ピースミール教育論

3月16日(木)

『義務教育を問いなおす』(藤田英典/ちくま新書)を読んだ。

少なくとも、現在義務教育に関わりを持っているすべての人が読むべき著作である。まさに、「筆者雄渾の一冊」と言えよう。

特に、第1章「危機に瀕する日本の教育」には、「今これだけは言っておかねば」とでも言うべき筆者のパトスが凝縮されており、頁を捲るたびに、傍線を引かざるを得ない箇所の枚挙に遑がない。
“「危機だ、危機だ」と無闇に言い立て、人びとの不安を掻き立てたり、無用な改革を煽ったりすることはけっして賢明なことではない。筆者は、1990年から危機意識をもって教育政策を批判してきたが、そういう危機論に加担しないためにも、つい最近まで、「危機」論を引用・批判する場合を除いて、「危機」ではなく、「岐路に立つ」という表現を用いてきた。しかし、この十数年の間に、事態はもはや、「岐路に立つ」という表現では必ずしも十分でないと考えられるものになった。”(23頁)

文科省は、「二十一世紀の未来を拓く教育改革-七つの重点戦略」というパンフレット(2002)で、「危機に瀕する我が国の教育」と題し、
①いじめ・不登校・校内暴力・学級崩壊・青少年犯罪
②個人の尊重を強調し、「公」を軽視する傾向
③行きすぎた平等主義による子どもの個性・能力に応じた教育の軽視
④今までの教育システムが時代や社会の進展から取り残されつつあること
の4点を「危機」として挙げていたが、筆者のとらえる「危機」は、文科省の捉える「危機」とは異なっている。
筆者は、
①上記のような捉え方が疑問もなく受け入れられ、一連の新自由主義的・新保守主義的な改革、<強者の論理>による改革が公然と推し進められていること
②それらの改革が日本の教育の優れた側面を否定し、その基盤を再編・解体していること
すなわち、「現在進められている改革それ自体」を「危機とその主要な源泉」と捉えている。
“現代の教育の危機は、IT化・グローバル化や知識社会の進展をはじめとする社会の変化と、教育・青少年に関わる「病理的」諸現象の持続を背景にして、また、もう一方で、それらの変化や問題に対する政策的・社会的対応の仕方によってもたらされている。とりわけその政策的・社会的対応によって、「教育の公共性」と学校教育の在り方が問い直され再編されつつあることに、現代の危機の主要な特徴と源泉がある。その再編は、「病理的」諸現象を改善するどころか、教育をますます歪め、事態の悪化を促進する危険性の大きいものである。”(41頁)

以下、多少長くなるが、それぞれの章立てを逐いながら、ポイントになると思われる主張をご紹介してみたい。

第2章は、「公教育・義務教育の意義と役割」と題されている。義務教育費国庫負担金の問題や、「開かれた学校づくり」について言及しながら、現在の教育改革について以下のようにまとめている。
“改革推進論者は、様々な議論の場での批判的な意見に対して、しばしば、「やってみないとわからない」「やってみないと始まらない」とか「規制緩和・選択・評価は時代の趨勢であり、それをしなければ世間が納得しない」などといって改革をリードしているが、それは無責任であると同時に、<時代の趨勢>と<世間の意向>を誘導し、つくりあげているといっても、まず間違いでない。彼らは、現行システムの再編が教育の改善をもたらすといえる根拠は何ら示さず、その結果についての予想も極めて曖昧である。それにもかかわらず、批判論に対しては、批判の根拠を求め、もう一方で、代替案、ヴィジョンの提示を求める。しかも、提示された根拠は検討もせずに無視し、示された代替案やヴィジョンについては理解するつもりもなければ、その是非や可能性を検討しようともしないというのが実情である。
日本の学校教育には改善すべき点が多々あることはいうまでもない。また、学校教育や公立学校への不満や不信が広まっていることも確かである。しかし、その原因が十分に検討されているわけではない。その不満や不信に対しては、制度改革よりも、運用上・実践上の改革・改善によって対応すべきである。学外人材の活用や当事者参加による「開かれた学校づくり」を含めて、実践上の改革を支える条件整備によってこそ、よりよく対応できるものである。”(96頁)
そうなのだ。「まず改革ありき」では大切なものが漏出していってしまうのである。

第3章「二一世紀の義務教育問題」では、義務教育費国庫負担金廃止問題をさらに詳しく取り上げ、同負担金の一般財源化を、教育という「国家百年の大計」を疎かにするものである、と厳しく論難している。
“ツケは誰が払うのか。それは、次代を担うべき子どもたちであり、増大する家庭教育費を負担する保護者であり、財政事情の厳しい自治体である。教育機会の地域格差や階層差がもたらす弊害と「人材の浪費」を強いられる日本の将来である。”(117頁)
さらに、教員の評価を含めた「学校の評価」、全国規模や都道府県・市町村単位で実施される悉皆テスト、学校選択制、「教育基本法」の改正等についても、その問題の所在を明らかにしているが、詳しくは本文をあたっていただきたい。

第4章では「ゆとり教育」について、その是非と行方が明らかにされている。特に、「総合的な学習の時間」については、学力向上問題と関連させつつ、以下のような指摘がなされている。
“2002年からの指導要領では、「総合的な学習の時間」が特設され、既存教科の時間が大幅に削減された。この転換は、「特色ある学校づくり」を推進するためとか、教科横断的な学習や体験的・問題解決的な学習が重要だとか、「自ら学び自ら考える力」を核にした「生きる力」の育成が重要なのだというだけで正当化できるものではない。
一般に教科の学習には、学習の系統性・発展性の基盤となる<知識の核>がある。この<知識の核>は、対象界の構造や学問知に基づき、かつ、学習上の難易度などを考慮して、系統的に配列・構成される<定型的な知識>のまとまりといえるもので、一般に各教科の学習内容はそのようなものとして編成されている。したがって、教科の学習では、教科書や授業の内容を段階を踏んで学習・習得していけば、学年が上がるにつれて、それなりに学力が身に付いていく。
しかし、「総合的な学習の時間」には、そうした学力の向上を担保する<知識の核>がない。”(192~193頁)

第5章では「クローバル化時代の学力形成」と題して、「ゆとり教育」と絡めながら学力問題について論じられている。特に、今回の学習指導要領改訂に大きく影響したと考えられているいくつかの国際学力比較調査を取り上げながら、日本の子どもたちの学力がほんとうに低下しているのかどうかを検証している。
“日本や韓国が両方の調査(「PISA調査」と「TIMSS調査」)で上位に入っているということは、これまでの日本の教育、教授・学習の方法が基本的に間違っていなかったということを示唆している。<教科学力>(アチーブメント・テスト)と<生成学力>(「生きた学力」「新しい学力」「生きる力」)のどちらの考えに立つにしても、その二つの学力(その基礎)は基本的なところで同じものだという可能性を示唆している。さらには、その基本的な学力の形成という点で、日本のこれまでの教育方法・学習方法は基本的に間違っていなかったということを示唆している。”(219頁)
そうして、
“日本のように高等教育進学率が高く、大学教育は実践的・応用的知識より学問的・専門的知識を重視する傾向が強く、しかも激しい受験競争のある社会、そのうえ、学問・科学技術・経済・社会のほとんどあらゆる領域で国際的な卓越性を期待される社会では、<生成学力>もさることながら、それ以上に適切な<教科学力>が重要である。” (225頁)
と指摘している。

終章では、「二一世紀の教育課題と改革・実践の指針」が示されている。これも、詳しくは本文にあたっていただきたいが、一箇所だけ引用させていただく。
“いま重要なことは(…)歪んだ改革・政策を進めることでも、歪んだ外発的動機づけや迎合主義・教科主義の施策や実践を強めていくことでもなくて、学校のなかに、むろん家庭・地域社会一般にも、<努力と賞賛のカルチャー>を再構築していくことである。”(290頁)

以前、同著者による『教育改革』(1997年、岩波新書)を読んだことがある。しかし、残念ながらそのときはあまりインパクトを感じることはなかった。そのころは、まだ「教育改革」と言われる具体的施策がその端緒についたばかりだったということもあるし、実際に現場にある私たちも、「教育改革」と言われるものがどのように進められていくのかということを具体的にイメージできなかったということもあるかもしれない。

今は違う。この10年足らずの間に、「教育改革」の名の下に現場で推し進められてきたこと、そしてそれについての知見は少なからず蓄積されている。今回の著作も、それらのデータを踏まえながらの見識であろう。だからこそ説得力がある。

何よりもよいのは、「現在進行中のものも含めて、ラディカルな制度改革によってではなく、適切なピースミールの改革と実践上の改善を積み重ねていくことによってこそ、よりよく対応できる」とする筆者の基本的なスタンスである。「ピースミール工学」を提唱したカール・ポパーは、その著『開かれた社会とその敵』の中で、以下のように述べている。
“われわれの社会の完全な改造によって直ちに使いものになる体制が生まれると仮定することは合理的でない。むしろわれわれは、経験の欠如のために、多くの誤りがなされ、それらは小さな諸調整のための長く骨の折れる過程によってのみ除去できるものと予期すべきである。” (『開かれた社会のその敵』第1部165頁)
とかく人を瞠目させるような方法論は、実際の現場には馴染まない。こと、教育の現場では、子どもたちの実態をよく把握しながら、実態にそぐわないところを少しずつ変えていくしかないのだ。

世に教育問題を論じた著作は数多あれど、この著作はそれらの中でもとびきり上質のものと信ずる。ぜひとも、熟読玩味されんことを。