る恐音が加わると、もう生きているのがぞっとしてくる。
小学生の頃から痛くても異様なくらいに我慢した。無理矢理なくらいに引っ張られてようやく出かけた歯医者で、抵抗したことは何度かある。口を開けないのだ。こどもながらに、妙な具合に力が強いのだなと認識したのは、その頃からだ。
年を重ねても痛さがやわらぐわけでもなく、まして恐さが消え去るわけでもない。年を重ねてわかるのは、「痛くても派手に騒げない」とか「無理な抵抗ができない」といった社会的な自分を意識してしまうことである。却って難儀になるだけである。
今年に入ってしばらくして、詰めていたモノが取れた。穴の開いたかのような歯はやはり生活しにくい。現実的な意味合い仕方なく歯医者に行くことにした。それでも時間的な余裕がない、身体の具合がいまいちだ(事実そうだったし)など、いろいろ理由をつけて、先伸ばしにしていた。重い腰をあげ、紹介された歯医者へ予約を入れたのは数ヶ月後の今日。
医者は治療前、「麻酔を打って治療しますか?それともそのまま打たずに治療しますか?」と尋ねた。「はい」か「いいえ」で答えられる簡単な質問なのに、わたしは返答に困った。なぜなら、これまで歯の麻酔を一度も打ったことがなかったからだ。だから、「これまで麻酔を打ったことがないんです」と答えた。「え?ないんですか?これまで、すごく痛かったでしょう」と医者は続けた。「ええ、そりゃあ、もちろん痛かったです」「じゃあ、打ってみましょうか、今回は」ということで、麻酔を打たれた。
打ったことがないので何が麻酔なのかもわからないくらい、あっという間に麻酔注射を打たれていたのは驚いた。歯の麻酔注射の経験がないので、もっと仰々しい準備やら機械でも出てくるのだと思っていたし、かなり痛いものだろうと想像していたから、あっという間のことで拍子抜けした。「気づかないくらいなら、ちょうどいいです」と医者は言った。
麻酔を打ったとはいえ、そのあと、やっぱりいくらか痛かった。医者が言うには、わたしは「神経が過敏にできているから、普通よりも痛みに反応しやすい体質です」ということだった。それをこれまで生身で治療していたのだから、えらいもんだとも。
長年、歯の痛みを極端に感じていた。痛みを感じて、無抵抗的に表現するのは、まるで悪いことのように言われたこともある。そのくせ痛くても、歯医者を敬遠するこの不条理。すべては、この歯の敏感体質によるのだと原因解明できた。そう解釈できたとき、次の予約を入れた。そういうもんである。
3月17日(金)
夜は「お食事会」(というふうに呼ぶ人が世の中に入るんです。「宴会」とか「飲み会」じゃなくて)。至ってクールでホットに過ごす。
3月16日(木)
卒業式。
どうっしようもないくらいの大雨。茶話会も体育館で。
黒系統の服、和装は禁止と定められている本学の卒業式では、ことしもまたいろんな黒色が並ぶ。気の毒なのは、ピンヒールのオネエサンたち。山なのか丘なのかわからない「おかだやま」に式典があるときは、タクシーは正門前どまり。上まで登れないのだ。普段から歩いてなさそうなところを、自力で、しかもずぶぬれにならないように、高いヒールで歩くなんてたいへんだ。
3月15日(水)
「僕の記憶は80分しか持たない」博士(@『博士の愛した数式』小川洋子)は、ある日の事故を境に新たな「記憶」することができなくなってしまった。
毎日過ごす時間のうち、継続して覚えていられるのは80分。それを過ぎると何もかも新しいことになる。すべてリセットされてしまうのだ。だから、80分前に初めて会った人は、80分経つとまた初めて会った人になってしまう。持ち合わせた記憶はすべて事故以前の事柄であり、阪神タイガースの江夏が活躍していた時代からまったく進んでいない。
それでも、「現在」という時間が進む。覚えられない状況を認識するうち、博士は、日々の忘れてはいけない事柄を小さなメモにし、上着のポケットや袖口、腕など、目に見える身体のあちこちに貼り付けた。「記憶が80分しか持たない」という事実も含めて、彼は自らの記憶できない記憶のために、工夫していたのである。
ところで、わたしの記憶は、おそらく80分以上持つと思う。しかしふと見渡せば、上着にこそ貼ってないが、事務机にはいろいろなメモが貼り付けられている。そのことに気づいたのは、ほんのつい最近である。
メモはどれもこれも、「○△の場合は~すること」「□は**のなか」「メールは&%」「☆△の期限は×○」「内線++++」など、仕事に関する事柄ばかりだ。なかには、パソコンにまで貼ってあるのもある。「誰それと面会」「$#のときは¥?を使う」など。すべては忘れないようにするための工夫であり、二度も三度も確認しないための備忘録として控えたものだ。
時と共に色が変わり、紙がふやけ、文字が見にくくなっているのもある。ときどき気づいたものは、書き換えた。80分以上の記憶力があるなら、書き換えるうち、必要になくなるものもいくつか出てきそうなものだが、どれも外すことはなかった。なぜなら、書き換えても、書き換えても、事柄が覚えられなかったからだ。
そして、いつも、翌日にすることは、前日に必ず書いていた。これぐらいのことは、当たり前の人にとっては当たり前のことかもしれない。これは、何もかもすっかり忘れてしまわないように工夫のひとつだった。備忘録は必要かもしれない。でも、備忘録を備忘録として控えたことを忘れてしまうとき、備忘録の備忘録が必要になる。それを忘れると、さらにまたその備忘録が必要になる。だから、わたしは、日が変わってもすぐわかるところにメモを残し、それを引き出しの入口すぐのところに置いた。すぐに取り出せるように、メモがメモとしてわかるように、ほかのものとの違いがすぐにわかるようにした。
「記憶できない」というよりはむしろ、突発的に何かが覚えられない性質が、わたしにはあるような気がした。
何が覚えられないのか。
今になって少しだけわかるようになったことがある。
それは無味乾燥な出来事であるはずのことに、感情が覆いかぶさる出来事である。
事務的な事柄を感情で処理しようとする状況に補足された出来事である。
往々にして事務的な事柄の大半は、さほど感情を置かない事柄であると思う。
感情抜きであってもできるし、感情など、どこにもいらないこともある。だからといって、作業をするときに、気を抜け、人間味など失くしてしまえということではない。それもまた必要であるだろう。ただ、いらない場面があるということである。必要な場面が少ないということである。感情とは別のところで処理せよということである。
事務的な事柄を労働的にこなすだけならば、感情は、さほどなくても済むかもしれない。ある種のクールさが必要だ。このことに気づくまで、そしてここに至るまで、一年かかった。この時間は、果たして長いのか短いのか、どちらだろう。いま、その答えはわからない。