なんやこのひともヤンキーやんけ
3月31日(木)
本日発売の週刊文春「私の読書日記」を見ていたら、「負け犬」の酒井順子さんが今
回の書き手で、このオレがお借りしている長屋の2月08日「富岡多恵子さんのこと」
http://nagaya.tatsuru.com/kou/archives/000764.htmlで書いた『難波ともあれ ことのよし葦』が紹介されていた。
その書き出しが泣かせる。
×月×日
京都や大阪に行った時よく買う雑誌が、『ミーツ・リージョナル』。タウン情報も豊富だが、中場利一、内田樹など豪華関西人脈連載も売りで、タウン誌らしからぬ読み応えがある。
そのミーツ等でされていた連載エッセイがまとまったものが…(以下略)。
とにかく「情報誌」ではなく「雑誌」と書いていただいているのがうれしい。
それにしても写真で見る酒井さんはいつもいいメガネをかけていて、それが似合って
いる。
オレもメガネ好きで、『ミーツ』が主催したメガネのファッションショー「めがね者
」で自らがスタイリストをしたことがある。
また酒井さんとは面識がないが、確か昨春の小説新潮臨時増刊山口瞳特集号「新入社員諸君、これが礼儀作法だ!」で、オレの書いた「京都」の次のページが「OL」で、それを酒井さんが書いてらした。
この長屋をよくのぞいてくれている「負け犬の名産地」(@内田樹)の神戸女学院と
その卒業生のみなさま、元祖「負け犬」の酒井さんにも「よく買って」いただいてい
るわが『ミーツ』を「よく買って」頂くよう、この場をお借りしてお願いする次第で
ある。
ちなみに『ミーツ』5月号は明日発売。
特集は「ほんとは濃い味、好きなんです。」で、この長屋でも予告編をお書きした
http://nagaya.tatsuru.com/kou/archives/000713.html。
そして「内田×平川の 悪い兄」連載も第2回目、もう絶好調そのもので「オレが読
みたかったのはこれだ!」的文章なので立ち読みはしないでください、お願いします
。
さて、この長屋の「だんじり日記」が晶文社から7月発行予定だが、この本の「あん
この部分」の第2部である日記部分の約200ページ仮組が上がってきた。
3部はコラム編で、5枚~10枚程度のエッセイを7~8本ということで、「岸和田という下町地域性と郊外」やら「だんじり離婚」「祭と酒と喧嘩」…、とどんどん調子よく(荒削りだけれど)書いて送ったが、どうしても書きたい「だんじりヤンキー論」についてうんうん唸っている。
酒井順子さんは先の「私の読書日記」で、
「東京で生まれ育ったので関西の感覚がわからず、であるが故に無性に関西という地域が興味深く思える私。」
とお書きになっているが、この「ヤンキー」と言う精神性がわからないと、だんじり
はおろか大阪~関西は理解出来ないと思う。
ヤンキーは、剃り込みを入れたり、ウンコ座りしたり、道に唾を吐いたり、ジャージ
を着て街を歩いたりしている人のことを指すのではないし、決して高校を中退したり
10代で出来ちゃった結婚をする人ばかりではない。
何が言いたいかというと、「ヤンキー/非ヤンキー」においてはヤンキーの方が、ず
っと社会的であるということだ。
ただその「社会」というものが、「知ってる人」ばかりで構成されていて、「知って
る人=いい人」。逆に自分たちの社会の構成員でない「知らない人=いい人とは限らない」が明確すぎるくらい明確なだけだ。
これはちょっと困るけど、複雑である。
どういうことかというと、病気になって「ヤンキーでない」看護婦さんに当たるとと
ても「ビジネスライク」に看護をされて怖いし泣かされそうだし、「ヤンキーでない
」鮨屋の板前さんならいいネタを出してくれなさそうだし、「ヤンキーでない」建築
関係の土方や大工さんならコンクリートに混ぜものをされたり梁を1本手抜きされそ
うだからだ。
だから若い衆始めだんじり関係者がヤンキーでなかったら、誰も大工方になって屋根には乗ろうとしないし、怖くて前梃子なんて持ってられない。若頭筆頭なんて、とて
もとても…なのである。
そういうことを書こうとしているのだが、橋本治さんの「私ー私たちー社会論」と「
前近代/近代社会論」であるところの『いま私たちが考えるべきこと』(新潮社)に
、そういうことがいともたやすく(難しいが)書かれてあるので、もう一度読み直し
ている。
ちなみに、その著作の帯には、
考えるときは、
もうちょっと根性を入れて、
考えましょう。
-----------橋本 治
とあって、なんやこの人もヤンキーやんけ、と納得する次第である。