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2005年09月 アーカイブ

2005年09月01日

祭りの予兆

8月28日(日)

先週末の「だんじり若頭日記」出版記念パーティー、ありがとうございました。
参加していただいたみなさまに御礼申し上げます。
とくに発起人・世話人の方々、遠くからご出席いただいたみなさまには、心より感謝いたします。

明くる日は、午前9時よりコマ替え、10時より啓発大会、昼からは町内曳行会議だったので、いち早く2次会にて失礼させていただきました。
御免蒙る次第でございます。

この4日(日)は、いよいよだんじりを曳く。
8月最終日曜日にあたる午後からの町内会議では、町会長始めとした役員、本年度曳行責任者を筆頭とする世話人さんに年番さん、若頭、拾伍人組、青年団それぞれの責任者と長が揃う。
ロの字型に長机を並べる。
正面に町会長と副会長、曳行責任者、年番さんといった面々。
向かって右が若頭、左が世話人と町会、向こう正面が青年団と拾伍人組が座る。

会議に先立ち、別部屋で待っていただいていた筋海町の町会長、曳行責任者と次席さんの挨拶。
曳き出しほかの出発の際に、先に五軒屋町の地所を横切ることのお願いで、これも毎年恒例だ。

その後、4日の試験曳きのコースの説明中心に1時間ほどの打ち合わせ、足回りやブレーキの変更の報告とその際の注意点、去年の反省点など、冗談に笑いも交えて念入りに話し合う。
だいたい10歳ずつ離れた年齢層、曳行の際の持ち場が離れた立場からの話のすり合わせである。

1時間ほどで終了。
会館2階の若頭の部屋に引き上げ、筆頭のM人を中心にビールを飲みながら、出庫・入庫の際の警備や祭礼中のコマ替えの段取りほか、若頭担当の仕事についての打ち合わせ。

家に帰って夕方6時から朝8時まで二ケタ時間寝の爆睡。
祭までは風邪ひきはおろか病気、怪我…ほかは絶対できない。

「だんじり本」を読んでいただいたのがきっかけでブログを立ち上げた「山手の後梃子」さんの『祭こそ我が○○。。。』を発見する。これは必読。
http://blog.kansai.com/yamatenoushiroteko

2005年09月06日

怒濤の月初め

9月3日(土)

9月1日。怒濤の月初め。

仕事を早退して、午後7時過ぎに岸和田駅から五軒屋町の会館に向かう。
途中、宮本の鳴物の稽古を聞きながら、足早に向かう。
五軒屋町会館に着くと、入口に「若頭詰所」と書いた赤線二本の提灯が吊されていて、 本格的に寄り合いが始まっていることを実感する。

毎年九月一日は「三郷の寄り合い」が行われている。
平成17年度岸和田だんじり祭礼、宮入とパレード順のくじ取りだ。
岸和田祭礼年番史によれば、この行事の起源は享和3年(1803)に遡るそうだ。
若頭筆頭のM人それに出席していて会館詰所にはいない。

午後8時頃、携帯で順番が入る。
うちの五軒屋町は宮本三番なので、宮入順のくじはない。宮三番以下はくじ順で「後ろ、紙屋町や」とのこと。
パレードは9番。ちょうど真ん中あたり。前が中北町で後ろが北町。
携帯からのメモを元に、大きな模造紙に宮入順位とパレード順位を書いて五軒屋町会館若頭詰め所に貼り出す。

 平成17年度宮入順位

 宮1 宮本町
 宮2 上 町
 宮3 五軒屋町
 1番 紙屋町
 2番 大工町
 3番 中之濱町
 4番 堺 町
 5番 大北町
 6番 中 町
 7番 大手町
 8番 本 町
 9番 南 町
10番 北 町
11番 中北町
 (パレードは略させて頂く)

試験曳きの直前日、3日は恒例の大北町訪問。
本祭の宮入前の潮かけの際に、曳行コースではない大北町の旧道を通らせて頂くためのお願いだが、逆にここ数年は居酒屋で接待してくれていて恐縮である。
今年は同じように筋海町も同席している。
地の魚をごちそうになり、ビール焼酎で大いに飲み喋る。
大北町というこの浜の町は、本当におもろい人揃いで、ボケと間髪入れずつっこむ「口術」は、吉本なんて目じゃない。
去年とは違う新ネタも連発で、みんなで腹を抱えて大笑いする。

相談役のN野M男さん、同級生のK減Hくん、同じ年に筆頭をしたH本Aちゃん、今年の筆頭のD古くん、ほか大北町の若頭のみなさん、ほんまにおおきに、ありがとうございました。

2005年09月07日

血が騒ぎ過ぎ

9月4日(日)

試験曳きの当日。
午前9時集合、10時出庫である。

8時過ぎに起きると、何だか身体がおかしい。
立とうとすると、まっすぐ立てない。
顔を見ようと、洗面所に行く途中でよろけてこけそうになる。

ここ1年ほど高血圧気味で、医者にかかっていて降下剤を毎朝飲んでいる。
徹夜明けの朝など、最低が150を超えることがあり、そんな時は頓服と大量の水を飲み寝ころんでいるのだが、あいにく実家には血圧計がない。
だから余計に、言いようのないドキドキ感としんどさがやってきて、無根拠かつエレメント不明のイライラ感から、ぐゎーんと不安と絶望が混濁するやばいモードに入ってきた。
とりあえずいつも通り薬と大量のペットボトルの水を飲み、これはあかん、ともう一度横になることにした。

きのうもやっぱり寝不足なので、ちょっと睡眠を取ろうと寝てしまって、同じ若頭顧問のM雄からのケータイで起こされるも、「無理すんな、寝とけ」とのことでそうすることにする。
20年ほど前、青年団の現役最後の年、相談役の時に、M人M雄ほかの同級生ばかり5~6人で、曳き出しの前夜うちの家で未明まで無茶呑みして、全員で「びちけてしもて」、曳き出しに遅れたことがあるが、こんなことは初めてだ。

試験曳きは午後2時から。
何とか正午頃、起きる。
O場さん前の五軒屋町地車常駐位置から、遠鳴りのだんじり囃子が聞こえてくる。
子供が叩いてるのだろう、鉦・小太鼓のリズムもおかしいし大太鼓の手も不安定だ。
祭衣装に着替え、素麺を流し込み、今年の筆頭のM人の家であるテーラータカクラに行く。

いつも通りの顔ぶれが揃っていて「ひろき、いけるんか」「お前、若い時は祭になったら昂奮して、よう鼻血出してた。それが出えへんようになったから血圧上がるんじゃ」とか、やかましくわいわいと、それでも真剣に気を遣ってくれる。

「だんじり本」で書いたその通りに、M人の叔父さんが来て「また1年たったのお」と挨拶してくれる。
「Kちゃん、同じこと書いてるで」と言ったら、M人が「だんじり本」ひき出しからさっと出してくれて、219ページの『9月5日(日) 試験曳き出発編』を開ける。
もう60歳になってるだろう、Kちゃんは声を出して読み始める。
 
 だんじりの横の人混みすり抜け、テーラータカクラ前に行くと、M人が「中へ入って、お茶でも飲めや」と麦茶を出してくれた。M人の叔父さんであるKさんが世話人の法被姿でいて、「あ、Kちゃん、久しぶりです。今年も頼んどきます」というと「お前の顔見たらね、今年も祭来たと思うんや」と言ってくれる。

という一節だ。
「ほんまやのお」とKちゃん。

「今でこそ初老の風貌だが、自動車教習所の先生だった彼は、ハーレダビッドソンに乗っていた粋なおやじである。」
とオレが続けて読んで「ええこと、書いちゃあるやろ」と言うとみんなが笑っている。
何だか懐かしい風景だ。

1時に毎日新聞社会部編集委員のM井さんと、だんじり前でお会いする約束だったので、外に出てだんじり前に行くと、きっかりにいらっしゃる。
岸和田通信部に3年ほど勤務しておられ、この町に住んでいたというM井さんは、小学生くらいの娘さんを連れていて「この子は、ちょうど岸和田で生まれたんですわ」と言う。

決して取材などとは言えない、ここ数年の祭と五軒屋町の話とを数分して、彼は「それでは見物してから帰りますわ。気いつけてください」と言い、オレは「お疲れさま。そちらも気いつけて観ていってください。今年は例年に比べて涼しいから、どこもよう走ると思いますから」と返す。

この日、朝日新聞の読書欄の書評にその「だんじり本」が載った。
こんなことを言うと「お前だけの祭ちゃうぞ」と叱られそうだが、体調は最悪だが、何だかうれしい試験曳きである。

もう数分で、だんじりが走る。

2005年09月09日

試験曳き

9月4日(日) そのだんじり曳行篇

やっぱり、だんじり祭というものは「地べたを走る」もので、だんじりに乗ってばかりいては、しょうもない。
足を攣りながらも綱を曳いたり、鳴物係で汗まみれになって大太鼓を叩いたり、後梃子でドンスを持ったり肩入れしたりしないとそんなもんは、岸和田だんじり祭ではない。

そういうことが分かったのは、オレは前梃子を待たなかったからもあるが、若頭というのは直接的にはだんじり曳行中の「力」にはならないからだ。
もちろん、足回りのセッティングや曳き綱の調整誘導や、各パートへの指示等、その名前の通り「若い者カシラ」としての仕事は、エキスパートたり得ることが当然のこととして要求される。

けれども、「山手の後梃子」さんのブログにコメントされてたsyutaさん(春木の若頭さん)の「後テコで活躍されているとか羨ましいです、若頭のおじさんには綱やドンスを持てる若者にはかないません。」という言葉は青年団、拾伍人組としっかりとやってきた者だけが知り得る知見である。

だんじり祭においての縦社会にいると、「もう、流れていく時間には逆らわれない」という結構デリケートというか繊細な感覚が分かる。
それは、よく似ているが「過去は取り返しがつかない」ではない。
過去というものが、その後やっとその時になって分かる、みたいなものだ。
だんじり祭では、すでに経験したことの意味が、事後的しか分からない。

いよいよ、今年初めてだんじりが出る。
自分でも「ほんまに、いけるんか」とふらつく頭で、とりあえず駅前まで小屋根下に「たかって」一発目の遣り回し。
なんじゃこれは、なんとまあ遅い。
こうなるとスピードが乗らないだんじりにイラつき、駅を左に曲がったところで飛び降りて走る。
腰回りの梯子を手で押すような感じで走る。実際四トンのだんじりを一人の力で梯子を押してもどうなるわけでもないが、乗ってだんじり自体を重くするよりも降りて走るほうが軽いのは事実だ。
同じように前梃子持ちはじめ若頭幹部腰回りの全員が、たかるのをやめて降りて走っている。
このあたりのだんじり祭の常識がわからずに、年長だからと偉そうにだんじりに乗る、つまり「たかって」ばかりいる奴のことを「横着」という、という誠に言い得て妙なりの洒落た言い回しを先輩に聞いたことがある。
いつもいつも横着が過ぎると、必ず怪我ではすまない事態を招く。

同じ左回りのイズミヤの交差点ではインになるので、一旦小屋根下に重しとしてたかり、下り坂になるもスピードが乗らない。
旧26号線をゆっくり渡ると、後からB町が走ってくる。
腰回りの若頭はそれを見て、「B町に追われてるやないか」と舌打ちをする。
オレは前へ回り、綱元前まで行って「おい、お前ら。後からB町に追われてるど。いかんかえ」と、団扇をパンと鳴らして怒鳴り気合いを入れる。
しかし、小走り状態で大声を出すと頭が真っ白くなり、一瞬ふらっとして「これは今日は相当ヤバイ」と思うが「ええい祭じゃ」と思い直す。
恐い顔をしていて同じ側を走るM雄が、一瞬それを見て「ひろき、いけるんか」と笑う。

しばらく走ってると、汗をかいたからか、血圧降下剤が効いてきたのかは分からないが、身体が軽くなる。
日通前まで、B町に追いつかれては、また走り…を繰り返す。

今年一発目のカンカン場。
竹の節を掴んで小屋根下にたかる(「山手の後梃子」さんのコメント通り、それは私です)。

わが五軒屋町はこのあと、駅を続けて上がり右回りで船津橋、カンカン場と一周。貝源そしてS字から南町、小門…というコースを取った。
この日の試験曳きは、3時回ったあたりから一時、どしゃ降りになったが、入庫する4時半くらいには雨も上がる。
青年団にとっては、例年より涼しくて、絶好の激走日和のはずだが不満が残った。
無事に試験曳きが終わる。

毎日新聞のM井さんから
 4日はお疲れ様でした。
 カンカン場で見てましたが、信号に激突したり、
 膨らんでバックしたりで、荒れ模様でした。
というメールが入っている。

山手の前梃子さん、コメントお気遣いすんません。

2005年09月22日

祭りは、終わった

9月22日(金)

祭は、終わった。
今年はいろいろあったが、とにかく終わった。
そして16日の落策で来年度の引き継ぎを終え、ついに若頭最終の年を迎えた。

10日に毎日新聞の「ひと」欄に、岸和田通信部にいらっしゃった編集委員のM井さんの書かれた、さすがドンピシャのシビレる記事が出たりhttp://www.mainichi-msn.co.jp/eye/hito/news/20050910ddm003070129000c.html
14日の宵宮当日に読売新聞に紹介されたり(この記事は祭の最中なので読んでいない。誰か送って)で、自町他町のだんじり関係者あるいは顔を合わせた知人や中学校の時の先生問わず「新聞、載ってたで」などといわれて、とても恥ずかしかったが、いったん太鼓が「でーん」と鳴り、綱が張られ「そーりゃー」の声が聞こえると、いつも通りの祭に違いない。

また「だんじり本」を読まれた、朝日新聞東京本社のアエラ編集部のI川さんという記者の方が、この大家の内田先生のご紹介で、東京からはるばる岸和田入りされ、13日の試験曳きから本祭の3日間、熱心かつベタベタに取材されていた。

それは「40歳からの生きる哲学」という編集企画で、不惑40歳の男を励ますような「生きる知恵」を「岸和田だんじり祭」で探ってみようというなかなか大胆な企図である。

「会社では経済的な結果を出すことが至上命令となり、
家庭ではよき夫・父親としての理想像を求められる。
しかし、現実は甘くなく、意気消沈するばかりである。
そんな40代の男性は、どうやって生きるモチベーションを高めればいいのか。
生き甲斐があるとすれば、視点をどこに持っていくべきなのか。
そんなヒントが提示できればと考えております」

という非常に難解で、ひょっとすると答えがどこにもない問いである。

はじめに書いた、毎日新聞M井さんはその文末で 、
「『やり回しを決め、ええ祭やったと泣く』。喜怒哀楽のだんじり祭は14日、15日が本番だ。」
と、岸和田だんじり祭のその本質を40文字でものの見事に表現されていたが、それは単純に「これこれこういう結果を出したから」と高校野球で優勝して、丸坊主頭のガキが泣くような類のことでは決してない。

なぜなら同じ「カンカン場」や「貝源」の角にしてもそうだが、「遣り回し」というのはその年その時のその瞬間だけしかない反復不可能な「出来事」であるからだ。
つまりそれは、あくまでも「ゲームに勝つ」とか「何点」とかでは測り得ない、一種の仮想的可能性のみの事象であり(もちろん幻想である)、「確かにそういう遣り回しがあった」という存在論では語れないからだ。

なので15日の夜の曳行を終え、だんじりを納庫して、万歳三唱したその瞬間やその後に、毎年違うあっという間の2日間の喜怒哀楽やそれまでの寄り合いや段取りをこなしてきた意味が分かる。
だから、ええ祭「やった」と泣くわけだ。

その年の祭は、その年の祭固有の「物語」である。
その物語を造り上げるさまざまな出来事の喜怒哀楽としての断片は、だんじりが納庫してから、つまり祭がすべて終わってからしか、それがどういうことであるかの本当の意味がわからない。

物語は最後の頁まで読み終えた時にはじめて冒頭のエピソードの隠された意味が分かるように構造化されている(@『他者と死者』P163/内田樹)。
「棺を蓋いて事定まる」は「だんじり小屋の扉を閉めて事定まる」である。

さて、祭が終わってすでに4日目の19日、I川記者は若頭筆頭を終えたばかりのM人の家族を補取材しに再び岸和田に来られ、テーラータカクラを訪ねたそうだ。

ことだんじりに関しては極端にマスコミ(とくにテレビ)を嫌うM人が、このようにして取材を受けたのは、手垢の付いた言い方ではあるが、I川さんの記者魂にうたれたからだと信じている。

岸和田のだんじりが走ると、泉州地方は秋になる。
本当にそうだと、子どもの頃から思っている。

2005年09月30日

泣けて仕事にならない

9月29日(木)

「だんじり本」読まれた方から、どうたどってきたのかわたしのメールアドレスに、「お会いしたいとか」「直接祭の話を聞きたい」とかのメールがじゃかじゃか入ってくる。
それは皆さん岸和田~泉州地方の人間で、そこはやはりラテン大阪の気質、直截だなあ、と少々あきれている。

版元の晶文社に届いた読者からのお手紙と愛読者カードの束が転送されてきた。

その年の祭は、その年の祭固有の「物語」である。と、先日このブログで書いたが、それはあまりに「物語的」なお手紙だった。

吹田市に住むK野さんという、岸城中学の同級生にもいた岸和田旧市に多い苗字の方からだ。
このブログにご紹介することについてのご本人の了承を得たので転載させていただく。
個人名は伏せ字にした。

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今年も無事に地車祭が終わりました。
まだ山手の祭が残っているので、終わったとは云えませんが、
旧市の祭が私には重要です。

若頭日記は中2の息子が買って先に読みました。
15日に吹田に帰ってくる車内でほとんど完読していたのですが、
「これはぼくの愛読書になる。何回でもくり返し読むことになる本だ」と
その言葉通り、私もヒマさえあれば手に取って、
どこからでも読む、そんな大切な1冊になっています。

岸和田市立和泉高校定時制で主人と知り合いました。
彼は城内の現在図書館のある前に住んでいました。
生まれた時から心臓病で、長くは生きられないと云われながら、
私と結婚して息子も一人残して40歳まで頑張ったのですから、
人生わからないものです。

だんじりが本当に大好きで、
7月の頃から土・日になると各町の地車小屋めぐりをはじめます。
開いてない時の方が多いのですが、
それでもそこからが1年の祭に入る準備として
本人曰く「地車見物のプロ」の心かまえでしょう。
身体さえ丈夫であればずっと関わっていただろうと思える、
本当の「けやきの虫」でした。

和泉高定時制の同級の卒業生に、
何年か前まで紙屋町大工方のYくんや当時、
吉為工務店で地車大工として見習いをしていた
KくんAくんがいました。

Kくんは中之濱、Aくんは大北と
小屋めぐりの途中で出会う同級生に
「K野くん好きやの」
と笑顔で迎えられるのも楽しみの一つでした。

主人は岸城中学を中退してから24歳で
国立循環器病センターでバイパス手術を受け、
高校卒業が29歳でしたから、
YくんやKくんより年長でしたが、
定時制というところはその年の差を感じさせない空気があります。
10年前に主人が亡くなってからは
息子と二人で毎年岸和田へそれこそ学校を休ませて祭見物です。

いつの間にかすっかり地車が大好きな息子に手を引かれるように、
今年はカンカン場に行きました。
私は船津橋が好きで、離れがたいものがあったのですが、
思えばもう漁船の大漁旗もすっかり見えなくなって、
地車の流れも変わってしまった船津橋にとどまる必要はないのです。

ただ夕方5時を過ぎて提灯を付けに各町が帰る頃になると、
いつも主人が笑顔で人波を分け、
後ろで待っている私の方へ帰ってくる光景が忘れられず、
今だにどこかで地車を見ているような
そんな主人を捜している自分がいるのです。

(中略)

観覧席で大金を払って見ることの、
バカらしさに似ている何か違う世界。
足元から伝わってくるものがないものをアルプス席から見て、
何が楽しいと主人なら絶対に言う。

吹田に引っ越ししたのは
国立循環器病センターから離れられなくなったからです。
息子は今、岸和田の旧市に住みたいと云います。
正直に言えば、学習環境は吹田市の方が良いと思うのですが、
本人は友だちも捨てていいと云います。

今年一番驚いたのは、かじや町筋のアーケードがすっかりなくなり、
地面がアスファルトだったことです。
これは驚きというよりがっかりでしょうか。
息子はあの通りが大好きで、
一歩アーケードの下に入ると独特の空気があり、
岸和田へ来たという実感がわくと云いましたが、
今年は天井というか空を見上げて「ああーない!」と叫びました。

バカな親子と笑われそうですが、
何か涙が出そうになってうつむいて足早に通り過ぎ、
今度はちゃんと屋根がつくまで歩かんとこと思ったのです。

長々とつまらない事まで書きました。
ここまで読んで下さって本当にありがとうございました。
貴殿の本はわが家の宝になります。

主人は昭和31年生まれですが、病気で何年か遅れて入学しています。
城内小学校、岸城中学ですが、もし記憶にあれば幸いです。

城内に住んでいた頃には、
宮入の後で上町の世話人達が庭で昼食をとったと聞きました。
その時、旗を玄関に立てかけていたそうです。
子ども心にその地車の旗が家にくる楽しみは格別で、
うれしくてたまらなかったと言いました。

私はその頃の祭を知りません。
今度また書かれる機会がありましたら、
子どもの頃の祭を教えて頂ければ大変嬉しいのですが。

ありがとうございました。
今後の御活躍をお祈り申し上げます。

**********************************

アーケードのなくなった「かじや町筋」には、年老いた母と兄夫婦の家族が住む、まさに祭や寄り合いの時しかそこに帰らないオレの実家がある。
昭和35年に造られたアーケードは、その頃、時代の先端で近隣の町を驚かせたし、駅前商店街がメインになる前の昭和40年代には、自転車で通ると叱られたほどのにぎわいを見せた。

その老朽化したアーケードは、商店がほとんど仕舞た屋になった斜陽の一途の商店街にとって、補修維持するより撤去するほうが経済的にベターだと、国や府の援助金をもらい旧市街地活性化事業として住商混在型を目ざした街づくりに転換している。

宮二番「上町」のその後ろは、宮三番のうちの五軒屋町で、毎年宮入の後、上町のほんの20メートル後ろに停車していて、五軒屋町は昔からちょうどそのご主人の家の向かいのガレージに、町旗を立てかけている。

岸城神社に宮入する14台のだんじりのうち、もともとの氏子である宮本三番の宮本町、上町、五軒屋町の3台のだんじりだけが、コナカラ坂を上がって城内に入ってから「吹きちり」およびその左右の宮入用の幟に付け替え、宮入後また城内で町旗と再交換するからだ。

「けやきの虫」というのはだんじりは、その材質がすべて欅(けやき)で造られているから、そういうふうに表現されているのだと思う。

岸和田だんじり祭の後の散文的な秋は、いいようのない閉塞感が一杯で、陽光が差すのとは反対に、心の闇が覆いのようなものを破って直接その深さを覗かせているみたいな心持ちである。

そんな時にこういう文面がくると、1日中泣けてきて仕事にならない。

About 2005年09月

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