全国の国語科教員団結せよ!

2月7日(火)

「先生は何の教科を担当されているんですか?」と聞かれ、「国語ですけど」と答えると、ほとんどの方は「え?国語なんですか?でも、国語って感じじゃないですよね」と宣われる。「数学とかだと思いましたよお」

どうして?

国語の教師というからには、雀の巣のような頭髪で、牛乳瓶の底みたいな(この喩えもちょっと古いですよね、もう学校の給食でも牛乳瓶なんて使用されてないし)分厚いレンズの眼鏡をかけ、しわだらけのワイシャツに毎日同じネクタイを緩く締め、よれよれの背広を着用していなければならないとでもおっしゃりたいのか!(って別に激昂しているわけじゃないけど)

世の中には、「国語の先生」とか「美術の先生」などという、「この教科を教えるのはこんな感じの先生」とでもいうようなイメージなるものが存在しているのであろうか。「体育の先生」とかだったらわかるけど。

まあいいや、とにかく私は国語の教師である(「国語の教師なのに日記にはこんな駄文しか書けないのか」というご叱責はまた別の問題である)。

その「国語の教師」としては、見落とすことができないことを内田先生が書かれていた(2月3日「まず日本語を」)。

そうなんですよ先生、いま中学校では、1年生だけは国語を週4時間(年間145時間)やってますけど、2・3年生は週3時間(年間105時間)しか国語がないんですよ。

実際に授業をやっている立場から言わせていただいても、中2になってからの1時間減は授業の内容にも進度にも大きな影響(よくない影響)を与えていると思われる。なぜそうなっているのか?もちろん、現行の『学習指導要領』でそのように定められているからである。

「そうかあ、やっぱり諸悪の根源は『学習指導要領』かあ、文科省め!」と、日本語運用能力の衰退を嘆じている多くの方々に瞋恚の炎を燃やされても困るのである。現場の教員としては、どうすれば現状の中で国語教育を充実していくかということを考えねばならない。

以下は、ある日の本校国語科担当教諭たちによる「教科研修会」の一こまである。
「私たちが小中学生の頃って、意味調べとか宿題で出されましたよね」とYミ教諭。
「そうそう、けっこう時間かかったけど、ああいうことって大事ですよね」とWタナベ教諭。
「週1回4ページやって提出することになっている漢字書き取りですら提出忘れする生徒がいるという現状を考えると、意味調べを宿題として出すこともできませんね」とTカツカ教諭。
「だからと言って、少ない授業時間の中ではなかなか意味調べまではやってる時間ないですよね」とTカスギ教諭。
「少なくとも、授業中いつでも辞書を引けるように用意させておくことは必要ですかね」と私。

国語の授業において、「日本語の語彙を増やすこと」は必須のことの一つであろう。現今の『学習指導要領』になる前までの教科書には、それぞれの教材末に示されている「新出漢字」には、その字を使用した熟語が添えられていた。その熟語を読んだり意味を調べさせたりすることで、少しでも語彙を増やすことはできたと思われる。しかし、現今の教科書には「新出漢字」の音読みと訓読みが示されているだけで、熟語は載せられていない。これでは、語彙の増やしようがないのである。

古典の教材も、以前の教科書では、中2で学習する『枕草子』や『徒然草』に口語訳はなく、古語を中心に注釈が添えられていただけだった。ところが、現今の教科書では原文のすぐ右隣に色違いで口語訳が付されている。注釈や辞書を頼りに、『枕草子』や『徒然草』を口語訳していく楽しみ?もなくなってしまった。と言うか、そういう教科書を使用していても「え〜、口語訳むずかし〜い」という生徒がほとんどなのである。

内田先生は、以前漢文のリテラシーについても言及されていた(昨年11月29日の日記)。先生は、「どうして日本の中等教育は漢文を必修から外してしまったのか」と書かれていたが、先生、一応漢文の教材はあるんですよ。

本市で採択しているM図書の教科書では、
中1…「今に生きる言葉」(『韓非子』から「矛盾」の口語訳付き書き下し文)
中2…「漢詩の風景」(孟浩然の「春暁」、杜甫の「絶句」、李白の「黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る」の訓読文とその解説文)
中3…「項羽」(『史記』の「項羽本紀」より訓読文の一部)
が載せられている。

それぞれ2時間ほどの扱いなのだが、そんな短時間で終わらせることはできない。手前の場合は、まず漢文訓読法を教え、ノートに訓読文を筆写させ、その筆写した訓読文を使って朗読練習を行い、最後に口語訳を付けさせてまとめることにしている。どうでも倍の4時間以上はかかる。でも、それで宜としている。これらの教材で漢文に触れさせなければ、中学時代に漢文に接する機会がなくなってしまうからだ。

手前の半端な経験でも、高校時代の古典の授業で、白居易の「長恨歌」や『史記』の「項羽本紀」をひたすら暗記させられ、しかし何度も何度も読んでいくうちに、意味などよくわからなくても何となく「こんな情景かな」というイメージが思い浮かぶようになってきたことや、現代国語の授業で、教科書に載せられていた中島敦の「山月記」を読み、その格調高い文章に感動してすぐに書店へ立ち寄ってすかさず文庫本を買い求め、中でも「李陵」の冒頭文はいたく気に入り、言わば「舌頭に千転」(@芭蕉)して味わったりしたことなどは、まさに内田先生がおっしゃっていたように、「直接触れるだけで読み手の深層構造が揺り動かされ、震え、熟してくる」という経験であったと思われるのである。

さて、『学習指導要領』の制約がある中で、どうやって中学校国語の授業を充実させていくか。実際に授業時数を増やすことはできない(もちろん抜け道がないわけではないけどちょっとここでは書けません)ので、かくなる上は「選択」の授業で何とかするしかない。

「選択」の授業は、中1で0~30時間、中2で50~85時間、中3で105~130時間(それぞれ年間)実施することができる。全生徒というわけにはいかないが、国語を選択した生徒には、通常の授業の中ではなかなか扱えない教材で暗唱をさせたり、筆写をさせたりすることができるのである。

手前は、今年の中3の「選択国語」で百人一首を扱っている。「カルタ取りしてんの?」って違います。テキストを用意し、7~8首をまとめて読んで暗唱、次にノートに筆写して、語句の説明を聞いた後に大凡の歌意を書いてみるという授業である。もちろん、毎回かような授業では飽きてしまうので、25首ずつ終わったところで、源平戦のカルタ取りもするのである。生徒たちにはけっこう好評みたいで、廊下ですれ違うと「先生、覚えたよ」と暗唱の成果を披露してくれる生徒もいたりするのである。

内田先生、「まず日本語を」という提言は、「全国の公立学校の校長教頭先生のみなさん」宛てではなく(もちろん文科省宛てでもなく)、実際に毎日の国語の授業を実践している「全国の国語教師のみなさん」宛てにこそ発信せられるのがよろしいかと思われます。そうして、(中学校現場では)全国の国語の先生たちが、とりあえず選択教科の授業から地道に実践を積み重ねていくことで、国語の授業が少しずつ変容していくことを期待したいと思うのです。

全国の国語教師のみなさん、がんばりましょうね。