« 2006年01月 | メイン | 2006年03月 »

2006年02月 アーカイブ

2006年02月01日

スーさんからの「年次改革要望」

2月1日(水)

なんだって?また「談合」で捕まったって?

今までは「談合」で誰が捕まろうとも、「しょうがないやっちゃ」くらいにしか受け止めていなかったのだが、今は「うーむ、また談合が摘発されたか、かの本に書いてあるとおりに事が進んでおるわい、さぞかしアメリカは喜んでおるだろうのう」という気持ちにさせられる。

「かの本」とは、内田先生のご朋友であるヒラカワさんお薦めの『拒否できない日本』(関岡英之/文春新書)のことである。

“日本とアメリカは1988年5月に日本の建設市場の開放に関して合意した。大型プロジェクトに限ってアメリカ企業への特別措置を設けたのである。ところが、実際にはアメリカの建設業者がなかなか仕事を発注できないことにアメリカ側は苛立った。アメリカの建設業者が日本の業界より劣っているはずがないのに仕事がとれないのは、受注業者を決める日本政府のやり方(指名競争入札)に問題があるからだと考え始めたアメリカは、マス・メディアを使って日本の公共事業の入札制度を「不透明で不公正だ」と非難の大キャンペーンを展開し始めた。(…)非難の激しさにたえかねて、日本政府は(…)1994年1月「公共事業の入札・契約手続きの改善に関する行動計画」を発表した。明治33年以来、実に90年間も続いてきた日本の「指名競争入札制度」がここに崩壊したのだ。(…)入札制度の変更と同じタイミングで「日米公共事業合意」が発表された。アメリカは「土建国家」日本のシンボルともいうべき「指名競争入札制度」を崩壊させるという積年の目標を達成した。談合問題を糾弾するマス・メディアの激しいキャンペーンがそれに貢献した。(125頁~127頁)”

ほらね。アメリカが喜んでいる理由がおわかりでしょ?

この話にはおまけも付いている。そのアメリカによって糾弾された「指名競争入札制度」は、“9年後に意外なところで復活する。イラクの戦後復興事業で、いつのまにか「発注者」として躍り出たアメリカ政府は、入札に応募できる業者の資格をアメリカ企業にのみ限定した。”(134頁)のだ。あっていい話ではない。

加えて、昨今の「耐震強度偽装事件」である。日本国内の「一級建築士」の資格は、今回の事件によりかなりのイメージダウンを強いられるであろう。代わってクローズアップされてくるのは、アメリカ主導によって採択された「建築家の国際的な統一資格」を有する建築家たち…(ちなみに、この本が出版されたのは、某「一級建築士」の事件が報じられる半年ほど前である)。

本に書いてある内容が、メディアで報じられる事件とあまりにもいろいろと符合しすぎていて、逆に眉に唾を付けたくなるほどだ。

政治的なことはさておいても、手前がこの本の中で「ん?」と思ったのは、「半世紀ぶりに大改正」されたという商法の改正が、「アメリカ型の経営組織」を導入するための改正であった(116頁以下)という記述を読み、「おいおい、これって教育界に関しても同じようなことが起きようとしてんじゃないの?」と感じたからであった。

この「アメリカ型経営組織」というのは、筆者によれば、どうやら「社外取締役制を導入する」ということらしい。このシステムが導入されると、たとえば人事権を経営者から取り上げて外部の人間に与えるというようなことが平然と行われるようになったり、“株主から送り込まれた社外取締役が生え抜き社長を解任して外部から招聘する、などということも日常的に起こりうる”(117頁)ようになったりするのだそうだ。

実は、教育界でも2000年以降、
「校長の資格要件の緩和」(教員免許がなくても校長になれる)
「学校評議委員制度」(校長の求めに応じて学校運営に意見を述べる)
「新しい人事考課制度」(教員の勤務評価を給与や異動に反映)
「特色ある学校づくり」(義務教育諸学校も学校独自の特色を打ち出す)
等の施策が次々と導入された。

これを、学校現場への「アメリカ型経営組織」を導入しようとするための布石ととらえるのは、ちょっと考えすぎであろうか。

ねらいは何か?アメリカの教育産業の日本進出?インターネットと結びついた「e-ラーニング」の導入とか?最近話題の「小学校への英語教育の導入」なども、一連のことと無関係ではないと考えてよいのかもしれない。

でも、きっとうまくいかないと思う(現に、小学校での英語教育についても物議が醸されているみたいだし)。

考えたくはないけど、上記に挙げた施策の「最悪のシナリオ」は、たぶん以下のようなものであると想像される。

“「教員免許がない校長」が赴任してくる。「特色ある学校づくり」をしようと新機軸を次から次へと打ち出す。ただでさえ多忙な現場に拍車がかかる。次第にその校長の手法に反発を覚える多くの年配教員が出てくる。「勤務評価」もしなければならない校長は、反発する教員を低く評価する。それが「給与に反映」していると知った教員たちは、いっそう反発を強める。さらに、従来とは違う学校経営の手法に「学校評議委員」たちが「意見を述べ」てくる。校長をはじめ教員たちの混乱を敏感に感じ取った生徒たちが問題行動を繰り返すようになる。”

もちろん、これは「最悪のシナリオ」である。実際に、民間校長を迎えた学校では、すばらしい成果を挙げているところもあるのだろう。しかし、こういう「最悪のシナリオ」で荒れていく学校が出てくる可能性も否定はできないということなのだ。

内田先生がおっしゃっておられる(1月17日の日記「即戦力といわれても」)ように、「学校」というところは、「師への欲望が励起されるところ」であって、「ビジネスマンの経営者が『教育サービス』する従業員を頤使する場所」ではない。このことは、何をさておいても忘れてはならないことと思う。大切なのは、「師」としての教師の存在である。

幸い、アメリカ大使館のHPを見たところ、関岡氏が指摘されたアメリカによる『年次改革要望書』(正確には「日米規制改革および競争政策イニシアティブに基づく日本国政府への米国政府要望書」)には、教育についての記述はなかった。

これ以上、経済界へのアメリカの要望が、日本の教育界へ影響を及ぼさないようにしてほしいものだ(無理かなあ)。だって、うまくいかないから(それは、経済界からの要望もあって推進されてきた「ゆとり教育」の結末を見ても明らかではないか)。

2006年02月07日

全国の国語科教員団結せよ!

2月7日(火)

「先生は何の教科を担当されているんですか?」と聞かれ、「国語ですけど」と答えると、ほとんどの方は「え?国語なんですか?でも、国語って感じじゃないですよね」と宣われる。「数学とかだと思いましたよお」

どうして?

国語の教師というからには、雀の巣のような頭髪で、牛乳瓶の底みたいな(この喩えもちょっと古いですよね、もう学校の給食でも牛乳瓶なんて使用されてないし)分厚いレンズの眼鏡をかけ、しわだらけのワイシャツに毎日同じネクタイを緩く締め、よれよれの背広を着用していなければならないとでもおっしゃりたいのか!(って別に激昂しているわけじゃないけど)

世の中には、「国語の先生」とか「美術の先生」などという、「この教科を教えるのはこんな感じの先生」とでもいうようなイメージなるものが存在しているのであろうか。「体育の先生」とかだったらわかるけど。

まあいいや、とにかく私は国語の教師である(「国語の教師なのに日記にはこんな駄文しか書けないのか」というご叱責はまた別の問題である)。

その「国語の教師」としては、見落とすことができないことを内田先生が書かれていた(2月3日「まず日本語を」)。

そうなんですよ先生、いま中学校では、1年生だけは国語を週4時間(年間145時間)やってますけど、2・3年生は週3時間(年間105時間)しか国語がないんですよ。

実際に授業をやっている立場から言わせていただいても、中2になってからの1時間減は授業の内容にも進度にも大きな影響(よくない影響)を与えていると思われる。なぜそうなっているのか?もちろん、現行の『学習指導要領』でそのように定められているからである。

「そうかあ、やっぱり諸悪の根源は『学習指導要領』かあ、文科省め!」と、日本語運用能力の衰退を嘆じている多くの方々に瞋恚の炎を燃やされても困るのである。現場の教員としては、どうすれば現状の中で国語教育を充実していくかということを考えねばならない。

以下は、ある日の本校国語科担当教諭たちによる「教科研修会」の一こまである。
「私たちが小中学生の頃って、意味調べとか宿題で出されましたよね」とYミ教諭。
「そうそう、けっこう時間かかったけど、ああいうことって大事ですよね」とWタナベ教諭。
「週1回4ページやって提出することになっている漢字書き取りですら提出忘れする生徒がいるという現状を考えると、意味調べを宿題として出すこともできませんね」とTカツカ教諭。
「だからと言って、少ない授業時間の中ではなかなか意味調べまではやってる時間ないですよね」とTカスギ教諭。
「少なくとも、授業中いつでも辞書を引けるように用意させておくことは必要ですかね」と私。

国語の授業において、「日本語の語彙を増やすこと」は必須のことの一つであろう。現今の『学習指導要領』になる前までの教科書には、それぞれの教材末に示されている「新出漢字」には、その字を使用した熟語が添えられていた。その熟語を読んだり意味を調べさせたりすることで、少しでも語彙を増やすことはできたと思われる。しかし、現今の教科書には「新出漢字」の音読みと訓読みが示されているだけで、熟語は載せられていない。これでは、語彙の増やしようがないのである。

古典の教材も、以前の教科書では、中2で学習する『枕草子』や『徒然草』に口語訳はなく、古語を中心に注釈が添えられていただけだった。ところが、現今の教科書では原文のすぐ右隣に色違いで口語訳が付されている。注釈や辞書を頼りに、『枕草子』や『徒然草』を口語訳していく楽しみ?もなくなってしまった。と言うか、そういう教科書を使用していても「え〜、口語訳むずかし〜い」という生徒がほとんどなのである。

内田先生は、以前漢文のリテラシーについても言及されていた(昨年11月29日の日記)。先生は、「どうして日本の中等教育は漢文を必修から外してしまったのか」と書かれていたが、先生、一応漢文の教材はあるんですよ。

本市で採択しているM図書の教科書では、
中1…「今に生きる言葉」(『韓非子』から「矛盾」の口語訳付き書き下し文)
中2…「漢詩の風景」(孟浩然の「春暁」、杜甫の「絶句」、李白の「黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る」の訓読文とその解説文)
中3…「項羽」(『史記』の「項羽本紀」より訓読文の一部)
が載せられている。

それぞれ2時間ほどの扱いなのだが、そんな短時間で終わらせることはできない。手前の場合は、まず漢文訓読法を教え、ノートに訓読文を筆写させ、その筆写した訓読文を使って朗読練習を行い、最後に口語訳を付けさせてまとめることにしている。どうでも倍の4時間以上はかかる。でも、それで宜としている。これらの教材で漢文に触れさせなければ、中学時代に漢文に接する機会がなくなってしまうからだ。

手前の半端な経験でも、高校時代の古典の授業で、白居易の「長恨歌」や『史記』の「項羽本紀」をひたすら暗記させられ、しかし何度も何度も読んでいくうちに、意味などよくわからなくても何となく「こんな情景かな」というイメージが思い浮かぶようになってきたことや、現代国語の授業で、教科書に載せられていた中島敦の「山月記」を読み、その格調高い文章に感動してすぐに書店へ立ち寄ってすかさず文庫本を買い求め、中でも「李陵」の冒頭文はいたく気に入り、言わば「舌頭に千転」(@芭蕉)して味わったりしたことなどは、まさに内田先生がおっしゃっていたように、「直接触れるだけで読み手の深層構造が揺り動かされ、震え、熟してくる」という経験であったと思われるのである。

さて、『学習指導要領』の制約がある中で、どうやって中学校国語の授業を充実させていくか。実際に授業時数を増やすことはできない(もちろん抜け道がないわけではないけどちょっとここでは書けません)ので、かくなる上は「選択」の授業で何とかするしかない。

「選択」の授業は、中1で0~30時間、中2で50~85時間、中3で105~130時間(それぞれ年間)実施することができる。全生徒というわけにはいかないが、国語を選択した生徒には、通常の授業の中ではなかなか扱えない教材で暗唱をさせたり、筆写をさせたりすることができるのである。

手前は、今年の中3の「選択国語」で百人一首を扱っている。「カルタ取りしてんの?」って違います。テキストを用意し、7~8首をまとめて読んで暗唱、次にノートに筆写して、語句の説明を聞いた後に大凡の歌意を書いてみるという授業である。もちろん、毎回かような授業では飽きてしまうので、25首ずつ終わったところで、源平戦のカルタ取りもするのである。生徒たちにはけっこう好評みたいで、廊下ですれ違うと「先生、覚えたよ」と暗唱の成果を披露してくれる生徒もいたりするのである。

内田先生、「まず日本語を」という提言は、「全国の公立学校の校長教頭先生のみなさん」宛てではなく(もちろん文科省宛てでもなく)、実際に毎日の国語の授業を実践している「全国の国語教師のみなさん」宛てにこそ発信せられるのがよろしいかと思われます。そうして、(中学校現場では)全国の国語の先生たちが、とりあえず選択教科の授業から地道に実践を積み重ねていくことで、国語の授業が少しずつ変容していくことを期待したいと思うのです。

全国の国語教師のみなさん、がんばりましょうね。

2006年02月14日

浜松の弱雀小僧

2月13日(月)

本部連盟には「弱雀小僧」なる人物がおられるそうであるが、私たちの「浜松支部」にも、その称号を献ぜざるをえない人物がいるということを、ここに明らかにしておきたい。

「浜松の弱雀小僧」こと「矢を射る下野国の住人」(那須与一ではありません)は、三年ほど前から私たちの仲間入りをした。しかし、残念ながらその弱さは際立っており、加盟した年から群を抜くマイナスを記録してきた。

その前年までの「年間だんトツビリ」は、だいたい「会計係」ヨッシーと「旧天竜市の元消防団員」との間で争われてきた(それはそれは醜悪なライバル争いであった、対局の際には「黙れ吉牛!」だの「うるさいツル兵衛!」だのと互いに口汚く罵り合いながら、「汝こそがビリである」ということを言い立てるのである)。

ところが、「矢を射る下野国の住人」が加盟してからは、彼らがビリから脱出したどころか、ヨッシーなどは、あろうことか2005年の「年間王者」にまで上り詰めるに至っているのである。いかに彼の加盟が大きな影響を及ぼしているかは想像ができよう。

さて、いかように勝てない(というかツキがない)のか。それは、先週末に行われた定期戦で、最早明白となったと言ってよい。

場替えをして、三回目の半荘の東場第一局、立ち親であった「下野国」は、何と大三元を和了!した(もちろん、彼の麻雀歴における初の役満和了であったことは言うまでもない)のである。振り込んだのは、「会計係」。既に緑發と紅中を鳴いて晒していた「下野国」に、「会計係」が「よもやあるまい」と無謀にも立直をかけたのである。数巡の後、「会計係」は「あ!」と言いながら自摸った白板牌をポロリと落とした。瞬間、「下野国」の牌が倒れた。「おおお、大三元だあ!」「いやいやおめでとう!これで今日のトップは君のものだよ」と、打ち込んだ「会計係」以外から祝福の言葉を浴びる「下野国」。「ええい、4万点借りだあ!」と点箱を被る「会計係」。

しかし、その後の「下野国」にとんでもない落とし穴が待ち受けていたとは、神ならぬ身に知る由とてなかったのである。

同じ東場の第三局、親は「元消防団員」。点棒に余裕のある「下野国」が立直。追いかけて、親の「元消防団員」も「コバルトリーチ!」と叫んで立直。「何でコバルトなの?」と訊くと、「コバルト爆弾並みの破壊力ってことです」とのこと。「おまえなあ、コバルト爆弾ってどんな爆弾だか知ってんのか?」「すんごい爆弾なんでしょ?」って、わけのわからないことを言う人(この「元消防団員」は実は高校理科の先生であるが、彼に理科を教わる生徒こそ哀れというべきであろう)なのである。

巡ること数回、「下野国」が打牌した六萬牌に、親である「元消防団員」が「コバルト爆弾炸裂!」と牌を倒した。何と「元消防団員」は四暗刻単騎だったのだ!本当に「コバルト爆弾」だったのである。しかし、こんなことってあるのだろうか?東場三局の間に、親の役満が二回も出たのである(しかも、二回目は親のダブル役満)。

「下野国」の「我が世の春」は、わずか二局で終わった。四暗刻単騎は、ローカルルールでダブル役満と定められている。それまで溢れそうになっていた点箱から、次々と点棒を供出して「すみません、1万点借りです」と力なくつぶやく「下野国」。かける言葉もない。

かくして、その日ももちろん最下位は「下野国の住人」。でも、どうしてこういう巡り合わせになっているのだろう。どう考えても、親で役満を和了すれば少なくともビリになることはないであろう。しかし、いくら親役満を和了しても、逆に親にダブル役満を放銃してしまっては元も子もない。もう、「運が悪い」とか「ツキがない」とかそういうレベルを超えてしまっているような気がするのである。ここ数年、年間最下位に甘んじていることが、逆に彼に被虐的快感を齎すようになってしまったのかもしれない。

ちなみに、この「矢を射る下野国の住人」は、苦節8年目になる昨年夏の教員採用試験にて、見事栄えある合格を勝ち取っている。これからの浜松の教育界を背負って立つ、期待の若者の一人なのである。未来ある若者は、その期待が高ければ高いほど厳しく鍛え上げなくてはならない。「獅子はわが子を千仞の谷に投げ込み、生き残ったものを養育する」と言うではないか。私たちは、先輩教員として心を鬼にして彼を錬磨しているのだ(もちろん、彼ならば千仞の谷などものともせずに這い上がって来るであろうと信じているからこそのことであって、けっして甚振っているわけではありません、念のため)。

「教育と麻雀と何の関係があるんだ?」などとは申すまい。配牌から何とか役を作り上げていくことは、生徒たちを現状よりさらによい人間に育てていくことにつながっていく(ホントなの?)だろうし、相手の出方を見ながら自分の出方を考えていくことは、生徒の実態を考えながら具体的な実践方法を考えていくことにもつながるだろうからである(ちょっと無理があるか)。

もちろん、本人の名誉のためにも、麻雀の弱さが決してその人の人格を否定するようなものではないということは申し添えておきたい。「矢を射る下野国の住人」は、今日びの若い教員には得難い熱血の好青年である。昨夏の採用試験に合格した際にも、即日私たち支部会員によって「祝賀会」が催されたのは言うまでもない。「すぐにでも祝賀会をあげてやらなきゃ!」という思いにさせられる快男子なのである。

そうそう、「おいおい教員たる者が麻雀なんてやっていいの?どうせ賭け麻雀でしょ?それって賭博じゃないの?」とご心配の向きもあろう。さよう、私たちの麻雀は厳密に言えば「賭け麻雀」である。しかし、金品が賭けられているわけではない。「賭け」られているのは、「プライド」である。役もないのに「自摸のみ」で和了する者は「何それ?せめて立直しろよな」と周囲からの冷たい視線に耐えなければならない。また、役牌のみで和了する者にも「役知ってんの?」と冷凍光線は発射せられる。金品が賭けられていないのであるから、争いはいきおい役づくりをもって行われるようになる。これは、ある意味金品が賭けられるより厳しい麻雀と言えるのである。

おおそうだ、「浜松の弱雀小僧」ならぬ「沼津の弱雀小僧」もいるということを付け加えておかなければならない。毎回ではないが、沼津の某高校ソフトテニス部監督も、浜松を訪れた際には飲んだあと麻雀をすることがあるのだが、記憶にある限り彼は浜松で一度も勝ったことがない。どころか、負けた後に「こ、これはコンビ麻雀だあ!」とありもしない陰謀説を唱えるのである。かくして、彼には「沼津の弱雀小僧」なる称号を贈ることと相成ったのである。

さて、まだ先の話であるが、来る4月1日には本部連盟会長宅にて、会長を囲んで支部会員のアウェー対局が予定されている。今回は「浜松の弱雀小僧」くんも参加の予定である。会長から「こんなに弱いようではちょっと支部会員として認定できませんなあ」と言われないよう、それまでにせいぜい鍛えておくようにするばかりである。「下野国」よ、心せよ。

2006年02月22日

ひとを責めてもせんないことよ

2月21日(火)

地元紙である静岡新聞の社説は、この日曜日(2/19)に「ゆとり教育の転換」と題し、「何を得て、何を失ったのか総括せよ」との副題で、痛烈な文科省批判の言説を展開した。

“文科省は学習指導要領を改定、30年ぶりに「ゆとり」路線を転換する。
「ゆとり」化による学力低下の疑問に答えず、その総括もせず転換となる。無責任のそしりは免れない。
(…)国のメンツや権威主義が歪みをひどくしてしまう例は歴史の常だが、「ゆとり」化をめぐる混乱は最悪の例かもしれない。学力低下の不安に耳を傾けず、その判断を国際調査や中教審に丸投げだ。要するに責任回避だ。
(…)静岡県教委は学力低下不安に対処するため、独自に「確かな学力育成会議」を旗揚げ、基礎・基本重視の教育実践の方途を探った。
(…)文科省は静岡県教委よりずっと遅れている。文科省が教育の現場主義を軽視しているか無視している何よりの証しだ。
今回も「ゆとり」化を一方的に悪者にしての方向転換だが、これではまた迷い道だろう。言葉としての「ゆとり」だったことを反省していないし、新しい方向についても実現の筋道をいい加減にしているように見えるからだ。
学校完全週5日制も、「ゆとり」化も、初期の目標を果たすには何よりも教育力、指導力の底上げが前提だった。その取り組みを教育界はないがしろにした。
文科省はその方策も示さなかったし、財政的な措置もとらなかった。「きめ細かな教育」をと言いつつ、その裏では酷な定数管理と一律の通達行政で、教育現場から「ゆとり」を奪っている。
文科省ほど非教育的な教育行政機関はないのかもしれない。”

「無責任」「責任回避」「メンツや権威主義」「現場主義を軽視しているか無視している」「一律の通達行政」などは、所謂「お役人」たちに特有のエートスであろうから、今さらなにをか言わんやであるし、その「学習指導要領」に則りながら、自らもその一翼を担って教育実践を行ってきたとも言える立場にある人間としては、メディアの批判に乗じて「だから言わんこっちゃない」などとも言えようはずはない。

ただ、昨今の行政から求められる提出書類に、何かにつけ「具体的な数値評価資料を添付すること」というただし書きが添えられていることを思うと、文科省には今までの学習指導要領が目指してきた「生きる力」の育成というものが、どれほど達成されたのかという「具体的数値」くらいは示してもよいのではないかという感じがしないでもない。

縦しやそれが「引きこもり100万人・ニート85万人・不登校13万人・フリーター400万人」という若者を生んだ、という結果であろうとも。

そのときよかれと信じて施策したことが、「よもやこのような結果になろうとは…」と嘆じる結果になったとしても、所詮は神ならぬ身、それはそれで仕方がなかったのではないか(だってねえ、そういう結果になろうことを予想していたのなら、そもそもそのような施策は考えなかっただろうし)。親で役満を和了っても、二局後には逆に親にダブル役満を振ることなんてわからないのと同じことなのである(ごめん「下野国」、くどいよね)。

大切なことは、文科省を初めとする行政ばかりでなく、実際の教育現場にある私たちも含めて、「生きる力」を育成しようと取り組んだ全ての関係者たちが、その結果をいかに「厳粛」に受け止めるかということではないか。静岡新聞の社説が求めていることも、たぶんそういうことではないかと思う。

内田先生が常々申しておるではないか、“批評性というのは「悪いのは誰だ?」という問いの形式で思考する習慣のことではない。批評性というのは、どのような臆断によって、どのような歴史的条件によって、どのような無意識的欲望によって、私の認識や判断は限定づけられているのかを優先的に問う知性の姿勢のことである。”と。

「責任ある立場」にある人間が、「悪いのは誰だ?」と「他罰的な枠組みで問題を解釈」して「責任逃れ」に終始する姿勢ほど「無責任」なことはない。そうではあるが、そうやって文科省なりの施策を批判したところで、それも所詮は「他罰的な枠組みで問題を解釈」していることに他ならない。

現場にある教員は、もっと別のことを考えたい。

この4月、お隣の愛知県には中部財界の肝煎りで、全寮制の私立中高一貫校が開校する。小学6年生を対象にして全国6都市で実施された入試には、「120人の募集に全国から延べ920人が志願した」(@朝日新聞)そうだ。学費は年間300万円。「階層化」が懸念されている昨今の好個の例と言えようし、「もはや公教育には頼れない」との揚言でもあろう。

しかし、私たちが携わっているのは、圧倒的多数の子どもたちを擁する「公教育」である。その責任の重さを改めて自覚したい。

誰をも難詰することなく、たとえば宮沢賢治の花巻農学校での実践のように(とてもその域には達しないだろうけど)、現場の「自律性」を忘れることなく、粛々と自身の信じる道に誇りをもって邁進したい。

About 2006年02月

2006年02月にブログ「スーさんの熱血うなとろ日記」に投稿されたすべてのエントリーです。過去のものから新しいものへ順番に並んでいます。

前のアーカイブは2006年01月です。

次のアーカイブは2006年03月です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

Powered by
Movable Type 3.35