« 2006年02月 | メイン | 2006年04月 »

2006年03月 アーカイブ

2006年03月01日

スーさん父を語る

3月1日(水)

先週の土曜日は、娘の学年末試験とも言うべき「学年コンサート」を聴くために、娘の通う高校へ。在籍する学年の生徒全員が、自分の選んだ曲で先生からレッスンをつけてもらい、それを発表するという会である。

演奏される曲目は様々。各自の専攻によって、独唱、管楽器の演奏、作曲の発表など、バラエティーに富んでいる。

手前の娘はピアノ専攻ということで、ショパンのピアノソナタ第2番から、第1・2楽章を演奏した。コメントは、もちろん親バカになるであろうから控えさせていただきたいが、タッチがずいぶんと力強くなっているという印象であった。

楽器の演奏というのはかなり難しいところがあり、傍で聴いて「いい演奏だ」と感じても、実際にホールで聴いてみると印象が薄かったり、逆に傍で聴くとずいぶん乱暴な演奏のように聞こえても、ホールでは「すばらしい演奏」と聞こえることがあるのだ。

演奏者としての評価は、もちろん後者の方がよいであろう。しかし、どの程度の音を出せば「ホールでの聴衆」に訴える演奏となるかという判断を、演奏者自身が判定することは難しい。さらには、ホールの大きさによっても演奏を微妙に調整しなくてはならないということもあるだろう。

こういうことは、いろいろなホールでの演奏経験を積んでいけば、演奏者自身がフィジカルに了解していくことなのだろうか。実に音楽の演奏というものは難しいものである。

さて、今回のコンサートには、何を思ったか手前の老父が「できれば聴きにいきたい」と娘に申し出た。今まで、孫娘の演奏を聴きたいと思いつつも時宜を得ず、結局一度も聴いたことがなかったため、今回こそは聴いておきたいと思ったのだそうだ。

実は、昨年末に父の弟が他界した。表面では平静を装っていたが、自分よりも弟の方が早く逝ってしまったことに、父は少なからぬ感慨があったに違いない。それからは、ことあるごとに「もうオレもいつ逝くかわからんでなあ」ということを口にするようになった。

今回の申し出も、そんな経緯があってのことと想像される。

これは、手前の母親から聞かされた話だが、父は若いころから特にベートーヴェンを深く愛好しており、シンフォニーのスコアを読んだりするだけでは飽きたらず、自らヴァイオリンを独習したこともあるくらいのクラッシック音楽の愛好者であったらしい。

結婚して子ども(手前のことです)ができると、「ヴァイオリンを習わせる」と宣い、子供用ヴァイオリンを購入して、むずかる子ども(もちろん手前のことです)にむりやりヴァイオリンの手ほどきをしようとした(手前はヴァイオリンをアゴに挟むのがどうにも違和感があってうまくできなかったことを覚えています)。

しかし、デキの悪い子ども(くどいようですが、手前のことです)は、いっこうにヴァイオリンのお稽古に精を出そうとはせず、すぐに外へ遊びに行ってしまうようなガキだったため、せっかく購入したヴァイオリンも、他の玩具類とともに押し入れの中へ片付けられてしまったのだそうだ。

また、年末になると恒例の「第九」がテレビで放映されるのだが、紅白の裏番組で放映されていた第九を、家族の非難の視線などものともせずに、一人悦に入って見入って(聞き入って)いただけでなく、子どもたちにも「しっかり見ておけ」と訓示していたことも覚えている。

手前がクラッシック音楽を嗜むようになったのも、そんな父の影響が大きいのだろう。

こんなことを書くと、「何と高尚な趣味をお持ちの父上か」と思うかもしれない。そんなことはあろうはずがない。父は、昭和の初めの生まれであるが、当時の義務教育学校が最終学歴である。鬼籍に入った父方の祖母は、生前よく「あの子にはサジを投げた」と言っていた。若いころから向こう見ずのし放題だったのだろう。

そんな父であったから、他人とうまくつき合うことなどできるはずがなく、手前が小さいころなどは、母とは言うに及ばず、近所の大人たちや母方の祖母などともよく諍いを起こしていた。

もちろん、子どもともろくに話などしたことはなかった。これは決して誇張ではなく、手前が生まれてからこの方、父と交わした会話の総時間はたぶん1時間にも満たないのではないかと思われる(たとえば、手前が大学に在学中、生活費に困って家に電話をかけたときなど、たまたま電話に出た父に「お金ないんだけど」と言うと、「わかったよ」と答えて電話を切ってしまうというような、ほとんど全ての会話がわずか2秒で済んでしまう人なのである)。寡黙でどちらかと言えば人付き合いの苦手な父である。

そんな父が、孫娘の演奏をどうしても聴きたいと出かけたのである。

手前の娘の出番は第3部だったため、ちょうど第2部が終わったころを見計らってホールに顔を出すと、ふだんは着たこともないツィードのジャケットを着て、満面に笑みを湛えた父が座っていた。

父のあのように満足げな表情を見たことはあまりない。まだ孫娘の演奏は聴いていないのに、よほど気に入った様子だ。久しぶりに生のクラッシック音楽を聴いて、昔を思い出したのだろうか。隣にいる妻の父と二人で、あれやこれやと楽しそうに話をしていた。

残念ながら、娘の演奏についての感想は聞いていない。手前は午後から部活動の指導のためすぐに学校へと向かったので、その後の様子を妻に聞いたところ、「一緒に食事でもどうですか?と誘ったんだけど、買い物したいからと断られちゃった」とのことであった。いかにも父らしい。

それ以後も、孫娘の演奏のことなど一切口にせず、相変わらず三味線のお稽古(母には「三味線はヴァイオリンに通じるものがある」と言っているそうな)と、手作りの囲炉裏部屋製作にせっせと精を出しているのである。

こういう父の気質は、多くその子どもに伝えられているはずである。

先日、本校の養護教諭から「先生は自閉症の傾向がありますね」と言われてしまった。もちろん、冗談半分(半分は本音)で言われたのだろうと思われるが、あらためてそう言われると、「そうか、オレって自閉的なんだ」と妙に自分で納得するところがあるから不思議だ。親子揃って、「自閉的傾向」の持ち主ってわけだ。

これから私とお付き合いする人は、そこのところをよーく理解して接してくださいませ。ちなみに、今日はわたくしめの誕生日です。

2006年03月12日

スーさん京都に来る

3月5日(日)

土曜日は、宗教倫理学会主催の「公開講演会」での内田先生の講演を聴くために京都まで。

内田先生の講演会とあらば、浜松支部会員は大抵挙って参加するのだが、今回は「シューマッハ」オノちゃんと「会計係」ヨッシーが部活動の試合、「指導係」オーツボくんは修学旅行の下見、「下野国」は夕方から懇親会があるとのことで、浜松からは手前だけの参加となった。

おお、そう言えば手前のバカ日記に時折コメントをいただいて懇意になった沼津のコヤタ先生も、内田先生の大ファンだったよなあと思い出し、「講演会終了後は、内田先生とプチ宴会が予定されていますが、ご参加されますか?」とお誘いしたところ、「行かせていただきます!」との快諾を得、新幹線の時間を打ち合わせて、ご一緒することとなったのである。

京都までの道中、初対面であるコヤタ先生と、あれこれお話をさせていただく。先生は、小学校で教務主任をされる傍ら、「読み聞かせ」の実践を地道に続けられている(詳しくは、http://d.hatena.ne.jp/koyateru/ をご覧ください)。初対面とは言え、それまでに何度かメールなどを交わしているので、あまり気兼ねすることなくお話をすることができた(同じ教務主任として共通の話題も多いってこともありました)。

手前は、日記にコメントしてくださった方には基本的にお返事をすることにしている(だってねえ、かような日記を読んでくださるというだけでうれしいじゃあないですか)。ただし、「ん?このヒトちょっとヘン」という方にはお返事を控えさせていただいている。文章表現とは不思議なものだ。どのように表現しようとも、その表現主体のエクリチュールの臭気とも言うべきものは立ち上っているのである。

話は尽きぬままに京都へ到着。駅には、コヤタ先生の友人で、神戸市の中学校で国語の先生をされているタダ先生もお見えで、とりあえず3人で昼食でも、ということになる。

講演会場は、京都駅からすぐ近く(「歩いて2分、走って30秒」@内田先生)の「キャンパスプラザ京都」。駅の地下街はどこの飲食店も混み合っていたため、件の「キャンパスプラザ京都」併設のカフェで昼食をとっていたところ、偶然内田先生とお会いする。先生とお会いするのは、昨年の「城崎極楽温泉麻雀ツアー」以来半年ぶりである。「では後ほどビールを」と言い残されて、先生は講演会場へ。

講演が行われたホールは、収容人員が80名ほど。机はなく、演台を前にして扇状に椅子が並べられていた。既に、70名ほどの聴講者が着座している。公開講演会は、内田先生の講演が1時間、パネルディスカッションが30分、質疑が30分の計2時間のプログラムであった。

さて、内田先生の講演である。お題は、「時間・記憶・他者」。先生のお話を伺っていると、3年前に大学院で先生のお話を聴講していたときのことが思い出された。

以下、先生のお話の中から、印象に残ったお言葉をいくつか。

・「『自分探し』は、『単一なピュアな自分を確定できる』という信憑である。しかし、それでは多様性に対応できない。『ピュアな、クリアなものが自分の中心にある』、という信憑は、『私の起源』を特定しようとして、関係を破綻させる。『私』を静止位置に固定しようとしてはならない。『自分には多様な面がある』と思えば、周囲との関係性は回復する。」
・「ある側面とある側面が齟齬したら、それを統合するよりレベルの高い人格を想定することが大切だ。自分の中にあるいろんな欲望や思いを全部含んで、『自分をつくっていく』ということ。人間の身体は、病原菌と共生している面がある。『異種共生』が大切で、黴菌を『他者』として排除してはならない。人間の身体は、ある一時期に存在している『よどみ』である。『主体性』の定義は、『よどみ』である。元から『主体性』があるのではない。」
・「ラカンが『前未来形で過去を回想する』と述べたように、その時思い出している過去は、『その時、その人とどのような関係を構築するか』という終点に向かってつくられる。過去のエピソードは、ある意図のもとに語られるのである。」
・「生存戦略上、自分の中心にランダムな要素をため込んでいくことは大切なことであろう。自分の規準に合ったものだけをため込んでいくだけではだめだ。『ポコっと出た欲望』を全て大切にしてとっておくこと、レヴィ=ストロースが言った『ブリコラージュ』のように、『何かに使えるかもしれない』と思って、『用途を特定しないでとっておくこと』が大切なのではないか。人生の中でリソースは限られている。高橋源一郎は『詩人は寿司屋である』と言った。これは、『使えるネタ(言葉)は全部使う』ということである。どんなものでも無駄になるものはない。」
・「今の日本の社会は、自分の欲望を単純化させようとしている。自分の中に『複数の視点、価値観』を持っていること。レヴィナスが言う『他者』とは『自分』のこと。自分の中に『わけわからんこと』が蠢いていて、でも『それもありかな』と思うことで、『他者』と共生(耐性、許容性)できる。いかにして自分を『ランダマイズ』できるかが大切なことだ。自分の中の『他者性』を統合していく人は、『他者』と共生できる。」
・「記憶は、『未来投機的』に構築される。空間的に表象しているかぎり、『他者』は理解できない。『アコーダンス』の概念。『私』を守ろうとすると『他者』が立ち上がる。これは敵をつくるだけだ。」
・「『自己の未知性』があるから言葉が前に進んでいく。『ノン・サヴォワール』とは、『自分が何を言いたいのか知りたいからしゃべる』ということ。」

講演を拝聴しながら手帳にメモしたままを羅列してみたが、内田先生が何をおっしゃりたいのかということは概ね理解されようと思う。

先生の講演後に行われたパネルディスカッションについては省略。「宗教倫理学会のエクリチュール」は難解である。

講演後は、京都駅ビル内の豆腐屋さんにて「プチ宴会」。参加者は、内田先生の日記にあるとおり。ビールで乾杯後、「やっぱりお豆腐には日本酒ですよね」という手前のわがままを聞いてもらって熱燗をくいくいといただく。小宴は、「今日のギャラで」と内田先生の奢り。どうもごちそうさまでした。

そろそろ暮れ始めた京都駅にて、先生とお別れする。次にお会いするのは、来る4月1日、先生宅にて開催予定の「うなぎ宴会&本部支部合同麻雀大会」。本部連盟の方々、どうぞお手柔らかにお願いいたします。

2006年03月16日

ピースミール教育論

3月16日(木)

『義務教育を問いなおす』(藤田英典/ちくま新書)を読んだ。

少なくとも、現在義務教育に関わりを持っているすべての人が読むべき著作である。まさに、「筆者雄渾の一冊」と言えよう。

特に、第1章「危機に瀕する日本の教育」には、「今これだけは言っておかねば」とでも言うべき筆者のパトスが凝縮されており、頁を捲るたびに、傍線を引かざるを得ない箇所の枚挙に遑がない。
“「危機だ、危機だ」と無闇に言い立て、人びとの不安を掻き立てたり、無用な改革を煽ったりすることはけっして賢明なことではない。筆者は、1990年から危機意識をもって教育政策を批判してきたが、そういう危機論に加担しないためにも、つい最近まで、「危機」論を引用・批判する場合を除いて、「危機」ではなく、「岐路に立つ」という表現を用いてきた。しかし、この十数年の間に、事態はもはや、「岐路に立つ」という表現では必ずしも十分でないと考えられるものになった。”(23頁)

文科省は、「二十一世紀の未来を拓く教育改革-七つの重点戦略」というパンフレット(2002)で、「危機に瀕する我が国の教育」と題し、
①いじめ・不登校・校内暴力・学級崩壊・青少年犯罪
②個人の尊重を強調し、「公」を軽視する傾向
③行きすぎた平等主義による子どもの個性・能力に応じた教育の軽視
④今までの教育システムが時代や社会の進展から取り残されつつあること
の4点を「危機」として挙げていたが、筆者のとらえる「危機」は、文科省の捉える「危機」とは異なっている。
筆者は、
①上記のような捉え方が疑問もなく受け入れられ、一連の新自由主義的・新保守主義的な改革、<強者の論理>による改革が公然と推し進められていること
②それらの改革が日本の教育の優れた側面を否定し、その基盤を再編・解体していること
すなわち、「現在進められている改革それ自体」を「危機とその主要な源泉」と捉えている。
“現代の教育の危機は、IT化・グローバル化や知識社会の進展をはじめとする社会の変化と、教育・青少年に関わる「病理的」諸現象の持続を背景にして、また、もう一方で、それらの変化や問題に対する政策的・社会的対応の仕方によってもたらされている。とりわけその政策的・社会的対応によって、「教育の公共性」と学校教育の在り方が問い直され再編されつつあることに、現代の危機の主要な特徴と源泉がある。その再編は、「病理的」諸現象を改善するどころか、教育をますます歪め、事態の悪化を促進する危険性の大きいものである。”(41頁)

以下、多少長くなるが、それぞれの章立てを逐いながら、ポイントになると思われる主張をご紹介してみたい。

第2章は、「公教育・義務教育の意義と役割」と題されている。義務教育費国庫負担金の問題や、「開かれた学校づくり」について言及しながら、現在の教育改革について以下のようにまとめている。
“改革推進論者は、様々な議論の場での批判的な意見に対して、しばしば、「やってみないとわからない」「やってみないと始まらない」とか「規制緩和・選択・評価は時代の趨勢であり、それをしなければ世間が納得しない」などといって改革をリードしているが、それは無責任であると同時に、<時代の趨勢>と<世間の意向>を誘導し、つくりあげているといっても、まず間違いでない。彼らは、現行システムの再編が教育の改善をもたらすといえる根拠は何ら示さず、その結果についての予想も極めて曖昧である。それにもかかわらず、批判論に対しては、批判の根拠を求め、もう一方で、代替案、ヴィジョンの提示を求める。しかも、提示された根拠は検討もせずに無視し、示された代替案やヴィジョンについては理解するつもりもなければ、その是非や可能性を検討しようともしないというのが実情である。
日本の学校教育には改善すべき点が多々あることはいうまでもない。また、学校教育や公立学校への不満や不信が広まっていることも確かである。しかし、その原因が十分に検討されているわけではない。その不満や不信に対しては、制度改革よりも、運用上・実践上の改革・改善によって対応すべきである。学外人材の活用や当事者参加による「開かれた学校づくり」を含めて、実践上の改革を支える条件整備によってこそ、よりよく対応できるものである。”(96頁)
そうなのだ。「まず改革ありき」では大切なものが漏出していってしまうのである。

第3章「二一世紀の義務教育問題」では、義務教育費国庫負担金廃止問題をさらに詳しく取り上げ、同負担金の一般財源化を、教育という「国家百年の大計」を疎かにするものである、と厳しく論難している。
“ツケは誰が払うのか。それは、次代を担うべき子どもたちであり、増大する家庭教育費を負担する保護者であり、財政事情の厳しい自治体である。教育機会の地域格差や階層差がもたらす弊害と「人材の浪費」を強いられる日本の将来である。”(117頁)
さらに、教員の評価を含めた「学校の評価」、全国規模や都道府県・市町村単位で実施される悉皆テスト、学校選択制、「教育基本法」の改正等についても、その問題の所在を明らかにしているが、詳しくは本文をあたっていただきたい。

第4章では「ゆとり教育」について、その是非と行方が明らかにされている。特に、「総合的な学習の時間」については、学力向上問題と関連させつつ、以下のような指摘がなされている。
“2002年からの指導要領では、「総合的な学習の時間」が特設され、既存教科の時間が大幅に削減された。この転換は、「特色ある学校づくり」を推進するためとか、教科横断的な学習や体験的・問題解決的な学習が重要だとか、「自ら学び自ら考える力」を核にした「生きる力」の育成が重要なのだというだけで正当化できるものではない。
一般に教科の学習には、学習の系統性・発展性の基盤となる<知識の核>がある。この<知識の核>は、対象界の構造や学問知に基づき、かつ、学習上の難易度などを考慮して、系統的に配列・構成される<定型的な知識>のまとまりといえるもので、一般に各教科の学習内容はそのようなものとして編成されている。したがって、教科の学習では、教科書や授業の内容を段階を踏んで学習・習得していけば、学年が上がるにつれて、それなりに学力が身に付いていく。
しかし、「総合的な学習の時間」には、そうした学力の向上を担保する<知識の核>がない。”(192~193頁)

第5章では「クローバル化時代の学力形成」と題して、「ゆとり教育」と絡めながら学力問題について論じられている。特に、今回の学習指導要領改訂に大きく影響したと考えられているいくつかの国際学力比較調査を取り上げながら、日本の子どもたちの学力がほんとうに低下しているのかどうかを検証している。
“日本や韓国が両方の調査(「PISA調査」と「TIMSS調査」)で上位に入っているということは、これまでの日本の教育、教授・学習の方法が基本的に間違っていなかったということを示唆している。<教科学力>(アチーブメント・テスト)と<生成学力>(「生きた学力」「新しい学力」「生きる力」)のどちらの考えに立つにしても、その二つの学力(その基礎)は基本的なところで同じものだという可能性を示唆している。さらには、その基本的な学力の形成という点で、日本のこれまでの教育方法・学習方法は基本的に間違っていなかったということを示唆している。”(219頁)
そうして、
“日本のように高等教育進学率が高く、大学教育は実践的・応用的知識より学問的・専門的知識を重視する傾向が強く、しかも激しい受験競争のある社会、そのうえ、学問・科学技術・経済・社会のほとんどあらゆる領域で国際的な卓越性を期待される社会では、<生成学力>もさることながら、それ以上に適切な<教科学力>が重要である。” (225頁)
と指摘している。

終章では、「二一世紀の教育課題と改革・実践の指針」が示されている。これも、詳しくは本文にあたっていただきたいが、一箇所だけ引用させていただく。
“いま重要なことは(…)歪んだ改革・政策を進めることでも、歪んだ外発的動機づけや迎合主義・教科主義の施策や実践を強めていくことでもなくて、学校のなかに、むろん家庭・地域社会一般にも、<努力と賞賛のカルチャー>を再構築していくことである。”(290頁)

以前、同著者による『教育改革』(1997年、岩波新書)を読んだことがある。しかし、残念ながらそのときはあまりインパクトを感じることはなかった。そのころは、まだ「教育改革」と言われる具体的施策がその端緒についたばかりだったということもあるし、実際に現場にある私たちも、「教育改革」と言われるものがどのように進められていくのかということを具体的にイメージできなかったということもあるかもしれない。

今は違う。この10年足らずの間に、「教育改革」の名の下に現場で推し進められてきたこと、そしてそれについての知見は少なからず蓄積されている。今回の著作も、それらのデータを踏まえながらの見識であろう。だからこそ説得力がある。

何よりもよいのは、「現在進行中のものも含めて、ラディカルな制度改革によってではなく、適切なピースミールの改革と実践上の改善を積み重ねていくことによってこそ、よりよく対応できる」とする筆者の基本的なスタンスである。「ピースミール工学」を提唱したカール・ポパーは、その著『開かれた社会とその敵』の中で、以下のように述べている。
“われわれの社会の完全な改造によって直ちに使いものになる体制が生まれると仮定することは合理的でない。むしろわれわれは、経験の欠如のために、多くの誤りがなされ、それらは小さな諸調整のための長く骨の折れる過程によってのみ除去できるものと予期すべきである。” (『開かれた社会のその敵』第1部165頁)
とかく人を瞠目させるような方法論は、実際の現場には馴染まない。こと、教育の現場では、子どもたちの実態をよく把握しながら、実態にそぐわないところを少しずつ変えていくしかないのだ。

世に教育問題を論じた著作は数多あれど、この著作はそれらの中でもとびきり上質のものと信ずる。ぜひとも、熟読玩味されんことを。

2006年03月21日

懲り懲りの郷テニス大会

3月21日(火)

「平城京まで五里、平安京まで五里」とは、京都市南部の宇治市や城陽市の辺りを指して呼び習わすのだそうな。

先日の土日は、その京都市南部の府立山城総合運動公園テニスコートにて行われた、その名も「五里五里の郷中学生ソフトテニス研修大会」に参加するために宇治市まで。

浜松から宇治市まで行くとなれば、車で3時間半は見ておかなければならない。となれば、土日に行われる大会に参加するためには、前日の金曜日に出発して宿泊というこということになる(だってねえ、明け方の4時とかに出て行くのはしんどいじゃないですか)。しかし、金曜日は6限までしっかり授業がある。また、同行するコーチは社会人だから、当然勤務終了後に出発である。というわけで、生徒たちはいったん家に帰し、夕食をとらせた後の7時出発ということになった(もちろん、われわれコーチ陣は夕食など食べている時間はない)。

手前は、既に監督を若手の先生に委譲しているので、今回の遠征も無理に参加しなくてもいいのであるが、せっかく声をかけてくださった京都のキシ先生やミヤタ先生にもお会いして久闊を叙したいということもあり、年度末の多忙な時期ではあったが、参加させていただくことにしたのである。

この大会は昨年第1回大会が開催されたばかりである。昨年も金曜日の夜に浜松を出たのであるが、名神の一宮を過ぎようかというところで、大渋滞に遭遇してしまった。何やら、雪とかで延び延びになっていた集中工事をちょうどその時にやっていたらしい。

コーチと相談して、名神は諦め、一般道を東名阪道まで走って、奈良から京都へと入るルートを走ることにした。東名阪道は快適に走れた。「やっぱり正解だったね」などと喜んでいたのもつかの間、亀山で東名阪道を降りて国道25号線に入ったところで、またもや大渋滞に遭遇してしまったのである。仕方がないので、25号線も諦め、滋賀から奈良経由で京都まで通じている旧道を行くことにした。結局、到着したのは12時前。何と、3時間以上も余分に時間がかかってしまったのである。

翌日、大会会場で会ったキシ先生やミヤタ先生に、「この大会の名称は変えた方がいいよ。『五里五里』じゃなくて、『懲り懲り』ってさあ」と当て付けを申し述べたのも、余儀ないことであったのである。

さて、「まあ、昨年みたいなことはなかろう」と、それでも名神の道路情報を確認しつつ出発したのであったが、東名の岡崎を過ぎた辺りから車が混み出した。幸い、完全に止まってしまうことはなく、名神に入ってからはすいすいと走って、京滋バイパスから宇治市に入り、宿舎に到着したのは10時半過ぎ。昨年のことを考えれば、ずいぶんと早い到着だったのである。

生徒たちにはすぐに入浴してそのまま寝るよう指示し、夕食をとっていない大人たちはとりあえず食事をしに外へ出る。ありがたいことに、キシ先生が宇治駅前の焼鳥屋さんで飲みながら待っていてくださったので、そこへ合流させていただくことにする。

同宿には、かつてのライバルであった三重県のオオタニ先生も泊まられていたので、「一緒にどうですか?」とお誘いし、飲みながら近況を報告し合う。

オオタニ先生の勤務されている学校は、三重県と和歌山県境の山の中にある小規模校。何と、1,2年生の全校生徒は10名(男子4名、女子6名)だそうだ。でも、今回の遠征には6名のテニス部員が参加している。「ひょっとして、1,2年生の女子生徒全員がテニス部なの?」と聞くと、「美術部とかに入っていた生徒も借りてきました」とのこと。小規模校には小規模校なりの苦労もあるのだ。夜遅かったということもあり、小宴は早々に切り上げて床に就く。

宿は、平等院近くの宇治川縁にある「静山荘」。朝起きてベランダに出てみると、対岸の山を背景にして、なかなかの水量を湛えながら流れる宇治川に、川鵜が水面低く飛んでいるのが見える。いい宿である。試合とは別に、これからの桜の季節や、秋の紅葉のシーズンにぜひ訪れてみたいという気持ちにさせられる。

試合は、土曜日が団体戦。予選リーグは1位通過したものの、決勝トーナメントで大阪の長尾中に敗退してベスト10。途中から小雨が降り出したため、早めに宿へと引き上げる。この日は、他に浜松から参加した「シューマッハ」オノちゃんのチームと、「会計係」ヨッシーのチームも同宿である。彼らは、何と合同で中型バスをチャーターし、明け方に浜松を出発してきたのである。「早起き長旅」の生徒たちは、さすがに力を発揮することなく、両チームとも予選リーグ最下位に沈む。やっぱり、前日から参加しなきゃね。

夜は、その日から同宿の姫路や大阪の先生と、地元のスタッフを交えて懇親会。降雨から寒さが増し、ビールよりも熱燗がよく売れる。久しぶりに顔を合わせる先生がほとんどなのに、まったく気兼ねすることなく話が弾むのも、テニス仲間のよいところである。

懇親会散会後も、依然として雨は降り続いていた。翌朝、起きたときにもまだ小雨が降っていたが、朝食を食べ終わるころには雨もやみ、日も射してきた。個人戦は、クレーコートの使用を諦め、人工芝コート12面で実施されることになった。

本校は、参加した4組中2組が1位トーナメントに進出したが、それぞれベスト16止まりであった。途中から霰混じりの強風が吹き荒れ、気温もぐっと下がって、コンディションは最悪であった。この日は午後からWBCの日本対韓国戦が行われていたので、途中からは車へ退避して野球観戦(こんなことでいいのであろうか?でも寒かったんです。)。日本の勝利を確認してコートへ戻ったところで個人戦も終了、帰途に就く。

その帰り道がインケツであった。滋賀県内は雪。おまけに、関ヶ原を越えて岐阜県に入ろうかというところで事故渋滞13キロ。養老のサービスエリア付近では、完全に止まってしまった。これでは帰りが何時になるか見当もつかない。それでも、岐阜羽島を過ぎた辺りからは少しずつ動き出し、愛知県に入るころにはようやく渋滞も解消した。結局、帰宅は9時半。通常より、1時間半近く遅い帰宅となった。

それにしても、どうもこの大会は渋滞に祟られる。今回は、それに加えて強風に霰だ。キシ先生、ミヤタ先生、やっぱり「五里五里」じゃなくて「懲り懲りの郷」ですよ、これは。

2006年03月26日

スーさん、異動の春

3月26日(日)

先週の金曜日(24日)、異動の辞令を拝命した。

本県では、昨年度より年度末の異動の際、異動の対象となる教員が自分の行きたい学校を指定できる「希望表明制度」が発足せられた。県の管理主事の話では、約4割の教員が希望どおりの学校へと異動したとのことである。「じゃあ、やってみっか」と、手前も希望表明をしてみたのであるが、手前のような不肖の教員の希望など叶うはずはなく、まったく希望外の学校への転任となったのである(だからといって、別段不満があるということもなく、「そうなんだ」程度の受け取りです、念のため)。

現在校では、6年間の勤務であった。その間、学年主任を4年、教務主任を2年務めさせていただいた。着任したばかりのころは、本校もご多分に漏れず所謂「荒れる学校」であった。生徒たちは、髪を染め、器物を破損し、授業エスケープを繰り返し、喫煙し、注意する教師には反抗的な態度を示して立ち向かってくることもしばしばであった。

こういう「荒れ」に対処するための特効薬などはない。地道に、時間をかけ、きめ細かな対応を積み重ねていくしかないのだ。「荒れ」ている一部の生徒ばかりでなく、学年の生徒一人一人に目をかけ、声をかけ、わかりやすい授業を心がけ、行事では生徒と一緒になって燃え、部活動に汗を流し、保護者とも連携をとりながら、学校(教師)と生徒、保護者、地域との信頼関係をこつこつと築いていくしかないのである。

校長先生のリーダーシップの下、各学年教師集団が、学年主任を中心に一致団結して学年、学級の指導にあたった結果、学校は少しずつ落ち着きを取り戻してきた。

私の担当した学年の生徒たちも、中3に進級すると同時に、全体的に落ち着いてきた。一部突出した生徒ももちろんいたが、学年全体の生徒たちが彼らを相手にしなくなってきたのである。何より、授業に対する真剣な取り組みが目立つようになってきた。もちろん、これは中学校卒業後の進路を考えてのことであろうと思われるが、そうやって先のことを考えられるようになったということが大きな進歩だったのである。

そんな学年の生徒たちの卒業式、前年は突出した生徒たちが赤や黄色の学生服を着用して、後々まで「5レンジャー」などと揶揄される卒業式であったから、何か新しい試みができないかと学年の先生たちと相談し、生徒たちには「卒業式委員会」を発足させて生徒たちの意見も取り入れ、卒業生がクラスごと放射状に着席して、保護者が見守る中を粛々と卒業証書を拝受するような式場に変えることにした(この式場の形式は、現在も本校の卒業式で受け継がれている)。

その年の卒業式には、病気で途中休職中の校長先生も駆けつけてくださった。式が終わったあと、その校長先生から「いい卒業式だったな、よくやった」とお褒めの言葉をいただいた。何よりのことであった。

次の校長先生は、落ち着きつつある学校を、特に部活動で力を発揮させる経営を構想され、「文武両道」を合言葉に、学習と部活動に力を入れた指導が展開された。かつての「荒れ」がまるで嘘のように、生徒たちは部活動に熱中した。その結果、市の中学総体では各部の結果を総合した「教育長杯」(男女総合優勝)を毎年のように受賞するほどになった。

部活動の成果は、生徒たちに自信と誇りを齎した。髪を染める生徒もいなくなり、もちろん喫煙や授業エスケープをする生徒もいなくなった。かつての「荒れた学校」は、今や市内でも有数の部活動の盛んな学校へと変わったのである。

そんな落ち着いた状態の中で、最後の2年間は、「教育改革」の実際を提出文書や教育課程編成の端々に感じつつ、教務主任を務めさせていただいた。あれこれ新企画を構想する遑もなく、前年踏襲の教育課程編成であったが、自分としては精一杯務めを果たすことができたと思っている。転任はよい潮時であったと思う。

さて、辞令をいただいたその日は、転任先の学校へ出向いてご挨拶をすることになっている。事務職員からいただいた履歴書やら辞令の写しなどを持って、この4月からお世話になる学校へと出向いた。

今度の学校は、浜松市の中心部からやや西方の、近くに縄文時代後期の遺跡がある学校で、学級数は10。現在では標準規模の学校である。学校は落ち着いていて、もちろん問題行動とてない。教育熱心な地域で、生徒たちの学習意欲も高いと聞く。県外からの視察も多く、卒業式では生徒たちが作詞・作曲した卒業式歌を歌うそうだ(その歌は、つい最近CDが全国発売された)。

辞令を持って校長室に入ると、既に手前と同様に転任してきた先生が何人か着席して、教頭先生と思しき方といろいろとお話をされている。挨拶を済ますと、その先生が「どうぞこちらへ」といざなってくださった。「今、教頭さんを呼んできますからね」とおっしゃる。「え?この方が校長先生だったんだ!」とやや狼狽える。小柄で痩躯、穏やかな口調。手前は今度お世話になる校長先生とは、その謦咳に接する機会がなかったため、拝顔するまでそのご容貌を存じ上げなかったのである。

全員が揃ったところで、その校長先生からいろいろとお話を伺う。ご自身がしたためられた「教育構想」の冊子を示されつつ、生徒や保護者・地域の様子、力を入れて取り組んでほしい教育活動などをこまごまと話された。ユーモアを交えながら、聞いている人を飽きさせない語り口である。

そう言えば、辞令を持って行く日、本校の音楽担当であるサイトウ教諭から、「あの校長先生はすばらしい先生ですよ!」と聞いていたことを思い出した。今度の学校の校長先生は、音楽が専門教科なのである。お話を伺うにつれ、サイトウ教諭の言ったことが真のことであったと実感させられた。穏やかな口調の中にも、確固たる信念をお持ちの先生であると確信した。

うれしい。

どんな仕事を任せられるのかはわからないが、たとえどんな仕事であれ、あの校長先生の下でならやっていけそうな気がしてきた。4月になるのが待ち遠しい。

About 2006年03月

2006年03月にブログ「スーさんの熱血うなとろ日記」に投稿されたすべてのエントリーです。過去のものから新しいものへ順番に並んでいます。

前のアーカイブは2006年02月です。

次のアーカイブは2006年04月です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

Powered by
Movable Type 3.35