スーさん京都に来る

3月5日(日)

土曜日は、宗教倫理学会主催の「公開講演会」での内田先生の講演を聴くために京都まで。

内田先生の講演会とあらば、浜松支部会員は大抵挙って参加するのだが、今回は「シューマッハ」オノちゃんと「会計係」ヨッシーが部活動の試合、「指導係」オーツボくんは修学旅行の下見、「下野国」は夕方から懇親会があるとのことで、浜松からは手前だけの参加となった。

おお、そう言えば手前のバカ日記に時折コメントをいただいて懇意になった沼津のコヤタ先生も、内田先生の大ファンだったよなあと思い出し、「講演会終了後は、内田先生とプチ宴会が予定されていますが、ご参加されますか?」とお誘いしたところ、「行かせていただきます!」との快諾を得、新幹線の時間を打ち合わせて、ご一緒することとなったのである。

京都までの道中、初対面であるコヤタ先生と、あれこれお話をさせていただく。先生は、小学校で教務主任をされる傍ら、「読み聞かせ」の実践を地道に続けられている(詳しくは、http://d.hatena.ne.jp/koyateru/ をご覧ください)。初対面とは言え、それまでに何度かメールなどを交わしているので、あまり気兼ねすることなくお話をすることができた(同じ教務主任として共通の話題も多いってこともありました)。

手前は、日記にコメントしてくださった方には基本的にお返事をすることにしている(だってねえ、かような日記を読んでくださるというだけでうれしいじゃあないですか)。ただし、「ん?このヒトちょっとヘン」という方にはお返事を控えさせていただいている。文章表現とは不思議なものだ。どのように表現しようとも、その表現主体のエクリチュールの臭気とも言うべきものは立ち上っているのである。

話は尽きぬままに京都へ到着。駅には、コヤタ先生の友人で、神戸市の中学校で国語の先生をされているタダ先生もお見えで、とりあえず3人で昼食でも、ということになる。

講演会場は、京都駅からすぐ近く(「歩いて2分、走って30秒」@内田先生)の「キャンパスプラザ京都」。駅の地下街はどこの飲食店も混み合っていたため、件の「キャンパスプラザ京都」併設のカフェで昼食をとっていたところ、偶然内田先生とお会いする。先生とお会いするのは、昨年の「城崎極楽温泉麻雀ツアー」以来半年ぶりである。「では後ほどビールを」と言い残されて、先生は講演会場へ。

講演が行われたホールは、収容人員が80名ほど。机はなく、演台を前にして扇状に椅子が並べられていた。既に、70名ほどの聴講者が着座している。公開講演会は、内田先生の講演が1時間、パネルディスカッションが30分、質疑が30分の計2時間のプログラムであった。

さて、内田先生の講演である。お題は、「時間・記憶・他者」。先生のお話を伺っていると、3年前に大学院で先生のお話を聴講していたときのことが思い出された。

以下、先生のお話の中から、印象に残ったお言葉をいくつか。

・「『自分探し』は、『単一なピュアな自分を確定できる』という信憑である。しかし、それでは多様性に対応できない。『ピュアな、クリアなものが自分の中心にある』、という信憑は、『私の起源』を特定しようとして、関係を破綻させる。『私』を静止位置に固定しようとしてはならない。『自分には多様な面がある』と思えば、周囲との関係性は回復する。」
・「ある側面とある側面が齟齬したら、それを統合するよりレベルの高い人格を想定することが大切だ。自分の中にあるいろんな欲望や思いを全部含んで、『自分をつくっていく』ということ。人間の身体は、病原菌と共生している面がある。『異種共生』が大切で、黴菌を『他者』として排除してはならない。人間の身体は、ある一時期に存在している『よどみ』である。『主体性』の定義は、『よどみ』である。元から『主体性』があるのではない。」
・「ラカンが『前未来形で過去を回想する』と述べたように、その時思い出している過去は、『その時、その人とどのような関係を構築するか』という終点に向かってつくられる。過去のエピソードは、ある意図のもとに語られるのである。」
・「生存戦略上、自分の中心にランダムな要素をため込んでいくことは大切なことであろう。自分の規準に合ったものだけをため込んでいくだけではだめだ。『ポコっと出た欲望』を全て大切にしてとっておくこと、レヴィ=ストロースが言った『ブリコラージュ』のように、『何かに使えるかもしれない』と思って、『用途を特定しないでとっておくこと』が大切なのではないか。人生の中でリソースは限られている。高橋源一郎は『詩人は寿司屋である』と言った。これは、『使えるネタ(言葉)は全部使う』ということである。どんなものでも無駄になるものはない。」
・「今の日本の社会は、自分の欲望を単純化させようとしている。自分の中に『複数の視点、価値観』を持っていること。レヴィナスが言う『他者』とは『自分』のこと。自分の中に『わけわからんこと』が蠢いていて、でも『それもありかな』と思うことで、『他者』と共生(耐性、許容性)できる。いかにして自分を『ランダマイズ』できるかが大切なことだ。自分の中の『他者性』を統合していく人は、『他者』と共生できる。」
・「記憶は、『未来投機的』に構築される。空間的に表象しているかぎり、『他者』は理解できない。『アコーダンス』の概念。『私』を守ろうとすると『他者』が立ち上がる。これは敵をつくるだけだ。」
・「『自己の未知性』があるから言葉が前に進んでいく。『ノン・サヴォワール』とは、『自分が何を言いたいのか知りたいからしゃべる』ということ。」

講演を拝聴しながら手帳にメモしたままを羅列してみたが、内田先生が何をおっしゃりたいのかということは概ね理解されようと思う。

先生の講演後に行われたパネルディスカッションについては省略。「宗教倫理学会のエクリチュール」は難解である。

講演後は、京都駅ビル内の豆腐屋さんにて「プチ宴会」。参加者は、内田先生の日記にあるとおり。ビールで乾杯後、「やっぱりお豆腐には日本酒ですよね」という手前のわがままを聞いてもらって熱燗をくいくいといただく。小宴は、「今日のギャラで」と内田先生の奢り。どうもごちそうさまでした。

そろそろ暮れ始めた京都駅にて、先生とお別れする。次にお会いするのは、来る4月1日、先生宅にて開催予定の「うなぎ宴会&本部支部合同麻雀大会」。本部連盟の方々、どうぞお手柔らかにお願いいたします。