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泣けて仕事にならない

9月29日(木)

「だんじり本」読まれた方から、どうたどってきたのかわたしのメールアドレスに、「お会いしたいとか」「直接祭の話を聞きたい」とかのメールがじゃかじゃか入ってくる。
それは皆さん岸和田~泉州地方の人間で、そこはやはりラテン大阪の気質、直截だなあ、と少々あきれている。

版元の晶文社に届いた読者からのお手紙と愛読者カードの束が転送されてきた。

その年の祭は、その年の祭固有の「物語」である。と、先日このブログで書いたが、それはあまりに「物語的」なお手紙だった。

吹田市に住むK野さんという、岸城中学の同級生にもいた岸和田旧市に多い苗字の方からだ。
このブログにご紹介することについてのご本人の了承を得たので転載させていただく。
個人名は伏せ字にした。

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今年も無事に地車祭が終わりました。
まだ山手の祭が残っているので、終わったとは云えませんが、
旧市の祭が私には重要です。

若頭日記は中2の息子が買って先に読みました。
15日に吹田に帰ってくる車内でほとんど完読していたのですが、
「これはぼくの愛読書になる。何回でもくり返し読むことになる本だ」と
その言葉通り、私もヒマさえあれば手に取って、
どこからでも読む、そんな大切な1冊になっています。

岸和田市立和泉高校定時制で主人と知り合いました。
彼は城内の現在図書館のある前に住んでいました。
生まれた時から心臓病で、長くは生きられないと云われながら、
私と結婚して息子も一人残して40歳まで頑張ったのですから、
人生わからないものです。

だんじりが本当に大好きで、
7月の頃から土・日になると各町の地車小屋めぐりをはじめます。
開いてない時の方が多いのですが、
それでもそこからが1年の祭に入る準備として
本人曰く「地車見物のプロ」の心かまえでしょう。
身体さえ丈夫であればずっと関わっていただろうと思える、
本当の「けやきの虫」でした。

和泉高定時制の同級の卒業生に、
何年か前まで紙屋町大工方のYくんや当時、
吉為工務店で地車大工として見習いをしていた
KくんAくんがいました。

Kくんは中之濱、Aくんは大北と
小屋めぐりの途中で出会う同級生に
「K野くん好きやの」
と笑顔で迎えられるのも楽しみの一つでした。

主人は岸城中学を中退してから24歳で
国立循環器病センターでバイパス手術を受け、
高校卒業が29歳でしたから、
YくんやKくんより年長でしたが、
定時制というところはその年の差を感じさせない空気があります。
10年前に主人が亡くなってからは
息子と二人で毎年岸和田へそれこそ学校を休ませて祭見物です。

いつの間にかすっかり地車が大好きな息子に手を引かれるように、
今年はカンカン場に行きました。
私は船津橋が好きで、離れがたいものがあったのですが、
思えばもう漁船の大漁旗もすっかり見えなくなって、
地車の流れも変わってしまった船津橋にとどまる必要はないのです。

ただ夕方5時を過ぎて提灯を付けに各町が帰る頃になると、
いつも主人が笑顔で人波を分け、
後ろで待っている私の方へ帰ってくる光景が忘れられず、
今だにどこかで地車を見ているような
そんな主人を捜している自分がいるのです。

(中略)

観覧席で大金を払って見ることの、
バカらしさに似ている何か違う世界。
足元から伝わってくるものがないものをアルプス席から見て、
何が楽しいと主人なら絶対に言う。

吹田に引っ越ししたのは
国立循環器病センターから離れられなくなったからです。
息子は今、岸和田の旧市に住みたいと云います。
正直に言えば、学習環境は吹田市の方が良いと思うのですが、
本人は友だちも捨てていいと云います。

今年一番驚いたのは、かじや町筋のアーケードがすっかりなくなり、
地面がアスファルトだったことです。
これは驚きというよりがっかりでしょうか。
息子はあの通りが大好きで、
一歩アーケードの下に入ると独特の空気があり、
岸和田へ来たという実感がわくと云いましたが、
今年は天井というか空を見上げて「ああーない!」と叫びました。

バカな親子と笑われそうですが、
何か涙が出そうになってうつむいて足早に通り過ぎ、
今度はちゃんと屋根がつくまで歩かんとこと思ったのです。

長々とつまらない事まで書きました。
ここまで読んで下さって本当にありがとうございました。
貴殿の本はわが家の宝になります。

主人は昭和31年生まれですが、病気で何年か遅れて入学しています。
城内小学校、岸城中学ですが、もし記憶にあれば幸いです。

城内に住んでいた頃には、
宮入の後で上町の世話人達が庭で昼食をとったと聞きました。
その時、旗を玄関に立てかけていたそうです。
子ども心にその地車の旗が家にくる楽しみは格別で、
うれしくてたまらなかったと言いました。

私はその頃の祭を知りません。
今度また書かれる機会がありましたら、
子どもの頃の祭を教えて頂ければ大変嬉しいのですが。

ありがとうございました。
今後の御活躍をお祈り申し上げます。

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アーケードのなくなった「かじや町筋」には、年老いた母と兄夫婦の家族が住む、まさに祭や寄り合いの時しかそこに帰らないオレの実家がある。
昭和35年に造られたアーケードは、その頃、時代の先端で近隣の町を驚かせたし、駅前商店街がメインになる前の昭和40年代には、自転車で通ると叱られたほどのにぎわいを見せた。

その老朽化したアーケードは、商店がほとんど仕舞た屋になった斜陽の一途の商店街にとって、補修維持するより撤去するほうが経済的にベターだと、国や府の援助金をもらい旧市街地活性化事業として住商混在型を目ざした街づくりに転換している。

宮二番「上町」のその後ろは、宮三番のうちの五軒屋町で、毎年宮入の後、上町のほんの20メートル後ろに停車していて、五軒屋町は昔からちょうどそのご主人の家の向かいのガレージに、町旗を立てかけている。

岸城神社に宮入する14台のだんじりのうち、もともとの氏子である宮本三番の宮本町、上町、五軒屋町の3台のだんじりだけが、コナカラ坂を上がって城内に入ってから「吹きちり」およびその左右の宮入用の幟に付け替え、宮入後また城内で町旗と再交換するからだ。

「けやきの虫」というのはだんじりは、その材質がすべて欅(けやき)で造られているから、そういうふうに表現されているのだと思う。

岸和田だんじり祭の後の散文的な秋は、いいようのない閉塞感が一杯で、陽光が差すのとは反対に、心の闇が覆いのようなものを破って直接その深さを覗かせているみたいな心持ちである。

そんな時にこういう文面がくると、1日中泣けてきて仕事にならない。

コメント (3)

九左衛門:

かじや町筋って名前初めて知りました。
中央商店街のことかなぁと思って読みました。

昔、笛を買いに行くか、ヤングに学生服を買いに行く程度でした。

おそらく400年祭以降だと思いますが、山手は旧市を目指す動きを始めました。
だんじりの大型化なんかそうだと思います。

でも、以前、青年団、三十人組と浜に参加しましたが、山手にはどうがんばっても、旧市と同じになれない「におい」というか「空気」を感じます。
漁師と百姓の違いなのかなぁ。

旧市の方は「心の闇が覆いのようなものを破って直接その深さを覗かせているみたいな心持ちである。」なんだろうけど、ぼくらはこれからです。ええ祭さしてもらいます。

yamanaka:

こんなことが実際にあるのか、と思うような、おっしゃる通り「物語的」な…本当に映画のようなお手紙ですね。
こんなに心にズシリと温かく沁みるお話に、だんじり本をきっかけとして触れることができるとは。

だんじり祭が一般的に取り沙汰される時には、「危険な」「激しい」祭の一つとしてクローズアップされます。
ですが、江さんのブログ・だんじり本では、それとは違う深さ・静かな側面を知ることができました。
それだけでも充分に堪能しておりました。

K野さんがどんな想いで江さんの本を読まれたのか。
言葉で上手く表せませんが、ブログに転載されたお手紙に、私も泣けました。

だんじりは、いろんな方の人生そのもの。
それも百人百様の人生を背負って疾走してるのでしょうね。

難しいことはわからないけれど
私の暮らすこの町には
人と人とが力を合わせて
つくり上げた故郷守る祭がある

泉州では有名な歌手の言葉を借りると
まさにこういう心境か

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2005年09月30日 10:14に投稿されたエントリーのページです。

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