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2010年04月 アーカイブ

2010年04月07日

スーさん、東京へゆく

4月5日(月)

新年度が始まっている。
新学期は明日からだが、新しいメンバーを迎えての業務は既に1日からスタートしている。
校内の分掌は今年も教務主任を拝命した。三年目の教務ともなれば、だいたいのことはわかってくる。手間のかかる時間割の編制にしても、「だったら、ここをこうすれば何とか収まりそうだよなあ」というような勘がはたらくようになって、実際そのとおりに何とかなったりしてくるものだ。そういう意味では、かなり気持ちに余裕を持って新年度を迎えることができたと言えよう。

気持ちにゆとりが持てたのは、年度末の東京行が大きく与っているのかもしれない。
春休みは弥生も末の三十日、メインはエリアフ・インバル指揮、東京都交響楽団によるマーラーの交響曲第3番演奏会を聴くために休暇を取り、妻と支部の面々(オノちゃん、ヨッシー)とで一路東京はサントリーホールへと向かったのである。同じく、細君と同行する予定にしていたハットリくんは、病み上がりということもあって新幹線で東京へ向かう手筈になっていた。

出発時、Twitterに東京行きのことをツイートすると、何と内田先生も朝から東京へ向かう旨ツイートされていた。講演される場所や時間等をお聞きすると、残念ながら東京での合流はできそうになかったが、それにしてもなんという奇遇。

平日の東名高速道に渋滞はない。すいすいと走って御殿場を過ぎると、何と周囲が雪景色に一変した。「まるでスキー場へ行くみたいですね」とはヨッシー。でも、その雪も神奈川県に入ると嘘のように消えた。しかし、代わって渋滞情報が入ってきた。どうやら、横浜町田ICを過ぎた辺りで事故が発生したらしく、その処理のため横浜町田〜青葉IC間がインター閉鎖されている関係で、横浜町田出口が渋滞しているらしかった。「何とか通過するまでに事故処理が終わりませんかねえ」とは運転しているオノちゃんの弁。
走行するほどに、だんだんと渋滞の気配が濃厚になってきた。とりあえず行けるところまで行ってみようということになったが、何と横浜町田ICの直前で逆に車の流れが早くなってきた。どうやら閉鎖が解除されたようだった。なんともラッキーであった。そのまま東名〜首都高を経て、その日宿泊することにしていた赤坂のホテルへ。
チェックインにはまだ時間があったので、車と荷物を預けてまずは昼食に。

案内役は、学生時代を東京で過ごしたというオノちゃんとヨッシーであった。
彼らの計画では昼食は上野のアメ横でということだったので、言われるがままに地下鉄の切符を買い、階段を昇降し、電車に揺られた。程なく上野に到着。
ヨッシーおすすめの「藪そば」にて、まずは板わさとビールで東京到着を寿ぐ。もちろん、お蕎麦は得も言われぬ上品なお味であった。
すっかりお上りさん気分になって、そのままアメ横を散策する。
自分は、基本的にこういう場所が大好きだ。以前、香港に行ったとき「ここ、夢で見たことある」と思う場所がいくつもあった。たぶん、前世は香港にいたのだと思った。バスに乗っても、他の人たちが「ホテルはここで降りるんじゃないの?」と主張しても、「うんにゃ、次の次で降りるのがいちばん近いだ」と確信して乗り続けると、事実そのとおりにバスはホテルの前で正確に止まったのだ。
だから、神戸は三宮から元町にかけてのガード下の商店街とかアメ横とかは、何とも言えない親近感が持ててしまうのだった。
ガード下の商店街で、以前から買おうかどうか迷っていた万年筆を見つけた。お店のおばちゃんとあれこれやりとりをして購入することに決めた。

それから、腹ごなしに御徒町から秋葉原まで歩き、さすがに電気店廻りをする気持ちは起こらず、神田神保町の古書店街へと向かうことになった。
途中、M大学の横を通った。すんごい高層ビルだった。「これが大学?」と思ってしまった。少なくとも、キャンパスって感じはなかった。それはそれで仕方のないことなのだろうけれど。都心の大学なのだ。
神保町に到着し、暫し古書店廻りをしてお茶。時間はだんだんと夕刻に迫っていた。早めにホテルへと戻って、簡単に腹ごしらえをしてから演奏会に出かけようということになった。またもや地下鉄に乗って赤坂へと引き返す。

午後6時。ホテルのロビーに降りると、ハットリくん夫妻が待っていた。そのままみんなで歩いてサントリーホールへ。いやはや、よく歩く日だ。
「初」サントリーホールである。入口の前で記念撮影して中に入る。テレビで見るのとはだいぶん違って、舞台側の2階席がずいぶん低い印象であった。

午後7時、指揮者のインバルが登場して開演。第1楽章、8本のホルンによる斉奏で始まる。
第3楽章。この交響曲の中で自分が最も好きな楽章である。何より、舞台裏で吹かれるポストホルンのソロ!学生時代の夏休み、夜明けに何度も何度もこの楽章を聴いたことを思い出した。
続く、第4楽章のアルトソロによる「ツァラトゥストラ」、第5楽章の女声と児童合唱。思わず、懐旧の涙が零れた。そうして終楽章のアダージョ。ため息が出た。
現在の日本で、これだけのマーラーを聴かせてくれるのは、インバルと都響しかないのではないか。そんな思いを再確認したすばらしい演奏会であった。

終演後、ホール出口で待ち合わせていた娘と合流して、近くの居酒屋へ。特上の演奏に旨し酒。酔わない道理はない。そこから横浜へと戻る娘を地下鉄六本木一丁目駅まで送りつつ、アークヒルズ近くのほぼ満開に近い夜桜をバックに家族で写真に収まる。忘れがたい夜になった。

翌日は、これまた楽しみにしていた築地市場へ。途中、「ん?この建物見たことある」と思たのは首相官邸だった。赤坂から築地までは数キロ。車で20分程度の近さだ。さっそく車を駐車場へと入れて市場へ。
魚市場とばかり思っていたが、市場にはいろんなものが商われていた。包丁、長靴、調味料、野菜、お茶…。既に行列のできている鮨屋。鮨店ばかりでなく、カレーやラーメン店もある。まさに「アジアの市場」だった。
一頻りお店を廻ってこれで終わりかと思いきや、人の波が流れていく方向へと向かうと、さらに乾物や魚介類を商う店が現れた。そこで乾物やら漬物やらを購入し、まだ昼少し前であったが、「かん乃」というマグロ丼のお店で昼食。もちろん、味は言を俟つべくもなかった。
かくして、「初」築地の半日は、例えようのない満足感とともに長く記憶に留められることとなったのであった。

かように充電して迎えた新年度。充実したオフがあるからこそ、オンも頑張れるということであろう。
また新学期が始まる。

2010年04月13日

スーさん、「トキエさん」と仲良しになる

4月12日(月)

いつもながら慌ただしい一週間だった。
この間の教務の大事な仕事は、時間割を組むことである。
昔は、時間割プロジェクトチームが毎日夜遅くまで学校に残ってコマ組みをしていた。麻雀牌のようなコマを多数用意して、それを数人で時間割黒板に嵌め込んでいくのである。当然のこととして、学級数の多い学校ほど組むのに時間を要した。
それを今はパソコンで行う。本校で使用している時間割作成ためのソフトウエアは「時恵3」と言う。通称(って誰も言わないけど)「トキエサン」。これがなかなかどうしてスグレもののソフトである。使い慣れてくると、あれこれ細かく条件設定をしてもなんとかコマを収めてくれる(そうならない場合も多々あるけど)。

たぶん、どこの学校でもこうして時間割作成ソフトを使用して時間割を作成するようになっていると思われるが、そうなると困ったことが出来する。時間割を一人で作成しなければならなくなってしまうことから、そのソフトの使用法に習熟している人間がその学校に一人だけになってしまうということである。
一昨年に教務主任を拝命したときには、前年度の教務がほとんど時間割を作成してくれてあった。変更点が生じたときも、ほんのちょっと手直しすれば何とかなった。
昨年はそうはいかなかったから、必要に迫られて「トキエサン」のマニュアルを熟読しながら、初期設定から時間割を作成してみた。しかし、途中でうまくいかなくなることも多く、その度にうーむうーむと唸りつつ、あれやこれやと設定のし直しをしながら、何とか時間割を作成したという経緯があった。
おかげで、ソフトの扱いにはずいぶんと習熟することができた。コマ嵌めの自動作成と手動入れ替えとをうまく使い分けることや、限られた曜日にしか出勤しないALTなどは固定コマにすることでTTを組みやすくすることなど、マニュアルにはなかなか記載されていないようなテクニックも覚えることができた。

てなわけで、今春はある程度余裕を持って時間割に取り組めると思っていた。順調にコマの設定をして、だいたいこれでよかろうというところで「自動作成」ボタンをポチっとすると、「トキエサン」は「コマの設定に異常がありますが強行しますか?」という挑戦的なメッセージを返してきた。「ん?コマの異常だとお?なーに抜かしてやがんでい、どこが異常ってんだあ?」と、なぜか「トキエサン」には強気な態度に出たのだが、調べてみると2,3年生の総時間数が週のコマ数(29)よりも1時間ずつ多くなっていることが判明した。
理由がよくわからなかった。もう一度一人一人の持ち時間数等をチェックしながら確認してみた。おかしなところはなかった。2,3年生だけの時数だけが1コマ多いってことは、2,3年生はやっていて1年生がやっていないコマに原因がありそうだ。該当するのは選択教科と総合的な学習の時間である。さっそく確認してみた。
わかった。選択教科が1時間多く設定されていたのだ。

現在の学習指導要領は、平成24年度の完全実施に向けて移行期に入っている。今年は、中学2年生の理科と3年生の数学の時数がそれぞれ1時間ずつ増加されていた。それはわかっていた。でも、増時数する教科があるのならそれに見合う減時数教科がなければコマは埋まらない。指導要領では選択教科を減らすよう指示されていた。それを見落としていた。
本校は、完全実施時のコマ数を見越して週29コマで時間割を組んでいる。だから、「ちょっとくらい増えたってコマは埋まるさ」という楽観があった。それが災いした。2,3年生の選択教科の時数を減らし忘れていたのだ。
すぐにコマの変更をして確認すると、コマ数の異常はなくなっていた。すかさず自動作成ボタンをポチっとしてみた。もちろん、自動作成の際には「長時間試行する」にチェックを入れてある。程なく、「残り0コマ」の表示が出た。すぐにセーブする。

次は、新採教員用のコマ設定を追加してみた。本校には今年新規採用教員が1名配置された。時間割を組むのには新採はとても大きなネックになる。年間を通して行われる新規採用教員研修会のため、2週間に一度は木曜日が終日出張になるし、週に一度訪問してくる指導教官との「基本研修」の時間を2時間と、授業研究の時間を1時間、計3時間を時間割の中に位置づけなければならなかった。本校の新採の教科は家庭科である。家庭科は技術科とセットで2時間続きのコマを設定する。時間割を組む際には、まず2クラス抱合せで2時間続きの教科からコマが嵌っていく。その教科にさらに条件が付くのだ。コマが嵌るか心配だった。
そのコマ設定をしてチェックを入れ、コマの異常がないことを確認して「自動作成」をポチっとしてみた。前回と違って、残り3駒くらいからいつまでたっても減っていかない。画面を見ると、パソコンがあれこれあれこれ高速で駒を移動させているのがわかる。「残り2駒」となったところで終了した。諦めたのだ。こういうときは、何度か操作を繰り返すことでコマが嵌る時がある。そうなってほしいと念じつつ、何回かポチッを繰り返してみた。でも、ダメだ。どうしても残り2駒から動かない。
かくなる上は、設定を変えるしかない。
もう一度、校内での新採研修の時間設定を見直し、緩められそうなところを変更してみた。そうして「自動作成」ポチッ。あれこれあれこれあれこれあれこれ…。「残り1駒」で終了してしまった。これまた何度やっても結果は同じ。
三度、設定の変更を試みた。選択教科の持ち時数をなくしてみたのだ。それいけポチッ。
あれこれあれこれ、チ〜ン。「残り0駒」。やったやった!ついに嵌った。もちろんすぐにセーブ。
このままで「全体表」とか、個々の先生用の時間割とかも印刷できるのだけれど、本校では基本的に出張等による授業未実施を避けるため、できるだけ他教科と振り替えて授業を実施するようにしている。その変更が多いため、毎週末に次週の授業予定(時間割)を教務が先生方と学級に配布するようにしているのだ。
その時間割はエクセルで作成されている。「トキエサン」のデータをそのままエクセルに移せればいいのだけれど、それができない。仕方がないので、「トキエサン」の全体表を見ながら一つずつ手入力をしていくことになる。これが面倒で、時には入力ミスも出る。しかも、時間割のヴァージョンを変更するたびに打ち直さなければならない。今回はこの作業を4回ほどやった。

ともかくも、こうして何とか前期の時間割は「試行版」が完成した。これで実際に運用してみて、不具合等があればそれを是正していくことになる。
でも、学校というのは基本的に授業をする場所である。新年度のいろいろな準備もあるだろうが、何よりもまず授業を始めることこそ肝要である。
だから、授業をしない者は基本的に教員とは呼ばない。

明日、初めての授業がある。
今年は中2の国語を担当する。
いちばんはじめの授業、これこそ1年間のすべてを決定する。
ああ、早く授業をやりたい。今年の生徒たちとの出会いが楽しみである。

2010年04月20日

スーさん、ニーチェを読む

4月19日(月)

「えーと、えーと、どこしまったっけ?」とここ数日間探しまわっていた本がある。
『ツァラトゥストラはこう言った』(上下巻、ニーチェ/氷上英廣訳、岩波文庫)である。下巻は程なく見つかった。上巻だけがどうしても出てこない。理由は簡単だ。いつも上巻を50〜60頁ほど読んで挫折し、そのまま放置というパターンが繰り返されていたからである。当然、手をつけない下巻はそのまま本棚に置いてあるからすぐに見つかる。
心当たりのところを探しまわってみたが出てこない。捨てるはずはないし、誰かに貸したという記憶もない。だいたい、自分が読んでいない本を人に貸すという習慣は、少なくとも自分にはない。

どうして急に『ツァラトゥストラ』を読みたくなったのか。
巷間で話題の『超訳ニーチェの言葉』の影響ではない(Twitterのbotは見てますが)。きっかけは、『現代思想の冒険』(竹田青嗣/ちくま学芸文庫)だった。この本を読んで、どうやら自分は「ルサンチマン」を誤解していたらしいということに気がついた。
「ルサンチマン」とは、ニーチェがそれを推奨しているかのように思っていたのだ。
“キリスト教や道徳思想の起源は何か(=系譜学)。これらの起源は、支配された人間、弱者が、現実のみじめさを心理的に打ち消そうとして作り出した「禁欲主義的理想」である。そしてその本質は、弱者のルサンチマン(恨み、反感)にほかならない。
これらルサンチマンから発生した思想は、現実の世界を誤った、仮象の世界と見なし、その背後に<真の>世界があると考える。近代哲学における世界の「客観的認識」「普遍的認識」への志向は、そういった発想から現われ出たものだ。だがじつは、「客観的認識」や「普遍的認識」というものはあり得ない。どんな観点も、客観的ではあり得ず、一切は特定の視点から見出された「解釈」にすぎない。
<真の>世界を見出そうとする認識の働きは、やがてその極限で、<真理>や<客観>など決して存在しないことを見出すに至る。このことが、ヨーロッパの理想に、必然的にニヒリズムをもたらす。
重要なのは、ニヒリズムを隠蔽するために何らかの価値の根拠を取り戻そうとすることではなく、むしろニヒリズムを徹底的にその最後まで貫き通すことである。そのときはじめて、<真>の世界を見出そうとする近代哲学の発想とは全く違ったかたちでニヒリズムを克服し得る道すじが現われる。
その道は、何らかの隠されていた価値を発見することではなく、むしろ人間にとっての新しい価値の秩序を創り出すことでなくてはならない。この価値の指標をなすのは次のことである。生の力を否認するルサンチマンから現われた価値(否定的、反動的な)の代りに、生を享受し肯定する、能動的、肯定的な力をどこまでも高揚させてゆくような、そういう価値基準であること。ニーチェはこれを「逆の価値定立」と呼ぶ。”(同書、63〜64頁)
ぜ〜んぜん違うではないか!「ルサンチマン」は、克服されねばならないものであったのだ。
俄然、実際の著作を読んでみたくなった。

「ルサンチマン」にこだわっていたのには、自分なりの理由もあった。
例えば、今現在の学校を取り巻く状況。
子どもに何かあると、すぐにそれを学校のせいにしようとする保護者。子どもの訴えを受けとめて、そこで親として何かしら子どもに言い聞かせるというようなことは一切せず、その訴えをそのまま鏡で反射するように学校へ返す。そうして、それを受ける学校には、ひたすら「ご無理ご尤も」と保護者の言いなりになる「事なかれ主義」の管理職。
実際、今日のこんな報道。
“大阪府南部の市立小学校で、学級崩壊状態のクラスを巡り、学校側の不手際による保護者間のトラブルがあり、保護者女性の1人が精神的なショックで通院する事態になっていたことがわかった。(…)訴状や市教委によると、6年生のクラスで2008年5月中旬、授業が成立しない状態になり、学校側は保護者に授業参観を呼びかけた。訴えた女性は、5日間授業を見学。授業中の立ち歩き、掃除をサボった様子など、児童10人の名前入りでリポートにまとめた。学校側は、児童の名前をペンで消し、リポートを翌月の保護者会で配布したが、消し方が雑なため児童10人の名が特定された。10人の保護者のうち5人は、リポートを書いた保護者の名を答えるよう学校側に要求。校長が女性の名を伝えたため、女性は喫茶店に呼ばれ、5人から2時間以上にわたり謝罪を求められた。校長も同席したが、ほとんど発言しなかったという。(4月18日 読売新聞)”
学校のチョンボもさることながら、逆ギレする呆れた保護者。
こういう状況って、何とかならないのかなあとずっと思ってきた。
そもそも、「学校」=「サービス業」というとらえがいつの頃からか世上に蔓延し出して、それに追い打ちをかけるようにメディアが「教員の不祥事」をいかにもスキャンダラスな事件として報じるようになって、保護者の学校や教師を見る目が劇的に変化していった。メディアが、そういうことを報じることによって失われるものと得られるものとを衡量したとはとても思われない。まあ、別にメディアを責めても仕方がないのだけれど。
こういうことに対して、何らかの「否定的」「反動的」(=ルサンチマン)なアクションを起こさなくてもいいのだろうかと常々思っていたのだ。
どうやら、その方向性はだいぶん軌道修正をしなければならないようだった。

ニーチェの著作は、『ツァラトゥストラ』以外に、『悲劇の誕生』(中公文庫)と、『善悪の彼岸』(光文社古典新訳文庫)を購入してあった。もちろん未読である。でも、まず『ツァラトゥストラ』だ。自分の中の「天の声」はそう告げていた。
探しあぐねてふと座ったテーブル横の移動式の本棚を見るとはなしに見やると、CDの上に何やら紙質の焼けた古めかしい文庫本が無造作に置かれていた。あったあった!焼けたハトロン紙にくるまれた岩波文庫『ツァラトゥストラはこう言った』の上巻だった。

日曜日、部活動の指導をして帰宅、昼食後の昼寝から目覚めると、おもむろに『ツァラトゥストラ』の上巻を開いて読み始めた。とりあえず、栞が挟んである頁を超えるところまでは読もうと思っていた。
今まで、何度も読みかけてはその度に100頁も読まないまま挫折した著作なのに、それがどういうわけか海綿に水が沁み入るように言葉が入ってくる。
この本を購入したのは、確か大学1年生の時だった。奥付を見ると、昭和49年の第10刷で値段の代わりに★が三つ記載されていた。★は一つ50円だったはずだから、当時150円で購入したのであろう。
以来、三十有余年。この本はそれまでじっと読まれるのを待っていたのだ。何だかんだと、第1部の終わりまで一気読みした。
“誰もかれもが王座につこうとする。これがかれらの狂気だ、ーまるで幸福が王座にあるかのように!だが王座にあるのはしばしば泥にすぎない。また王座がしばしば泥の上に乗っていることもある。
わたしから見れば、かれらはみな狂人であり、よじのぼる猿であり、熱にうかされた者である。(…)
わが兄弟たちよ。あなたがたは、かれらの欲望の口もとから出てくる毒気のなかで窒息する気なのか?むしろ窓を打ち破って、外へ飛びだすがいい!(…)
大地はいまもなお、大いなる魂たちのためにひらかれている。(…)
大いなる魂たちのために、いまもなお自由な生活がひらかれている。まことに、物を持つことのすくない者は、それだけ心を奪われることもすくない。ささやかな貧しさは讃えられるべきかな!
国家が終わるところ、そこにはじめて人間が始まる。余計な人間でない人間が始まる。必要な人間の詩が始まる。一回かぎりの、かけがえのない歌が始まる。
国家が終わるところ、ーそのとき、かなたを見るがいい、わが兄弟たちよ!あなたがたの眼にうつるもの、あの虹、あの超人への橋。ー
ツァラトゥストラはこう言った。”(『ツァラトゥストラはこう言った』氷上英廣訳/岩波文庫、82〜83頁)

30年以上前にちょっとだけ会って、その後は遠くからちょっと見かけたりしていただけのニーチェのお話を、ようやくじっくり伺うことができたような思いがした。ニーチェは思想家であると同時に詩人だった。
「虹」はまだ見えないけれど、曙光は見えたような気がした。

2010年04月27日

スーさん、パサージュについて考える

4月26日(月)

合気道な週末だった。
金曜日は、月に一度の北総合気会山田師範による稽古。この日は、片手両手取りからの技の展開で、最後は二人掛かりと三人掛かり。たっぷりと汗をかく。
終了後は直会。遅くから始まったのだけれど、10名ほどの門下生が集まった。
師範のお話は多岐にわたったが、中でもロシア支部での稽古の様子については、持参されていたiPod touchで実際の稽古の様子等を見せてくださった。200名近くのロシア人門下生を前にしての稽古は壮観そのもの。稽古後のボリショイ劇場での公演のことや、ロシア料理のことなど、ほんとうに貴重なお話をたくさん聞かせていただいた。

明けて土曜日は、午後から浜名湖道場の特別稽古と臨時の昇級審査が予定されていたのだが、朝食時に背中の筋を痛めてしまったため稽古は断念し、午前中の部活動指導終了後、そのまま豊橋へ。
「すぐに読みたい本がほしいと思ったら豊橋のS文館書店へ」というのが、自分の中での不文律である。ベンヤミンの『パサージュ論』(岩波現代文庫)を購入したかったのだ。
どうしてベンヤミンが読みたくなったか。理由は単純で、いつだったかふとつけたテレビで見たパリのパサージュの街並みになぜかひどく惹かれたからだ。で、パサージュのことをネットで調べると、どうやらベンヤミンという人が『パサージュ論』なる論考を書かれていることも判明した。いったいそれはいかなるものにてやあらんと、いや増す興味にこれは実際の書物を見てみないわけにはいかない、という気持ちが嵩じてきてしまったのである。

職場から豊橋へ行くのなら国道一号線に出るのが早い。最近は郊外店の進出もあったためか、だいぶん道路も整備されて、あまり時間をかけずに国道一号線へと出られる。
その国道一号線、浜名湖が太平洋とつながっている今切口の真上を通っている。春の午後、波頭が光る太平洋を左手に見ながら浜名湖上を越えていくのは気持ちのいいことこの上ない。小一時間のドライブで豊橋市へ到着。すぐに市営駐車場へと車を入れてS文館書店へ。
文庫本は2階だ。エスカレーターを昇ってすぐに岩波文庫のコーナーへ。岩波現代文庫もそこに配架されている。探してみた。が、ない。何度も何度も書棚を見た。やはりない。こんなことは、この書店に限って今まで一度とてなかったことだった。ショックだった。もちろん、事前に電話で確認もせずに出かけた自分が迂闊だったと言えばそれまでであるが、目的の本がないなどということは毫も考えだにしないことであったのだ。
仕方がないので、隣の書棚にあった『ベンヤミン・コレクションⅠ』(ちくま学芸文庫)を購入して帰る。これは、巻中に『パサージュ論』にも収められている「パリ-19世紀の首都」なる論考が入っていたからだ。

それにしても、どうしてそんなに「パサージュ」に惹かれてしまったのか。たぶん、日に増してドーナツ化してゆく浜松市の街中のことに引きつけて考えていたのだと思う。わが市の中心部にもこんな魅力的な小径と店舗があればなどと…。
浜名湖も含めて、浜松市にはその魅力を発信できるところが多くある。その発信の方途を具体的に考えている。ひょっとして、ベンヤミンからも何かヒントがもらえるかもしれないと思ったのだ。

帰りは、静岡県と愛知県とを分かつ湖西連峰の峠を越えて浜名湖西岸へと降りる。これまた湖畔の道を浜松へ。このドライブも、その風光の美しさに癒されることこの上ない。特に、浜名湖と奥浜名湖である猪鼻湖とを分かつ瀬戸から東名三ヶ日ICとを結んでいるかつての有料道路、「浜名湖レークサイドウエイ」からの景色はほんとうに美しい。四季折々の湖畔の表情と自然が堪能できる。浜名湖の近くに住んでいてほんとうによかったと実感させられる道だ。もちろん、ドライブのバックミュージックはマーラー。

自宅に戻って、購入してきた本を広げる間もなくバス停へと向かい、駅行きのバスで浜松駅へ、そうしてJR東海道線で浜名湖畔の新居町駅まで。この日、臨時の昇級審査を受けたKくんの「昇級おめでとう&岩手に行ってもお元気で」の会に出席するためである。
浜松駅で電車に乗る際、同じ門下生のタカバさんから宴会場所のメールが入った。新居関所跡のすぐ向かいのお店とのことだった。
電車から見える夕方の浜名湖の景色も、この上なく美しい。駅を降りると、「うなぎ」の看板がやたらと目に付く。そう、ここはうなぎ養殖の本場なのだ。
程なく、「昼は蕎麦屋、夜は居酒屋」なるお店に到着。ちょうど小宴は始まったばかりだった。
山田師範ばかりではなく、いつもは湖西市で稽古している人たちともあれこれいろんなお話をすることができた。つい調子こいて飲みすぎ、帰りはシンシンのクルマの中で熟睡してしまった。楽しい春の夜だった。

同時刻、市の中心部では市中体連の大々的な会合が開かれていた。運動部活動指導に携わる市内殆ど全ての顧問が一同に会して開催される大宴会である。
もちろん、自分はこの会はここ数年参加をご遠慮するようにしている。性に合わないのである。
どうしてそれだけの人数を集めなければならないのか。それだけの人数を集めることにどんな意義があるというのか。どうも権力的な臭いが芬々として、嫌な感じがするから行かないことにしているのだ。
そんな会合より、合気道仲間と飲む方がよほど楽しい。お付き合いのお酒は、体を蝕むだけだ。
そういう年回りになった。

日曜日の午後、午睡のあとでさっそく「パリ-19世紀の首都」を読む。しかし、実際にパリのパサージュを見てみないことには、書かれたことも十分には理解できないのではという思いが残った。
そうして今日。自宅に帰ると、土曜日にネットで注文した『パサージュ論1』(岩波現代文庫)と、ついでに注文した『パリのパサージュ』(鹿島茂/コロナブックス)が届いていた。このついでに頼んだ方の本、何より美しい写真と文章が秀逸だった。これは、死ぬ前にどうしてもパリのパサージュを見てみなくてはという気持ちになった。いつかパリに行ったら。必ず。

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