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五月は雨の中

5月24日(水)

 『紅葉狩』の源維茂(これもち)の声はどっしりと太く大きく、低い声でたっぷりと。
 『羽衣』の天女は女形。天にふわりと昇っていく様子は、優雅に、華麗に、煌びやかでなければならない。歩き方から立ち居振る舞いから。このギャップがすごい。


5月23日(火)

 稽古にもいろんな工夫が必要だと思う。


5月22日(月)

 試験をひとつ受ける。
 試験をひとつ受けてもらうことにする。
 どっちが楽だろう。


5月21日(日)

 午後、居合の稽古がある。
今度は間違うことなく、MY「しんとく丸」持参で稽古に行く。
柄のところにあるトンボが、とてもかわいらしい。
 しかし、剣を抜くのは難しい!扱うのはさらに難しい!


5月20日(土)

 昼から、合気道の稽古で芦屋に行く。終わってから、少し移動して芦屋で歓談。その後、「例の仕事」のため大阪駅周辺に行く。続いて北新地方面で懇親会、そうっと今度は誕生日会の三宮へ行き、続く座談会も三宮方面で。
ああ、忙しい。今日の移動にはJRを利用。


5月19日(金)

 今日もまたすごい雨。


5月18日(木)

 『ダ・ヴィンチ・コード』の試写会に行かせて頂く。

エンドクレジットに続いて、最後に、「日本語訳戸田奈津子」の文字が出てすぐ、わたしは席を立つ。座席に続く映画館前のフロアは、まだどこか閑散としている。出入口付近に、観客はほとんど戻って来ていない。みんな最後まで、じっと見ているみたいだ。
「マスコミ関係者出入口」近くにカメラが待機している。一瞬、待機しているカメラのレンズがわたしに向けられたものと錯覚しそうになる。近くには誰の人影もなかったからだ。そう思ったのも束の間、うしろから、「いやあ、非常に、おもしろかったですねえ」と、どこか聞き覚えのある声が響く。向けられたカメラの宛先はその声の主であり、わたしではないとわかる。独特の関西弁にメガネ、芸能人的に目深に被った帽子、難波節的解説姿から、誰なのかはすぐにわかった。浜村純である。ああいうふうにして、会場から出てきたところに直撃し、感想を頂き、撮るらしい。映画を見終わってすぐに、「感想は?」と聞かれたら、「おもしろい」と言うほかは、余り気の利いた感想は浮かばないものだ。映画に興奮していれば尚更だ。しかし、おもしろかった。それは間違いない。

5月17日(水)

 午後、いつもの時間に合気道の稽古を行う。
 何人か、手伝いの方が来てくれた。
初心者同士で稽古をするのもいいが、たまには技ができる人が来てくれて、それをしている姿を見てもらうのもいい。
手伝いの方のおかげで、今日はスムーズに進めていくことができたように思う。あるいは、休みの人もいたせいか、予定していたことを少し先に進めることができた。
とはいえ、何も慌ててする必要はない。もちろん技を行うにあたって、ある程度(止まらない程度)の早さも必要だが、早くやればそれでいいというものではない。
もう少し全体的な様子を見ながら、やっていこう。技は、決して慌ててするものではない。結果的に早く「見える」だけのことだ。ましてや汗をかくほどに、慌ててするものではない。すっきり、きれいに、丁寧に。それがいいのではないか。


 稽古後、甲野先生の講習会のため、大学へ移動。
 外は生憎のお天気(大雨!)のため、道場からの最短コースをとる。西宮北口からタクシーを乗り合わせる。
更衣し、大学の道場に入る。
道場に入るなり、既にお見えになっていた三宅先生に、「君は、ほんとうにこの姿(道衣に袴姿)が似合うねえ」と言われ、かなりよい気分になってしまう。(ありがとうございます)。
人生の大半をこれで過ごしたいと切に願っている。
実は子どもの頃から、普段から、着物で過ごしたいと思っている。
そのセルフイメージは、明治時代の書生によって作られたものだ。
ちょうど夏目漱石あたりの作品に出てくる書生たちの姿、そのような格好をしたい。
ときおり泊まる日本の宿には、今も浴衣に半纏などがある。それらに異様な愛着を感じてしまう。明治時代、志半ばで、どこかの流れ弾に当たった学徒の魂が、この身体に残っているのだろうか。そう思わせるくらいに、わたしの身体は日本人向けにできている。


四時前に、甲野先生が来られた。もちろん着物姿。大学では、久しぶりの講習会である。

 三教の入り方や取り方がすごくおもしろかった。
 
ぬるんと抜ける身のこなし、あの異様な体感は、触れさせていただけないとわからない。

身体の動きを言葉で説明すると、「そこ」から「ここ」、「ここ」から「あそこ」というふうに、ひとつの地点から次の地点へのルートしか存在しないと言われていた。「そこ」から「ここ」にも「あそこ」にも「あっち」にも「こっち」にも「向こう」へも、何通りもの道筋やルートがあるのだから、それを「こうやってこうする」と説明した途端、かちっとひとつに固まってしまうので、言葉を使って、手順を追って全部を説明しようとすることはできない。だから、身体がどのような動きをしているのか、説明できないし、説明がつかない。それは、身体が無限の開放感を示しているように、わたしは感じた。

「敵を認めない」というのは、どこか合気道にも通じる気がした。
「気持ちの持ちよう」というのも、忘れてはならないことだ。

 何だかいま、自分のなかの、身体にある、心身のOSみたいなものが、変化をうねりを見せ始めている時期である。これまで聞いていた言葉でも、全然違ったふうに聴こえるし、少しずつだが感じ方が変わっているなあと感じる日々だ。

 今日一日楽しかった。
甲野先生、ありがとうございました。またお会いできますように。
三宅先生、ありがとうございました。ご配慮いただき、うれしかったです。
そして、何より内田先生、ほんとうにありがとうございます。


5月16日(火)

胸中複雑。いわんや身体をや。

「況や」と書いて「いわんや」と読む。古典などで「いわんや~をや」と出てきた、あれである。よく見ると、「況や」は「呪い」に少し似ている。「祝い」にも少し似ている。いま、住んでいる少し近くに「神呪町」という町名がある。前々から少し気になっている。何が関係するだろうかと。どういう由来でその名前になったのだろうかと。


5月15日(月)

 「515のほうらい」なんてないよ。


5月14日(日)

 ここしばらくは、花を贈ったりなんかしていた。
毎年同じなのも芸がないし、思ったより育成状態がいいのか、贈った花が増えているというので、ことしはちょっと別のものを贈ることにした。
GWのうちに渡した「母の日グッズ」。今日は母の日メールを贈る。


5月13日(土)

 雨で月は見えずとも、満月の夜は忙しい。満月の夜は、何かと誰もが騒がしい。

 雨の中、朝からお能の稽古に行く。
お能の下川先生がとても親切だった。
『紅葉狩』は、ようやく酔っ払ってきた源維茂である。『羽衣』は、ようやく空を飛べるようになった見習い天女状態だ。きれいに羽衣を渡せるようになりたいものだ。
合気道の稽古に行くと、ここでも、先生は親切だった。
そのあと、街に出ると、やっぱりなぜか親切な人に出会った。


5月12日(金)

 背中の痛みはまだ治らず、顔はまた少し荒れ模様。


5月11日(木)

 少しだが、また眼が開いた感触あり。


5月10日(水)マタ、ヘコタレズニ雨ガ降ッテイル。
 
 自転車に乗っていると、『雨ニモマケズ』が口を付いて出てきた。
小学校6年のときに暗証して以降、ふとした拍子に口から出てくる。いつまで経っても忘れることができない。暗証したのは、たしかクラスで一番くらい。自慢ではないが、小さい頃から暗記だけは得意だ。覚えたての言葉がひっかかりなく、つらつらと、訳もなく、可もなく不可もなく出てくることほど気持ちのいいことはない。『椰子の実』を暗証するときは、暗証だけでなく、全部書かなければならなかった。それも一言一句間違うことなく、漢字はすべて漢字、ひらがなはすべてひらがなにしなければ、「覚えた」と認めてもらえなかった。与えられた時間は10分。最後まで覚えられた者はクラスには誰もいなかった。ただひとりを除いては。わたしは、こういうとき、ひとりになることができた。のちに、『椰子の実』に音をつけたものは、よく学校のチャイムに使われてものだと知り、驚いた。でも、わたしの通う小学校では使われていなかった。「名も知らぬ遠き島より流れ寄る椰子の実ひとつ」。今の小学生もこんな詩を覚えることはあるんだろうか。

 ところで、『雨ニモ負ケズ』の詩には、「一日ニ玄米四合と味噌と少シノ野菜ヲ食ベ」という行がある。
詩を覚えたてのわたしは、ずっと「二玄米」だと信じて疑わなかった。
かつて、「二玄米」という名の玄米があり、玄米よりもいくらか品質も等価の落ちるもので、いまほど食糧事情がよくなかった時代ゆえ、そういうものを食していたのだと思い込んでいたのである。あるいは宮沢賢治の生活の指針として、そういう部類のものを敢えて選んでいたのだと解釈していたのである。
というのも、カタカナの「ニ」と漢数字の「二」は一見して、見分けが付きにくいからだ。しかも宮沢賢治は、縦書きで(それもおそらく病床で)、この詩を記していたようだから、さらにわかりにくい。さらに、カタカナの「ニ」でも漢数字の「二」でも、どちらも音も同じ“ni”である。話し言葉で聞くだけでは、それがどっちの“ni”なのかもわかりにくい。件の行をひらがなに直せば、「一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ」となる。原文がひらがなであれば、そういった勘違いは起こらなかったことだろうと思う。

実際は、漢数字ではなく、カタカタの「ニ」だと教えてくれたのは、同じ小学校の隣の組の友人であった。とても聡明な人物で、頭がよすぎるのか、日頃から何を考えているのかよくわからなかった。それでも小学校から中学まで一緒で、わりあい仲もよかった。マンガがとてもうまかった。将来は、マンガ家になりたいと言っていた。毎日マンガを描いては見せてくれた。わたしはそのタッチが好きで、うまいなあ、おもしろいなあといつも感心して読んでいた。キャラクターを描くときの絵は、ほんとうに大事だ。その本全体の命といえるものにもなるからだ。
キャラクターは、大概は無機質なもので構成され、擬人化したものか(野菜など食物)動物(虫とかクマ)あたりだった。人間がそのままキャラクターにはならなかった。ときには、描くキャラクターに、わたしは友情出演していた。また、どうみても、「そのモデルはわたしじゃないの!?」と思わずには、いられないキャラが、こっそり、あちこちに勝手に登場していたこともある(描いた本人はその気がなくとも)。わたしがモデルだと思しきキャラ、またほかの友人にもきっとそうだと密かに噂されていたキャラは、よく眠り、目がトロンとし、ぼんやりしているくせに時々冴え渡り、みなを助けたり、大概はリーダー格の人物に引っ張られてしまうようなボケなのかツッコミなのかも、よくわからないものだった。それによく見ると、顔も丸顔が多く、馴染みを覚える。わたしくさい。
ともあれ日々、何かと知的な刺激を与えてくれる人物だった。しゃべっていてもおもしろかった。その後、人づてにT大に進学したと聞いた。果たして今、どこで何をしているのだろう。マンガ家になったのだろうか。それならまた読んでみたい。


5月9日(火)

 特段すべきこと。数学のおもしろさに、今さらながら少し気づいたこと。

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2006年5月25日 10:51に投稿されたエントリーのページです。

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