5月29日(月)
杖の稽古をしていたら、ふと太刀が振りたくなったので、振ってみた。これまでより、随分と動かしやすくなっている。居合いの刀のおかげだろうか。あるいは気持ちの問題だろうか。
剣を使うときの身体の使い方をあれこれ説明するうち、聞いたことのない言葉がぽんぽん飛び出してきた。一番よく聞いているのはわたしの身体だろう。できる、できないは別にして、まさに道場は実験の場であることを痛感する。
5月28日(日)第79回東京大学五月祭 東京大学合気道気錬会 演武会@七徳堂
翌日は、神戸女学院大学合気道部の同門(でいいんですかね?)の東京大学合気道気錬会の演武会にお邪魔させていただく。ここ数年は日程が合わず、全日本の演武会翌日は、東大・早稲田・女学院の三大学で、合同稽古をさせていただいていた。ことしは、うまく日程が合い、無事に演武会の日と重なる。
気錬会のみなさんのすばらしくきちっとした演武を拝見し、驚きと感動を覚えたのち、演武会に出場。
また、今日も内田先生のお計らいにより、今回初めて、気錬会の演武会で演武をさせていただいた。
演武は、もうすこし投げたい感触が残らないでもなかった。「ノル」には短すぎる時間であった。しかし何分、配当時間が限られている。かつて邪道免許皆伝された身ながらも、ふいに芽生える親切心。またの機会があれば、それに望みをかけたい。
多田先生の説明演武を拝聴し、いろいろと工夫しながら、精進していこうと思う。
東京駅で駅弁を買い、午後1時過ぎの新幹線に飛び乗り、帰郷に着く。
ともあれ、非常に濃く、熱く、楽しく、騒ぎ、思い、考えながらの充実した東京の週末である。
5月27日(土)第44回全日本合気道演武大会
ことしも演武会に参加した。今回で何度目になるのだろうと思い、去年の日録をくってみた。そのことについては、特別何も書き記されていなかった。気になって、さらに一昨年の日録をくってみる(こういうときにもまことに便利)。調べてみると、どうやら今年で8回目の参加みたいである。実際の出場は7回目。
20世紀も終わりごろに入門し、いま21世紀になった。全日本の演武会も、ことし44回を数えるようになった。つい先ごろ、「40回大会」だった気がしていたのが、それからもう数年経ったということだ。何とも早いものである。
当日は、午前8時16分初の新大阪発の「のぞみ」に乗って、東京へ。それから九段下は日本武道館へ移動。
会および部の鉄則、現地集合のため、武道館で、昨日、一昨日から順次東京入りしていた部の学生ご一行に会う。確保していただいた座席に着席。
演武に使う武道館は、毎年、五面の道場が整備されている。畳の周りには、赤、緑、青、黄、白の五色が施されている。各団体は、その色で、出場する場所を区別する。
武道館の北側が正面であり、来賓席がある。正面北側より向かって右手側が当然西。西側手前に赤、西奥に緑、正面東側手前に青、東奥に黄、中央に白という具合に、畳(演武場)が整備されている。
昨年まで、我々は黄色の畳で演武していた。それが、ことしから赤の畳になった。これまで座っていた黄色の畳が見える場所からすれば、赤は対角線上をなす位置である。当然のように、座る場所も180度変更になる。見える景色もぐっと違ったものになる。使う畳の前に座らなければならない決まりはないが、大概は使う畳の前の座席に座る。
日本武道館に行ったことのある人ならわかるだろうが、この武道館は、たまねぎ形で、一階に演武場(あるいは会場)、二階、三階が座席となっている。今回なら、観覧席から、下を覗き込むようにして、演武場を眺めるわけである。
場所が変わったおかげで、出場前からの多田先生を、これまでよりもぐっと大きく拝見できた。多田先生は西側入口から登場される。これまでの黄色(南東)から西を見るときは、眼を凝らしていないとわからなかった。それが今回は北西にいるので、すぐ目の前にいる先生の動きがわかるのである。
多田先生の演武に感動した。これを観に来たのである。スピード溢れるキレのよさとかっこよさだった。
ほかにも、演武会では、多田塾門下の演武をはじめとして、数々のパフォーマンス的演武を拝見する。年々増加する合気道人口(ことしは世界から7500人が参加)に比例しているのか、ことしは海外からの演武者が多い。(おそらく初出場の)アメリカ、フランス、スペイン、ロシアとフィンランド、スウェーデン、シンガポール、台湾、韓国である。もしかしたら、これまでも出場されていたのかもしれない。だが、五面全部を合気道の外国勢が占めるのは、初めて見た(どうやらそれは初めてのことらしい)。
年々増えているのはこれだけではない。私たちが「シンクロイナイズド合気道」(略して「シンクロ合気道」)と呼ぶところの合気道も増えている。毎年見ていると、ほんとうに、ここ数年でぱっと数が増えた感がある。息を合わせるため、相当稽古されていることが見てとれる。時間差攻撃のように、しゅるしゅると入れ替わり、立ち代り、場所を換え、いろいろな工夫がこなされている。まさに、年に一回の合気道のお祭りである。だから、楽しまなきゃ損なのである。
演武会後は九段会館にて、多田先生ご主催による懇親会。
多田塾門下の門人が一同に会する、これまた年に一度の機会である。なかには毎年、ここでだけ顔を合わす人々もいる。
ことしは生憎の雨のため、ビアガーデンパーティではなく、二階の鳳凰の間で開催。「不老長寿」に相応しい名ではないですか。
東大合気道気練会、早稲田大学合気道会、自由が丘をはじめとする同門の方々に、お会いできた。なにものにも変え難い時間である。非常に同門の密度の濃い時間である。
懇親会半ば、内田先生のお計らいにより、多田先生へご紹介いただいた。
四月から合気道の道場を開設したため、そのご挨拶である。多田先生にご挨拶し、がんばっていこう、また心新たに精進しようと胸に誓う。
5月26日(金)
また、雨が降っている。
雨だと、それだけで機嫌が悪くなる。なんだか身体全体が冴えないというか、ちゃんとできないのである。身体が怒ってしまうというか、身体が落ち着かなくて、いらいらしてしまうのである。それではいけないのは頭ではわかっているのだが、すんなりそうもいかないので、そういうときはお天気のことは考えないようにして過ごす。
明日からの東京も、思いがけず天気が悪いみたいだ。傘を忘れないようにして、荷造りしなければ。そして笑顔の準備も。
5月25日(木)
何度も同じことを言って申し訳ないが、わたしは歯医者が嫌いである。歯医者が嫌いというのは、歯科医も含めた医者が嫌いだとかいうそういった単純な理由ではない。強いて言うなら場所である。あの病院たる場所が嫌なのである。
病院のドアを開けた瞬間、まず独特の消毒の臭いが鼻から入ってくる。臭いでまず「歯医者は嫌よ」度が増す。ただたんなる臭いのはずなのに、身体全体で臭いを受け止めてしまうからである。それも無意識に。そして、臭いで途端に身体が硬くなる。この臭いが歯医者は特別に強い気がする。あるいは、歯医者だけが、ほかと違うと思われる。この場合の歯科は歯科でも総合病院の歯科ではなく、街の歯科医院の場合の話だ。鼻には蓋がないので臭いを削ぐことも防御することもできず、とても困る。
スリッパを履きかえるため、手をスリッパのところに持って行くときも、足を寄せる時点で、すでに身の竦む思いがしている。動きがそろそろとぎこちなくなる。なんとかスリッパに履き替えて、受付に行って、診察券を出し、歩いて、椅子に座る。
キーンと響く音が耳を硬くさせる。何も聴こえなくなりたくなる瞬間だ。しかし、なかなかそうもいかない。選り分けているのではないかというぐらいに、その音だけがはっきりとしたものとして、聴こえてくる。耳蓋がないのが哀しい。
待っている間に本を読むなどもってのほかだ。活字を追うことなんて、そんな心地にはなれない。とてもできない。瞼があるので、目はできるだけ塞ぐようにしている。とはいえ、待合室に貼られた注意書きや文字をいつも読んでしまっている。カバンには何かの読み物を忍ばせている。読めもしないのに。
名前を呼ばれて、歩いて、治療台に行き、椅子に座る。もうそのころになると、かなり周りのものが気になって仕方ない。歯を見るためのライトも、うがいするためのコップも、水の蛇口も、その造りがあるだけで、ぞぞぞぞぞっとする。ぞぞぞぞぞっとするので、なるべく見ないようにして、静かに眼を閉じる。瞼に万歳。でも、閉じると別の五感が急に発達するのか、音はよく聞こえるし、強い消毒の臭いがさらにしてくる。
歯科医院という場所は、鼻、耳、眼の感覚がうまく統御されていない。そのくせ、よく働いているから問題だ。感覚が敏感になればなるほど、痛さへの恐怖心を呼び起こさせてしまう。完全に五感が機能停止することができ、鈍感になれば、ここまで、身体が、かちこちになることもなかろうに。それができないし、それどころか瞬間的に発達してしまうからたいへんである。
痛いのが嫌いなのである。痛いのが大嫌いなのである。しかも、この度の歯医者の先生の説明によれば、歯および歯の神経に関して、わたしは、一般的な痛みよりもかなり敏感にできているらしい。だから、ふつうの人が、ちょっと削られる程度で我慢できるところも、随分過敏に反応してしまうのである。結果、痛いという感覚を覚える時間が、ほかの人よりも早くやってくる。だから、「痛いよー」と大仰に騒いでいるわけでも、痛がっているわけでもない。なんでもないふつうのことなのだ。痛さまでの時間が短いので、痛いよと反応する時間もまた早いだけのことなのだ(随分イラチな歯やね)。というわけで、経験的に言って、わたしの歯は、痛さに到達するまでの時間がとても短い。痛い目に遭う場所へ行くことに、足が竦んでも仕方ないというわけである。
それでも、歯医者に行くのは、悪くなってから歯を抜いたり、さらに悪くなってから治すのは、さらにさらに痛くなったりするからである。「嫌の嫌の嫌の嫌」になるくらいなら、まだ「嫌」がひとつくらいの段階で行く方がまだましだと考えるからだ。そういうわけで、しぶしぶ行くことにしている。
あと、こうふうに思えるようになったのは、今回の歯医者の先生が、精神的に取り計らってくれるところが大きい。歯医者にしては珍しく、まことに親切な方だと思う。もしかしたら通りいっぺんのことを説明しているだけかもしれないが、それを聞ける身体になっている。歯のことだけでなく、治療を受ける段階で、身の周りのことや歯医者の先生自身のことも含めて説明し、気遣いもあり、こちらの納得の行く話し方をしてくれるので、なんとか身が持っている。歯の治療とは、まことに呪術的な力の大きいものだと思う。見渡せば、受付、歯科衛生士のすべて感じのいい方で、対応が細やかで丁寧である。きっと、すべて、この歯医者の先生の方針なのだろう。この医院が、いつも流行っていることからすれば、なるほど合点のいく話である。