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2006年5月 アーカイブ

2006年5月10日

それにつけても合気道な連休

5月8日(月)

 朝起きると、さすがに背中がバリバリしている。
 先日から起きている「胸骨から来る背中の痛さ」が戻ってしまったようだ。来週の接骨院通院の際、診ていただこうと思う。

 『紅葉狩』が相変わらずうまくいかない。難しい。音が難しい。まったくもって。初心からしっかりやらねば。
 『羽衣』は、その気分になるのが難しい。難しい。何なのだ、この動き。まったくもって。初心からしっかりやらねば。
 そしてきょうは非常に暑い。異常だ。もう夏なのか?


5月6日(土)・7日(日)

 連休最後に出かけた広島の講習会は、実におもしろかった。
ある意味、不思議なことが起きたのに、不思議と思うこともまるでなく、不思議と慌てることもなく、「まあ、そういうこともあるわなあ」と、ぼんやり思った次第。
きっと、どこかで何かの最悪を救ってくれたのでしょう。
無事に新幹線(!)に乗れたし、広島焼も食べることができたし、怪我もなかった。だから、そんなふうに思うのです。


 6日(土)、いつものように夕方も過ぎた広島に到着。
なんだか激しく雨が降ってきたなあと、哀しげな空をゆっくり眺める。
傘を忘れてきたので、駅で購入してから、市電に乗る。
乗ってすぐ、恐ろしく不安げなメールが後輩から届く。その後立て続けに電話がかかる。

 「先輩、会場の体育館まで来たんですけど、誰もいないんです。誰もいる気配がないんです。ほんとうに、ここで合っているんでしょうか」。

私が所属するこの合気道の団体は、現地集合現地解散団体である。
よって、いつ、誰が、どこで、どのように、どこから、何を使って、誰と来ようが、ひとりで行こうが、寄り道しようが、遊びに行っていようが、集合時間に現地に辿り着いていればそれでOKである。

現地集合場所に5時過ぎに着いた後輩によれば、すでに開始時間近くになのに、そこに誰もいる様子がないということだった。
後輩たちは、昨年に一度来ただけなので、不安になるのも無理はない。
そういうことなので、「誰もいなくても大丈夫。あそこはいつも武道館が開くのが遅いからだよ」と、適当かつ的確な返事をし、こちらは広島駅に一緒に到着したみなさまとコーヒーなどをすすりながら、しばし歓談。

 ほどなく会場の広島県立総合体育館の武道場に移動。
だが、言われてみれば、なるほど、入口付近からして誰もいる気配がない。
いつもほどの賑わいもない。
これまで見たこともないような空手の集団はちらほらいたが、合気道の姿をした人たちは、どこにも見受けられないのである。
更衣室にも誰もいない。誰も着替えに来る様子もない。

 武道場近くの広島市民球場のデイゲームを見てきた(これぞ現地集合ならではの醍醐味!)K会員をはじめとする人物による情報が、これまた不安げに披露される。

・ 入口の電光掲示板を見ると、合気道講習会の終了予定時刻は、「6日は16:00」とある。
・ 柔道場のホワイトボードには、見覚えのある筆跡(多田先生のものと思われる)が残されている。
・ 昼ごろ球場近くにいたので、毎年この講習会に出ている近隣の大学の合気道部学生らしき姿を何人も見た。
・ 弁当の食べたあとらしきごみを見た。

柔道場の扉を開ける。
当然のように誰もいない。静まり返っている。
6時に現地到着し、なははははと笑いながら、集まった多田塾甲南合気会のメンバーは、既に空調の効かなくなった柔道場をお借りして、1時間ほど暑い稽古を続けた。

そんな稽古の途中、泣きの半べそ、とても困ったのふりをして、電話。

「すみませーん。お願いですからなんとかなりませんかー。予約時間を早めてもらえませんかぁ(泣)」

本日の諸般の事情により、予約していた夜ご飯タイムが大幅に変更する。そのため、予約時間変更を願い出たのである。
とはいえ世間は連休最後の土曜の夜。
基本的には、急に何を言っても無理なのはわかっていた。
だが、どうしようもない。
数回に渡り、哀しげな声で電話してお願いした結果、何とか1時間ほど、繰り上げてもらうことができた。広島万歳。
無事にビールの前に座ることができたのは、8時も少し過ぎた頃であった。


 明けて7日(日)。
昨日の「気の毒なご一行様」は、多田先生に無事にお会いする。
来てよかったとやっと思えた。最後までいられなかったのは、すこし残念だったが、今月は多田先生にたくさんお会いできる。

「研究も、仕事も自分と対立しない」。
「何でも技は丁寧やること」。
「針の穴くらいの小さなことでも、丁寧にじっくり続けていくこと。針の穴のような小さな穴が、ぱあっと広がって、光が見えることがある」。
 「合気道は芸術だ。芸術といっても、今の概念と芸術とは違う。合気道は芸術だ」。

今回、多田先生にうかがった言葉のなかで印象的だったものである。
多田先生は、大先生がおっしゃられたのだと言われていた。


5月5日(金)

 こどもの日。
この年になって初めて知った。
「こどもの日」は、「国民の祝日に関する法律」(祝日法)で定められたところによると、「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」日だということを。
こどもの日に、なぜ、このような制定があるのだろう。なぜ「母」なのだろうと早速気になっている。
 祝日ではないが、母の日は、すごく近くにあるというのに。


5月4日(木)

 久しぶりの実家に帰る。
ここ数年、GWくらいは実家に帰るようにしている。
年によっては、日程的に動きづらい、「飛び石連休」になることもあるので、帰らないこともある。
 その点、今年は帰りやすかった。
だが、仕事が溜まっていたので、片付けてからゴー。ということで、今日出発。なんだか人が多いぞ。

父が駅まで迎えに来てくれている。
なんだかいつもより親切で、どうも愛想がいいと思ったら、昨日パソコンを新しくしたため、父は、何気なくわたしを待ち受けていたのである。
そんなことは、まるで知らないわたしは、着くなり早速に捕まり、パソコンに関する質問をされる羽目になった。
あとは、簡単な設定をし終わる。
さらには、今度は、困ったときにいろいろ呼ばれる。

 「残念ながら1975年以降の生まれの人間はパソコンが苦手では許されません」

かのIT氏の話が、ふと思い出される。別に苦手ではないし、嫌いでもなし。
やっぱり新しいものはうらやましい。きれいな画面はいいなあと思う。


5月3日(水)

 仕事と共に暑い一日。


5月2日(火)

 大学院ゼミで、芦屋合気会を宣伝させていただく。
 今日に限って、夜の時間が空いていたので、講義から全部参加した。何とも運がいいものだ。
 顔合わせ宴会にて、幹事を引き受けた。
いろいろな方と交流を深めることができた。何ともいろいろな世界があって、楽しき時間かな。


5月1日(月)

 ちょっとだけ世間も休みモードっぽくなっている。少し喉が痛い。風邪かな。


4月30日(日)

 終日仕事。なかなか終わらない。あと少しだ。
がんばれ!ウッキー。
フレーフレー!ウッキー。

2006年5月25日

五月は雨の中

5月24日(水)

 『紅葉狩』の源維茂(これもち)の声はどっしりと太く大きく、低い声でたっぷりと。
 『羽衣』の天女は女形。天にふわりと昇っていく様子は、優雅に、華麗に、煌びやかでなければならない。歩き方から立ち居振る舞いから。このギャップがすごい。


5月23日(火)

 稽古にもいろんな工夫が必要だと思う。


5月22日(月)

 試験をひとつ受ける。
 試験をひとつ受けてもらうことにする。
 どっちが楽だろう。


5月21日(日)

 午後、居合の稽古がある。
今度は間違うことなく、MY「しんとく丸」持参で稽古に行く。
柄のところにあるトンボが、とてもかわいらしい。
 しかし、剣を抜くのは難しい!扱うのはさらに難しい!


5月20日(土)

 昼から、合気道の稽古で芦屋に行く。終わってから、少し移動して芦屋で歓談。その後、「例の仕事」のため大阪駅周辺に行く。続いて北新地方面で懇親会、そうっと今度は誕生日会の三宮へ行き、続く座談会も三宮方面で。
ああ、忙しい。今日の移動にはJRを利用。


5月19日(金)

 今日もまたすごい雨。


5月18日(木)

 『ダ・ヴィンチ・コード』の試写会に行かせて頂く。

エンドクレジットに続いて、最後に、「日本語訳戸田奈津子」の文字が出てすぐ、わたしは席を立つ。座席に続く映画館前のフロアは、まだどこか閑散としている。出入口付近に、観客はほとんど戻って来ていない。みんな最後まで、じっと見ているみたいだ。
「マスコミ関係者出入口」近くにカメラが待機している。一瞬、待機しているカメラのレンズがわたしに向けられたものと錯覚しそうになる。近くには誰の人影もなかったからだ。そう思ったのも束の間、うしろから、「いやあ、非常に、おもしろかったですねえ」と、どこか聞き覚えのある声が響く。向けられたカメラの宛先はその声の主であり、わたしではないとわかる。独特の関西弁にメガネ、芸能人的に目深に被った帽子、難波節的解説姿から、誰なのかはすぐにわかった。浜村純である。ああいうふうにして、会場から出てきたところに直撃し、感想を頂き、撮るらしい。映画を見終わってすぐに、「感想は?」と聞かれたら、「おもしろい」と言うほかは、余り気の利いた感想は浮かばないものだ。映画に興奮していれば尚更だ。しかし、おもしろかった。それは間違いない。

5月17日(水)

 午後、いつもの時間に合気道の稽古を行う。
 何人か、手伝いの方が来てくれた。
初心者同士で稽古をするのもいいが、たまには技ができる人が来てくれて、それをしている姿を見てもらうのもいい。
手伝いの方のおかげで、今日はスムーズに進めていくことができたように思う。あるいは、休みの人もいたせいか、予定していたことを少し先に進めることができた。
とはいえ、何も慌ててする必要はない。もちろん技を行うにあたって、ある程度(止まらない程度)の早さも必要だが、早くやればそれでいいというものではない。
もう少し全体的な様子を見ながら、やっていこう。技は、決して慌ててするものではない。結果的に早く「見える」だけのことだ。ましてや汗をかくほどに、慌ててするものではない。すっきり、きれいに、丁寧に。それがいいのではないか。


 稽古後、甲野先生の講習会のため、大学へ移動。
 外は生憎のお天気(大雨!)のため、道場からの最短コースをとる。西宮北口からタクシーを乗り合わせる。
更衣し、大学の道場に入る。
道場に入るなり、既にお見えになっていた三宅先生に、「君は、ほんとうにこの姿(道衣に袴姿)が似合うねえ」と言われ、かなりよい気分になってしまう。(ありがとうございます)。
人生の大半をこれで過ごしたいと切に願っている。
実は子どもの頃から、普段から、着物で過ごしたいと思っている。
そのセルフイメージは、明治時代の書生によって作られたものだ。
ちょうど夏目漱石あたりの作品に出てくる書生たちの姿、そのような格好をしたい。
ときおり泊まる日本の宿には、今も浴衣に半纏などがある。それらに異様な愛着を感じてしまう。明治時代、志半ばで、どこかの流れ弾に当たった学徒の魂が、この身体に残っているのだろうか。そう思わせるくらいに、わたしの身体は日本人向けにできている。


四時前に、甲野先生が来られた。もちろん着物姿。大学では、久しぶりの講習会である。

 三教の入り方や取り方がすごくおもしろかった。
 
ぬるんと抜ける身のこなし、あの異様な体感は、触れさせていただけないとわからない。

身体の動きを言葉で説明すると、「そこ」から「ここ」、「ここ」から「あそこ」というふうに、ひとつの地点から次の地点へのルートしか存在しないと言われていた。「そこ」から「ここ」にも「あそこ」にも「あっち」にも「こっち」にも「向こう」へも、何通りもの道筋やルートがあるのだから、それを「こうやってこうする」と説明した途端、かちっとひとつに固まってしまうので、言葉を使って、手順を追って全部を説明しようとすることはできない。だから、身体がどのような動きをしているのか、説明できないし、説明がつかない。それは、身体が無限の開放感を示しているように、わたしは感じた。

「敵を認めない」というのは、どこか合気道にも通じる気がした。
「気持ちの持ちよう」というのも、忘れてはならないことだ。

 何だかいま、自分のなかの、身体にある、心身のOSみたいなものが、変化をうねりを見せ始めている時期である。これまで聞いていた言葉でも、全然違ったふうに聴こえるし、少しずつだが感じ方が変わっているなあと感じる日々だ。

 今日一日楽しかった。
甲野先生、ありがとうございました。またお会いできますように。
三宅先生、ありがとうございました。ご配慮いただき、うれしかったです。
そして、何より内田先生、ほんとうにありがとうございます。


5月16日(火)

胸中複雑。いわんや身体をや。

「況や」と書いて「いわんや」と読む。古典などで「いわんや~をや」と出てきた、あれである。よく見ると、「況や」は「呪い」に少し似ている。「祝い」にも少し似ている。いま、住んでいる少し近くに「神呪町」という町名がある。前々から少し気になっている。何が関係するだろうかと。どういう由来でその名前になったのだろうかと。


5月15日(月)

 「515のほうらい」なんてないよ。


5月14日(日)

 ここしばらくは、花を贈ったりなんかしていた。
毎年同じなのも芸がないし、思ったより育成状態がいいのか、贈った花が増えているというので、ことしはちょっと別のものを贈ることにした。
GWのうちに渡した「母の日グッズ」。今日は母の日メールを贈る。


5月13日(土)

 雨で月は見えずとも、満月の夜は忙しい。満月の夜は、何かと誰もが騒がしい。

 雨の中、朝からお能の稽古に行く。
お能の下川先生がとても親切だった。
『紅葉狩』は、ようやく酔っ払ってきた源維茂である。『羽衣』は、ようやく空を飛べるようになった見習い天女状態だ。きれいに羽衣を渡せるようになりたいものだ。
合気道の稽古に行くと、ここでも、先生は親切だった。
そのあと、街に出ると、やっぱりなぜか親切な人に出会った。


5月12日(金)

 背中の痛みはまだ治らず、顔はまた少し荒れ模様。


5月11日(木)

 少しだが、また眼が開いた感触あり。


5月10日(水)マタ、ヘコタレズニ雨ガ降ッテイル。
 
 自転車に乗っていると、『雨ニモマケズ』が口を付いて出てきた。
小学校6年のときに暗証して以降、ふとした拍子に口から出てくる。いつまで経っても忘れることができない。暗証したのは、たしかクラスで一番くらい。自慢ではないが、小さい頃から暗記だけは得意だ。覚えたての言葉がひっかかりなく、つらつらと、訳もなく、可もなく不可もなく出てくることほど気持ちのいいことはない。『椰子の実』を暗証するときは、暗証だけでなく、全部書かなければならなかった。それも一言一句間違うことなく、漢字はすべて漢字、ひらがなはすべてひらがなにしなければ、「覚えた」と認めてもらえなかった。与えられた時間は10分。最後まで覚えられた者はクラスには誰もいなかった。ただひとりを除いては。わたしは、こういうとき、ひとりになることができた。のちに、『椰子の実』に音をつけたものは、よく学校のチャイムに使われてものだと知り、驚いた。でも、わたしの通う小学校では使われていなかった。「名も知らぬ遠き島より流れ寄る椰子の実ひとつ」。今の小学生もこんな詩を覚えることはあるんだろうか。

 ところで、『雨ニモ負ケズ』の詩には、「一日ニ玄米四合と味噌と少シノ野菜ヲ食ベ」という行がある。
詩を覚えたてのわたしは、ずっと「二玄米」だと信じて疑わなかった。
かつて、「二玄米」という名の玄米があり、玄米よりもいくらか品質も等価の落ちるもので、いまほど食糧事情がよくなかった時代ゆえ、そういうものを食していたのだと思い込んでいたのである。あるいは宮沢賢治の生活の指針として、そういう部類のものを敢えて選んでいたのだと解釈していたのである。
というのも、カタカナの「ニ」と漢数字の「二」は一見して、見分けが付きにくいからだ。しかも宮沢賢治は、縦書きで(それもおそらく病床で)、この詩を記していたようだから、さらにわかりにくい。さらに、カタカナの「ニ」でも漢数字の「二」でも、どちらも音も同じ“ni”である。話し言葉で聞くだけでは、それがどっちの“ni”なのかもわかりにくい。件の行をひらがなに直せば、「一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ」となる。原文がひらがなであれば、そういった勘違いは起こらなかったことだろうと思う。

実際は、漢数字ではなく、カタカタの「ニ」だと教えてくれたのは、同じ小学校の隣の組の友人であった。とても聡明な人物で、頭がよすぎるのか、日頃から何を考えているのかよくわからなかった。それでも小学校から中学まで一緒で、わりあい仲もよかった。マンガがとてもうまかった。将来は、マンガ家になりたいと言っていた。毎日マンガを描いては見せてくれた。わたしはそのタッチが好きで、うまいなあ、おもしろいなあといつも感心して読んでいた。キャラクターを描くときの絵は、ほんとうに大事だ。その本全体の命といえるものにもなるからだ。
キャラクターは、大概は無機質なもので構成され、擬人化したものか(野菜など食物)動物(虫とかクマ)あたりだった。人間がそのままキャラクターにはならなかった。ときには、描くキャラクターに、わたしは友情出演していた。また、どうみても、「そのモデルはわたしじゃないの!?」と思わずには、いられないキャラが、こっそり、あちこちに勝手に登場していたこともある(描いた本人はその気がなくとも)。わたしがモデルだと思しきキャラ、またほかの友人にもきっとそうだと密かに噂されていたキャラは、よく眠り、目がトロンとし、ぼんやりしているくせに時々冴え渡り、みなを助けたり、大概はリーダー格の人物に引っ張られてしまうようなボケなのかツッコミなのかも、よくわからないものだった。それによく見ると、顔も丸顔が多く、馴染みを覚える。わたしくさい。
ともあれ日々、何かと知的な刺激を与えてくれる人物だった。しゃべっていてもおもしろかった。その後、人づてにT大に進学したと聞いた。果たして今、どこで何をしているのだろう。マンガ家になったのだろうか。それならまた読んでみたい。


5月9日(火)

 特段すべきこと。数学のおもしろさに、今さらながら少し気づいたこと。

2006年5月30日

五月は合気道の月

5月29日(月)

 杖の稽古をしていたら、ふと太刀が振りたくなったので、振ってみた。これまでより、随分と動かしやすくなっている。居合いの刀のおかげだろうか。あるいは気持ちの問題だろうか。
剣を使うときの身体の使い方をあれこれ説明するうち、聞いたことのない言葉がぽんぽん飛び出してきた。一番よく聞いているのはわたしの身体だろう。できる、できないは別にして、まさに道場は実験の場であることを痛感する。


5月28日(日)第79回東京大学五月祭 東京大学合気道気錬会 演武会@七徳堂

 翌日は、神戸女学院大学合気道部の同門(でいいんですかね?)の東京大学合気道気錬会の演武会にお邪魔させていただく。ここ数年は日程が合わず、全日本の演武会翌日は、東大・早稲田・女学院の三大学で、合同稽古をさせていただいていた。ことしは、うまく日程が合い、無事に演武会の日と重なる。

 気錬会のみなさんのすばらしくきちっとした演武を拝見し、驚きと感動を覚えたのち、演武会に出場。
 また、今日も内田先生のお計らいにより、今回初めて、気錬会の演武会で演武をさせていただいた。
演武は、もうすこし投げたい感触が残らないでもなかった。「ノル」には短すぎる時間であった。しかし何分、配当時間が限られている。かつて邪道免許皆伝された身ながらも、ふいに芽生える親切心。またの機会があれば、それに望みをかけたい。
多田先生の説明演武を拝聴し、いろいろと工夫しながら、精進していこうと思う。
 
東京駅で駅弁を買い、午後1時過ぎの新幹線に飛び乗り、帰郷に着く。
ともあれ、非常に濃く、熱く、楽しく、騒ぎ、思い、考えながらの充実した東京の週末である。


5月27日(土)第44回全日本合気道演武大会

 ことしも演武会に参加した。今回で何度目になるのだろうと思い、去年の日録をくってみた。そのことについては、特別何も書き記されていなかった。気になって、さらに一昨年の日録をくってみる(こういうときにもまことに便利)。調べてみると、どうやら今年で8回目の参加みたいである。実際の出場は7回目。
20世紀も終わりごろに入門し、いま21世紀になった。全日本の演武会も、ことし44回を数えるようになった。つい先ごろ、「40回大会」だった気がしていたのが、それからもう数年経ったということだ。何とも早いものである。

 当日は、午前8時16分初の新大阪発の「のぞみ」に乗って、東京へ。それから九段下は日本武道館へ移動。
 会および部の鉄則、現地集合のため、武道館で、昨日、一昨日から順次東京入りしていた部の学生ご一行に会う。確保していただいた座席に着席。

演武に使う武道館は、毎年、五面の道場が整備されている。畳の周りには、赤、緑、青、黄、白の五色が施されている。各団体は、その色で、出場する場所を区別する。
武道館の北側が正面であり、来賓席がある。正面北側より向かって右手側が当然西。西側手前に赤、西奥に緑、正面東側手前に青、東奥に黄、中央に白という具合に、畳(演武場)が整備されている。
昨年まで、我々は黄色の畳で演武していた。それが、ことしから赤の畳になった。これまで座っていた黄色の畳が見える場所からすれば、赤は対角線上をなす位置である。当然のように、座る場所も180度変更になる。見える景色もぐっと違ったものになる。使う畳の前に座らなければならない決まりはないが、大概は使う畳の前の座席に座る。
日本武道館に行ったことのある人ならわかるだろうが、この武道館は、たまねぎ形で、一階に演武場(あるいは会場)、二階、三階が座席となっている。今回なら、観覧席から、下を覗き込むようにして、演武場を眺めるわけである。
 場所が変わったおかげで、出場前からの多田先生を、これまでよりもぐっと大きく拝見できた。多田先生は西側入口から登場される。これまでの黄色(南東)から西を見るときは、眼を凝らしていないとわからなかった。それが今回は北西にいるので、すぐ目の前にいる先生の動きがわかるのである。
 多田先生の演武に感動した。これを観に来たのである。スピード溢れるキレのよさとかっこよさだった。

 ほかにも、演武会では、多田塾門下の演武をはじめとして、数々のパフォーマンス的演武を拝見する。年々増加する合気道人口(ことしは世界から7500人が参加)に比例しているのか、ことしは海外からの演武者が多い。(おそらく初出場の)アメリカ、フランス、スペイン、ロシアとフィンランド、スウェーデン、シンガポール、台湾、韓国である。もしかしたら、これまでも出場されていたのかもしれない。だが、五面全部を合気道の外国勢が占めるのは、初めて見た(どうやらそれは初めてのことらしい)。
年々増えているのはこれだけではない。私たちが「シンクロイナイズド合気道」(略して「シンクロ合気道」)と呼ぶところの合気道も増えている。毎年見ていると、ほんとうに、ここ数年でぱっと数が増えた感がある。息を合わせるため、相当稽古されていることが見てとれる。時間差攻撃のように、しゅるしゅると入れ替わり、立ち代り、場所を換え、いろいろな工夫がこなされている。まさに、年に一回の合気道のお祭りである。だから、楽しまなきゃ損なのである。

演武会後は九段会館にて、多田先生ご主催による懇親会。
多田塾門下の門人が一同に会する、これまた年に一度の機会である。なかには毎年、ここでだけ顔を合わす人々もいる。
ことしは生憎の雨のため、ビアガーデンパーティではなく、二階の鳳凰の間で開催。「不老長寿」に相応しい名ではないですか。
東大合気道気練会、早稲田大学合気道会、自由が丘をはじめとする同門の方々に、お会いできた。なにものにも変え難い時間である。非常に同門の密度の濃い時間である。

懇親会半ば、内田先生のお計らいにより、多田先生へご紹介いただいた。
四月から合気道の道場を開設したため、そのご挨拶である。多田先生にご挨拶し、がんばっていこう、また心新たに精進しようと胸に誓う。


5月26日(金)

 また、雨が降っている。
雨だと、それだけで機嫌が悪くなる。なんだか身体全体が冴えないというか、ちゃんとできないのである。身体が怒ってしまうというか、身体が落ち着かなくて、いらいらしてしまうのである。それではいけないのは頭ではわかっているのだが、すんなりそうもいかないので、そういうときはお天気のことは考えないようにして過ごす。
明日からの東京も、思いがけず天気が悪いみたいだ。傘を忘れないようにして、荷造りしなければ。そして笑顔の準備も。


5月25日(木)

 何度も同じことを言って申し訳ないが、わたしは歯医者が嫌いである。歯医者が嫌いというのは、歯科医も含めた医者が嫌いだとかいうそういった単純な理由ではない。強いて言うなら場所である。あの病院たる場所が嫌なのである。

病院のドアを開けた瞬間、まず独特の消毒の臭いが鼻から入ってくる。臭いでまず「歯医者は嫌よ」度が増す。ただたんなる臭いのはずなのに、身体全体で臭いを受け止めてしまうからである。それも無意識に。そして、臭いで途端に身体が硬くなる。この臭いが歯医者は特別に強い気がする。あるいは、歯医者だけが、ほかと違うと思われる。この場合の歯科は歯科でも総合病院の歯科ではなく、街の歯科医院の場合の話だ。鼻には蓋がないので臭いを削ぐことも防御することもできず、とても困る。

スリッパを履きかえるため、手をスリッパのところに持って行くときも、足を寄せる時点で、すでに身の竦む思いがしている。動きがそろそろとぎこちなくなる。なんとかスリッパに履き替えて、受付に行って、診察券を出し、歩いて、椅子に座る。
キーンと響く音が耳を硬くさせる。何も聴こえなくなりたくなる瞬間だ。しかし、なかなかそうもいかない。選り分けているのではないかというぐらいに、その音だけがはっきりとしたものとして、聴こえてくる。耳蓋がないのが哀しい。
待っている間に本を読むなどもってのほかだ。活字を追うことなんて、そんな心地にはなれない。とてもできない。瞼があるので、目はできるだけ塞ぐようにしている。とはいえ、待合室に貼られた注意書きや文字をいつも読んでしまっている。カバンには何かの読み物を忍ばせている。読めもしないのに。
名前を呼ばれて、歩いて、治療台に行き、椅子に座る。もうそのころになると、かなり周りのものが気になって仕方ない。歯を見るためのライトも、うがいするためのコップも、水の蛇口も、その造りがあるだけで、ぞぞぞぞぞっとする。ぞぞぞぞぞっとするので、なるべく見ないようにして、静かに眼を閉じる。瞼に万歳。でも、閉じると別の五感が急に発達するのか、音はよく聞こえるし、強い消毒の臭いがさらにしてくる。
歯科医院という場所は、鼻、耳、眼の感覚がうまく統御されていない。そのくせ、よく働いているから問題だ。感覚が敏感になればなるほど、痛さへの恐怖心を呼び起こさせてしまう。完全に五感が機能停止することができ、鈍感になれば、ここまで、身体が、かちこちになることもなかろうに。それができないし、それどころか瞬間的に発達してしまうからたいへんである。

痛いのが嫌いなのである。痛いのが大嫌いなのである。しかも、この度の歯医者の先生の説明によれば、歯および歯の神経に関して、わたしは、一般的な痛みよりもかなり敏感にできているらしい。だから、ふつうの人が、ちょっと削られる程度で我慢できるところも、随分過敏に反応してしまうのである。結果、痛いという感覚を覚える時間が、ほかの人よりも早くやってくる。だから、「痛いよー」と大仰に騒いでいるわけでも、痛がっているわけでもない。なんでもないふつうのことなのだ。痛さまでの時間が短いので、痛いよと反応する時間もまた早いだけのことなのだ(随分イラチな歯やね)。というわけで、経験的に言って、わたしの歯は、痛さに到達するまでの時間がとても短い。痛い目に遭う場所へ行くことに、足が竦んでも仕方ないというわけである。
それでも、歯医者に行くのは、悪くなってから歯を抜いたり、さらに悪くなってから治すのは、さらにさらに痛くなったりするからである。「嫌の嫌の嫌の嫌」になるくらいなら、まだ「嫌」がひとつくらいの段階で行く方がまだましだと考えるからだ。そういうわけで、しぶしぶ行くことにしている。

あと、こうふうに思えるようになったのは、今回の歯医者の先生が、精神的に取り計らってくれるところが大きい。歯医者にしては珍しく、まことに親切な方だと思う。もしかしたら通りいっぺんのことを説明しているだけかもしれないが、それを聞ける身体になっている。歯のことだけでなく、治療を受ける段階で、身の周りのことや歯医者の先生自身のことも含めて説明し、気遣いもあり、こちらの納得の行く話し方をしてくれるので、なんとか身が持っている。歯の治療とは、まことに呪術的な力の大きいものだと思う。見渡せば、受付、歯科衛生士のすべて感じのいい方で、対応が細やかで丁寧である。きっと、すべて、この歯医者の先生の方針なのだろう。この医院が、いつも流行っていることからすれば、なるほど合点のいく話である。

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