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「街的」なるものについて

4月7日(木)

「『いなかもん』はカジュアルな差別用語である。
『東京出身はそんなにえらいのか?」
の続きである。

この甘糟りり子という人はこのコラムの最後の方で、「タキシードを着る郷ひろみは痛々しいくらいにいなかくさく見え、ジーンズとTシャツの桑田佳祐はこの上なく都会的に見える」と書き、最後にいなかもんリトマス紙リストなるものを作っている。

このページの見出しを見てどきっとした/レストランやカフェでも平気でパソコンを取り出せる/最近美容院を変えた/昔は白ワインしか飲まなかったが、今は赤が好
きだ/携帯電話の着メロとストラップに凝っている/芸能人の友だちがいる…

一体、何が言いたいのだろう。ほんとうに不思議な人だ。

「『東京出身』(パリ出身や別にNY出身でもいいが)をえらい」とこのかた思ったことのない人種のオレたちがいる大阪や神戸や岸和田は、もちろん東京(昔なら京都
)から見れば「地方」である。

けれどもこちらの概念としては、「街/田舎」という二項対立は当然アリだが、「都
会/地方=田舎」という二項対立はない。
つまりその「地方」であるところの大阪や名古屋もそうだが、オレの住む神戸や岸和
田は「元々が街」(都会であるかどうかは微妙だが)なのであり、ただそれ以外の「田舎」、つまり旧い市街地(簡単に言うと下町だ)以外の農村地帯と、いろんなところから新しく労働者として「都会」に出てきた人の新居住地を「新興住宅地」といったりして違うとらえ方をしてきた。

その「元々の街」にいる人のなかには、日常的にその街をぶらぶらしている人がいる。
逆に「都会」に出てきて、仕事をしている人は忙しい。
だから情報は絶対必要だし、デパートもマクドも24時間営業のコンビニだってドンキホーテも「都会」にある方が効率がいいに決まっている。
まあ、それはそれでいいことだけど。

また大阪とか名古屋とか岸和田とかの「元々の街」は、「地方」そのものであり、「地方」のカタマリみたいなものである。
大阪の場合、ミナミは「村的(確かに戎橋筋商店街とかは共同体的だ)」でキタは「都会的」などとよく言われているが、ほんの数キロしか離れていないのに大阪におい
てはミナミの「地方性」つまりナニワ感覚は濃い。

神戸や京都でも、三宮と長田、丸太町と錦はまったく違う地方性をもった街であるこ
とは、街的な人であれば容易に直観出来ることであるし、われわれはその差異を日常の文化的尺度、つまり「遊び」ということで楽しんできた。
それはブティックでバッグを買ったり、リストランテでパスタを食べたりという、消費レベルのみではないことはいうまでもない。

一日あたりのどれだけ人が集まるとか、情報集積型で経済効率的な地域だから「都会」であるといったどんくさい発想は、シャネルのウインドウやアルマーニのブティックがなかったり、セレブリテが毎日出現するレストランが存在しないから「都会」ではなく「地方=田舎」であり、そしてそれらの「[きらびやかな都会]を使いこなせない」から「いなかもん」とする珍妙な観点に直結しているのだと思う。

けれどもそんな[きらびやかな都会]を使いこなせない街的な人はいくらでもいるし、逆に六本木ヒルズを使いこなす「いなかもん」もそれこそごろごろいる。
繰り返すが、甘糟りり子がいうような[きらびやかな都会]と「街」とはまったく違う次元および座標軸なのである。

また「街=[きらびやかな都会]」という図式がない類の人(これこそ街的人間と呼びたい)は、地元以外の人、つまり旅人や客人、あるいは新しい居住者の人のことを「他所とか地方(例えば関東地方とか)から来た人」とは言ったりはするが、入り口に「都会/地方=田舎」という二項対立がないから、出身地をあからさまに訊いて「山陰の出身だから、地方=いなかもの」といってバカにしたりはしない。
もちろん「きらびやかな都会を使いこなせなくても」そんなものどうでもいい。

ただ時に、街的でないことに顔をそむけるだけだ。
さまざまな消費ジャンルの情報を纏い、見合うカネさえあれば、フェラーリのモデナだってキトンのスーツだってベルルッティの靴だって、思いたったら吉日で即座に入
手出来るし、アラン・デュカスのベージュ東京やロビュションやフォーシーズンズ椿
山荘のイル・テアトロでも金玉のでかさを見せつけられる。
けれどもそんな「きらびやかな都会を使いこなす」ことが、どんなに空虚なことであるかを街的な人は知っている。
それを知らないのは東京出身も地方出身もへったくれもない。リセッション後の「き
らびやかな都会」で主役気取りだったある種の人々だけである。

だから街的な人々は、ミラノに行ってもパリに住んでも京都に行っても、岸和田にだ
んじり祭を見に行っても街的である。
それはどういうことかというと[きらびやかな都会]を単に消費するだけでなく、何ものでもない洗練されたその街だけの地方性を遊んで帰ることができるのだ。
これは逆説的には「街的な感覚」というものが、甘糟りり子的な「きらびやかな都会を使いこなす」ことの正体に違いない、情報によって象徴価値をつり上げられた記号的差異を軸とする消費からどんどん離れていく。

名古屋には名古屋の、大阪には大阪の、進めて言うと北新地には北新地の正真正銘とは何か、すなわち誇りを持ち得るその街のエートスやアイデンティティに対して、地元(自己)/他所(他者)の相互交通による街的感覚の理解が、中央/地方という明治以降のがちがちで因循な構造、そしてこの都会/地方=田舎という十把ひとからげの「いなかもん発想」を終わりにする。

東京にいる「いなかもん」の一番うっとうしいと思うところは、「地方=いなかもん」という視点しかないから、それこそいろんな人が蝟集する「地方の街場」で、「いなかもんの度肝を抜いたり舌を巻かせたりする」こと、つまり「いなかもんから金を巻き上げる」ことに命がけになる。
また「いなかもん」は自分がどういう「いなかもん」かを熟知しているから、「いなかもん」の弱点を知りつくしている。

これは以前、内田樹先生がどこかで書いていたことによく似ている。

「現代社会はどちらかというと『大人が子どもの話に首をつっこみたがる』つまり『
子どもが欲望の対象になっている』という相当に倒錯した状態にある。(社会の「マ
イケル・ジャクソン化」だな)。」

今、名古屋を特集しているが、いつも街場とさしむかいのこの仕事は面白い。

そして明日は、書店販促回りおよび電波媒体へのPRで再び名古屋へ向かう。

コメント (1)

門葉理:

「きらびやかな都会を消費する」って表現、ものすごくよくわかります。
そして、それがいかに不毛で虚しいことか。
その空虚さを埋めるために、さらに消費してしまう…だってそこには、体温が感じられないから、寒いから。
これが現代消費社会なのでしょうね。

反して「街」には、人の体温が存在し、その体温にあたためられた空気が人を包み…温もりの輪廻とでも申しましょうか。
人は楽しい時も哀しい時も、それによって生きることができる。

江編集長のおっしゃる街とは、こんな生き物なんじゃないかと認識しております。
地方(田舎?)の持つ「街」性の心地よさ、私も大好きです。

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2005年04月11日 21:32に投稿されたエントリーのページです。

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