スーさん、ニーチェを読む

4月19日(月)

「えーと、えーと、どこしまったっけ?」とここ数日間探しまわっていた本がある。
『ツァラトゥストラはこう言った』(上下巻、ニーチェ/氷上英廣訳、岩波文庫)である。下巻は程なく見つかった。上巻だけがどうしても出てこない。理由は簡単だ。いつも上巻を50〜60頁ほど読んで挫折し、そのまま放置というパターンが繰り返されていたからである。当然、手をつけない下巻はそのまま本棚に置いてあるからすぐに見つかる。
心当たりのところを探しまわってみたが出てこない。捨てるはずはないし、誰かに貸したという記憶もない。だいたい、自分が読んでいない本を人に貸すという習慣は、少なくとも自分にはない。

どうして急に『ツァラトゥストラ』を読みたくなったのか。
巷間で話題の『超訳ニーチェの言葉』の影響ではない(Twitterのbotは見てますが)。きっかけは、『現代思想の冒険』(竹田青嗣/ちくま学芸文庫)だった。この本を読んで、どうやら自分は「ルサンチマン」を誤解していたらしいということに気がついた。
「ルサンチマン」とは、ニーチェがそれを推奨しているかのように思っていたのだ。
“キリスト教や道徳思想の起源は何か(=系譜学)。これらの起源は、支配された人間、弱者が、現実のみじめさを心理的に打ち消そうとして作り出した「禁欲主義的理想」である。そしてその本質は、弱者のルサンチマン(恨み、反感)にほかならない。
これらルサンチマンから発生した思想は、現実の世界を誤った、仮象の世界と見なし、その背後に<真の>世界があると考える。近代哲学における世界の「客観的認識」「普遍的認識」への志向は、そういった発想から現われ出たものだ。だがじつは、「客観的認識」や「普遍的認識」というものはあり得ない。どんな観点も、客観的ではあり得ず、一切は特定の視点から見出された「解釈」にすぎない。
<真の>世界を見出そうとする認識の働きは、やがてその極限で、<真理>や<客観>など決して存在しないことを見出すに至る。このことが、ヨーロッパの理想に、必然的にニヒリズムをもたらす。
重要なのは、ニヒリズムを隠蔽するために何らかの価値の根拠を取り戻そうとすることではなく、むしろニヒリズムを徹底的にその最後まで貫き通すことである。そのときはじめて、<真>の世界を見出そうとする近代哲学の発想とは全く違ったかたちでニヒリズムを克服し得る道すじが現われる。
その道は、何らかの隠されていた価値を発見することではなく、むしろ人間にとっての新しい価値の秩序を創り出すことでなくてはならない。この価値の指標をなすのは次のことである。生の力を否認するルサンチマンから現われた価値(否定的、反動的な)の代りに、生を享受し肯定する、能動的、肯定的な力をどこまでも高揚させてゆくような、そういう価値基準であること。ニーチェはこれを「逆の価値定立」と呼ぶ。”(同書、63〜64頁)
ぜ〜んぜん違うではないか!「ルサンチマン」は、克服されねばならないものであったのだ。
俄然、実際の著作を読んでみたくなった。

「ルサンチマン」にこだわっていたのには、自分なりの理由もあった。
例えば、今現在の学校を取り巻く状況。
子どもに何かあると、すぐにそれを学校のせいにしようとする保護者。子どもの訴えを受けとめて、そこで親として何かしら子どもに言い聞かせるというようなことは一切せず、その訴えをそのまま鏡で反射するように学校へ返す。そうして、それを受ける学校には、ひたすら「ご無理ご尤も」と保護者の言いなりになる「事なかれ主義」の管理職。
実際、今日のこんな報道。
“大阪府南部の市立小学校で、学級崩壊状態のクラスを巡り、学校側の不手際による保護者間のトラブルがあり、保護者女性の1人が精神的なショックで通院する事態になっていたことがわかった。(…)訴状や市教委によると、6年生のクラスで2008年5月中旬、授業が成立しない状態になり、学校側は保護者に授業参観を呼びかけた。訴えた女性は、5日間授業を見学。授業中の立ち歩き、掃除をサボった様子など、児童10人の名前入りでリポートにまとめた。学校側は、児童の名前をペンで消し、リポートを翌月の保護者会で配布したが、消し方が雑なため児童10人の名が特定された。10人の保護者のうち5人は、リポートを書いた保護者の名を答えるよう学校側に要求。校長が女性の名を伝えたため、女性は喫茶店に呼ばれ、5人から2時間以上にわたり謝罪を求められた。校長も同席したが、ほとんど発言しなかったという。(4月18日 読売新聞)”
学校のチョンボもさることながら、逆ギレする呆れた保護者。
こういう状況って、何とかならないのかなあとずっと思ってきた。
そもそも、「学校」=「サービス業」というとらえがいつの頃からか世上に蔓延し出して、それに追い打ちをかけるようにメディアが「教員の不祥事」をいかにもスキャンダラスな事件として報じるようになって、保護者の学校や教師を見る目が劇的に変化していった。メディアが、そういうことを報じることによって失われるものと得られるものとを衡量したとはとても思われない。まあ、別にメディアを責めても仕方がないのだけれど。
こういうことに対して、何らかの「否定的」「反動的」(=ルサンチマン)なアクションを起こさなくてもいいのだろうかと常々思っていたのだ。
どうやら、その方向性はだいぶん軌道修正をしなければならないようだった。

ニーチェの著作は、『ツァラトゥストラ』以外に、『悲劇の誕生』(中公文庫)と、『善悪の彼岸』(光文社古典新訳文庫)を購入してあった。もちろん未読である。でも、まず『ツァラトゥストラ』だ。自分の中の「天の声」はそう告げていた。
探しあぐねてふと座ったテーブル横の移動式の本棚を見るとはなしに見やると、CDの上に何やら紙質の焼けた古めかしい文庫本が無造作に置かれていた。あったあった!焼けたハトロン紙にくるまれた岩波文庫『ツァラトゥストラはこう言った』の上巻だった。

日曜日、部活動の指導をして帰宅、昼食後の昼寝から目覚めると、おもむろに『ツァラトゥストラ』の上巻を開いて読み始めた。とりあえず、栞が挟んである頁を超えるところまでは読もうと思っていた。
今まで、何度も読みかけてはその度に100頁も読まないまま挫折した著作なのに、それがどういうわけか海綿に水が沁み入るように言葉が入ってくる。
この本を購入したのは、確か大学1年生の時だった。奥付を見ると、昭和49年の第10刷で値段の代わりに★が三つ記載されていた。★は一つ50円だったはずだから、当時150円で購入したのであろう。
以来、三十有余年。この本はそれまでじっと読まれるのを待っていたのだ。何だかんだと、第1部の終わりまで一気読みした。
“誰もかれもが王座につこうとする。これがかれらの狂気だ、ーまるで幸福が王座にあるかのように!だが王座にあるのはしばしば泥にすぎない。また王座がしばしば泥の上に乗っていることもある。
わたしから見れば、かれらはみな狂人であり、よじのぼる猿であり、熱にうかされた者である。(…)
わが兄弟たちよ。あなたがたは、かれらの欲望の口もとから出てくる毒気のなかで窒息する気なのか?むしろ窓を打ち破って、外へ飛びだすがいい!(…)
大地はいまもなお、大いなる魂たちのためにひらかれている。(…)
大いなる魂たちのために、いまもなお自由な生活がひらかれている。まことに、物を持つことのすくない者は、それだけ心を奪われることもすくない。ささやかな貧しさは讃えられるべきかな!
国家が終わるところ、そこにはじめて人間が始まる。余計な人間でない人間が始まる。必要な人間の詩が始まる。一回かぎりの、かけがえのない歌が始まる。
国家が終わるところ、ーそのとき、かなたを見るがいい、わが兄弟たちよ!あなたがたの眼にうつるもの、あの虹、あの超人への橋。ー
ツァラトゥストラはこう言った。”(『ツァラトゥストラはこう言った』氷上英廣訳/岩波文庫、82〜83頁)

30年以上前にちょっとだけ会って、その後は遠くからちょっと見かけたりしていただけのニーチェのお話を、ようやくじっくり伺うことができたような思いがした。ニーチェは思想家であると同時に詩人だった。
「虹」はまだ見えないけれど、曙光は見えたような気がした。